30度以下。 やれば できるじゃないか。 それでいいのだ。
by huttonde
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時代劇 2
※大雑把な話・流れ

捕まった浪士数十人が見せしめを兼ねて斬首されると、
報復を考えた相楽ら御用盗は、関東取締出役の安原寿作の
妻子と甥、同役、渋谷鷲郎の下男、御勘定組頭、馬場俊蔵の
下男を斬殺、これに怒った木村らは捕らえていた竹内啓の
護送を取りやめて斬首するなど、憎しみの応酬となっていた。
また、御用盗として別行動の上田修理達は甲斐甲府城を
奪うべく向かっていたが、事前に通報を受けた農兵によって
返り討ちに遭って城は無事だった。しかし一方、鯉淵四郎
率いる隊による相州荻野山中藩陣屋の襲撃では、武器弾薬
などが奪われ薩摩藩邸に持ち去られた。
捕縛された者の自白や目撃から、御用盗一味が薩摩藩邸を
拠点にしていることは幕府側にも明白となっていた。

この事態に小栗は、薩摩の倒幕の意志は明らかとして
強硬論を訴えるが、多くの幕臣は慎重な構えを示して
小栗に同調する者は少数だった。

京でも幕府と薩長など倒幕派浪士による争いが激化、
坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かに殺され、見廻組や
新撰組など幕府側によるものと噂されていた。
しかし、この頃の龍馬は、山内容堂の非戦による公武合体
に傾き、西郷ら倒幕派から一線を画す状態となっていた。
薩長共に、土佐とは以前から乾退助のような倒幕派とも
協力関係があるが、一方で容堂の下、幕府とも関わる
公武合体派も根強く、以前は長州との交渉に活躍し、
薩長同盟に貢献した龍馬だったが、幕府側に活躍されては
面倒と西郷は考えていた。
場所も経緯も幕府のせいに出来る、龍馬ら暗殺は幕府に
よるものという、その後一貫した薩長側の諸々の宣伝は
功を奏した。

その後、江戸市中取締の庄内藩屯所が薩摩藩邸からの者達
により襲撃されたとの報に、堪忍袋の緒が切れた老中
稲葉正邦はついに武力討伐を決意した。稲葉は庄内藩
江戸邸の留守役松平権十郎に対して、薩摩藩邸に賊徒
引渡しを求めた上で、従わなければ討入っても捕らえよと
命じ、庄内藩のみに遺恨を残すのを防ぐため、上山藩、
鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩
も加え、フランス陸軍士官のジュール・ブリュネも
砲撃指揮を受け持って、薩摩藩邸を包囲した。

賊徒引渡しを拒否した藩邸は、旧幕府側の砲撃などで延焼、
相楽総三、伊牟田尚平ら薩摩浪士達は数組に分けて脱出し、
追跡を鈍らせようと途中で民家に放火しつつ、品川に停泊
する薩摩藩の運搬船翔鳳丸に乗り込もうと逃走した。しかし、
討入りを知った翔鳳丸は沖へ逃れていた。約百五十名の
浪士達は漁師らから小船を奪って翔鳳丸を目指したが、
旧幕府側の軍艦回天丸の接近で江戸から離れることになり、
相楽総三ら二十八人だけを乗せると、紀州へと出航した。
残された者達はその後捕縛された。
この討入りによる死者は、薩摩藩邸側が六十四人、
旧幕府側では十一人、捕獲された浪士は百十二人に及んだ。

....

薩摩方によるものと思われる江戸と北関東における数々の
火付け強盗の類は、小栗達幕府側にも情報が入り、薩摩藩邸
がその連中の拠点と知るのに時間はかからなかった。
小栗は、挑発を続ける薩摩方にはもはや配慮無用と強行策に
転じ、薩長との決戦を決意していた。
が、薩摩方もまた大政奉還を為した徳川は同じ一藩に
過ぎぬものであり、徳川方の藩邸攻撃は不当なる武力行為
であるとして、一大決着をつけるべく反撃のきっかけとした。

....

薩摩の撹乱工作が激しい中でも小栗の製鉄所計画は粛々と
進められ、造船も各部品製造も自力では無理として、
各国を比較して対日姿勢でましなフランスに決めた小栗は、
フランス公使レオン・ロッシュと建設現場の選定や、
技術者の招聘や人員、資材の配備、各費用の交渉を進めた。
やがて、横須賀の漁村が巨大製鉄所建設に最適地であると
判断されて契約が交わされたが、これを知った幕府要人の
多くが反対し、その責任を負うものとして小栗は勘定奉行を
罷免された。それでも各手続きが進んでいたことにより
撤回もならず、小栗の強い働きかけもあって、建設は開始
されることになった。

....

鳥羽伏見の戦いにおける徳川方の予想外の敗退と、
錦の御旗を掲げた薩長方の行軍は、それまで徳川方に
与していた大坂や近畿方面での諸藩に動揺を与え、
御三家の一角であるはずの紀州藩さえも城門を閉ざして
中立に転じ、前日まで大阪城で家臣達に檄を飛ばしていた
総大将の慶喜までもが夜のうちには僅かな供を連れて
翌一月七日朝、榎本武揚不在の旗艦「開陽」で
江戸に敵前逃亡した。
このとき慶喜には会津藩主の松平容保、容保の弟で桑名藩主
の松平定敬(さだあき)、老中首座板倉勝静(かつきよ)、
老中酒井忠惇(ただとし)、大目付戸川安愛(やすなる)
らも同行していた。
「余に深謀あり」
と見え透いた言い分の慶喜が、やはり大坂から逃亡すると
判っても、彼らは一人として反論、説得して引き止める
こともなく、従容として共に乗船してしまった。
榎本は慶喜の変心と、無断の旗艦使用に激怒するも、
幕軍の収容を急ぎ、大坂城内にあった十八万両という
大金を富士丸に積み込んで、置き去りにされた旧幕府軍側
の将兵と共に江戸品川沖へ撤退した。

近代化を進め、その優勢な武装故に旧幕軍を撃退した
薩長方だったが、その兵力は幕軍の半分もなく、現場での
戦術次第で盛り返すことは容易と見ていた強硬派の家臣達
は、形振りかまわずの慶喜の逃亡に悲憤慷慨、
参集した江戸城の大広間は怒号と怨嗟に満ちていた。

