30度以下。 やれば できるじゃないか。 それでいいのだ。
by huttonde
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時代劇 5
・・・・
次郎太は大鳥軍が活躍することに期待しながらも
大鳥軍が後に来る日光街道の終点今市へ向かい、
(どうせまた面倒になるだんべ)
と、地元の米問屋へ行って米を十俵程を買い込むと、
地元の雲助(くもすけ・運び屋)を雇って荷車を出し、
馬子を雇って途中まで馬に乗って更にそのまま山深い、
後に云う「会津西街道」を北上した。
会津南部に西街道の東に位置する会津中街道は会津と
江戸の最短距離だったが、険しい山道は暴風雨や積雪など
で通行が遮断されるなど、主要道路としては不適として
脇道となっていた。
しかし、地元住民は江戸と会津をつなぐ主要道路として、
西街道と共に南北から来る積荷の運搬などで収益を
上げていた。

会津へ至る野州北部も同様で、日光や今市から会津国境も
また山道が続き、条件は同じだった。勝っても負けても
大鳥達は会津へ行くかもしれない、また、二千人に及ぶ
大所帯ならば食糧が足りなくなることは必定とみて、
大鳥軍が会津へ入る際に、食糧として使ってくれることを
考えて、国境にある五十里村の名主に話をつけると、
小額を渡して米を五俵預かってもらった。
また、会津領内に入ると、警備の藩兵に話し、しばらく
進んだ横川村にも同じく五俵を預かってもらって、馬で
まっすぐ西街道を通って、一行がいるであろう若松城下を
目指した。

途上、会津藩兵の部隊が野州方面へ移動する姿が見受けられ、
会津藩もまた野州方面への防備が進んでいることを思わせた。
村人に念入りに聞いて進んだものの、行けども行けども
山また山の景色に、狐に化かされた感覚が襲った。
20 km
  • 地図
  • 航空写真
  • 地下街


地元の馬子には当然の景色で、
「まあ、こんなもんだよ、この辺はね」
とのんきそうである。

〽 ゆくに遠いが ゆかねばならぬ
  馬の供して 飯を食う

馬の蹄の音と荷車の軋む車輪の音の中で、
馬子が一節唄った。
「俺らぁ会津と野州をつなぐ運び屋だで、
面倒承知の商売さね」
次郎太は荷車に揺られながら山々を見ている。
馬子は気にせず話す。
「この時期はええよ。なんたって雪の苦労がねえからね。
さすがに冬はぼやかいね」

・・・
追撃を受けて数十人の戦死者を出しつつ宇都宮城から
撤退した大鳥軍は、なんとか西軍を振り切って
北北西の日光に向かった。日光には宿坊も多く、大鳥の
軍勢を駐留させるのに適している上、徳川家の霊廟の地でも
あり、地元の協力も望めた。
しかし、現地へ着いて猟師達へ加勢や町民へ炊き出しを
求めると、戦を心配した各寺院から部隊の移動を
要請された。
また、参戦している旗本からも、「兵疲労困憊にして
食糧弾薬も尽きかけた今、ここで戦となっても勝利は
望めず、そのために大廟が灰燼に帰すことになれば、
我ら幕臣の面目が立たぬ」と反対意見も出され、
東の今市宿へ移ることにした。

・・・・

次郎太が若松(鶴ヶ城)城下に着いたのは九日程経っていた。
夫人一行が会津藩重臣で若年寄の横山主税(ちから)常忠
という人物を頼るべく目指していたことは聞いていた。
横山は慶応三年(1867)正月、将軍の弟の徳川民部(昭武)
を代表とする遣欧使節団に随行して半年間を過ごした一人で、
渡航前に小栗から指示、指導を受けていた。また、小栗が
江戸から退く直前には、罷免を伝え聞いた会津藩から誘いが
あり、小栗はやんわりと断っているが、その関わりは
続いていたらしい。

