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NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」 2017.08.15

インドとミャンマーの国境地帯。
川幅600メートルにも及ぶ大河と2,000メートル級の山々が連なる。
今から73年前日本軍はこの険しい山岳地帯を越え470キロを行軍するという前代未聞の作戦を決行した。
目指したのはインド北東部の町インパール。
しかし誰一人この地にはたどりつけず…太平洋戦争で最も無謀といわれたインパール作戦である。
日本と戦ったイギリス軍が撮影した10時間を超えるフィルムが残されていた。
3週間という短期決戦をもくろんだ作戦は数か月に及んだ。
補給を度外視したため兵士は密林の中で飢え病に倒れていった。
兵士が戦いを強いられたのは世界一といわれる豪雨地帯。
飢えた兵士たちが生き倒れた道は白骨街道と呼ばれた。
敗走した兵士たちは濁流の大河を渡れぬまま命を落としていった。
戦場の現実を無視して…イギリスで発見されたインパール作戦に関する…終戦直後連合軍が大本営の参謀現地軍の司令官ら17人を尋問していたのである。
自らを正当化していた。
新たな資料や兵士の証言から浮かび上がる日本軍の実相。
この地で無念の死を遂げた幾多の魂は私たちに何を突きつけているのだろうか。
インドシナ半島の西に位置するミャンマー。
かつてはビルマと呼ばれていました。
1944年に決行されたインパール作戦はビルマからインドにあるイギリス軍の拠点を攻略する計画でした。
インドとミャンマーの国境地帯は武装勢力が活動しているため今も外国人の立ち入りが制限されています。
今回私たちは特別な許可を得てインパール作戦の全行程を初めて記録しました。
73年前に日本軍が敗走した…かつてはこうした道もありませんでした。
周辺には少数民族の村が点在しています。
この付近ではイギリス軍の攻撃で1,000人の日本兵が死傷しました。
多くの村人が日本兵が突然やって来た73年前の戦争を記憶していました。
インパール作戦はどれほど無謀な戦いだったのか。
今回私たちはインパール作戦で戦死した3万人のうち1万3,577人分の戦没者名簿を入手した。
そして一人一人の死を場所や日時を特定して地図に示した。
作戦は1944年3月に始まり…しかし日本軍はイギリス軍の猛攻の前にインパールに到達する事さえできなかった。
多くの戦死者を出し作戦が中止されたのは開始から4か月後の事だった。
作戦中止後の死者を青で示す。
そのほとんどが病死や餓死だった。
撤退は中止から半年がたったその年の12月になっても完了しなかった。
戦死した兵士のうち実に6割が作戦中止後の撤退中に亡くなるという無残な戦いだった。
陸軍史上類を見ないインパール作戦を決行したのは…日中戦争のきっかけとなった1937年の盧溝橋事件では連隊長として戦闘を指揮するなど強気の作戦指導で知られていた。
牟田口中将の自宅から大量の遺品が見つかった。
陸軍時代に贈られた数々の勲章。
今回歴史の事実を検証してほしいと牟田口中将の孫が初めて取材に応じた。
終戦から20年がたった1965年。
牟田口中将がインパール作戦について語った肉声が残されていた。
インパール作戦それは極めて曖昧な意思決定をもとに進められた計画だった。
事の始まりは1942年1月。
日本軍はイギリス領ビルマに進攻し全土を制圧。
勝利の余勢をかって日本軍の最高統帥機関である大本営はインド進攻を検討するもののすぐに保留する。
しかし戦況の悪化が再び計画を浮上させる。
1943年に入ると太平洋でアメリカ軍に連敗。
その後戦線は急速に後退していった。
そのころアジアでも態勢を立て直したイギリス軍がビルマ奪還を目指し反撃に出ていた。
1943年3月大本営はビルマ防衛を固めるためにビルマ方面軍を新設。
河辺正三中将が司令官に就任する。
着任前河辺司令官は首相の東條英機大将と会っていた。
2人は陸軍大学校で同期の仲だった。
河辺司令官の部下が語った音声テープ。
東條首相は太平洋戦線で悪化した戦局を打開してほしいと告げていた。
同じ時期牟田口中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官に昇進。
インパールへの進攻を強硬に主張するのである。
軍の上層部が作戦に前のめりになる中で反対意見はことごとく退けられていった。
牟田口司令官の直属の部下小畑信良参謀長は強硬に作戦に反対した。
小畑参謀長の娘道子さん。
「やらなくていい作戦だった」という父親の言葉を覚えている。
小畑参謀長が残していたアルバム。
小畑参謀長は陸軍の中でも数少ない兵站の専門家だった。
小畑参謀長は兵站の観点から「作戦は実施すべきではない」と牟田口司令官に進言した。
しかし牟田口司令官から「消極的だ」と叱責され就任から僅か1か月半で更迭されたのである。
牟田口司令官が作戦を遂行するために頼ったのがビルマ方面軍の河辺司令官だった。
2人は盧溝橋事件の際に上司と部下の間柄だった。
