皆さま
こんばんは。増田です。超長文、ご容赦を!
『日刊ゲンダイDIGITAL』(2016年10月11日)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/191251
に、8月12日の東京新聞に引き続き、堀尾輝久氏が「新史料」を発掘したので「9条発案者は幣原」であり、「押し付け憲法論は覆った」という記事が載っています。
これは、明らかに事実ではなく誤っているので、憲法学者さんや歴史学者さんから反論が直ぐに出るだろうと思っていたのですが、なぜか、全く出てきていません。あるMLでは、この『ゲンダイ』記事を、どんどん拡散して「市民同士で伝え合い、子孫のため、真実を浮き彫りにして行きましょう。」という投稿がありました。
かなり迷って、以下のように返信しました。日本国憲法の成立過程はとても大切なことだと思いますので、本当に超長文になってしまい申し訳ないのですけど…と言って、これで、最低限に絞ったつもりなので…お時間のある時に読んでいただければ幸いです。
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【ゲンダイ記事を超拡散!】「マッカーサー書簡で判明。押し付け憲法論は覆った」
○○さま
こんばんは。増田です。
どうしようかと迷ったのですが…堀尾氏の主張の誤りの指摘には、かなりの長文が必要になりそうですし、なによりも、9条護憲派にとっては「9条発案者は日本人の幣原だった。マッカーサー=GHQに押し付けられたのではない」となるのは都合がいいですし…と。
でも、やはり、「都合がいいか」「都合が悪いか」で歴史の事実を偽造してはならない、と考えますので、返信します。
ハッキリ言って、有名な学者さんであっても、堀尾氏の主張は誤りです。
1、「新史料」だとしても、無価値
「1958年12月に憲法調査会(56~65年)の高柳賢三会長とマッカーサーらによって交わされた書簡」によって、1946年2月3日にマッカーサーがホイットニーGHQ民政局長に提示した三原則…いわゆる「マッカーサー三原則」…のうち
「 II
国家の主権としての戦争は廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない。」 (原文はhttp://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/072shoshi.html)
の発案者が幣原だった、という証拠とするには、あまりにも無理があります。
マッカーサーが「9条発案者は幣原だった」と公言した最初は「1951年5月5日の米議会上院軍事外交合同委員会公聴会での証言」だったようです。幣原平和財団『幣原喜重郎』(1955年)によれば
「幣原首相は『長い間熟慮して、この問題の唯一の解決は、戦争を無くすことだという確信にいたり、ためらいながら軍人のあなたに相談に来ました。なぜならあなたは私の提案を受け入れないと思うからです」『私はいま起草している憲法に、そういう条項を入れる努力をしたい』といった。
私は思わず立ち上がり、この老人の両手を握って『最高に建設的な考えの一つだ』『世界はあなたを嘲笑するだろう。その考えを押し通すには大変な道徳的スタミナを要する。最終的には(嘲笑した)彼らは現状を守ることはできないだろうが』。私は彼を励まし、日本人はこの条項を憲法に書き入れた。」
ですから、8月12日の東京新聞記事や10月11日の『日刊ゲンダイ』が、いくら堀尾氏による「新史料、発見」と言ったところで、1951年5月5日にマッカーサーが公言したことを、1958年の12月にマッカーサー自身が否定するわけはないのですから、この「新史料」に全く価値は無いのです。
だから「大手メディアは全然反応しません」のは当然です。古関彰一氏などの憲法学者さんたちが反応しないのは、有名な学者さんである…教育史の専門家?…東大名誉教授の堀尾氏に「恥をかかせては悪い」と思ってらっしゃるからではないかと私は考えています。。
ちなみに、古関先生は『憲法9条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット「幣原首相はGHQ案に反対だった」P14)『新憲法の誕生』(中公文庫 「『戦争放棄』の発案者」P137))で「9条、幣原発案説」をハッキリと否定していらっしゃいます。
2、1946年2月3日のマッカーサー三原則以前に幣原が9条原案を出した証拠は全く無い
もしも「幣原が本当の9条発案者だ」ということが成り立つとすれば、マッカーサーも幣原も言っているように、三原則を提示した2月3日以前の同年1月24日の会談で、幣原が本当に9条原案を出していることを、リアルタイムの1級史料で証明する必要があります。
しかし、前記古関先生も引用していらっしゃるリアルタイムの1級史料である『芦田均日記』第一巻 岩波書店 P79)は「2月22日 憲法論議第2日」と題して以下のように記述しています。
「幣原総理は昨日MacArthurと三時間に亘る会議の内容を披露された。以下、総理談の要領を誌す。
MacArthurは先ず例の如く演説を始めた。『…日本の為に図るに寧ろ第二章(草案)の如く国策遂行の為にする戦争を放棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思う。』
幣原はこの時 語を挿んでLeadershipといわれるが、恐らく誰もfollowerとならないだろうと言った。マッカーサーは『followersが無くても日本は失うところはない。…この際は先ず諸外国のReactionに留意すべきであって、米国案を容認しなければ日本の絶好のchanceを失うであろう。』…第一章(天皇条項)と戦争放棄とが要点であるから其の他については十分研究の余地ある如き印象を与えられたと、総理は頗る相手の態度に理解ある意見を述べられた。」