次郎太は横山邸の門番に事情を話したが、
一行は来ていないという。
(俺が早かったのか)
次郎太を知った横山が門番を通して中へ入るよう促したが、
一人入ったところで手持ち無沙汰であり、なにより横山に
ついて次郎太は何も知らない。失礼があってはまずいし、
「一行が着いたら改めて共に挨拶に」伺うと言い残し、
近くの旅籠で様子を見ることにした。
ところが翌日になると、横山本人らしき馬上の者が
武装した多くの家来を引き連れて邸宅を出て行った。
(あれ、戦か)
門番に聞くと、
「ええ、城に呼ばれて西軍に備えるそうです」

・・・・

閏四月下旬、小栗夫人一行がようやく若松城下に
到着し、頼みの横山邸前に着いた。
隊長の中島三左衛門が疲れながらも笑顔で、
「ここだ、横山様の邸宅だ」
銀十郎は辺りを見回しながら愉快そうに、
「次郎太の奴、やっぱり来てねえな。
今頃どっか逃げ回ってんかな」
と笑うと、
「俺がなんだって」
と、次郎太が銀十郎の耳元でささやいた。
「うわっ」
驚いて仰け反った銀十郎に、
「何がうわだ、この野郎」
と、表情も変えずつぶやいた。
「なんだぃ次郎太、来てたのか」
三左衛門が笑顔で声をかけ、次郎太は夫人と母堂に、
「次郎太、路銀の工面と知らぬ道をたどりまして時間が
かかりましたが、決して逃げ出すことなく、約束通り
参上致しました」
深々と一礼すると、銀十郎は、
「けっ、嫌味ったらしい言い草しやがって」
と苦い顔をし、皆が笑って次郎太との再会を喜んだ。

・・・・

一行が揃ったが、横山は会津藩軍の軍事副総督として、
会津領内へ迫る西軍に備えるため留守にしていた。

一行は横山の親族に挨拶も早々、横山の悲報に接した。
会津南部、白河口を守備していた横山ら会津・仙台の
連合軍二千は、北上した一千程の敵と交戦し、会津側は
戦死者二百余人にのぼる惨敗だった。
指揮を執っていた横山も銃弾を受けて戦死した。
享年二十二。
前回、手薄になった敵の隙を衝いて、野州より合流した
大鳥軍の協力も得て白河城を奪還する活躍だったが、
再度の交戦となり、激しい撃ち合いの中で横山の遺体を
運ぶことが出来ず、家来が首だけを取って自宅まで
運んでの報告だった。
笑顔で一行を出迎えていた横山の母と、幼い子を抱いた
若い妻はたちまち表情を変え、一行もまた暗然とする中、
藩主容保との挨拶もそこそこに、横山の葬儀に参列すること
となった。

会津には江戸から脱出、逃げてきた職人や医師、町火消し
などもいて近況を話すこともあり、家老の西郷頼母や
その従者からも接触が続けられたが、夫人の出産も近づき、
主無き家に居るわけにもいかないとして、西郷頼母の
配慮により、一行は城から二里(約8キロ)離れた
野戦病院として使われている南原の民家へ移り、
戦況を見守りつつ滞在することになった。

