エズラ記とネヘミヤ記に記されているバビロン捕囚から神の民が エルサレムに帰還してくる歴史的な出来事に並行して、あのアテネ でソクラテスが生まれ、プラトンとアリストテレスに受け継がれる ことでギリシャ哲学が開花していきます。歴史的な現象として、キ リスト教神学と哲学が切り離せない関わりを持ってきます。その関 わりのことで、この6月に読んだ木田元著の『反哲学入門』 (新潮文庫)の記述が心に留まっています。それは、プラトンのイ デア論がユダヤ教の唯一神・創造神の影響によるというものです。 何とも驚かされることです。 プラトンが30歳の半ばに世界漫遊の旅に出かけ、エジプト やアフリカ北岸の植民都市キュレネに行き、そこに居住していたユ ダヤ人から創造神と唯一神を知り、それがプラトンの「自然を超越 した原理であるイデア、特にもろもろのイデアのイデアである<善 のイデア>といった考え方や、世界は<つくられたもの>だという 考え方」(87頁)になったと言うのです。 このような理解は大歴史家であるブルクハルトが認めているとこ ろである(63頁)と言っているのですが、その証拠があるわ けでもないとも付け加えています。ということで興味の惹かれるこ となのですが、単なる仮説なのかなと思っていたのですが、アウグ スティヌスに関する文章を読んでいたときに、あの『神の国』8巻 11章でアウグスティヌスも同じことを言っていることが分かり、さ らに驚かされました。 その表題「プラトンはどうしてキリスト教に近い理解に達するこ とができたのか」が語っているように、すでにこのようなことがア ウグスティヌスの時代に論じられていたことが分かります。プラト ンがエジプトを旅行したときに、預言者エレミヤの言葉を聞いたの だという話もあったようですが、それに関しては、時代が合わない と論じています。それでもプラトンは熱心な学究の徒であったの で、預言書を通訳を通して学んだことは否定できないとまで言って います。 ともかくプラトンのイデア論にみられる創造理解と超越理解は、 創世記の創造記述と出エジプト記3章14節の「わたし は、在ってある者」による以外にはないだろうと言います。確かに その証拠はないのですが、そのように考えることができるであろう と言うものです。木田元の『反哲学入門』も、プラトンのイデア論 がそれ以前のギリシャ哲学の汎神論的な自然観とあまりにも違うの で、その起源をプラトンのユダヤ教徒の接点に求めています。その 限りでは歴史上の仮説に過ぎないのですが、アウグスティヌスまで 遡ると何か仮説以上の説得力を持ってきます。 アウグスティヌスは、プラトンと新プラトン派の哲学者が創造理 解と超越理解を持っていることを評価していますが、同時にパウロ がローマ書の初めで言っているように、神を認めていながら神とし てあがめないことを指摘しています。それはルターにも受け継がれ ています。パウロ、アウグスティヌス、ルターと一直線に結びつく ものがあります。アウグスティヌスは、当時の哲学者の理解と比較 しながら、聖書と信仰の意味づけを明確にしています。 この意味で「プラトンとユダヤ教」というのは、正確には「プラ トンのイデア論とユダヤ教の唯一神・創造神」となります。地理的 にプラトンの時代に北アフリカの北岸にユダヤ人が居住していたと すると、どこからいつ頃それらのユダヤ人が移住してきたのかも興 味のあるところです。神は民を散らすことで、ご自分の神観を世界 に伝達したとも言えるのだろうかと、多少唐突な考えにもなります。 この10月に札幌のもうひとつの聖書学院で「聖書と哲学」 というテーマで教えることになりました。それは信仰をいただい て、札幌で哲学を学び初め、聖書研究会を続けていくなかで与えら れた課題です。その聖書研究会も来年で50周年を迎えます。 その意味では私なりに50年抱えている課題でもあります。良 い機会と思って今まで学んだノートや書物を紐解きながらまとめら れればと願っているところです。その50年ほど近く前に KGKの全国集会で、ヘーゲル研究家であり近世哲学史家であり長老教 会の説教長老である大村晴雄先生とお会いしたことも大きなことでした。 上沼昌雄記
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