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東北での戊辰戦争における薩長軍の主敵は会津藩であり、
開戦前に会津を含む東北諸藩からの朝廷への恭順の通告を 無視したように、参謀の一人、板垣退助は、薩摩とも縁の ある会津の秋月悌次郎による度重なる和平、助命嘆願の 働きかけを無視し、会津藩を壊滅、皆殺しにする気で 一ヶ月間砲撃を続けた。 これには長らく長州で軍事面を任され、彰義隊を壊走 させたことで定評があった大村益次郎が、 「会津は一ヶ月もあれば落ちる」 と前もって助言していたことも影響したらしいが、 既に倒幕勢力で影響の大きい薩摩への対抗心や、 多分に手柄争いの結果ともいえる迅速さと強硬さを 一貫させていた。 城郭外には兵や婦女子の遺体が散乱、腐敗して悪臭を 漂わせ、近隣での略奪暴行も続いた。 城下は焼かれ、地獄の様相ながらも西軍は辺りに散在する 会津側の遺体の弔いを禁じ、野ざらしにさせた。 地元民もこの仕打ちには憤激したがいかんともしがたく、 地元住職と協力して各地の遺体を密かに埋葬するなどした。 しかし、飯盛山での同様のことが西軍に知られ、 密かに寺に埋葬した地元滝沢村民の吉田伊惣次は逮捕され、 遺体は掘り起こされて再び野に打ち捨てられた。 会津殲滅を策したような猛攻だったが、城を支えたのは 老人や少年、藩兵の妻や娘達だった。 少ない旧式の火縄銃で反撃したところで撃退できるわけも なく、城下では捕らわれた婦女子への暴行が頻発し、 弾薬も食糧も乏しくなり、脱走者や自刃する者が後を 絶たなくなった。 数千人の犠牲者を出して窮乏の状態となった今、家老の 梶原平馬は決断し、大きな白い布に「降参」の文字を書き、 ぼろぼろになった若松城の門前に旗として上げた。 布が足りないため、城内の女性達が白布をかき集めて 涙ながらに縫い合わせたものだった。 不幸中の幸いというべきか、容保の首を取れと強硬だった 木戸孝允の命による山県有朋率いる長州の軍勢は、 長岡での河井らの活躍で足止めを食らい、 会津へは間に合わなかった。 慶応四年九月二十二日、事前の秋月悌次郎による主君容保 父子の助命を条件に、米沢藩の仲介により、降伏の儀式が 執り行われることになった。正装に身を包んだ家老の 梶原平馬、内藤右衛門、大目付・清水作右衛門、 同じく目付・野矢良助、秋月悌次郎が帯刀せず、 若松城下北部の甲賀町(こうかまち)に用意された 式場に参列して西軍方幹部を待った。 式の場は平馬の実家、家老・内藤介右衛門邸宅前の 庭園である。 巳の刻(午前十時)に追手門に白旗が掲げられ、 銃砲は止んだ。 降伏の式場には薦(こも)を敷き、更に紅い緋毛氈 (ひもうせん)が敷かれた。 正午になって西軍軍監の薩摩藩士中村半次郎(桐野利秋) と軍曹の山県小太郎らが式場に到着し、その後に太刀を 納めた袋を小姓に持たせた正装の松平容保と養子の 喜徳(のぶのり)が入場して、中村らに一礼した容保は、 降伏謝罪書を手渡した。 これにより会津藩の降伏は決まり、一旦城に戻った容保は、 集まった重臣や兵達の見守る中、亡くなった者達を 埋葬した二の丸の伏兵郭(くるわ)と空井戸に献花と 祈りを捧げ、夕刻には父子共に、若松城東部の滝沢村に ある妙国寺へと護送されて謹慎の身となった。 しかし、これまでの強硬さからすれば、長州に限らず 薩摩も土佐も油断ならない相手である。式の際も、 出向いた秋月は容保父子の助命嘆願を繰り返し要請した。 式を終えると秋月は敷かれていた緋毛氈を細かく切り分け、 会津藩士が血の涙を流した泣血氈として、この落城の 屈辱を忘れまいと藩士達に配った。 