福島では、幸いにも直接の被曝を原因として亡くなった方はいません。被曝線量が当初の想定よりずっと低かったため、放射線被曝によるリスクの議論以前に、「そもそも議論の前提となるほど大量の被曝をした人がいない」のです。現在、避難区域外の福島県内に暮らすことによる健康被害のリスクは、国内の他の地域と変わりません。
しかしその反面、無理な避難などに伴う「震災関連死」は、他県に比べて飛び抜けて高いのが現状です。「恐怖を煽って人を避難させることで、逆に死者を増やしている」という厳しい現実を、煽った側は決して認めようとはしません(http://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat2/sub-cat2-6/20140526131634.html)。
たとえば、今回の番組を放送したテレビ朝日の報道番組『報道ステーション』では、2013年の時点ですでに国連科学委員会が「福島では、被曝を原因とする甲状腺ガンの多発は起こらない」と報告しているにもかかわらず、2014年、2015年、2016年と3年連続で、3月11日に「被曝の影響により、福島で甲状腺ガンが多発している」かのような誤解を与える特集を放送し、環境省が「事実関係に誤解を生ずるおそれもある」として注意喚起を出す事態となっています(http://www.env.go.jp/chemi/rhm/hodo_1403-1.html)。
2016年にも国連科学委員会から改めて報告書が出されているものの、あれだけ多くのメディアが「甲状腺ガン」と騒いだ反面、その多発を否定する国連の報告書が出ているという事実は、きちんと報道されたでしょうか。震災後になされてきた報道は、当事者を助けるためのものであったと言えるのでしょうか。
色々と厳しい意見を綴ってきましたが、最後に、この番組を見ての感想を一言で言うと、「もったいない」と思います。
ビキニ環礁の住民たちの受けた苦難は事実です。第五福竜丸の方々も、直接間接の原因を問わず、さまざまな苦難を味わったことでしょう。それを取材し、伝えるのは非常に意義のあることです。
それなのに、今回の番組はそうした事実を、たとえば誰かの主義主張やメッセージを補強する、あるいは悲劇のドラマを作るというような、「別の何か」に利用するための「踏み台」にしているのではないか、という印象が拭えませんでした。炎上する以前は、もしかすると、福島もその「踏み台」の一つにされそうになっていたのかもしれません。
もしマーシャル諸島の人々のために取材し番組を作ったのではなく、取材した内容を「別の何か」に利用することが目的だったのであれば、その行為は現地の人たちを傷つけてしまうのではないでしょうか。
震災後の福島でも、当初は、被災した人々が日常を取り戻すために「原発」「放射線」などの問題を避けて通ることができませんでした。その一方で「原発」や「放射線」の問題にしか関心がない方は、必ずしも福島の復興やそこに暮らす人々の日常に目を向けることなく、むしろそれらはないがしろにされて、原発や放射線の問題ばかりが福島、あるいはカタカナ書きの「フクシマ」の問題とされてきました。
福島を「踏み台」に、福島そのものとは直接的には無関係な原子力の是非を語る、政治を語る、経済を語る──。その陰には、ないがしろにされてきた住民の声や生活があり、またそこに根差した問題が山積しているのです。
「マーシャル諸島に暮らす人々=水爆実験の犠牲者」というアイコンではなく、政治的な喧噪や原子力の議論に翻弄されてきた彼らの日常を、もっと丁寧に伝えることが出来ていれば。あるいは、そこに暮らす彼ら自身のための報道になったのではないでしょうか。
同様に、福島に関する報道も、別の問題を語るための「踏み台」としての「フクシマ」を描くのではなく、福島に暮らす人々自身のためにもなるような報道が増えていくことを、私は心から望みます。