ホーム > 特設ページ > 日本の近現代音楽を聴こう!Vol. 4 父・尾高尚忠を語る ─ 尾高惇忠氏インタビュー

 "日本の近現代音楽を聴こう!"

このコーナーについて

ナクソス・ジャパンでは、日本の知られざる近現代の作品を発掘・紹介する「日本作曲家選輯」シリーズを、片山杜秀氏の監修によって2001年より開始しました。その内容は多くの方の高い評価をいただき、今や弊社の代名詞的な企画のひとつとなっています。

本年(2017年)、弊社では同シリーズの片山杜秀企画・解説の全作品を、20枚組ボックス・セットとして9月に発売することとなりました。また本年は同時に、サントリー芸術財団主催の「サマーフェスティバル」が片山杜秀氏のプロデュースによって開催され、「日本作曲家選輯」でも取り上げられた日本の近現代の作曲家による作品が多数演奏される予定です。

これを記念し、サマーフェスティバルや「日本作曲家選輯」で取り上げられる作曲家や作品を中心とした、日本人作曲家に興味を持っていただけるような記事(コラム、インタビュー等)をこのほど連載することとなりました。日本の近現代作曲家を熱く推すナクソスの中の人の記事や、この分野の普及、促進に携わる方のインタビューなどを通じて、日本の近現代音楽への熱い思いが多くの方に「伝染」することを目指したいと思います。

サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2017「片山杜秀がひらく<日本再発見>」(公演案内)
「日本作曲家選輯」タイトル一覧
「日本作曲家選輯 片山杜秀エディション(20枚組)」発売のお知らせ



Vol. 4 父・尾高尚忠を語る ─ 尾高惇忠氏インタビュー

9月のサントリーサマーフェスティバルで、交響幻想曲「草原」(1943年作曲)が演奏される作曲家・尾高尚忠(1911~1951)。指揮者としても、ウィーン滞在からの帰国後、日本交響楽団(現・NHK交響楽団)を1940年に指揮しデビューして以降、同団の専任指揮者となり、昭和20年代前半まで日本を代表する音楽家として活躍しましたが、その生涯はわずか39年、死因は過労によるものとされています。

当時の音楽関連の雑誌には、亡くなってからしばらくの間、非常に多くの数の追悼記事が掲載されており、彼を失ったことが当時の日本の音楽界にとっていかに大きな衝撃であり、また損失であったかを確認することができます。

今でも彼の名は、NHKが主催する、毎年すぐれた作曲作品に贈られる「尾高賞」に残っていますし、また彼の「フルート協奏曲」はフルーティストにとって重要なレパートリーとなっており、「日本音楽コンクール」の本選の課題曲に指定されたり、世界的フルーティスト、ジャン・ピエール・ランパルがレコーディングしていたりしています。
そして何より、彼の子息、尾高惇忠(1944~)、尾高忠明(1947~)のご両名がそれぞれ作曲家として、指揮者として、日本を代表する世界的な音楽家となられていることは広く知られているところでしょう。

しかし、尾高尚忠その人自身の業績について注目が集まることは、没後60年以上を経た今日、決して多いとはいえない状況です。残された作曲作品の数は決して少なくなく、しかもどれも非常に充実した内容を誇っているにもかかわらず、たとえば同じ世代でやはり作曲家・指揮者として活躍した山田一雄(1912~1991)の作品の普及状況と比べると、全体的にはかなり寂しい状況であると言わざるを得ません。「フルート協奏曲」も、演奏したり、聴いたりしたことのある人の数は少なくないと思いますが、その作曲者がどういう人であったか、ということに関心を持つ人はぐっと減ってしまう、というのが残念ながら実情ではないでしょうか。

そこで、このコーナーで何らかの形で尾高尚忠のことを紹介できないか、と思っていた折、ご子息で作曲家の惇忠氏にインタビュー取材をご快諾いただき、尾高尚忠その人を直知る人が少なくなりつつある中、大変に貴重なお話をお伺いすることができました。

