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平成17年4月21日21時富士宮国際文化会館駐車場で

 投稿者:FT
 投稿日:2017年 8月 5日(土)19時51分0秒
一人の壮年部が、当時特区長だった組織に擁護されているTM氏から一方的な暴力を振るわれ全治2週間の怪我を負わされた。この後この被害者の壮年部は、除名された。当時この壮年部は警察にも被害届けを出し告訴した。その結果検察は、平成18年2月28日にこのMT氏に起訴猶予を下してる。当時検察官のAT検事は、被害者の壮年部に対して初犯だから起訴猶予にしたと説明してる。この暴力幹部MT氏を組織(本部)は、全面的に擁護した。明確に言えば、暴力という謗法を破折せずに与同した。「漆千杯に蟹の足いれたるがごとし」の御金言のごとく組織は謗法を犯し邪教と落ちた。  

投稿者:ツイート人様と同感

 投稿者: にゅうかい29
 投稿日:2017年 8月 5日(土)19時49分36秒
ツイート人様のご意見に私も全く同感です。
そして公明党の悪政も、この文より明確に読み取れます。
   ↓↓
twitterより。「再軍備と憲法改定」について池田先生は明確に!  投稿者:ツイート人  投稿日:2017年 8月 5日(土)16時08分26秒
「今日、再軍備を進め憲法の改定を主張する人々は、戦争の体験を忘れた健忘症か、戦争で甘い汁を吸った″死の商人″の手代としか私には考えられない。国民は、戦争でまず犠牲にされるのが誰でもない国民自身であることを常に念頭において彼らの言葉を判断すべきであろう」

池田大作全集18巻371
 

無明と戦い続ける!

 投稿者:螺髪
 投稿日:2017年 8月 5日(土)19時04分14秒
 引き続き、一生成仏抄講義です。

 【妙の三義と唱題行】
******

 妙法の「妙」には、「具足」「開く」「蘇生」の三義があります。
 この「妙の三義」はことごとく唱題に具わっています。すなわち唱題には、一切法が妙法蓮華経の一法に具わるという「具足・円満」の妙があります。また、九界の生命から仏界を「開く」という変革の妙があります。そして、苦悩の身が大安楽の身に「蘇生」するという大功力の妙があります。

 私たちのこの生命も、「妙法の当体」です。ゆえに、一切法が具足しているのです。無明も、法性も、煩悩も菩提も、九界も仏界も、すべて自分自身の中にあります。だからこそ、無明を明と転じ、煩悩の薪に菩提の火を点し、九界の身に仏界を現すという、生命の根本的な「革命」の妙が可能なのです。そして、この大転換を実現する鍵が「心」です。生命変革の鍵は、どこまでも「我が一念」にある。
 だからこそ、大聖人は本抄で「己心の外に法ありと思わば全く妙法にあらず麤法(そほう)なり」(御書三八三㌻)と戒められているのです。
 この仰せの通り、我が一念の変革を忘れずに、唱題の実践に励んでいくところに「妙」の意義が具現化します。大聖人が弘められた唱題という法自体は、どこまでも妙(たえ)なる法であることは言うまでもありません。

 しかし、このような妙法の力も、無明に覆われた生命では十全に現れません。無明とは、妙法を信じず、自他の仏性を見つめることのできない、生命の闇である。その無明を打ち破り、仏界の生命を生き生きと呼び現す力を持っているのが唱題行なのです。

 無明との闘争――このわが胸中の戦いこそが唱題行の本質なのです。
 =中略=

 さて、重要な点は、日蓮仏法を実践する私たちも、己心の外に法を求める姿勢であれば、外道に堕してしまう危険性があると、大聖人が本抄で戒められていることです。

 日蓮門下の私たちは「我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思うべからず」(御書三八三㌻)との仰せを決して忘れてはならないのです。唱題行は、万人に具わる「本有の妙理」を現して、一生成仏を遂げていくための修行です。一切衆生の成仏を実現しゆく修行という意味では、これ以上にない妙行です。しかし、この「我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思うべからず」との一点を忘れてしまったならば、どんなに修行しても万人成仏の本質を失い、外道に同化してしまう。それ故に大聖人は厳しく戒めてられているのです。

 修行の根幹は、私たちの心性を開くことです。ゆえに、私たちの己心の中での闘争が不可欠であり、三障四魔に破れれば成仏は叶わない。だからこそ、己心における無明との戦いは、凡夫が仏になるために、避けて通ることのできない生命の闘争なのです。
 すなわち、常に胸中の無明と戦い続けるかどうか、という一点こそ、永遠に忘れてはならない成仏の最大の課題です。

 (一生成仏抄講義64~69㌻、2006年1~7月大白蓮華掲載、2007年1・26発行)

******

 「無明」とは、先回の箇所で、「明らかなることなし」ということが、すでに分かっています。「常に胸中の無明と戦い続けるかどうか」の重要さが浮かび上がってきます。



 

末法の御本仏、日蓮大聖人様

 投稿者:太ちゃん@平らかなるは人編
 投稿日:2017年 8月 5日(土)17時55分59秒
~というのが御祈念文にあるのは間違いでした、と言ってるようなものですね
僕でも理解できる詭弁じゃないですか(笑)

http://6027.teacup.com/situation/bbs/72762
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72773

コレ↑

http://6027.teacup.com/situation/bbs/72773
↑これだけ知識があっても
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72762
↑のようになるって「ワザと」ですよね?

ジョークでしょうか(笑)

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

twitterより。「再軍備と憲法改定」について池田先生は明確に!

 投稿者:ツイート人
 投稿日:2017年 8月 5日(土)16時08分26秒
「今日、再軍備を進め憲法の改定を主張する人々は、戦争の体験を忘れた健忘症か、戦争で甘い汁を吸った″死の商人″の手代としか私には考えられない。国民は、戦争でまず犠牲にされるのが誰でもない国民自身であることを常に念頭において彼らの言葉を判断すべきであろう」

池田大作全集18巻371
 

業力等について考える

 投稿者:史人
 投稿日:2017年 8月 5日(土)15時01分25秒 編集済
以下書くことは非常に難しいことなので、模索中の私記とさせていただきます。

仏の存在と法とは明らかに違う。
そこに付け込んでくる人も出てきます。
今日、その仏の意思について若干述べられている方が居ますが、見過ごしがちな視点です。
それこそ日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、御本尊に向かう人にとって大事なことと思います。

“願兼於業”という言葉がある。
その人ごとに受ける業障は違う。
業力という言葉が御書検索で一箇所だけ出てきます。
この現代語訳はあくまで参考にしているものです。このサイトは今見つけました。
https://www46.atwiki.jp/gendaigoyaku/pages/15.html

「14  謗法者の難に値わない理由
疑っていう。
もしそうであるならば、どうして選択集を信ずる謗法の者の中に
この難に遭わない者がいるのか。
答えていう。
宿業が果報をもたらす力は一定ではない。
順現業は、法華経普賢菩薩観発品第二十八に
「この人は現世に白癩(びゃくらい)の病を得るであろう。(中略)
諸(もろもろ)の悪く重い病気にかかるであろう」
と説かれ、
仁王経には
「人が仏教を破壊するならば、また孝行な子はいなくなり、親族は仲が悪く、天神も助けない。
病気や悪鬼によって日々、悩まされ、異常な災難が耐える事無く、禍が連なるであろう」
と説かれ、
85p」

御書の中の“業力不定”については「宿業が果報をもたらす力は一定ではない。 」と解釈されています。

その人によって果報が違うことまではわかりますが、その“業力”は一定ではないというこの意味は?
これは過去世もしくは自分の中の仏なのか、日蓮大聖人のような別の仏の働き作用なのか不明です。
寿量品の中にある「雖近而不見(すいごんにふけん=近しと雖【いえど】も而も見えざらしむ)」等に見られる仏の力とは如何なるものか?宇宙に遍満する、凡人には到底及ばない仏の智力によるものが確かに存在するとして、それは“法”とは明らかに違う。

ここが御本尊が存する意義があるものと思います。
ここまではあくまで疑問を投げかけただけなので、仏の存在を否定することは、先に書いた“願兼於業”が過去世に願った自分が居ることをも否定することになるので、日蓮大聖人が御本仏であることを否定してしまえば、日蓮大聖人が過去世に何を願ってこの世に出でられたのかさえわからなくなってしまいます・・・。

日蓮大聖人が御本仏であることを否定する文章は法華信仰から離れ、科学に行った人のブログで読んだことがあります。
日蓮大聖人の諸御抄についても破折しようとする動きが見られました。
これこそ、信心を破ろうとする魔軍の動きに追随するものです!
 

