「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」 詩篇127篇1節
① 日本基督教会鎮西中会所属伝道所時代(1933-1943)
1933年(昭和8年)5月 福岡市に入院中の日野夫人が日本基督教会福岡教会の川崎義敏牧師より受洗。同姉の家庭(中津市豊後町西ノ辻 日野辰治氏宅)にて鎮西中会による中津伝道が開始された。
1934年(昭和9年)5月27日 日本基督教会鎮西中会所属伝道所として、日野氏宅にて鎮西中会議長藤田治芽牧師の司式のもと開設式が行なわれる。兼任牧師には小倉教会の山田益師。
1937年(昭和12年) 日本基督教会満州中会鉄嶺伝道所の開設に尽力した末廣栄二氏の未亡人末廣アサ姉が中津へ引き揚げてこられ、下正路二番地に新居を構え、そこを礼拝の場として提供される。以後中津伝道所の礼拝は同所にて守られるようになる。
1939年(昭和14年) 豊後高田教会に雨宮道雄牧師が着任されると、山田牧師に代わって中津伝道所を兼牧されることとなる。
1941年(昭和16年) 第二次世界大戦激化の中、プロテスタント教会各派は合同決議へと導かれ、中津伝道所は日本基督教団扇城伝道所として新しい教団の一つとなる。
1943年(昭和18年) 雨宮牧師が兼牧されていた豊後高田教会、宇佐教会、扇城伝道所の三教会は合同の決議をし豊後高田教会として、中津は同教会の集会所となる。同年の扇城集会所会員8名、年間集回数は21回、出席者平均は4名。
② 日本基督教団豊後高田教会扇城集会所時代(1944-1959)
1944年(昭和19年) 末廣アサ姉の家庭に末廣直文、スヱ子夫妻が養子として迎えられ、末廣家の信仰の継承者として、またその後の教会の歩みの上に大きな事柄となる。
1945年(昭和20年) 敗戦。雨宮牧師による伝道は、国東半島から宇佐平野、中津にいたるまで十数か所の集会地をもち、自転車に乗って精力的に伝道された。この時期、豊後高田教会の教会員は99名。
1953年(昭和28年) 雨宮道雄牧師は山口県の萩教会に転出され、かわって長男の恵牧師が伝道を継承されることとなる。
1958年(昭和33年) 雨宮恵牧師は奄美大島の名瀬市の開拓伝道を神の召命と信じ転出され、かわって土浜達司牧師が豊後高田教会へ着任される。
1959年(昭和34年)4月20日 扇城集会所は九州教区常置委員別府教会牧師、東島鷹次牧師の司式により、日本基督教団中津扇城伝道所として開設式を末廣直文氏宅にて執り行う。
③ 日本基督教団中津扇城伝道所時代(1959-1963)
土浜牧師は、雨宮両牧師時代からの広範な伝道地の巡回を続けられ、中津扇城伝道所も、伝道所として再出発をなし、教会員の自給独立への祈りと願いが強く起こされた。しかし、十数か所の出張伝道地のある豊後高田教会から多忙な土浜牧師を毎週迎えるわけにもいかず、礼拝は隔週おきに日曜夜2回という従来通りの伝道を続けざるをえなかった。また、家庭を礼拝の場として提供し、自らも教会会計として、何かと責任を負われていた末廣直文兄が昭和36年ガンのために召天するという伝道所にとっては打撃的と思われる悲しいこともあったが、会員は尚一層ひとつにして独立教会へのビジョンに邁進した。
④ 中津扇城教会時代(1963-2011)
1963年(昭和38年) 豊後高田教会より献身した柴田勝正牧師が、中津扇城伝道所主任担任として迎えられ、初めて専任教師のいる伝道所となる。毎日曜日の礼拝が午前に行われるようになり、祈祷会や教会学校が行なわれるようになる。この年の現住倍餐会員が年度末の統計では16名、礼拝出席平均が9名となっている。
1964年(昭和39年) 現住倍餐会員が23名、出席が15名となったので第二種教会の設立が認められ、同年11月8日、教区常置委員熊本坪井教会牧師田中従夫師を迎えて教会設立式を行う。