MrOtakaProfile


尾高惇忠(おたか あつただ)●作曲家・ピアニスト
作曲を矢代秋雄、池内友次郎、三善晃、ピアノを安川加壽子に師事する。東京芸術大学音楽学部作曲科卒業後、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院へ入学し、モーリス・デュリュフレ、マルセル・ビッチュ、アンリ・デュティユーに師事。主な作品に「オーケストラのための『イマージュ』」「オーケストラのための肖像」「オルガンとオーケストラのための幻想曲」「交響曲~時の彼方へ~」「ピアノ協奏曲」などがある。東京芸術大学名誉教授。


インタビュー

【幼少期の記憶】

────まず、ご記憶にあられるお父上のお姿とはどのようなものでしょうか。

親父が亡くなったのはぼくが6歳の時だったので、記憶にあるのは、遊んでもらったことばかりですね。当時、鎌倉の長谷に住んでいたのですが、近所の海岸に一緒に行き、投網で魚を捕り、家に持って帰ってきたりしていました。その時捕ってきたフグを風呂桶に放して、えらく怒られたりとか、それから、当時祖母も一緒に住んでいたのですが、親父にそそのかされて、庭の池にいた金魚をご飯粒で釣って、祖母に怒られたりなんてことがありました(笑)。
親父はとても多趣味な人だったようです。鳥がとても好きで、当時の家の庭に鶏舎もあり、自分は音楽ができなくなったら鳥屋になる、と言っていたほどだったようですね。

────この写真(当時の雑誌「フィルハーモニー」1957年1月号に掲載された写真)はご存知ですか。

はい、知っています。親父が囲碁をやっている時のことです。ここに座っている子供は私で、この時のことも記憶にあります。

────当時の雑誌記事を見ると、あまりにも多忙だった、ということばかり書かれているので、家庭を一切顧みずに仕事だけに没頭していたかのような印象を受けてしまいますが、そうではなく、「一家の長」としての役割もきちんと果たされていたのですね。

そうですね。まあ、仕事が忙しかったから、子供と遊ぶことでストレスを解消していたという面もあったんじゃないでしょうかね。

────音楽家としてのお父様のご記憶というのはおありですか?

親父が出た日比谷公会堂での演奏会には何度か連れていかれました。ものすごく大きなアクションをとる親父の指揮姿も何となく覚えています。演奏会が終わると、お父さんを迎えにいきなさい、ということで楽屋に行かされるんだけど、その頃の楽屋というのはすごいわけ。たくさんの楽員さんがたむろしているんだけど、タバコの煙がものすごくもくもくしてて(笑)。その中からなんとか親父を探し出すんだけど、それが嫌で嫌でね。
それから、自宅にいろいろな音楽関係者が出入りしていたことは何となく覚えています。

────やはり当時の雑誌記事に、若い頃は明るく溌溂としていたのに、晩年の過労で疲れ切っていた、憔悴しきっていた、という記述が頻繁に出てくるのですが、お父様がそのようであったというご記憶はおありですか。

子供として特にそれを感じたことはなかったですね。ある時は机にずっとかじりついていたり、またある時は何日も家を空けたりしていたことは何となく覚えていますが、それをどれくらい大変な思いをしてやっていたか、といったことまでは子供にはわかりませんでした。ただ、今その頃の親父の写真を見ると、たしかに暗い顔をしているなと感じますね。

これは本当のことかどうかはわからないのですが、当時の日響はとても給料の払いが悪かったようで、コンサートの開演前の舞台袖で、事務方に、給料を払ってくれる約束を取り付けてから舞台に出ていった、なんという話もお袋から聞いた覚えがあります。

────指揮をするだけでも大変なのに、それに加えて、そのようなことも骨を折らなければならない状況だったのですね。そして先生が6歳の頃にお父様が亡くなられると、おびただしい追悼の記事が当時の雑誌に掲載されます。こちらはその中の記事の一つに掲載された写真(当時の「音楽の友」1951年5月号掲載された葬儀時の写真)なのですが、この時のことはご記憶でしょうか。