喜びの声

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策
 投稿日:2017年 8月 5日(土)14時23分3秒 編集済
信濃町のネット対策チームの対策です。

先程書き込みをさせていただきました「濁流」の考察に早速たくさんの声をいただきました。

処分された方から歓喜の声が寄せられました。
池田先生の思想を破壊する原田会長を叱責して「処分された」のだから「法難」である。
池田先生は仰せになった!「難を受けなくては」ならないと。
そしてまさか会則変更直後や安全保障の閣議決定直後ではここまで原田会長率いる執行部が「濁流」とは思えなかったが時間の経過と伴に白日の元になってきた。
きっとこの後はもっと明確になるでしょうとの声をいただきました。

そして最近地域で聞こえてくる声も紹介します。
「処分された会員さん」が元気で「歓喜」しているのはなぜだろう?

逆に聖教新聞の「多部数購読」に投票権のない「東京都議会選挙」に対する「強制支援活動」など地域の自分達は青色吐息。

肝心の池田先生の御指導が聞ける本部幹部会は隔月になり、それも選挙になると中止になったりと信仰を深める歓喜の活動が少なくなっていると。

「処分を受けた会員さん」が元気なのはなぜなんだろう?
職員さんへ聞くと「処分を受けた奴」は「極悪人」であると言うのに、、、
そして処分の理由を聞くと「創価学会に弓を引いた」と言うだけで明確な理由は答えてもらえない、、、
他にも聞く職員によって答えが変化する。

いったい何が真実なのでしょうかと。

 

濁流

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策
 投稿日:2017年 8月 5日(土)13時57分51秒 編集済
信濃町のネット対策チームの対策です。

「濁流」が今回の書き込みさせていただく内容のキーワードです。

日蓮大聖人には6人の直弟子がいました。
この6人を「六老僧」と呼びます。

この「六老僧」の中で5人は「師匠である日蓮大聖人」の流布した教学に「少しだけ自分の考え」を「追加」しました。

この5人を「五老僧」と呼びます。

時代は下り「五老僧」の末弟子はどのような状況になったのでしょうか?

「五老僧」の末弟子の本山であります、身延山久遠寺の境内を見ると学会員さんであれば、「嫌悪感」感じることでしょう。
学会員さんであれば境内まで行くことも躊躇うことでしょう。一度ウィキペディアでご覧下さい。
釈尊の仏像があります。
天女が祀られてます。

なぜこのようなお寺になったのでしょうか?

「五老僧」が「師匠である日蓮大聖人」の流布した教学に「少しだけ自分の考え」を「追加」したことが原因であります。

時代が下る毎に「濁流」は「大きく」なります。
五老僧のほんの少しの「濁流」が時代の経過であのようはお寺になるのです。

さて、創価学会はどうでしょうか?
原田会長は「宗教的独自性」と言う「池田先生の御指導」にない「教学」を「追加」しました。

皆様に質問です。

皆様には池田先生の流布した「非暴力」での「平和」実現を目指す心はありますか?

皆様には池田先生が金の橋を架けた日中友好の心はありますか?中国は敵国とか思っていませんか?

皆様にはアメリカ領のグアムで開催されたSGIの平和思想はありますか?

皆様には戸田先生、池田先生が絶対に認めていない「核兵器」による「防衛」に賛成する気持ちが「少し」でもありませんか?

一人を大切にする池田先生を師匠とするのに全体を守る為には「少しの犠牲」はやむを得ないとの気持ちはありませんか?

もしも皆様の心の中に該当する箇所があるのであれば大変です。
皆様の「代」では創価学会は「濁流」にならないかもしれませんが、大切なお子さまやまたお孫さんの世代では「池田先生の思想」とは「別」の「原田思想」の「濁流」になってしまうのです。

もしかすると、、、
現代は科学技術の進歩により「一瞬」で「世界の情報」が「誰でも」手に入ります。

と言うことは原田会長が「追加」した「濁流」はあっと言う間に広がります。

既に皆様も含めて「原田思想」の「濁流」に染められているのかもしれません。


 

SaySaySay様

 投稿者:満天の星メール
 投稿日:2017年 8月 5日(土)13時44分27秒
2014年に教義が変わった時、私も創価学会が他の宗教に変わってしまったと思いました。
誰も、池田先生ですら変えることが出来ない(変えなかった)仏法の根本原理である「化法」が変えられてしまったのですから。 本来ありえない事が起きたのに、どうしてそれを受け入れることが出来るでしょうか? 執行部がいくら理由を論っても、教義変更を撤回しない限り、納得はできません。私は、迫害されても今まで通りの信仰を貫きます。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72791


 

原田門下と名乗りなさいよ

 投稿者:池田門下の自覚
 投稿日:2017年 8月 5日(土)13時43分45秒
そもそも『日蓮系寺院の一つにすぎない大石寺の教学』と『日蓮教学』、あなたはどちらを選びますか?なんていう二者択一自体がすでに結論有りきの投稿でしょう。というよりは何を先生から学んできたのやら。どのように止揚していこうかと考えなければならない段階なのに、『大石寺教学』と『日蓮教学』のどっちかを選べなんて。ほんと頭悪すぎというか、宿坊憎しで思考停止しすぎでしょう。「創価学会の公式見解として、戒壇板本尊の位置付けが大きく変わったのです。」なんてよく言えたもんです。こういうのをご都合主義と言うのでしょう。『戒壇の大御本尊』再定義の必要性をまんまと悪用され、結果的に平成2年の魂の独立は中途半端でした~。先生の大勝利宣言はウソでした~と言っているということが気づかない、原田門下の悩乱ぶりが痛々しいですね。
 

日蓮本仏論を否定される方は池田先生の弟子ではありません④

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策
 投稿日:2017年 8月 5日(土)13時21分39秒
信濃町のネット対策チームの対策です。

過去に以下の書き込みがあります。

投稿者:信濃町のネット対策の対策?? 投稿日:2015年 3月24日(火)13時01分17秒??   通報

信濃町のネット対策の対策と申します。
職員や外郭職員がこの掲示板を見て考えていると承知しています。
そのうち、宿坊の掲示板は見るなと信濃町より指示があるからもしれませんね。

さて、 日興上人が大聖人在世に仏法の独自性を進めたのか?
ですが、信濃町のネット対策筋も「宗教的独自性を明確にした」とは書けませんよね。

それは、そうです。
師匠の「在世」にそんな事をすれば、師匠以上の存在になりますよ。
この考え方は、教学の理解度が浅い方でもわかることです。

私が徹底して問題視しているのは、現在は師匠・池田先生の「在世」と言うことです。

五老僧ですら、師匠・日蓮大聖人の「在世」に「宗教的独自性を明確」にしていません。

何度も書きますが、原田会長は師匠・池田先生の「在世」に師匠の思想以上のことをしようとしているのです。

これは○×のどちらの行動でしょうか?

職員、外郭職員の皆、先生が手作りで作られた音楽隊の皆様。
どう思いますか?
音楽隊の皆様は本部幹部会での様子を知っていますよね。

暫く後に、日蓮大聖人滅後の日興上人の思想についても書きたいと思っています。

次は池田先生が戸田先生の「在世」に宗教的独自性を明確にしたのか?です。

 

日蓮本仏論を否定される方は池田先生の弟子ではありません③

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策
 投稿日:2017年 8月 5日(土)13時14分6秒
信濃町のネット対策チームの対策です。
過去に以下の書き込みがあります。
日蓮本仏論の否定が間違いであることや、原田会長が偽弟子であることが皆様なら御理解いただけるのではないでしょうか。
時間の経過によって原田執行部の間違いが鮮明になってきます。

投稿者:信濃町のネット対策の対策?? 投稿日:2015年 3月22日(日)18時22分1秒??   通報

原点について

昨日の投稿に続きまして書き込みします。

日興上人は師匠・日蓮大聖人の「在世」に日蓮大聖人以上に「宗教的独自性」を進めるような行動は取りましたか?

答えはNOです。
御書のどこを拝読しても日興上人のお手紙を拝しても、そのようなことはありません。

聖教新聞2月23日掲載の原田会長を中心とした面々の座談会で、原田会長は会則変更について「学会の宗教的独自性が一層鮮明に云々」と発言しています。

今は、師匠・池田先生の「在世」です。

皆様このこと分かりますよね?

