忙しい人のための要約 (Executive Summary)
量子アニーリングは最適化問題のための汎用解法であり,D-Waveマシンのような量子アニーリング装置の基本動作原理である。1998年の門脇・西森の論文で提案され,量子力学を使わない手法に比べて高速化が見込める明確な数値データが示された。 機械学習などの課題の多くが最適化問題であり,最適化問題を効率よく解くアルゴリズムの開発は社会的に大きなインパクトを持つ。 最適化問題に加えて,データの確率分布を量子アニーリング装置上におけるイジング模型のボルツマン分布で表現して機械学習に応用する研究が立ち上がりつつある。例えばこちら。機械学習を支える次世代ハードの候補として注目を集めつつある。 量子アニーリング装置がカナダのベンチャー企業D-Wave社から発売され,Google, NASA, Lockheed-Martinと南カリフォルニア大学, Los Alamos国立研究所などが購入した。また,Volkswagen, Oakridge国立研究所,リクルートコミュニケーションズなどがクラウドで使用している。Volkswagenによる交通流解析の論文はこちら。 D-Waveマシンが最適化問題を通常のコンピュータより速くあるいは正確に解けるかどうかについて,問題によって様々な結果が出ているが,最近は肯定的な例が多くなっている。最近の論文リスト。 従来より研究されてきた量子回路モデル(ゲート方式)の量子コンピュータのハードウェア開発は量子アニーリングに比べて遅れている。膨大なオーバーヘッドを伴う誤り訂正を必要としない小規模の問題で量子コンピュータの理論的優位性を検証する動きが始まっているが,実用化にはまだ距離がある。たとえばこの論文は20年程度以上かかるとしている。 量子回路モデルの量子コンピュータでは,その高速性能が真に発揮され,かつ社会的に有用なアルゴリズムは限られている。その他の用途では通常のコンピュータを上回る性能は出ない。現時点で現実的に想定できる社会的に有用な使い道は小さな分子のシミュレーションに限られ,理論的には汎用だが実質的には専用機である。なお,インターネットのデータのやりとりの安全性を保証しているRSA暗号を破るには1億量子ビット程度が必要とされており,実現は不可能である。 量子アニーリングを多少拡張すると量子回路モデルと等価になり,また指数関数的に高速化される例も提示されている。これらを念頭に置いたハードウエア開発が始まっている。 アメリカの国家プロジェクトIARPA QEOやGoogleの量子人工知能研究所も高機能の量子アニーリング装置を開発している。
量子アニーリングの概要
量子アニーリング(Quantum annealing)は,量子効果を制御して,多変数1価関数(目的関数)の最小値を探す問題(最適化問題)を解く手法である。 パターン認識,自然言語処理,医療診断,金融その他を始めとする多くの重要な課題が最適化問題として定式化できるため,最適化問題の効率的な解法は社会的に大きなインパクトを持つ。また,データを確率分布で表現して機械学習に応用するサンプリングの研究も始まっている。
量子アニーリングを実行するためには,まず目的関数を2値変数の関数(イジング模型)として表現し,その関数の最小値を求める問題として定式化しなければならない。その目的関数に量子効果を現す項を追加する。最初に量子項の係数を大きく取り,すべての許される解候補を同じ重みで重ね合わせた状態(下の図の左側)を実現する。そして,ゆっくりと量子項の係数を小さくしていく。このプロセスにより,容易に実現できる初期状態から出発して,自然な時間変化を経て,下の図の右側のように最適解を高い確率で実現することを目指す。
横軸は2値変数の組の取るいろいろな値の組(古典状態),縦軸の黒の曲線は目的関数の値,青の線は各配位の存在確率を表す。
左の初期状態から始めて,シュレディンガー方程式に従って自然な時間発展をしたのち,右の最終状態に行き着く。
具体的な定式化
目的関数を2値変数の関数として表す典型例として,2値変数の2次形式(Quadratic Unconstrained Binary Optimization, QUBO)がある。統計力学で言うイジング模型である。イジング模型に横磁場を加えたもの(横磁場イジング模型)は,次の演算子で表現される。
σは2行2列の行列(パウリ行列)である。右辺第1項が通常の古典的イジング模型(最小化するべき目的関数)であり,第2項が量子ゆらぎを引き起こす横磁場項である。この係数Γ(t)を時間t=0で非常に大きい値に設定し,tが増えるとともに0に向けて小さくしていくのである。系全体の状態は,シュレディンガー方程式に従って自然に発展していく。
実際に解きたい問題をイジング模型で表現する過程が,いわばプログラミングに相当すると考えてもよい。組み合わせ最適化問題の変数は離散変数なので,2値変数の組み合わせで表現できることは明らかであるが,複雑な組み合わせが生じないように効率よく表現する問題は埋め込みと呼ばれ,重要な研究分野となっている。
現在広く使われている横磁場イジング模型を用いたこの形での量子アニーリングは,1998年に初めて定式化され,その有効性が示された[1]。この論文をきっかけとして,磁性体における実験的検証や[2],より複雑な系での大規模な数値計算による検証[3]などの研究が開始された。2001年には,有限の時間T ですべての過程を終了するタイプのプロセスが提案された[4]。
論文[4]では,断熱定理に基づいて基底状態をたどる問題として量子アニーリングが再定式化されて計算量の観点から解析が行われ,量子断熱計算(Quantum adiabatic computation)という名前が与えられた。
[1] T. Kadowaki and H. Nishimori, "横磁場イジング模型における量子アニーリング", Phys. Rev. E58 (1998) 5355.
