お詫び・訂正その五十七
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 5月21日(木)16時58分51秒
内弁慶で世の中を知らない最高幹部の皆様へ?ウィキペディアで創価学会がどのように記載されているか、引用しておきます。これを書いているのは学会員ではなく左翼系の(学会ウォッチャー)人物でしょう。
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ウィキペディア フリー百科事典(ja.wikipedia.org/wiki/創価学会)
この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。議論はノートを参照してください。(2012年6月)
昭和52年路線[編集]
1977年(昭和52年)1月の教学部大会において、池田は「創価学会は在家・出家の両方に通じる役割を果たしているから供養を受ける資格がある」、「創価学会の会館や研修所は現代の寺院である」、「信心の血脈は創価学会に受け継がれている」などの発言をする[3]。これに対し、宗門である日蓮正宗側は池田の主張は教義からの逸脱であると批判。翌1978年には、学会が法主日達の許可を得ずに赤沢朝陽に本尊を謹刻させ、入仏開眼法要をしていた[36]事実につき、山崎正友が独自に宗門若手僧侶を扇動し、批判活動を行わせた。
「日達#日達と創価学会の軋轢」も参照
学会幹部が大石寺に登山を行う事で一応は収まったものの、その後も日蓮正宗(宗門)僧侶や檀徒による批判は続いた。1979年(昭和54年)7月22日に管長細井日達が遷化(死去)。日達は生前、後継者を指名していなかった。67世法主として阿部日顕が登座すると学会を含めた日蓮正宗内は混乱に陥る。日顕、さらには学会に批判的な僧侶が「正信会」を結成、山崎も学会を退会して正信会に参加した。これに対し日顕は学会に友好的に接し、学会も日達から日顕に血脈相承が行われたと指導、池田も宗門を擁護する立場を取った。その結果宗務院は正信会僧侶の大量処分に踏み切り、ついには批判派僧侶のほとんどが日蓮正宗から追放された。後に池田や学会は日顕が受けたのはあくまでも内証(内定)であって、正式な儀式は行われておらず、後継指名は成り立たないと解釈を変更している。
詳細は「正信会#結成とその後」および「日顕#正信会破門」を参照
「血脈相承_(日蓮正宗)#日蓮正宗教団での位置付け」も参照
1950年代[編集]
1951年(昭和26年)
4月20日 - 機関紙『聖教新聞』創刊。[11]
5月3日 - 戸田が「創価学会」会長に就任。小泉隆が理事長に就任。戸田は就任演説において、7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げる。[12]。この発言をきっかけに「折伏大行進」が始まり会員が激増した。一方、強引な布教に対する社会的な批判が起こる。
詳細は「戸田城聖」および「折伏大行進#歴史」を参照
7月 - 男子部・女子部など現在のスタイルに近いものを結成[9]。
11月 - 『折伏教典』を発刊[9]。
12月 - 戸田が宗務院の命により登山し、「宗教法人創価学会」設立に際して3ヶ条遵守を約束。詳細は「#日蓮正宗との関係」を参照
1952年(昭和27年)
4月 - 「狸祭り事件」[3]。
8月27日 - 東京都知事より宗教法人の認証を得て9月8日「宗教法人創価学会」が正式に発足する。
11月 - 『新編日蓮大聖人御書全集』、『御書十大部講義』を発刊[9]。
12月 - 「水滸会」を発足[13]。教学部の任用試験を開始[3]。
1953年(昭和28年)
1月 - 東京都新宿区信濃町に本部が完成[13]。
11月 - 本部を東京都新宿区信濃町に移転[3]。
1954年(昭和29年)
3月 -参謀室設置
10月 - 大石寺で青年部が出陣式[3]。
11月 - 文化部設置