徹底抗戦を訴えて城外で手堅く勝ち続けて交戦中だった 佐川官兵衛も、一日遅れの翌二十三日、容保より書状を 受け取り、 「もはやこれまで」 と降伏を決断し、各地での抗戦も終わった。 二十三日は南部藩も降伏し、東北においては珍しく最新の 武装で奮戦し、西軍に連戦連勝していた庄内藩も、もはや 戦争継続の意義は無いとして二十六日に降伏した。 会津の戦は終わったが、それに代わるように 地元の領民達が一揆を起こした。 七年に及ぶ京都守護職による負担は藩の財政を疲弊させ、 領民は重税に苦しんでいた。家老の西郷頼母は長州への 矢面になって恨みを買うことを危惧し、深刻な財政難を 理由に、容保に辞職を訴えていたが、罷免されていた。 禁門の変以来、会津の活躍によって孝明天皇の信頼を得て いた容保は、慶喜や慶永(春嶽)の引き止めもあり、 生来の虚弱な体に鞭打つように己を励まして役職に 臨んでいた。 しかし、領民にとっては迷惑以外の何物でもなく、 見返りも無いどころか各地で戦となって土地を荒らされ、 身内を失った上に敗戦となったことに怒りが爆発したの だった。 そのため、護送される容保親子に対する惜別の情も無く、 二ヶ月間にわたって領内各地で打ちこわしが続いた。 薩長らはこれを会津同士のいさかいとして、灰燼に帰した 城下町同様、これを地元役人に任せ、介入を避けた。 一揆の波 慶応四年九月二十二日(明治元年 1868年 11月6日)、 薩摩土佐を中核とした西軍各藩と会津藩よる激しい戦が 終わり、会津の敗北が決まると、その十日後の十月三日に 会津若松西南の大沼郡で大規模な一揆が起こり、 勢力を増して領内各地へ拡大していった。 一揆衆を組織したのは、会津西南、野州北部から会津若松 へと続く街道で、人や物の運搬を担う人足達の頭領で 村組頭、会田一家の長、会田仁右衛門である。 会田一家は領民代表として村々を廻って、領民の窮状は 藩による重税と、無理強いを重ねた藩の不当な取り決めに よるものとして撤廃を訴え、村民に一揆への参加を 呼びかけつつ、名主や商家の農民との賃借や雇用に関わる 帳簿を破棄したり、年貢の免除、役人の影響力排除など 見直しを求めた。 一揆暴動は前例があった。 年貢を主な収入源とする会津藩は、財政悪化だけでなく 打開のための改革の失敗を繰り返し、同時に江戸中屋敷 と若松城下の大火、幕府からの江戸城普請要請などで 出費がかさみ、借財は藩の二倍以上のざっと五十七万両 に及んだ。そのため一時は年貢が七公三民にまで高く なるなど、領民の疲弊は極まった。 結果、寛延二年(1749)、ついに農民が一揆を起こし、 年貢半減などを訴えて一万五千人が若松城下に 押し寄せて(寛延の大一揆)、領内各地に飛び火して 暴動に発展した。そのため藩は農民の要求を受け入れて、 翌年二月には貧民の年貢引下げなどを実施した。 会津藩での村の統治は、当初は郡奉行が代官の補佐を 受けて会津、河沼、耶麻、大沼の四郡に分けて差配、 管理していたが、それまでの財政悪化と藩政改革の失敗に 伴い、天明七年(1787)、五代藩主松平容頌(かたのぶ) が、改革派の田中玄宰(はるなか)を家老に再登用して 改めて断行した寛政の藩政改革により、奉行代官を共に 在郷させて、その下の各村郡の長、大名主(大庄屋) (郷頭・ごうがしら)の権限を制限させた。また、 末端の行政組織となる各村の年貢を納める地主百姓 (本百姓 ほんびゃくしょう)の五人組、その代表で 監査役の老百姓(おとなひゃくしょう)を廃止し、 藩の権限を強めた。 今回の一揆も、京都守護職の負担増による更なる 重税措置と、大々的な戦火による被害と敗北に、 苦しんでいた領民達の堪忍袋の緒が切れたのだった。 「江戸城が西軍に取られて会津と西軍との対立が激しく なると、会津から江戸の人と物の流れは大幅に減って、 俺ら街道の(馬子や駕籠かき等)人足達や、宿場も何も、 みな稼ぎが減っちまった。