本記事はこの記事の続きです。
100ハイ(100キロハイク)の楽しみ方は人それぞれです。
体力お化け達は完歩するのは当たり前で先頭でゴールしようと終盤では走ったり、ドMでファンキーな奴等は自らに縛りを与えて自分の限界に挑戦し、一般ピーポーは完歩を目指して歩く、というような感じです。
私は一般ピーポーで、軽い気持ちで完歩を目指して参加しました。
参加者の体力は人それぞれですが、共通して言えることは「自分の限界に本気で挑戦すること」です。
目次
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準備期間
例年100ハイは4月に受付をし5月に実施されます。100ハイはドMな早稲田生が多いのか人気イベントなので、4月の受付の時は徹夜組がいたりします。私は友人に誘われ大学生特有のノリで気軽にOKと言ってしまいました。
せっかく早稲田に入ったんだし一度くらい参加するかという気持ちと、100キロも歩きたくないという気持ちが開催日までせめぎ合い、何度もキャンセルしたいと思ったのですがなんとか踏みとどまりました。
24時間テレビで走る人とかは練習するけど、自分はサークルでスポーツもしてたし、100ハイは2日間もあるし、走るんじゃなくて歩くだけだし、みたいな考えでまぁ大丈夫だろうと思い練習なども一切しませんでした。
当然、こんな甘すぎる認識を持っていたことに、後々後悔することになるんですが。
さすがに一切仮装をしないのも微妙かなと思い、ドンキで売ってるような簡単なコスプレの準備をして当日を待ちます。
友人の中には100ハイ用に靴を買っていた人もいましたが、自分はそこまでしなくて良いだろうとスニーカーで挑むことに。
当日開始前
私も友人たちも大学の近くに住んでいたため、高田馬場駅に集まり電車で埼玉の本庄に向かいました。
電車の中で、この距離を帰りは歩くのかと窓の外を眺めながらどんどん憂鬱になっていく。
電車で本庄の地に降り立つと、思い思いの仮装をしてウェーイとか言ってる早大生。
私は自分も含めて5人で参加したのですが、その場には別のコミュニティの友人なども結構いました。それぞれサークルで参加してたり、ゼミや研究室の仲間で参加していたり。
その中には縛りプレイをする知り合いもいて、頑張れよ!みたいな感じで声をかけていました。
女友達も結構いて大丈夫なのかなと思っていましたが、なにやら長距離を歩くのは体重が軽い女性の方が脚への負担が少ないとかなんとか。
そんな感じで、色んな人と話しながら時には写真などを撮りながら開会式を待っていました。
そして、開会式では100ハイを企画、運営している早稲田精神昂揚会の方々や、イベントのサポートをしている方々が挨拶をしていきます。
精神昂揚会は毎年1,000人以上の参加者が安全に楽しめるよう、色々と準備をしてくれます。当時はそこまで考えられていなかったですが、今考えると感謝の一言です。ありがとう。
で、自分は友人4人と他愛もない会話をしながらスタートしました。
1区 約17km 無知
朝10時頃スタート。道は住宅も立ち並ぶ田舎道。
一気にスタートとなるため、序盤はかなりの集団を形成しての大行列。サトツさんの後を追っていくあの感じ。
ウェーイとか言いながらちょっと走ってみたりなんかする人はいるが、トンパ的な人はいない。
そんな中一人だけ集団から遅れる人が。そう、100キロバイクの人。
100キロバイクを知らない方はこちら。
私たちはその人の存在をスタート前には知らず、そこで初めて偉大なる挑戦者の存在を知る。
正直、この時は完歩できると思っていなく、辛くなったら最悪バイク乗って帰るんかなとか思っていました。
前回の記事にも書きましたが、この人は数日遅れで完歩します。そんなこと思ってすみませんでした。
で、恒例行事かつ住宅街ということもあり、沿道でおばさんたちが応援してくれたりなんかも。アメとかお菓子とかもらったり。
ちょくちょくあるコンビニなんかにも、100キロハイク頑張れみたいな横断幕的なのがあったり、ファミチキが大量に入荷されていたり。
序盤ということで、私たちはコンビニにもあまり寄らずに歩いていました。
しかし、2時間ほどが経過したころで足に異変が出てくる。まず初めに異変が現れたのは足の裏。痛みとなんか豆ができそうな雰囲気。
ここで激しく後悔。やはり靴はウォーキングシューズを買うべきだった。明らかにスニーカーではスペック不足。そんなこともわかっていなかった無知な自分に腹がたつ。
もともと100ハイに参加したがっていた友人2人は仮装はしているものの足元の武装は完璧。彼らは参加するだけでなく、先頭集団さえも視野にいれている猛者たち。
私含めた残る3人は体力も装備も不十分。できれば完歩したいなくらいの意識。猛者たちとの意識の差は火を見るよりも明らか。
