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レバノン9.11・難民キャンプを歩く/中村一成

レバノン9.11・難民キャンプを歩く 最終回/「祖国」とは何か

■月刊『記録』03年5月号掲載記事

 バハーさんが手ずから刺した伝統刺繍に彩られた部屋、暖かい雰囲気の中でのインタビューは、私の一言で一転した。「自爆攻撃…。そう名付けるのですね、あなた達は…」。日本から来るほど、パレスチナ難民の現実に理解があると思っていた人間との意識の溝を痛感したように、彼女は乾いた白い顔を突然上気させた。

「個人的には、相手がイスラエル人だろうが、人を殺すのは反対です。民間人ならなおさらです。私は殺人を憎みます。でも、ここで考えねばならないのは、イスラエルはパレスチナ人の家を破壊し、虐殺を繰り返している。なのに、パレスチナ人は妥協に妥協を強いられている。ナイフを首に突き付けられているというのに、それでも『私たちはテロリズムに反対です』だの『平和を愛しています』だの言えばいいのですか! 私は人間としてそんなことはできない。イスラエルこそテロリズムとあらゆる犯罪の頂点です。爆弾を体に巻いて抵抗する人たちをあなた達は『自爆攻撃』という、でも私達は『シャヒード(殉教者)』になるというのです。そういう質問をする人には言いたい。『じゃあ対案をくれ!』と。一体、どうしろというのですか! 一方的に私たちが殺されているというのに…」

 一気に言葉を吐き出すと、彼女は深く息を吸い込んだ。半世紀を超えても何一つ改善されない現実と世界の無関心への苛立ちが、わずが数秒に凝縮されていた。彼女は呼吸を整えると、おそらくは硬直していた私たちの顔を見て、悲しそうな、そして、少しすまなそうな顔で何かを呟き、インタビューを続けるよう促した。

 36年に及ぶ軍事占領、恒常化する外出禁止、経済破綻と失業、一方で入植地はオスロ合意以降も増加を続け、パレスチナ人の土地は奪われ続けている。殺戮と破壊が日常化するなか、自爆を選択する若者もいる。私たちが人でいることを許さない現実を続けさせているのは誰なのですか?この上どうすればいいのですか? 自分たちが安心する答えを私たちからむしり取りたいのですか? 答えるべきは同じ世界を共有しているはずのあなた方ではないのですか…? 問われているのは私だった。

 センターが現在、取り組んでいるのは、YWCAと共同実施しているボランティア活動である。障害のある人の介護や、キャンプ内の清掃などをする。他団体と共同ですることの意義について彼女は語る。「重要なのは、レバノン人のキリスト教徒と出会い、彼らが民主的な人たちであること、私たちを抑圧するレバノン政府とレバノン人は別であることを学んでもらうのです。決して、サブラ・シャティーラやタッル・ザァタルで私たちを殺した人ばかりではないことを知ってもらうのです。先日は日本から絵画の専門家を招き、講習会をしました。そうした専門家がここにはいないことも理由の一つですが、もっと重要なのは、ムスリムでなくても、私たちパレスチナ人のために身銭を切って航空券を買い、はるばるレバノンまで来てくれる人たちが世界にはいるのだということを子どもたちに知って欲しかった。人は、他者の境遇について共感できる、それを知って欲しかったのです」

「昨年9・11、どこに居て、何を思いましたか」
 気持ちを整理するように少し考え込んだ後、バハーさんは意を決したように話し始めた。
「…率直に言います。最初に聞いた時は嬉しかった。世界の覇権を握っている米国の一部が崩れたのですから。でも序々に理性的になり、無辜の市民が殺されたことを実感しました。その痛みは今も続いています。そして次に感じたのは恐怖であり、不安でした。この代償を支払うのは私たちだと思いました。そして実際、そうなってしまった。ビンラディンを育てたのは米国なのに、ツケを払うのはパレスチナであり、アフガニスタンだった。そして今、イラクが攻撃されようとしている」

 深い思慮、そして、こちらが戸惑うほどの率直さ。バハーさんの話に私たちは引き込まれていた。本当は夜通しでも話したかったが、最後に将来の夢を訊いた。
「将来はこのキャンプに止まらない青年サークルを作りたい。自分のことしか考えない子どもが増えている。これはとても危険なことです。根本にあるのは、経済状況の悪化と希望のない現実です。社会保障も仕事もない。しかも帰還の希望も持てないからです」
 ある時、ベイトのプログラムで、隣国・シリアを訪問することになったパレスチナ人の子どもが、出国カードの国籍欄に「パレスチナ人」と書いたところ、レバノン人の官憲が言い放った。「パレスチナ人だと? 違う、パレスチナ『難民』だろう!」
「『難民』には辞書にない、特殊な意味があるのです。それは烙印であり、若者であればなおさら誇りを傷つけられます」。レバノンにいる限り彼ら彼女らはあくまでも『難民』であり続ける。約38万人といわれるレバノンのパレスチナ人難民のなかには、青年層を中心に、デンマークやスウェーデンへの移住に踏み切る人も増えているという。
「今後については、いろんな望みを持っています。ただ、私の夢は、ベイトで働くことと切り離せません。ここで働くことが私の、パレスチナ人としての夢を育ててくれた。私は闘います。帰還するために人を殺すことは私には出来ない。でも子どもたちのために力を尽くします。これが私のジハードなのです。この夏の初めから昨日まで、1日の休みもなく働き通しでした。何が私を働かせるのかを考えると、とにかく『パレスチナ』のために力を尽くしたいからだと思うのです」

 彼女も00年の国境地帯解放時、センターのスタッフと250人の子どもを連れ、有刺鉄線の向こうにある故郷を見に行ったという。「どう思いましたか」。バハーさんは言葉に詰まり、目を涙でいっぱいにした。「祖国が…」。遠くを見るように、あの時、心に刻み付けた風景を思い出し、その記憶をいとおしむように言葉を続けた。
「初めて祖国を見ました。見えるのに、触れることが出来ない。そこに見えるのに、触れることが出来ない………。とても…、困難な瞬間でした」。私も涙が止まらなかった。今回の旅で何度目のことだっただろうか。

 インタビューを終え、玄関に行った。青い鳥が檻を破って飛び立つ姿が描かれた絵が掛かっている。日本の絵画ボランティアが描いたものという。絵の意味を聞いた。
「パレスチナを意味しています。牢獄から飛び立ち、自由になるのですよ」。
 バハーさんらが外まで送ってくれた。ここで培われ、そしてここに賭ける彼女の夢に触れた後では、殺伐とした外の風景が少し暖かく感じられた。誰も居なかったグラウンドでは、子どもたちがサッカーをしていた。海岸線に沿い、日が傾くのを見ながら北上していく。UNRWAの事務所前ではまだ、人々が座り込んでいる。反対側にはサブラ・シャティーラ虐殺事件の際、キャンプ住民を集合させ、連行する人間としない人間を選別したというスタジアムが見える。連れ去られた者たちの多くは帰ってこなかったという。ベイルート市中心部に入ると、信号機もない雑然とした道路に車がひしめき、クラクションが鳴り響いていた。

 15日に帰国すると、すでに新聞は日朝首脳会談に関する記事で満ち溢れ、そして17日、会談当日が来た。以降、メディアは拉致事件一色になり、それからの1カ月足らずで、日本各地の朝鮮学校生への暴行や脅迫は300件を超えた。拉致被害者の悲劇は、かつて日本が行った、そして「解放」から半世紀を超えても正されない不正に対し、日本の人々が思考を開き、その被害者たちに共感する契機となりえるはずだった。だが、現実は逆に他者の悲劇を周縁化し、不信と憎悪を膨張させ、有事法制など、反動化へのいわば「切り札」になっている。
 今年1月のイスラエル総選挙では、シャロン率いる極右政党リクードが圧勝した。彼らは「テロ防止」を掲げ、自治区内に巨大な壁を築き始めている。あのホロコーストをきっかけに出来た国の人々が、かつて、ナチスがユダヤ人を囲ったゲットーを再現している。そして3月20日、イラク侵略が始まった。米国兵士の死が詳細に語られる一方で、米英軍が、まるで人体実験のように投下する最新兵器で殺されていくイラクの人々の死は、名前どころか、数ですら語られない。
 そして「『人間の盾』には配慮しない」とのブッシュの言明に応じるように、3月16日、ガザでパレスチナの家屋破壊を止めようとした米国人女性が、イスラエル兵の運転する米国製軍用ブルドーザーに轢き殺された。ガザではその1カ月後にも、イスラエル軍の銃撃から子どもを救けようとした英国人男性が後頭部を撃たれて、脳死と宣告され、00年9月以降、イスラエル軍と入植者が殺した2000人を超える犠牲者の一人に加わった。イスラエル軍が攻撃する際の大きな「基準」だった「パレスチナ人とそうでない者」という一線、いわば「殺戮におけるレイシズム」は「乗り越え」られた。

