30度以下。 やれば できるじゃないか。 それでいいのだ。
by huttonde
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時代劇
c0072801_9394655.jpg
『空っ風吹く』 小栗忠順と次郎太

※大雑把な話・流れ

空青くも、強いからっ風が吹く昼下がり。
遠くまで広がる干上がった田畑、畦道からは嫌がらせの
ように砂埃が舞い上がり、歩くことを邪魔するがごとく
横風が吹きつけている。
その畦道一本、そこに小さな風呂敷包みを背負った粗末な
百姓姿で、片目の若者が歩いている。その後ろから遠く、
人影が三つ迫って来る。
「待て、次郎太」
三人の浪人風の男が走って来て次郎太を前後にした。
このまま逃げられると思うな、金を出せと抜刀して脅す
浪人に、次郎太はぼそっと
「そういうのやめようよ」
と答えてしゃがみ込むが、浪人二人は斬りかかろうと
刀を構え、一人は次郎太の目の前に刀を突きつける。
たいした額ではないのにとボソボソ言い訳する次郎太、
地べたに落書きをする風であったが、いきなり砂を浪人の
顔に投げつけ、浪人が顔を背けた途端に、腰の脇差を抜き、
飛び掛るように浪人の小手から首をなぞって背後に回った。
刃の衝撃は浪人の首にかかり、鮮血を噴き出して横に
崩れ落ちた。
これを見たもう一人は夢中で上段から降りかかるが、小柄な
次郎太はその下へ潜るような勢いで突っ込み、小手を下から
斬り上げた。思わず浪人の手が緩んで刀が落ちかかると、
次郎太の脇差が叩き落すように斜めに振り下ろされ、刃は
深く浪人の首を切り裂いた。
浪人は前のめりに膝を着き、その場に倒れた。
残る一人も予想外の展開に慌てて斬りかかるが、次郎太の
突き上げるような脇差は、相手の左手首に直撃し、
これもまたまもなく倒れ込んだ。
「銭より命だんべが」
血糊の付いた脇差を浪人の袖で拭い、顔に付いた血を
腰の手ぬぐいでふき取ると、「罰としていくらかちょうだい」
と、両浪人の袂や懐を漁り、小銭を手にすると
その場を離れた。が、引き返して刀も三本もらっていった。

西洋列強が世界中を植民地化し、
日本にもその矛先が向いてきた幕末。
嘉永六年(1853)六月に、東インド艦隊司令長官の
ペリーが米国使節として四隻の軍艦で江戸の庭ともいえる
江戸湾に入り、久里浜に上陸してフィルモア大統領の
国書を幕府側に手渡した。
いわゆる黒船の来航で、庶民は無論、事前に情報を掴んで
いたとはいえ、江戸近辺での黒船の行動に幕府も驚き慌てた。
翌月になると長崎にはプチャーチン提督のロシア艦隊が
やってきた。いずれも国交を結ぶべく開国要求だった。
徳川幕府は自らの心許ない軍事力から、攘夷を望む朝廷の
意に反して開国を決断した。これを機に我もまたと同様の
条約を望むイギリス、フランス、オランダ、ポルトガルと
後に続いた。これにより国内では、幕府を弱腰として
責め立て、尊皇攘夷と倒幕の気運が高まり、各藩では
意見対立が起こり、井伊大老暗殺の桜田門外の変をはじめ、
要人暗殺や強盗放火などで江戸や京の治安は乱れて、
混迷の様相を呈してきた。

・・・・

幕府の開国政策によって行われた遣米使節の一員として、
交渉事を監視する役(目付)を担った幕臣の小栗忠順は、
目的の一つだった貨幣の交換比率是正のための交渉で不公正
な実態を米国側に認めさせた。これは先の日米修好通商条約
で通貨の交換比率を、日本と欧米では銀の価値が違うにも
関わらず重さのみで決めてしまったため、一ドル銀貨が
一分銀三枚、一両小判に相当して、米国で地金として売れば
大きく利ざやを稼ぐことが出来たので、それを知った外国
商人から外交員や船員までが、競うように一両小判を手に
入れて外国へ持ち出し、国内では急激な物価上昇が生じて
経済に悪影響を及ぼしていた。
本来、この通貨交換比率の問題は水野忠徳(ただのり)が
着目し、米国総領事のハリスや英国のオールコックとの
交渉議題になっており、遣米使節団の一員となる予定
だったが、既にハリスとの間で日米修好通商条約に調印
したとして、尊皇攘夷として交渉に反対する一橋派や朝廷
からの批判を受けて、大老井伊直弼は交渉役だった水野や、
同席していた岩瀬忠震(ただなり)や川路聖謨(かわじ
としあきら)、永井尚志(なおゆき)ら開国派を左遷
していた。
その井伊が家柄や経歴、人柄などを吟味して水野の代役
として抜擢したのが若き小栗忠順だった。
外国船が度々訪れるようになっていたこの頃、小栗は
詰警備役として江戸湾での守りに当たっていた。立場上、
いざとなれば一戦の覚悟はあるものの、各国の黒船を見れば、
その技術力や、それを生み支えている経済力は日本を
超えているであろうと容易に察しがつく。到底頑迷固陋
なる攘夷には与しなかった。
井伊も表立っては言えないが、開国は必至とわかっている。
小栗の見識と実直さを知った結果、使節団の三番手といえる
目付け役という大役を任せた。
小栗は外交実績のある水野に詳しく外交の経緯を教わり、
水野も小栗を認めて要諦を伝えていた。
通貨交換比率は条約批准の目的から主要な議題から外れて
いたが、無視出来ない問題だった。
こればかりは経済に疎い正使の新見正興や副使の村垣範正
ではなく、認識深く剛胆の気質ありとして、水野から直々に
小栗自身が交渉に当たるべしとの指示を得ていた。
小栗は非公式ながら一分銀と同等の一分金をそれぞれ現地
造幣局で分析を強く要請、その含有率の正確さと価値を
確認させて比率是正を訴えた。
政府間としての合意には至らなかったが、
米国側は分析結果を認めた。
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安政七年・万延元年(1860)4月5日
ワシントン海軍工廠での使節団:
正使 新見正興(前列中央)、
副使 村垣範正(前列左から3人目)、
監察 小栗忠順(前列右から2人目)、
勘定方組頭、森田清行(前列右端)、
外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、
外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)
小栗忠順 - Wikipedia
万延元年遣米使節 - Wikipedia
c0072801_137577.jpg
Old Japan Comes to Life in Images From
The Metropolitan Museum of Art Archives
| Spoon & Tamago