12月 - 渉外部設置
1955年(昭和30年)
3月 - 北海道小樽市において、日蓮宗と創価学会との法論が行なわれ「身延派」と呼ぶ日蓮宗を邪教と批判し、日蓮正宗の正当性を主張。「#小樽問答」も参照
4月 - 政界進出を目指し、第3回統一地方選挙に文化部員を出馬[12]。当時はまだ政党組織がなかったため、無所属で創価学会が推薦するという形を取った。
1956年(昭和31年)
1月 - 戸田が宗門64世法主水谷日昇の隠退表明を拝して「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとえ大幹部といえども即座に除名する」との談話を発表。[14]。同日の寸鉄では「(創価学会は日蓮正宗の)法主を宗祖大聖人としておつかえ申上げる、どなたが法主様でも一貫不変、これ信者の大精神。」と評した[15]。「日昇#略歴」も参照
8月 - 戸田が妙霑寺落慶入仏式に出席。この席で日淳に対し、戸田は「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするようなことがあったら、いつでも解散をお命じ下さい」と将来の破門や講中解散も甘んじて受けるという発言をする。「除名#宗門の除名」も参照
1957年(昭和32年)
7月 - 参議院大阪府選挙区補欠選挙で池田やその部下たちが選挙違反事件を起こす。部下の供述から小泉理事長、池田ら合わせて47人が逮捕される。詳細は「大阪事件_(創価学会)」を参照
9月 - 横浜市・三ツ沢グラウンドで戸田が「原水爆禁止宣言」を発表。
12月 - 戸田が本部幹部会で「学会永遠の三指針」を発表。
1958年(昭和33年)
3月 - 日蓮正宗の総本山大石寺の大講堂が完成。学会では「大講堂落慶記念総登山」と呼んだ。延べ20万人余の会員が参加。詳細は「戸田城聖#大講堂と突然の死」を参照
また同月、「広宣流布の模擬試験」を大石寺大講堂で行い青年部員6,000人が参加、[16]戸田が広宣流布の一切の後事を青年部全体に託した[17]。「大講堂 (大石寺)#概要」も参照
4月1日 - 戸田が体調を崩し駿河台日本大学病院に緊急入院。[18]
4月2日 - 戸田が死去。学会では死因を「急性心衰弱」と発表。
小泉理事長が会長職務代行に就く。
4月8日 - 戸田の告別式を東京・池袋の常在寺で営む。12万人が参列と発表。
4月20日 - 戸田の学会葬を東京・青山葬儀所で開催。25万人が参列と発表。[19]。
6月 - 池田が「総務」のポストを新設し、自ら就任。
1959年(昭和34年)
6月 - 池田が青年部参謀室長を辞任し、総務職に専念。
11月15日 - 日淳が後継者として細井日達を指名。
11月17日 - 日淳が遷化(死去)(61歳没)。直ちに日達が66世法主として登座。
1960年代[編集]
1960年(昭和35年)
5月3日 - 戸田の没後2年(三回忌)を経て、池田大作が戸田の遺言という嘘を持ち出し数の力を以て会長に就任。理事長に原島が就任。戸田の七回忌までに300万世帯の信徒獲得、大石寺への大客殿の寄進、邪教撲滅を目標に掲げる。
「池田大作#会長就任以降」も参照
6月 - 理事の石田次男を支持する創価教育学会時代からの幹部が池田に反旗を翻し、創価学会内に分派、顕徳会を結成。男子部幹部約200人が顕徳会に賛同、また池田会長就任に反対する学会員15万世帯が創価学会を脱会する[20]詳細は「池石戦争」を参照
7月 - 創価学会海外本部を設置[21]。
1961年(昭和36年)
11月 - 第10回男子部総会を開催。学会では「不滅の精鋭十万結集」と呼ばれている[22]。また: 同月第9回女子部総会を開催[23]
11月27日 - 「公明政治連盟」(後の公明党)を発足。
大石寺大客殿の寄進の額が32億円余に達する[13]。
1962年(昭和37年)
1月25日 - 大阪事件で逮捕されていた小泉と池田が無罪判決を受ける。