 ホダーさんは結局、大学を断念した。今は専門学校で経営学を学び、大学に復帰できる日が来るのを夢見ている。兄のハーレドさんは結婚したという。私たちが帰国した後、レバノンの広報大臣が延々とパレスチナ人の大義についてスピーチをしたユネスコ宮殿では、サブラ・シャティーラ虐殺事件20周年を記念して、広河隆一さんの写真展が開かれた。だが、レバノン史の暗部を焼き付けた記録は、当局の命令で即日撤去させられた。
「人は他者の境遇に共感しうることを、子どもたちに知ってほしい」。子どもに未来を託し、バハーさんは包み込むような口調で語った。しかし、あの「9・11」は米国の物語として特権化され、横領され、アフガニスタンに続いて、イラクでの新たな殺戮を後押しした。
「私たちだって生きたい! 希望を持って、世界の人と同じように生きたいんです」。ミリアムさんは声を振り絞った。だが、世界の関心がイラク攻撃に集中する陰で、パレスチナでは当たり前のように人が殺され、家屋が破壊され続けている。

 1972年、ベイルートで、車に仕掛けられた爆弾で暗殺されたパレスチナ人作家、ガッサン・カナファーニの作品に「ハイファに戻って」という中篇がある。イスラエル建国で難民となったパレスチナ人夫婦、サイードとソフィアが67年、イスラエルの西岸占領によって、20年ぶりに帰郷する。自宅はユダヤ人夫婦、アフラートとミリアムのものになっており、ベッドに置き去りにせざるを得なかった息子・ハルドゥンは彼らの子、ドウフとして育てられ、イスラエルの軍人となっていた。ハルドゥンに拒絶されたサイードは語る「ねぇ、ソフィア。祖国というのはね、このようなすべてのことが起こってはいけないところなのだよ」。在日朝鮮人の作家、徐京植さんはこの作品を通して語る。「祖国」とは、政治的諸条件のもとで選ばれる未来に向かう姿勢、生き方の謂いなのだと。バハーさんの祖国、ミリアムさんの祖国、ハーレドさんの祖国、ホダーさんの祖国。彼ら彼女らを取り巻く不正が正され、その夢が実現する場所。パレスチナ、それはパレスチナ人の祖国であると同時に、私たちが求めるべき祖国でもある。
 パレスチナ人として生きること、それこそがこの旅で、私たちが出会った彼、彼女ら一人ひとりのジハードに他ならなかった。(■了)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第5回/キャンプの本当の現実

■月刊『記録』03年4月号掲載記事

 朝はバラの造花が飾られていたテーブルには食事用の黄色いカヴァーが掛けられていた。ナッツと手羽先を具にした炊き込みご飯。ヨーグルト、ナスの酢漬けとフライドポテト……。次々と、食卓いっぱいに料理が並ぶ。 

 準備が整うのを見計らったように、ホダーさんの兄・ハーレド(25)が帰宅した。レバノン大を卒業したが定期収入のある仕事はなく、今は鉄筋や鉄骨で日用品を作り、僅かな収入を得ている。近く結婚するため、連日、夜中までの仕事をこなしているとのことだった。「どんな作業をしてるの?」と私が訊くと、彼はもどかしげな表情で、溶接作業の内容を説明しようとする。新聞社で働く前、私は土木作業で食べていた。私が溶接機器の操作を身振り手振りで示すと、表情がぱっと明るくなった。 

 食事が和やかに進む。アラブのもてなしの慣習で、食べた分はすぐさま継ぎ足される。「もっと食えよ。日本に帰るころには、別人みたいに太ってるかもな」。ハーレドが嬉しそうに私の皿に食事を盛り続け、ホダーが囃し立てる。あまりの量に、さすがに音を上げると、彼が私の耳に口を近づけ、声を潜めて言った。「上へ来ないか?」 

 階段を上がった屋上が彼の仕事場だった。鉄パイプや鉄骨を切るための電気カッターがある。ろくすっぽ英語も出来ない私に、ハーレドは決して流暢とはいえない英語で話しかけてきた。「俺は腕がいい職人なんだ。何だって作れる。でも移動であちこちに行くのが煩わしいから、ここで仕事をしてるんだよ」。大事な仕事道具を指差して、彼が言った。「使っているとこを見たいか?」 
 電気カッターにスイッチを入れた。彼の顔が引き締まる。レバーを下げ、回転する刃を鉄パイプにあてると、勢いよく火花が噴き出した。
「写真を撮っていいか?」。私にこの姿を見せたかったのだと感じ、思わず言葉が口を衝いた。 
 鉄パイプを切ってみせた彼は、繰り返した。「これで何でも創れる。だけど、移動が嫌だからここで仕事をしてるんだ。君は友達だよ。分かるだろ。君は友達だ。分かるだろ」 

 拙い英語で、だがそれゆえに、言葉以上の思いが伝わるような英語で、何度も、何度も繰り返した。彼は決して「軟禁状態だから」や「難民だから」とは言わなかった。大学を出ても仕事はない。今では資材の搬入すらも妨害され、働くことも認められない。「難民」の意味を日々、思い知らされる暮らしのなかでは、「尊厳」を保つことがまさに闘いだった。彼はその「誇り」を、対極的な境遇にある私に示し、いうなれば「一人前の男」として張り合い、そして、「彼の闘い」に対する私の想像力を問うているように思えた。
「分かるよ。俺もそう思うよ」。私もただ、何度も繰り返した。 

 階段から降りる時、彼が屋上から私を呼び止めて言った。「母親が階段を綺麗にしているから撮ってくれよ」。見ると、空き缶を利用した「鉢」に植えられたハーブや観葉植物が、日光を浴びながら美しく並んでいた。 

 ホダーさんの家を辞去する。すでに午後3時近くなっていた。「もう一軒、寄って行きましょう」。ミリアムさんは私たちに促すと、路地に入り、傍らにある平屋のドアを開けた。すえた匂いがする。中には布団が敷いてあり、うつ伏せになり、首を直角に反らした異様な姿勢で寝ている男性の姿があった。無精ひげが目立つ口は大きく開かれ、生気が感じられない。側にはタバコの箱があり、灰皿の上には乱暴に押し潰した吸殻が数本、乗っている。開けたドアの枠内に広がる異様な光景は、少し前の和やかな雰囲気とはあまりにもかけ離れていた。すると枠の中に突如、男の子の顔が飛び込んできた。他人を拒絶するような、怯えたような眼に、思わず声を上げそうになった。 

 子どもは5人、寝ている父親は精神を病んでおり、母親が家計を支えているという。ベイトはこの家庭を支援しているが、父親がいるためUNRWAの援助対象からは除外されている。ミリアムさんが言った。「ホダーはまだ恵まれています。本当に貧しい世帯の現状がこれです。あなたたちに厳しい現実を見て欲しかったのです」 
 事務所に戻ると、運転手のモヘッディーンさんが寝ている。一階の壁に貼られた船の絵を指してミリアムさんに聞いた。「この船はどこに向かって航海するのですか」。「パレスチナですよ。どんなに海が荒れても進んでいく。希望のシンボルです」 
 センターの隣は更地になっている。むき出しになったセンターの壁に高校生くらいの男の子がペンキを塗ったり、欠けた部分に漆喰を塗りつけている。これもレバノンの「帰還促進」政策からみれば禁止行為である。 
 キャンプの門を出ると、モヘッディーンさんが言った。
「アインアルヒルウェに寄っていこう」

 
 青い空、緑の木々、家の合間からみえる青い地中海、軒先に干してある赤や青の洗濯物。陽射しに照らされた、水彩画のようなラシーディエの風景に浸った後では、都市型キャンプのアインアルヒルウェの景色は、鉛色に写った。国軍兵士のチェックを受け門をくぐる。デコボコになったキャンプ内の道は、機械油が染み込んだようにどす黒く、小さな子どもや青年たちが、路上に屯している。険しい眼が車の中の私たちに注がれると、否応なく緊張感が増してくる。 