小栗の堂々とした交渉や言動は米国側でも評判となり、
幕府もその功を認めて帰国後は外国奉行に就任したが、
まもなく対馬に来た露国船の乗組員達による占拠事件で
交渉に手間取り、上司である老中安藤信正に、各国が狙う
重要地点である対馬を幕府直轄地にして防備を充実させる他、
正式に幕府と露国政府との外交に持ち込むべきと献策するも、
容易ではないと保留され、英国海軍の協力を考えていること
を知らされた。小栗は後顧の憂いを残すとして、英国の関与
には頑として反対したが、安藤は既に決めているらしく、
小栗の意見を聞き流す風だった。
もはや打つ手無しと小栗は奉行を辞職し、無役として
日を送ることになった。

その後対馬の露国船は、幕府の要請による英国海軍の軍艦
が警告することで立ち退かせることが出来たが、この事件で
幕府の無力ぶりが知れ渡って攘夷の気運は一段と強まり、
小栗もまた無能な幕府方として、対馬や周辺から恨みや
侮りを受けることになった。
後に英国への協力要請は勝安房守が安藤に献策したと聞いた
小栗は不快さを増すばかりだった。
英国公使ハリー・パークスは、幕府の要請に応えて軍艦二隻
を派遣し、露国船を立ち退かせることに成功したが、
パークスもこれにより対馬占領の必要性を英国本国に
伝えていた。しかし、このことが知られるのは随分後の
ことで、日本側で知るものはいなかった。

・・・・

ある朝、江戸城外堀は御茶ノ水付近の土手で目を覚ました
次郎太が歩きだすと、前方の一角で数人の武士が抜刀して
にらみ合っていた。
登城途中だった小栗忠順の一行を浪士達が
囲んでいたのだった。

小栗は直心影流免許皆伝の腕前で、護衛の供も相応の腕を
持っていたが相手は多勢、即撃退も難しく、致命傷を与える
ことも受けることもないまま、膠着状態となっていた。
そこへ次郎太は出くわした。

次郎太は斬り合いの場を見て、襲っているらしき浪士達の
背後で見据えている男を、背後から刀で突き刺した。
男は前に倒れ、それに気づいた浪士達は不意を突かれた
様子で隙を見せた。たちまち浪士三人が小栗側の反撃に
合って負傷し、間もなく遠くから奉行所の同心達が岡っ引き
と駆けつけて来たのを知ると、浪士達は戦意喪失となって
その場を逃げ出した。

危険を脱した小栗は、次郎太に礼を述べると、返礼に腹の
虫を聞く。事情を聴くと、上州の村からやって来た百姓の
倅で、当てもなく江戸までやって来たという。
小栗は次郎太に供を一人つけて、自宅で飯を食わせるよう
指示すると、自身は登城して行った。

午後、小栗が帰宅すると、次郎太は既に家を出ていた。
付き添った供から詳細を聴いた小栗は、次郎太を呼び戻す
よう命じた。
小栗の供達が再び次郎太の姿を目にしたのは、次郎太が
二人の武士に斬られようと囲まれた直後だった。
探していた供が四人合流してその場に来たため、
武士達はそのまま逃走し、次郎太は難を逃れた。
おそらく小栗襲撃の失敗を恨んでの報復ではないかとの
憶測が為された。

・・・・

小栗邸に戻った次郎太は、小栗に危機を救われた礼を述べ、
改めて挨拶しようと小栗と家臣数名を前に口上を述べた。
「お控えなすって、小栗の殿様、そして御一党の皆々様に
お控えなすって、我が身救われた手前、皆々様に厚く御礼
申し上げると共に、改めて御挨拶の口上を申し上げます。
手前生国は上州は前橋、その南の東群馬郡後閑村という
寂れた村にござんす。夏は暑く雷うるさく、冬はかじかんで、
春先には空っ風が邪魔な荒れた風土で、貧乏百姓の次男坊
として生を受け、名を次郎太と申します。
餓鬼の頃から親父や兄の野良仕事を手伝ってまいりましたが、
その親父も兄にも死に別れ、義理の母とは縁薄く、母は実の
娘の嫁ぎ先へ移り、手前もまた百姓を捨てて近隣の剣術道場へ
修行を兼ねて小僧として住み込みましたが、兄弟子達の悪意
丸出しのしごきに耐えかね、それを知りながら放任の道場主
にも腹を立て、ついに一年半程で情けなくも逃げ出しました。
その後、その地域を治める親分の下で小僧として働くこと二年、
博打に明け暮れる者達に囲まれての暮らしにこのままでいかん
と考えを改め、江戸行きを決めて数日、人足寄場(よせば)
にでも行こうかと、この近くまでたどり着きましたるところ、
目の前にお殿様御一行が賊に囲まれていたのを目に致し、
その不義は無視できぬと手前も思わず抜刀したという次第に
ござんす」
小栗は退屈そうな顔で、
「・・・・長いなあ。簡潔で構わんぞ」
「へぇ、丁寧な挨拶のつもりでしたが・・・・」
「次郎太、か。博徒だったのか」
「いえ、その見習い小僧といったところで」
「門前の小僧、習わぬ経を読む、だな。うむ、相分かった」
「また、御屋敷に招かれまして、一飯の御恩まで預かり、
この次郎太、数日の空腹を癒すこともできまして、深く感謝
申し上げると共に、御殿様、御一党の皆々様、不肖この
次郎太、何卒宜しくお見知りおきの程をお頼み申し・・・・」
「わかった、次郎太、もうよい、長いのは苦手じゃ。
追々聴いておこう」
小栗は苦笑して話を切り上げた。

次郎太の刀は父の形見の脇差で、代々受け継がれていた
というが、由来はわからないままという。
小栗が次郎太の右目について聞くと、子供の頃に若い武士
から斬られたという。次郎太が遊んでいるうちに通り
かかった武士にぶつかってしまい、激怒した武士に謝れと
怒鳴られたが次郎太は謝らず、武士が抜刀して脅すつもりが
当たってしまったらしい。小栗が「その武士はどうなった」
と聞くと「お咎めなしでうやむやに」終わったという。
小栗は自分の頬を軽く叩きながら、
「俺の場合はな、子供の頃に疱瘡を患って“じゃんこ”
(あばた)面になっちまって、近所の連中から
『じゃんこ殿が来た~』なんて言われてたよ」
と苦笑した。
小栗は額が張った木槌頭とも言える風貌で、目は冷徹そうな
二重であり、相手を刺すような鋭さがある。ややとがった
あごにしっかり締まった口元も小栗の意志を示している
ようで、改めて小栗と対面した次郎太は、その目つき、
表情に緊張したが、次郎太が特に怪しくもない百姓の子と
安心したのか、小栗は落ち着いた表情に変わっていた。