河辺司令官は「牟田口に作戦をやらせてやりたい」と語るようになる。
東條首相の意も受けていた河辺司令官は作戦を認可。
南方軍の寺内総司令官も同調していった。
しかしこのころ大本営ではビルマ防衛に徹するべきだとして作戦実行に消極的な声も多くなっていた。
大本営の杉山参謀総長が作戦を最終的に認可した理由が作戦部長の手記に書き残されていた。
「結局杉山総長の人情論に負けたのだ」。
大本営の参謀たちによる数々の押印。
冷静な分析よりも組織内の人間関係が優先されたのである。
ミャンマー中部の都市メイミョー。
牟田口司令官はここに第15軍の司令部を置きました。
司令部は当時のまま残されています。
今回内部の撮影が初めて許されました。
作戦開始の1か月前に陸軍経理学校を卒業したばかりの一人の若者が配属されました。
23歳の齋藤博圀少尉。
牟田口司令官に仕えました。
今回現地でつづっていた日誌や回想録が見つかりました。
司令部内の一挙一動を知る事ができる貴重な記録です。
当時の司令部の映像です。
作戦を検討する参謀たち。
牟田口司令官と同じように反対意見を封じていく様を齋藤少尉は記録しています。
インパール作戦は雨期の到来を避けるために3週間の短期決戦を想定していました。
第15軍に編成された3つの師団を中心に9万の将兵によって実行されました。
南から第33師団中央から第15師団がインパールへ。
北の第31師団はインパールを孤立させるため北部の都市コヒマの攻略を目指しました。
大河と山を越え最大470キロを踏破する前例のない作戦でした。
日本軍が駐屯していた川沿いの村です。
作戦開始前の兵士の姿を村人が記憶していました。
短期決戦を期した日本兵は3週間分の食糧しか持たされていませんでした。
兵士たちが軍票を配って食糧を調達していた姿を村の人たちは覚えています。
牟田口司令官は荷物の運搬と食用のために牛を集めさせました。
更に敵から食糧や武器を奪えと命令したのです。
兵士たちの前に川幅最長600メートルに及ぶチンドウィン河が立ちはだかります。
兵士たちが夜間に川を渡ろうとした渡河地点です。
イギリス軍の空襲を避けるための夜間の渡河。
集めた牛はその半数が流されたといいます。
川を渡った兵士たちの目の前にあったのは標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なる…山越えする当時の日本軍を撮影したニュース映像です。
車が走れる道はほとんどないためトラックや大砲は解体して持ち運ぶしかありませんでした。
崖が迫る悪路の行軍は想像を絶するものだったといいます。
インパールまで150キロ地点の山岳地帯の村。
作戦開始から1週間後日本軍はこの村に到達しました。
日本兵はここでも食糧を調達しようとしていました。
大河を渡り山岳地帯の道なき道を進む兵士たち。
戦いを前に消耗していきました。
インパールまで直線距離110キロのこの一帯で日本軍とイギリス軍の最初の大規模な戦闘が起きました。
南からインパールを目指した第33師団です。
激戦を物語る場所に村人が連れていってくれました。
日本軍の戦車と見られる残骸。
ここで第33師団はイギリス軍の戦車砲や機関銃を浴び1,000人以上の死傷者を出す大敗北を喫しました。
ここでは今も日本兵の遺骨が見つかっています。
部下1,000人の死傷者を出した…牟田口司令官に作戦の変更を強く進言しました。
牟田口司令官のもとにはほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが相次ぎました。
司令部にはいつも牟田口司令官の怒号が響いていたといいます。
牟田口司令官に仕えていた齋藤少尉の記録です。
齋藤少尉は牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていたある言葉を記録していました。
兵站を度外視したインパール作戦。
それは敵国…今回この作戦を検証した膨大な資料がイギリスに残されている事が分かった。
終戦直後イギリスなど連合軍がインパール作戦に関わった日本軍の指導者からその内実をひそかに聞き取っていたのだ。
その対象は司令官や幕僚17人に及んでいた。
この中でインパール作戦の勝敗の鍵を握ったある戦いについて細かく聞き取られていた。
北から進攻した第31師団1万7,000人がイギリス軍側と激突したコヒマの戦いである。
コヒマの戦いについての牟田口司令官の調書。
第31師団の一大隊がついにコヒマに到達する。
しかしイギリス軍の戦力は太平洋戦争の緒戦でビルマから敗走した時から一変していた。
イギリス軍が撮影していたインパール作戦にまつわる10時間を超える映像が残されていた。
短期決戦を期した日本軍に対しイギリス軍は航空機による補給で持久戦に持ち込む作戦を周到に立てていた。
武器や食糧医薬品など1日250トンもの物資を前線に投下できる態勢を整えていたのである。
コヒマに攻め込んだ第31師団の佐藤幸徳師団長の調書。
コヒマに至った時点で戦闘を継続するのが難しい状態だったと証言している。