師匠・池田先生の思想は同時中継で皆様に御指導されている時点で「宗教的独自性は鮮明になっている」のです。宗門にも勝利宣言をされ、これからの広宣流布の方法も総て御指導されています。

何度も確認ですが、今は池田先生の「在世」です。

原田会長や谷川副会長、森中教学部長、杉本婦人部長、竹岡男子部長、吉井女子部長が、鮮明にすることなど何一つないのです。

原田会長もその他の面々も師匠・池田先生の弟子ですよね?
であるならば、師匠・池田先生以上に「宗教的独自性を鮮明」にする立場ではないのです。

 

日蓮本仏論を否定される方は池田先生の弟子ではありません②

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策
 投稿日:2017年 8月 5日(土)13時03分14秒 編集済
信濃町のネット対策チームの対策です。

昨日の書き込みにたくさんの御意見をいただきました。

僧俗和合時代の池田先生の御指導を引用している方がいらっしゃいます。
僧俗和合時代の池田先生の御指導をどう解釈するべきかは引用されている方もおそらくご承知の上で何か意図があって回答を示さなかったのでしょう。

宗門との闘争を知らない世代にこれからなってきますので、簡単に説明をさせていただきます。

僧俗和合時代と言う時代が前提です。
日蓮正宗の法主も坊主も池田先生の事を宣揚していた事実があります。
当然、信徒団体の代表であります池田先生も宗門を宣揚しました。
これは僧俗和合時代だからです。

その後、日顕が池田先生を切り捨て学会員を切り捨てました。
当然、池田先生を中心に私たち学会員は宗門の邪義を徹底的に叩きました。

そして池田先生が公の場で勝利宣言を私たちして下さいました。

これが結論です。

池田先生の御指導があるのです。

日蓮本仏論否定に池田先生の御指導はありますか?

日蓮本仏論否定の方はこの質問に回答をして下さい。


 

沈黙が実態を雄弁に語っています

 投稿者:新感性
 投稿日:2017年 8月 5日(土)13時01分10秒
国税庁長官、就任会見せず
森友懸念?異例の沈黙
https://this.kiji.is/266347038866931720?c=110564226228225532
 

大本営発表

 投稿者:ミネルヴァの梟
 投稿日:2017年 8月 5日(土)12時11分21秒
毎日新聞のニュース速報によると、改造内閣の支持率、支持が35% 不支持が47%  だそうだ。

私としては残念な結果だ。

あの程度の事で、不支持から支持に変わる様な人が、10ポイント程度もいるとすると、日本の民主主義もマダマダだな、と危惧せざるを得ないが、最近の世論調査は、かなり恣意的に行われている様な疑いも有り、まあ、現時点における参考程度にしておこうと思う。

毎日にしても朝日と言えども、経営トップに近づくほどに、親安倍勢力が、一定数存在するのだと思う。
それなりの忖度も、有って当然だろう。
私は経営陣では無く、骨のある現場スタッフに期待している。


安倍首相が今日の朝、日テレに生出演していた。現役首相の生出演とは珍しい。よほど危いのだろう。

内容は、首相を批判する様な質問を交えつつ、結局は首相に弁解の場を与えるという、国会の与党側質問と同じようなもの。見逃した人も全然惜しくない内容だった。

そもそも、司会者やコメンテーターが首相に対し、あれほど満面の笑みを見せているようでは話にならないと、私は思う。根本的な所で信じられない。

何故か、寿司友パーティーという言葉と、3K、ゴミ売り、犬HK、という言葉が頭に浮かんだ。

この3社、次の政権に替わった時の対応は、どうするのだろうと心配になる。

戦時中、大本営発表をそのまま報道し、国民を騙し続けた反省はまるで感じられない。
私には、恥の上塗りとしか見えない。
 

真実が欲しい

 投稿者:SaySaySay
 投稿日:2017年 8月 5日(土)12時10分20秒
いったい今、創価学会で何が起きてるんや??? どないなっとるんや???
「?」が「!」に変わったのが2年前の8月2日でした。一仕事区切りがつき、任用教学を教える前に片付けておくべき問題がありました。そう。教義変更2014問題です。
こんなのを教えていいのか? 俺は罰を受けないか? 皆を『地獄へ道づれ』しないか?
https://www.youtube.com/watch?v=WcRkeUWEeHc

「何かおかしい」と思い始めたのは2006年でした。『JFK』を擁しながら、なぜ我われ阪神タイガースは優勝できないのか?
・続投が決まったばかりの空き家がなぜ急に怪鳥を降りることになったのか?
・そして4・11聖教に謝罪文のようなものが掲載されたのか?
・それから以降、なぜ池田先生のスピーチはあんなに患部に厳しくなったのか?

『速達』ではないが、「いつかは来ると覚悟してた日」が2010年に訪れた。
https://www.youtube.com/watch?v=HtWwit1fxVc
・急速に組織が冷え込んだのはなぜか? 有力活動家が沈没していったのなぜか?
・大阪まで揺らした東日本大震災はなぜ起きたのか? 関西にはいなかったクマゼミが常住して猛暑や豪雨が当り前になったのはなぜか? 空白の10年、20年が30年に向かい始めたのはなぜか? 中国、韓国、北朝鮮が脅威と言われるようになったのはなぜか? 目立って立正安国が崩れだしたのはなぜか?
・全般的に打ち出しが強化され、メンバーよりもナンバーを大切にし始めたのはなぜか?
・あんな時代遅れなモバイルSTBを導入したのはなぜか?
・集団的自衛権に手を染めたのなぜか?
 池田先生がトインビー対談で否定しているのになぜか?
・教義変更2014はなぜか?
 大御本尊を切り捨てる? あんなに戸田先生・池田先生が大切にしてきた日寛教学を簡単に捨てる? 勤行形式を変更しただけでも池田先生が説明して下さったのに、もっと大きな変更に池田先生から説明がない?

これは何かおかしい……何か悪いことが起きているに違いない。何が起きている? こんな変更教義を人に説いていいのか? 別の宗教を広めることにならないか? 謗法じゃないのか? 一斉に皆を巻き込んでいいのか?
しかし、そんなことを訊けるような幹部なんかいないことを私はよく知っていました。牙城会、未来部(合唱団長も)、企画室など手広くやっていた私は幸か不幸か多くの人を知り、知られてもいました。地元出身でもなく、たいした役職でもないのに。二世でもなく一人毛色の違う私になぜか知りたくもない情報もよく入って来ていました。

ヒントを求めてネットを彷徨って宿坊に辿り着いたのが2年前の今頃。驚きと納得という矛盾する2つの気持ち。

教義の変更はいずれ避けられなかったとしても、問題はその「狙い」「意図」であり、拙速なやり方です。
教義変更問題は私にとっては「失効部による邪教化計画」に気づかせる入口でした。
「整合性」を切り捨てるということはそういうことです。

「ソウカガッカイは別の宗教に変わる」

ということです。俺はこんな宗教に入信した覚えはない。
皆さんはどうですか?

・あの患部に厳しい、不都合な2006年以降スピーチは残されない、無かったことにされる!
・他の文字、音声、映像の「文証」は五老僧に学んで消去、「すきかえし」される!
・日興上人&三代会長という過去と決別して別の宗教に生まれ変わる!
・橋元&棚野&聖教横領組は守られる! 逆に不正を追及した者は追放される!
・安保法反対、教義変更批判、「本当のことを言う者」は迫害される!

本当のことを言おう! 後悔しないように!

