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NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」 2017.08.14

北海道の北に広がる大地サハリン。
かつてここは樺太と呼ばれる日本の領土でした。
炭鉱や製紙業が栄え全国から人々が移り住みました。
昭和20年の夏人口は40万に達していました。
その樺太の町を突然襲ったソビエト軍の艦砲射撃。
終戦後の8月20日の事でした。
3万5,000人のソビエト兵が侵攻。
住民を巻き込んだ地上戦が終戦後も7日間にわたって続いていたのです。
樺太戦の犠牲者は5,000人とも6,000人ともいわれています。
その多くが民間人でした。
幼い子どもたちも数多く亡くなっていました。
なぜ終戦後も戦争は終わらなかったのか。
実は日本軍の側も武器を捨てず樺太死守を掲げて戦い続けていました。
十分な兵力がない中住民たちを戦闘員として最前線に立たせます。
それでも戦闘をやめる判断ができない現地日本軍。
住民たちは追い詰められていきます。
若い女性たち9人の服毒自殺。
家族の集団自決も相次ぎました。
これまでほとんどかえりみられる事のなかった樺太地上戦。
終戦後7日間の悲劇を見つめます。
太平洋戦争末期。
アメリカを中心とする連合国と絶望的な戦いを続けていた日本。
8月9日ソビエトが中立条約を破棄して日本に宣戦布告しました。
ソビエト軍は満州に侵攻。
そして当時日本領だった南樺太でも国境付近で戦闘が起こりました。
樺太戦を体験した人たちが多く引き揚げてきた北海道。
ほとんど知られていない樺太戦についてこれまで語ってきませんでした。
これが父ですね。
樺太南部の町に住んでいた山崎さん一家。
一度も戦火を経験する事なく終戦を告げる玉音放送をラジオで聴きました。
(玉音放送)「堪え難きを堪え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かむと欲す」。
当時10歳だった山崎さん。
その日の銭湯での出来事をよく覚えています。
しかしソビエト軍は終戦で安堵する市民に襲いかかります。
激しい空襲によって父親の哉平さんは命を落としました。
近所に避難を呼びかけているさなかの事でした。
なぜ終戦後に多くの命が失われる事になったのか。
今回私たちは日本とロシア各地の公文書館などで資料を発掘。
かつて樺太に住んでいた人たちを捜し出し悲劇の深層に迫りました。
終戦翌日の8月16日。
その後の樺太の運命を左右する重大な出来事が次々に起きていました。
西海岸の町恵須取。
降伏を受け入れたはずの日本側が先制攻撃を仕掛けていたのです。
攻撃したのはこの海岸に控えていた日本兵300人。
その一人…上陸してきたソビエト兵には戦う姿勢は全く見られなかったといいます。
この日本軍の攻撃が引き金となりソビエト軍が機関銃で激しく応戦してきました。
(機銃掃射)実は大槻さんたちはこの時終戦の事実を知らされていませんでした。
大槻さんがいた恵須取では終戦の前日大規模な停電が起き人々は玉音放送を聴く事ができませんでした。
現地部隊の上層部は終戦の事実を覆い隠していました。
大槻さんは何も知らずに戦いを続けさせられた事に憤りを感じています。
実はこの同じ日陸軍第88師団樺太師団の本部に不可解な命令が届いていました。
終戦後にもかかわらず「樺太を死守せよ」というのです。
師団ナンバー2の鈴木康参謀長は既に武装解除の準備を進めていました。
命令を受けた時の戸惑いをこうつづっています。
この日東京の大本営はやむをえない自衛を除いては直ちに戦闘行動を停止すべしと天皇の名で全軍に伝えていました。
ところがこの命令を受けた札幌の第5方面軍は「樺太を死守せよ」と鈴木たちに命じていたのです。
命令を出した札幌の方面軍の司令官口季一郎中将。
戦後こう回想しています。
実はソビエトの指導者スターリンは既にアメリカとの密約で樺太千島の領有を認めさせその上北海道北部の占領もひそかに求めていました。
口司令官は北海道占領を阻むための防波堤として樺太死守を命じていたのです。