その時のことは何となくは覚えています。この写真は見たことはありますが、この記事は読んだことがないですね。

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左から順に、
・雑誌『フィルハーモニー』1957年1月号より(写真下に「母堂と囲碁を楽しむ生前の尾高氏」の記載が見られる)。
・雑誌『音楽の友』1951年5月号より(写真下に「惇忠(7歳)ちゃん、忠明(5歳)ちゃん」の記載が見られる)。
・当時の音楽雑誌の追悼記事の数々。
・日本交響楽団(現・NHK交響楽団)の演奏記録。戦中最後の第267回定期演奏会(昭和20年6月)と、戦後最初の
 第268回定期演奏会(昭和20年9月)のいずれも、尾高尚忠が指揮をしている。
 (小川昂編『日本の交響楽団 定期公演記録 1927-1991』(カワイ楽譜)より)
(※クリックすると拡大画像が表示されます)


【兄弟で音楽家の道へ】

────そして長じられて、ご兄弟で音楽家になられ、しかもお父様がされていた作曲と指揮というお仕事を、お二人でまさに分担されるような形で継がれました。それはお父様のご職業を継がせようと、お母様が導かれたようにも見えますが…。

いや、親父は「二人の息子は、音楽家だけにはさせるな」といっていたようです。
もっとも、ある時僕が遊び半分で弾いたピアノを親父が聴いて、お袋に「もう僕らの時代は終わりだね」といったという話を聞いたことがありますので、親父が音楽家になった僕らを見たらまんざらでもない気持ちになった可能性はありますが(笑)、しかしやはり、自分が音楽家をやっていてとてもしんどかったから、息子たちにはその思いはさせたくない、という思いが根底にはあったんじゃないでしょうか。

そしてお袋も、音楽は嗜み程度に、くらいは思っていたでしょうが、それ以上の熱心な音楽教育はしなかった。そもそも親父について、お袋とまじめに話をした記憶がないんですよ。
だから、自分が音楽家になろうと思ったのは、高校に入ってからでした。まあ勉強もあまり好きでなかったし、ピアノが弾きたかったから、という気持ちでした。ただお袋は、大学受験する時につく先生を探すのは手伝ってくれましたね。
作曲とピアノが好きだったので、音大受験では芸大の作曲家と国立のピアノ科を受け、両方受かって、芸大の方に行きました。

────弟の忠明さんも同じですか?

そう。弟は小さい頃からヴァイオリンをやっていたんだけど、ぜんぜん真面目にやっていなかった(笑)。ところが、中学に入ってから、当時N響を指揮していたシュヒターさんの演奏に感動したのかな、自分は指揮者になる、ってある時言い出したわけ。
僕は、指揮者が曲が盛り上がってくると陶酔したような顔になるのが嫌でね(笑)。でも弟はああいう世界にいったから、向いていたのでしょうね。だから、同じ兄弟でもぜんぜんタイプが違うんです(笑)。

────作曲家を志される過程で、お父様の作品というのはやはり絶えず研究されたこられたのでしょうか。

家に大きい行李があって、そこに親父の譜面がたくさん入っていたんだけど、学生時代は実はその中身を見たことがなかったんです。「あなたの親父さんはこういう人だったんだよ」という話を周囲の人から聞かされる中で、そこから影響を受けたくない、親父の七光りだと見られたくない、という一種の抵抗心がありました。親父はウィーンで勉強しましたが、僕はそれに対して留学先にフランスを選んだりとかね。もっともそれは、当時習っていた、池内友次郎先生をはじめとする芸大の先生方が、いわゆる「フランス系」だったこともあるのですが。

────しかし近年では、「交響曲第1番」の第2楽章を補筆完成されたり、またピアニストとしてお父様の作品を演奏されたりされていらっしゃいますので、年月を経て、そのあたりのご心境にも変化が生じられたということでしょうか。