 道を曲がりくねり、車を降りる。車幅より狭い路地を歩くと、グラウンドがある。その通り向かいにベイトのアインアルヒルウェ・センターがあった。3階建ての建物と建物の間の、やっと人1人が通れるくらいの路地に、無理やり押し込んだような高い鉄の扉があり、上には鉄の棘がある。その横の壁には、複数の銃痕が刻まれている。 
 モヘッディーンさんが扉を何度もノックするが、なかなか人が出てこない。門から建物までの距離が遠いのだろう。しばらくして、ようやく、女性職員が扉を開けてくれた。狭い路地を抜けると、建物の壁に四方を囲まれた小さな庭がある。日の射さない場所とはいえ、中心部は砂場になっていて、ブランコが1台、据え付けてある。その周囲には花が咲き、赤や緑に塗られた手すりが遊び場と通路を立て分けている。ベイトを支援している日本のNGO「パレスチナ子どものキャンペーン」から派遣されたボランティアが整地したのだという。 

 センターに入ると、壁にはパレスチナの伝統的刺繍で織られたパレスチナの地図がある。その地図には、48年以降、シオニストらに蹂躙され、消し去られてきたパレスチナの村々の名前が縫いこまれ、幾度となく繰り返された戦争のたびに引かれた停戦ラインも、度重なる国連の非難決議を無視して造成され続けるイスラエル人の入植地もない。 

 所長のバハー・タイヤールさん(45)がにこやかに出迎えてくれた。「一番問題の多いキャンプ。それは人口が一番多いからです」。開口一番、切り出した。 
 49年に出来たこのキャンプでは、6万人の人々が約1.5キロ平方メートルの敷地内に暮らしている。昼間はキャンプ内の市場で働くシリア人やUNRWA職員など、これに約1万人が加わるという。「80年代後半、レバノンのキャンプ内で党派間の争いが激しくなった。勢力争いに敗れた人たちがみな、このキャンプに集まったのです。例えば北部のキャンプではシリア系のダンズィーマートが、南部はファタハ(アラファト派)が牛耳っているが、ここには全部あって衝突を起こしている。普通、キャンプには一つの人民委員会があり、行政機構的役割を果たすが、ここには4つある。それが対立していることが青少年に悪影響を与えている」と話す。
「具体的にはどんな問題がありますか?」
「いろんなプロジェクトを企画しても、党派間の対立を調停する努力がいる。それから、先日は15人の少女が性的に利用されていたことが分かりました。でも問題をどこに持ち込んで、解決させればいいか分からない。4つ委員会があるということは、言い換えれば責任を持つ組織がないということです。無秩序ゆえレバノンで犯罪を犯した人が逃げ込んで来たりもする。先日もそれでレバノンの警察官と党派との間で銃撃戦がありました」 
 そこまで言っていいのかと、率直さにこちらが困惑する。色白で乾いた顔に栗色の髪、茶色い瞳で私たちを見つめ、よく質問を聞いた上で、ていねいに答えてくれる。 

 バハーさんは57年に生まれたパレスチナ難民2世である。パレスチナ北部の町、シャァブ・アッカ近くの村が故郷で、76年、タッル・ザアタル虐殺事件の後、ベイトが設立された時のメンバーである。「ベイトには約200人の孤児がいました。私は80年からの2年間、7人の孤児の母親代わり、当時は私が最年少の職員でした」 

 82年、サブラ・シャティーラ虐殺事件が起きた年、アインアルヒルウェに赴任した。その時が、自身にとっての原点になっているという。当時、南部レバノンは戦場だった。
「避難所が爆撃され、200人余りが殺されました。サブラ・シャティーラでも、子どもや女性、老人たちが獣のように屠殺されました。あの時私は、パレスチナの子どもたちのために、もっと、もっと働きたいと思ったのです」
「今の対立が与えている悪影響とは?」
「矛盾です。何が正しくて何が正しくないか。例えばオスロ合意一つとっても、党派によって評価が違う。私は大人で自分で考えることが出来る。それでも一体、何が正しいのか私でさえ当惑することがある。ましてや17歳の子どもには……。例えば民族舞踊の企画をするにも、女の子と手を繋ぐことを『ハラーム(禁忌)』だと言う党派もある」 
 じっくりと、言葉を選びながら話しているのだが、時おりウンザリした表情をみせながら話す党派対立への批判は手厳しく、激しい。
「サブラ・シャティーラの前にもいろんな組織はありましたが、目的は一つ『解放』だった。でも今は違う。アラファトのやり方がもたらしたのはインティファーダであり、ジェニンの虐殺だった。『帰還』一つとってもアラファトの主張か、宗教勢力の主張か、どちらを支持すればいいのか。(オスロ合意でパレスチナの約78%を諦めたアラファトに対し)『私たちはパレスチナ全土の主人である』とのスローガンを主張する党派も出た」 
 すでにパレスチナ難民キャンプには、4世、5世が誕生している。世紀を超えて続く不正を国際社会は放置し続け、出口の見えない状況が続くなか、北欧や欧州に移住する人たちも相次いでいるという。「解放」「帰還」……。何よりも彼ら彼女らが待ち望む言葉の実現を巡る道筋が、同胞間の対立を激しくさせている。 

 部屋に並んだたくさんの壷にも鮮やかな刺繍を施したカバーが被せてあり、暖かい雰囲気が醸し出されている。彼女が刺繍したのだという。「子どもたちの多くは、家では寝るのも食事も同じ場所、外に出れば殺伐としたスラム。くつろぐ場所が必要なのです」。一言一言に深い思慮と知性を感じさせる彼女とのインタビューは和やかに進んだ。その表情が一転したのはこんな質問がきっかけだった。
「Suicide Attack(自殺攻撃)についてどう考えますか」
「‥‥」 
 最初、彼女はその言葉が何を指すのか分からないようだった。「パレスチナ人が爆弾を身に付け……」。説明するのを制し、頷きながら深呼吸をすると、彼女は愕然とした表情で呟いた。「『自殺攻撃……』。そう名付けるのですね。貴方達は」。みるみる顔が上気した。
(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第4回/たび重なる虐殺と「記憶の熱さ」

■月刊『記録』03年3月号掲載記事

 小麦粉の塊を捏ねる母親の手、幅2メートルもない路地で壁にぶつかりそうになりながらボールを蹴り合う子どもたち……。身近な人たちの笑顔を捉えた写真に混じり、砲撃で穴だらけになった家の壁や、窓から陽が差し込む部屋の中で、物憂げな表情で毛布に包まっている父親、二の腕の刺青をカメラに誇示する兄の姿もあった。おそらく彼らは失業しているのだ。 

 ラシーディエ難民キャンプにホダーさんを訪ねた前日、私たちは、ベイルートのユネスコ宮殿を訪れた。英国の写真家の発案で、キャンプの子どもたちがインスタントカメラで自らの日常を写した写真の展覧会が開かれていた。 
 来場者でいっぱいの会場、パネルの傍には小さな写真家たちが、いくぶん照れ臭そうな顔で立っている。少し恥ずかしい、でも自分の作品を見て欲しくてたまらない、そんな顔をした子どもたちと人びとが言葉を交わしている。会場風景を撮ろうとカメラを構えると、「ねぇ、僕の写真だよ!」とばかりにこちらを向く少年がいる。閉塞した環境の中で得た自己表現の機会。こんな場が、彼ら彼女らの自信につながるのだと思えた。 
 開幕式典の冒頭、レバノン政府の広報大臣が挨拶に立ち、延々とパレスチナの大義やらパレスチナ人との連帯を訴えた。01年6月現在、レバノンにいるパレスチナ人約38万3000人のうち、56%が難民キャンプで暮らす。このれは、同じく離散パレスチナ人が生活しているシリアの28%、ヨルダンの18%に比べてもずば抜けて高い。「帰還促進」に名を借りた、抑圧政策の結果である。貧困や失業の現実を伝える写真を前に、大げさな身振りで「連帯」や「解放」を口にする政府要人の姿に、カメラを構える気すら失せてしまった。 

