「日本が負けることは、終戦の1年以上前から聞いていた」。そう語る93歳の男性がいます。陸軍の中で極秘情報を扱う 特殊情報部に所属し、見習いの下士官としてあらゆる機密情報を見聞きしていたという男性が終戦の日を前に、72年前の夏のことを語ってくれました。
「日本が負けることは、終戦の1年以上前から聞いていた。」そう語る93歳の男性がいます。陸軍の中で極秘情報を扱う特殊情報部に所属、見習士官としてあらゆる機密情報を見聞きしていたという男性が終戦の日を前に、72年前の夏のことを語ってくれました。
青年に課せられた特殊な任務
その男性は、田畑が広がるのどかな場所で暮らしていました。
「どうぞ入ってください。暑いのに、はよ入らな」
滋賀県野洲市に住む長谷川良治さん、93歳。
「すわりいな、おしぼりどうぞ。裸になって体拭くか?」
長谷川さんが召集されたのは終戦の1年前、1944年4月でした。当時20歳だった青年はその後、上官の勧めもあって軍の幹部候補を養成する陸軍通信学校の試験を受け、この難関を突破。翌年、ある特殊な任務が課せられた部隊に配属されました。
「なんせ空襲ない所行ってる、上から焼夷弾とか放ってこん所にいる。『空襲警報!』って鳴ったって、こっちは寝てるわな」(元陸軍特殊情報部 長谷川良治さん・93歳)

老人ホームで「通信スパイ」
長谷川さんが勤務していた場所は、東京都杉並区に今もある老人ホーム。ここに陸軍中央通信調査部、いわゆる「特殊情報部」が入っていました。医療施設は空爆を受けないとされていたため、当時はまだ珍しかったこの老人ホームが接収されたのです
「ここに両側12ベッドずつ24ベッド入るということで、お年寄りが病室として使っていたんですけど、陸軍が入って来たときみんな他の所に移されて、ここを陸軍が使うことになった」(浴風園元職員 川崎貞さん・68歳)
ここで与えられた任務のひとつが「通信スパイ」。

モールス信号などを分析
長谷川さんらは、アメリカ軍のB-29が基地を飛び立つ際に発信するモールス信号などの無線をおよそ100人・24時間態勢で傍受していたといいます。この情報を蓄積、分析してどこの部隊が何機でどこへ向かうのか予測していたのです。
「(傍受の対象は)アメリカです。しかもB-29です、ほとんど。命令が出たら、どっちに向いて行けとか、そこに落とせとかありますわね。そういうふうな所にまとめ役としていた」(長谷川良治さん)

不審な動きをするB-29
72年前の夏、長崎と広島に原爆が投下される少し前、長谷川さんらは不審な動きをするB-29を探知していたといいます。戦後、GHQに押収されたのち返却されたという日本軍の極秘資料には、数百基のB-29が待機するテニアン島の米軍基地の欄に「不明爆戦」(=B-29)という文字が書かれています。
「これはほんまにおかしいでと、(みんな)感じてたんとちゃいますか。そういう意味のことは言うてましたさかいにね。『あれ、おかしいで。いつ本物になりよるやろ』って、こういう言葉出てましたさかいにね」(長谷川良治さん)
普段は編隊を組んで飛行するB-29が、わずか数機で飛んでいるという情報を得ていました。このわずかな数のB-29は原爆投下の訓練を行っていたことが戦後になって判明していますが、特殊情報部はこの頃からアメリカが何かを企てていることを掴んでいたのです。

察知していた原爆投下
そして8月。実は、原爆が落とされた、まさにその日も特殊情報部は無線の傍受によってエノラゲイ、そしてボックスカーの動きを察知し、大本営に報告していたといいます。しかし、その情報が生かされることはありませんでした。
「『見習士官(長谷川さん)お茶くれ』って2階でうなってはんねん。『はーい』って1階からお茶持って行くわけや。持って行ったらこんな顔してはる。すぐわかる『あぁ今日は部長ご機嫌悪いな』って。そんで仕方ないさかい『部長なんですか』ってちらっと聞いたら『言うこと聞きよらん』、ほんだけただひと言。こんだけうちの部下が苦労して夜中まで電報聞いて報告してるのに。(原爆を)落とされているのに対処しなかったって。あの顔はいまだに…」(長谷川良治さん)

公然と語られていた“敗戦後”
長谷川さんが72年前の遠い記憶を呼び起こす中で、特に興味深い話がありました。戦争末期の日本、敗戦ムードが強まる中にあっても国民はもちろん、軍隊においても「敗戦」の2文字を口に出すことは許されませんでした。しかし、軍部のエリートを養成する通信学校や機密情報を扱う特殊情報部では、敗戦後の日本について公然と語られていたというのです。
「日本負けたらどうなる?憲法はどうしよるやろ?天皇どうしよるやろ?そんな話、みんな聞いてるねん。昭和19年(1944年)の9月、10月、11月の頃から」(長谷川良治さん)

天井に今も残る痕跡
特殊情報部の本部として使われていた老人ホームには、当時の状況を物語る痕跡が今も刻まれているといいます…
「天井が一番汚れているのは、この部屋なんですけどね」(浴風園元職員 川崎貞さん)Q.この汚れは?
「わからないですけどね…」
天井の梁(はり)に残る黒いすすのような汚れ。
Q.他の所はこんな汚れ方は?
「してないですね」
この黒い汚れの正体とは。実は戦争が終わる4日前、長谷川さんは上官からある命令を受けました。
「8月11日から焼いてました」(長谷川良治さん)
Q.焼けって命令があった?
「命令です、部長の命令。負けるってことがわかったからやね。あの当時はおそらく(終戦が)15日だろうと想像でやってた」
敗戦が確定的となる中、血眼になって収集した全ての機密資料を焼却するよう命じたのです。
「一番に名簿、お互いの名簿。それから暗号書、暗号書って言うたって大事なのは明治時代のからありまっせ。大事なものはみんな革のトランクに入ってあんねん、ボストンバッグの革。それを革ごと焼くねん、カバンごと。部屋の中で灰が散らんように」(長谷川良治さん)

終戦の日の度に思うこと
長谷川さんは終戦の日を迎える度に同じことを思うといいます。
「ああ、やっぱり早く終わってよかったなぁという気持ちでいっぱいです。毎年そういう気持ちになってます。8月15日、幸い私の生まれた日ですので、そういう気持ちで年を迎えてます。まあ64歳になりますけど…(記者:94歳?)。あ、すいません94歳です」(元陸軍特殊情報部 長谷川良治さん・93歳)
情報は生かされず灰となり、多くの命が奪われました。あれから72年。埋もれさせてはならない歴史がまだあります。

閉じる