1963年(昭和38年)
10月 - 「民主音楽協会」を設立。
12月 - 「学生部」に「法学研究会」が作られる
1964年(昭和39年)
5月3日 - 池田が政党の創設と衆議院への進出を表明[13]。
6月30日 - 第7回学生部総会にて、池田が「創価大学設立構想」を発表[24]。
11月17日 - 「公明政治連盟」を改組して政党、「公明党」を結成。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。
1965年(昭和40年)
1月 - 池田が「法悟空」(ほうごくう)のペンネームで『聖教新聞』紙上で小説『人間革命』の連載を始める。
7月 - 『聖教新聞』が日刊化。
10月9日?12日 - 正本堂建立のため4日間の供養が行われ355億円が集まる。詳細は「正本堂 (大石寺)#概要」参照
1968年(昭和43年)
4月1日 -「創価学園」設立。詳細は「学校法人創価学園」を参照
7月 - 参議院選挙で学会員が有権者本人になりすまし投票を行ったとして14人が逮捕される[25]。詳細は「新宿替え玉事件」を参照
1969年(昭和44年)
12月2日 - 日本共産党機関紙『しんぶん赤旗』が藤原弘達の『創価学会を斬る』の出版を創価学会・公明党が妨害したと報じる。以降、マスメディアや国会で取り上げられ、社会問題となる。詳細は「言論出版妨害事件」を参照
1970年代[編集]
1970年(昭和45年)
1月 - 総務会の決定で副会長職を設置。秋谷、北条、森田の3人が就任[13]。同時に公明党中央執行委員長、書記長が学会職務を離れることも決定。
5月3日 - 池田が「言論出版妨害事件」について、公式に謝罪。創価学会と公明党を組織的に分離することなど組織改革を表明し即日実行。詳細は「言論出版妨害事件#池田会長の公式謝罪」および「公明党#創価学会との関係、政教分離問題」を参照
6月 - 第8回公明党大会で、党綱領から「王仏冥合」、「仏法民主主義」などの仏教用語を削減することを決定[13]。一部の過激な信者が日本共産党委員長宮本顕治の自宅の電話に盗聴器を仕掛ける。詳細は「宮本顕治宅盗聴事件」を参照
1971年(昭和46年)
4月2日 - 「創価大学」開学(学部・学科の沿革は創価大学を参照)。
1972年(昭和47年)
10月12日 - 日蓮正宗の総本山、大石寺に正本堂が完成。
詳細は「正本堂 (大石寺)#沿革」を参照
1973年(昭和48年)
5月3日 - 静岡県富士宮市・大石寺境内地に富士美術館が開館。
1974年(昭和49年)
10月 - 妙信講男子部が創価文化会館を襲撃し、牙城会メンバーと乱闘騒ぎを起こす。
詳細は「和泉覚#妙信講学会本部襲撃事件」を参照
12月 - 日本共産党との間で、向こう10年間の「相互不干渉」、「共存」をうたった「創共協定」を締結[26]。詳細は「日本共産党と創価学会との合意についての協定」を参照
1975年(昭和50年)
1月 - グアム島において、創価学会の世界的組織、「創価学会インタナショナル」(SGI)が設立される。池田が会長に就任。
1976年(昭和51年)
月刊誌『月刊ペン』(1976年3月号・4月号)に中傷記事を掲載した同紙編集長隈部大蔵を名誉毀損罪容疑で刑事告訴。詳細は「月刊ペン事件」を参照
1977年(昭和52年)
1月 - 池田が第9回教学部大会における「仏教史観を語る」と題する講演で「出家も在家も同格」と発言詳細は「#昭和52年路線」を参照
5月 - 民社党中央執行委員長春日一幸から公明党中央執行委員長竹入義勝宛に国会で池田の豪華専用施設等について調査し、質問する旨を知らせる手紙が届く[13]。
7月 - 池田が大石寺の参詣を一時禁止する。[27]
1978年(昭和53年)
6月 - 『聖教新聞』紙上で「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを表明。
