Q7.過去にどのような和平交渉が行われたのでしょうか。
米ソ冷戦終焉前は、中東和平交渉のやり方としてソ連が主張していた国際会議方式がありました。すなわち、すべての紛争関係国が一堂に会して話し合うというものです。しかし、アメリカは米ソ冷戦という枠内で反共的立場からソ連の介入を嫌って、紛争各国が直接交渉する単独和平を推進しました。当然、米ソ冷戦終焉は和平交渉のあり方を根底から変えることになりました。先ほどお話ししたように、1991年に勃発した湾岸戦争後に開催されたマドリード中東和平会議がその代表です。この会議を共同主催したのがブッシュ(父)米大統領とゴルバチョフソ連大統領でした。その後、ソ連は消滅しますので、最初で最後の国際会議方式の和平交渉といえるかと思います。この会議では二国間交渉と多国間交渉という二つのトラックで交渉が重ねられましたが、アメリカもイスラエルもPLOをパレスチナ人の唯一正当な代表として認めていなかったために、PLOはこの交渉から排除されていました。「アラブ・イスラエル紛争の中核はパレスチナ問題である」という言葉に象徴されているように、アラブ諸国とイスラエル間の和平達成はパレスチナ問題の解決が前提となるという考え方が支配的であったため、結果的に二国間交渉もうまく機能しなくなってしまいました。
もちろん、米ソ冷戦終焉以前も和平の動きはありました。その代表例が1978年にエジプトとイスラエルの間で締結されたキャンプ・デービッド合意です。この合意は中東和平の達成とエジプト・イスラエル間の和平達成という両輪で和平交渉を進めていくはずでした。しかし、この合意はアラブの大義の裏切りという非難の声がアラブ世界で上がり、エジプトはアラブ連盟の構成国として資格停止という厳しい政治的制裁に直面してしまうのです。そのため、パレスチナ問題を含む中東和平の推進は事実上、不可能になり、エジプトとイスラエルの間の単独和平のみが達成されました。
エジプトとの和平を達成したイスラエルは1982年にレバノンに侵攻することになります。その目的はレバノンから攻撃を仕掛けてくるパレスチナ解放勢力を排除するというものでした。イスラエル軍は当初、南レバノンの安全地域のみを確保する予定でしたが、ブルドーザーと呼ばれていたアリエル・シャロン国防相のイニシアティブで、イスラエル軍はベイルートまで進軍することになり、PLO(パレスチナ解放機構)は政治的・軍事的にレバノンから退去せざるをえなくなって、その拠点をチュニスに移します。
PLOはそれ以降、武力によるパレスチナ解放を放棄し、外交攻勢による和平を目指すことになり、同時に将来のパレスチナ国家の領域をヨルダン川西岸・ガザに限定したミニ・パレスチナ国家の設立を目指すようになりました。オスロ合意へのPLO側の準備が整ったということになります。この時期、レーガン和平提案が出されますが、この提案ではPLOを代表とは認めておらず、しかもヨルダン・パレスチナ合同国家案といった提案で、パレスチナ独立国家設立からは遠く隔たった提案でした。
Q8.なぜ、緊張関係が現在も続いているのでしょうか。
1993年9月にオスロ合意が締結されて、ガザとエリコにパレスチナ暫定自治が始まり、アラファトPLO議長を代表とするパレスチナ自治政府が成立しました。しかし、合意締結後20年たった2013年現在でも解決の見通しが立っていません。結論的に言えば、オスロ合意に根本的な欠陥があったということです。もちろん、オスロ合意はイスラエルとPLOが相互に承認して交渉の相手として認めたという点では重要です。しかし、欠陥として指摘できる点はオスロ合意の正式名称を見ればわかります。すなわち、「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」です。素直に読めば、このままパレスチナ独立国家がこの合意によってできるとは言っていないのです。この合意は「これからいろいろな難しい問題が残っているが、エルサレムとか、ユダヤ人入植地とか、難民の帰還権とかの難問は先送りにして、まずは交渉をしていくためのタイムテーブルを作って少しずつ解決できることから解決していこう」という取決めだったわけです。つまり、オスロ合意にパレスチナ独立国家樹立の希望を託したパレスチナ人は裏切られたわけです。イスラエル側は鼻からパレスチナ国家など認める気はなかったということは現在では関係当事者の発言から明らかになっています。
パレスチナ人は2000年7月のキャンプ・デービッド会談の失敗でオスロ合意に見切りをつけます。第二次インティファーダの勃発です。クリントン米大統領が起死回生の和平交渉の再生を狙った会談の失敗が結局はオスロ合意に基づく交渉プロセスに最終的に終止符を打ったということになります。
Q9.国際社会は「パレスチナ問題」についてどのような反応を示していますか。
欧米諸国と中東イスラーム諸国ではパレスチナ問題に対する態度にはかなりの温度差があります。パレスチナ問題はヨーロッパのユダヤ人問題を背景としているので、当然、プロテスタントのキリスト教徒が多数派を占めている国ではイスラエルに同情的な傾向があります。逆に、かつての社会主義国や、「第三世界」と呼ばれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの国々のうちイスラーム教徒が多数派を占める国々、とりわけアラブ諸国はパレスチナ人を支援する傾向が強いといえます。しかし、あくまで一般的傾向であって、個々の国々の対応を詳細に見ていく必要があります。Q10.解決の可能性はどのように模索されているのでしょうか。
欧米諸国は一般的にパレスチナ問題の解決のために熱心に取り組んでいます。そもそも、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題からパレスチナ問題が生まれたのですから、当然といえば当然です。例えば、2003年のイラク戦争後にロードマップ和平案というものが提唱されましたが、この時に「カルテット」と呼ばれたアメリカ、ロシア、EU、国連が共同で解決に向けてイニシアティブをとったのです。米ロの大国は当然としても、EUといった国家連合や国連といった国際機関までが関与しているのです。つまり、パレスチナ問題の解決はイスラエルとパレスチナ人といった関係当事者だけでは解決できない入れ子状の複雑な構図が長い紛争の歴史を通じて出来上がってしまっているのです。
ただ、最後に指摘しておかなければならない点は、イスラエルを全面的に支持している国がアメリカ合衆国であるという事実は忘れてはいけないと思います。というのも、アメリカのイスラエル・ロビー、とりわけAIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題委員会)などが大統領や議会に圧力をかけて、アメリカがイスラエルに有利になるように政策を立案してきたという過去があります。このアメリカとイスラエルの「特別な関係」が断ち切られないかぎり、唯一の超大国であるアメリカが「公正な仲介者」としてパレスチナ問題の解決で果たすことのできる役割は極めて限られてしまうということができると思います。
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著者/訳者:臼杵 陽
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ISBN-10 : 4062881896
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臼杵陽(うすき・あきら)
現代中東政治
1956年6月、大分県中津市生まれ。大分県立大分上野丘高校を経て、1980年3月に東京外国語大学アラビア語学科卒業。同年4月に東京大学大学院社会学研究科国際関係論専攻修士課程に進学、1988年3月に東京大学大学院総合文化研究科国際関係論博士課程単位取得退学。京都大学博士(地域研究)。在ヨルダン日本国大使館専門調査員を経て、1988年4月に佐賀大学教養部専任講師、助教授(社会学アジア社会論担当)。1990年11月から約2年間エルサレム・ヘブライ大学トルーマン平和研究所客員研究員。1995年4月より国立民族学博物館地域研究企画交流センター助教授、教授。2005年10月に日本女子大学文学部教授に就任。
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