 NGO「ベイト・アトファール・アル=ソムード」のラシーディエ・センター所長、ミリアムさんが話す難民キャンプの窮状に、私は前日の出来事を思い出した。それを話すと彼女は言った。
「えぇ、でもあの大臣はまだマシな方ですよ。4年前から資材の搬入も駄目。これは明らかに政府の方針です。繰り返しますが、『帰還』と、『雨漏りのしない家に住む』のは、まったく別問題です」 
 彼女の故郷は国境線から見えるサファドである。00年には彼女もベイトの子どもたちを連れ、事実上、禁じられるまでの数ヵ月間に6回、国境を訪れた。
「故郷を見てどう思いましたか?」
 みるみる目が潤んだ。彼女は少し間を置いて言った。
「あれが私の村かと……、その気持ちは表現できません……」。亡くなった父に聞いたり、本を読んだりして知る故郷。有刺鉄線越しに出会った同胞に、パレスチナの石とオリーブの枝を貰い、今も部屋に飾っているという。「ますます故郷に帰りたいとの想いが募りました。もう一度、故郷が見たい」 

 私たちが訪問する少し前、韓国からやってきたジャーナリストが、ベイトの子どもを国境線に連れて行き、感想を記事化することを試みた。30数人を連れて国境に向かったものの、結局、レバノン当局に阻止されたという。最初、ミリアムさんからこの話を聞いた時は、ネタ取り的な浅ましさを覚えたが、現実問題として、そうでもしなければ子どもたちは自分たちの故郷を目にすることすらできないのだ。それは、分断された民族の一人ゆえ思い立った行動だったのかもしれない。私は、朝鮮分断後、知人の車で韓国側から停戦ラインに赴いた力道山が、突然、上着を脱ぎ捨て、故郷である38度線の向こうに向かって、およそ言語化できない音で、ただひたすら絶叫し続けたというエピソードを思い出した。

「ちょうど、1年前でしたね」ミリアムさんに訊いた。彼女は即座に質問の意味を理解し、ゆっくり噛み締めるように語った。
「おそらくどの民族にも増して、私たちこそ、9・11の犠牲者の痛みを感じたと思う。サブラやシャティーラ難民キャンプでの虐殺事件のように、罪もない人が理不尽に殺されていくことを、私たちこそが何度も経験しているからです」 
 ミリアムさんが語った、パレスチナ人にとっての9月の記憶「サブラ、シャティーラ虐殺事件」。82年9月、PLО撤退後のパレスチナ人難民キャンプに、イスラエル軍の支援を受けた、レバノンのキリスト教マロン派民兵組織「ファランジスト」が侵入、3日間にわたり2000人以上を殺害した。民兵たちは白い武器、つまり鉈や斧を多用した。キャンプのメイン・ストリートであるサブラ通りは、夏の日差しで腐乱し、家族ですら判別できない死体で埋め尽くされたという。首から上がない死体、頭を斧で潰され、うつ伏せになったまま絶命していた老人、両足を別々の車に縛られ裂き殺された男性、強姦された上、腹を割かれて胎児を引きずり出された妊婦の死体……レバノン滞在中、目撃者から聞いた当時の一場面である。およそ考えうる限りの方法で「屠殺」されたのは、抵抗勢力が去った後、キャンプに残された、高齢者や子ども、女性ばかりだった。 

 当時、現場を仕切っていたのは、アリエル・シャロン・イスラエル国防相(現首相)である。占領地で民間人の安全を確保するのは国際法上の義務だが、シャロンはイスラエル軍に、「(民兵を)妨害するな、自由裁量と援助をレバノンのキリスト教民兵組織に与えよ」と命令、同軍は、民兵組織をキャンプに立ち入らせた。そして夜には、子どもが昼間と見紛う程、おびただしい照明弾でキャンプ内を照らし続け、民兵の殺戮を支援した。虐殺は、両者の「共同作戦」だった。 
 事件はイスラエル国内でさえも批判を浴び、議会が調査した結果、シャロンは責任を問われ、国防相辞任に追い込まれた。だが、その刑事責任は、今に至るまで問われていない。レバノンでのパレスチナ人抹殺が、イスラエルの利益、ひいては米国の中東政策に反することではなかったからだ。 

 ミリアムさんは当時、14歳で、国境から17キロの、ここラシーディエもまさに戦場だった。虐殺の噂を聞いた彼女らは、レバノン最大のキャンプ「アインアルヒルウェ」に避難した。砲撃の危険に怯え、母親は夜も眠れず、ただ彼女たちをだき抱えていたという。 
 事件から20年の節目。現地にはイタリアやスペイン、欧州を中心にした各国から代表団が訪れ、数々の行事が開かれた。ベイルートの「ベイト」の事務所屋上で開かれた証言集会もその一つだった。60人はいただろうか。それでなくても狭く、蒸し暑い会場には聴衆が詰め掛けている。演壇の上には、白地に赤い格子模様が縫い込まれたクーフィーエ(スカーフ)とパレスチナの旗が敷かれ、ミネラル・ウォーターのボトルと録音機が並んでいる。その向かい側には、これから登壇するヒジャーブ(イスラム式スカーフ)で頭を覆った女性たちが座り、たくさんのフラッシュを浴びながら、重い空気を漂わせていた。 

 集会は、レバノン人とパレスチナ人で作る「対シャロン委員会」が開いていた。ベルギーには、組織的大量虐殺(ジェノサイド)や戦争犯罪、そして人道に対する犯罪については、容疑者の国籍や犯行場所を問わずに訴追できる人道法が存在している。82年12月、事件は国連総会でジェノサイドと認定(米国は棄権)されており、その判断を根拠に、シャロンの刑事責任を問う運動が進められているのだ。証言者は全員、同委が作成した起訴状の話者である。しかし集会での話の数々は、およそ「証言」とは程遠いものだった。
「私の子どもが殺されたように、シャロンを殺してくれ」 
 最初に演壇に座った、年老いたヒジャーブ姿の女性、サミーハ・アッバースさんは、同委メンバーに「証言を」と促された後、こう叫んで泣き崩れた。 
 証言者は8人だった。話が続くと、岡さんは私に通訳の困難さを訴えた。スペインとイタリアの代表団は、事前に渡されたペーパーを元に、話の内容が翻訳されていたが、実際、その場でなされた話は、論理性がない言葉の断片で、しかも言語はアラビア語が第一言語でない者には理解するのが困難な、方言だったという。 
 ある人は、行方不明の弟の身分証明書と、故郷の土地の所有証明書をかざしながら、ただ時系列で「その日」の出来事を話す。またある人は、自分以外の人間などいないかのように、一点を凝視したまま淡々と話した。遺族たちの姿はさまざまだった。ただ、私が一様に感じたのは、ふとした弾みで暴力的に湧き上がる記憶の熱さ。そして、それと向き合うことの困難さだった。 

 パレスチナ人にとって、このような悲劇は珍しいことではない。イスラエル建国直前の48年4月、後の首相、メヘナム・ベギン率いる極右シオニスト組織で、現在の与党リクード結成時の核になった「イルグン」を中心とする武装グループが、エルサレム西の村を襲撃、民間人254人が殺された「デイル・ヤシン村虐殺事件」。76年、ベイルート郊外の難民キャンプが、レバノン右派民兵組織に半年間に及ぶ包囲攻撃を受け、住民4000人以上が殺された「タッル・ザアタル虐殺事件」。そしてサブラ・シャティーラ。さらには記憶に新しい02年4月の「ジェニン虐殺事件」……。パレスチナ人の歴史はまさに虐殺の歴史であり、それは現在も続いている。 

 これほどの事態が起こりながら、いったい、その下手人はいかほどの罪を問われたというのだろうか。ジェニンに至っては、米国の支援を受けたイスラエルが国連の調査団受け入れを拒否、実態すら調べられていない。力がすべての価値観が大手を振るっているのだ。
「今の状況のなか、『自爆攻撃』を選択する若い人がいることをどう思いますか?」
「私こそ世界に聞きたい!」。ミリアムさんは即座に切り返した。
「誰だって生きたいんです。たとえば小部屋に押し込められ、食べ物や仕事、あらゆる手だてを奪われれば、自分を殺すしかないでしょう。たとえ難民として、キャンプで死ぬとしても生きていたいに決まっています。私たちは希望を持って生きたい! 世界の他の人と同じように、私たちも生きたいんです!」。出口の見えない現状への苛立ちを隠せないように、眼を潤ませ、搾り出すように話した。 

 すでに11時50分、最後に「夢」について聞いた。
「それは個人として? それともセンター長として?」少し表情を和らげ、ミリアムさんは語った。
「所長として言えば、今後の計画は書ききれない位、頭の中に詰まっています。施設の増築もその一つ。ここには歯医者もありませんから。ただ、とにかく資金が足りません。子どもたちが執筆する機関誌も休刊状態。刺繍のプログラムも中断しています。奨学金もそうです。大学を最終学年で退学する子もたくさん居る。助けてあげたいけど、今の資力ではどうすることも……」。財政難は深刻化する一方という。
「そして個人としては、まずは故郷に帰ること。次にパレスチナの人々のために働くこと。3点目には、私たちの声が外に届き、世界の人びとが私たちの権利を支援してくれることです。どうか私の話を、日本の人たちに届けてください」。もう昼食の時間である。事務所の1階にホダーさんが迎えに来ていた。(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第3回/土踏めぬ故郷