『真実が欲しい』ジョン・レノン
https://www.youtube.com/watch?v=Gs1QMyjXwjk
 

ちょっと、違うのかな・・

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール
 投稿日:2017年 8月 5日(土)12時08分14秒 編集済
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72781

赤胴鈴之助様

私へのご解釈、少し違うような気がします・・

私は「通行人氏」の書いている内容とその考え方、いま、ある面、こういう人が出てくる時と感じています。

しかし、原点を見てみましょう・・
永遠の仏「教主釈尊」永遠の法「南無妙法蓮華経」
御本尊を顕されたのは大聖人様。そこが最も大事でしょう。釈迦・天台さえも知っていたけれども顕さなかった。

大聖人様を教主釈尊としてみて、崇め奉るということ・・「神格化」権威主義的方向と

大聖人様を教主釈尊としてみるが、単に崇めるのではなく、

その教えを実践していくということ、そこには微妙な違いがあるように思います。

前者は大聖人を「神格化」し、それを元に信者を服従させるという権威主義をもたらす可能性が横たわっています。
また、信者は盲目的に・・大聖人をご本仏として崇め奉る。

後者は基本(大聖人こそ末法のご本仏)をしっかり押さえ、その教えを実践する。
後者の場合、通行人氏と似ているようで、基本は全く違います。
通行人氏の論調は五老僧の辿った道のように思います。

最初のちょっとしたずれ、そこから大きく外れていく。

つまり、大聖人も単に宇宙の法を先に感じただけとか、菩薩として出てこられただけ・・
御本尊は誰にでも書けるのではとか・・はたまた、キリストやモハメットと同列にみ・・
最後は、宗教とは一体なんぞやと・・堂々巡りになり、その間、我が身は落ちていきます。

そういった方向に流れる、少なくない方の危険性をいま感じています。

我々のような迷い多き凡夫には道を教え、法を教えてくださる師匠が必要です。それが、先生です。

弟子の道を歩み、祈り、法と伝える中に現実に自分の生命に宇宙を感じ仏・教主釈尊を感じる。
あ~つまり、我が身即教主釈尊と同じ生命を持っているんだと・・

他の日蓮宗では、それはできません。これは体験的にも言えることです。
なぜかならば、大聖人に違背、いろんなものを奉っているからですよ。狐や蛇・・などなど・・
それらに感応してしまうんです。

トインビーさんも言っていますね・・宇宙の見えざる意志・・「愛」
これを仏法では「慈悲」とします。

仏の慈悲無くして、法は民衆には降りてきません。
慈悲の発動と実践・・そこに、仏_「菩薩仏」の働きがあります。

根本を見失ってはいけないと思います。
若かりし頃、法に迷ったことがあります。それこそ、毎日が地獄の日々・・

法悦を受けるのも体験、仏罰を受けたのも体験ですが・・
そのどちらも、結局、仏の慈悲です。

間違った道に行くと苦しみの日々が徐々に、徐々に深くなり、ハッと気がついた時、
間違った時点に戻らなくてはいけませんね・・

その取り返しには膨大なエネルギーが必要です。そして、取り返しのつかない貴重な年月を失います。
これは、全部実体験です。

私は論理も好きですけれど、実験的・体験・経験を重視します。

どうなるのだろうと、興味をそそられるゆえに、ちょっと大変になったことも多々あります(苦笑)。

だから、ここを訪ねる初心者の方、悩んでおられる方々には決して苦悩の地獄への道に入っていただきたくないのです。

師匠こそ最も大事です。その師匠の最後の教え「法華経の智慧」を真剣に研鑽していただきたい。
 

Sayさんへ

 投稿者:大仏のグリグリのとこ
 投稿日:2017年 8月 5日(土)11時47分41秒
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投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年 8月 5日(土)10時44分31秒

今になって分かった「大御本尊の真実」と向き合って、
「これまでやってきたことが間違っていたということにならないように」するには、
「整合性」が重要でしょう。

この「整合性」を無視した教義変更2014は明らかに池田先生の指導と反します。

御本尊には「奉書写之」と書かれてあり、
之(=大御本尊)のコピーであると宣言しています。

「本尊雑乱」の時代にあって、「奉書写之」はいわば保証書のような重要な役割を果たして来ました。

これを無視することは出来ず、金原レポート後に為すべきは

「大御本尊の位置づけ」について再考することで、単純に切り捨てて矛盾を作るべきではなかった。
----------------------------------


まったくその通り、同感です。

大御本尊の位置づけについて考察する――これが大事ですね♪

グリグリの中では、上記それはもうすでに解決しています。

近々、それら関連の論考を述べていきたいと思います。

時を待ってます。(笑)
 

教科書的発言

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール
 投稿日:2017年 8月 5日(土)11時20分0秒
赤胴鈴之助様 ありがとうございました。

ドイツ草創の方達に関することは事実ですね。とにかく、世界に出よう・・世界に法を広めるんだとと・・
そういう息吹が昔は多くの青年にありました。何もなくとも意気揚々と出かけたものです。

私も、遅れをとってはいけないと・・・

さて、インタビューの内容?

まさに、教科書的発言
言っていることと、やっていることとに整合性がそこにはありません。
ご本人はそう決意して欧州に来られたのでしょうが・・

周りの意見は大きく違っておりますし、また、私自身も大きな違いを感じます。

「気取っている」「個人指導をしない」・・もっとも、会合のあと彼のところに駆け寄る人はほとんど皆無・・
「家庭指導しない」 という評価です。

先生からは
「お金に汚い」「女房が悪い」「私と識者との関係を全部ぶち壊した」・・・・等々、土下座させられましたね。

「対話」をしている??????????????????  聞いたことがありませんよ。
誰かが、どん底からあなたの指導で蘇ったという話は・・・ありません。

各国訪問での毎夜の高級レストラン、酒盛り・・確かに、その席では対話はあるのかもしれませんが、どんな対話だか・・
誰・彼の悪口を酒のつまみにしていると聞いておりますが・・

先生の佐渡御書講義・・まさに、ピッタシの指導と思うのは私だけではないでしょう。

申し訳ありませんが・・

<引用>
・・・先生は「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる(中略)悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして
智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書957P)との一節を引かれ、

「これが肝心、要だよ」と力強く語られました。 ・・・・・・・・・・・<引用終わり>

まさに、もう一度、よく読み直して、決意新たにしていただきたいものです。
意見をいう者との対話拒否、側近を連れてしか対話できないお人・・それも、ほとんど、連れの幹部にものを言わせ・・
心を閉じたまま、幹部の威厳を持って対応するのでは相手の心は開けません。

また、欧州各国の指導者、先生と対話された方との交流もないではありませんか・・ある人曰く、完全内弁慶・・
欧州日顕宗との直接対話はなく、青年部に後をつけさせビデオ撮りがいいところではないですか・・

私が言っているのではありません、多くの人がそう言っている、思っていると・・聞いています。

<引用>
"いかなる迫害に遭おうとも、自分の人生を広宣流布に捧げよう"。

この部分は、度重なる先生からの厳しきお叱りを受けても今の立場から降りないぞ~~~
としか見えません。残念ながら・・お叱りを受けても隠す手立てが巧妙になっただけで改善はありませんよね・・。

こういうことを書く者を追い出す、迫害するという決意ではなく、現場に降りて虚飾を捨て去り。

一人、一人と心の対話を進めていただきたいものです。

最後の3年間が大切と先生はおっしゃっていますよ・・
 

真実が欲しい

 投稿者:SaySaySay
 投稿日:2017年 8月 5日(土)10時44分31秒
「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72778

本当に池田先生がこう言われていたのか、私はこの真偽を知りません。しかし、

「創価学会といえども、一人ひとりを大切にしなくなったら邪教なんです!」

と入信間もない頃の本幹同中で言われていたのを確かに聞き、覚えています。
覚えているのは、それを聞いて感動したからです。「ああ、私の入信は正しかった。誇りをもって身内・友人にも創価の師匠を語れる」と思ったからです。
その一点から、解散発言は矛盾せず、それを否定する理由はありません。

日蓮大聖人・池田先生は「何でもアリ」ではありません。問題はその条件です。

「智者に我義やぶられずば用いじ」(御書P232L4)

と言われています。大聖人も無条件で信じろとは言われていません。ご自身で「どのようなかことがあっても法華経を捨てない」と言われていますが、それは条件「智者に我義やぶられずば」付きで、今で言えば、科学が完全証明したことと矛盾しない限り、ということです。
入信直後、ある先輩に「もし仏法が間違っていたら大聖人が法華経を捨てると言われているのだから俺も捨てる。お前も捨てたらいい」と言われたことが私の確信を深めました。(今でも私はこれを会合等で話します。周囲の目は冷たいですが!)
(その意味では、私には五重の相対は必要ではありません。「ホンマかどうか?」だけ。「一重の相対」でいい。しかし論理的思考法を身につけるためにも新しい人には五重の相対を学ばせるべきです。)

池田先生の「ひとり一人を大切に」は金原レポートと向き合って、どう現れているか。
それは教学部レポート・遠藤文書の「これまでやってきたことが間違っていたということにならないように」「損することにならないように」といった言葉にあるでしょう。

