土岐詮直

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土岐 詮直(とき あきなお[1]/あきただ[1]、生年不詳 - 応永6年11月15日1399年12月12日))は、室町時代の武将。父は土岐氏一族の土岐直氏[2]、妻は従兄にあたる土岐康行の娘。別名は宮内少輔入道、肥田瀬詮直。

生涯[編集]

生誕年は不詳だが、元服の際には当時の将軍足利義詮から偏諱(「詮」の字)を受けたようである。

この頃の土岐氏は伯父・土岐頼康などの活躍により美濃尾張伊勢の3カ国を持つ有力守護大名であった。詮直は父の後を継ぎ、尾張守護代を務めていた。

将軍専制権力の確立をめざす第3代将軍・足利義満(義詮の子)は土岐氏の勢力に不安を覚え、頼康没後の康応元年/元中6年(1389年)、突如として惣領の康行から尾張守護職を取り上げ、弟の満貞に与えてしまった。詮直はこれに反発し、下向してきた満貞の軍勢と尾張黒田宿で合戦してこれを破った。敗れた満貞は義満に対して康行と詮直の謀反を訴え、義満は土岐頼忠(康行と詮直の叔父)らに征討を命じた。翌年、康行と詮直は美濃で挙兵したが敗れて没落した(土岐康行の乱)。

康行はさらにその翌年の明徳2年/元中8年(1391年)に起こった明徳の乱において幕府方に属して功を挙げ、伊勢守護職を与えられたが、この頃の詮直の動向は不明である。

応永6年(1399年)、将軍・義満と対立した守護大名大内義弘が堺で反乱を起こす(応永の乱)と、詮直は突如として蜂起し、義弘に呼応する形で700騎の手勢を率いて美濃において挙兵したのである。この時の美濃守護は従弟にあたる土岐頼益(頼忠の子)で、義弘追討のため和泉に出陣していた。頼益は詮直挙兵の報を聞くとただちに軍を返した。美濃長森にて両軍は激突し、激戦の末詮直は敗れて戦死した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 名前()は「のりなお」または「のりただ」とも読む(「のり」と読ませる説は他に義詮から1字を受けた人物の中にも何名かみられる)。
  2. ^ 土岐頼康・頼雄の弟。諱は、息子・詮直の二文字目に合わせて「なおうじ」と読むであろうが、「直」の字は征夷副将軍であった足利直義から偏諱を受けたものとみられ、この場合初めは「ただうじ」と読まれていたものと思われる。ただし、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱においては、直氏は兄弟とともに尊氏派に属している。