1910年、日本による韓国併合以降多くの朝鮮人が内地(日本)へ渡った。彼らにとって日本は人気のある就職先で、それは強制的なものではなかった。むしろ日本当局は密航者たちの多さに頭を抱えていた。
例えば次の「内地に憧がるゝ鮮人労働者がうかうかと渡航するを桟橋で喰止めるだけでも一ト仕事」というタイトルの記事は1926年釜山日報に掲載された記事である。当局は内地渡航希望者を必死に「阻止」しているが、それも人手不足で「阻止」しきれていないという状況を伝えている。
当局が渡航停止、または制限の措置を強化すると増えたのが「密航」である。内地への密航者は戦況が悪化した戦争末期まで後を絶たなかった。密航者についての記録や記事は数え切れないほどに存在する。
朝鮮人たちが目標とした「密航先」の中には現在の韓国人たちの頭の中で「地獄」として刻み込まれている「炭鉱」も含まれている。
朝鮮中央日報1934年08月24日の記事には半島において日本の代表的炭鉱地域として知られている福岡県筑豊炭鉱を目標にした密航者が続出し、当局が頭を痛めているという記事が登場する(「筑豊炭鉱を目標に密航朝鮮人激増」)。この筑豊炭鉱も現在韓国では奴隷のように酷使された「地獄」として認識されている場所だ。