第31師団がイギリス軍と激突したインド・コヒマです。
日本軍に協力したという少数民族の男性が日本の歌を覚えていました。
123。
・「白地に赤く日の丸染めて、」・「ああうつくしや、日本の旗は。
」コヒマからインパールへとつながる三差路。
ここでの戦いを記録した映像です。
イギリス軍は三差路を見下ろす丘の上に強固な陣地を築き突撃を繰り返す日本軍を火力で圧倒しました。
3週間で攻略するはずだったコヒマ。
ここでの戦闘は2か月間続き死者は3,000人を超えました。
コヒマの戦いに参加した元少尉平山良映さんです。
部下に突撃命令を下しました。
と言いながら…武器弾薬が不足する中で兵士が命じられたのは肉薄攻撃。
爆薬を抱えたまま敵の戦車に飛び込むという命懸けの攻撃でした。
山田直夫さんが突撃する直前で命令は中止されました。
先に肉薄攻撃をした10人の戦友は全員命を落としました。
突然戦場となった町。
現地の人々は私たちも大変な目に遭ったと口々に話しました。
太平洋戦線で敗退が続く中凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道されました。
インパールから遠く離れたメイミョーで指揮をとっていた牟田口司令官。
司令部には新聞社の記者が詰めていました。
牟田口司令官への取材対応を取りしきっていた元少尉の山教興さんです。
日本軍の最高統帥機関大本営は戦場の現実を顧みる事なく一度始めた作戦の継続に固執していた。
イギリスに残されていた東條英機大将の元秘書官の証言。
現地で戦況を視察した大本営の秦中将が東條大将に報告した時の様子を語っていた。
この翌日東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠す。
インパール作戦に関わった現地軍の参謀はその後の陸軍の空気をこう語っている。
牟田口司令官は苦戦の原因は現場の指揮官にあるとして3人の師団長を次々と更迭していきます。
作戦中に全ての師団長を更迭するという異常な事態でした。
国境近くに司令部を移した牟田口司令官。
その跡地です。
ここにあった野戦病院は前線で傷ついた兵士たちであふれていました。
牟田口司令官に仕えていた…司令官の異様な姿も記録しています。
更に牟田口司令官は自ら最前線に赴きます。
南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮をとったのです。
しかし牟田口司令官の作戦指導はイギリス軍の思惑どおりでした。
ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言が残されていました。
第33師団はこの丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようとしました。
日本兵の多くの血が流れた事からレッドヒルと呼ばれています。
作戦開始から2か月日本軍に戦える力はほとんど残されていませんでした。
牟田口司令官は残存兵力をここに集め「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けたのです。
武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たち。
一週間あまりで少なくとも800人が命を落としました。
血と土がこびりついた戦陣日誌が見つかりました。
書いたのはここで戦死した…兵士の功績や戦死した時の状況を記録する任務に就いていました。
「天皇陛下万歳」。
はい。
牟田口司令官の指揮の下レッドヒルに突撃した…おい元気か?俺は元気でやってるぜ。
うん。
毎日お前を思い出してるから死んだなんて思ってないよ。
生きてると思ってるから。
インパール戦死イシダタダシヨシノコウイチイシハラヒロシ…。
小口さんの部隊で生き残ったのは40人余り。
460人が戦死しました。
1944年6月インドビルマ国境地帯は日本軍が恐れていた雨期に入っていた。
この地方の降水量は世界一といわれている。
当時の降水量のデータを解析するとその前のひとつきの降水量は既に1,000ミリを超えていた事が分かった。
戦死した兵士を示した地図。
3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月。
1万人近くが命を落としていたと見られる。
司令官たちはそれでも作戦中止を判断しなかった。
6月5日牟田口司令官のもとにビルマ方面軍の河辺司令官が訪れた。
お互い作戦の続行は厳しいと感じながらその場しのぎの会話に終始した。
2人が作戦中止の判断を避けたあとも戦死者は更に増えていった。
大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。
開始から4か月がたっていた。
インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。
青は作戦中止後に亡くなった人を示す。
実に戦死者の6割が作戦中止後に命を落としていくのである。