■月刊『記録』02年3月号掲載記事

 生まれた時、既に難民だったホダーさんやイブティサームさんにとって、故郷パレスチナは、肉親の話や書物、映像など、間接情報を通してのみ知る場所だった。南にわずか17キロの場所にありながら、その土を踏むことすら叶わない。私たちが4月、その地を訪問したことを知ると、2人が続けざまに訊いた、「美しかったでしょ?」。長椅子から身を乗り出し、まるで、私たちの口から出てくる次の言葉の中に、自らの叶わぬ夢の実現を求めるかのように。 

 数秒くらい経っただろうか。私たちが言いよどんでいると、我に返ったようにイブティサームさんがぼそっと呟いた。
「外国人のあなたたちは行ける。でもパレスチナ人の私たちは行けない……」 
 1948年、イスラエル建国に伴うパレスチナ人の分断と離散から半世紀余りが経つ。パレスチナ解放を目指す闘いは今も続いているが、国際的な現実政治の力学の中で、事態はむしろズルズルと、際限なく後退を続けている。彼女たちも故郷への帰還どころか、訪問することすら出来ないのだった。 

 00年5月下旬、20年以上、南部レバノンを占領していたイスラエル軍が撤退。国境地帯が解放された。異郷レバノンで難民として暮らす多くのパレスチナ人が国境を訪問、渇望してやまない故郷の姿を目に焼き付けた。しかし、それは長く続かなかった。その年の9月、イスラエル右派政党リクード党のアリエル・シャロン党首(現・首相)が約1000人の武装警官を引き連れ、エルサレムのハラム・アル=シャリーフ(イスラム教の聖地)を強行訪問した。 
 当時の与党・労働党の「和平」路線に反発する国内世論を惹き付け、目前に迫った選挙を有利にするための示威行為である。暴挙に対し投石で抗議したパレスチナ人に向け、警官隊が発砲、おびただしい人々が死傷し、第二次インティファーダが始まる。それをきっかけに、レバノンのパレスチナ難民が国境地帯を訪問することは事実上、禁じられた。 

 わずか4ヵ月だけ実現した国境への訪問。その間、ホダーさんたちも家族や友人、NGOの「ベイト」の人たちと共に、国境を訪問した。その時の感想をホダーさんに訊いた。
「フェンス越しに婚約している人や、贈り物を交換している人も……。感動しました」。彼女は大きな目を輝かせた。 

 レバノンに暮らすパレスチナ難民たちのこの国境訪問の様子はドキュメンタリー映画『夢と恐怖のはざまで』(01年、メイ・マスリ監督)に記録されている。 
 ヨルダン川西岸のパレスチナ難民キャンプ・デヘイシャに暮らすマナールと、レバノンの難民キャンプ・シャティーラに暮らすモナ。国境線に隔てられた別々の難民キャンプに暮らし、お互い顔も知らない2人の少女とその仲間たちが、「ベイト」などのNGOを介して手紙や電子メールで交流を始める。 
 少年、少女たちはお互いの日常を伝え合う。自治区をわがもの顔で蹂躙するイスラエル軍の戦車に投石を繰り返し、射殺されてしまうパレスチナの少年。展望のないシャティーラでの暮らしに見切りをつけ、海外への移住を決意、友達に告げぬままロンドンに渡り、「同胞を裏切ってしまった」と、自責の念にさいなまれる少女……。そして、イスラエル軍が南部レバノンを撤退。子どもたちは、ついに、国境で対面する。
「今日のこと、忘れないでね!」「絶対に忘れないよ!」 

 M16を構えたイスラエル兵に監視されながら、自分たちを分断する有刺鉄線越しにキスし合い、言葉を交わす子どもたち。傍では半世紀以上前に生き別れとなった家族の写真パネルを掲げ、レバノン側の人々にその消息を尋ねているパレスチナ人の老女がいる。鉄の刺の間に手を伸ばし、故郷の土をかき集める子どもがいる。有刺鉄線から引き剥がされ、兵士に怒りをぶつける老人がいる。少しでも故郷に近づこうと、鉄の棘に押し当てていた彼の額からは、血が流れていた。 
 パレスチナ人であるがゆえ、死と破壊の日常を強いられ、国境を越えることが許されない。理不尽な現実。子どもたちは言う、「この鉄線を引きちぎってやりたい」。 

 実はあの映画で、土を取ろうと手を伸ばしていた少年が、13歳になるホダーの弟・カリームさんだった。有刺鉄線の間に頭を入れる彼にイスラエル兵が訊いたという。
「何をしてるんだ?」
「ぼくたちの土地に触ろうとしてるんだ!」。そう答え、地面に手を伸ばした彼に、兵士は言った。「お前たちの土地じゃない。ここは我々の土地だ」 

 私たちが訪問したこの日、弟は親戚の家に行っており不在だった。彼は心臓を患っており、外科手術を受けているのだが、その治療費を工面するのが難しい。前に述べたように、難民への医療支援は、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が行っているが、難民の帰還どころか、占領の終結にも目処が立たないなか、年々、施策は後退。近年、癌や心臓病などの高額医療は対象から外されている。それは、学業を続けたいホダーさんにも重く圧し掛かっていた。 

 いろんな話をしているうちに、午前11時になっていた。アラビア語が分からない私を蚊帳の外に、岡さんとホダーさんが2人で盛り上がっている。泊って行くよう、ホダーさんが勧めてくれているのだという。この際、とも思い気持ちが揺れたが、あとの予定もある。センターではモヘッディーンさんが、次の訪問地に私たちを連れて行くために待機している。相対する感情を引き摺ったまま、「次に来た時、宿泊させてください」と話すと、ホダーさんが岡さんの腕を抱え、即座に次の提案をする。「じゃあ、昼御飯を一緒にしてくれないとイヤだ」。「それはぜひ」。抱えた腕を左右に揺らし、ホダーさんが喜んだ。まるで小鳥のようだ。ただ少し間がある。イブティサームさんの提案で、一旦、センターに戻り、ミリアム・スレイマーン所長の話を聞くことになった。

■ 圧政と、貧困と
 
 白い家々と子どもたち。家々の間からのぞく青い海、強い日差しが建物や路面、木々の葉にまで反射し、目がチカチカする。「ベイト」の事務所に戻り、鉄柵の門をくぐる。外から入ると、ベージュを基調にした部屋は薄暗く感じられる。天井近くに張られた紐からは小さなパレスチナの旗が吊るされ、玄関を入ってすぐの壁には、ノルウェーで開いたサマーキャンプの記念写真が、その模様を伝える新聞記事と共に貼ってある。 
 階段横にはボードがすえつけられ、紙を切り抜いた船が貼ってある。大きな船から海に向けて9本のタスキが伸び、取り巻くように6隻の小船が浮かぶ。タスキと船には、伝統刺繍教室など、センターが行っているプログラムが書いてある。 

 今日、私たちの運転手をしてくれているモヘッディーンさんが待機している部屋を覗く。既に数時間、待たせているのだ。私たちを見て、彼の顔がぱっと明るくなる。申し訳ないと思いながら、ホダーさんたちと昼食を一緒し、滞在がさらに数時間、伸びることを詫びる。 

 所長室は2階にある。エルサレムにある黄金のドームの絵が貼られたドアを開けると、日当たりのよい6畳くらいの部屋には、伝統刺繍でつくったパレスチナの地図が掛けられている。格子のはまった窓の向こうでは地中海が波打っており、規則的な潮の音が聞こえてくる。

「このキャンプの最も大きな問題は?」。ミリアム所長に訊いた。
「問題だらけ。とてもひとつなんて言えません」 
 ミリアムさんは68年生まれの難民2世である。リゾート地・サイダにあるレバノン大の文学部を卒業し、89年から「ベイト」で活動しているという。これまでの経験に鍛えられたのか。強い意志と包容力を感じさせる眼差し。実際はもっと大きな印象を与えるが、身長は150センチほど。海の色を思わせる青いズボンに、落ち着きを感じさせる黒い上着、ふっくらとした顔をブルーのスカーフで包んでいる。
「ただ、根本的な問題を上げるなら、やはり貧困です。経済的な困難が、結局は健康や、精神の状態に反映されてきます」 