1965年(昭和40年)7月 現在地に約100坪の土地を購入し、約38坪の会堂兼牧師館を献堂。長い間教会員は末廣姉宅(市内下正路)にて集会を続けてきたが、28年を経て会堂をもつこととなる。11月25日献堂式並びに柴田牧師正教師就任式。礼拝出席も長い祈りの末ようやく20名を越えるようになる。
1967年(昭和42年) 11月30日に献堂2周年記念特別礼拝として、日本基督教団信徒会長、前衆議院議員、日本最大級の社会福祉法人聖隷福祉事業団の礎を築いた長谷川保先生を迎え、教会員一同大きな励ましを受け幻をもって祈ることを教えられる。
1968年(昭和43年) 9月13日、キリスト伝道会より原登牧師を迎えての特別伝道集会、同年12月1日の献堂3周年記念礼拝では、日本基督教団八幡前田教会(基督伝道隊)の榎本利三郎牧師をお迎えする。
1969年(昭和44年) 4月11日~13日の3日間にわたり特別伝道集会として、日本バプテスト連盟佐賀バプテスト教会、パン屑牧師こと加来国生先生をお迎えし、連日多くの参加者と共に、賀来先生を通して豊かな霊の祝福に満ちた時をもつこととなった。
1970年(昭和45年) 伝道所開設10年を経、教会は柴田牧師を聖地イスラエル及びヨーロッパの研修旅行(20日間)へ送り出す。
またこの年の5月7日、柴田牧師が前年より関わってきた日米戦没者慰霊碑除幕式を市内八面山にて執り行う。参加者にはアメリカ側からオウニー空軍司令官、サットン福岡首席領事、ベングソン福岡文化センター館長、他将校50名、日本側は木下大分県知事、県会議長、八並中津市長その他近隣町村長、B29に壮烈な体当たりをした故村田軍曹遺族等市内外から400名以上。
※拡大可
5月31日、門司大里教会の山本繁夫牧師、10月14日にはキリスト伝道会の益田泉先生を迎えての特別伝道礼拝を行なう。
1971年(昭和46年) 3月27日~28日の二日間、若戸大橋の建設、元若松市長、北九州5市合併のため尽力され、合併後市長事務取扱いをしていた元衆議院議員、若松バプテスト教会牧師の吉田敬太郎先生を迎えて特別伝道集会、10月17日には同志社の神学部卒業後、オベリン大学、アズベリー神学校を経、札幌市の月寒教会の定家都志男牧師を迎えて特別伝道礼拝と交わりをもち、祈りについて深く学ぶことができた。以後先生には何度となく来ていただきさらなる深い学びをもたせていただくこととなる。
また5月には八面山において柴田牧師司式のもと平和の塔除幕式も行なわれた。
1972年(昭和47年) 市内相原の地に教会納骨堂建設のため30坪の土地を購入。
市内の各教会と合同でロイ・ロバートソン先生をお迎えし五日間のクルセードを行なう。また、インドネシアよりパントウ先生、インドよりブータン先生をお迎えし、教会や市内公立学校などでもよき交流をもつ。 また総動員伝道のための集会を本田弘慈先生を迎えて中津教会を会場にもつ。
1973年(昭和48年) 柴田勝正牧師、オーストリア、ウィーン大学神学部に留学。
1973~74年 牧師不在の1年間、教会員は心を一つにして留守の教会を守り教勢もおとろえることはなかった。またこの間、教会の特色のひとつとなった「祈りの細胞」を自主的に組織運営し、教会の霊的活力の源泉となり、その後の教会成長に大きく益することとなる。また、由布院教会の秋山通明牧師、休職中の吉岡ハルヱ先生方が遠路はるばるお越しくださり、兼牧や伝道を助けてくださったご恩を私たちは決して忘れることはできない。また地区内の諸先生方の祈りとご援助をいろいろいただいたことを深く感謝している。
12月6日、総動員伝道として本田弘慈先生をお迎えし懇談会をもつ。
1974年(昭和49年) 4月15日、宮本純子ブラジル宣教師を迎えての伝道集会。同月19日、田中光師を迎えての文書伝道集会。九州総動員伝道の一環として5月20日には伊藤栄一牧師を迎えての特別伝道集会。11月7日~8日には市内3教会合同で村上宣道牧師を講師に昭和信用ホールを会場に特別伝道集会をもつことができた。