次郎太は小栗の好意によって中間として奉公することに
なった。
中間とは武家奉公人の一つで、戦国の世でいえば足軽並の
立場である。太平の世となっては主人の登城に護衛として
付き従い、身辺の雑務をこなす者達である。
武士ではないが一町人でもなく、脇差を挿すことも
許された。
次郎太は、小栗から剣の流派を問われると
「門前小僧流生兵法」と答えた。
しかし、小栗の無表情に気が引けたのか畏まって
「むねん、むにゃむにゃ・・・・」
と言い直そうとすると、小栗は「神道無念流か」と
察しをつけて、笑ってそれ以上は尋ねず、
「そうか、俺自身は直心影流の稽古を長年続けてきた。
最近、役を解かれて暇でな、おまえにその気があれば
流派は違うが、初歩の稽古をつけることくらいは出来るぞ。
どうだ」
「へぃ、剣術には興味はありますで、お殿様が
よろしければ、是非とも」
「うむ、毎朝の稽古とするか」
小栗が微笑んだ。
次郎太は道場での細かい経緯は話さなかった。
「・・・・ところで」
と小栗が間を置き、
「これまでも人を斬ったことはあるか」
次郎太に聞いた。
次郎太の脳裏に先日斬った3人の倒れた姿がよぎった。
「・・・・いえ・・・・」
次郎太の答えは鈍く、呻くような声をもらした。
「昨今、尊王攘夷を標榜する賊徒達による幕府要人への
襲撃や、同じ者達によるであろう強盗放火が頻発しておる。
今回もまたその騒動と相成ったわけだが、俺は幕府公人
として法を守る義務がある。賊徒同様に安易に切った張った
とやり合うわけにはいかぬ。家来も同様、節度を持って
日々暮さねばならぬ」
「へぇ・・・・」
「当家の中間となれば、決め事は守らねばならない。
勝手な行動厳禁、近隣への対応、日々の言動にも
注意を払わねばならぬ・・・・要は、喧嘩はするな、
気働きを欠かすな、ということだ」
「・・・・へぃ」
「日々の用事については塚本(真彦 まひこ)が
教えてくれる。わからないことがあったら
塚本に聴くがよい。塚本、頼むぞ」
「は」
傍に控えていた塚本真彦(まひこ)勉はまだ二十代の若者で
あったが、播州林田藩主、建部政醇(たけべまさあつ)の
家臣として、政醇の娘道子が小栗家へ嫁ぐ際に随行して
小栗家家臣となり、家来衆をまとめる用人を務めていた。
若いとはいえ落ち着きのある佇まいで、武士として生まれ
育ったであろうことは次郎太にも察せられた。

小栗は時に奉公人達を前に、米国へ行って交渉に臨んだこと
や、様々な地を見学したことを好んで語り、世界各地の
状況や日本の現状、開国の持論などを聴かせることもあり、
親しい来客があれば情報を聴き、議論を重ねるのが
常だった。
寡黙で殺伐とした様子だった次郎太は、気さくで屈託のない
小栗の言動に、次第に信用と興味を持って接し、
日々奉公に専心した。

しばらく後、道場での先輩、平助が次郎太の前に現れた。
平助は次郎太同様に陰険な道場に嫌気が差し、麻布の
毛利甲斐守の屋敷、長州藩江戸藩邸で中間を務めていた。
その後、次郎太と時折会っては時勢を語るようになった。

・・・・・

財政逼迫で人を雇うのも苦労した幕臣達は、登城の供も
玉石混交であり、代々の武家もいれば町人もあり、
小栗の一行もまた同様だった。
次郎太は無学な百姓の出として小栗家でも格下の立場と
なっていたが、屋敷内での雑用のみの下男ではなく、
小栗一行に助太刀した度胸を買われて、登城の供、中間と
しての扱いとなり、幸いに一奉公人として周りとも
支障なく暮らした。

次郎太は小栗の護衛と屋敷での雑用が主な仕事であり、
給金は安いものの衣食住に心配は無く、武家独特の礼儀作法
に気をつける他は、道場での下働き当時と違っていじめも
しごきもなく、心身への苦痛と無縁となっていた。また、
時間に余裕もあって邸内の中間用の長屋で昼寝もでき、
外への御遣い次第では、多少の時間を潰すことも黙認されて
いたので、同じ中間同士で軽く博打をすることもあり、
近所を散策することもできた。

田舎と違って物珍しさもあり、時間があれば方々を歩き回る
次郎太は根付を扱う店を知り、その凝りに凝った品々に
興味を持った。熟練の職人による商品で芸術品でもあり、
手に入れることは無理だったが、頻繁に通っては見物する
ようになり、店の主人に作るための材料や道具を教えて
もらって、主人に無理だと言われながらも道具を少し買い
込んで真似事をすることにした。

一方、外国奉行を辞した後、しばらく寄合いという無役の
小栗は、暇潰しにと次郎太の様子を見るべく邸内の長屋の
一室を訪ねた。次郎太の関心事が増えたことに安心しつつ、
現状を語って身の上を励ました。

その後、小姓組番頭を経て勘定奉行となった小栗は、
逼迫する幕府の財政建て直しに取り組むことになり、
迫る各国の進んだ技術や海軍力に対抗すべく、交流のあった
フランスの協力を得て製鉄(造船)所の建設を立案する。
その先には欧米に伍する大海軍構想があり、約十年の長期
計画で軍艦を三百隻準備し、北は箱館から南は長崎までの
六ヶ所に海軍基地を設け、他国からの脅威に備える
というものだった。
しかしそれを即実現できる予算があるわけもなく、十年と
いえども到底当てにならないとして反対する幕閣は多く、
その一人の勝安房守(海舟)は英国の例を挙げて、軍艦は
数年で造れるが、海軍を運用するには五百年はかかるから、
まずは人材育成を第一に準備し、操船技術習得のための
学校建設を優先すべきと異を唱えた。小栗の海軍構想は
却下されたが、その後も小栗の熱心な働きかけによって、
将軍家茂(いえもち)の許可を得て造船も可能とする
大規模な製鉄所建設が決まった。