小栗もこれには呆れ、怒った。元々慶喜の性分は認識し、
それなりと見限っていた、しかし、繰り返される裏切り
同然の変心に、軽蔑の念さえ抱き、嫌っていた。
これは止めともいえる慶喜の大失態であった。
「なぜ大坂城で戦うくらいのことはなさらなかったの
ですか? 勝機は幾らもあったと思われまするが」
小栗は怒りよりも侮蔑の目で、やんわりと慶喜に
問いかけたが、慶喜は憮然として、
「関東の騒乱も解決しておらぬ、大坂に籠もったところで、
戦を長引かせるわけには行かぬ」
「神君(家康)以来の金扇の馬印を置き忘れたと報告が
入っておりまするが、お気に入りとすべきは新たなる
側室ではなく、馬印とすべきではありますまいか」
慶喜は不意を衝かれたような目を示したが、
「そちは向こうにおらぬ故、何も知らぬであろう」
と、振り切るように広間を出て行った。

これをきっかけに薩長土による東海道、中山道、北陸道
での討幕軍(西軍)は北上を開始、途上の諸藩は雪崩を
打ったように恭順を誓い、薩長方の傘下となるが、会津藩
など東北の徳川方諸藩は、朝廷に対して恭順謹慎の詫状を
何度も出すものの、禁門の変での会津の一貫した長州への
強硬策の恨みは消えず、岩倉らの画策もあって黙殺され、
桂小五郎(木戸孝允)に至っては、会津若松城の引き渡しと
藩領の没収のみならず、
「会津藩主松平容保の首を差し出せ」
とまで言い出し、会津を擁護する東北諸藩の取りなしにも
聞く耳を持たなかった。
「座して死すよりは一戦せん」
と、会津も覚悟を決めた。
薩長は討幕の仕上げとして生贄を求めるように東海道、
中山道、北陸道へと侵攻を続けた。

その九日後、江戸城大広間で幕閣が集結、慶喜を前に
小栗や榎本釜次郎(武揚)、大鳥圭介らが対薩長への
攻撃続行を主張し、多くが反撃の機運を占めていたが、
隅に控えていた勝海舟は、途中から朝廷への即時恭順、
慶喜の謹慎を主張した。
戦が長引けば国内問題のみならず、英仏といった外国にも
影響し、国が二分されかねないという危険性を訴えたもの
だった。これには慶喜も事前に決めていたらしく、小栗を
始めとした多くの幕閣の主戦論は呆気無く却下となった。

これに納得いかない小栗はまくし立てた。
「そもそも二百六十年に及ぶ朝廷より信任を受けた
徳川幕府をないがしろにし、傍若無人に国内を騒乱に
陥れた薩長が、世を知らぬ公卿と結んで錦の御旗を
振りかざし、今武力を持って攻め寄せる中で、これを
対処出来ないとなれば、それこそ英仏の侮りを受け、
後の外交の支障となりまする、大政奉還の儀は過ぎ、
徳川家は一藩とはなり申したが、これに代わる組織が
薩長にあるとでも思われまするか、もはや戦国の世は
遠き過去にて、欲しくば奪い取るような考えで、
この時勢を切り抜くことが出来ましょうや。
いかに今御旗が敵に渡ろうとも、この日の本を総べる
旧幕府として、この横暴を防がねばなりませぬ。我らが
これまで通り一貫して主権を保てば、フランスとの関係も
強化され、二股の英国は無論、各国への牽制となりまする」
幕臣達が揃う中、唯一慶喜に同調を示すのは、隅に控えた
勝安房守一人だった。勝は激しく説く小栗にやんわりと、
「上野殿、もはや体制は変わり、我らも変わる必要が
ござる。犠牲の多い戦を避けるためにも、上様の御決断を
尊重されては如何か」
「黙れ勝!」
小栗の一喝に幕臣達もぎょっとして視線を送った。
「勝てる戦をみすみす逃して勢いづく薩長に怖気づき、
ついには降伏恭順など、武門の棟梁としての沽券に係わる。
我が徳川家は神君家康公より十五代続いた将軍を頂点とし、
幕藩体制を築き、朝廷より日の本の運営を任されてきた
名誉ある家柄である。賊臣らが叛乱を起こして錦の御旗を
奪ったとて、なぜにそれに服さねばならぬか、恥を知れ!」
と、勝の恭順論を偽善であり無責任と非難した。
これまで小栗の策、言動を遠回しに否定し、内通者の如く
幕府の動きを薩長に伝えていた勝を幕府側も周知であり、
小栗も苛立っていたが、あからさまに罵り、怒鳴り合う
ことはなかった。しかし事ここに至って、小栗は遠慮なく
持論を述べた。勝への反論はそのまま慶喜への批判であり、
その場の誰にも、慶喜自身にも明白だった。

鳥羽伏見の敗戦における慶喜の敵前逃亡は、極端な賊軍・
朝敵の汚名を着ることの恐れを示していた。
主戦派を避けている慶喜は、勝から既に幕府不利を
説かれている。
「いかに幕府が粘ったところで、薩長との争いは結局英仏
の利するところとなり、薩長と共倒れとなれば、我が国も
また清国のような植民地になりかねません」
慶喜は賊軍を恐れるどころではない、外国勢力の介入と
なれば、この不名誉は歴史に刻まれる致命的、決定的な
ものになってしまう。
「こんな切羽詰った状況で、強気一辺倒の気が知れぬ」
慶喜は主戦派からの毒殺を警戒して、城下、膳で出される
食事には手をつけず、すべて城外の店から取り寄せて
済ませていた。

議論は連日繰り返され、小栗は江戸に迫る西軍に対する
作戦も披露した。
「敵主力は現在駿府に到達しているが、我らには無傷で
最新鋭の幕府陸軍があり、その数は薩長を凌ぐ。このまま
敵を箱根に誘い込んで、海軍が駿河湾で側面を攻撃し、
敵の補給、退路を絶つ。そして長躯疲弊した西軍が箱根を
越えたところを待ち構えていた精鋭の幕軍が包囲殲滅する。
更に海軍を神戸方面に向かわせ、薩長の交通を絶つのみ
ならず、朝廷へ働きかけて錦の御旗を手にする。
諸藩は再び徳川に帰り、各地の西軍を孤立分断させ、
各個撃破粉砕、もしくは降伏せしめる」