藩軍の移動が増えようが 地元にゃほとんど関係ねえ」 「会津領民みんなとばっちりだよ。意固地な藩の 見栄や体裁で無理強いされる領民もいい迷惑だぜ。 このままでいいと思うかい?」 西軍との戦で藩が降参したことは、多くの領民にとっては 他人事同然だった。戦は藩士同士の戦いであって、 農民には対岸の火事にも思えた。むしろ負担を強いた 強権的ともいえる藩の敗北に溜飲を下げたり、 「せっかく言いつけを守って来た俺らは何なんだ? 良くなるどころかボロボロじゃねえか」 と、攻めて来た西軍よりも惨敗した会津藩に 腹を立て、突き放した。 領民達の不満一切をすくい上げるような仁右衛門の 訴えに賛同する領民は多く、会津西南の山中から 蜂起した一揆衆は、数日にして数千人に激増した。 「なんたって年貢免除に借金棒引き、小作人の解放に 地主どもの土地返上、領民なら飛びつく話ばかりだ。 藩はボロ負けで今や無いも同然、西軍も御沙汰は地元に 任すそうだ。絶好の機会じゃねえか。逃す手はねえやな」 「大義は俺らにある。横暴な藩や旧幕府連中から 文句言われる筋合いはねえよ」 名主宅では仁右衛門が子分数人を従えて、 取り決めの破棄を求めて脅しをかけた。 「横暴な役人も商家も、邪魔する奴に遠慮すんなよ! 家財道具はすべて奪え! ぶち壊せ! 領民の怒りを見せてやれ!」 仁右衛門の檄に農民達は雪崩を打って目当ての家々を 襲い、名主宅や商家の家財道具は一揆衆に奪われ 売り払われて、抵抗する家は容赦なく壊され、あるいは 放火された。また、消極的な村民に一揆参加を強要、 奪った一部を上納させて私腹を肥やしていた。 大人数になると彼らは会田一家の子分達を先頭に一定数に それぞれ分かれ、東西南北と近隣の村々の名主や商家を 大挙して訪れては取り決めの改変や解消を求め、 同意しない家を荒らし回った。 ・・・・ 夕刻、名主・弥兵衛宅の居間には、弥兵衛と倅の弥助と 三左衛門に、房太郎、兼吉、さいと次郎太が囲炉裏を 囲んでいた。 「戦が終わったと。会津藩が降参したそうで」 弥兵衛がこわばった表情で三左衛門達に伝えた。 「負けたか・・・・」 三左衛門は煙そうに煙管をふかした。 房太郎は苦い表情、兼吉は腕組みをしながら 瞑目して俯き、さいは困惑の表情で頬に片手を当て、 次郎太は無表情のまま腕組みをしている。 弥兵衛は話を続けて、 「戦が終わってホッとしたと思ったら、今度は一揆で 大騒ぎらしいよ。城より西の、ここよりもっと北の山から 農民が大勢出張って名主んちやら商家を打ち壊しして、 (若松)城周辺でも暴れてると」 倅の弥助も、 「一揆衆はこの周辺にも迫ってるらしいってんで、 隣村でもみんな大慌てだそうです」 「で、一揆の目的は?」 房太郎が聞くと弥兵衛が、 「まあ色々あるんだが、年貢の一時免除とか、 役人の入札(選挙)の実施や、小作料の廃止だの借金の 棒引きだの何だの、これまでの藩と村々の農民に対する 決め事の変更と破棄ってとこだね」 房太郎が憮然として、 「ずいぶん元気だな。 その元気が西軍に向けばよかったのに」 とつぶやくと、兼吉も、 「藩が負けて弱った途端に暴れ出すって・・・・ 散々我慢したのにボロ負けで腹立ったかな」 と続けた。 三左衛門は煙を吐くと、 「だいぶ重税で苦労したらしいからな。戦で兵に 駆り出された者もいるってぇし、家を荒らされたり 焼かれたりで巻き添え食って 踏んだり蹴ったりってわけだろ」 弥兵衛も同意して、 「昔はともかく、今までこんなことは無かったからねえ。 抗議しようもんなら不届き千万で逮捕もあり得たから、 要求は今が好機と見たんかな」 「藩にしてみりゃ弱り目に祟り目だなあ」 房太郎が腕組みしてつぶやいた。 