観応の擾乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた抗争で、観応年間に頂点に達した足利政権(室町幕府)の内紛。実態は足利政権だけにとどまらず、対立する南朝と北朝、それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執なども背景とする。
この擾乱の中で一時的に生じた南北朝の統一である正平一統についても併せて解説する。
目次
背景[編集]
足利直義派と高師直派の対立[編集]
初期の足利政権においては、足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事高師直が軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当する二元的な体制を執っていた[1]。なお、尊氏には高師直を筆頭に守護家の庶子や京都周辺の新興御家人が、直義には司法官僚・守護家の嫡子・地方の豪族がついており、概ね前者が革新派、後者が保守派と見られる。
訴訟を担う直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された領主(公家や寺社)の訴訟を扱うことが多かった。直義は鎌倉時代の執権政治を理想とし、引付衆など裁判制度の充実や従来からの制度・秩序の維持を指向し、裁定機能の一部を朝廷に残したため、有力御家人とともに公家・寺社の既存の権益を保護する性格を帯びることになった。これに対し、幕府に与した武士の多くは天皇家や公家の権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、師直はこのような武士団を統率して南朝方との戦いを遂行していた。それぞれの立場の違いから、必然的に両者は対立するようになっていく[2]。また、師直は将軍尊氏の執事として将軍の権威強化に努めたが、それは師直自身の発言力の強化にもつながるものであった[3]。
この対立は師直と直義のような次元では政治思想的な対立という面もあったが、守護以下の諸武士にあっては対立する武士が師直方につけば自分は直義方につくといった具合で、つまるところ戦乱によって発生した領地や権益を巡る争いで師直、直義、尊氏、直冬、そして南朝といった旗頭になる存在を求めただけという傾向が概して強く、今川範国や細川顕氏の例に見られるように、自己の都合でもって短期間の内に所属する党派を転々とすることもしばしばであった。更に両者の対立の背景には足利尊氏の家督継承の経緯と外戚上杉氏の問題もあったとされる。元々、尊氏の父貞氏は、嫡男であった高義に家督を譲って家宰の高師重(師直の父)に補佐させていたが、高義の死によって改めて異母弟の尊氏が後継者になった。ところが、家宰として尊氏を補佐しようとする高氏と長年庶子扱いされてきた尊氏兄弟を支えてきた上杉氏の間で対立が生じ、尊氏が家宰である高氏を政務の中心として置いた一方、直義は脇に追いやられた上杉氏に同情的であった。特に延元3年/暦応元年(1338年)に明確な理由がないまま上杉重能が出仕停止の処分を受け、同じく上杉憲顕が関東執事(後の関東管領)を高師冬(師直の従兄弟)に交替させられ、重能の代わりに上洛を命じられた事が、上杉氏及び直義の高氏への反感を高めたと考えられている[4]。
南北朝時代の初期に楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら南朝方の武将が相次いで敗死し、高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかったが、延元4年/暦応2年(1339年)に後醍醐天皇が没して後の畿内は比較的平穏な状態となったため師直は活躍の場を失い、直義の法・裁判による政道が推進されるようになる[5]。しかし、師直が率いていた武士たちが秩序を軽んじて狼藉する事件が多く発生し、興国2年/暦応4年(1341年)に塩冶高貞が直義派の桃井直常・山名時氏らに討たれ、翌興国3年/康永元年(1342年)に土岐頼遠が北朝光厳上皇に狼藉を働いた罪により直義の裁断で斬首されるなどした。こうした裁定に不満をもつ武士たちは師直を立て、直義はなおも権威と制度の安寧にこだわった。両派の間はますます険悪になりつつあった[6]。
正平2年/貞和3年(1347年)に入ると、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起して京はにわかに不穏となった。まず9月に直義派の細川顕氏・畠山国清が派遣されてこれを討とうとするも敗北を喫し、11月に山名時氏が増援されたが京都に敗走してしまった。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌正平3年/貞和4年(1348年)1月5日の四條畷の戦いで正行を討ち取り南朝軍を撃破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生(奈良県五條市)へ落ち延びた。この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。