作戦を立てるには、即応できる体制にしておくのは当然と
して、関係する者に話は通してあった。
慶喜の決断一つで済む話なのだと幕臣達は理解していた。
小栗の意気、策は我も同様とばかりに、他の主戦派も
これに同意して慶喜の決断を迫るが、もはや慶喜に
その気はなく、広間を出ようとした。
小栗はなおも慶喜に食い下がり、戦の必要性と
必勝を説いた。
「よくお考え下され、なぜ今このような事態になって
いるのか、なぜ賊軍として京を追われ、二度に渡って
征伐を受けた長州が官軍となっているのか、これは単に
関ヶ原の恨みを晴らすべく、我ら徳川に成り代って
権力簒奪を狙う執念なるが故でございます、賊軍の汚名を
着ても官軍と称して攻め寄せているこの事実は即ち、
官軍も賊軍も時の勢いで変え得るということにございます。
しかし今我らが降伏恭順を示せば、我らのみならず、
歴代将軍、神君家康公までその汚名を受け、譜代親藩、
これまで幕府を支えた多くの者達をも汚辱に塗れさせ、
未来永劫その汚名を着せる失態となりかねません、
事を急(せ)いて大局を誤ってはなりませぬ、どうか、
お考え直しを」
慶喜は苦虫を噛み潰したような顔で小栗から目を逸らし、
叫ぶように小栗に対して直接罷免を伝えた。のみならず、
抗戦を主張した幕臣達には、
「今後、登城することまかりならぬ」
と退去するよう命じ、広間を後にした。
幕臣達もこれには愕然とし、
悄然とした空気が広間を覆った。
諦観したような小栗は、
「古に、“平家を滅ぼすものは平家”と申す。これが
潮時となれば、それもまたやむを得まい」
と、静かに苦笑して見せた。
「驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し・・・・。
今に生きる歌となるとは、奇縁にござるな」
小栗は無言で俯いた。

「もはや幕府の復権は無い。徳川は終わりだ」
役職を全て解かれた小栗は帰農願を提出、それが許可
されて、自領の一つの上州権田村に、家族と一部の
家来達と共に移住することにした。

・・・・

次郎太は用事ついでに平助が通う剣術道場へ出向いた。
次郎太と平助が会って話すのは茶屋や飯屋が常だったが、
道場へ来たのは初めてだった。
「あれ、どうしたんだ、珍しいな」
「俺も予定が変わりまして・・・・」
平助は麻布の長州藩邸に中間として勤めつつ剣術道場へ
通っていたが、元治元年(1864)七月十九日、
禁門の変(蛤御門の変)による幕府の制裁として
長州の江戸藩邸は没収され、藩士は他藩に預かりの身と
なり、平助は中間を解雇されて他藩に仕事を移していた。
門弟達が各自練習を続ける中、二人は道場の庭に出た。
「権田村って、上州か」
「はい、一部辞める者もいますが、大方は殿と同行
することになりまして・・・・」
「せっかく江戸に出てきたのに、また上州の・・・・
しかも田舎だろ。それでいいんか」
「百姓が嫌いだったわけでもないし、
みんなで出来るならそれもいいかなと」
「うん・・・・だが、根付職人になるとか言ってなかったか」
「あれは、道楽として出来ればいいかなと思ったんで、
職人としてやって行けるかわかんないし・・・・」
「ふうん・・・・」
平助は納得していない様子である。

次郎太は、平助が長州藩に関わったことで、
考えが倒幕になっているのか危惧していた。
そうなれば小栗の家来として次郎太は敵であり、
平助とは袂を分かつ仲となっても当然だったが、
それ以前を知り、同様の経緯から江戸に来た同士として、
思想上の対立といった大仰な事態にはなっていなかった。
平助は商人の倅でありながらも、あくまでも剣術を
極めたいという目的があった。
平助は次郎太に内情を探る様子もなく、次郎太もまた
平助から何かを聞き出すことは避けていた。
もっぱら普段の暮らしぶりと簡単な世間話に終始していた。

今回の次郎太の知らせに平助は、浮かない表情を示した。
遠く離れて今後会わなくなるという可能性もないことは
ないが、何か別の思いがあるらしい。
平助は次郎太に聞いた。
「なあ、おまえは道場を出て行った後のことは
知ってるのか」
「いえ、何も。それは平助さんが知ってるんでしょう」
「うん、しばらくして辞めたからな・・・・」
「どうかしたんですか」
「・・・・」
平助は思いつめた表情である。
が、意を決したように口を開いた。
「おまえが仕返しした須藤左衛門と佐々木健之助は
死んだよ。近江広之進は重傷を負った」
次郎太は驚いた。木刀で思い切り殴りつけたのだから
重傷はあり得た。骨折もあったかもしれない。だが、
死んだとなれば道場内の話では済まない。
「須藤と佐々木には弟がいてな、須藤の弟は与助だ、
奴も道場にいたろ。たしかあいつはおまえより入門は
早いが同い年だ」
与助を知らないわけではなかったが、雑用ばかりの
次郎太は結局言葉を交わすこともなかった。
「佐々木には年の離れた弟がいる。健五って奴だ。
そいつはまだ当時十歳だったか、俺も知らないが、
話を進めているのは聞いている」
「・・・・俺に仇討ち・・・・」
「連中が道場と前橋藩の面目を失ったとして、仇討ちを
決めていたんだ。実行となれば、三人がおまえを
狙うことになる。仇討ちは藩と道場のお墨付きでもある。
おまえを斬れば広之進は藩士に復帰できる。与助は死んだ
兄の代わりに藩士になる。健五も兄の仇討ちが叶えば
優遇されるだろう。三人とも出世の糸口にもなるって
わけだ」
次郎太は小栗とその家臣達と共に、新天地といえる
権田村で新たな生活を送るつもりでいた。
しかし小栗家で一人、仇討ちの標的として一生を
終わるかもしれないと思い知った。
(・・・・追われて斬られるのか・・・・)
「すまん、今まで黙ってたのは、江戸にいれば追っ手も
そう探し当てられるもんじゃねえだろうし、ましてや
屋敷に住み込みとなれば、まず大丈夫だろうと思ったんだ」
「・・・・たしかに、危ないとすれば殿御自身が危ない身で、
俺自身がどうってことはなかったな・・・・・」
「それだけじゃねえんだ」
平助は続けた。
「二人を殺したのは・・・・俺だ」
「え」
平助は土下座した。
「次郎太、すまぬ、俺が二人に止めを刺した」
平助は、倒れて呻いていた二人に、落ちていた木刀で
それぞれ頭を殴りつけ、絶命させたという。
「そのとき広之進はいなかった。
奴だけ他の場所だったんだろう。
いたら奴も殺していたかもしれん」
平助は自分が致命傷を与えておきながら、次郎太が逃げた
ことでそのまま「次郎太が殺した」という道場の声に任せ、
しばらくして剣術修行の名目で道場を辞めて、逃げるように
江戸へ来たのだった。
「そうでしたか・・・・」
事の次第を知った今、次郎太もどうしたものか、
答えに窮した。
だが、事実は事実として、それに対応せねばならない。
次郎太としては、堪忍袋の緒が切れての報復であり、
後悔はしていない。平助も同じ苛立ち故であれば、
咎める立場にもない。
「平助さん、お互い内密でどうですか」
「内密・・・・」
「俺は後悔していない。やりようによっては、やっぱり
俺が殺していたかもしれない。それならそれでかまわねえ。
仇討ちが来るならそれは逆恨みです。返り討ち喰らわして
やりますよ」
次郎太は決意を見せた。剣に熟達しているわけでもないが、
反発から強気になっていた。
合点の行かない次郎太は、自分が将軍や薩長に振り回されて
悩む小栗と、煮え切らない幕府の動きにも重なって見えた。