いや、今でも親父の譜面は見たくないです(笑)。「交響曲第1番」の2楽章は最近になって出てきたのですが、補筆といっても、シャープが抜けているのを書き加えたりというくらいで、大したことはやっていないですよ。

しかしそうはいっても、自分は親父のDNAを受け継いでいるな、と思う時があるんです。

親父がどこかに、当時みんながウェーベルンのような作品をもてはやしていることに対して、「たしかに新しい手法や新しい発見というのは大事だが、そういう<前衛>というのは、R. シュトラウスのような存在には決して太刀打ちできないのだ」という内容を書いていました。

僕も芸大で教えていましたが、そういうところにいると、「いまだかつて誰にもやられていない、新しい手法はないでしょうか」なんて言ってくる学生が大勢いるわけ。しかし、手法が目的になるということは本来はおかしいし、新しいパレットだけ並べる作品はすぐに消えていくので、そういう考え方には疑問があったのだけど、そういうところが親父に似ている、と感じるんですよね。


【尾高尚忠作品について】

────尾高尚忠さんの曲は、とても作風が多岐にわたっており、「引き出しが多い」という印象を受けます。このような多彩な楽曲を書ける存在というのは、当時の日本で随一だったのではないでしょうか。「チェロ協奏曲」(1943年作)はドヴォルザーク的な中に日本的なメロディがあり、またピアノのための「ソナチネ」はフランス的な香りもします。そして晩年の「交響曲第1番」(1947年作)になると、「日本的要素」が後退しR.シュトラウス的なものを強く感じます。

好奇心が旺盛だった、ということは一ついえるかも知れません。ヨーロッパ滞在中は本当にあらゆることを吸収したのでしょう。「ソナチネ」がフランス的なところがあるという点についてですが、親父はウィーンで勉強した帰りにフランスにも寄っているんですよね。

「チェロ協奏曲」は、なんというか大河ドラマ的ですね(笑)。この曲は先日も弟が指揮をして、宮田大さんがソリストを務めた演奏を大阪で聴きましたが、いい曲だと思いました。しかしあの曲で、あの人なりのスタイルが完成したというのに、その後の「交響曲第1番」(の第1楽章)で、どうしてあのように、どう聴いてもR. シュトラウス、そしてフランクの香りもする(笑)、というものを作っちゃったんだろう、という点は不思議ではありますね。意図的にやったものだったのかどうか。好奇心の旺盛さというものが、作品としてああいう形で出てきてしまうのがよいのかどうか、という問題はあるかもしれません。

第2楽章はブルックナー的なところがありますね。僕はとても好きです。終わりにattacca と書いてあるので、本人は第3楽章から先も書くつもりだったのだと思いますが、第3楽章以降の譜面は発見されていません。

────もう少し長く生きられたら、「一聴してこの人の曲と分かる個性」といったものがもしかしたら生まれていたのでしょうか。

そうかもしれませんね。

────まだ譜面が見つかっていない曲はあるのでしょうか。

作品リストにありながら譜面が見つかっていない曲はありますね。それからあの「フルート協奏曲」も、自筆譜が実は行方不明なんです。(尾高尚忠の弟子で、同曲を補筆完成した)林光さんのところにあるかも知れないので調べてもらおうと思っていたら、彼も亡くなってしまいました。

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左:ハンガリーのオーケストラを指揮する尾高尚忠(1938年) 右:ベルリン・フィル客演時の尾高尚忠(1939年)
(※尾高惇忠氏所蔵。クリックすると拡大画像が表示されます)


────しかし、尾高作品は作風は多彩でありつつも、どの作品も、一切「手抜き」の感じられない力作ばかりだと感じています。そのような作品を書き続けることだけでも大変なのに、指揮者としても日響の重要なポジションに就いており、地方公演も含めた数多くの演奏会で指揮をした、しかもそれを、生きるだけでも大変だった戦中・戦後間もない時期に続けた、というのはもう本当に驚異としかいえないのではないかと思います。