政権成立後のこの頃、将軍尊氏は後醍醐天皇に背いたことを悔やんで仏教にはまり込み[7]、ほぼ隠居状態にあった。
直義の排除[編集]
そうした中、貞和5年(南朝正平4年、1349年)閏6月、直義は側近の上杉重能や畠山直宗、禅僧妙吉らの進言を容れて、師直の悪行の数々を挙げてこれを糾弾、その執事職を免じることを尊氏に迫りこれを成し遂げた[8]すると直義はこれを機に師直の徹底的排除に乗り出す。『太平記』にはこの時直義方による師直の暗殺未遂騒動まであったことが記されているが、直義はさらに光厳上皇に師直追討の院宣の渙発を奏請してまで師直を討とうとしている。
同年8月12日、師直は河内から軍勢を率いて上洛した師泰と合流して、直義を一気に追い落とす逆クーデターを仕掛け成功する。意表を衝かれた直義は翌13日に尊氏の屋敷に逃げ込み、これで危機を脱するかに見えた。しかし師直方の軍勢は、そこが将軍御所であろうとまったく意に介さずこれを包囲した上で、君側の奸臣として上杉重能と畠山直宗の身柄引き渡しを要求した。直義にとってこの両名を失うことは両腕をもがれるようなものなのでこれを許さなかったが、それならばと師直は包囲網を固めて兵糧攻めの構えを見せる。すったもんだの末に禅僧夢窓疎石が仲介に奔走し、ここに重能・直宗を配流とすること、そして直義は出家して幕政からは退くことの2条件のもとに師直は包囲を解くことに同意、ここに創業間もない足利幕府の屋台骨を揺るがせた政変もひとまず終息に向った。
直義に替わって幕府の政務統括者となったのは、鎌倉を治めていた尊氏の嫡男・義詮だった。そしてこの義詮の帰洛と入れ替わりに鎌倉に下向したのは、新たに初代鎌倉公方として関東の統治を任された義詮の弟・基氏だった。基氏には実務者として上杉憲顕をつけ、これを関東執事に還任してその輔佐にあたらさせた。しかし憲顕は他でもない重能の兄である。師直はこれを警戒して、関東執事の定員を2名に増員した上で高師冬をこれに還任して目付にした。
この一連の政変を通じてその立場が判然としないのが、師直と直義の間にあって終始揺れ動いた尊氏である。その動静をめぐっては、局外中立を貫いていたとする説、優柔不断で日和見をしていたとする説、そもそも尊氏は直義方を排除するために師直と示し合わせていたとする説など、さまざまな解釈がある。いずれにしてもこの一件は、それまでは曲がりなりにも協調路線を取っていた尊氏と直義がついにその袂を分かつ発端となった。
同年11月に義詮が入京すると、直義は12月8日出家して恵源と号した。ところが早くもその月のうちに上杉重能と畠山直宗が配流先で師直配下の者に暗殺されるという事件が出来する。ここに師直と直義の間の緊張は再び高まった[9]。
擾乱の勃発[編集]
足利直冬の台頭、直義派の決起[編集]
この年の4月に長門探題に任命されて備後に滞在していた直冬は、事件を知って義父の直義に味方するために中国地方の兵を集めて上洛しようとしたが、尊氏は師直に討伐令を出したため九州に敗走し(9月)、今度は九州で地盤を固め始めた。尊氏方は出家と上洛を命じるが従わなかったため、再度討伐令を出した。直冬は拡大させた勢力を背景に大宰府の少弐頼尚と組み、南朝方とも協調路線をとって対抗した。
翌正平5年/貞和6年(1350年)、北朝は「貞和」から「観応」に改元。この頃各地で南朝方の武家が直冬を立てて挙兵する。10月28日、西で拡大する直冬の勢力が容易ならざるものと見た尊氏は自ら追討のために出陣、備前まで進んだ。しかし、この直前の10月26日に直義は京都を出奔していた。直義は大和に入り、11月20日に畠山国清に迎えられて河内石川城に入城、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけ国清、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、吉良貞氏、山名時氏、斯波高経らを味方に付けて決起した。これが擾乱の始まりである。関東では12月に関東執事を務めていた上杉憲顕と高師冬の2名が争い、憲顕が師冬を駆逐して執事職を独占する。直義方のこうした動きに直冬討伐どころではなくなり、尊氏は同月に備後から軍を返し、高兄弟も加わる。北朝の光厳上皇による直義追討令が出されると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を見せた。
高一族の滅亡[編集]