・・・・

勝海舟は軍事総裁として旧幕府方の全権を委任され、
徳川代表として西軍(新政府軍)、東征大総督府参謀の
西郷吉之助(隆盛)と会見する手筈を整えていた。

徳川御三家の一つ、水戸藩藩主・徳川斉昭の七男として
生まれた慶喜は、尊皇攘夷の源流といえる水戸学に影響を
受け、天皇崇敬の念は自負するところであり、母親が
有栖川宮織仁親王の第十二王女(末娘)登美宮・吉子女王
(とみのみや よしこじょおう)ということもあり、
朝廷への対抗心といった野心は微塵も無かった。しかし
一方で、幕府将軍職への執着も強く、御三家に次ぐ
御三卿の一橋家へ養子後には斉昭の後押しを受け、
幕政参画に積極的になっていった。
将軍となって意気盛んに薩長討伐を目指した慶喜だったが、
人一倍虚栄心が強い反面優柔不断、危機に際しては
真っ先に逃げ出す脆弱さがあった。
特に薩長が官軍となってからの慶喜は、物の怪に憑かれた
ように、自身が賊軍の総大将として処刑されることを
何よりも恐れた。
鳥羽伏見に敗れて間もなくの一月十日には、官軍側より
「朝敵処分」が発表されている。

第一等 前将軍徳川慶喜
第二等 会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬
第三等 伊予松山藩主松平定昭・
    姫路藩主酒井忠惇(ただとし)・
    備中松山藩主板倉勝静
第四等 宮津藩主本庄宗秀
第五等 美濃大垣藩主戸田氏共(うじたか)・
    高松藩主松平頼聡(よりとし)

一等から三等までは、朝廷への叛逆、あるいは幕府要職の
身でありながら、将軍にそれをそそのかしたとして大罪と
なり、四等五等は、天皇に対して攻撃を知らなかったか、
拱手傍観していた罪、であった。
二月十二日、慶喜は江戸城を出て上野東叡山寛永寺の
大慈院に移って恭順を示すべく謹慎生活に入った。
大坂からの敵前逃亡も、直後の頑なな恭順と謹慎の決断も、
幼少から受けた尊皇思想が影響したと憶測された。

英国公使のパークスは西郷に対して、江戸から横浜に至る
戦火を危惧し、在留外国人の身の安全のため、治安維持の
ためにも、大戦が予想される江戸城攻撃に反対した。
英国側としても大掛かりな戦乱となれば、交易の支障も
懸念され、大軍を擁する幕府が逆転となれば、これまで
せっかく築いた薩長との関係が無くなるのを恐れての
ことだった。
何よりも、慶喜が恭順を示して城を出て謹慎している今、
朝廷の命によって攻め立てること自体が異常である。
パークスは西郷らに、
「政府は幕府なのか朝廷なのか、外国は一体どこに責任を
求めればいいのか、はっきりさせて欲しい」
と強く要求した。
江戸城攻撃に大義名分はない。
西郷は幕府側との交渉で、事前に勝より駿府に派遣された
幕臣の山岡鉄太郎に、新政府の条件として六ヶ条を示した。

一、徳川慶喜は、謹慎恭順の誠を示すため
  備前藩池田家に預ける
一、江戸城を明け渡す
一、幕府の軍艦は一隻残らず政府に引き渡す
一、幕府の武器もすべて政府に引き渡す
一、江戸城内に住んでいる旧徳川家の家臣達は
  向島に移り謹慎する
一、慶喜の行動を助けた者共は、
  厳重に取締まり処罰を決する

一方の勝も慶喜の助命嘆願を優先し、江戸城の明け渡しに
躊躇は無かった。
勝は慶喜の信任を得るため、長州征伐後の長州との和平交渉
など、その後慶喜によってひっくり返されるような煮え湯も
飲まされてはいたが、貧しい御家人から幕臣として
成り上がるために我慢を重ね、しかし、対抗激しい薩長との
つながりも怠りなかった。万が一幕府が潰れても、
重要な幕府側一員の立場を活かして協力を続けた功績は、
薩長側の内心はどうあれ、認めることになるだろう
と算段をつけて、
「いずれにあっても出世は可能」
と、常に両天秤を心がけていた。

会見は江戸の薩摩藩邸で三月十三日と十四日の二日に
渡って行われ、西郷からの要求に勝は修正案を出した。

一、徳川慶喜は隠居の上、水戸城にて謹慎させたい
一、江戸城は明け渡すが、旧幕臣に配慮し、
  政府が接収後に御三卿の一つ、
  田安家にお預け願いたい
一、軍艦や武器は我々の手ですべて取り納めあり、
  これらについても、ある程度のものは旧徳川家に残し、
  残りを政府に渡したい
一、江戸城内に住んでいる家臣達は城外にて謹慎させたい。
 慶喜を助けた者共は主人思い故のことであり、
 その心情を勘案し、寛大なる処分を願う。
 少なくとも命に関わる処罰は避けて頂きたい

今はまだ勝も幕府側であり、江戸城を戦で奪うのであれば、
事前に江戸城下をも焼き払う支度はしてあると脅し、
その上で士道と人道を盾に無血開城と慶喜の助命を求め、
西郷に妥協を迫った。
内心では幕臣達を敗残の将と見下していた西郷であったが、
これまで薩長に融和的であったとはいえ、勝もやはり幕臣の
一人としての責任か、勝の持ち前の張ったり、脅しも真に
迫って見える。また、長期的な紛争となって収拾が
つかなくなるよりはいいのではないか、
という思いが強まった。
後ろ盾ともいえる英国のパークスも、
戦乱が続くことを懸念し、強く反対している。
結果、勝の説得に西郷は大方を同意し、
江戸開城が決まった。