勝は自身の功績でもあり諸藩との連絡に役立てていた神戸
海軍操練所の充実を考えていたが、小栗は閉鎖されていた
長崎海軍伝習所の後継として機能し、火災で大半を失って
いた築地の軍艦操練所の再建を考え、これを実行したため、
勝の小栗に対する反発は強まっていた。その上、神戸の
操練所には倒幕を画策する攘夷派も生徒として入り込んで
いることが判明し、勝は責任を取らされて自宅謹慎、
操練所は閉鎖となって、幕府に対する反発も生じて、
倒幕の志士への関わりを深めることになる。

小栗は人材育成を築地の軍艦操練所で継続、更に製鉄・
造船の本格的稼動を考えてのことで、米国から土産として
持ち帰ったねじ釘一本を家臣や次郎太達にも見せつつ、
国内に未だ無いその技術と、それを大量生産し、
大砲や銃器、砲弾等々、各種の工業生産を実現している
米国の現状を語った。
c0072801_1061058.jpg
 http://tozenzi.cside.com/sisetu-gyoseki.htm

小栗に限らず使節と随行員達は、異国異文明である米国の
現状と進んだ工業力に驚愕し、興味津々で各地を見学し
体験した。
更に大西洋航路での打って変わっての各植民地の悲惨な
様子などを目の当たりにして、激しい危機感に襲われた。
「物見遊山と揶揄する奴もいるようだが、
それで済む話ではない。
あの経験は今後大いに活かさねばならない」
と、次郎太達家来を集めて力説した。
「なにより驚いたのは、米国の技術の高さだけではない。
日本への帰路でアフリカの港へ立ち寄ったのだが、そこには
現地民であろう肌の黒い者達が、欧州の白人達によって
首と手足を鎖につながれ数珠繋ぎに引き回される情景を
目にした」
「それは罪人達ですか?」
塚本が聞いた。
「いや」
「現地民の抵抗があって捕虜となったと」
「違う」
家来達は一様にわからない様子で注目した。
「通訳に聞いたところ、彼らは何の罪もない」
「罪が無い・・・・?」
「彼らは奴隷だ。欧州やアメリカの白人達と違い、
アフリカに住む黒人達は国を持てぬまま奴隷として白人に
売られ、苦役に従事する。人として扱われず、仕事への
見返りなどない。牛馬の如く死ぬまでこき使われるか、
弱まれば死すのみといったところだろう」
塚本は苦笑しながら、
「そんな馬鹿な、人が人を一方的に罪人のように捕らえて
こき使うなど、戦の世でも考えにくいものですが・・・・」
「考えにくいが向こうでは現実だ」
家来衆の顔は引きつった。
「恐るべきはそれが日常であり、白人達になんら良心の
呵責が無いということだ。まったく自由の無い、
囚われの身である黒人達に情の欠片も無い。
俺はゾッとしたよ」
一同は無言になった。
「幕府が米国との交渉に向かったのはペリー総督以来の
条約の締結と国家間の交流にあるが、アフリカの惨状を
知るにつけ、我らも油断すれば同じ道を歩まぬとも
限らぬということだ。これはよくよく覚えておかねば
ならぬ」

・・・・

小栗ら遣米使節がサンフランシスコからパナマ経由で
ワシントンへ向かい、米国政府との交渉や諸施設を見学する
経験を経て大いに収穫とした一方、勝は護衛としてブルック
大尉達米国人が操船する咸臨丸でサンフランシスコまで
来ただけであり、そこで日本に引き返していた。
勝は立場も弱く不満が高じて部下にも当たり、行きの嵐では
船酔いで船内の部屋に篭り切った調子で、後に伝染病が蔓延
したと言い訳したが、長い往復の船上生活が、操船と運用に
対するこだわりとなっていた。

この頃、勝の護衛をしていた一人が岡田以蔵で、以蔵は
尊皇攘夷を標榜する土佐勤皇党の一員として、何人もの幕府
側要人を斬っていた。岡田は土佐藩を脱藩後、勝の弟子を
自認する坂本龍馬の紹介で勝の護衛となっていたが、倒幕に
こだわりを持ち、酒癖も悪く、小栗の存在を邪魔とみて勝に
対策を提案するなど、勝もその野心に当惑気味だった。

江戸城下で次郎太ら小栗の供達は、勝と以蔵を見かける。
先輩に説明を受けた次郎太は、以蔵の小栗を見る目の
険しさに異常を感じたが、その場は何事もなく互いに
通り過ぎた。

・・・

次郎太は一年ほど奉公人として地味な生活を続けながら、
多少時間のあった小栗の手ほどきで剣術稽古をしたが、
小栗の講武所御用取扱就任をきっかけに、特別の計らいで
小栗邸にも近い水道橋内三崎町に開設していた講武所で
剣術を習うことになった。
講武所には旗本や御家人など幕府関係者の子弟の他、
各藩からも参加があり、剣術の他に砲術(火縄銃や大筒)
なども教えていた。剣術には直心影流男谷派の祖にして
幕末の剣聖とも云われる男谷信友が講武所頭取並、
剣術師範役となっていた。



また当時、勝海舟は砲術師範役として一年近く講武所に
勤めており、子弟を相手に渡米について聴かせることも
あって、尊敬と注目を浴びていたが、直接の関わりがない
次郎太は勝の自慢話を人伝に耳にして、小栗から聴いていた
渡米と事情が違うことに気づく。

小栗邸に何度か来訪していた大鳥圭介は、中浜(ジョン)
万次郎から英語を学び、その後の親交で、小栗ら遣米使節
団が乗ったポウハタン号の護衛船となった咸臨丸に中浜が
乗船し、艦長の勝と日本人船員達の無知無力ぶりと、
米国人船員達の活躍ぶりを聴いていた。その大鳥の話と
「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自画自賛しているらしき
勝の言い分は正反対で、次郎太はその疑問を小栗に向けると、
小栗は何やら思うところあるのか、「はったり屋の癖だよ」
とぼそっと答えた。