意識の差はすぐに歩行スピードの差に現れる。最初は5人で固まって歩いていたのに、いつの間にか前2人と後ろ3人という布陣が当たり前になる。
そして、足の裏の痛みをこらえながらも、なんとか最初の休憩場所にたどり着く。
時刻は14時頃。
2区 約33km 雨、そして別れ
最初の休憩場所ではまだまだ先は長いということで、休憩は早々に切り上げすぐに出発する私たち。
道は住宅も立ち並ぶ田舎道からだんだんと山道になっていく。
2区が最も長い区間で最大の難関ということを知っていた私たちは気を引き締めて歩く。
が、ダメ。
明らかに100ハイ意識高い勢の友人2人と低い勢の私たち3人との歩行スピードが違う。
私は2人に申し訳なくなり先に行っていいよと声を掛ける。全員でそっちのほうが良いねとなり、2グループに別れることに。
そして、意識高い勢のその意識の高さゆえの準備の良さがまたもあらわれる。彼らはどうしても痛かったらバファリンを飲むと良いよと言い、私たちに持ってきたバファリンを分けてくれた。貴重な仙豆を渡す悟空のように。
意識低い勢の3人は何の備えもなかったため、ありがたく頂戴しすぐに飲んだ。少し経つと、明らかに痛みが和らいだ。ありがとう100ハイ意識高い勢の友人よ。
ただ、和らいだと言っても足の裏の痛みは激しく、この頃には完全に豆はつぶれていた。そして、その痛みをかばうように変な歩き方をしていたせいで片足だけに負担をかけることになり、右脚に痛みが広がっていく。
そんな私たちに追い討ちがかかる。
降り出す冷たい雨。
傘をさすなんて人は誰もいないが、準備が良い人などはカッパを装備していく。しかし、当然100ハイ意識低い勢の私たち3人はカッパなんかもっていなく、雨にさらされながら歩くことに。
そこまで強い雨でなかったのが不幸中の幸いだった。それでも私たち、少なくとも私の体力と戦意を奪うだけの威力はある。
時刻は19時頃。
辺りは暗くなっていく。暗さ、雨の冷たさ、痛み、それぞれが私たちの身体、そしてなにより精神を攻め続ける。
ここで明らかに自分のペースが他の意識低い勢の2人よりも遅くなっていたのがわかった。いつのまにか、私のペースを考えて友人2人がたまに止まって待ってくれるのが当たり前になっていた。
私の中で葛藤がはじまる。
みんなと一緒に完歩したい気持ちと、申し訳なさで置いていって欲しい気持ち。
もちろん、せっかくなら完歩したいが、正直1人で歩いて完歩できるだけの自信がない。身体的にも精神的にも。つまり、1人になることはリタイアに直結すると思っていた。
しかし、自分のペースが他の2人の負担になっているのは明らか。それが耐え難い。
迷惑をかけまいと思っても、ペースを上げるどころかどんどん右脚の痛みと足の裏の痛みは増すばかりで、むしろ歩くスピードは落ちていく。
どれだけ自分の中で葛藤していたかは正確には覚えていないが、かなり悩んで出した決断だったのは覚えている。
「先行っていいよ。もう無理そうだから次の休憩所でリタイアするわ。」
ついにその言葉を発する。
2人は少し気を遣ってくれたが、薄々私が限界だと気づいていたと思う。私が本当に無理でリタイアすること、迷惑をかけたくないということ、この意思を明確に伝えたことで2人は先に行くことに。
遅いペースに合わせてもらい申し訳ない、それなのに結局リタイアすることになり申し訳ないなど、2人に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
スタッフの方に連絡をすれば迎えに来てくれるためリタイアはどこでもできる。しかし、私はせめて次の休憩所までは1人で歩ききって、そこでリタイアしようと心に決めた。
時刻は21時頃。
暗くて冷たい雨が降る中を、ひたすら1人で足を引きずりながら歩く。
止まって休憩すると立ち上がれなくなるのでは、という恐怖心からどれだけ遅くても休憩せずにひたすら歩く。
時には後ろから来る人たちに追い抜かれながらも、彼らも苦しい表情で歩いているのは同じ。声を掛け合う余裕はなくても、無言でその時間を共有することで仲間意識が芽生える。
2区の休憩所は埼玉医科大学(確か)。それっぽい建物を見かけるたびに、ここか、ここか、と看板を見るが全然違う建物。
ただただ足を交互に前に出すという行為を繰り返す。ほとんど考えることもできず、とにかく大学っぽい建物を見たら期待する。
そしてついにその時がくる。埼玉医科大学の看板。(正確には看板だったかはうろ覚えなのですが、埼玉医科大学だと確信を持てるなにか。)
やっと着いた…
安堵しながら歩くが、なかなか休憩所にたどり着かない。敷地の外をめちゃくちゃ大回りするルート。もう終わりだと思っていた人間にはこれがなかなかきつい。