正平6年/観応2年(1351年)1月、直義軍は京都に進撃。留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。2月、尊氏軍は京都を目指すが、播磨光明寺合戦及び2月17日の摂津打出浜の戦いで直義軍に相次いで敗北する。南朝方を含む直義の優勢を前に、尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てて直義との和議を図った。この交渉において尊氏は表向きは師直の出家(助命)を条件として挙げていた。しかしながら実際には氏直には直義に"師直の殺害を許可する"旨を伝えるようにという密命を伝えていた。2月20日、和議は成立するも、果して2月26日、高兄弟は摂津から京都への護送中に、待ち受けていた直義派の上杉能憲(憲顕の息子、師直に殺害された上杉重能の養子で、仇討ちという形になる)の軍勢により、摂津武庫川(兵庫県伊丹市)で一族と共に謀殺される。長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。
直義と尊氏の対立[編集]
高兄弟を失っていったんは平穏が戻ったものの、政権内部では直義派と反直義派との対立構造は存在したままで、それぞれの武将が独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていった。高一族滅亡から半年も立たないうちに、尊氏は直義派の一掃を図るため、戦果の恩賞や処罰を自派に有利に進め、またの武将の処罰や自派の武将への恩賞を優先した。謁見に訪れた直義派の細川顕氏を太刀で脅して強引に自派へ取り込むなど直義派の懐柔も図った。一方戦役の武功に準じた報酬や裁定を挙げられない直義の政治は武士たちに受け入れられず、これも直義派から武将が離反する原因となるなど、徐々に形勢は尊氏方に移っていった。南朝へ帰順を示した直義は、北朝との和議を交渉したが不調に終わる。調停を担った南朝方の楠木正儀は、このときの固陋な南朝方の態度に怒りを覚え、今南方を攻めるなら自分はそれに呼応するとまで口走ったとされている。
3月30日直義派の事務方の武将である斎藤利泰が何者かに暗殺され、5月4日には直義派の最強硬派である桃井直常が襲撃され辛くも危機を脱するという事件が発生した。尊氏は、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐らが南朝と通じて尊氏から離反したことにして、7月28日に尊氏は近江へ、義詮は播磨へそれぞれ出兵することで東西から直義を挟撃する体制を整えた。8月1日、事態を悟った直義は桃井、斯波、山名をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、自派の地盤である北陸・信濃を経て鎌倉へ逃亡した。この陰謀については道誉が首謀者であるとの説がある。このとき直義は光厳上皇には比叡山に逃れるよう勧めているが、受け入れられなかった。
正平一統[編集]
成立[編集]
京から直義派を排除したものの、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を伸ばしていた。尊氏は直義と南朝の分断を図るため、佐々木道誉らの進言を受けて今度は南朝からの直義・直冬追討の綸旨を要請するため、南朝に和議を提案した。南朝は、北朝が保持している三種の神器(南朝の後醍醐は以前に北朝に接収された際にはそれは贋物であると主張していた)を渡し、政権を返上することなどを条件とした。明らかに北朝に不利な条件であったが、10月24日尊氏は条件を容れて南朝に降伏して綸旨を得る。この和睦に従って南朝の勅使が入京し、11月7日北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ(後に足利義満により再度図られた南北朝統一である「明徳の和約」を、正平一統に合わせて「元中一統」と呼ぶことがある。)。12月23日には神器が南朝方に回収された。結局のところ、これは政権の南朝側への無条件返還となった。
尊氏は義詮に具体的な交渉を任せたが、南朝側は、北朝の意向により天台座主や寺社の要職に就いた者などを更迭して南朝方の人物を据えることや、建武の新政において公家や寺社に与えるため没収された地頭職を足利政権が旧主に返還したことの取り消しなどを求め、北朝方と対立する。義詮は譲歩の確認のために尊氏と連絡し、万一の際の退路を確保するなど紛糾した。
一方、尊氏は直義追討のために出陣し、12月の薩埵峠の戦い、相模早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで破って翌正平7年(観応3年、1352年)1月、鎌倉に追い込み降伏させる。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月26日に急死した。病没とのことだが、この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。