・・・・

次郎太は剣術の稽古を受けつつ、時間があれば興味を持った
根付を見物すべく店へ出かけるようになった。
途中で久々に平助と会って居酒屋に行くと、酒癖の悪い男が
同僚らしき数人と口論し始めた。それは以前見かけた以蔵で、
尊皇攘夷に同意しない同僚に苛立ったらしい。やがて以蔵は
次郎太に気づき、小栗への憎しみを知らせると共に、次郎太に
対しても挑発し始めた。しばらく黙っていた次郎太が脇差に
手をかけようとしたのを察知した平助は、お互い長州藩に
関わりある身として以蔵をなだめ、次郎太の手を取って
店を出た。

後日、江戸城内で勝が小栗に会うと、以蔵の件で詫びた。
以蔵は酒乱気味で思い込みが強く分別に欠けるところがあり、
手元に置くには危ういとして暇を出したという。小栗は
知らなかったが、若者同士で酒の席なら仕方なしと気にする
こともなく、製鉄所建設や改革状況について雑談となった。

造船も各部品製造も自力では無理として、各国を比較して
対日姿勢でましなフランスに決めた小栗は、フランス公使
レオン・ロッシュと建設現場の選定や、技術者の招聘や
人員、資材の配備、各費用の交渉を進めた。
やがて、横須賀の漁村が巨大製鉄所建設に最適地であると
判断されて契約が交わされたが、これを知った幕府要人の
多くが反対し、その責任を負うものとして小栗は勘定奉行を
罷免された。それでも各手続きが進んでいたことにより
撤回もならず、小栗の強い働きかけもあって、建設は開始
されることになった。

建設候補地の調査には小栗の家臣達も同行、中間達も
参加した。江戸から離れて数日を要すため、衣服や文具、
書類等の運搬が必要であったからだが、
「それだけではないさ」
と、小栗は用人の塚本に話した。
「彼らにも気分転換がよかろう。何より海を見たことが
ない者もいるというからな・・・・・もはや国内だけを見て
いればいい時代は終わった。海の向こうには多くの国々が
あり、それぞれが活動している。我らも攘夷だの井の中の
蛙であってはならぬ。どんどん見て聞いて知ることが
望ましい」
次郎太も海を知らない一人だった。
調査にはフランスの大型蒸気船が使われ、乗船する小栗の
お供に加わった。海のない上州に生まれ育った次郎太は、
渡し舟以外初めての大型船であり、しかも蒸気船だった。
その大型船であっても、岸から離れれば波も変わり、
船は揺れる。江戸湾内と知っても海の上はまた初めての景色
である。
小栗の知行地の権田村から呼ばれて、次郎太と同じく中間を
勤めていた房太郎や兼吉も乗船していたが、やはり初めての
大きな蒸気船と広い海に、
「なんかこえぇなあ」
と緊張を隠せない様子だった。
房太郎や兼吉も次郎太より一つ二つ年上の、いずれも屋敷に
入って日が浅い若者だった。小栗が関東に点在する複数の
知行地から若者を呼んで、一介の百姓や商人ではなく、
新たな知識習得や経験をさせるべく、屋敷での奉公人に
していた。
次郎太は海風を浴びて、その清々しさを感じながらも、
やはり緊張は消し難く、鼓動が高鳴った。

・・・・

念願の製鉄所建設が決まるまでに、勘定奉行を三度罷免、
並行して江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行を任されては
罷免され、その後は大小砲鋳造の事務取扱、大小砲鋳造立て
機械製造掛を命じられるも意見の相違から辞任を繰り返して
いた。更に倒幕を目論むなど不逞浪士が出入りしていた
神戸海軍操練所の責任を問われて蟄居謹慎していた勝安房守
の後継だった軍艦奉行も罷免となり、勝が再任されることに
なった。

小栗の直言は周りとの軋轢を生じ、それでもなお果断さと
有能さによって重責を任されるという繰り返しとなって、
軍艦奉行の罷免直後も、フランスの協力による工業力と
軍事力の向上には語学も必要として、日本初のフランス語
学校も設立を献策し実現させ、約二ヶ月後には四度目の
勘定奉行となった。

既に幕府を見くびりだしていた薩長は、攘夷を標榜して
生麦事件など外国人や幕府要人への襲撃を繰り返すだけで
なく、長州藩は外国船(英米仏蘭)への砲撃を敢行し、
薩摩もまた英国船を砲撃するなど凶暴さを極め、幕府が
責任を問われて、賠償までする苦渋を舐めさせられていた。
しかしその実、薩摩は裏では関係改善を考えた英国との
関係を強め、武器購入などで軍備を増強、洋式陸軍として
訓練を始めるなど、着々と倒幕への準備を進めていた。

幕府の大黒柱ともいえる活躍ぶりに小栗の名は知れ渡り、
これまでの幕政に反感を持つ浪士や百姓町人などから
図らずも恨みを一身に受ける羽目になり、自邸の門柱や
近隣の橋に小栗邸襲撃を訴える張札を貼られるなど、
自身や身内、家来の身辺も危険な状態となっていた。
小栗は身内や関係者、自邸の警護も兼ねて、知行地から
更に若者を呼び寄せて歩兵としての訓練を体験させて
警護の任に当たらせたり、せっかくだからと勉学の
機会を与えて啓蒙を図った。

京に限らず江戸においても不穏な情勢となる中、小栗は
幕府財政の健全化・合理化と幕軍の近代化を目指し、
不調となっているフランスの養蚕に手を貸し、国内で
不完全だった生糸・養蚕に絡む法整備(専売制)を進め
(生糸・蚕種改印令)、それらを担保としてフランスから
借款契約を結び、武器軍需品等の輸入も行って、更に
洋式の騎馬・砲兵・歩兵の育成というフランス式陸軍の
三兵伝習所を開設した。

三兵伝習所は五年前の文久二年(1862)六月には開設
されていたが、これはオランダを参考にしたもので、
小栗の発案の「兵賦」によって旗本の各知行地農民と
募集によって訓練が続けられていたが、軍艦奉行を
辞任して無役となっていた小栗と、陸軍御用取扱の役を
担った浅野氏祐が相談した結果、現状では有用とは
いえないとして、横浜にいた盟友の栗本鋤雲(じょうん)
にも相談し、本格的な陸軍育成のためにフランスから
軍事顧問団を呼んでもらうことにした。

栗本がフランス公使ロッシュに相談すると快諾され、
両国の交渉を重ねた後、慶応二年(1866)八月には
フランス軍から教官を招き、近代的なフランス式の
幕府陸軍増強を図ることになった。