今になって分かった「大御本尊の真実」と向き合って、「これまでやってきたことが間違っていたということにならないように」するには、「整合性」が重要でしょう。
この「整合性」を無視した教義変更2014は明らかに池田先生の指導と反します。
御本尊には「奉書写之」と書かれてあり、之(=大御本尊)のコピーであると宣言しています。「本尊雑乱」の時代にあって、「奉書写之」はいわば保証書のような重要な役割を果たして来ました。これを無視することは出来ず、金原レポート後に為すべきは「大御本尊の位置づけ」について再考することで、単純に切り捨てて矛盾を作るべきではなかった。

教学部レポート・遠藤文書には池田先生の指導は「一貫」していることが書かれています。
この一貫性を知るには一過性の池田先生の言動だけでなく全体を通じての思想を知る必要があり、日顕宗お得意の「切り文」を失効部までもが真似てはならない。
失効部の「切り文」は宗門よりも悪質で「整合性」を切り捨て、「“これまでやってきたことが間違っていた”ということにした」。これこそが『大問題’14』なのです。

失効部の言う「過去との決別」とは宗門との決別ではなく「三代会長との決別」であり「池田先生の創価学会」との決別である。
そのことが、2006年以降スピーチの未書籍化・池田大作全集打ち切り(抹消)、『人間革命』(第二版と言いながら)の書き変え、7・17音声改竄などなどに顕著です。

そのことを隠しておいて、単純に「寺信心補強のための寺院教学」と「日蓮教学」などと言ってのけていいのか???
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72773

ここは厳しく見て行かなければならない。命懸けの依法不依人で。令法久住・立正安国の危機である。甲子園が始まる(4日目が凄い!)が「ピンチの後にチャンスあり」か?
いまソウカガッカイは三代との「整合性」を断ち、師弟を断ち、別の宗教に変わろうとしている。「そうか……ガッカリ」でいいのか?

『真実が欲しい』ジョン・レノン
https://www.youtube.com/watch?v=Gs1QMyjXwjk
 

わが友に贈る 2017年8月5日

 投稿者:どうみょうてん
 投稿日:2017年 8月 5日(土)07時23分39秒
友情こそ人生の宝物!
帰省等の機会に
親戚や旧友と交流を!
直接会って語れば
心は強く結ばれる。
 

直感と体験

 投稿者:虹の戦士
 投稿日:2017年 8月 5日(土)07時18分26秒
YouTube動画サムネイル>>この動画を再生する

直感と体験から戸田先生の言葉を
信じて生きていきます。そのほうが
楽しいし、元気が出るし、絶対的幸福に
なれるから。たとえ一人でも、
戸田先生の指導にしたがい、
その言葉をみんなに伝えたいな。
ひとりひとりが体験を語り
広宣流布していくのが創価学会
じゃなかったのでしょうか?
---------------------------------
こないだ家庭訪問にこられた創価学会
の人が〇〇の科学は宗教ビジネスと
いってましたが、現在の創価学会も
宗教ビジネスだなと思えてしまいます。
みんな本当に絶対的幸福を感じて
るのでしょうか。選挙とかお題目数とか
新聞啓蒙とか、楽しいのですか?
楽しいならそれでいいのですが。
楽しくないなら、何のためにやってるの
でしょうか?楽しい日曜日、家族と旅行に
いくはずが、感動のない座談会参加。
感動しないのは自分にも原因はあるの
かもしれませんが、やっぱり自分なら
家族との旅行を優先しますね。
---------------------------------
一丈のほりをこへぬもの、十丈・二十丈のほりをこうべきか。

一番近いはずの日蓮正宗と対話して宗門問題を
解決できない現在の創価学会がイスラム教の
人たち、キリスト今日のひとたちとの対話ができる
でしょうか。世界広宣流布の前にやることが
あるのでは?
---------------------------------

http://imagine-happy-life.tokyo/

 

先生を想う。

 投稿者:コンペー
 投稿日:2017年 8月 5日(土)04時37分15秒 編集済
入信70周年の夏。先生は今頃、戸田先生との最後の夏を過ごした長野の軽井沢にいらっしゃるだろうか…

1998年1月4日の随筆 新人間革命 「日に日に新たに」を思い出す。当時70歳のお誕生日を迎えられた先生が、ご自身の将来を予測され綴った。


八十歳まで…世界広布の基盤完成なる哉
このあとは、妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する。

永遠に広宣流布の指揮をとる。
この師匠の叫びを忘れてはならない。

どんなに変わろうと、いや変えようとも私たちの師匠は永遠に池田先生である。ある中央に近いかたが話してくれた。

「先生と自分だよ…」と。

この夏。あらためて先生の大恩に感謝する。

 

生涯&広布一筋兄弟さん・・・

 投稿者:赤胴鈴之助
 投稿日:2017年 8月 5日(土)04時13分37秒
生涯&広布一筋兄弟さん・・・反省などしていないようです。
>どなたか、創価新報のインタビューを少しアップしていただけませんでしょうか? <

校正が出来ていないと思われますが、ごめんなさい。


ヒデアキ・タカハシ欧州SGl議長

・・・師弟の原点、また欧州広布に携わることになった経緯を教えてください。

私は「鳳雛会」第-期として、高等部時代に直接、池田先生から薫陶を受けました。
1966年、先生は高等部の代表に御書講義を。

その一員として、今も鮮明に記憶しているのが、「佐渡御書」の講義の時です。

先生は「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる(中略)悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして
智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書957P)との一節を引かれ、

「これが肝心、要だよ」と力強く語られました。

"いかなる迫害に遭おうとも、自分の人生を広宣流布に捧げよう"。

そう心に決めた瞬間でした。
大学、大学院で学んだ後、本部職員として採用していただきました。
81年5月には、先生の第3代会長辞任後、初めての欧州指導に同行を。その際、欧州書記長の任命を
受けました。
それが私にとって、欧州広布に駆ける第一歩となりました。
任命当初の活動拠点となったのはフランスでしたが、当時、同国でも第1次宗門事件の影響は大きく、

私はヤマザキ欧州議長(当時)のサポートという立場で動きました。
一人一人のメンバーに先生の指導や御書講義などを通して励ましを送り、徹底して「師弟」の精神を
訴え続けました。

そして94年、先生の欧州指導の際、ドイツ総合長を拝命し、活動拠点を移しました。

・・・小説『新・人間革命』第5巻では、61年のドイツ初訪問の様子が描かれています。
昨年は、55周年の佳節でした。
欧州SGIでは今、師弟の魂は、どのように継承されているのでしょうか。

ドイツ広布の草創期を担ったのは、炭鉱労働者として日本から移住してきた先輩たちです。

当時、ドイツは経済復興の途上にあり、多くの外国人労働者を受け入れていました。
その先輩方は「世界広布」という心意気一つで海を渡りました。

生活環境は大きく異なり、言葉も通じない中、炭鉱での重労働に耐え、広布に身を投じてきた草創の

先輩の苦労は並大抵ではなかったと思います。

先達の意志を受け継ぎ、今、青年部の中核として活躍しているのは、子や孫の世代です。

現在、欧州青年委員会委員長を務めるキヨシ・オザワさんの父・トシヒコさんも、まさに炭鉱労働
者としてドイツへ渡った一人でした。
キヨシさんは幼い頃から先生の思想・哲学を学んで育ちました。

そして関西創価高校に進み、新聞配達をしながら、創価大学で学びました。

卒業後、ドイツへ戻ると、大学院で博士号を取得。知勇兼備の素晴らしいリーダーとして、誉れの
弟子の道を歩んでいます。

欧州青年部は彼を筆頭に、「異体同心の団結」で創価の連帯を拡大しています。

(ブレグジット)や難民問題など、一面で「分断」の様相を呈しています。

「分断から統合へ」・・・この考えは先生の哲学の根本であり、欧州SGIの大事な使命だと感じてい
ます。
61年に初めてドイツを訪問された際、先生はその方途こそ「対話」であると明確な指針を示されま
した。
歴史上、分断は繰り返し起こっています。

それを助長する「エゴイズム」が、人類の宿業であるならば、その中で共和の道を模索するのが、
仏法者としての生き方だと確信します。

池田先生と対談されたトインビー博士は、"歴史を創るのは水底のゆるやかな動きである"と見ておられた

結局、マスコミやポピュリズムなどによって起こされた変化というものは、"本当の変化"ではありません。
しかし、それが社会の方向を誤らせてしまうこともある。
したがって、万人の平等を説く仏法思想や、戸田城聖先生の示した「地球民族主義」などを語る、
広宣流布の対話運動こそが、人々を、欧州を、統合に向かわせる確かな道なのです。

・・・欧州SGIの今後の展望は?