 内戦による疲弊、それでなくても失業率は高く、首都・ベイルートでさえ就労状況は悪い。しかも、パレスチナ難民の“定住阻止”を掲げるレバノン政府は、70以上の職種からパレスチナ人を締め出している。ベイルートのシャティーラ・キャンプで私は、レバノン政府がパレスチナ人の就労を禁じているデザイナーを目指し、専門学校に通う17歳のパレスチナ難民の女性に会ったが、それも都市に居住していることが少なからぬ影響を与えているように感じる。農村型キャンプ・ラシーディエでは状況は更に厳しい。ホダーさんが47歳の母親の意見に従ってジャーナリストを諦め、現実的な選択をした背景のひとつもそこにあるように思える。
「海で魚を採るにも、家を建設するにもレバノン政府の許可がいります。一時的に、果樹園で季節労働をする人もいましたが、今ではシリアなど、海外から来る人たちが安価な労働力として使われ、パレスチナ人はそこからも締め出されているのです。たとえば大学を出て医師免許を取ってもレバノンでは勤めも開業も出来ません。唯一の職場は赤新月社(イスラム世界の赤十字)ですが、そこも雇用人数には限界がある。結局、安価な肉体労働に就くしかないのです」と現状を説明する。 

 このキャンプで同センターがケアしているのは計54世帯。対してソーシャルワーカーは2人だけ。単純計算で1人あたり27世帯を担当していることになる。ベイルートなどではセンター内に歯科医院を設けているが、ここにはない。健康を損ねている人も多いが、UNRWAの施策は後退している。そればかりか、予算が年々削減されることに伴い、そこで働くパレスチナ人職員の処遇も悪化、訪問時は、処遇改善を求める職員のストライキが、2週間に及んでいた。 
 社会資本の整備もなされていない。水はキャンプ内に泉が湧いており、浄化して使う。電気はレバノンの電力会社から引く。しかし、トランスが古く、許容量以上だと壊れてしまう。ガスボンベ1本が1万リラ。貧しい家庭では木を買って燃料にしているという。
「明確に変わったのは4年前からです。知っての通り、建築資材も搬入させない。家庭用のランプだってだめ。これは政府の政策です。建築許可は、スールにある建設担当当局に申請して許可を受けますが、何ヵ月も待たされるうえ、下りるとも限らない」
「なぜだと思いますか」
「レバノン政府の高官に聞けば『帰還促進の為』というでしょう。彼らが恐れているのはパレスチナ人の永住です。でも、私たちは『永住したい』と思っているのではありません。帰還したいことと、雨漏りのしない家に住みたいというのは別問題です」(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第2回/答えられない質問

■月刊『記録』03年1月号掲載記事

 ベイルートから車で1時間半ほど走ると、岡真理さんの里子、ホダー・アル=シャーエルさん(21)が暮らすレバノン南部のパレスチナ難民キャンプ・ラシーディエに到着する。ブロック造りの建物は高くても3階程度で、空が広い。家々の間からは地中海が波打つのが見え、広い道を自転車に乗った子どもが行き交う。約1.5平方kmに2万2000人が暮らすという。 

 イスラエル軍が南部レバノンから撤退したのはわずか2年前のことである。民家の壁には銃痕が目立ち、南にわずか17km離れた国境線では、今もイスラエル軍とヒズボラが衝突を繰り返している。とはいえ、目の前に広がるのどかな風景は、ここが出入りの自由を国軍に管理された半世紀を超える「牢獄」であることを忘れさせる。6日からの滞在で何度か訪れたベイルート郊外の難民キャンプ・シャティーラとは対照的だった。 
 0.06平方kmほどのシャティーラには、パレスチナ難民やシリアからの出稼ぎ労働者、レバノンの貧困層ら約1万7000人が生活している。 

 20年前のサブラ、シャティーラ虐殺事件の際、斧やナイフで惨殺された死体で埋め尽くされたサブラ通りに立つと、生ゴミと汚水の匂いが鼻を衝く。未舗装の通りは排水設備すらも整備されておらず、雨が降れば泥の川となる。大きな箒で、一心不乱に汚水を掻き出している男性の写真を撮っていると、私の背後で通りすがりの男がぼそっとつぶやく。「撮れよ、撮れよ、これがシャティーラさ」。男の言葉は、難民としての生を強いる日常への憤りだったのか、あるいは、尊厳を傷つけるその日常を写し込む私のあさましさをなじったのだろうか。 

 サブラ通りから東側には狭く薄暗い路地が迷路のように伸び、ブロックを不恰好に積み重ねた7~8階建てのビルが、まるで光を求める植物のようにひしめき合う。足元をみれば至る所に水溜りがある。何十本もの電線が垂れ下がり、建物の合間から僅かな空がのぞく。レバノン政府は、歴史の暗部が刻まれたシャティーラの再開発と、住民の立ち退きを目論んでいるという。 
 シャティーラと違い、ラシーディエはどこかのどかだった。子どもたちがサッカーゲームに興じている。カメラを向けると、お気に入りの選手のブロマイドを手にポーズを取る。お菓子の付録だ。今年4月、私は占領下パレスチナの、虐殺事件から半月後のジェニン難民キャンプを訪れたが、殺戮と破壊にさらされた直後の子どもたちの中には、手榴弾の破片を掲げたり、角材や鉄パイプを自動小銃に模してポーズをとる者もいた。 

 駄菓子屋の前を通りかかった時だった。店内から小柄な女性が弾けるように飛び出してきた。私がカメラを構える間もなく岡さんに近寄った女性が、里子のホダーさんだった。岡さんと抱擁しあい、ぶら下がるように腕にしがみつく。身長150cmくらいほど。白いシャツの上に小豆色の上着。黒のスラックスを履き、薄紫色のヒジャーブを被っている。手紙や写真のやり取りで知った彼女の好みに合わせ、岡さんが京都で買ったお土産、薄紫の和紙製扇子やハンカチ、和紙の小箱がよく似合う。
「もっと大柄だと思ってた」岡さんが言う。
「そう?私、縮んじゃったのね」ホダーさんが返す。
「手紙、あまり書かなくてごめんね」
「私、忘れられたのかと思った」 
 里子と里親というより、まるで、就職か進学で町に出た後、長らく音信不通だったズボラな姉と、やきもきする故郷の家族をなだめつつ、彼女を待ちかねていたしっかり者の妹のようだ。 

 里親制度は、レバノンの難民キャンプ住民のソーシャルケアに取り組むNGO「ベイト・アトファール・アル=ソムード」が展開している貧困層の支援策である。 
 76年、ベイルート郊外のタッル・ザァタル難民キャンプで住民4000人余りが殺害された。「ベイト」はその虐殺の遺児を支援するために設立された組織である。内戦を経た今では、レバノン国内に12あるパレスチナ難民キャンプの10カ所にセンターを持ち、海外のNGOとも協力し、子どもの就学支援や、文化、芸術活動も展開している。レバノンには同様のNGOが20近くあるが、その中で、最も活発な取り組みをしている団体である。 

 里親制度は、サブラ、シャティーラ虐殺事件の遺児を支援するために始まった。子どものスポンサーを募り、毎月、仕送りを行い、手紙を交わす。生まれた時から難民生活を強いられている子どもたちが、世界の人と繋がり、絆を実感できる制度である。「ベイト」が撒いた絆の種は、フォト・ジャーナリスト、広河隆一さんが日本に持ち帰り、現在では、フランス、スイス、ドイツ、ノルウェー、マレーシアなどでも芽吹いている。 

 ホダーさんは現在、母と兄、弟の4人家族である。壁には軍服姿の肖像が掛けてある。父は90年8月、南部国境地帯での戦闘で死亡、母は看護婦をしながら、彼女と姉、3人の兄、そして弟の計6人を育ててきた。 

 平屋建ての小奇麗な家は3部屋。卓上にはバラの造花、中央にはデスクトップのパソコンがある。彼女が寝室に案内してくれた。天井から壁沿いに斑模様がついている。雨漏りの跡である。修繕したいが、出入りを管理している国軍が資材の搬入を認めないのだという。 
 彼女は当時、レバノン大の1年生、アラブ文学を学んでいた。「文法、古典、中世文学、フランス語、オスマン語、哲学も勉強しています。本当はジャーナリズムを勉強したかったけど、レバノンではパレスチナ人はジャーナリストにはなれない。母が『入っても先がない』と反対したから諦めました」という。パレスチナでもジャーナリストを希望していたパレスチナ人女性に会った。動機は単純明快である。「不正を告発したい。この状況を世界に知らせたい」。シンプルでピュアな思いは、それゆえに、私が属する、少なくとも日本のメディアの性癖、すぐ分かった気になり、飽きっぽく、出来合いの言葉で事態を切り取り、消費し続けるさまを痛烈に撃つ。今は教師を目指しているホダーさんは、「パレスチナ人に教えたい」と語った後、付け加えた。「経済的に可能ならだけどね」 