休憩所を目指し敷地の中にやっと入ったところで休憩所から出てきた友人たち4人に遭遇する。どうやら休憩所で前を行く2人と後を追った2人が合流したもよう。
4人と声を掛け合う。何を話したかは正直覚えていない。覚えているのは、休憩所まではまだ歩くよ、的な一言。絶望。
それでも、もう少しでこの苦しみから解放されるという気持ちでとにかく前に進む。
そして、ついに休憩所に到着。
時刻は23時頃。
3区 約12km 独りのナイトハイク
やっと着いた…これでこの苦しみから解放される…帰ったら熱いシャワーを浴びてフカフカのベッドで泥のように眠ろう…そう思いながら休憩所の中へ。
休憩所では弁当が配られていた。スタッフの方から弁当もらい、辺りを見渡す。誰か知り合いはいないか。パッと見、見当たらない。
さらに探すことはできたが、正直誰かと一緒に弁当を食べるよりもとにかく座りたい。空いてるスペースを見つけて座る。身体中が痛く座るのも一苦労。
どうにか座ることができ、気持ち悪くて食欲はほとんどなかったが無理して弁当を食べる。これを食べたらスタッフの人にリタイアすると言おう。そう思いながら箸を進める。
弁当を食べ終えて少し休んだ後、弁当を捨てに人生で一番重かった腰をあげる。ゴミ箱がある休憩所の入り口近くに行くと、後輩が休憩所に入ってきたのを見つける。その姿を見て後輩に声をかける。
「お疲れ!頑張れよ!先行ってるわ。」
無意識にそう言っていた。なぜそんな言葉が出てきたのか。あれだけリタイアしようと決めていたのに。
感が良い人はお気づきかもしれません。
そう、後輩は縛りプレイをしていたのです。
具体的に言うと特定できるためここでは書きませんが、普通に歩くよりも何倍もきつい縛りを彼は自分に課していました。
ボロボロになりながら休憩所に着いた後輩を見て、思わずあんな一言が出たのです。
正直、その後めちゃくちゃ悩みました。
あんなことは言ったけど身体はボロボロ。リタイアしたい、帰りたい、休みたい、歩きたくない…
しかし、さすがにそれはかっこ悪すぎる。後輩が縛りプレイをしてあれだけ辛そうなのに、縛りプレイもしていない自分がリタイアするのか。本当にそれで良いのか。
悩めば悩むほど、次の休憩所の到着が遅くなり睡眠時間も削られる。そんな焦りもありながら、出した結論がもう少しだけ頑張ってみよう、でした。
とにかく、ちょっとでも良いから前に進もう。そう思えることができたのは、完全に後輩のおかげでした。
幸い、スタッフの方々も道に沿って立っていてくれて、最悪の場合連絡をすれば車で迎えにも来てくれる。そう思い、休憩所を後にする。
一歩ずつ一歩ずつ歩みを進める。3区は完全に山道となっており、2区よりもさらに暗い。
ポツポツある街灯と、ところどころにいるスタッフの人たち。この時考えていたことはただ1つ。次の街灯まで、次の街灯までとにかく頑張って歩いてみよう。
その繰り返し。
どれだけの街灯を通り過ぎたかはわからない。目に入ってきたのは、ナイトハイク名物「ホテルあそこ」。
「ホテルあそこ」の存在は結構有名だったと後から知ったのですが、当時の自分は実際に見て初めて知りました。
暗い山道の中でひときわ目立つ「ホテルあそこ」の看板の文字。
「ホテルあそこ」を見てからの私のモチベーションは、友人たちが寝る前に休憩所に着いて「ホテルあそこ」の話がしたい。それだけでした。
その思いに突き動かされ足を前に運ぶ。くだらない理由だと思いますが、なぜかその時の「ホテルあそこ」の話がしたい欲求がすごかったのを覚えています。
※「ホテルあそこ」の画像は手元に残ってなかったので載せられませんが、ググれば画像は出てくるので興味がある方はググってみてください。
段々と市街に入っていき、休憩所が近づいていることを感じる。
3区の休憩所は体育館。やっとの思いで着いた私は友人たちの姿を探す。寝ている友人もいたが起きている友人もいた。友人達にはリタイアをやめたことをメールしていた。
互いに労をねぎらいながら、せっせと脚のメンテナンスを行う。テーピングを巻いたり、エアーサロンパスをかけたり。
体育館内はエアーサロンパスや湿布、汗の匂いなどが充満しており、四方からイビキが聞こえる。寝袋があるといっても床は硬いし、体育館中に人が敷き詰められているため、寝床はめちゃくちゃ狭い。
しかし、そんなことよりもやっと寝れることへの喜びが強く、一切気にならない。横になってすぐに眠りについた。「ホテルあそこ」の話もしないまま。
時刻は深夜3時過ぎ。
次回予告
想像以上に長くなったので、2日目の思い出はまた後で投稿させていただきます。ちなみに2日目の思い出はだいたいこんな感じです。
- 4区 見知らぬ体育館、効かないバファリン
- 5区 裏切りと出会い
- 6区 せめて、友人らしく