次なる峰は明2018年の「11・18」、そして欧州広布60周年に当たる21年です。

現在、私たちは、「欧州広布サミット」「欧州教学研修会」を毎年開催。
各国の同志が広布前進を約し合い、心一つに出発する場となっています。

参加したメンバーは清新な決意にあふれ、それぞれの使命の天地で模範の拡大を展開しています。

さまざまな困難はありますが、「欧州は一つ、先生と共に」の合言葉を胸に、世界広布の新たな
潮流を、欧州から起こしてまいります。

 

動執生疑です。

 投稿者:アルベア
 投稿日:2017年 8月 5日(土)03時44分9秒
動執生疑です。

遠藤周作の「沈黙サイレンス」がレンタルで公開されています。いわずと知れたキリスト教の信仰についての

純文学として世界的に評価された作品です。本編の特典映像24分30秒は撮影秘話と信仰に対する問題提起で

す。
「自我機能」の働き作用における「宗教と信仰」という視点で鑑賞するならば「創価信仰」「組織信仰」と同

列の内容です。教学・教義は「自我機能」の思考・概念による現象です。「成仏」「昇天」には関係ない思

考・概念の範疇です。なぜならば「成仏」「昇天」は「体感・体験」現象だからです。

なぜブッダやイエスのような人が続かなかったのか?なぜ大聖人・日興上人以降継承する人が出現しなかった

のか?なぜ戸田先生・池田先生以降人材が出現していないのか?

御書・法華経の智慧等を通して、師弟を論じても「自我機能」により支配された信仰は何も変わらない現実を

どう見るのか?「仏の沈黙」が続いているのが創価の世界です。「思い込み」「信じ込み」「上書き」による

信念体系の構築のみを言うだけで「救済」「奇跡」「蘇り」現象が皆無であることをどう見るのか?

聖教の体験談のその後の追跡、検証が無いのがわかりますか?

「沈黙と創価について」佐藤優に聖教講演してもらえばいいのに、尻尾を振って乗ってきます。「思考・概

念」でしか語れないのです。世法を泳ぐボウフラの人です。

当然、今お伝えしている事に関しては、創価の方々は謗法・外道という「思い込み」「信じ込み」「上書き」

で汚染されているので拒否・拒絶します。

世界性・永遠性は創価にはありません。意図的な「思考・概念」の操作しかできないからです。「煩悩即煩

悩」の世界なのです。コンサルティング教団ですから、主任副会長方はご存知のはずです。言わないだけで

す。

自我機能・自己機能・意識機能の区分け・見分けはブッダ・イエスの時代にはありませんでした。当然、大聖

人の時代にもありませんでした。しかし御書の随所には、そうした見分けをされていたことが伺われていま

す。

戸田先生以降なぜ悟達を目指さないのでしょうか?「思い込み」「信じ込み」「上書き」を煽るだけの低俗な

教団主義の世界になっています。衰退の一途

人類の「自我機能」による文明、宗教は疲弊・閉塞をもたらすだけです。それが人類史でした。

この夏、夏期講習会を家族で開催し「沈黙」を鑑賞すれば、何か気づくかもしれません。無理な方々だと思い

ますが、「物語」「ストーリー」として見るならば、単なる映画鑑賞です。

「自我機能」の世界には「神」「仏」はいないのです。「胸中に御本尊がある」と言うのは「思い込み」「信

じ込み」です。わかりますか?「体感・体験」によりわかるのです。大聖人は「体感・体験」をすすめられて

いるのです。

そうです創価仏法は支配と服従と言う自我機能が作り上げている信仰集団なのです。「沈黙サレンス」と同じ

レベルなのです。ほとんどの方々はこのような話を敵視・拒否・拒絶します。自我機能だからです。「自己機

能」を冒涜する姿があるのです。

ちなみに本尊は信仰の「しるし」でしかありません。わからないと思いますが、日蓮系の「思考・概念」の世

界です。生命現象を体感できない人から見るならば「モノ化」「擬人化」の世界なのです。

「創価の永遠性」「創価信仰」とは、強き思い込み・信じ込み・上書きの自我機能の世界です。地球上の宗教

形態と同じです。特異性は無いのです。宗教形態としてはイスラムに見られる、集団合意性・血族性、または

バチカン等のような指名・選挙による執行部体制になるだけです。「慈悲」「愛」等の現象化は期待・依存だ

けで終わっていくのです。

さて「沈黙サイレンス」と同時に鑑賞してもらいたいDVDがあります。

ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」です。⇒「異次元の意識体」とのチャネリング現象を取り

扱っているDVDです。創価の思い込み・信じ込みの方々から見ると、真言密教的謗法のDVDです。

「神」「仏」は「沈黙」し、一方では「神が語りかける」⇒同時代的現象です。

ちなみに秋谷も日顕もまだ生かされています。同時代的現象なのです。

「思い込み」「信じ込み」「上書き」信仰では「開目」は現象化しないのです。教えてくれる人はいません。

毎日の聖教新聞は「思い込み」「信じ込み」「上書き」をもたらすだけの宗教ビジネスの営業パンフです。

「正法正義」不在の創価仏法です。

友人の元大学教授は「聖教新聞は、池田さんが同中に出なくなって止めた、創価信仰・池田信仰の衰退・堕落

を感じる」と語っていました。記事・内容等の質の低下が著しいとのことです。第三者は見ています。

「正法」の「正法」のたる所以は信仰者の「体感・体験」なのです。期待・依存する信仰は朽ち果てていくの

です。

私たちは朽ち果てていく宗教教団の目撃者となっているのです。「自我機能」の働き作用による信仰だからで

す。
肩書・学歴・教団幹部の方々は「自我機能」ゆえに必要なのです。「生命現象」には関係ない事なのです。ま

ずなによりも「創価」と言う概念は生命現象には無いのです。師弟不二と言う概念も無いのです。

池田先生の「沈黙」と「神の沈黙」そして「池田先生との対話」「仏との対話」自我機能の相対的現象・現実

の世界です。いろいろ「思考」してみて下さい。全ての現象が「仏の御はからい」なのです。

宿坊の夏期講習会は「沈黙」と「神との対話」を鑑賞することです。暇な方は自己研鑽を、「信・行・学練磨

の宿坊夏期講習会」は未来部の夏休み期間に随時開催⇒どうでもいいことです。すいませんでした。

「動執生疑」は、魔の働き作用かもしれません。
 

21世紀への選択 「寛容と多様性」・・・地球ルネサンスの精神 p55  投稿しました。

 投稿者:赤胴鈴之助
 投稿日:2017年 8月 5日(土)03時29分10秒
21世紀への選択 「寛容と多様性」・・・地球ルネサンスの精神 p55  投稿しました。

寿量品廿七箇の大事 からの引用です。
1、『総じては、一切衆生はことごとく如来である』

2 『別して、事の上で論ずるならば、日蓮大聖人およびその、弟子檀那のことである』

『われらが大御本尊を信受したてまつるとき、即久遠元初であり、一切の宿命転換の本源に立ち戻る』


通行人氏は1に重点を置き、生涯&広布一筋兄弟氏2に重点を置いて論じておられます。

私は、1と2との間で迷い続けている仔羊です。 獅子とは言いません・・・。(^◇^)

それは体験から出てくる感情論であることは、承知しています。

昭和40年に初登山しました、神戸から準急行でほとんど寝ていない状態で、奉安殿でのすし詰め状態で

勤行です。

その苦しい状態であっても、自然と涙が出るほどの感動で御開扉を受けました。

その後、時間が許す限り登山しています。

大御本尊様が大聖人の筆であるとかないとか、関係ありません。

それが信じ切ると言う事ではありませんか・・・それを無疑曰信というです。

生涯&広布一筋兄弟さん・・・・
どなたか、創価新報のインタビューを少しアップしていただけませんでしょうか?

