(福井放送局ディレクター 寺島工人)
発見! 海底に沈む″伝説″の船
「宝を積んだ船がある」「東南アジアからの略奪物資を積み込んでいた」…戦後、若狭湾周辺では謎の沈没船伝説が語り継がれてきました。さらに福井県の水産試験場から「魚礁の調査の際、舞鶴港からおよそ40キロの沖合で、船らしき物体を目撃した」という情報が得られました。
そこで、ことし3月、NHKの取材班は海洋調査会社の協力を得て、周辺を探索しました。舞鶴港からおよそ2時間の海域で、カメラを海底近く水深120メートルまで沈めると、そこには巨大な鉄の塊が。円い窓やデッキの手すりのようなものが見えました。横倒しになった船でした。それも全長140メートル。大型客船なみの大きさです。沈没船の水中撮影に成功したのです。
専門家に映像の分析を依頼したところ、船首の形や船底からの高さなどの特徴から船の正体が判明しました。その名は「第二氷川丸」。昭和18年から海軍の「病院船」として活動していた船です。
″海上の聖域″と言われた病院船
病院船とは、負傷した兵士たちを救助する船で、国際法では「攻撃してはならない」と定められていました。敵味方なく治療が行われていた、いわば「海上の聖域」。日本は現在、横浜港に係留されている「氷川丸」など、分かっているだけでも36隻を所有していました。
第二氷川丸は、パラオやフィリピンなど南洋を航行、負傷した兵士たちの治療に当たっていたことが記録されています。氷川丸に形が似ていることからこう名付けたと言われています。
看護にあたった乗組員の記録や遺族の証言から、第二氷川丸は、手術室に当時では珍しい蛍光灯を配備するなど、最新鋭の設備をもつ船だったことが分かりました。にもかかわらず、戦後に謎の沈没を遂げていたため、地元の漁業関係者や専門家、ジャーナリストたちの関心を集めてきた船だったのです。
第二氷川丸はオランダの船だった
船に関する当時の史料を調べたところ、第二氷川丸は、もともとは外国の船を捕らえた抑留船でした。その船は、オランダの病院船「オプテンノール号」。昭和17年2月、インドネシア沖での戦闘の際、この船が不審な動きをしたとして日本軍が捕獲した船です。
オプテンノール号と第二氷川丸の写真を比べると、同じ船のようには見えません。実は、煙突を加えたり塗装を変えたりするなどの改造をしていたのです。名前も、オプテンノールから天応丸、そして第二氷川丸へと二度変えられています。
外国の病院船を転用することは国際法に違反する行為。その事実を隠すためではないかと考えられています。
一方、捕獲されたオプテンノール号の乗組員は日本軍の捕虜とされました。乗組員たちはオプテンノール号がどうなったのか、日本側から詳しく説明されることはなかったといいます。
軍が不正に利用していた
さらに映像からは、この船が病院船以外の「秘密の任務」を担っていた形跡が浮かび上がってきました。
専門家が指摘したのは「デリック」と呼ばれる、重い荷物を運び込むための装置。病院船には必要のないものだと考えられます。
なぜ必要のない装置を備えていたのか。その事情を知る、当時の乗組員に話を聞くことができました。
96歳の山田三郎さんは、当時、けが人の看護などに当たる衛生兵として乗船していました。「大砲みたいなものを載せたことがある」と証言する山田さん。第二氷川丸は、病院船には禁じられていた「武器の輸送」も担っていたといいます。
さらに、別の乗組員の証言からは、「500人ほどの兵士をニューブリテン島に運んだ」という事実も明かされました。お二人とも戦後長らく、こうした事実を語ることははばかられてきたと言います。しかし終戦から72年経ち、元乗組員の大半が亡くなる中で、病院船を巡って何があったか後世に語り継いでほしいと、取材に応じてくださいました。
一方でこうした不正は、ほかの病院船でも行われて、その事実は徐々に連合国側にも知られていったことも分かってきました。患者を装った兵士が連行されたり、攻撃を受けたりする船が相次ぎ、病院船は、もはや「海上の聖域」ではなくなっていったのです。
終戦直後の沈没のワケ
第二氷川丸も連合国軍からの攻撃にさらされ被害を受けましたが、破壊されたり捕獲されたりすることなく、舞鶴港で終戦を迎えます。しかし、なぜかその3日後に港を出発し、その後、二度と戻ってきませんでした。
取材班は、その様子を見ていたという男性から証言を得ることができました。
別の病院船の航海士、竹澤鍾(あつむ)さんは「何か悪いことがばれたりすれば問題になる、証拠隠滅のために沈めたと聞いた」と、沈没は海軍自身が行ったものだと明かします。
だれが何のために沈めたのか?
戦後の外交文書に、政府の認識が示されていました。
「病院船を輸送船として運用し、それを秘匿するため海軍省が自沈を指令した」
波紋は戦後30年以上続いた
人知れず海底に眠り、幕を閉じたと思われた第二氷川丸の歴史。しかし、取材班は戦後の驚くべき事実も発見しました。
昭和53年にもなって、日本はオランダ政府に沈没の見舞金として1億円を支払っていました。オプテンノール号(=第二氷川丸)の沈没が、長く外交問題となっていたのです。
実は、終戦直後、日本はオランダに「機雷接触による事故で行方不明」と説明していました。では、どうして1億円の見舞金が支払われたのか。その真相を知る人物に話を聞くことができました。
当時オランダと交渉にあった外務省の担当者、松本俊さん(79)です。
「結局、証拠隠滅のために沈めてしまったと言うことに対しては申し開きができない」ということから、日本はオプテンノール号(第二氷川丸)を海軍がみずから沈めたことを認めたといいます。
一方で、他国の船を勝手に使ったことや軍事利用についてはこう話しています。
「他国船を流用したことについては、曖昧なままで終わった。お互いにもう問題にしないということでしょうね。オランダは、兵器を運ぶとか兵員を運ぶとかいうようなことにも使ったことがあるんじゃないかと疑ってはいたようですが、日本政府としてはやっていないということだったと思います」
つまり、オプテンノールを「勝手に使ったのかどうか」「軍事利用をしたのかどうか」など、戦時中のことは棚上げして、「沈めてしまったこと」だけに遺憾の意を示したのです。一般市民には曖昧に思えますが、両国の立場や外交のさまざまな環境を考えると、しかたのない解決法だったと松本さんは言います。
こうして、戦後30年以上たって両国の間で問題は決着をみたのです。
戦争の闇とともに葬られた病院船「第二氷川丸」。その歴史を長年取材してきたジャーナリストの三神國隆さんは、船の数奇な運命をこう語ります。
「戦争の中で、船が本来持っていた崇高な目的にそぐわない使われ方をし、最期は沈められた。そういう意味では、船の人生としては決して幸せだったとはいえない」
ひとたび戦争が始まると、私たちがふだんは持っているはずの「倫理」さえもゆがめられてしまうことを、海底に眠る無残な姿が物語っているように感じました。
- 福井放送局
- ディレクター 寺島工人