しかし樺太師団にはそもそもソビエト軍に対抗できるだけの戦力はなく援軍も全くありませんでした。
終戦の翌日に突然突きつけられた樺太死守の命令。
住民たちは戦火へと追い込まれていきます。
樺太の住民たちが戦闘員として最前線に立たされていた事を示す資料がありました。
樺太戦の資料が保管されているロシアの資料館です。
戦後ソビエトに抑留された樺太の軍人や役人の調書や書き残した記録です。
その一つに女性や子どもまで駆り出して国民義勇戦闘隊を組織し軍と共に戦わせる計画がありました。
「在樺太の全日本人を兵員として第一線に使用せんと企図せり。
戦闘用具は槍。
手榴弾。
毒矢。
玉砕全員戦死まで遊撃戦を行わんとする」。
住民をどう戦わせるのか。
軍が念頭に置いていたのが沖縄戦でした。
住民を軍に協力させ本土決戦までの時間を稼いだ作戦的勝利だとして高く評価。
全国に国民義勇戦闘隊を組織する計画でした。
樺太はその計画が実行された唯一の戦場となったのです。
実際に少年兵として最前線に立った男性が存命である事が分かりました。
16歳の時近所の人たちと一緒に国民義勇戦闘隊に召集されました。
金沢さんが送り込まれたのはソビエト軍が上陸した恵須取の最前線。
ふだん着のまま何の訓練もなしにゲリラ戦に投じられます。
武器は家にあった熊撃ち用の古い銃でした。
ソビエト軍が容赦なく銃弾を浴びせかけてきます。
(機銃掃射)犠牲になった住民の遺体が浮かんでいたという海。
ある地域では国民義勇戦闘隊100人が命を落としたと記録されています。
「遊撃戦の効果はほとんどなくいたずらに死傷を重ねたるもののごとし」。
奇跡的に生き延びた金沢さん。
気が付くと仲間の姿はありませんでした。
ソビエト軍の攻撃を避け山道に分け入ります。
そこで住民たちの無残な姿を目の当たりにします。
金沢さんが目撃したのは戦火を逃れる途中で命を落とした人々の姿でした。
南北450キロある南樺太。
この道のりを住民たちは引き揚げ船が出る港を目指して南下していました。
その人々の群れがソビエト軍の戦闘機の標的となっていたのです。
当時8歳の少年。
母親と共にその集団の中にいました。
ソビエト軍に見つからないよう夜間に歩き続けた住民たち。
疲れ果て動けなくなる子どもが相次ぎました。
住民の逃避行に加わった金沢さん。
命を絶ったある家族の事が忘れられません。
この時樺太に続き北海道北部の占領を求めていたソビエトの指導者スターリンに対してアメリカの大統領トルーマンがそれを拒否する手紙をしたためていました。
米ソの動きを知る由もない樺太師団。
北海道のいわば防波堤として出された樺太死守の命令を守り戦闘を続けていきます。
8月20日ソビエト軍が樺太で最大の上陸作戦を敢行します。
その場所は西海岸の港町真岡。
引き揚げ船に乗ろうと逃避行を続けてきた人々が集まっていました。
早朝霧の中から巨大な船が姿を現します。
その時に撮影したとされる映像が今回モスクワの資料館で見つかりました。
現れたのは10隻を超えるロシアの軍艦。
激しい艦砲射撃を繰り返していました。
家族6人と共に引き揚げ船を待っていた…バシバシバシバシババババババババババババッと…この日樺太師団の鈴木参謀長はソビエト軍との交渉に初めて臨みました。
同席した通訳がその時のやり取りを記録していました。
住民の犠牲が増える中内心では停戦を望んでいた鈴木。
こう切り出します。
ソビエト側はこう主張します。
住民の犠牲を懸念していた鈴木。
それでも樺太死守の命令に縛られ建て前を繰り返します。
ソビエト側は怒りを募らせます。
3時間に及んだ交渉は決裂。
停戦の機会を生かす事はできませんでした。
真岡では艦砲射撃に続いて3,500人のソビエト兵がなだれ込んできました。
絶望した住民の間で集団自決が相次ぎます。
艦砲射撃にさらされた藤谷さん。
これまで胸にしまい込んできた記憶を初めて口にしました。
家族ぐるみのつきあいがあったある一家の最期の姿です。
中学校の教員だった父親が軍刀で自殺。
その傍らには妻と子どもたちの遺体が並んでいました。
「一億玉砕」の掛け声の下捕虜になってはいけないという日本軍の精神が住民にも植え付けられていました。