また同年8月、佐賀バプテスト教会の賀来国生牧師のお誘いもあり、韓国ソウルのヨイド広場を会場にもたれたエクスプロ74に柴田牧師が参加。この集会は、韓国CCC(キャンパスクルセード)主催に開かれた超教派クリスチャン集会であったが、国内外から250万を越える信徒が集まり、韓国キリスト教界のリバイバルを初めて目の当たりにすることとなった。帰国後の柴田牧師の報告に、教会員は最初の内はまったく信じることができず、日本の教会とのギャップを改めて感ずることとなる。
1975年(昭和50年) 4月3日、田原昭肥牧師・米子さんご夫妻をお迎えし、市内3教会合同(中津教会、中津福音教会、中津扇城教会)懇談会・映画伝道会を行なう。
市内相原に約9坪のモダンな教会納骨堂を建設、6月29日献堂式を行う。
柴田牧師、インドネシア、オーストラリアの伝道旅行。横川知親兄アメリカの教会視察。
1976年(昭和51年) 礼拝出席も40名をこえることも多くなり、会堂が狭くなったため教会裏手の土地約70坪を購入し、新たに牧師館を建築、会堂は附属していた牧師宅部分をすべて礼拝堂に改築、さらに増築して面目を一新。翌年1月23日にもたれた献堂記念特別伝道集会では、福音歌手の胡美芳さんに来ていただいた。
11月25日、総動員伝道の一環として有賀喜一先生をお迎え昭和信用金庫大ホールを会場に特別集会もたれた。
1977年(昭和52年) 早天祈祷会開始。最初は4名の出席であったが、多い日には20名になるようになり、教会の霊的活力がまた一段と加わる年となる。同年には月定献金、感謝、その他の献金の無記名化も行なわれたが、かえって献金額は増加をはじめ、あらためて神様のご栄光を拝する思いを体験させられた年となる。
また、この年6月より宇佐市にある柳ヶ浦教会(日本キリスト教団)の兼牧を柴田牧師が行なうようになった。
5月22日、宮崎清水町教会の中山勲牧師、7月13日、友寄百子ブラジル宣教師、8月21日、グロンランド宣教師、10月23日、日田福音教会の井上宗樹牧師を迎えての特別伝道集会、29日、「死に至るまでも」映画伝道集会がもたれた。また6月には別府ナザレン教会においての榎本保郎先生を迎えてのアシュラム、8月の由布院聖会、11月の九州聖書信仰大会に参加。
1978年(昭和53年) 1月、大分地区信徒修養会では講師に止揚学園長の福井達雨先生、3月と10月には当教会会場に韓国クリスチャン作家車潤順(チャーユンスン)先生、5月には奄美の名瀬教会雨宮恵牧師、6月、奄美の瀬戸内教会佐藤駿一郎牧師、シャロームコーポレーションの宮川社長、北九州復興教会の桐原秀生長老、市内信用金庫ホールを会場にジョン・ローズ先生、胡美芳さん、9月、日田福音教会井上宗樹牧師の特別伝道集会がもたれた。 また、11月には日本聖書信仰同盟九州大会(講師:尾山令二牧師)に参加。
1979年(昭和54年) 横川知親兄・幸子姉が(現、日比聖書教会牧師 Philippine Japan Bible Church)宣教師として献身。沖縄の宣教師訓練センター(クリスチャンズ・イン・アクション)へ。
4月、8月、10月と三回にわたり、韓国教会成長セミナー(ソウル)に教会から多数参加。
8月27日、広島キリスト教会の植竹利侑牧師、11月、益田泉先生、臼杵アライアンス教会の柳井豊子牧師、12月、大牟田バプテスト教会の金斗杓牧師ほか韓国国際親善音楽宣教団を迎えて特別伝道集会を行なった。
1980年(昭和55年) 現住倍餐会員79名、礼拝出席平均53名、教会会計783万を超え、教区のご指導もあり、7月13日、第一種教会設立のはこびに至る。
4月、車潤順先生、5月、定家都志男牧師、6月、インドネシアよりローレンス・パントウ先生、同じく6月交換講壇で佐賀関教会の本多肇牧師、11月、交換講壇で日田福音教会の井上宗樹牧師を迎えての特別伝道礼拝がもたれた。 また、平和台球場を会場にもたれたビリーグラハム国際大会福岡大会に、教会から貸切バスで83名の参加があった。