[2] J. Brooke, D. Bitko, T.F. Rosenbaum and G. Aeppli, "ランダムな磁性体の量子アニーリング", Science 284 (1999) 779.
[3] G. E. Santoro, R. Martonak, E. Tosatti, and R. Car, "イジングスピングラスの量子アニーリングの理論", Science 295 (2002) 2427.
[4] E. Farhi, J. Goldstone, S. Gutmann, J. Lapan, A. Lundgren, and D. Preda, "量子断熱変化のNP完全問題のランダムな例への応用", Science 292 (2001) 472.
論文[2,3,4]はいずれも論文[1]を引用しており,論文[1]が現在の量子アニーリング研究の源流をなしている。
また,厳密な最適解だけでなく最適解に近い近似解も含む多数の解を確率的に生成する確率分布の生成法としても有用である。実際の装置では理想的な断熱発展は実現しておらず,非断熱効果や熱雑音などの影響により非最適解も相当な確率で生成される。これを利用して,機械学習におけるボルツマン学習のサンプリングマシンとして有効な証拠が挙がっており[5],研究が活発化している。
[5] S. H. Adachi and M.P. Henderson, "量子アニーリングの深層ニューラルネットワークの学習への応用", arXiv.1510.06356.
強みと弱み
ある種の問題を解くためにアルゴリズムレベルで量子効果を用いる計算方法であるという意味で,量子アニーリングは量子計算の一種である。量子アニーリングが他の方法に比べて優れているかどうかを判断するには,判定基準をはっきりさせる必要がある。
[6] S. Morita and H. Nishimori, "量子アニーリングの数学的基礎", .J. Math. Phys. 49 (2008) 125210.
量子回路モデル(ゲート方式) | 量子アニーリング | |
---|---|---|
目的 | すべての計算(通常のコンピュータの上位互換) | 組み合わせ最適化問題とサンプリング |
強み | 指数関数的な高速化が保証されているアルゴリズムがある。誤り訂正方式が確立している。 | 最適化問題やサンプリングは実社会での応用範囲が極めて広い。ノイズに比較的強い。 |
弱み | ハードがノイズに極めて弱い。 誤り訂正によりノイズの影響を除去できることが保証されているが,通常のコンピュータで解けない問題を解くための実装には数千万以上のきわめて多くの量子ビットを必要とし現実性に欠ける。仮に大規模なハードが出来たとしても,高速化が保証されている数個の問題(素因数分解,量子シミュレーションなど)以外では通常のコンピュータを上回る性能は出ないため,実用的な用途が限定された特殊な装置である。 | 指数関数的な高速化が理論的に保証されている実用的な問題が見つかってない。 解きたい問題が量子アニーリングマシン上で通常のコンピュータに比べて高速に解けるかどうかはやってみないとわからないし,速くない場合も多い。 |
実装状況 | 約20量子ビット(超伝導,イオン,フォトン,量子ドットなど) | 約2000量子ビット(超伝導) |
北米の動向
D-Wave
カナダのD-Wave Systems社が量子アニーリングをハード的に実現する装置を開発し,数台がすでにGoogle, NASA,Lockheed-Martin, Los Alamos National Laboratoryなどのユーザに納入されている。現行機D-Wave 2000Qは2000を超える量子ビットを有している。筐体は3メートル立方の大きな箱であるが,古典計算機のCPU+メモリに当たる中心部は写真の真ん中にある1センチ平方の小さなチップであり,これが15mK程度の超低温に冷却されて超伝導状態で動作している。
D-Waveマシンをめぐる研究動向
D-Waveマシンの動作を検証した結果や最適化問題を解いた例が学術論文として多数発表されている。これらの論文において,量子アニーリングが実際に実現されているとしないと解釈できないデータが報告されている。現時点では,通常の古典計算機で出来ないスケールの計算が出来るようになったわけではない。その原因が精力的に調べられており,実装された量子ビット数の少なさや結合の仕方の制約の他に,ノイズの影響やパラメータ設定の難しさの影響などが検討されている。これらの問題点を解決するために,温度雑音の影響の評価や誤り訂正符号の研究が急速に進展している。また,量子アニーリングが高速性を発揮する問題群の特徴が明らかにされつつある。さらに,最低エネルギー状態(基底状態)を正確に求める最適化問題だけでなく,比較的低いエネルギー状態への分布を推定して機械学習への応用を目指すサンプリングの研究が始まっている。