了解です。
以上 鈴之助


御義口伝講義巻下 寿量品廿七箇の大事 からの引用です。

いま日蓮大聖人およびその門下の意で如来を論ずるならば、総じては、一切衆生はことごとく如来である。
だがこれはあくまで理の上で論じたものであり、別して、事の上で論ずるならば、日蓮大聖人およびその、弟子檀那のことである。
 されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者、すなわち末法に全民衆救済のために出現された御本仏日蓮大聖人の御事である。

 この無作の三身、即日蓮大聖人の宝号を、南無妙法蓮華経というのである。
これ人法一箇の本尊であり、寿量品の事の三大事、すなわち内証の寿量品に顕わされた事の一念三千の当体たる本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の三大秘法とはこのことなのである。

 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の立ち場から如来を六即に配立するならば、この品の如来は、決して色相荘厳の仏をいうのではなく、理即の凡夫をいうのである。


この御義口伝講義巻下 寿量品廿七箇の大事の講義は、昭和40年代前半の教学で使用されていたものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第三我実成仏已来無量無辺等の事。

仏とは此れを覚知するを云うなり。

大乗仏法の真髄たる日蓮大聖人の仏法は、・・・中略・・・、一念に仏界を涌現し、無始以来の宿命を転換し、力強く未来を切り開いていく実践の方途を説き明かしているのである。
 釈迦仏法は結果を重んじ、・・・略・・・日蓮大聖人の仏法は、過去がどうであったかよりも、現在の瞬間が大事であると説く。

いかに長遠の過去であろうとも、久遠元初に比べれば昨日のようなものである。しかして、日蓮大聖人の仏法は、久遠元初の妙法であり、われらが大御本尊を信受したてまつるとき、即久遠元初であり、一切の宿命転換の本源に立ち戻る。

すなわち、ただいまが久遠元初であり、未来への力強い出発となる。南無妙法蓮華経は大宇宙の変化の本源力であり、わが己身に妙法の涌現があるとき、すでに久遠元初以来の本有常住の生命の当体とあらわれ、一切を開き、一切を変え、真実、幸福に照り輝くのである。
どんな苦難の嵐も、どんな障魔の怒涛も、本有常住の金剛不壊の仏身とあらわれたる当体を破壊することはできないのである
 

21世紀への選択 「寛容と多様性」・・ 地球ルネサンスの精神 p55

 投稿者:赤胴鈴之助
 投稿日:2017年 8月 5日(土)03時23分29秒
21世紀への選択 「寛容と多様性」・・ 地球ルネサンスの精神 p55

 「憎悪の連鎖」を断ち切るために P55

池田
 先に私たちは、時代を「対立」から「共生」へと転換するための機軸となる「対話」の

精神について語り合いましたが、残念なことに、いまだ世界各地で紛争やテロが頻発して

います。

テヘラニアン
 ええ、この前(一九九八年八月)も、国際社会に大きな衝撃を与える事件が起きました。

ケニアとタンザニアの米大使館を標的とした爆破テロに対し・アメリカがその報復措置と

今後のテロ抑止を目的として、アフガニスタン領内の「テロ組織の訓練施設」とスーダン

の「化学兵器工場」を攻撃したのです。

池田
 こうした事件は、多くの市民を巻き添えにしてきました。

同じころ、カトリックとプロテスタント両陣営が和平に合意していた北アイルランド

でも、子供を含む双方の住民二〇〇人以上が死傷した、卑劣な爆弾テロが起きました。

こうしたテロという手段は、いかなる理由、どのような大義があろうとも、絶対に許され

るものではありません。

テヘラニアン
 まったく同感です。

米大使館を狙ったテロ事件の実行犯は、イスラム過激派のグループとみられていますが、

そのテロで命を失った人々の大半は、アメリカとの抗争には直接関係のない、ケニアと

タンザニアの市民だったのです。

一方、性急ともいえるアメリカの対応を見ると、世界のなかで富める側(アメリカ)と

貧しい側(スーダンとアフガニスタン)との戦争が始まったという印象が強いのです。

いわゆる"持てる側"の「北」と、"持たざる側"の「南」との争いが、もう一つの形

をとって現れている気がするのは、まことに残念なことです。

これは、軍事力の行使で解決がつく問題ではありません。

池田
 たしかに、テロに対して"断固たる姿勢"を貫き、再発を防ぐことは最重要の課題で

しょうが、その対抗手段として軍事力を用いることについては、あくまで慎重に考えて

いくべきだと私は思います。

軍事力など「ハード・パワー」による問題解決というのは、一時的には有効にみえる

かもしれませんが、長い目でみていくならば、大きな禍根を残しかねない性質を有している

からです。

テヘラニアン
 私もそう思います。

今日の国際社会が取り組むべき最大の課題は、お互いにスローガンの投げ合いをやめて、

世界平和を脅かしている貧困、無知、強欲という人間にとっての真の問題を解決する道筋

を考えることだと思います。

池田
 戦争や暴力が生み出す悲劇というものは、なにもそのときだけのものではない。

憎しみが憎しみを呼び、暴力がまた新たな暴力を招いてしまうこのことは、これまで

の歴史が示している重い教訓といえましょう。

こうした悪循環、「憎悪の連鎖」を断ち切っていかないかぎり、真の意味での平和は訪

れないし、人々の心に恐怖や不信がいつまでも消えずに残ってしまう。

互いのことを、初めから"対立する存在"として捉えるのではなく、何が障害になっ

ているのか、何が対立を生み出しているのか・・・それを見きわめる作業こそが、まず求め

られるのではないでしょうか。

そこから、平和への道も浮かび上がってくるはずです。

テヘラニアン そこで要請されるのが、「開かれた対話」の精神ですね。

それはまさに、池田会長がこれまで率先して取り組んでこられたものですが、これこそ、

二十一世紀において人類が進むべき方向なのです。

 

そのほかの道

 投稿者:サンダーバード
 投稿日:2017年 8月 5日(土)03時11分29秒
けじめは付けたほうがいいと思います

今年の11月18日にでも、現在の宗教法人・創価学会を解散

同時に、政治団体・創価学会としてスタートすればいいんじゃないの
 

(無題)

 投稿者:サンダーバード
 投稿日:2017年 8月 5日(土)02時46分54秒
先生の指導

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」

「もし創価学会が人間を抑圧する組織になったのであれば、私は創価学会を解散する」


わからない人には100遍でも、1000遍でも言ってやりたいですね

先生の指導を無視する奴、多いいですね
 

創価学会解散

 投稿者:サンダーバード
 投稿日:2017年 8月 5日(土)02時19分19秒
あの、先生が解散と言っているのですけど

だから、解散したほうがいいですよ

創価学会解散


それが嫌だったら、公明党と手を切れ

どこの政党も支持するな
 

いや、待てよ・・

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール
 投稿日:2017年 8月 5日(土)00時53分38秒
もしかして、タXハX氏、今までの自分の行為を反省しての弁でしょうか?

そうであれば、おめでたいことですが・・

でも、そういったニュースは今の所、耳に入ってきていません・・

なにせ、彼の努力の甲斐あって(大笑い)欧州社会・国々はますます分断化が進んでいます・・

その因を見なければなりませんが・・

おまけに、40度を越す毎日の天気・・

どなたか、創価新報のインタビューを少しアップしていただけませんでしょうか?
 

師の心を知る

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール
 投稿日:2017年 8月 5日(土)00時40分10秒
・・事こそ、弟子の道ではないでしょうか・・

確かに、指導の変遷はあります。それは、時に応じ・・あえて言えば現代における方便・権教かもしれない

「法華経の智慧」師匠最後の弟子に対する法華経の教え・・

容易ではないが、師匠の真の意図を知る努力こそ、弟子の義務であり道・・
 

分断から統合・・?

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール
 投稿日:2017年 8月 5日(土)00時33分8秒 編集済
内容は読んでいませんが___

団結・統合を分断・排除している本人が、何を言わんかです・・(大笑い・・止まらず)

「排除・分断のための連帯構築」の間違い ?
 

「寺信心補強のための寺院教学」と「日蓮教学」、あなたはどちらを選ぶのですか?

 投稿者:通行人
 投稿日:2017年 8月 5日(土)00時21分57秒
法華講員と会うと、ほぼ必ず言われるのが先生の過去のスピーチです。

『広布と人生を語る』(1ー230)
「現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の『遣使還告』であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである」

『広布と人生を語る』(3ー117)
「日蓮大聖人の仏法の教義は、あくまでも御法主上人猊下の御指南こそ根本なのである」

同様の文は山ほどあるわけで、法華講員は「君の人生の師匠の指導なのだから、このとおりにするのが弟子のあり方というものだろう。君は師匠に違背するのかね?師匠の言われることに独自の解釈をすることは我見ではないか」等と言ってくるわけです。

ここでそのとおりにして、「先生が指導されていることなのだから、先生の言われるとおりに血脈付法の御法主日顕上人猊下に信伏随従しよう」となるのでしょうか?