また、兼牧中の柳ヶ浦教会(日本キリスト教団)を宇佐市中心部に移転することが将来の発展に必要であるとの思いが与えられ、同年教会の新築移転を教区に申請し、大分地区の多大の祈りとご指導をいただいて翌年、宇佐市閤の現在地に会堂を新築し、名前も宇佐教会と改めたが、この建設に中津扇城教会員は一致して祈りとできるかぎりの財政的援助を行なった。 また、新築教会の留守番にと、以前より献身を決意していた宮崎富男兄(現、日本キリスト教団玖珠教会牧師)の家族4名を宇佐教会へ送り出した。 またこの頃より横川兄に続く献身者が起こり、ソウルの神学校へ中尾順子姉、東京聖書学校(ホーリスネスの群)へ佐藤直美姉(現、ウェスレアン・ホーリネス教団東京松江教会牧師、旧姓今戸直美姉)、高卒検定から教団の補教師検定試験(Cコース)へ小西美智子姉(現、日本キリスト教団宇佐教会牧師)が続くこととなった。
1981年(昭和56年) 横川知親兄・幸子姉が沖縄での宣教師訓練を終え、フィリピンのマニラへと開拓伝道に出発。教会では海外宣教会を組織し、その働きをサポートすることとなる。単独の教会が海外に宣教師を派遣することは果たして日本の教会に可能であろうかと思われたが、神様はこのこともご自身の恵みとご栄光をあらわしてくださり、また全国の教団教派を超えた多くの教会、諸先生、信徒の方々がその働きの為に祈りとサポートをして下さり、現在マニラにおいて驚くような開拓伝道の業が推し進められている。
※拡大可
さらに同年の5月25日~6月9日、教会は聖地イスラエル及びヨーロッパ旅行を計画し、25名の参加者と共にイスラエル、ローマ、ジュネーブ、ウィーン、フランクフルト、ダルムシュタットのマリヤ福音姉妹会、ロンドン等のキリスト教の歴史のあとを訪問。
また、3月29日にはカンバーランド長老高座教会の生島睦伸牧師を迎えての特別集会、10月21日「ニューヨークジャングル」映画伝道集会、11月30日~1日には当教会会場に九州信仰同盟九州大会がもたれ、主講師の賀来国生牧師のメッセージに大いに励まされた。
1982年(昭和57年) 会堂の座席数を150名収容にする為に増改築の必要がおこり、教会堂を更に20坪増築し、駐車場として教会南側に62坪の土地を購入、更に80坪の借地をしてマイカー出席者の増加に対応することとなる。
1月17日、日本キリスト教団宇佐教会献堂式を行う。
8月29日、ドイツより派遣され福岡を拠点に伝道しているマリヤ福音姉妹会を迎えて特別伝道礼拝がもたれ、日頃からバジレア・シュリンク著「神の現実」などをテキストに教会で学び会をもっていたこともあり、その生きた証に深い感動をもって神の御名をあがめた。また、11月4日、辻宣道牧師特別伝道集会、12月12日には韓国の大衆伝道者申賢均先生をお迎えし、その講壇を駆け回るような炎のメッセージを通して、主の大いなる励ましをいただいた。
1983年(昭和58年) 1月、元福岡女学院チャプレンの金田弘司牧師特別集会。6月、片岡伸光師の特別伝道集会、ママ・クワング中国家の教会指導者宣教大会(大分バプテスト教会会場)出席。7月、東京聖書学校(ホーリネスの群)キャラバン隊。8月、福岡市民会館を会場に教会成長セミナーが開かれ、アメリカよりロバート・シューラー博士、韓国よりチョー・ヨンギ博士が講師として立たれ、実行委員として協力の柴田牧師をはじめ教会員も多数参加し、霊的研鑽の時となった。
1984年(昭和59年) 教会設立25周年を迎え、マニラ開拓伝道中の横川知親宣教師家族を問安するフィリピン宣教訪問を計画。2月に11日間訪れ、礼拝や祈祷会、家庭集会、スラムの会員訪問、また日比聖書教会と姉妹関係にある韓国長老教会の韓比教会礼拝奉仕等を行なった。
5月27日、浦項バプテスト教会、太田神学校教授のリバイバリスト白華基(ペク・ファーキ)牧師をお迎えし特別伝道集会を行なう。
また本年には辛島道也兄(現、ウェスレアン・ホーリネス教団シャローム日田キリスト教会牧師)を東京聖書学校(ホーリネスの群)へおくり、彼の霊的成長が教会員の大きな励ましとなった。