また,D-Waveマシンの単独運用でなく通常のコンピュータとのハイブリッド使用に向けて技術開発が急速に進んでいる。例えばこの特許やオークリッジ国立研究所の例を見よ。
米国の国家プロジェクト
米国の国家プロジェクトIARPAで高度な量子アニーリング装置の開発事業が開始された。 膨大な予算を投入して,長時間安定な超伝導素子の開発,古典計算機でのシミュレーション不可能な領域(non-stoquastic)への機能拡張,長距離相互作用や多体相互作用のハード的な組み込みよる高効率化などによる超高性能達成の基盤技術確立を目指している。USC(南カリフォルニア大),MIT, Harvard, UC Berkeley, Caltechなどとともに東工大から筆者も参加。
Googleのハードウェア研究
Googleは,Quantum Annealer Ver. 2と称する量子アニーリング装置を制作している。カリフォルニア州のサンタバーバラにあるグーグルの量子人工知能研究所のハードウエア研究所は,世界最初で最大の量子データセンターを目指しているとのことである。通常のコンピュータ上での処理の一部を量子プロセッサーに渡すことにより,全体としての計算効率の向上を図るいわばハイブリッドによる新たな方向性を模索している。
実問題への応用などソフトウェアの展開
D-Wave社および関連ベンチャー企業が実問題に対応する応用ソフトの開発を急速に進めている。現行機上には直接は乗せられない大規模な問題を部分問題に分割してD-Waveマシン上で最適化し,最後に部分問題の解をつなぎ合わせて全体の解を構成する手法を自動化して実行するアプリケーションなども開発しているようである。実問題に対処している一般ユーザがハードの構成やその制約を意識することなく問題の解を得られる環境が整い始めている。
例えば,VolkswagenとD-Wave社の協業による交通流の最適化の論文[17]では,量子および古典コンピュータのハイブリッド計算や,D-Waveマシンに大きな問題を分割して載せるためのインターフェースqsolveの利用など,興味深い応用技術について記述されている。
[17] F. Neukert et al, "Optimizing traffic flow using quantum annealing and classical machine learning", arXiv:1708.01625.
解説や動画
量子アニーリングに関する総合的な解説を列挙しておこう。原論文については,これらの記事の中の参考文献を参照。筆者の論文一覧もご覧下さい。
西森秀稔,大関真之「量子コンピュータが人工知能を加速する」日経PB
西森 秀稔 JST CRDSワークショップでの講演記録 2016.3
西森 秀稔 "最適化問題を解く量子アニーリングとD-Wave" 応用物理学会微小光学研究会予稿
NHK Eテレ サイエンスZERO「量子コンピュータ」 2014年9月28日(日)放送
大関真之・西森 秀稔 "量子アニーリング"日本物理学会誌 66(2011)25
西森 秀稔 "量子アニーリングとD-Wave" 情報処理 (情報処理学会誌) 原稿
西森 秀稔 ”量子アニーリング法とD-Waveマシン” (日本計算工学会誌) 原稿
T. Albash and D. A. Lidar, "Adiabatic Quantum Computing" arXiv:1611:04471
I. Zintchenko, E. Brown and M. Troyer, "Recent developments in quantum annealing" December 7, 2015
A. Das and B. K. Chakrabarti, "量子アニーリングとアナログ量子計算" Rev. Mod. Phys. 80 (2008) 1061
G.E. Santoro and E. Tosatti, "量子力学による最適化:断熱発展による量子アニーリング" J. Phys A 39 (2006) R393
S. Suzuki, J. Inoue, and B. K. Chakrabarti, "横磁場イジング模型における量子イジング相と転移" Springer, 2012
A. Ghosh and S. Mukherjee, "量子アニーリングと計算: 関連文献集" arXiv:1310.1339
中田敦 "驚愕の量子コンピュータ" 日経コンピュータ 2014年4月17日 ITPro
動画
- NHK Eテレ サイエンスZERO「量子コンピュータ」 2014年9月28日(日)放送
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