また、この軍事訓練と、既に決まった横須賀製鉄所建設での
フランス人による指導が行われるとなれば、フランス語の
通訳が必要になる。栗本がフランス語の伝習所も必要では
ないかと小栗と浅野に提案すると、二人ももっともだとして
幕閣に上申、同意した幕閣から三人が担当を命じられた。
このため三人はロッシュの協力のもと、元治二年(1865)
三月六日、横浜弁天池の北隣(現 中区本町六丁目)に
全寮制のフランス語学校「横浜仏蘭西語伝習所」を開校、
栗本が総監督として自身の養嗣子貞次郎(二十二歳)と、
小栗の養嗣子又一(忠道 十八歳)も入学することになった。
校長はメルメ・カションが務め、他五人ほどのフランス人が
教師を担当し、ロッシュの尽力によりフランス政府にも
協力を要請、教科書や学用品を送ってもらうことになった。
授業内容はフランス語だけでなく、地理、歴史、数学、
幾何学、英語や馬術などで、初級、中級、上級の
三段階に分けられた。
半年で一学期として、朝八時から十二時、十六時から十八時
までが授業、日曜休み、水曜は午前のみ授業で、午後には
散策も許された。
この一期生の得業(卒業)式は翌慶応二年十月で、又一や
貞次郎の他、川路太郎、(二十二歳)、長田銓之助
(二十二歳『椿姫』の訳者長田秋濤の父)、
飯高平五郎(十八歳)、保科俊太郎(二十二歳 パリ万博で
徳川昭武とナポレオン三世の会見通訳)、
四十七名が無事卒業した。
又一はその後、慶応三年の秋には、ロッシュ側の
通訳として大坂城で将軍慶喜との会見に立ち会う。
その後も各界に活躍する者達を世に送り出した。
幕府崩壊後に一旦は廃校になったが、明治二年には再興が
決定され、校長だった川勝広道を再任して、
旗本に限らない諸藩の希望者も受け入れた。
これが更に後明治三年には、兵部省兵学寮に所属して
「幼年学校」と改称、昭和にまで続いて陸軍士官を
生み出す中央幼年学校となっていく。

慶応三年(1867)一月十三日、幕府の要請に応えて、
フランスより軍事顧問団(士官五人、下士官十人)が
来日した。団長のシャノアン大尉は、横浜郊外の訓練場、
太田陣屋に置かれた三兵伝習所での幕府陸軍の訓練具合を
数回程見物していた。
軍の指揮を執るのは、陸軍司令官たる小栗を筆頭に、
歩兵指図役頭取(大尉)、歩兵頭(大佐)から早々に
歩兵奉行(中将)を就任したばかりの大鳥圭介である。
約一ヶ月を経て、シャノアンは感想を述べ、宣教師で
通訳のメルメ・ド・カションが二人に訳した。
「率直に申し上げます。幕府陸軍は現状では全く役に
立ちません。近代戦では勝てない、おもちゃの兵隊です」
この率直さには小栗も大鳥も目を丸くしたが、大鳥は
それまでに多くの軍事関連の翻訳書を出版している。
西欧との差は大きく、不備は承知であり、
さもありなんとの思いだった。
シャノアンの言葉をカションが続けた。
「強い軍隊は心身共に健康で忍耐強い兵隊が不可欠です。
町中に育った若者には忍耐力がありません。また妻子が
ある者も当てになりません」
幕府軍といえば、まずは旗本や各藩士が常識だったが、
これでは全否定に等しい。
オランダ語、英語に加え、フランス語も学んでいた大鳥も
これを理解して、軍改革の必要性を伝えた。
シャノアンは頷きながら、
「銃砲の扱いに慣れるのは勿論ですが、まずは何よりも
体を鍛えることです。軍隊は軍規と鍛錬が基礎中の基礎
です。それだけでなく、軍楽隊も充実させ、規律実践には
行進曲が有効です。音楽と絵画は神が人間に与えた最高の
贈り物です。それを『芸術』(l'art)と呼びます」

本来、一旦緩急あれば直ちに旗本や御家人が徳川の盾矛
として先陣に臨むのが役割だったが、太平の世となって
二百六十余年、剣術や体術の道場で技や体を鍛えるのは
旗本の一部にすぎず、下級武士は持てる時間を内職に
当てて生活の足しにしていた。幕府関係者は心身共に
戦の出来る身ではなくなっていた。

これを受けて小栗と大鳥は、心身虚弱と評された旗本や
御家人子弟に頼るのではなく、江戸市中から馬丁や陸尺
(駕籠かき)、博徒など、百姓町人や無頼の徒と呼ばれる
者を積極的に募集し採用することを幕府に献策した。
政事総裁の徳川春嶽が参勤交代の負担を憂えて免除を諸藩に
知らせると、早速とばかりに取りやめる藩が続いた。
既に京の都が薩長や朝廷の画策により政治の場となりつつ
あるこの頃に、参勤交代まで無くなったことで江戸には
金が回らなくなり、これまで頼りにしていた飲食業や旅館、
雑貨や土産物、呉服といったあらゆる商人の収入が激減し、
陸尺などは無職になる者も多く、町で乱暴狼藉を働き、
幕府もその対処に煩わされた。彼らに働き口を与え、
その激しい気性を強靭な兵として役立てようと大鳥は考え、
小栗も同意した。

もっとも、まだ従来通りの槍刀を常とした訓練が抜けきらぬ
状態で、銃の扱いも初歩、軍隊としての行進や号令による
動きの基本を覚えるという、まさに一からの出発だった。
旗本子弟だけでなく、一般町人や博徒の類もこれまでの
認識が消えるわけもなく、大鳥が任命した隊長が一町人と
知れば、
「ふん、町人の隊長が命令を下すなど、本末転倒ではないか」
旗本や御家人子弟は順序が違うと聞く耳を持たない。
小栗や大鳥が許可した上とはいえ、隊長が怒鳴れば食って
掛かったり、臍を曲げて参加を拒むといった状態だった。
大鳥は呆れて、
「これでは到底軍隊とは言えぬ、烏合である」
とぼやいた。