幣原がもし本当に9条発案者なら、マッカーサーに「恐らく誰も(「軍隊の不保持=非武装」の)followerとならないだろう」などと「反対の気持ち」をマッカーサーに言うはずもありません。
百歩譲って、当時の閣僚たちには、とても「軍隊の不保持=非武装」は理解できないだろうが、これは昭和天皇を護るために新憲法には絶対に必要だと考える幣原が、わざと「自分は反対だったんだが。マッカーサーに押し付けられた」と閣僚には言い訳をして「マッカーサーの外圧だから仕方ない」と閣僚には思わせるために芝居を打った、ということにしましょう。
では、もう一つの1級史料…上記『芦田日記』は、よく引用されるのですが、これは、なぜか、憲法学者さんたちも引用していないようです……当時、対日理事会の英連邦代表(オーストラリア外交官・元政治学教授)として日本にいたマクマホン・ボールの日記(『日本占領の日々――マクマホン・ボール日記』岩波書店)1946年6月25日(P66)の記述を紹介しましょう。
「<エヴァット外相宛て電報>
マッカ―サーは6月22日に憲法についての声明を出した。(中略)マッカ―サーは(私に)憲法に関する日本人とのやりとりについて、率直に正直に詳しく話したい、と言った。重点は以下のようであった。
マッカ―サーは戦争放棄に関して、幣原はマッカ―サーに『どのような軍隊なら保持できるのですか』と尋ねた。マッカ―サーは『いかなる軍隊も保持できない』と答えた。幣原は、『戦争放棄ということですね』と言った。 マッカ―サーは、『そうです。あなたがたが戦争を放棄すると公言すれば、そのほうが あなたがたにとって 好都合だと思いますよ』と答えた。」
幣原が9条発案者なら、マッカーサーに「『どのような軍隊なら保持できるのですか』と尋ね」ることなど有り得ないでしょう。
この時、マッカーサーは、まだウソをつく必要など、全く無かったのですから…
では、いつから、マッカーサーは、自分が9条発案者だったのに、それを「幣原が発案した」ことにしなければならなくなったのでしょうか?
3、朝鮮戦争で日本に再軍備を強制しなければならなくなったマッカーサーは「9条発案者」の役を幣原に押し付けたのでは?
マッカーサーは、沖縄を軍事要塞化すれば日本本土は非武装でも大丈夫だと考えていたのですが、冷戦の激化でぐらつく中、1950年6月25日の朝鮮戦争が勃発しました。東アジアでは冷戦が熱戦になったことより、日本から米軍を朝鮮に出動させなければならなくなって、それを補うために同年7月8日、マッカーサーは吉田茂首相に対して書簡を送りました。「警察力増強を指令」です(袖井林二郎編訳『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』講談社学術文庫P535~537)。マッカーサーはこの書簡で「事変・暴動等に備える治安警察隊」として、75,000名の「National Police Reserve」を名目として吉田茂首相に「再軍備」を強制します。
ちなみに「許可する」とマッカーサーは、書いていますが、吉田は全くそんなことを要請してはいなかったのです。
これ以前、米ソの対立の深まりによってアメリカ本国政府内、あるいは米軍内部では「日本を非武装化させたのは誤りだった」、つまり「マッカーサーは過ちを犯した」という声が高まっていたのではないでしょうか。
現に1953年、来日した当時のニクソン副大統領やダレス国務長は公言しました。
「事実1946年に日本の非武装化を主張したのは日本人でなく、米国側であった。私は米国が犯した この誤ちをここで率直に認めよう。」(毎日新聞 昭和28年11月20日)
「私は『日本を戦後 完全に非武装化したのは誤りであった』とのニクソン米副大統領声明に同意する。米国が日独両国に対してとった非武装化計画はその後の情勢から見て極端すぎたと思う。」(同 11月23日)
つまり、マッカーサーにとっては「9条を作らせたのは誤りだった」という米国内の非難に対して「いやいや、あれは私の発案じゃなく、幣原の発案だったんだよ」という必要があったのです。私は、この「警察予備隊」という名前での「再軍備指令」の後に「『発案者は君だ』ってことにしよう。大々的に、そう宣伝してくれ」とマッカーサーと幣原の間で密約があったのではないか、と考えています…絶対に証拠は残さないように口頭でのことでしょうけど…
この密約が成り立ったからこそ、マッカーサーは1951年5月にそれを公言し、それ以後は死ぬまで「9条発案者は幣原だった」と言い続けたのではないでしょうか。
では、幣原は、なぜ自から「私が9条発案者だ」と言わねばならなかったのでしょう? 幣原が、それを公言したのは『幣原喜重郎 外交五十年』(中公文庫)…昭和26(1951)年3月2日付の「序」があり、幣原は3月10日に死亡…からだと思います。以下のように書かれています。
「憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私に関する限り、前に述べた信念からであった。よくアメリカの人が日本へやってきて、今度の新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部のほうから迫られたんじゃありませんか と聞かれるのだが、あれは私に関する限り そうじゃない。決して誰からも強いられたんじゃないのである」(P219)
後は、ことあるごとに「自分が発案者だ」と幣原は言い続けます、マッカーサーと符牒を合わせて。