柴田牧師、共産圏の教会招待で、ソビエト連邦、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの教会を訪れる。
1985年(昭和60年) 1月15日、沢纓先生、6月9日、山本繁夫牧師、23日、KGK九州主事の野村幸夫先生、7月28日、横川知親宣教師、9月30日、マリヤ福音姉妹会、10月27日、清水町教会の中山勲牧師、11月10日、日田福音教会の宮脇利夫牧師、11月25、26日、九州聖書信仰大会講師として小山恒雄先生、12月7、8日、チャペルコンサートとして新垣勉先生、13日、小松栄次郎先生をお迎えした。
9月、韓国教会交流の旅。 柴田牧師、アジア宣教会議(ボパール85)のためインド伝道の旅。
また、小西美智子姉が教会の副牧師として就任された。この年の現住倍餐会員は109名、礼拝平均出席は75名となる。
1986年(昭和61年) 2月14日、申賢均先生、3月9日、車潤順先生、奇先生、6月18日、エフライム・ゲレロ宣教師(フィリピン)、22、29日、ミルドレッド・グロンランド宣教師(アラスカ)、29日、玖珠教会の日下部勝牧師、7月27日、津久見教会の清家リツエ牧師、8月3日、横川知親宣教師、9月14日、ジム・ビアナ日比聖書教会副牧師、9月28日、マリヤ福音姉妹会、10月フィリピン派遣韓国人宣教師(永楽教会)の柳東源先生、12月5日、小松栄次郎先生、27日、マコロウレイス宣教師(ニュージーランド)をお迎えした。
1月、イスラエル聖地旅行を計画実施。
3月23日の日比聖書教会献堂式のため、牧師、信徒十数名とともにフィリピン・マニラを訪問。
4月より短期留学中であった日比聖書教会のジム・ビアナ先生が東京聖書学校(ホーリネスの群)での学びを終え、10月より同教会の副牧師に就任された。
1987年(昭和62年) 教会内に精障者の参加や関わりをもつことが多くなってきたこともあり、精神障害者職場設立準備会としてサマリヤ会を発足。のちのフロンティア中津の礎となる。
辛島道也神学生が東京聖書学校(ホーリネスの群)での学びを終え、同団体の補教師として主に仕えることとなる。
また、柴田国子姉も、教団Cコース教師試験に合格、担任教師として招聘となる。
9月9日~18日、アメリカ教会訪問を計画、15名の参加と共に、シアトルのデニス・ベネット牧する聖ルカ教会、ロサンジェルスのロバート・シュラー牧するクリスタル・カテドラル教会等を訪問した。
また、昨年よりフィリピンの日比聖書教会に滞在中であった柴田純兄が献身、同国マニラにあるベタニー・バプテスト・バイブル・カレッジ(バイブル・バプテスト)で学ぶこととなる。
1988年(昭和63年) この年も、鹿児島谷山教会の佐多先生、アメリカ人宣教師のエドワード・ラー・ローズ先生、車潤順先生、横川知親先生、小松栄次郎先生、山本繁夫先生、ジム・ビアナ先生、多くの先生方に来ていただいた。
8月、アメリカ・アラスカ教会訪問の旅。 9月、中国の教会訪問の旅。中国地下教会の霊的指導者サムエル・ラム師と交流。
1989年(平成元年) 大韓長老新盤浦教会の金英坤先生、佐多先生、十字架の伝道者エドワード・ラー・ローズ先生、横川先生、遠州中央浜北教会牧師・日本の大衆伝道者田中政男先生、小松栄次郎先生、佐多先生、中山勲先生ご夫妻、篠原せつ先生、下川省三先生、多くの諸先生方に来ていただいた。
1990年(平成2年) 1月8日~20日、イスラエル、ヨーロッパ旅行を計画、柴田牧師を団長に多数の参加があった。
山本繁夫先生、車潤順先生、鹿沼教会の高崎隆先生、田中政男先生、ハワイ、カリヒ・ユニオン教会よりランディー・ゲイ・ホンゴー先生夫妻、アンドレイ兄、鹿沼教会の榊原茂先生、竹田教会の尾崎明先生、アメリカ人宣教師ケニー・ジョセフ先生、ザ・メッセンジャーズを迎えての特別音楽伝道集会、特別伝道集会がもたれた。 また毎年夏に行なわれている子供一泊修養会のサムエルこども会には、講師に福岡エルシオン教会の岡田順一・文美佳先生ご夫妻に来ていただき恵まれたときをもつことができた。