血気盛んな銀十郎は、このまま漫然と日を送るよりも、
小栗一行を快く引き受けた会津藩への恩返しのために
参戦すべきとしたが、次郎太は断った。
「護衛は殿の奥方様と御母堂様だで、会津藩でねえよ」
「会津は西軍と戦ってんだぜ、ほっとけるかよ」
「おめえはいつから会津藩士になったんだ?
役目やめんのけ」
「世話になってる会津藩へ恩返しはすべきだろうが。
俺らだけ知らねえなんて、どの面下げて言えんだよ」
「役目違いだ。おめえが加わって戦が変わんのけ」
「何もしないのは卑怯もんだ、
小栗一行は腑抜けかと謗りを受ける」
「俺らを頼るようじゃ、会津も終わりかな」
「おめえは、状況がわかんねえのか」
「わかってるから言ってんだ。俺らが加わって
解決するとでも思ってんのか。そりゃ思い上がりだで」
憤激する銀十郎に、次郎太はあくまでも素っ気ない態度で、
持っていた根付を黙々と彫っている。
銀十郎は次郎太の前に置かれた彫刻刀などを蹴散らすと、
「殿の家来になりながら、おめえまで命が惜しくなったか、
これは殿の仇討ちでもあるんだぜ、相手は鬼畜の西軍だ、
敵を目の前にほっとけるか」
と怒鳴りつけた。
「・・・・・・」
次郎太は一瞬顔色を変えたが、すぐ思い直したように、
「奥方様方をほっといて忠義とかこくつもりか」
「なにっ」
「戦で大活躍して死ねばおめえは満足だろうが、
残された奥方様方はどうなる。あとは知らねえってか。
それがおめえの忠義か。死にたきゃ勝手に死ね。
俺らまで巻き込むな」
「おめえ、こんな状態なのに、卑怯とは思わねえのか。
俺らは戦場に来ちまってんだぜ。恩ある会津が戦場に
なって大変な目に遭ってんだろうがよ、
ほっとけるかって言ってんだよ」
銀十郎も負けずに怒鳴る。
言い合う二人に夫人は、
「銀十郎の言う通り、恩ある会津藩を放っておくのは
良くないでしょう。殿がいれば力を貸したと思います。
ここはまだ無事だし、加勢出来る者は城へ向かって下さい」
隊長の中島三左衛門は夫人に同意して、
会津へ加勢する者を確かめた。
加勢を決めたのは佐藤銀十郎、塚越富五郎(富吉)、
池田伝七郎、佐藤福松の四人で、隊長の中島と娘のさい、
次郎太と房太郎、兼吉などは残ることになった。

その後、銀十郎らは会津軍に加わって越後や白河などに
転戦した。

・・・・

五月一日には西軍によって再び白河城を奪われ、
会津藩は約二百人の戦死者を出した。
会津藩への同情や強硬な長州の木戸孝允への反発、また、
その家来でもある世良修蔵による東北諸藩に対する傲慢さに
憤慨した結果、三日には奥羽越列藩同盟が結成された。
しかし、会津も仙台も迫る西軍に弱腰で、激しい砲撃を
食らうとたちまち退却するといった有様で、
大鳥は激怒した。
「同盟に安堵して戦う気概を失ったのか、数ばかりで分が
悪ければすぐ逃げ出すようでは烏合に過ぎぬ、これでは
到底勝てる戦も勝てぬではないか」

弾薬は限られ、会津や仙台と共闘しようにも、途中で
逃げ出されては作戦実行もままならない。強力な砲撃で
攻め立てる西軍が強いだけでなく、味方の連携の無さに
作戦の不調が目立ち、大鳥は度々嘆くことになった。

大鳥や土方は会津方として容保や側近にも献策したが、
その対応は鈍く、大鳥達を警戒するような態度も見受けられ、
「会津は因循姑息の性質で、新規の意欲に欠ける」
と、その体質に困惑した。
大鳥の部隊将兵は身命を賭して会津方として転戦し、
多くの死傷者を出していたが、一方の会津側は大鳥達に対し、
「大鳥は兵学を究めたとしながら戦法実践は稚拙であり、
弾薬など準備は常に不足し、悉く裏目に出る有様で・・・・」
と、味方の敗退を大鳥の失態と捉えていた。

・・・・

薩長ら西軍と東北諸藩の戦が始まって間もなく、
道子夫人は女子を生んだ。命名国子。
重苦しい状況の中、夫人の子の誕生の報は、一行だけでなく
会津藩全体にも吉報として喜ばれたが、西軍の侵攻は続き、
六月二十四日、棚倉城が落ちると、翌七月四日にはいち早く
秋田藩が離脱、二十九日には二本松城が落城、越後では
北部の新発田藩も降伏し、奮戦する長岡を挟む形になった。
やがて河井継之助が指揮する頑強な長岡藩も敗れ、
河井は傷を負いながら会津へ逃げる途中、南山御蔵入の
塩村で治療の甲斐なく没した。享年四十二。