憲法制定にあたり、幣原が命を懸けていたのは…当時の日本の支配層は全部そうだったのでしょうけど…とにかく、なにがなんでも昭和天皇(天皇制)を護る、ということでした。だから、昭和天皇(天皇制)を護ってくれたマッカーサーには絶対随順だったでしょう。当時、非常に貴重だったペニシリンをくれて肺炎になっていた幣原を救ってくれた恩義もあったでしょうし…
紫垣 隆という幣原の友人は「幣原首相は売国奴にあらず」(『憲法研究(4)』1965年10月)の中で、以下のように書いています。
(「昭和26年はじめ」つまり、1951年初めの幣原の述懐として)「『今度の憲法改正も、陛下の紹勅にある如く、耐え難きを耐え、忍ぶべからざるを忍び、他日の再起を期して屈辱に甘んずるわけだ。これこそ敗者の悲しみといものだ』と しみじみと語り、そして 傍らにあった 何か執筆中の原稿を指して「この原稿も、僕の本心で書いているのでなく 韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。何れ 出版予定のものだが、お手許にも送るつもりだから 読んで下されば解る。これは 勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ」
「韓信が股をくぐる思いで書い」たという「この原稿」とは、『外交五十年』なのではないでしょうか。
4、9条発案者がマッカーサーであっても、日本国民は圧倒的多数が主体的に選んだ!
私は「9条発案者がマッカーサーであったとしても、日本国民は、これを圧倒的多数で、主体的に9条を選んだ」という歴史事実こそ、強調すべきことだと思います。
日本国憲法は、マッカーサー=GHQが原案を日本政府に渡しました。そして、女性も初めて選挙権を行使した1946年4月10日、敗戦後初の衆議院総選挙の結果、選ばれた日本国民代表たちは、国会で活発に憲法案を議論しました。
そして、第90回帝国議会・1946年8月24日、衆議院本会議での「新憲法案採択」は421対8でした。以下のURLの帝国議会会議録に賛成者・反対者全員の名前が全員、載っています。
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/090/0060/main.html
反対者の8名は、柄沢とし子 志賀義雄 高倉輝 徳田球一 中西伊之助 野坂参三(共産党)、細迫兼光(無所属クラブ)、穂積七郎(新政会)です。後者二人はのちに日本社会党の議員になりますから、理由は共産党と同じく「天皇制は残すべきではない」「自衛のための戦力は放棄してはいけない」というところかと思います。
また、これは貴族院に送られ、10月6日、本会議でいくつかの修正案を審議し、2/3以上で可決されたのです。
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/090/0060/main.html
この時、「こんな日本国憲法はイヤだ、反対だ」と主張することは全く自由でした。それなのに、国民代表の圧倒的多数は賛成したのです。つまり、9条も日本国民は圧倒的多数が自分の意志で選んだ、と言えるのです。
また、日本国憲法が1946年11月3日にされた翌年早々の1946年1月3日付で、マッカーサーは吉田茂首相に以下のような書簡を送っています。
「昨年1年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必用とならば改正する、全面的にして且つ永続的な自由を保守するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本人民並びに国会の正式な審査に再度付されるべきことを、連合国は決定した。
もし、日本人民がその時点で憲法改正を必用と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくは何らかの適切な手段をさらに必用とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意志の表明であることを将来疑念がもたれてはならないと考えている」(『吉田茂=マッカーサー往復書簡集』P287~288)
つまり、マッカーサー=連合国は日本国憲法が施行される4か月も以前に「もし、この憲法はダメだ」と考えるなら、国民投票でもして「必用とならば改正する」のも、O・K! とハッキリ言っていたのです。
対して吉田の返事は1月6日付で「1月3日の書簡確かに拝受いたし、内容を仔細に心に留めました」と、たった、これだけ…でした。
つまり、日本支配層も、日本国民も日本国憲法に全く満足していたのです…吉田ら日本支配層にとっては天皇制が護持された日本国憲法は「改正する必要」は全く無かったわけで、日本国憲法は「押し付け」憲法どころか「臣茂」としては満足の憲法だったのです。国民にとっては「戦争はもうこりごり」というところから「もう戦争しないで済むんだ」という日本国憲法は大満足だったでしょう。
憲法9条発案者がマッカーサー=GHQであったとしても、それを「日本国憲法」として主体的に選び取ったのは日本国民であって、その時、日本国憲法は「押し付けられた」というような屈辱的なものではなかった、という歴史事実を直視すれば、これは日本人にとって誇りでありこそすれ、何ら、臆する必要はないと思います。
ですから、「9条発案者は幣原だ」などという、マッカーサーのメンツ上から作り出されたウソを拡散するのは誤っている、というのが私の結論です。
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