11月 - 創立48周年記念登山代表幹部会に幹部、全国の教師2,000人らが大石寺に出向く。創価学会が許可なしに模刻して会員に拝ませていた、いわゆる「本尊模刻問題」について創価学会側が全面的に責を負うかたちで謝罪。辻が「総本山大石寺こそ信仰の根本道場である。戒壇の大御本尊を離れて我々の信仰はない。不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げた」と述べ御本尊模刻事件を認め、続けて池田が「総講頭の立場にある身としてこの席で深くお詫び致します」 と謝罪。事態の解決を図った 。[28]。
1979年(昭和54年)
4月24日 - 池田が会長職を辞任し、名誉会長に就任。北条が第4代会長に就任。理事長には森田が就いた。会長の任期を終身から5年に変更「#名誉会長と歴代会長」も参照
4月26日 - 池田が法華講総講頭を辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束する。日達は池田を法華講名誉総講頭に任ずる。
5月3日 - 日達が創価学会第40回本部総会において問題の収束を宣言。ここに一連の宗門問題が終結する。「日達#日達と創価学会の軋轢」も参照
7月22日 - 日達が遷化(死去)(77歳没)。
8月6日 - 阿部日顕が宗門第67世法主に登座し、御座替りの儀式、及び御盃の儀を行う。池田も学会幹部とともに参列し「今後私共は、益々御法主日顕上人猊下に御奉公の赤誠を尽くすことを、固く固くお誓い申し上げます」と祝辞を述べる[29]。
1980年代[編集]
1980年(昭和55年)
4月 - 池田が宗門における血脈相承の正統性を主張。
詳細は「血脈相承_(日蓮正宗)#法華系新興宗教の解釈」を参照
10月 - 静岡県富士宮市に「富士桜自然墓地公園」が完成[26]。
1981年(昭和56年)
7月 - 北条が死去。副会長だった秋谷が第5代会長に就任。以後2006年に辞任するまで秋谷は6選を果たす。
7月 - 沖縄県那覇市市議会選挙で浦添市民の学会員11名が選挙前になると本部の指示で住民票の異動を繰り返し、選挙がおこなわれる那覇市に一度も居住しておらず、選挙人名簿から11名が削除される事件を起こす[30]。
12月 - 池田大作が会長職を辞任した際、北条をはじめとする幹部達に創価学会の財産は池田家の所有であるという誓約書に署名させていたことを自由民主党が入手。池田への参考人招致を行わないことを条件に公明党が 「日米安保存続」と「自衛隊の条件付合憲」に政策を転換する[31][32]
1982年(昭和57年)
11月 - 池田が学会員に対し、日達から日顕に対して血脈相承がなされた旨の指導を行う。しかし、この指導の趣旨は後に覆されることになる。
「日達#略歴」および「日顕#略歴」も参照
1983年(昭和58年)
1月 - 『創価新報』創刊。
4月 - 池田が宗門における血脈相承の意義を「宗祖日蓮大聖人の御内証を二祖日興上人を経て、代々の御法主上人猊下に法水写瓶して末法万年の未来へ誤りなく伝承する金口着々・唯授一人の血脈相承。これこそ、戒壇の大御本尊とともに、日蓮正宗の教義、信仰の根本中の根本であり、命脈中の命脈である。このことは、日蓮正宗の信徒であるならば、誰でも知っていることである」と再度指導し、徹底させる[33]。
1984年(昭和59年)
1月2日 - 池田が「法華講総講頭」に再任。
1985年(昭和60年)
4月2日 - 「創価女子短期大学」開学。詳細は「創価女子短期大学」を参照
1990年代[編集]
1990年(平成2年)
11月16日 - 本部幹部会で池田が宗門、および日顕を批判する発言を行う。
詳細は「#対立が高じ破門となる」および「日顕#創価学会破門」を参照
12月16日 - 宗門が前月の池田の発言内容について文書で質問[13]。
12月27日 - 宗門は法華講総講頭に任期制を導入。これにより1990年末の任期終了と共に池田は法華講総講頭の資格を自動的に失う。