八月二十一日には会津藩北東の母成峠が破られた。ここには
大鳥達の伝習隊も激戦の地と予想して待ち構えていたが、
西軍の砲撃は激しく、左右の陣を守るはずの会津と仙台の
兵は退避してしまった。
劣勢の大鳥達は反撃もままならず、その上後ろを
回り込まれて絶体絶命の危機に陥った。
やむなく退却となったが、この混乱時に総退却の報告は
城下へ届かなかった。
この後、会津や仙台軍は早々に散り散りに逃げ出し、
大鳥達も激戦の地から部隊将兵ともばらばらに分かれて
脱出し、僅かな供と険しい山を越え、飢えに苦しみ、
時に道に迷い、谷から滑落するなど危険を冒しながら
必死の思いで近隣の米沢藩へ向かった。
しかし、板垣ら西軍の勧めもあって、米沢藩はすでに
降伏恭順に傾いていた。

退却と混乱の彼ら会津や仙台軍の一方、西軍は侵攻の
速度を緩めることなく、まもなくその西方、若松城の
目前の猪苗代城を落とした。

離れ離れになっていた部隊将兵らと合流しつつ、米沢藩で
弾薬などの補給を考えていた大鳥達は米沢の拒絶に進退
窮まったが、人道に基づいて九十人に及ぶ怪我人を仙台に
運ぶとして、ようやく通行の許可を得た。

協力的だった米沢藩は会津に騙されたと西軍に弁明しつつ
降伏、新潟港は西軍に奪われ、スネル兄弟も拘束されて、
会津向けに荷下ろしされていた武器弾薬も西軍に
押収された。

八月下旬には西軍来襲の知らせに若松城下は驚き慌てるも、
城下に残る者達は必死に迎撃の態勢を急いだ。
この後、大鳥は窮地に陥った会津を放っておけないとして
会津は桧原(ひのはら)に戻ると、その報は各地に伝わり、
第二大隊と伝習隊将兵約二百人とも再会し、会津藩から
弾薬と食糧を分けてもらい、西軍が天守閣への砲撃を
始める一方、若松の北方で残る長岡藩兵と共闘して、
敵の弾薬を奪うなど、徹底抗戦を続けた。
しばらくすると、旧幕府軍の衝鋒隊の古屋佐久衛門に久々に
会った。現状をいかに打開するか話し合い、応援の軍勢千人
をもって作戦を立てるが、肝心の武器弾薬も食糧も
無くなっていた。
会津藩に協力を要請するも余裕なしと断られ、大鳥達は
抗戦不能とあきらめ、険しい山道を抜けて福島に移って
行き、その後、榎本武揚率いる幕府艦隊が仙台に寄港
していると知って、仙台に向かった。
また、転戦しながらも生きながらえた池田伝七郎も
彼らと行動を共にした。

・・・・

会津領内に侵攻した薩摩土佐の火力は強く、
城下への攻撃は熾烈を極めた。
母成峠が破られて怒涛の西軍進撃に、猪苗代にいた土方の
部隊は若松城に駆けつけて、容保の護衛に当たった。
事態打開を図るべく佐川官兵衛総督の下、会津藩兵は
槍を持って突撃して敵塁数ヶ所を奪ったが、百七十名もの
死者を出し、参戦していた長岡藩大隊長の山本帯刀も
包囲され戦死した。

九月、城の北西、越後口の高目村(福島県耶麻郡西会津町)
に布陣していた会津方最精鋭部隊の朱雀四番士中隊付属隊に、
塚越富五郎、佐藤銀十郎、佐藤福松の三人は一兵として参加
していたが、北上してきた数十人の西軍部隊と激しい銃撃戦
となり、富五郎は胸を撃たれて絶命した。銀十郎や福松と
同じく二十代前半の若者だった。また、富五郎の妻は
中島三左衛門の娘さいであり、この悲報は間もなく
夫人一行にも伝えられた。

更に、朱雀四番士中隊誠志隊の銀十郎達は、迫る長州、
芸州、松代の西軍勢と交戦(喜多方市熊倉)、村での
撃ち合いなど初めは優位にあったが、退いた西軍を
深追いして逆に側面を衝かれ、銀十郎ら十五名が
撃たれて戦死した。享年二十一。
やがて、会津と西軍による若松城攻防戦になり、
十五日には不利を悟った仙台と福島藩も降伏した。