この知らせに大鳥圭介は納得できぬとして、江戸城の無血
開城と同日四月十一日、フランス陸軍の訓練を受けていた
元幕府陸軍約二千人を、伝習隊として率いて江戸を脱走し、
対薩長戦に備えた。
また、榎本武揚は海軍副総裁の立場を活かし、上司に当たる
陸軍総裁の勝の隙を突いて、悪天候を理由に幕府海軍の
七隻を連れて品川沖から安房国館山に移った。軍船の殆どを
引き連れて出航したことに慌てた勝は、急使を派遣して
榎本を説得するが、榎本は聞かず、軍船一隻を返すのみ
だった。



また一方、幕府の行く末を危惧する幕臣が尊王恭順有志会
を結成、町人や博徒なども同志として集まり、更に頭取を
渋沢成一郎、副頭取は天野八郎が投票によって選ばれて、
将軍護衛を任務とした彰義隊は、謹慎のために水戸へ帰る
慶喜に千住から下総松戸まで同行するが、薩長側から
怪しまれて下総で止められた。
小栗も権田村移住後に旧知の大鳥や渋沢など幕臣達から
誘われるが、
「将軍が恭順した以上、戦に意義はない」
としてすべてやんわりと断っていた。

彰義隊は主に幕府関係者の子弟から一般町人なども多数参加
して、江戸市中取締として江戸城下の治安維持を任務として
いたが、慶応四年(1868)五月一日、江戸城下不安定化を
防ぐには生温く、また旧幕府では怪しいとして、これを
任せた西郷吉之助を、軍務局判事兼江戸府判事として江戸に
着任していた大村益次郎に代え、彰義隊の任務そのものを
解くことを通告した。

大村益次郎は本名村田蔵六。長州の村医村田孝益の長男
として生まれた。一藩士として蘭学を学び、大坂に出て
緒方洪庵の適塾で塾頭に進むなど能力を発揮し、その後は
村田良庵と名乗って地元の村医として暮らしたが、
伊予宇和島藩で蘭学者として西洋の兵学・蘭学の講義や
翻訳を進め、更に長崎で軍艦建造などを学ぶ一方、
長州の尊皇倒幕に影響を受け、藩の軍拡に協力すべく
武器の密輸入を始め、身を隠すため名を大村益次郎と
改めていた。後になぜか日本陸軍の創始者、あるいは
陸軍建設の祖と賞賛されるが、これも長州の我田引水、
自画自賛の一つである。

西郷と違い、倒幕どころか旧幕府・徳川壊滅で構わない
大村からすれば、何の配慮も要らない。警戒を要した
江戸城は無傷で手に入った。大阪の陣で内堀を埋めた
どころではない。倒幕の決定打である。幕府残党など
物の数ではない、逆らえば潰せばよいと明快だった。

そのため、大村の指揮する西軍部隊が彰義隊の武装解除に
向かうが、反発した彰義隊は上野寛永寺に布陣し、
十四日には彰義隊討伐の布告が出されて交戦状態となった。
策師の大村は、事前に西軍方を複数彰義隊に紛れ込ませて
情報を集めると共に、幕府側が記録していた気象情報を
参考に攻撃日時を決め、その日時を一日遅れにして広めた
上、最後になるかもしれない若い彰義隊隊士達が実家へ
帰り、戻る日の前日に攻撃を加えることにした。
この頃には態度を西軍側に変えた佐賀藩の加勢もあり、
攻撃予定と広まっていた前日の五月十五日、
西軍の攻撃が始まった。
彰義隊は当初は奮戦するも、若い隊員はろくに集まって
おらず、最新武器で多勢に無勢では太刀打ちできず、
三時間程で追い込まれ敗走した。
交戦を知った渋沢成一郎は、彰義隊分裂後に自身が率いる
振武軍と援護に向かったが、行軍中に彰義隊の敗北を
知って、敗残兵と合流して北へ退却した。

・・・・

中山道を通る鎮撫総督府・東山道軍の鎮撫総督・岩倉具視の
倅、岩倉具定と参謀・薩摩の伊地知正治と、土佐の乾(板垣)
退助は、近畿から中部、関東への途上で、戦を覚悟の脅迫で
各藩の恭順降伏を強要、平定するが、関東へ出る前、
先鋒として派遣していた相良総三の赤報隊が、税の減額など
各地住民を自軍に付かせるべく有利な宣伝活動をしていたと
知ると、それを出過ぎた行為として咎め、赤報隊を偽官軍
として現地信州の諸藩にも命令を下して攻撃させ、
相良総三を首謀者として斬首した。

相良は常陸国の出で、西郷の下で御用盗に加わり、江戸を
荒らしていたが、幕府軍によって三田の薩摩屋敷が攻撃
されると脱出して、浪人集団の赤報隊隊長として鎮撫総督の
先鋒として進軍し、独断で税の半減などを知らせて廻り、
地元民からも歓迎されていた。
しかし薩長は、今回の東征のために多大な戦費を捻出し、
その出費が嵩んでいたため、徳川方から奪おうという
画策の一方、各藩や百姓達をなびかせるための税の軽減
といった約束も避けたかった。

その後、大久保大和と名を変えて甲州へ来た新撰組の
近藤勇を捕らえると、降伏するよう求めたが、近藤は
拒否し、江戸郊外の板橋宿へ連行すると斬首、
晒し首となった。

・・・・

慶応四年(1868)三月、小栗の一族や家来達が権田村へ
着いて早々、上州では一揆を自称する暴徒達が各地を荒らし、
権田村へもやって来るという報告が地元役人から来ていた。
首謀者は長州を脱藩したという金井荘介。その元に博徒の
鬼定、鬼金(下駄金)らが暴徒達を従えて、村々へ一家に
一人の一揆参加を強要し、従わぬ者には家を放火すると
脅した。

鬼定は下野南部から移動して前橋、高崎と義を盾に村々を
脅しては金品や武器類を奪い、浮浪の徒を集めて勢力とし、
鬼金も同じく上州の群馬郡辺りを荒らし回り、その後合流
して、領地へ大金を隠し持って行ったと噂される小栗を
襲うべく、その領地である権田村を目指した。得られた
金銀を山分けするとの約束と、何よりも参加しなければ
家を焼くとの脅しに、周辺の村々でさえもその一部は
暴徒に加わり、小栗一行が滞在する東善寺に向かった。

しかし金井の目的はそれだけでなく、対薩長強硬派、
主戦派と知られた小栗が何をたくらんでいるのか、
それを見極める必要もあり、薩摩の西郷隆盛の腹心、
益滿休之助からの依頼を受けたものであった。
金井は薩長の縁で益満と関わっているが、
主だった立場にはなく、焦りもあって、
今回の小栗討伐を自身の出世に活かそうとの
目論見だった。