1991年(平成3年)
1月 - 『聖教新聞』紙上で宗門批判を開始。
3月 - ルノワール絵画をめぐる三菱商事の架空取引事件に、創価学会および富士美術館が関与していることが判明、国税庁から事情聴取を受ける。
5月 - 国税局より墓苑事業に関する査察を受け、修正申告を行う
7月 - バブル崩壊のあおりを受け野村証券から4億5千万円もの損失補てんを受けていたことが判明しマスコミから信者の財務を流用したのではと取りざたされる
11月 - 宗門から解散勧告を受ける[13]。学会はこれに対し日顕の退座を要求する文書を郵送して反論[13]。
11月28日 - 宗門から破門される[13]。
1992年(平成4年)
7月 - 全国の地区幹部の中から「友人葬」などの冠婚葬祭を執り行う導師を任命[13]。
8月 - 池田が日蓮正宗から信徒除名処分にされる。「除名#宗門の除名」も参照
11月 - 『創価新報』が偽造した宴席写真を掲載し日顕を批判。その後日蓮正宗との間で裁判に発展し、学会が敗訴する。詳細は「偽造写真事件#経緯」を参照
1993年(平成5年)
10月 - 栃木県・淨圓寺所蔵の日寛書写(享保五年)の曼荼羅御本尊を御形木御本尊として、世界の会員に授与することを制定。
11月18日 - 池田が聖教新聞に連載していた小説『人間革命』が完結。『新・人間革命』の連載開始。
12月18日 - オウム真理教が池田殺害を計画。創価大学キャンパス内でサリンを噴霧し牙城会員数人が被災。この後、本部、全国各地の会館、創価大学、創価学園などの警備が厳重になる。
詳細は「池田大作サリン襲撃未遂事件」を参照「新実智光#オウム真理教での略歴」も参照
1994年(平成6年)
5月 - 公明党及び創価学会に批判的な宗教団体や有識者が四月会正式名称「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」を結成。自民党河野洋平・社会党村山富市・新党さきがけ武村正義も出席し歩調を合わせた。
7月 - 北海道で交通死亡事故相手が発生。創価学会員と日蓮正宗僧侶が加害者と被害者だったことから様々な憶測を呼び、週刊誌の記事をもとに自民党議員が国会で追及。政局にまで利用された。詳細は「日蓮正宗住職交通事故死事件」を参照
1995年(平成7年)
9月 - 東村山市議の転落死に対し創価学会を市議が追及していたことや警察が十分な捜査なしで自殺と断定したことから創価学会による謀殺説を主張する者があらわれる。また、事件担当検事や初動捜査を指揮した警察署長・副所長ら幹部が創価学会員だったことが判明すると自民党が国会で警察署の捜査体制を厳しく追及するなど政局にも利用、現職警察官の捜査に対する内部告発や転落死関連の訴訟も数多く行われた。
詳細は「朝木明代市議転落死事件」を参照
11月23日 - 第93回本部幹部会で「SGI憲章の制定」を発表。
1996年(平成8年)
2月 - 「戸田記念国際平和研究所」を創設[13]。
6月 - 元女性会員が池田から過去数回にわたりレイプされたと告発し、裁判を起こす。
詳細は「池田大作レイプ訴訟」を参照
9月 - 宗教法人法の改正が施行され、所轄庁が東京都から文部省に変わる。
1997年(平成9年)
1月 - 公式ウェブサイト「SOKAnet」を開設。
2000年代[編集]
2002年(平成14年)
4月 - 会則を変更し、初代牧口、第2代戸田、第3代池田の「三代会長」を、「永遠の指導者」とする規定を入れる。
4月 - 創価大学剣道部監督だった男性が配下の携帯電話会社社員に指示し、付き合っていた女性やその周辺の通話記録を盗み出す。9月になって、関係者3名が警視庁に逮捕される。詳細は「携帯電話通話記録窃盗事件」を参照
2003年(平成15年)
9月 - 教学部員の任用試験が全国一斉に始まる[3]。
11月 - 創価学会幹部数人が池田大作の秘書を名乗り巨額の詐欺事件を起こし逮捕された。