これに際し、知行地の権田村から呼び寄せていた
佐藤銀十郎など若者数人や次郎太も、短期間であったが
三兵伝習所での歩兵訓練を受けた。彼らもまた初歩から
学び鍛え上げられねばならない。
大鳥としては、小栗配下の若者には特に手本となることを
期待し、訓練で長所が見つかれば優先的に昇進させて
任せることも考えていた。彼らが活躍して昇進も早まれば、
軍に貢献するだけでなく、自分を幕府直参に推してくれた
小栗への恩返しにもなると思ってのことだった。

銀十郎は血気盛んな若者で、
「こんな奴らが幕府軍かよ、これで戦なんかできるのかよ」
と、状態を知って憤慨し、自分が引っ張る気で訓練に励んだ。
一方次郎太は、一見覇気の無さは相変わらずだが、不満も
示さず疲れた様子も見せず、淡々と命令に従い訓練を続けた。

隊長たるもの、複数以上の兵隊に対して号令をかけて統率
しなければならない。戦となれば敵味方共に怒声や銃や
大砲の轟音が遠慮なく辺りに響く。総てではないが、
戦時前線での大声は命令下達の仕官クラスには必須だった。
銀十郎は大鳥が見込んだ通り力強く大声も通ったが、
次郎太はどうにも元気がない。よく言えば落ち着いた
純朴さだが、悪く言えば鈍重で声が小さい。小柄で
おとなしいのでは上官には向かない。
大鳥はしばし考えていたが、やがて銀十郎と次郎太に、
「兵達の前で大声で叫べ、言いたいことを言ってみろ」
と指示した。
十人十色でクセのある様々な身の上の新兵達を前に、
晒し者やら笑い者と思われかねない大声を発する練習を
することになった銀十郎達は戸惑ったが、
「土地よこせーっ!」
「銭よこせーっ!」
「だんごが食いてええええええ」
という具合に好き勝手に叫んだ。
場違いな叫びの連発に、兵達は笑った。
これを見た大鳥は、
「よし、隊長の号令を受けたら、おまえたちも叫べ、
思いっきり声を張り上げろ」
と命じた。
兵達はしばらく銘々が、怒りやぼやきや愚にもつかない
放言を怒鳴り、叫んだ。

しばらくその場を離れていた小栗が戻ってきて、
この騒ぎに呆気にとられた。
「いったいどうしたというのだ」
大鳥は笑って、
「士官の命令伝達のためだけではなく、
兵達の鬱憤晴らしと士気の鼓舞を兼ねております」
「ほう・・・・」
士気が上がらねば戦など無理なのは古今東西常識だった。
烏合でも気力と統制によっては勇ましい軍隊になり
得ることを小栗は改めて気づかされた思いになった。

昨年五月より伝習所で訓練は実施されてはいたが、
シャノアンは剣道や槍術では使い物にならないと判断し、
訓練実施から二ヵ月後には、幕府に更なる陸軍改善の
ための建白書を提出した。

・・・・

養蚕については、フランスで和紙を使った蚕卵紙の需要が
高く、国外貿易の主力となっていた生糸の一大生産も考え、
そのための工場群の必要性から、製糸工場の設計など展望を、
フランスから横須賀製鉄所の建設のために招かれていた
セバスチャンにも伝えられたが、費用面と優先度から未定
となっていた。
「製鉄所の次は生糸生産の工場だ。御国の防衛は横須賀、
貿易の生糸工場は・・・・関東のいずれかにしよう」

一方オランダの影響を受け、それを元に語学習得や海軍
育成などに努めてきた勝安房守や同様の幕臣達は、小栗の
フランス贔屓に反発し、勝は老中に小栗が領土を切り売り
して資金に代えていると決め付けてほのめかしていた。
老中達は派閥争いや保身で汲々とし、遠慮の無い“小言居士”
小栗に鬱陶しさを感じる者も多かったが、それでも財政に
明るく賄賂に無縁な愚直ともいえる小栗を認め、彼の罷免
や辞職があっても、しばらくすればまた頼るという状態
だった。

勝は数字に弱い反面、渉外能力はあるとの評判があり、
一時の不祥事も免れて軍艦奉行の復帰となったが、
勝の考えは徳川家の存続を図るというもので、その実幕府
そのものにこだわりは無く、幕府内の情報は薩長にさえ
漏らすというもので、間接的に倒幕に協力している
有様だった。

権威失墜も深刻な幕府は長州征伐を断行するも始末は温く、
ついに二度目の長州攻めも、内弁慶で優柔不断な一橋慶喜や
松平慶永(春嶽)の幕政参画によって混乱が進み、共闘を
始めた薩長や攘夷派公卿に操られた朝廷からの圧力に心労が
祟ったのか、若い将軍家茂の急死によって中止となった。

将軍を目指して工作を進めていた一橋慶喜は、ついに十五代
将軍徳川慶喜として後を継ぎ、フランスと協調しつつ財政再建
と軍備の近代化と増強という小栗の方針に賛同し、薩長を
潰すべく慶応の改革を進めるが、朝令暮改、優柔不断な
慶喜は、不利な状況と見ればたちまち不安を示して前言撤回を
繰り返し、自己正当化で反省もないという厄介な性格だった。

忠節を誓うのが徳川譜代の家来の義務、使命とする小栗も
無責任な慶喜には散々に迷惑を被り、激怒することもあったが、
すぐに気持ちを変えて、自身の役割を全うしようと務めた。

まもなく孝明天皇が崩御、薩長と組む岩倉具視を筆頭とした
攘夷派公卿が策動する中、小栗は横須賀製鉄所に奉行を置いて
管理運営を任せ、尊皇攘夷を標榜して関東各地を荒らし回った
水戸の天狗党をきっかけに、関東で頻発する世直し一揆や
不逞浪士対策による軍役整備、法改正を進めていた。

慶応三年(1867)のこの頃、フランスの外交に変化が
生じたらしく、借款の話も曖昧になっていた。フランス側の
態度に痺れを切らした小栗は、直接交渉を兼ねて、欧州各国
への特使派遣を提案、盟友栗本を通訳に、慶喜の弟昭武を
代表として遣欧使節を派遣した。