・・・・

小栗一行は二十丁程の銃も運んでおり、武装による自衛も
怠りなかった。しかし、小栗に戦う意欲は無い。
金で済むならと、家来の大井磯十郎とその兄を派遣して
五十両もの小判を出して引いてもらおうと、
暴徒の集結する権田村より南東の三ノ倉山全透院へ
交渉に赴くが、金欲しさの鬼定、鬼金は耳を貸さず、
大金を出さねば攻撃すると脅した。
大井は無理と知って小栗に知らせ、小栗は暴徒迎撃は
やむなしと作戦を立てた。
昨年暮れから僅かではあるが、三兵(歩兵・砲兵・騎兵)
伝習所で、フランス式陸軍の教練を受けていた地元の若者、
用人の塚本真彦、給人の荒川祐蔵、家臣の多田金之助、
渡辺太三郎、沓掛藤五郎、大井磯十郎、佐藤銀十郎や
塚越富五郎、池田伝三郎に、小栗の息子又一(忠道)、
そして次郎太など、約十数人、それに農兵として訓練を
受けていた地元の若者や猟師など総勢約百名が臨戦態勢を
取り、名主の佐藤藤七と家臣の武笠銀之助を呼んで、
小栗の妻や母親、又一の許婚鉞子(よきこ・15)や
近隣の年寄りや婦女子らを榛名山の西麓、
山中に避難させた。

暴徒は下野方面から流れてきた博徒や各地の百姓で、
脅されたためにやむなく加わった近隣の村の百姓なども
含めて、総勢およそ二千。
村人の協力により、その一部は周辺の民家を焼き払い、
略奪を繰り返しているとの報告も受け、敵本陣は権田村
より東方二里(約8キロ)程離れた榛名神社と判った。
「敵は烏合の衆にて、本陣急襲が手っ取り早いだろう」
小栗は又一を隊長として家臣ら二十名の指揮を執らせ、
又一と歩兵隊は、敵本陣目指して出発、残る塚本真彦、
荒川祐蔵、沓掛藤五郎、大井磯十郎が各部隊長として、
東善寺の南東と北東の二手に分かれて敵への備えとした。

・・・・

暴徒にも銃を持つ者もあるが、数を頼んで二手に分かれて
北東から攻めてきた彼らには、四十名程の荒川・沓掛隊が
待ち受けて直ちにこれを銃撃し、手薄になっていた本陣を
又一の部隊が急襲、銃撃した。銀十郎はじめ又一側の
手馴れた銃裁きに数人が撃ち抜かれ、たちまち暴徒達は
我先にと逃げ出した。

一方、東善寺を狙う金井荘介率いる暴徒達は、民家を
占拠して陣とし、寺へと歩を進めていたが、塚本、池田、
大井の約五十名の部隊がこれを迎え撃ち、更に駆けつけた
又一の部隊も加わって散開、敗走させた。
これでは足りぬと思った又一は即座に追撃を号令すると、
逃げる暴徒達をあるときは銃撃、あるときは突撃で抜刀、
斬り伏せて、快勝といえる決着となった。

次郎太は「銃は片目でも大丈夫」と、二人を狙撃し、
逆らう暴徒一人を斬っていたが、それに張り合うように
銀十郎の射撃も的確で、暴徒の鉄砲使いを狙撃するなど、
その活躍に小栗も感心して後日小姓格扱いとなった。
「次郎太もどうだ」
小栗は機嫌良く声をかけたが、次郎太は、
「俺は今のままでいいです」
と断った。
「せっかくの殿の御好意をふいにするんか」
銀十郎は次郎太の愛想の無さに不快さを示したが、
「家来として暮らせることが大事で、
俺が殿になるわけでもあるめえ」
と、嘯くように返した。
小栗は軽く次郎太の根付を彫る手真似を示して、
「まあよい、次郎太も忙しいらしいからの。
それでよければ俺とて文句はねえよ」
「・・・・でも」
次郎太が口を濁した。
「なんだ、申せ」
「殿の何か下さい」
「おい、次郎太!」
銀十郎が咎めたが、
「出世は当てにしません、銭も特にいりません、
でもせっかくだから、殿の何か小物とか、何か下さい」
銀十郎は、
「おい、図々しいこと言うな!」
と声を荒げ、塚本も銀十郎と同じく、
「殿、こいつは調子づいておりますから、
甘やかさぬよう願います」
と、今度は小栗を諌めたが、
小栗は軽い調子で、
「・・・・そうか・・・・あれもこれもであれば断るが、
そうであれば考えようか」
と、意に介さず奥の部屋へ行って戸棚を開けると、
「これかな」
と、古そうな黒漆塗りの小刀を取り出した。
「棚にしまったままの古いやつだ」
戻る小栗に塚本が、
「殿、他の者に示しがつきませぬ、無用に願います」
小栗は笑顔であぐらをかき、
「次郎太、お前は武士か?」
「へ?」
「自分をどう思っておる」
「どうって・・・・」
次郎太は自分を武士と思ったことはない。
さりとて百姓とも言えない。
小栗家に奉公する中間ではあるが、
武家に仕える武士ではない者、である。
「・・・・殿の家来としか言いようがねえです」
「家来となれば主に忠節を誓うのは義務だ。
その覚悟はあるか」
「覚悟・・・・」
十四にして家を出て、剣術道場、賭場の雑用を過ぎ、
当てもなく江戸に来た次郎太が、偶然関わったのが
小栗家である。それまでは逃げ出し、裏切り、
まずい経緯もあり、その後に中間となった。
いつまた逃げるか、どこぞへ放浪するか、次郎太自身
考えないことではなかったし、ある程度事情を知る
塚本や周りの者も同様に感じていた。
次郎太は武士に憧れも無く、出世も想像もつかない。
「・・・・殿の家来であれば、老いぼれても、
掃除もお供も致します」
朴訥な物言いであったが、小栗は納得したのか、
「よし、ならば受け取れ」
と、小刀を差し出した。
「相分かった。今後とも頼むぞ」
次郎太はぎこちなく丁重に小刀を受け取った。
腑に落ちない風の塚本や銀十郎らを前に小栗は、
「心配するな、今後も常に考えておく。贔屓は無しだ」
と笑顔を見せた。
また、参戦した家来や地元民に慰労金と、放火の被害や
身内を失った村人にも見舞金が支払われた。

