トップ企画コラム連載・特集    

  トップ > 連載・特集 > なにわ人物伝
 






一休画像
 
なにわ人物伝 -光彩を放つ-


一休 宗純(6) ―いっきゅう そうじゅん―  

「わしの禅は理解できまい」  
2007/08/04

三善 貞司

 文明二(一四七〇)年雲門庵(うんもんあん、現大阪市住吉区二丁目)に入った七十六歳の一休は、盲目の女性森女(しんじょ)と同居する。二人の生活ぶりは一休の代表作『狂雲集』に書かれているが、仰天するほどの性愛描写もあり、偽悪ぶる一休の誇張だとしてまゆにツバをつける人も多い。

 中には森女は架空の人物で創作にすぎぬとの説もあるが、正木美術館(大阪府忠岡町)に「一休自賛 一休及森侍者(森女のこと)像」が現存。画面の中央に円相を描き中に一休半身像、下に小鼓を置いた森女の坐像を描いたもので、一休自筆の七言絶句の賛があり、「玉垣居士に贈る」と記されている。玉垣居士とは、一休がかわいがった大徳寺真珠庵の五十歳も年下の僧紹越のことだ。『狂雲集』にもこの画幅は出ており、文明三年極寒の日に紹越に贈ると書かれ、森女の実在は間違いない。

 同六年、一休は大徳寺の住職になるが森女も同行し、寺外にあって身の回りの世話を焼いた。同十三年、一休が酬恩庵(京都府京田辺市)で入寂した後も、同庵のそばに「侍者庵」という小屋を構えて住み、終生墓を守っている。一休の三十三回忌に森女が香資百文を寄せたとの記録もある。

 大徳寺四十七世住職になったのは第百三代後土御門天皇の勅請のためで、八十一歳だった。しかし、寺内にはほとんどおらず酬恩庵に住み、大事な法要のときのみかごに乗って通っている。それでも一休を慕う信者は多く、勝手に大徳寺の改修も始めた。堺の豪商尾和宗臨や淡路屋寿源らは巨費を喜捨、連歌師宗長まで秘蔵の源氏物語を売却した資金で、山門建立に協力する。

 余談だが一休の画像を見ると実にむさ苦しい風ぼうをしているが、あれは中国の臨済宗の僧楊岐(ようぎ)をまねたものといわれる。楊岐は禅僧でありながら頭髪を伸ばし、無精ひげもそらず、つぎだらけの破れ衣を着て平気で法会(ほうえ)に出た。一休は楊岐を尊敬し、今も大徳寺境内に残り一休遺構と伝える「真珠庵」の名は、楊岐の偈(げ=韻文の形で教理を述べたもの)に「(自分の庵は)屋壁疎(まばら)なり 満床尽(ことごと)く敷く雪の真珠」とある部分から採ったものだ。

 文明十三年七月、大徳寺の山門が落成する。うれしいくせに要らぬ世話をしやがって…と参列した一休は再び立てず、同年十一月二十一日、八十八歳で大往生する。持病のおこり(マラリアのこと)が悪化したからだという。辞世にあたる偈は、「誰か我が禅を会(え)す 虚堂来るも半銭に価せず」であった。わしの禅は誰にも理解できまい。たとえ師匠の虚堂が来ても半分も無理じゃとの内容で、確かにその通り。筆者などはただただ頭を抱えるばかりだ。

 一休は住吉大社参詣のおり、今の住吉区墨江二丁目あたりに「床菜(しょうさい)庵」という小庵を設けて、仮寓したことがある。大社で参籠していた老僧が一休に「歌をお詠みになられるか」と尋ねたので、「来てみればここも火宅の宿(煩悩の多い世のこと)ならむなに住よしと人のいふらむ」と一首皮肉ると、老僧は笑いながら、「来てみればここも火宅の宿なれど心をとめて住めば住みよし」と返したので感心し、それならば住んでみるかと庵を築いたとの話が古書に出る。一休が書いたと伝える「床菜庵法度(はっと=おきて)」も残るから紹介しておく。

 一、年忌並勤行等之事可勤之

 一、坊主之事為衆中五ケ年間揀(かん=より分けること)器用可任也

 一、多香軒封彊竹木之事守護者也

 文明十一年八月二十四日        一休 日付は一休の死ぬ二年前である。

 歴史に残る奇僧一休宗純がとんちの一休さんに生まれ変わった先駆けは、寛文八(一六六八)年ごろ京で刊行された『一休咄(ばなし)』である。筆者は不明だが、大徳寺の小僧から寺に伝わる一休の逸話を聞き、面白くてたまらず毎日通って書きとめたのがこれだと序文に出る。

 「有力な壇家の旦那(だんな)が革袴(はかま)をはいて寺にやってきた。小坊主一休は殺生戒のある寺には入れませぬと妨げる。旦那がばか申せ、太鼓は革ではないかとただすと、一休はすかさずそれで毎日バチを当てていますと答えた」

 とこんな調子でつづられ評判になった。たちまち『一休諸国物語』『一休関東咄』『杉楊枝』『続一休咄』『二休咄』などの類似作品が刊行され、絵入り本にもなって広まり、現在も知恵のアイドルと化して人気は高い。(地域史研究者)


  トップ > 連載・特集 > なにわ人物伝
本ページ内に掲載の記事・写真など一切の無断転載を禁じます。
すべての記事・写真の著作権は(株)ザ・プレス大阪に帰属します。