破談[編集]
南朝方は和議を受けて増長した。後醍醐天皇の「後の三房」の一人で関東統治に失敗して吉野に帰っていた北畠親房を中心に、京都と鎌倉から北朝と足利勢力の一掃を画策する。
まず、閏2月6日、南朝は尊氏の征夷大将軍を解任し、代わって宗良親王を任じる。これに直義の死去を受けた新田義興が脇屋義治、北条時行らが宗良親王を奉じて挙兵して鎌倉に進軍した。鎌倉の尊氏は一旦武蔵国まで引いたため、18日に南朝軍が一時的に鎌倉を奪回した。しかし尊氏は武蔵国の各地緒戦で勝利し、3月までに義宗は越後、宗良親王は信濃に落ち延び、再び鎌倉は尊氏が占めた(武蔵野合戦)。
一方、閏2月19日、北畠親房の指揮の下で楠木正儀・千種顕経・北畠顕能・山名時氏を始めとする南朝は京都に進軍し七条大宮付近で義詮・細川顕氏らと戦い、翌日の閏2月20日義詮を近江に追い払い京都に入った。閏2月24日には北畠親房が准后に任じられて17年ぶりに京都に帰還、続いて北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子直仁親王を拉致、本拠の賀名生へ移された。後村上天皇は行宮を賀名生から河内国東条(河南町)、摂津国住吉(大阪市住吉区)、さらに山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)へ移した。近江へ逃れた義詮は、近江の佐々木道誉・四国の細川顕氏・美濃の土岐頼康・播磨の赤松氏らに、足利直義派だった山名時氏や斯波高経らの協力も得て布陣を整え、3月15日京都へ戻って奪還、さらに21日には後村上天皇の仮御所のある男山八幡を包囲し、物流を遮断して兵糧攻めにした。この包囲戦は二か月にもおよぶ長期戦となり、南朝方は飢えに苦しんだ挙句5月11日に四条隆資が死守して戦死するも、後村上天皇が側近を伴い脱出、男山八幡は陥落した(八幡の戦い)。
事態を受けて尊氏、義詮は相次いで3月までに観応の元号復活を宣言、ここに正平一統はわずか4か月あまりで瓦解した。
北朝の再擁立[編集]
尊氏が南朝に降った時に南朝が要求した条件に、皇位は南朝に任せるという項目があったため、北朝の皇位の正統性は弱められる結果となった。京都は奪回したものの、治天の君だった光厳上皇、天皇を退位した直後の崇光上皇、皇太子直仁親王は依然と南朝にあり、さらに後醍醐天皇が偽器であると主張していた北朝の三種の神器までもが南朝に接収されたため、北朝は治天・天皇・皇太子・神器不在の事態に陥った。また武家にとっても尊氏が征夷大将軍を解任されたため、政権自体が法的根拠を失ってしまう状況になった。最終的な政治裁可を下しうる治天・天皇の不在がこのまま続けば、京都の諸勢力(公家・武家・守護)らの政治執行がすべて遅滞することになる。幕府と北朝は深刻な政治的危機に直面することになったのである。
事態を憂慮した道誉、元関白の二条良基らは勧修寺経顕や尊氏と相計って、光厳・光明の生母広義門院に治天の君となることを要請し、困難な折衝の上ようやく受諾を取り付けた。広義門院が伝国詔宣を行うこととなり、崇光上皇の弟・弥仁が8月17日践祚、9月25日後光厳天皇として即位した。9月27日、北朝は正平統一はなされなかったとして従来の観応からの改元を行い、文和元年とした。
良基は神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(草薙剣)となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている(『続本朝通鑑』)が、当時、過去に後白河法皇が後鳥羽天皇を即位させた例にあるように、即位に当たって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、治天による伝国詔宣により即位が可能であるとする観念が存在していた。南朝方が治天を含む皇族を拉致したのはそのためだが、北朝方はその盲点を衝くかたちで女院を治天にするという苦肉の策でこの危機を乗り切ったのである。
だが、この一連の流れは正平一統と相まって、後に北朝でなく南朝に皇統の正統性を認める原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は大幅に低下した。
時氏離反と道誉の伸長[編集]
南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年/文和2年(1353年)には道誉と山名時氏・師義父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は出雲に侵攻し道誉の部将吉田厳覚を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。