 20近い宗派の微妙な力関係の上に成り立つレバノン政府は、国内人口の1割近いパレスチナ難民の永住阻止を一貫した政策として掲げている。参政権はおろか、社会保障からも排除している。前述した難民キャンプにおける住居改修の禁止もその一環である。来春から大学の授業料が値上げされるが、レバノン人が2倍なのに対し、パレスチナ人は5倍、日本円にして実に75万円にまで上がった。仮に卒業しても、公務員はもちろん、医者やジャーナリスト、法律家やエンジニアなど、専門職を中心に70以上の職種への就労が禁じられている。 
 付き添ってくれている「ベイト」のソーシャルワーカー、イブティサームさんもレバノン大を中退していた。学費が工面できず、入学しても卒業ができない人が多いのだ。レバノンのパレスチナ難民という現実が、彼女たちの夢を諦めさせる。 

 客間で談笑している時、岡さんが話した。「実は私たち、4月にパレスチナに行ったんです」 
 すかさずイブティサームさんが聞いた。
「美しかったでしょ?」 
 それはレバノンに来て以来、「パレスチナへ行った」というたびに、何度も受けた問いだった。 
 今年4月28日、ヨルダン西岸の町、キリスト生誕の地といわれるベツレヘムで聞いた言葉が浮かんだ――  
 イスラエルで18歳の女性が行った「自爆攻撃」への報復として、4月1日、イスラエル軍はベツレヘムに侵攻、私たちが訪問した時、町は戒厳令下にあった。
「ここから先は軍がいる。私はもういけない」中心部から少し離れた場所で運転手が説明した。ハンドルのちょうど前の部分のフロントガラスには弾痕があった。外出しているパレスチナ人は、誰でも狙撃の対象である。 

 車を降りる。アラブ人とは違う顔立ちゆえ、昼間に私が撃たれる可能性は低い。いわばレイシズムの“恩恵”である。とはいえ、両脇のビルの中には、銃口をこちらに向けたスナイパーがいるのだ。何かのはずみで爆発しそうな緊張感の中、この日の待ち合わせ場所であるホテルまで歩く。 
 人影のない町には至る所にシャヒード(殉死者)のポスターが貼られている。通りでは回収できずに乾燥した生ゴミが宙を舞う。破壊された給水タンクが転がっている。路面は戦車のキャタピラで踏み荒らされ、電柱が倒されている。海外からの支援を受け、自治政府が積み上げてきた社会資本が徹底した攻撃を受けている。パレスチナ国家否定の思惑が、破壊の対象に現れていた。 
 装甲車が横付けされたホテルの1階には、M16を下げた兵隊がたむろしている。最上階の5階はイスラエル軍が占拠し、当時、追い詰められたパレスチナ人が立てこもっていた聖誕町内を監視していた。手持ち無沙汰なのか、兵士が入れ替わり私に身分証の提示を求める。 

 案内役のパレスチナ人青年2人アウニー・ジュブラーンさん(30)とバーシム・スベイハさん(25)と落ち合った。取材のコーディネートや、自分で撮った映像を報道機関に提供し、僅かな糧を得ているという。水も満足に出ないトイレに行ったアウニーさんが、戻り際、一人のイスラエル兵と言葉を交わす。「何を話したの?」。「『やあ、調子はどうだい』みたいな他愛も無い話だよ。仕事をつつがなくするためにイスラエル人への感情は置いておくんだ」。吐き捨てるように語った。 
 今日の予定を話し合っている時だった。突然、アウニーさんの目が険しくなった。言葉が怒気を含み、英語混じりのアラビア語でまくし立てる。ビリビリした空気が伝わるが、何も理解できない。私の苛立ちも募る。岡さんから後で聞いた彼の話は次のようなものだった。 
 彼女のアラビア語にモロッコ訛りを聞きとった彼が聞いた。
「モロッコは美しかっただろ」
「でも、パレスチナの方がもっと美しいですよ」
「美しいだって?」
 反射的にしてしまったアラブ世界の慣例的な受け答え。彼が感情を顕にした。
「こんなに毎日人が死に、血が流されている場所の一体、どこが美しいんだ? 2日前だって俺の友達が殺された。血まみれになった死体を前に、俺は泣き叫ぶべきなのか、あくまで仕事に徹してカメラを回すべきなのか分からなかったよ」
「それでもなお、パレスチナは美しいと思うんです」
「パレスチナが美しいなんてことは言われなくても分かってるさ。俺はパレスチナ人なんだから。でもここでは人が殺され、家が破壊されるのが日常なんだよ。俺たちは平和と自由を求めて闘っている。でも平和がどういうものか想像ができない。生まれた時からここは占領され、暴力が日常だった。君たちにとっては明白なのかもしれない。でも俺たちは分からない。教えてくれよ。平和とはどんなものか。自由とは何なのか…」

「美しかったでしょ?」長椅子に並んでいたホダーさんが目を輝かせ、質問を繰り返した。私たちは返事ができずにいた。
(■つづく)

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レバノン9.11・難民キャンプを歩く 第1回/ベイルートで迎えた朝

■月刊『記録』02年12月号掲載記事

■中村一成(なかむら・いるそん……新聞記者。日本の「国民教育」が排除する者たちの教育権や外国人管理の問題が主なテーマ。1969年生まれ。京都市在住。)

        *       *       * 

「9・11は恐ろしい暴力行為でしたが、新しいことではありませんでした。あのような暴力行為はいくらでもあります。ただアメリカ以外の場所で起きていたというだけです」(ノーム・チョムスキー)  

 2002年9月11日、朝5時に目が醒めた。頭の中に異物感がある。昨夜呑んだアラクのせいだ。 
 夕食を終えベイルート中心部にあるホテルに戻ると夜の10時を回っていた。1階のバーに入る。カウンター内のテレビではイラク放送が流れていた。イスラエルのパレスチナ侵攻、演説するブッシュ、乗っ取られた旅客機がワールドトレードセンター(WTC)に衝突する。繰り返されるその映像が「自業自得」のイメージを伝え続ける。笑うと目が無くなるレバノン人のバーテンが私の名前を訊ねた。「イルソン」。不思議な顔をするので付け加える。「ノースコリアの主席キム・イルソンを知っている? あれと同じ発音だよ」。「ノースコリア!知ってるよ!知ってる。イラク、イラン、‥‥キューバ!」。彼の目が無くなり、握手を求められた。「悪の枢軸」を連想したのだ。
「中東に生まれて不幸だよ」グラスを磨きながらバーテンが言う。
「なぜ?」
「今の世界にゃクレイジー・ビッグ・ワンが2人いるからな」
「シャロンとブッシュ」。思わずバーテンとハモった。「ブレアは?」
「ありゃスモール・ワンだ」
「じゃコイズミは?」
「?」
「日本の首相だよ」
「あぁ、違う、彼は違うよ」 
 テレビ画面を指差して訊く。「あの事件、どう思う?」。「9・11は確かに痛ましい事件だ。でもイラク人は12年間(湾岸戦争とその後も続く爆撃、及び経済封鎖で)、毎日殺され、イスラエルは米国の支援の下、パレスチナ人を毎日殺しているじゃないか」。 
 酒を酌み交せば日本の首相が「スモール・ワン」に昇格するのに20分もかからなかった。話は弾み、徹底的に呑もうかとも思ったが、明日の仕事がある。「店の奢りだ、もう一杯呑んでけ」。座った目で絡むバーテンを振り切って部屋に戻った。 