たしかに、短い生涯の間にずいぶん作品を書いたと思いますし、その点は頭が下がりますね。手抜きができないという点ですが、お袋から聞いた話では、とてもサービス精神が旺盛な人だったようです。親父は話すのも得意だったようですが、話す前は気が進まない感じだったのに、いざ人前に出るとつい調子良くたくさん喋って、ということもあったようです。晩年は、よせばいいのに薬を打ってまで活動していたようですが、そういう性格なので、あそこまで頑張ってしまったのでしょう。

────もっと尾高尚忠作品が演奏される機会が増えるとよいですね。

本当にそうですね。親父の作品に限りませんが、日本人にとって、クラシック音楽は今でも「洋楽」という捉え方をされている面があって、日本人が日本人作品を積極的に取り上げる、ということにはどうもなかなかならないですね。僕も自分の作品の譜面を演奏家に渡すと、その時は「いつか演奏します」といってくれるんだけど、その「いつか」はまず来ない(笑)。

既に自分がよく知っている曲がどう演奏されるか、ということだけでなく、新しい曲、知らない曲がどんな曲なのか聴いてみたい、という好奇心を持って下さる方がもっと増えるといいなと思います。


関連リンク

<公演>
・サントリーサマーフェスティバル 9/10公演:
 尾高尚忠の交響的幻想曲「草原」が戦後はじめて演奏されます。
 公演案内ページチケット販売ページ

<音源試聴(NML)>
・尾高尚忠:ソナチネ(湯口美和)
  1940年の作品。2017年8月現在、NMLで聴ける唯一の尾高尚忠作品。
 日本人作曲家ピアノ作品の中では演奏頻度が高い作品の一つです。
  http://ml.naxos.jp/album/CTH2324

・NMLでお聴きいただける尾高惇忠作品一覧:
  「オルガンとオーケストラのための幻想曲」「オーケストラのための『イマージュ』」「ピアノのためのバラード」の
  3曲をお聴きいただけます。
   http://ml.naxos.jp/composer/16072

・チャイコフスキー:交響曲第4番(NHK交響楽団/尾高忠明)
  1971年、尾高忠明氏が23歳でN響にデビューした時の貴重な演奏記録。
  NMLで聴ける氏の録音(約40タイトル)はこちらからどうぞ。
   http://ml.naxos.jp/album/NYNN-0011

<音源試聴(Youtube)>
・サン=サーンス:ピアノ協奏曲第5番「エジプト風」(草間加寿子/東京交響楽団/尾高尚忠)(Youtube):
 指揮者としてはほどんど録音が残されていない尾高尚忠のきわめて貴重な録音。
 今回演奏される「草原」作曲年の1943年に収録されたもので、サン=サーンスの同曲の世界初録音でもあります。
 https://www.youtube.com/watch?v=BnHl_WsncGQ

<CD>
・N響90周年記念シリーズ - 日本人指揮者篇 2 : 尾高忠明 II(キングインターナショナル):
  尾高尚忠「交響曲第1番」を、尾高忠明指揮により収録(ブルックナー「交響曲第8番」と併録)
  https://www.amazon.co.jp/dp/B01NBEWRPR/

・「現代日本の音楽名盤選 2」(Victor)
  尾高尚忠「日本組曲」(1936)を収録:
   https://www.amazon.co.jp/dp/B00005GVMW/

・「尾高惇忠 歌曲の世界」(LiveNotes)
  尾高惇忠作曲の歌曲集。メゾソプラノ尾高綾子氏とのご夫妻による共演:
  https://www.amazon.co.jp/dp/B004TJFMJM/

・「泊真美子 ショパンと邦人作品の調べ」(LiveNotes)
  尾高惇忠「ピアノのためのバラード」を収録:
  https://www.amazon.co.jp/dp/B000H1C19K/