義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。この中で道誉の息子佐々木秀綱が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びる。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏に救援を求める。尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退、足利方は京都を回復した。
元来道誉は佐々木家庶流として武家方の事務官僚として恩賞の沙汰などを取り扱っていた。しかしながら天皇不在という緊急事態の解決や、南朝との戦において功績を示した。よってこの頃から義詮第一の側近としてその存在感は著しく大きなものとなった。彼は事実上の武家方の最高権力者となり政権の舵取りをするようになる。しかしながら彼にはトラブルメーカー的な側面も大きかった。これ以後道誉と対立した武将が武家方から離反もしくは放逐され南朝方に帰順するという政変・戦が繰り返されることになる。
直冬蜂起[編集]
近畿、関東において上記のような争いが続く間、九州では直冬が猛勢を誇っていた。もともと九州では尊氏が北畠顕家に敗れて落ち延び、その後上京した際に一色範氏(道猷)を九州探題として残していたが、道猷が在地の守護層と厳しく対立していた上、後醍醐天皇が自身の息子懐良親王を征西大将軍として派遣し、懐良親王は菊池武光を指揮下に入れ勢力を伸長させていた。このような複雑な情勢の中で、国人層は恩賞を求め右往左往していた。
直冬は九州へ到来するやいなや文章を多数発給し新たな主のもと勢力の伸長を目指す国人層から一定の支持を得た。尊氏は師直らと図り一色派の守護に直冬討伐令を出す。直冬は尊氏と対立する身でありながら、尊氏の実子という自らの立場を利用し勢力を伸ばしていた。一方で尊氏からは直冬討伐の令が発令されるという事態に対して直冬は「これは師直の陰謀である」と宣伝するという対応を取った。直冬は尊氏の本心が奈辺にあるのか一番よく分かっていたであろうが、直冬には尊氏の実子という立場以外この時頼るものはなかった。尊氏の直冬への憎悪自体常軌を逸した一種のパラノイアのようなものであり、遠く離れた九州の武士達には理解が及ばず、「尊氏の実子直冬が、逆賊師直を討伐すべく九州で兵を集めている」という直冬が提示した分かりやすい大義名分は次第に支持を集めていった。
直冬の勢力伸長に対して、在地の守護の筆頭であった少弐頼尚は道猷を打ち破る為の旗頭として直冬に注目する。こうして正平5年/貞和6年(1350年)に直冬と頼尚は連合し、道猷を打ち破り博多を奪う。しかしながら正平7年/観応3年(1352年)に直義が死亡すると直冬の勢力は一気に崩壊、諸武士の離反が相次ぐ中で頼尚だけは最後まで直冬を支え続けたが結局直冬は九州から逃亡する。 この際、直冬は九州を統治することではなくあくまで上京し尊氏・義詮を殺害することを目的としていたから、中国地方へ対する政治工作を活発に行なっており、直冬派が九州で崩壊した後も直冬は中国地方、特に長門と石見では勢力を保っていた。
正平9年/文和3年(1354年)5月には、桃井直常、山名時氏、大内弘世ら旧直義派の武将を糾合すると直冬は石見から上京を開始する。正平10年/文和4年(1355年)1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし神南の戦いで主力の一角山名勢が道誉、則祐を指揮下に入れる義詮に徹底的に打ち破られ崩壊する。直冬は東寺に拠って戦闘を継続したが、義詮は奮戦し徐々に追い詰められてゆく。そして最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走した。尊氏は東寺の本陣に突入したあと自ら首実検をして直冬を討ち取れたか確認しており、尊氏の直冬への憎悪の程が推察される。
直冬勢は結局このまま完全に崩壊し、直冬は西国で以後20年以上逼塞することになり、消息は明確でない。なお、大内弘世と山名時氏は正平18年/貞治2年(1363年)には幕府に帰順している。
なお尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり4年後の正平13年/延文3年(1358年)に戦病死している。
影響[編集]
室町将軍の権力確立[編集]
この乱により、師直と直義に分割されていた武家方の権力は、将軍尊氏と嫡子義詮のもとに一本化され、将軍の親裁権は強化された。また、直義の目指した鎌倉幕府の継承路線は形骸化され、師直が推進した将軍の命令とその実施を命じた執事の施行状・奉書の発給によって上意下達が行われていく室町幕府の指揮系統が確立されることになる。その後、将軍を継いだ義詮によって執事の廃止と更なる将軍の親裁権の強化が図られたが、その早世によって挫折する。そして、幼少の3代将軍義満を補佐するために、執事が引付頭人の職権を吸収した新たな役職「管領」が成立することになる[10]。
