また、当時の記事をみると朝鮮人労働者たちが半島と内地を自由に行き来していたことを伺い知ることができる。
例として1925年12月21日の毎日新報を見ると、内地が不景気で就職が厳しくなると、仕事にありつけずに再び半島に戻って来る労働者をあざ笑うような記事が登場している。(「内地で労働していた朝鮮人帰還激増 所持金は5円乃至30円が最高。追い出されてくる連中の姿を見ろ」)。
記事によるとこの時期、内地に渡航する朝鮮人よりも、半島に戻ってくる朝鮮人の数が上回っていたという。
1934年3月7日の釜山日報をみると興味深い記事が目につく。朝鮮民族にとって大きな祝い事である旧正月に合わせ内地で仕事をしていた労働者たちが故郷で旧正月を過ごすために帰郷し、再び内地の職場に復帰しようと一斉に釜山に向かったために釜山が大混乱に陥ったというものだ。
これら一連の記事を見ていると、韓国で生まれ育った人間としては混乱に陥り、疑問ばかりが頭に浮かんでくる。何故ならば、韓国で刻み込まれた「強制連行」そして「奴隷労働」というイメージが崩壊しかねないような内容が次々と登場するからだ。
ここまでに紹介してきた記事だけを見ても、多くの疑問が生まれてくる。
「強制連行」が行われていた内地に、何故朝鮮人たちは「密航」してまで赴いたのだろうか? 何故、地獄のような労働環境だった炭鉱を目標に密航したのだろうか? 監禁され、奴隷のように労働を強要されていた労働者たちが、不景気だからといって帰郷することができたのだろうか? 旧正月を過ごすために帰郷したのであれば、その時に逃げることもできただろうに、何故再び戻ろうとしたのだろうか?
ここまでは国民徴用令(日本では1939年、朝鮮では1944年から実施)が出される前の状況だという人もいるかもしれない。
しかし、1940年代の記事を見てもこういった疑問は尽きない。