・・・・
隠忍の山

西軍と奥羽越列藩同盟の諸藩の戦が続き、
会津東部国境での激しい攻防の最中、
次郎太ら夫人一行は、城から離れた
会津南西部の山村に身を隠していた。
西軍の猛攻に東側小藩も落城降伏が続き、
西の越後も頼りは長岡藩のみという窮状に陥ると、
会津領内にも薩摩と土佐の軍勢が深く侵攻するに至った。
見つかれば小栗主従と同じ目に遭いかねない。
戦が終わって西軍が会津から立ち去るまではと、
一行は更に山深い村に移っていた。
その存在は、江戸から逃げてきた幕府要人の
遺族と家来衆として認知され、会津藩の一村としての
自覚から、公然の秘密となっていた。
「藩には不満もあります。そいでも、百姓といえども、
武士じゃなくても義はありますで。
困ってる人を助けるのは名誉ですでね」
藩から要請を受けた際に、名主の弥兵衛は
そう言って倅の弥助共々快諾して、
夫人や母堂達に自宅の奥の間など一角を提供し、
三左衛門や次郎太達は離れの小屋に寝泊まりした。

ある晴れた日の村。村人数人が畑仕事中。
「ほんに毎度疲れるねぇ」
作業の老婦人が背を伸ばして遠くを見ると、
軍勢らしき隊列が見えた。
老婦人は弥兵衛宅に走った。
居間では弥兵衛と倅の弥助、三左衛門、
房太郎と兼吉に次郎太が雑談中のところに、
老婦人が縁側に走り込んで知らせて来た。
「なんかよぉ、あっちで見たことねえ軍勢が来たよ」
「軍勢? 会津じゃねえのか」
弥兵衛が怪訝な顔で聞き返すと、
「あんな格好見たことねえし、
来るようなとこでもねえしさ、西軍じゃねえかね」
「もしかして黒い格好かね?」
三左衛門が聞くと、
「うん、上下黒だったよ」
房太郎、兼吉と次郎太も裸足で外に飛び出し、
「幕府の陸軍かな」
「伝習隊?」
三左衛門も続いて物陰から遠く覗き見た。
小勢だが、二列縦隊を組んだ部隊が
山道を進んで来るのが見える。
兵の服装は西洋式の上下黒で、
三角に見える陣笠をかぶって西洋銃を抱えている。
前後を銃兵の中、唯一馬上の隊長らしき者は
長い白の熊毛陣笠、先頭の士官は
黒の熊毛陣笠を着けている。
三左衛門は丸に十字の旗を見て舌打ちした。
「・・・・ありゃ薩摩だ」
房太郎と兼吉が
「士官二、旗持二、馬の口取二、銃歩兵十・・・・四」
「 計二十・・・・」
と数えた。
「どうします?」
房太郎が心配そうに三左衛門に聞くが、次郎太が、
「どうもこうもねえだろ。逆らったら終わりだ」
と、素っ気なく口を挟む。
「ほとんど丸腰の四人と鉄砲持ちの二十人じゃなあ」
と兼吉も続ける。
「しゃあねぇ、頭下げとこう」
三左衛門が憮然と答え、
「連中が来たら名主に寄って来るだろう。
出迎えてなんとかやり過ごそう。
念のため奥方様を離れに・・・・いや、隣ん家に移せ、急げ」
房太郎と次郎太が弥兵衛宅に走った。
ついてくる次郎太に房太郎が振り向いて
「おめえはいいよ」
と言うが、
「おめえだけじゃ心配だ」
「なにぃ?」
「いいから急げ」
「くそっ」
弥兵衛宅の奥の間にいた母堂邦子と国子を抱いた
道子夫人、鉞子(よきこ)とさいは、
縁側から房太郎の知らせを受けた。
「薩摩の部隊がこちらに?」
驚く母堂らに房太郎が、
「万が一、奴らが傍若無人の振る舞いをすれば、
たちまち奥方様方に累が及ぶかもしれません、
直ちに隣の家に」
「わかりました。では移りましょう」
母堂が答えると、鉞子(よきこ)が母堂に手を貸し、
さいが夫人を庇いつつ、房太郎と次郎太も共に
隣の民家へ移動した。

by huttonde | 2014-12-08 04:59 | 漫画ねた | Comments(0)
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