第10回 人物編:
「聖武天皇 豹変の謎」
なぜ聖武天皇は仏教に帰依したのか
古代史の謎と言えば、邪馬台国の卑弥呼や聖徳太子が名高い。どちらもいまだに深い謎のベールにつつまれている。
いっぽう、今回取りあげる聖武天皇(在位七二四~七四九)は、これまであまり注目されてこなかった。しかし実際には、古代史の謎をすべて背負い込んだような人物なのだ。謎が大きすぎて、これまで「謎が隠されていることさえ悟られずにきた」のである。
たとえば、聖武天皇は東大寺を建立し、日本各地に国分寺と国分尼寺を建てたことで知られている。深く仏教に帰依し、聖徳太子の生まれ変わりと考えられもした。
聖武天皇が建立した東大寺
しかし、よくよく考えれば、聖武天皇の「仏教重視政策」は不可解だ。というのも、西暦七二〇年に『日本書紀』が編纂され、天皇家の正統性が神話の世界で証明されていたこと、聖武天皇を支えた藤原(中臣)氏は、神道祭祀に深くかかわってきた氏族だからである。
六世紀の仏教導入をめぐる争いの中で、中臣氏は物部氏とともに、排仏派の急先鋒として活躍した。律令制度が整うと、中臣氏は神祇官の中心に立って神道祭祀を司っていくのである。
それにもかかわらず、なぜ聖武天皇は、巨大な寺院を建立し、深く仏教に帰依してしまったのだろう。聖武天皇は盧舎那仏(奈良の大仏)に北面し、深く頭を垂れた。江戸時代の国学者・本居宣長は、「常に南面すべき天皇が北面し、仏に頭を下げたことは、信じがたい」と言い、この事件を「無視するべきだ」と糾弾したものだ。
聖武天皇が深く頭を垂れた盧舎那仏(奈良の大仏)
思想的な問題だけではなく、この時代の神祇信仰(神道)は、国を支える重要な役割を担っていた。現実の政治を動かす太政官と、神祇官が併立していたのは、「税は神に捧げるもの」という建て前があったからだ。
税として取り立てられた米を天皇が神に捧げ、神の霊を注ぎ、豊作の約束された種籾を、百姓に再分配したのだ。これが、古代の収税システムである。
ちなみに、海賊(水軍)や山賊が、旅人から金を巻き上げるときも、神を利用した。「神へ捧げ物をしないと、恐ろしい天罰に遭う」という大義名分を用意していたのだ。
つまり、神道は国の統治システムのひとつでもあったのだ。それにもかかわらず、聖武天皇は仏教を重視してしまった。その意味が、よくわからないのである。
さらに、神話の中で大活躍するのは、天皇家の祖神で伊勢神宮に祀られる日神・天照大神だが、なぜか聖武天皇は、大仏建立に際し、地方神にすぎない宇佐神宮の八幡神を頼りにしている。これも大きな謎のひとつだ。
反藤原に寝返った藤原の子・聖武天皇