<style amp-boilerplate="">body{-webkit-animation:none;-moz-animation:none;-ms-animation:none;animation:none}</style>
Menu

<家族のこと話そう>亡父思いながら語る フリーアナウンサー・室照美さん

暮らし

2016年12月11日
写真

 父は大手電気機器メーカーのシステムエンジニアでした。休日は自分で作ったラジオを聞きながら、はんだの臭いをぷんぷんとさせて家で機械いじりをしていました。私が今、アシスタントをしている吉田照美さんの番組が好きで、よく「おもしろいなあ」って言っていました。

 子煩悩でもありました。よく山に連れていってくれて、その影響で私も登山が好きになりました。運動会の前には、近くの川の土手で徒競走の特訓もしてくれた。おかげで、いつも一等賞でした。

 私が十五歳の時にがんを患い、半年ほど闘病して亡くなりました。五十一歳でした。本気で治るつもりだったから、私がお見舞いに行くと「来なくていい」と怒られました。でも、最期の日、ホスピスに駆け付けると、起き上がって私の手を触ってくれた。最後の力を振り絞ってくれたんだと思います。

 その後、主婦だった母は私と二歳下の弟を育てるため、テレビ番組の字幕を打ち込む仕事を始めました。もともと速記のボランティアなどをしていて、文字を打ち込むのは早かったみたい。徹夜で帰ってこられない日もざらでしたが、いつも明るくて苦労はみせなかった。大学に入って私がアナウンススクールに通うときも、お金を工面してくれました。「やりたいことは絶対にやった方がいい」って。金沢でアナウンサーをしていたころは東京では番組を見たり聞いたりできないので、しょっちゅう金沢に来てくれました。いまでも毎日、私が出演するラジオを聞いてくれています。

 家で当たり前のように流れていたラジオに落ち着きを感じていたので、テレビだけでなくラジオもできるアナウンサーを初めから目指していました。吉田さんの番組のアシスタントに決まったときは、母から「同じ名前なのが目に留めてもらえた理由の一つだと思うから、名前を付けてくれたお父さんに感謝だね」と言われました。名前が一緒だったのは偶然なのですが、本当に「お父さんありがとう」ですね。

 ラジオでは、ちょっとした自分の失敗談や損をした話を大事にしています。ラジオを聞きながら、くすくすっと笑っていた父の記憶があるので、私も皆にくすっとしてもらえることをしゃべりたいですね。父は心配性だったので、アナウンサーになると言ったら、すごく反対したと思います。でも、ラジオだったら喜んでくれたんじゃないかなあ。定年したら庭いじりをしたいと言っていたので、きれいな花を育てながら黙々と聞いてくれたと思います。

 聞き手・添田隆典/写真・石井裕之

<むろ・てるみ> 1985年、東京都板橋区生まれ。2008年、MRO北陸放送(金沢市)に入社。13年、文化放送に移り、ことし4月からフリーに。文化放送の「吉田照美 飛べ!サルバドール」(関東地方のみ)でアシスタント、同局の「走れ!歌謡曲」(東海地方では東海ラジオで放送)で水曜のパーソナリティーを務める。

 

この記事を印刷する