私が思うには…このころ混乱に陥った真岡の背後にある熊笹峠には武装した200人以上の日本兵が控えていました。
しかし真岡の住民を守るために動く事はありませんでした。
軍は樺太師団の本部がある豊原への侵攻を食い止める事を優先させ兵士たちを峠で待ち伏せさせていたのです。
その命令を受けていました。
ソビエト軍の前に置き去りにされた住民たち。
そこで何が起きたのか。
元ソビエト兵の生前の証言です。
そして悲劇は起きました。
当時真岡に住んでいた松下ハルさん85歳。
ソビエト兵の上陸直後に姉が自ら命を絶ちました。
これがそうなんです。
しっかり者の自慢の姉でした。
キミさんの仕事は当時若い女性たちの憧れだった電話交換手。
軍や行政の通信も担うため命より大切な仕事と教育されていました。
ソビエト軍が上陸する2日前引き揚げ船に乗る事になった家族はキミさんを一緒に連れていこうとしました。
しかしキミさんは一人港にとどまりました。
8月20日ソビエト兵が上陸。
キミさんたちは銃撃が続く中その状況を伝え続けました。
軍の本部のあった豊原でその連絡を受けた人が健在である事が分かりました。
電話交換手だった…緊迫したやり取りのあとで電話口から聞こえてきたのはうめき声でした。
キミさんを含めて9人の女性たちが職場で用意されていた自決用の青酸カリを飲んで命を落としました。
松下さんは真岡を離れる時姉のキミさんに着物を託されていました。
結婚が決まっていたキミさんの嫁入り道具です。
本当はどれほど生きて帰りたかった事か。
ずっと考えてきました。
ソビエト軍が上陸したこの日真岡ではおよそ1,000人が死亡。
その後師団本部のある豊原も空襲を受けます。
引き揚げ船も攻撃され樺太戦の犠牲者は5,000人以上に上りました。
8月22日終戦から1週間がたったこの日ようやく停戦が成立します。
樺太死守を命じていた札幌の方面軍が大本営の指示を受けて「ただちに停戦せよ」と命令を翻したためでした。
武装解除した樺太師団。
ソビエト側が撮影した映像に鈴木参謀長の姿が映っていました。
住民の犠牲を防げず樺太を死守する事もできなかった鈴木。
後悔の言葉を残しています。
参謀長だった鈴木は12年間シベリアで抑留生活を送りました。
住民の多くはおよそ2年間ソビエト占領下のサハリンに留め置かれました。
家族や財産を失い帰国したあとも苦難の戦後を生きる事になりました。
昭和史に関する多くの著作がある保阪正康さんです。
終戦後も多くの住民が犠牲になった樺太戦。
その責任の所在は今なお曖昧なままだと指摘します。
樺太真岡。
現在のサハリンホルムスク市です。
先月電話交換手だった姉を亡くした松下ハルさんが初めて訪れました。
72年前姉のキミさんと別れた港。
ここに一人残り家族に手を振り続けていたキミさんの姿が忘れられません。
姉さんね。
はい。
戦争が終わったはずの日本で本土の防波堤として戦火にさらされていた人々。
これまでかえりみられる事のなかったこの悲劇にどう向き合うのか。
失われた一人一人の命が問いかけています。
2017/08/14(月) 20:00〜20:43
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」[字]

昭和20年、北海道の北に広がる樺太では終戦後も住民を巻き込んだ地上戦が続き、数千人の民間人が命を落とした。なぜ戦闘は終わらなかったのか、7日間の悲劇に迫る。

詳細情報
番組内容
北海道の北に広がるサハリン。かつて「樺太」と呼ばれ、40万人の日本人が暮らしていた。昭和20年8月、終戦後にも関わらず、住民を巻き込んだ地上戦が1週間にわたって続き、5000人とも6000人とも言われる人たちが命を落とした。なぜ終戦後も戦闘は終わらず住民の被害が拡大したのか。長年沈黙を守ってきた元住民たちの証言、そして国内外で発掘した資料から、樺太の悲劇に迫る。
出演者
【語り】広瀬修子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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