さようなら、熊祭り!
クナシル島での反乱が鎮圧された後、幕府による提言に従って、政策が変更され、同化政策が始まった。厳しい措置は廃止され、地域には医者が派遣された上で、アイヌ人に対する日本語教育が始まった。また農業教育が開始され、段階的に日本の習慣が教え込まれた。しかもアイヌ文化の各種祭りが禁止され、特にアイヌ人らが尊敬の印として熊をいけにえにささげる行事である熊祭りも禁止された。
同化政策は1868年の明治維新以来、北海道の本格的な植民地化が始まってからさらに促進された。アイヌの男性はひげを剃ることを強制されたほか、女性は口に刺青をすることを禁じられ、伝統的な服も着用できなくなった。
クリル諸島に住むアイヌ人の状況はそのなかでも一番ましなものだった。ロシアの植民地政策は、徴税人による職権乱用やコサック兵の乱暴などが時たま武力衝突を引き起こすことはあっても、より緩やかなものだった。アイヌ人の伝統は守られ、奴隷にまで落とされることはなかった。アイヌ人らはロシア人がやってくる以前に住んでいた土地に住み続け、それまでの営みを継続していた。クリルに住む多くのアイヌ人は、ロシア語を話し、正教を信仰していた。
しかし1875年、ペテルブルグ条約に従ってサハリン全体がロシア領となった代わりに、クリル諸島が日本に引き渡された際、アイヌ人らは自らの土地を離れるのを好まず、それは結果的に悪いこととなった。彼らはシコタン島に移され、漁業道具および船をすべて奪われた上で、許可なく海に出ることを禁止された。アイヌ人たちは様々な労働に使役され、その報酬は米や野菜、酒で支払われた。魚の配給は限られていたが、それは北クリルのアイヌ人たちの伝統にはまったくそぐわない食事だった。彼らは主に、魚を主食としていたからだ。そのような生活の変化と行き過ぎた人口密度は、北クリルから連れてこられたアイヌ人たちの死亡率を高めることとなり、1941年までにはクナシル島のほぼすべてのアイヌ人が全滅した。このような悲劇が日本国内および海外の世論に暴露された時、先住民専用居住地は廃止され、病気と貧困に落ちぶれ生き残った約20名のアイヌ人は、北海道へと移送された。
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