小栗は知る由も無かったが、フランスは隣国プロイセンとの
関係が悪化し、普仏戦争(1870年7月19日~1871年5月10日)
前夜となっていた。

しばらくしてフランスのパリで開催された二回目の
万国博覧会に日本が初めて参加し、徳川江戸幕府と薩摩藩、
佐賀藩も工芸品などを出展した。
幕府からは徳川昭武が参加し、薩摩藩は家老の岩下方平らが
派遣された。
薩摩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、
独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成した。しかし、
掲げられた旗は丸に十字の島津家の家紋であり、そのため
各国は「日本には国が二つあるのか」「琉球とは何か」と
注目され、出品されたガラス工芸品も、欧州各国の技術にも
抜きん出ているとの評価から、薩摩の存在が関心を集めた。
このことは現地にいた外国奉行の向山隼人正から幕府にも
報告された。
「傍若無人も大概にされよ」
と幕府は薩摩藩に抗議したが、
強気の薩摩側はこれを無視した。

小栗は勘定奉行の他陸軍奉行も兼任、幕府陸軍育成を
任され、翌月は勝安房守が海軍伝習掛に任ぜられていた。

莫大な費用捻出に悩んでいた小栗は、渡米時でのパナマ鉄道
の運営事情を思い出し、各国から要請されていた神戸開港を
機に慶応三年(1867)六月五日、海外貿易を一手に取り
仕切る商社設立を建議、間もなく日本最初の株式会社・
兵庫商社を設立する。これを知ってか、坂本龍馬は同時期に
海援隊を立ち上げた。

更に、同年着工された日本発の本格的なホテル「築地ホテル」
が翌慶応四年に完成、明治五年(1872)の銀座の大火で焼失
するまで、外国人の評価も高く営業が続くことになるが、
慶応三年七月十八日、ロンドン滞在の徳川昭武一行の一人、
向山隼人正から電信によって、フランスとの約束であった
六百万ドルの借款不履行が報告された。
深刻な状況に陥った小栗は、協力的だった老中と頻繁に話し
合いを繰り返しながら、フランスが駄目ならと英国公使
パークスや通訳のアーネスト・サトウらと積極的に交渉を
始め、オランダの商社からは五万ドルを調達する。

・・・・

慶応三年十月十四日、幕府は混乱する国内統制に決着を
つけるべく大政奉還を上表、改めて幕府の有用性を知らしめ、
公武合体、旧幕府たる徳川主導による公儀体制を実現させ、
その先は郡県制度による中央集権化を目指したが、同日に
岩倉具視が薩長双方に討幕の密勅を下す。
薩摩は当初、賢侯会議で主導権を握ろうとするが、諸藩の
足並みは揃わず、ついに薩長は土佐を引き込み、まもなく
京都御所周辺には、薩摩、長州、土佐、芸州の軍勢が到着、
会津兵らを退かせると、それら各藩主に尾張や越前の藩主、
討幕派公家衆も加わる会議となった。このとき参加予定だった
幕府代表たる慶喜や、京都守護職として京都を警備していた
会津藩主松平容保、容保の弟で桑名藩主、京都所司代の
松平定敬(さだあき)らは病気を理由に欠席、
状況を危惧した山内容堂は参加を遅らせた。
容堂は穏健な公武合体を考えて幕府と関わり、京では会津とも
連絡を取っていた仲だったため、遅れて会議に臨むも、
幕府側たる慶喜と松平兄弟を抜きにしての会議に異論を述べた。
しかし、強硬な西郷や岩倉に無視され、参加諸藩と公家は討幕
に方針を切り替え、十二月九日(一月三日)、朝廷より
「王政復古の大号令」を発布させるに至る。

これによって、幕府側公家の役職が解かれ、幕府領地の
朝廷への返上、容保や定敬は解任となった。これは慶喜の
目論みを大幅に超える予想外のもので、事前に土佐の
後藤象二郎が薩長の計画を察知し、越前の春嶽に知らせ、
春嶽は慶喜のいる二条城へ知らせていたが、慢心すると
判断が止まるのか、
「朝廷が幕府を無視できるわけがない」
慶喜は大政奉還に自信を持って平然としていた。
一方、西郷らは幕府が無くなり徳川が一大名になったのは
一大契機として喜んだ。しかし、依然として強大な
旧幕府側が負けとなるには早計であり、確実に追い込む
策を練っていた。それが錦の御旗だった。

フランスの公使ロッシュは本国政府の方針転換に戸惑い、
小栗への協力に支障を来たすことを気にしてか、既に来日
しているシャノアン大佐以下仏軍教官十五名とも協力して
幕軍を点検し、旧式の装備・兵制から、全てを最新の装備に
した実戦可能な近代陸軍とすべく建白書を提出、新たに
士官学校を設置するよう訴えていた。

それまで日本との貿易は英国が半分を占め、残り半分を米国と
オランダ、そしてフランスが食いついていた状態だった。
既に英国は世界の工場として展開し、それを保障する
軍事力も抜きん出ていた。
ロッシュの尽力と小栗の協力により、両国は互助関係となって
共に繁栄できる足場を固めようと成果が表れ始めたところで
ある。ロッシュとしては、これまで通り日本政府としての
幕府との関係を強化し、英米などの影響を排除しつつ貿易等
各権益の独占も考えていたが、本国政府もまた、薩長の台頭
と大政奉還によって幕府への信頼が薄らぎ、上司であった
幕府支持の外相の辞任と、薩長融和策の新任外相によって
変化が生じていた。そのため帰国命令を受け、これまでの
努力が無駄になることを恐れていた。

関東では薩摩の西郷と土佐の乾(いぬい 板垣)退助らが
倒幕で同盟、共謀して勤皇倒幕の浪士や志士を集めて
相楽総三を頭に御用盗を結成、乾が土佐に戻ると西郷が
江戸の薩摩藩邸に集め、放火・強盗など、関東全域での
攪乱を実行して幕府を挑発した。

一方の小栗の腹心的存在、関東郡代の木村甲斐守は、配下の
関東取締出役(しゅつやく)数人と共に、北関東で続発する
一揆や勤皇倒幕派らしき浪士達の取締りを強化するため、
上州南部に岩鼻陣屋や武州北部の羽生に陣屋を新設して
農兵を組織し、税務管理と治安維持を図っていた。
江戸薩摩藩邸から出発し、野州出流山(いずるさん)まで
隊士を集めつつ浪士隊を結成した隊長・竹内啓ら数十名が
が挙兵、資金稼ぎに足利藩の栃木陣屋を襲うが、知らせを
受けた木村配下の岩鼻陣屋詰めだった関東取締出役の手勢が
急追殲滅、多数を捕らえることに成功した。

by huttonde | 2013-10-10 16:25 | 漫画ねた | Comments(0)
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