詳細は「創価学会巨額融資詐欺事件」を参照
12月 - 国際本部・第二総東京代表協議会で池田がスピーチし、永遠の三指針に新たに2項目を追加。「学会永遠の五指針」とする。
2004年(平成16年)
2月 - 東京、神奈川、大阪など10の都府県において一部男子部員が暴走、日顕及び、妙観講を中傷する違法なビラを掲載、配布。後に裁判で学会の組織的関与が認定され学会が敗訴、損害賠償も命じられた。
詳細は「創価学会違法ビラ事件」を参照
9月 - 聖教新聞紙上で「創価学会の勤行と御祈念文の制定」を発表。それまで五座三座の長行だった日々の勤行が
大幅に簡略化される。「勤行_(日蓮正宗)#創価学会の勤行」も参照
2006年(平成18年)
11月 - 秋谷が会長を辞任し最高指導会議議長に。会長には原田稔が就任。同月、原田の会長就任披露を兼ねた、
新時代第1回本部幹部会開催。幹部会の回数がリセットされ「学会新時代」の開始が宣言される
2007年(平成19年)
9月22日 - 「広布第二幕」第1回青年部幹部会。以後、各部幹部会会合の回数がすべてリセットされる。
2008年(平成20年)
5月 - 富士美術館閉館。収蔵品は東京富士美術館に移動。
2010年代[編集]
2010年(平成22年)
11月18日 - 設立80周年。老朽化した創価文化会館を建て替え「創価学会総本部会館」を建設すると発表[34]。
2013年11月の完成を目指す。
12月17日 - 信者が東日本旅客鉄道(JR東日本)・関東鉄道取手駅の西口ロータリーに停車中の、関東鉄道の路線バスに乗り込み、乗客を次々に殴打・刺傷[35]。詳細は「取手駅通り魔事件」を参照
2013年(平成25年)
11月 - 創価学会が新たな行動指針を発表。SOKAグローバルアクション と名付けられた行動計画は、「世界平和の実現」をするのが目的である。また、この時から「本部幹部会」の名称が「世界広布新時代 本部幹部会」に変わる。
2014年(平成26年)
1月? - 「世界広布新時代」を祝って、各地で「創価青年大会」が開催される。
9月? - 「世界広布新時代」の開幕により、「新時代全国男子部幹部会」を9月に四国で開催され、10月には関西で開催された。
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なかなか細やかにまとめているようで、いい加減なところや、嫉意が垣間見られますね。
ネトリス室で、無駄飯食っている暇があったら、しっかりウィッキに訂正書き込みしてください。
それが本来の「ネットリスク対策」でしょう。
昭和54年問題再考002補足 ?
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 5月21日(木)17時17分21秒
昭和54年問題の前に昭和52年路線ありき?と言うよりも、年表見る限り、変化・変化の連続で付いてこれなかった坊主やら戸田門下が脱落してきたという感じなんです。先般の人革3巻新生の部分を読まれた方は理解出来たと思いますが、アルベヤ様流に言えば善も悪も同時存在、同時進行で総体革命をやってきた。ところが今になってブレーキをかけて「我こそが弟子でヴァンザァ~イ」と踊る結果となっています(笑)。ちなみに私はプロファイリングされる前(方面で査問される前)からバレバレで、県・区幹部は「あいつはマークされている」・「あいつは標的にされている」から「人間的関わりを持つな」と指示しているBDが多く居ることを知っています。誰と誰が弓T谷絡みで動いていたかも押さえています。要するに既に私は「除名」みたいなもので、彼らが卑下する「末端」で末端学会員と仲良く除名されても信心活動していく決意です、心配無用です(笑)。
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ウィキペディア フリー百科事典(ja.wikipedia.org/wiki/創価学会)?