小栗はこの村を新たな永住場所として、若い家来達を一兵
として使い捨てにするのではなく、旧来の身分による
しきたりと役目に甘んじることなく、学校を作って
新しい時代に活躍できる人間に育てようと考えていた。
夕刻になると、脅されて暴徒側に加わったことを詫びに
来た村々の名主や村役人達には、
「今にこの谷から太政大臣を出して見せる」
と夢を明かし、共に協力して暮らそうと語った。

この一件で暴徒達の姿は無くなり平穏な村々に戻ったが、
埋蔵金の噂は近隣の村だけでなく関東一円に広がり、
その後も消えることがなかった。

・・・・
閏四月六日、小栗と家来の四名は、東山道鎮撫総督軍の総督
岩倉具定の強硬な命令によって、地元上野の高崎・安中・
吉井の三藩がおよそ千名の藩兵を引き連れて、小栗のいる
東善寺に向かい、前回と打って変わって言いがかりといえる
罪状をもって直ちに捕縛すると、村人が見守る中、烏川の
水沼河原に引き出した。
現場を仕切るのは東山道軍の巡察使、大音(おおと)龍太郎
と軍監、長州の原保太郎(二十二歳)、土佐の豊永貫一郎
(十八歳)である。共に倒幕に熱心な、岩倉らの忠実な
部下として職務を全うしようと、幕府主戦派頭目、
逆賊として小栗を斬首に処すことに何の迷いも無かった。
原の指示により、安中藩の徒(かち)目付、浅田五郎作が
斬ることになったが、敵対もなく徳川に恨みも無い浅田は、
状況に緊張したのか、斬首にも手元が狂って一刀に済まず、
小栗は三度目にして首が落ちた。享年四十二。
家臣は荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎、
いずれも二十代の若者だった。
小栗主従の首は青竹に刺して道端の土手の上で晒され、

 右之者朝廷に対し奉り大逆を企て候条明白に付、
 天誅を蒙るもの也
    慶応戊辰閏四月
 東山道先鋒総督府吏員

という罪状の高札が建てられた。

翌日、既に弁明のために高崎城へ出向いていた息子又一と、
付き添っていた家来三名もまた、城内で斬首となった。
又一は二十一歳。家来も又一と同じく二十代の若者で、
塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助の三名。
軍監の豊永貫一郎が読み上げた罪状は、

 小栗又一
 其方儀、父上野介と共に反逆明白に付、天誅を行うもの也
 戊辰閏四月
 小栗上野介家来
 塚本真彦
 沓掛藤五郎
 多田金之助
 右者共上野介を助け、反逆を企て候条明白に付、
 天誅を加え梟首するもの也
   戊辰閏四月
 東山道総督府吏員

高崎城で抗議した又一達に高崎藩士の谷口周道は、
「総督府参謀の命令である」
と答え、東山道軍軍監の原保太郎は、小栗斬罪は参謀の
土佐藩士、板垣退助による命令と後に語るが、幕府方の
殺害は薩長の方針として予定済みで、小栗殺害もその一つ
として考えていたものだった。
小栗主従の殺害後、関東各地の小栗の知行地二千七百石は
天領として接収、建設途中の自宅敷地は競売にかけられ、
その家財一切も近隣の商人に売り払われ、軍資金として
持ち去られた。大音龍太郎は、
「これで供養してやるように」
と二十五両を名主の佐藤藤七に渡すと、小栗が米国で
買ったサラブレットの馬に乗って去って行った。

この一連の斬首については、地元の名主・佐藤藤七による
前夜での小栗への引き止めがあり、薩長側から
脅されていたのではないかと憶測された。
一旦は西軍進軍の報に身の危険を感じて、小栗は家族共々
東善寺を出て村の奥の亀沢集落まで移り、農家で休憩して
いたが、馬で駆けつけた藤七に、村の者達が西軍から
咎めを受けかねないとして、引き返すよう懇願された。
家来からは「西軍は殿を主戦派とみて見せしめに捕らえ、
処刑を狙っているでしょう」と言われ、それに同意しての
出立だったが、村民を犠牲にするわけにはいかず、高崎城へ
向かった養子又一と付き添った家臣三人も見捨てるわけには
いかないとして、家臣達の猛反対を押し切って東善寺に
戻っていた。

小栗の妻道子と母邦子がその死を知るのは、困難な上信越
国境を超えようと、山深い六合村和光原のヤマニ・山田家で
三日ほど滞在休養して、改めて旅装を整えていた頃だった。

佐藤藤七は名主として小栗の信任厚く、遣米使節へも
随行した一人だった。
小栗から直々に夫人護衛の任を命じられた村役人の中島
三左衛門は、藤七ではなく自分が命じられた意味を
分かった気がした。
「藤七、裏切ったな!」
前夜の藤七を言動を知っていた家来一同は激しく怒り、
殊に銀十郎は「あいつなんか斬っておけばよかったんだ」
と憤慨した。

・・・・

道子夫人と母邦子の会津への逃亡は、西軍側の追手を危惧
して夫人と母堂が分かれ、夫人は上信越国境の秋山郷、
母堂は信州の善光寺へのお参りを装いつつ草津白根山から
渋峠で信州に入り、越後へ向かい合流する手筈になっていた。

既に七ヶ月もの身重の夫人は山駕籠に乗せられ、護衛は
小栗より今回の指揮を任された中島三左衛門をはじめ、
中沢兼五郎、佐藤銀十郎、房太郎、源忠、兼吉、次郎太、
その後に道案内として地元和光源の若者である弥平次、
善十郎、庄蔵、権三郎、勘十郎、三郎(清作)と、
年長(四十五歳)の猟師の芳五郎が従い、引沼村の七郎平、
世立村の勘兵衛も加わって、総勢約二十名に牛二頭、
山駕籠二丁が用意されていた。

一方、母堂への護衛は塚越富五郎(富吉)、池田伝七郎、
佐藤福松、弥平次、小栗の養子又一(忠道)の許婚鉞子
(よきこ・十四歳)と中島の娘さい(十七歳)も夫人の
世話役として付き添い、善光寺へのお参りという装いで
一足早く出立して、信州館山から越後魚沼郡堀之内を
目指した。
この越後への山越えには村人を含めて総勢二十名と
なっていた。
途中の道には険しい登山道や獣道、足場の悪い河原や
山道が続き、数日に渡って一行を苦しめた。