南朝の延命[編集]
室町将軍の権威強化の一方で師直によって吉野を落とされ滅亡寸前にまで追い込まれた南朝は、直義・尊氏が交互に降りたことで息を吹き返し、その結果南北朝の動乱が長引いた。
北朝内の皇統対立[編集]
後光厳、後円融、後小松、称光と4代にわたって後光厳系が皇位についた一方、兄筋の崇光上皇の子孫は嫡流から排されて世襲親王家である伏見宮家として存続し、北朝内部でも皇位継承をめぐる両系統間の確執があったとされている。結局、後光厳の系統は称光の代で途絶え、後南朝を牽制するために伏見宮家から皇統を迎えて後花園天皇(崇光の曾孫)とし、以降皇位は伏見宮家から擁立することとなった。
武将間の対立[編集]
一度直義に与した武将達と、一貫して尊氏に従った武将達との間で派閥が現れ、守護大名を勢力の中心として2つの派閥が拮抗する情勢が生まれた。義詮の晩年の頃には、この対立が顕著になっていた。[11]
脚注[編集]
- ^ 尊氏は主従制の基本(御恩と奉公)に関わる恩賞宛行(所領の給与)と所領寄進を、直義は所領安堵と所務相論(所領経営に関する訴訟)を担当しており、師直の職務には前者の補佐も含まれていた。だが、前者と後者は密接に関わっていたことから、自己の職権の行使が結果的に相手の職権に影響する場合もあり、その職権の対立が尊氏の補佐をする師直と直義の対立の遠因となった。
- ^ 師直は戦闘の功績として、配下武将に恩賞として土地を暫定的に分け与えていた。一方、その土地が他人の領土だった場合、持ち主は幕府に訴え出るが返却が実現されない場合が多かった。多くの武士を参加させるための土地預け置きと法による公平な統治は矛盾を生み、両者の対立に繋がった。峰岸、P48 - P56
- ^ 師直は建武政権の際に雑訴決断所にいた経験を踏まえて、将軍の命令とともに執事の施行状などの各種奉書を発給してその実現を図った。亀田俊和は、仁政方をそのための機関と位置づけるとともに、鎌倉幕府の評定衆・引付衆による訴訟制度の再建・継続を目指す直義と将軍―執事―守護という指揮命令系統を訴訟制度にも導入して迅速かつ実効性のある訴訟制度の確立を目指す師直という路線対立も含んでいたとする。亀田、P120 - P121・P253 - P267
- ^ 阪田雄一「高氏・上杉氏の確執をめぐって」(初出:『千葉史学』30号(1997年)/所収:田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-070-0)
- ^ 暦応4年10月3日に下文発給に関する訴訟を師直方の機関である仁政方から直義方の機関である引付方に移行する法令(室町幕府追加法第7条)が出され、師直による下文(施行状・奉書を含む)の発給が事実上禁止されたが、合議制の引付方では諸国の武士や寺社が求める下文の迅速な発給が困難であったために師直が引き続き施行状や奉書を発給することとなり却って混乱した。この追加法が出された2年後である(南朝)興国4年7月3日付北畠親房書状(「陸奥相良文書」所収)には直義と師直が事あるごとに対立していたことが記されており、両者の不和は敵である南朝方においても広く知られていた。亀田、P249・P263 - P265
- ^ 高貞と頼遠は師直派と見られ、この時点で派閥対立があったと見られている。森、P88 - P89。
- ^ 出家を宣言したり、合戦で苦戦した際には切腹すると言い出すなどしたという(『梅松論』など)。また、帰依していた臨済宗の禅僧夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇を弔うため東大寺・延暦寺の反対を押し切り大覚寺統離宮の亀山殿を改修して康永4年(1345年)に天龍寺を建てたり、直義とともに全国に66箇所もの安国寺利生塔を創建するなど仏教に基づく活動が多い。
- ^ 後任は甥で師泰の子・師世。
- ^ 森、P111 - P115
- ^ 亀田、P216 - P217・P267 - P269
- ^ 佐藤進一「足利義満」(平凡社ライブラリー・2008年)
参考文献[編集]
- 森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年。
- 峰岸純夫『足利尊氏と直義』吉川弘文館、2009年。
- 瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館、2005年。
- 佐藤進一『足利義満』平凡社ライブラリー、2008年。
- 亀田俊和『室町幕府管領施行システムの研究』思文閣出版、2013年。