郷土の古城と史跡めぐり

 瀬戸市の古城とその近くにある史跡を訪ねるツアーです。どなたでも参加できます。初参加の方 歓迎です。

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126-2 水野城 (みずのじょう・瀬戸市)

2008-03-24 09:27:44 | 古城探訪記 第2部

(上水野「感応寺」の北に城址らしき平場があった)

別名 一色山城・五万石城・城ヶ嶺城・(シンド山城)など

①所在地 瀬戸市水北町地内 
②年 代 ―  
③城 主 水野高康(磯村左近)
④行き方 ア、JR中央線「定光寺駅」から南南東へほぼ1・5㌔。
イ、〈車〉県道210号を東から来て、「上水野」の信号で右の広い新道に入り300mほどで右折して、「感応寺」の手前から山道に入る。
◇目標・電源開発の鉄塔   ◇遺構等・山容のみ  

『現 況』
 古書にある「沓掛道」は残っていないので、天保の村絵図を頼りに岨道を登る。「感応寺から沓掛道をおよそ6丁(650m)ほど上がったところに城址」とあるが、その位置がこの辺りになる。以前聞いたことがある「池」もあり、地形も、山城向きになっていた。
 先に紹介した労働者研修センターのロビーから目の前に見える山(川平町)よりは 集落にもはるかに近い。


   (崖下には池もあった) 

『略 史』
 この城は水野氏代々の居城だという。とすれば、これは青野ヶ原合戦で敗れた尾張源氏の山田重清(緒川2代となる)が、知多郡小河(現緒川)から春日井郡の水野邑に入り、水野小三郎を称したとあるから、緒川・水野氏一族が隠れ住んだ地と見るべきではないか。
 しかもこの源氏系水野氏は数代を経ずして元の知多郡小河に帰り、重清から七代目の小川正房のとき、足利将軍家に叛き、尾張守護の土岐氏に攻められ、緒川・濁池城で討たれている。そのため、一族は再びこの水野村に避難してきた いわば「落人の一族」なのである。一色山は、現代でも人里から遠い山中であるから、隠れ里には最適地ではなかったか。
 一方、承久の変で朝廷方に味方し、北条の大軍の前に全滅した、出自が平家の志田見郷・水野高家の子・高康、その子有高らの居城が この一色山であったとした場合、もともと水野の地を郷司として治める立場の彼らが、なぜこのような山奥の地に城を築く必要があったかという疑問が生ずる。張州雑誌では、一色城は水野備中守(致高)の城にあらずとしているが、私もそう思う。
 その後、室町末期に磯村左近清玉がこの地に築城し、織田家に仕えたとある。左近の室は水野氏から嫁いでいる。天文3年(1534)水野城主磯村左近、織田信秀に仕え、余床・菖蒲ヶ沢で戦死とあり、信長が弟信行と戦った弘治2年(1556)の稲生合戦では、水野城の磯村左近(清玉の子であろう)が瀬戸城の加藤光泰とともに信長方に属して、今村境で飯田街道(瀬戸街道)を敗走してくる信行方の狩宿城主らを迎え討ったとあるが、織田信長家臣人名辞典には磯村某の名はなく、その後の磯村氏の事績も全く伝わっていない。
 だが、旧上水野村をはじめ瀬戸市一帯には 磯村姓を名乗る者は多い。城主の末流の人々であろう。

◇〈水野城位置考〉
 私は、本来「落人一族の緒川・水野氏」と出自が平家の「志田見・水野氏」の居城は別個のものではないか、と思っている。そんなわけで、前回は「126一色山城」として登場させたこの城について、今回は「126-2水野城」として紹介することにした。

① 水野城の場所に疑問を持った私は、天保12年の村絵図にある古城址を目指して、感応寺の西側から(古書にあった「感応寺から沓掛道をさらに六丁=約650㍍)山道を上ってみた。そこは、以前土地の人たちから「昔 城があったところ」と教えられた場所らしく、電源開発の高圧線の鉄塔が立ち、周囲に平場があり、土橋らしき形も残り、急な崖下には話にも聞いていた池もあった。ここは感応寺の北方角に当たる山(水北町)であり、水野の集落にも近い。ただ、村絵図にある城址は、絵の位置から見て、もう少し北方ではないかという気がする。

② いま一つは、同じ水北町であるが、感応寺の東方数百㍍の山中にある平場で、北側に古い石組みの崖を持つ場所である。集落の北のはずれの高地にあり、その昔はむら全体が見渡せる好位置であったろうと思われるのである。何よりも、水野城最後の城主とされる磯村氏の末裔が住んでおられる所に近い。
 右の①②が位置不明の「水野城」の所在地ではないかと思うのであるが、いまひとつ確信が持てない。どなたかご存知の方はありませんか?


 (この土橋?の手前に曲輪址らしき平場がある)  
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2 コメント

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水野氏史研究会 (∞ヘロン)
2008-03-27 05:45:49
 寒い季節でもお元気で各地をご探訪お連れ様でした。その意気込みには頭が下がります。
今回もまた水野城のご考察を拝読いたしました。

今般「水野氏史研究会」を設立しましたので、ぜひともご入会いただきたくお願い申し上げます。
小生のネームをクリックしていただくと本会のブログにリンクされますので、どうかよろしくお願い申し上げます。会員としての義務は何もありませんし、また会費などは不要です。


入会御礼 (∞ヘロン)
2008-03-30 05:29:40
 早速、水野氏史研究会にご入会いただきまして誠にありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。
尚 水野城のトラックバックを送りましたのでご報告いたします。

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 この記事では、現在参照できる資料から、所在が不確かな水野城について、色々と考察してみることにする。

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