また、柴田純神学生がフィリピンでの学びを終え、さらに訓練を受けるためウェスレアン・ホーリネス神学院(ウェスレアン・ホーリネス教会連合)に入学。
1991年(平成3年) フィリピン人牧師エリザベス・バウチスタ女史、本田路津子さんを迎えての賛美特別礼拝、横川先生、田中政男先生、韓国より奇先生、ウィリアム・ウッド先生、山本繁夫先生、佐多先生、大韓イエス教長老教会より金相泰先生、佐伯教会の小林健志先生らが来てくださった。
また、12月18日にクリスマス・チャリティー・コンサートとして、中津文化会館大ホールを会場に小坂忠、岩淵まこと両先生をお迎えしての音楽伝道集会を行ない千人を越す多くの参加者があり、主の御名をあがめた。
九州ケズィック・コンベンションが別府城島高原のホテルを会場に始められるようになり、実行委員の柴田牧師をはじめ多くの教会員の参加があった。
また同年、小倉政応兄(現、ウェスレアン・ホーリネス教団宇山福音教会牧師)が献身を表明、ウェスレアン・ホーリネス神学院に入学。
1992年(平成4年) 車潤順先生、横川先生、ケニー・ジョセフ先生、堀越暢治先生、久多良木和夫先生、石尾英幸先生、韓国青年特別チーム、黒木安信先生、佐多先生、小倉政応神学生、柴田純神学生、胡美芳さん、全日本リバイバルミッション決起大会として滝元明先生をお迎えした。
韓国エクスプロ92大会、由布院聖会、ミクタム・ミュージックセミナー、ジェリコ・ジャパン大阪、大分アシュラム、九州聖会、日韓宣教会議、九州聖書信仰大会、九州リバイバル聖会、九州ケズィック・コンベンションに参加。
またこの当時、教会の路傍伝道が盛んに行なわれ、毎週駅前にてのトラクト配布と賛美伝道が「平均年齢50代の路傍伝道隊」としてクリスチャン新聞にとりあげられる。
1993年(平成5年) 日本キリスト教団との包括関係廃止の申請が承認され独立、単立教会となる。
日比聖書教会のクリスチャン・センター設立式のため、マニラ訪問。
11月5日~7日、甲子園リバイバル・ミッションに多数参加。
また、かねてから献身を志ていた伊賀チズエ姉、二宮智佳子姉がJTJ神学校の学びを終え、行橋市と豊前市においてそれぞれ家族と共に独立伝道に立ち上がった。
教会学校にはじめてMEBIG(メビック)を取り入れるようになる。
榊原茂先生、辛島道也先生、本間義信先生、佐多洋明先生、柴田純神学生、小倉政応先生、横川知親先生、ソン・ミンヨン先生の音楽伝道、秋山雪美先生コンサート、アーサー・ホーランド先生方の特別伝道集会が開かれた。
1994年(平成6年) 辛島道也先生・すみ恵先生が、副牧師として就任。
横川先生、ジョン・キンボール先生、佐多洋明先生、柴田純伝道師、田中菊太郎先生、小倉政応神学生、佐藤寿啓先生の特別集会がもたれた。
また、リバイバル・プレイズナイト(福岡)、マーチ・フォー・ジーザス、ウェスレアン・ホーリネス九州聖会、由布院聖会、アーサー・ホーランド先生特伝(豊前)、滝元明先生リバイバル・ミッション(福岡)、九州聖書信仰大会、九州リバイバル聖会、九州ケズィックコンベンション等に参加。
1995年(平成7年) 10月10日、新会堂献堂式。教会学校にメビックを取り入れるようになってから、礼拝堂の椅子の出し入れの煩わしさ等のため、子供たち専用の礼拝場所を祈り求めていたが、この年ついに鉄筋コンクリートの二階建て新会堂献堂のはこびとなった。献堂式メッセージには横川知親先生、特別賛美に韓国のソン・ミンヨン先生ご夫妻が御用してくださった。
キース・ウェストン先生、野村幸生先生、柴田純先生、小倉政応先生、車潤順先生、佐多洋明先生の特別集会がもたれた。
また、福岡でもたれた森本春子先生の特別集会、宇佐教会では滝元順先生によるP&Pアワー、ジェリコ・ジャパン九州、森谷勉先生特伝(豊前)、等に参加。