レッドヒル一帯の戦いで敗北した…激しい雨の中敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされました。
チンドウィン河を越える400キロもの撤退路。
イギリス軍の追撃はその間執ように続きました。
第33師団の撤退路の一つです。
兵士は次々に倒れ日本兵の死体が積み重なっていきました。
撤退中の第33師団を捉えたイギリス軍の映像が見つかりました。
腐敗が進む死体。
群がる大量のウジやハエ。
凄惨な光景はイギリス軍の兵士の記憶にも焼き付いていました。
撤退中にイギリス軍の追撃で足に大けがを負った持田菊太郎さん。
戦友を置き去りにせざるをえなかったと明かしました。
自らの運命を呪った兵士たちは撤退路を白骨街道と呼びました。
雨が遺体の腐敗を進め10日ほどで骨にしたといいます。
作戦中止後牟田口司令官は兵士たちに先駆けて現場を離脱します。
そしてその任を解かれ帰国しました。
牟田口司令官に仕え「味方5,000人を殺せば陣地をとれる」という言葉を記録していた…前線でマラリアにかかり置き去りにされました。
雨期の到来後マラリアや赤痢などが一気に広がり病死が増えていきました。
死者の半数は戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのです。
一方コヒマの攻略に失敗した第31師団。
後方の村に食糧の補給地点があると信じ急しゅんな山道を撤退しました。
しかしようやくたどりついた村に食糧はありませんでした。
分隊長だった佐藤哲雄さんは隊員たちと山中をさまよいました。
密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしました。
衛生隊にいた望月耕一さんが戦場から持ち帰ったはんごうです。
武器は捨てても煮炊きのできるはんごうを手放す兵士は一人もいませんでした。
望月さんは戦場で目にしたものを絵にしてきました。
最も多く描いたのが飢えた仲間たちの姿でした。
作戦開始時に渡ったチンドウィン河。
この河のほとりに死者の3割が集中していた事が分かりました。
白骨街道をようやく抜けた先に立ちはだかった濁流。
兵士たちはここで力尽きたのです。
チンドウィン河にたどりついた山砲隊の山田直夫さん。
病死と記された戦友の一人を指してその最期を語りました。
前線に置き去りにされた…チンドウィン河の近くで死のふちをさまよっていました。
「7月26日。
死ねば往来する兵がすぐ裸にして一切の装具を褌に至る迄はいで持っていってしまう。
修羅場である。
生きんがためには皇軍同志もない。
死体さえも食えば腹がはるんだと兵が言う」。
一体何人がこの川を渡る事ができたのか。
国の公式の戦史にもその記録はありません。
太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。
牟田口廉也司令官が残していた回想録。
そこには「インパール作戦は上司の指示だった」とつづられていた。
一方日本軍の最高統帥機関大本営。
インパール作戦を認可した大陸指には大本営上級幹部の数々の押印がある。
その一人大本営服部卓四郎作戦課長。
イギリスの尋問を受けた際こう問われている。
牟田口司令官の遺品の中に一冊の古い洋書があった。
著者はインド国境で戦った…晩年2人は手紙をやり取りしていた。
牟田口司令官はバーカー中佐が自らの作戦を評価してくれていると感じた。
70歳を過ぎた牟田口司令官は国会図書館に赴き作戦の正当性を記録に残した。
1966年牟田口廉也司令官は77歳でこの世を去った。
牟田口司令官に仕え味方5,000人を殺せば陣地がとれるという会話を記録していた…敗戦後連合軍の捕虜となり1946年に帰国した。
その後結婚し家族に恵まれたが戦争について語る事はなかった。
はあ…インパール…。
73年前23歳だった齋藤博圀少尉は死線をさまよいながら戦慄の記録を書き続けた。
「片足を泥中に突っ込んだまま力尽きて死んでいる者」。
「水を飲まんとして水に打たれている死体」。
「そういえば死体には兵軍属が多い」。
「確かに将校下士官は死んでいない」。
うん…。
2017/08/15(火) 19:30〜20:43
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパール」[字]

太平洋戦争中、インドにあったイギリス軍の拠点を目指したインパール作戦。歴史的敗北を喫した作戦の戦場で何があったのか。新資料や新証言でその全貌に迫る。

詳細情報
番組内容
川幅600メートルにも及ぶ大河と2000メートル級の山々が連なるインドとミャンマーの国境地帯。今から73年前、日本軍はこの国境地帯を越えインドにあったイギリス軍の拠点「インパール」の攻略を目指した。しかし、誰一人としてその地を踏むことが出来ず3万とも言われる将兵が命を落とした。歴史的敗北を喫した戦場で何があったのか。新資料と新証言でその全貌に迫る。

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