何だ、それは!
創価学会とは無関係です。捨て置くべきで、そんなものに関わることが汚らわしいことです。無視しましょう。全く関係有りません。
インターネット、ネットは『天魔の所為』ですよ。だから「ウィキペディア フリー百科事典」なんか読んではいけませんよ。SOKAネットだけ見ていれば良いのです、会則バンバン改定しているので、あまり閲覧されるのも困りますが・・・
そうか、SEIKYOオンライン申込拡販やら電子版図書推進があるので、SOKAとSEIKYOのみお気に入りに登録して下さい。パソコンからの閲覧は認めてあげますよ。STBの更新もありますからね。
それのみ閲覧することは許しますよ。それ以外は「天魔の所為」ですから見ないようにお願いする、いや、命令します。
他を見たり、DB青がおっしゃっていた通り、この極悪の宿坊の掲示板を覗いてみたり(ネットリスク対策室の極善弟子は別)、そんなことしたらダメだってことを、少し頭からカマシてやればいいんだ!そんな者に対しては!反板の極善会員のように、返事は何でもハイ!って言って墓もSTBも折伏ですから沢山買い込んでいくことが極善活動ですよ。
最近、ガラケーが少なくなりましたが、極善会員は、ガラケー基本です。
スマホとかタブレットなんか持ち歩いてはいけませんよ。今後は学会員所持禁止令が出るかもしれません。
あくまでも、電話連絡出来るツールとして携帯電話をばお持ちくださいね、余計な機能付きは邪魔です。
この「昭和54年問題再考002」並びに「補足」は、誠実にして真面目な大極善会員(大幹部)を小馬鹿にした悪しき投稿です。だから、会則の
????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????
に主観的に該当する投稿であり、村八分・査問・除名にぃ該当します。
全て大極善幹部様方々を守る為に、会員資格停止(供養だけはOK?)、発言も活動も停止!会館デキンの処置をされます。
反逆者!裏切者!極悪!大極悪人です。
私が極悪人です。誠に(×12)お詫び致します。
二度(×10)と欠点を挙げつらうことは致しません。極善弟子になるために、二度(×10)とこのような投稿は致しません。だから許して下さいね。何度も丁寧に謝ってます。
だから、私は何度(×12)も、お詫び・訂正・謝罪・改心を、大極善会員の皆様のように『裏』ではやらずに、この宿坊の掲示板で『公』に謝罪しますね。これが一般社会通念です。
会則における全権統理する会長が『黒は白だ、偉いんです!』と次々に認定発言されれば、我々末端の会員は、それに付き従い『その通り、黒は白です!』と次々に口裏合わせするのが当たり前です。
それが極善弟子になり、改心した証ともなり、処分も解雇もクリアーできる営為です。
極善弟子、極善会員に間違いなど無い!間違いを糾す者が間違ってる!と言うことを私は繰り返して、頭悪いんで、また繰り返すかもしれません。この繰り返しが極善会員への改心活動です。
その都度、何度も訂正して、『間違いが間違っているから、間違いなんだ?いや、会長が認定している!池田先生も認定しているはずだ!だから、これで良いのだ!』と三段論法的に謝罪・訂正・お詫びをば今後共にしていきたいと存じます。ちゃんと監視している大極善弟子の極善会員の皆さまは記録して下さいよ。
今更、改心しても手遅れですが、頭悪いんでこれからもどしどし誠実にして真面目な極善会員になれるよう、改心した極善会員の証を投稿したいと存じます。
もっと早く大極善会員さま方(特に高位の本部職員)のように用意周到に、情報源を叩き潰してコッソリ改心していれば良かったと草葉の陰で反省しています。
処分の撤回は二度と無く、今生では査問やら対話も全く有りませんが、今後も謝罪・訂正をば続けていきますよ。
お元気ですよ、ありがとうございました。
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