夫人一行が人里離れた山々、その険しい道のりをようやく
抜けて、越後の秋成(越後魚沼郡津南町)にたどり着くと、
弥平次の知人数人の協力も得て、十日町まで向かった。
長岡・会津の影響下にある越後領内とはいえ、薩長に
関わる縮商人の往来もある。一行の正体が知られてどんな
災厄を招くか気は抜けない。弥平次の知人に更に知人が
事情を知って協力し、夫人一行は本家に庄屋を持つ
岡田寛蔵の家に三日滞在した。

夫人一行が目指す会津の前に、新潟にある法恩寺へ寄った。
小栗の父忠高は、新潟奉行として安政元年(1854)十月に
着任し、翌安政二年(1855年)七月二十八日に四十七歳で
病死しており、忠順が法音寺に墓を建てていた。
もう一生来ることはないだろうとの思いから、夫人と母堂が
墓参し、忠高の下で検断(警察・治安維持・刑事裁判)を
担当していた藤井家に事情を話し、預けていた供養費の
五十両を幾らかでも返してもらって、旅費の足しにしようと
考えていた。
既に薩長は北陸方面にも迫り、越後への侵攻も間もなく
との噂が広まっていた。しかし会津への道のりは長い。
それだけではおそらく不足となるであろうと今後を案じ、
三左衛門は房太郎と兼吉に、権田村へ戻って幾らかでも
集めて来るようにと命じた。

房太郎と兼吉は翌朝早く出立し、元来た道を戻って、東大滝、
七ヶ巻、野沢温泉の麓を過ぎて、志賀高原の土橋、中須賀を
越え、夜半には渋温泉まで到達という、一日で二十里
(約80キロ)を必死の思いで歩いて来たが、運悪く草津街道
で松代藩士の検問を受けた。松代藩は既に西軍に恭順し、
旧幕府側を警戒、取り締まる側にいる。周辺を警護する
藩士達も、不審者を取り締まる通常の任務ではあるものの、
一行の身としては避けたい事態だった。
「善光寺参りの帰りでござんす」
と言い繕うが、汗まみれでみすぼらしい風体、文字通り
一紋無しという状態で疑いは晴れず、三日間も拘留された。

房太郎と兼吉が戻らないまま十数日が過ぎ、しびれを
切らした三左衛門達は、事前に知らせを受けていた
母堂一行が滞在する北東五里に位置する堀之内村へ
向かうことにした。
堀之内村に接する魚野川の対岸は小出島(こいでじま)
で会津藩の管轄だった。
堀之内村は三国街道の宿場町の一つで、
まだ西軍の脅威は届かず平穏無事を保っていた。
約十日ぶりに夫人と母堂は再会し、互いの無事に涙した。
房太郎と兼吉はまだ戻らないが、旅費も心細くなり時を
潰すわけにはいかないと、一行は二十里程離れた新潟の
法音寺(新潟市西堀通り)を目指した。

・・・・

ようやく解放されてほうほうの体で権田村までたどり着いた
房太郎と兼吉は、さっそく佐藤藤七の家に駆け込み、
事情を話して金子の工面を頼むが、
「殿には恩があるが、今まとまった銭を出す余裕はねえよ。
殺された御家来方の弔いもしなきゃならねえし、
こっちも何かと入用だでな」
藤七は渋い顔で房太郎の頼みを断った。
手ぶらで帰るわけにいかないと焦る房太郎は、兼吉共々
近隣の家々を廻り、幾らかでもと無心したが、小銭程度の
額では戻るに戻れない。二人は領内の村々の家を一軒一軒
巡っては頼み込んだ。が、
「だめだ、誰も相手にしねえ」
裕福とはいえない村々と承知はしていたが、ある者は困惑、
ある者は迷惑そうに断る姿に、二人は落胆と腹立たしさを
覚えた。

小栗が権田村へ隠居を決め、小高い観音山へ自宅を建設する
際に、小至沢(こいたりざわ)の源流から水路を引き、
これを知った村人達は、土地の不便を訴えて、田畑のための
用水路を作ってくれるように頼んだ。
百姓にとって水は死活問題であるから、
「なるほど、事情を知れば無視はできぬ」
と、小栗はフランス式測量を会得している又一と他家来に
命じて測量させ、工事に取り掛からせていた。
水に困らなくなるのは百姓達にとっては何よりも得がたい
ことであり、村人の計画の喜びは、尾根一つ越えた稲瀬沢村
村民にも伝わり、そこもまた用水路の工事を頼んできた。
この水路は小高(こたか)用水として、小栗の死後に開発が
進み、実現されている。

「死ねば恩もクソもねえか」
金策に走っていた二人は、もはや無駄とあきらめ、
僅かに得た小銭をそれぞれ袂に入れ、銭紐を肩にかけると、
一行の進む先、会津へ近道をしつつ急ぎ向かうことにした。

・・・・

この頃越後は幕府側として存在し、新潟港は直轄地として
会津藩が管理していた。新潟港も兵庫や函館などと同様、
貿易港として安政六年(1859)に開港の予定だったが、
政変で遅れていた。
中立を標榜していた長岡藩も家老の河井継之助と会津との
密約もあって、対薩長への軍備を進めていた。河井が小栗の
人となりを知り、更に以前、会津と薩摩に同盟を結ばせて
長州を京都から追い出した功績のある会津藩士の
秋月悌次郎の折衝が功を奏していた。
河井は三月三日、江戸開城に際して江戸を去るときに、
品川沖の武器商人シュネル兄弟から、ガトリング砲2挺や
数百挺のライフル銃を買い込み、シュネルの商船で新潟港へ
帰港した。
その後、シュネル兄弟は拠点を新潟港に移し、河井の仲介で
会津藩家老・梶原平馬によるライフル銃七百八十挺と
二万ドル相当の弾薬購入にも協力した。
秋月と梶原の働きかけと、河井の横暴な薩長への反発から、
長岡と会津は急速に接近し、共に対薩長へ備えた。

・・・・

忠高の墓参を終えて会津領内へと歩を進めた夫人一行だった
が、房太郎と兼吉は戻ってくる様子もなく、西軍あるいは
寝返り与した藩に捕まったのではと母堂が懸念した。
三左衛門は思案していたが、
「我々が会津へ向かっていることは分かっていますから、
先回りして会津へ向かっているやもしれませぬ。
我々も急ぎましょう」
と、このまま進むことを進言した。
そこへ、これまで後ろで荷物を運んでいた次郎太が、
「頭(かしら)、俺も権田村へ行かせてくだせい」
と、三左衛門にぼそっと声をかけた。
「何言ってんだ、もう二人に頼んでんだで、
おめえ行っても仕方あんめえ」
と、呆れたように言った。

by huttonde | 2014-09-07 04:00 | 漫画ねた | Comments(0)
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