次郎太も静かに、 「村の仕組みは藩と幕府が決めたことでしょう。 それを名主と商家に文句言って、打ち壊しだの家のもん 盗るなんて八つ当たりだし、賊で火事泥でしょう」 三左衛門は盆に灰を落とし、 「いずれこの一帯にも来るかもしんねえな」 「あ〜あ、西軍の次は一揆衆かぁ」 房太郎がため息をついた。 「で、西軍は一揆についていかなる処置で?」 兼吉が弥兵衛に聞くと、 「あくまでも会津藩内の問題として役人任せだそうで」 「散々荒らしといてあとは知らねえ、か。 つくづく汚ねえ奴らだ」 房太郎が舌打ちした。 三左衛門は房太郎達に、 「いずれにせよ彼らは会津の領民だ。 撃ったり斬ったりはならんぞ」 と、最後に次郎太へジロリと視線を送った。 「ごもっとも・・・・と言いたいとこだが、 旦那親子が袋叩きに遭ったらどうしますか」 変わらず無表情の次郎太の言に、 弥兵衛と弥助の顔が再びこわばった。 三左衛門は腕組みをして、 「一揆は要求が目的だ。まずは話し合いだ。 まあ、旦那が表に立っては向こうも脅しを兼ねて 無茶しかねねえ。俺が出迎える。 俺ら立会いの下で話をつける。 それで聞かず暴れるなら、そん時はしょうがねえ」 「それは・・・・」 次郎太が何か言いかけるが三左衛門は遮るように、 「だが、殺しちゃなんねえぞ。脅して済ませろ」 次郎太は視線を弥兵衛に移し、 「それで、一揆衆の数は?」 「いやぁ、そこまでは・・・・そいでも、 ずーっと列をなして進んだり村を襲ったとこを 見たってぇ話では数百はおるかの」 「人数も増えて強気になってるでしょうね。 話着くかなあ」 兼吉が口をとがらせてつぶやくと、 「何百人いようが百姓連中なら十人二十人と 撃たれりゃあ逃げ出すだろう。 権田村んときがそうだった」 「次郎太、俺は殺すなと言ったぞ、 言ったそばから忘れてんのか」 三左衛門が苛立つが次郎太は淡々と、 「殺すとは言ってねえ。脅しで撃つことはあり得ますよ。 向こうの出方次第です。こないだは早かったからよかった。 まだわかんねえんですか」 「・・・・とにかく、殺すな」 「へぃ、仰せの通りに」 次郎太は平伏した。 「猟師の五助さんと茂平さんにも加勢して欲しいとこ だが、事が事だで、向こうになびくかもしれませんね」 兼吉が三左衛門に話すと房太郎も、 「領民が助かる要求を連発してんなら、この村のもんも 向こうの勢いに飲まれて一緒にここへ押しかけるかも しんねえなぁ」 三左衛門も同意して、 「たしかに向こうは強気だろうし、それを知れば この村のもんもどうなるやらな・・・・」 弥兵衛は茶を片手に、 「・・・・まあ、みんなつらいのはわかってるで、 譲ってもかまわないことはあるよ。こっちは藩の 決め事を守っただけだで、 変えて困らないことも あるし、多少の損くらい被ってもいいさ。 争う方が後々面倒だでね」 「頭(かしら)はどうします」 次郎太が聞くと、 「どうするって、話し合いで・・・・」 「向こうが聞かなかったら」 「聞いてもらうさ」 「聞かずに暴れたら」 「・・・・俺は銃の扱いが出来ねえ。脇差を使う」 「撃つのは駄目で斬るのはいいと?」 「屁理屈言うなぃ、いざとなればだ」 「おとうちゃん」 と、さいが澄ました調子で、 「あたしもいいよね?」 「え?」 「あたしも銃持たしてよ。いいでしょ」 「・・・・さい、一揆も油断なんねえぞ、 奥方様んとこ守ってろ」 「じゃあ、持っててもいいよね」 「・・・・ああ、好きにしろ」 「やった!」 途端に満面の笑みとなった。
by huttonde
| 2016-06-14 15:15
| 漫画ねた
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