 私は9月6日からレバノンの首都・ベイルートに滞在していた。主たる目的は2つ。 
 1つは82年9月、イスラエル軍占領下にあったベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプ、サブラとシャティーラに同軍の支援を受けたレバノン民兵組織が侵入、住民2000人以上が殺された。その虐殺事件の証言を聞くこと。もう1つは、今回の旅に同行し、通訳を務めてくれるアラブ文学研究者、岡真理さんとともに、彼女の里子に会うこと。地元NGO「ベイト・アトファール」がパレスチナ難民の貧困家庭の子どもを対象に里親運動を行っており、彼女も里親の1人だった。 
 もう一度、寝ようとしたが眠れない。テレビを点ける。カタールの衛星放送「アルジャジーラ」の映像が流れている。煙を上げるWTC。ブッシュ、シャロンの叫ぶ顔、イスラエル軍の戦車に投石する少年、近づいた男性が戦車に何かを仕掛け、周囲に白煙が立ち込める。棺の中には頭を撃たれ、耳と口から血を流した少年が横たわり、母親が亡骸を抱き寄せる。太ももに被弾し、丸太が倒れるように転がる男性‥‥。 
 パレスチナでは00年9月に第二次インティファーダが起きて以降、わずか2年間で、子ども480人を含む約1900人のパレスチナ人が殺され、1万5千人以上が負傷、1万6千戸以上の家屋が破壊されている。 
 スペイン内戦の最中、写真家ロバート・キャパは、頭を撃たれて崩れ落ちる共和国軍兵士をフィルムに収めて名を成した。そんな姿だけをとれば、ここから南、ほんの数十キロ離れた土地では日常である。それこそ、切り取り、消費することにすら飽きてしまうほどに。  

 午前7時過ぎ。サマータイムだから実際は午前6時過ぎ。窓から見た空は少し曇っていた。レバノンに来て以来、私は毎朝ベランダに出て、そこから見える空や町並みを撮っていた。飛び立つ鳥。家や店の前を掃いている人たちがいる。目が醒めると頭の中で鳴り始める前日の喧騒と、虐殺事件の記憶。証言として整理もできず、ただあの日の記憶を吐き出し続ける遺族たち……。朝のルーティンは、いわば深呼吸だった。 

 朝食をとり、外に出る。迎えが来るまで少しあった。「タクシー」「タクシー」。ドアを開けるや否や、ホテル周辺に屯する白タクの運転手たちから営業攻勢がかかる。かつて「中東のパリ」といわれ、金融や貿易、情報産業で栄えたこの国の経済は、20年近く続いた内戦の後遺症に苦しんでいる。国内人口約400万人の3倍ともいわれる在外レバノン人からの送金で、貿易収支は黒字を記録してはいるが、インフレが激しく、金のやり取りはほぼ紙幣のみ。失業率も高く、車一台で始められるタクシーには、膨大な就労層が流れ込んでいる。 
 根元まで吸ったタバコを指に挟んだ白髪の老人が寄って来て乗車を勧める。パレスチナ人という。難民キャンプに通っていることを告げると、親しげな仕草に拍車がかかる。かつてはPLO(パレスチナ解放機構)のメンバーで、70年代には中国や日本を訪れたこともあるという。別れ際には名刺を握らせて顔を近づけ、「実は今もPLOを支持してるんだよ」。こそっと呟いた。 

 70年にヨルダンで起きたパレスチナ人大弾圧「黒い9月事件」で、PLOが同国を追放された後、レバノンは82年までPLOの拠点だった。今も国内には12の難民キャンプがあり、約35万人のパレスチナ難民が暮らす。大半は48年、イスラエル建国と第一次中東戦争で故郷を離れざるを得なかった人々で、多くは第三次中東戦争の停戦ラインより西側の出身者という。つまりは93年にイスラエルとPLOが交わした「土地と和平の交換」たるオスロ合意で、PLOが放棄した土地である。この合意は「中東和平に新たな地平をもたらした」として、当事者3名がノーベル平和賞を受けた。しかし、世界がパレスチナに望んだ“和平”とは、帰還というシンプルな願いを遠のかせ、皮肉なことに「解放」への道筋を巡る同胞間の混乱と対立を激しくしている。老人が声を潜めたのには、そんな背景があったのかもしれない。

「ベイト」で働くパレスチナ難民の青年、モヘッディーンさんが迎えに来てくれる。車はトヨタ製、日本からの寄附で購入したものだ。林立するビルの間を抜けて幹線道路に出る。車窓からみえる高層ビルは、砲撃で大破し、無残な姿を晒している。注意して見ると、廃墟の中ほどには洗濯物と人影がある。一方では更地と白亜のビルが建っている。道路を走る車の大半は、腐食して車体に穴が開いていたり、どこかが剥がれているが、そんな間を、場違いな最新型の高級車が縫って行く。内戦で欧州諸国に避難していた富裕層が近年、相次いで帰国しており、貧富の差はますます広がっているという。 

 高速道路に乗る直前、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の事務所前を通り過ぎる。総会の決議で48年のイスラエル建国にお墨付きを与えた国連が、第一次中東戦争後、離散パレスチナ人の社会保障などを目的に設置した支援機関である。 
 頑丈そうな門のそばにはレバノンの国軍兵が立っている。両脇に伸びる歩道はテントが並び、何枚ものプラカードが掛かっている。「(破壊された)ナバテア・キャンプの再建を許可せよ」「レバノンのUNRWAはパレスチナ人を抑圧している」「なぜ心臓病、腎臓病、癌患者は治療が受けられないのか」。ガードレールに縛り付けた鉄パイプの上に粗末なシートを被せただけのテントの隙間からは、疲れた顔をした男性や、ヒジャーブ(イスラム式スカーフ)を被った女性たちが腰を下ろしているのが見える。 
 離散から半世紀が経ち、パレスチナ問題の解決が国際政治の力学に歪められ続けるなか、UNRWAの予算は年々、削減傾向にあるという。今では負担の大きい医療は援助の対象から外され、最低限の生活を保障することすらままならない。座り込みは既に2週間を超えるという。 

 右手に地中海を臨みながら高速道路を南下する。左手には、照明灯ごとにコカ・コーラの看板が据えつけてある。ユダヤ資本の同社はマクドナルドなどと並び、長く、アラブ諸国からボイコットされていたが、今ではどこでも見られるようになっている。 
 高速道路を降りると、左手には約6万人が暮らす国内最大のパレスチナ難民キャンプ「アイネルヘルウェ」が見える。「かつてはこのあたりまでイスラエルの占領地だった」とモヘッディーンさんが教えてくれる。 
 バナナやナツメヤシの畑が並ぶ単調な風景が続く。赤と白のバリケードが目に入る。検問所だ。砲台を四方に向けた戦車が並び、見張り塔の上にはAK47を抱えた兵隊がいる。旧ソ連製の自動小銃は、おそらくシリアからのものだろう。78年の占領以来、22年間もイスラエルに占領され、今も国境線を挟んで緊張が続いている影響からか、南部にはたくさんの検問所がある。街灯には、レバノンの国旗とクロスして自動小銃を持つ手をデザインした旗と、男性の肖像画が据え付けてある。82年に結成された、レバノンの主要政党の一つ、ヒズボラ(神の党)の旗と幹部の肖像である。 

 イスラエル軍が南部レバノンを撤退した00年5月、国連は安保理決議に基づく撤退は完了したとして手を引いた。一方、レバノン政府は、国連が設定した「ブルー・ライン」は本来の国境線ではないとして、シェバア農地など一部地域の領有権を一貫して主張している。同党はそれらの奪回を訴えており、現在もイスラエル軍としばしば衝突している。米国は従来から同党を国際的なテロ組織に指定しており、01年9月11日以降は、テロ組織資産凍結リストに加えている。 
 未舗装の道路を進むと検問所が見える。その向こうに、この日の訪問地、ラシーディーエ・キャンプがある。モヘッディーンさんが身分証の提示を求められる。「どれだけ滞在するんだ」。国軍兵士の高圧的な質問に答え、通過を許される。生い茂った木々の間を縫って、でこぼこの道を進む。視界が開けると、パレスチナの旗とアラファトの肖像が据え付けられたゲートがある。キャンプの入り口だ。シャヒード(殉教者)の肖像写真が至る所に貼ってあり、門の近くでは米軍が使用する自動小銃・M16のオモチャをぶら下げた子どもが同じ歳くらいの子どもと戯れている。 
  コンクリートの壁に赤いスプレーで書かれた落書きがある。「アラファト+エルサレム=パレスチナ」。このキャンプではアラファト支持派が優位のようだ。 

  小さな3階建ての建物の前に着く。「ベイト」の現地事務所である。ミリアム・スレイマーン所長と、ソーシャルワーカーのイブティサーム・フセインさん、ウマイマさんの3人が出迎えてくれた。「ホダーが心待ちにしているから、まずは行きましょう」。イブティサームさんが私たちを促した。
(■つづく)

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