違いますね。それでは「思考停止の守文の徒」そのものです。

このような議論は20年以上も前から続いていて、その切り返しはここでは省略しますが、「師匠の言われることを、いついかなる時でも、そのままに守る」というわけにはいかないこともある、ということが首肯できるかと思います。

「自分の頭で考え、自分の言葉で表現する」ということが必要なわけです。

例えば、金原さんが「日蓮と本尊伝承」を著しましたが、「先生が一切触れていない戒壇御本尊のことを、相貌座配を個人が独自に検討し、後世造立であることを論証するというのは師匠違背である」「先生が触れないという意味、心を蔑ろにするものであり、先生の弟子ではない」「恐ろしいことである。どのような現証となるのか」「先走りだ」等というのでしょうか。

これも違いますね。
たしかに独自に考究したものですが、金原さんは真摯に丁寧に、「真実」を求めて探求、考察をされています。それは書を読めば多くの方が理解できることだと思います。

金原さんの功績によって、戒壇御本尊に関する大石寺の有り難い?説明は既に「去年の暦」と化しているわけです。

これも「大石寺教学」ではなく、「日蓮大聖人の真実」に迫る労作業だったと思います。今、この時こそ、それが求められているし、止められない段階、というか進めなければならない時に至っているとも思うわけです。

「寺信心補強のための寺院教学」と「日蓮教学」。
これをたて分ける作業無くして、これからの創価は語れないと思います。

あなたはその傍観者となるのか、居心地のいい?従来説に安住するのか、道を拓く一人となるのか、今が「その時」ではないでしょうか。
 

同盟題目

 投稿者:
 投稿日:2017年 8月 4日(金)23時49分19秒
今晩は、皆様
ありがとうございました
池田先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
原田会長、副会長、学会職員の査問指示、其の命令を実行する方々
が、真面目で誠実な勇気ある会員さんをイジメません様に
御題目をおくります
ありがとうございました
おやすみなさい
 

お詫び・訂正その四十一

 投稿者:The logic in the place
 投稿日:2017年 8月 4日(金)23時49分11秒
レ・ミゼラブル019 ?
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 5月18日(月)15時45分50秒

八 酔後の哲学

 前に述べたあの上院議員は悧巧な男で、自分の途に当たるあらゆるもの、いわゆる良心、信仰、正義、義務などと称せらるる障害物を意に介せずして、一直線におのれの道を進んできた男であった。彼はまっすぐに目的に向かって進み、昇進と利益との途中において一度も躓かなかったのである。もと検事であって、成功して性質が柔らぎ、決して悪意のある男ではなかった。自分の子供や婿や親戚やまたは朋友などにさえ、できるだけのわずかな世話はしてやった。いい方面やいい機会や不意の利得などを巧みに世の中からつかんだ。その他のことはばかげてると彼は思っていた。才気があり、またかなり学問もあって、エピクロスの弟子であると自ら思っていたが、おそらくビゴール・ルブランの描いた人物くらいのものに過ぎなかったろう。無窮とか永久とかいうことや、「司教輩の児戯」などについては、よく愉快そうに冷笑した。時としては、じっと聞いているミリエル氏の前でさえ、愛すべきおごそかな調子でそれらのことを嘲笑った。(中略)

「司教さん、エホバの仮説には私はもうあきあきする。そういう仮説はただ、がらん洞のやせこけた人間を作るには役立つばかりだ。予をわずらわすこの大なる全をたおせ、予を安静ならしむるかの無なるかな、である。ここきりの話だが底をわって言えば、そして私の牧人なる君に至当なる懺悔をすれば、私は正当なる理性を有するのである。口を開けば常に解脱と犠牲とを説く君のイエスに私は熱中することができない。それは乞食に対する吝嗇家の助言である。解脱!何物に対してか。私は一つの狼が他の幸福のために身を犠牲にするのをかつて見ない。われわれは自然に従うべきである。われわれは頂上にいる。優れた哲学を持たなければならない。他人の鼻の頭より以上を見得ないならば、高きにいる事も何の役に立とう。愉快に生きるべしである。人生、それがすべてだ。人は未来の生を、かの天国にか、かの地獄にか、どこかに所有すると言わば言うがいい。私はそういう欺瞞の言葉を信じない。ああ人は私に犠牲と脱却とを求める。自分のなすすべての事に注意し、善と悪、正と邪、合法と非法とに頭を痛めざるべからずと言う。しかし何のためにであろう。私はやがて自己の行いを弁義せなければならないであろうからというのか。そしてそれは何のためであろう。私はやがて自己の行いを弁護せなければならないであろうというのか。そしてそれは何の時に?死して後にである。何と言うりっぱな夢か?死して後に私を取り上げるというのは結構なことだ。影の手をもって私の一握の灰をつかむがいい。(中略)神というはばかばかしい怪物にすぎない。もちろん私はかかることを新聞雑誌の上で言いはしないが、ただ親友の間でささやくだけです。杯盤の間にです。天のために地を犠牲にするのは、水に映った影を見て口の獲物を放すようなものです。無限なるものから欺かるるほど愚かなことはない。私は虚無である。(中略)常に同じ無に帰する。それが真実である。ゆえに何よりもまず生きるべし。汝が汝の自己を保つ間、そを用うべし。実際、司教さん、君に重ねて言うが、私には私の哲学がある、私の哲学者たちがある。私は児戯に類した言によっておのれを飾りはしない。もとより下層の者には、乞食や研師や惨めな奴らには、何かがなくてはならない。彼らには伝説や妄想や霊魂や不死や天国や星などを食わせるがよい。彼らはそれをかみしめる。堅パンの上にふりかける。何物をも有しない者は善良なる神を持つ。まあそれくらいのものだ。私は決して反対はしない。しかし私は自分のためにネージョン氏の説を取っておくのである。善良なる神は民衆にとって善良なのだ。」

司教は手をたたいた。
「よくも言われた!」と彼は叫んだ。「あなたの唯物論は実にりっぱな、まことに驚くべきものです。だれにでも得らるるものではない。ああそんな主義を会得した暁には、もう欺かるることはないです。愚かにもカトーのように追放さるることもなく、エティエンヌのように石で打たるることもなく、ジャンヌ・ダルクのように生きながら焼かるることもないでしょう。そういうみごとな唯物主義を首尾よく得た者は、責任解除の喜びを得るものです。いかなる地位も、冗官も、位階も、正当に得られた権利も不当に得られた権利も、利益ある変説も、有利な背反も、都合よい自己弁解も、すべてを安んじて食い得ると思う喜びを得るものです。そして消化を終えて墓の中にはいると思う喜びを得るものです。まことに愉快なことです!私はそれをあなたに向かって言うのではありませんよ。けれどもあなたに祝意を表さずにはおれないです。あなた方りっぱな方々は、お言葉のとおりに、御自身のそして御自身のための一つの哲学を持っていられる。微妙で、精巧で、富者ばかりが手にすることができ、いかなるものにもよくきくソースであって、人生の快楽にうまく味をつける哲学です。その哲学は地下深くから取られ、特別な探求者によって掘り出されたものです。しかしあなたはいい方です。善良なる神の信仰は民衆の哲学であることが差し支えないと言われる、あたかも鵞鳥の栗料理は貧しい者にとっては七面鳥の松露料理だとでも言うように。」

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書籍の抜粋引用は、以下の会則

????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????

は、該当していません。

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創価新報

 投稿者:匿名希望
 投稿日:2017年 8月 4日(金)23時13分39秒
創価新報に、タ◯◯シ欧州議長のインタビューが掲載されてます。

写真は、スーツにネクタイ。やっぱり、と思いました笑。

インタビューの見出しには、「分断から統合へ 新たな連帯を構築」、とのこと。。。
 

いよいよ正体あらわれたり

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール
 投稿日:2017年 8月 4日(金)22時53分32秒 編集済
ですね・・

皆様、お久しぶりです・・

辺鄙なところにいて、停電・通電の繰り返しでノートブックの電力入力部分が焼けてしまって
しばらく、使えませんでした・・今は、治す事ができ宿坊に投稿できるようになりました。

さて、通行人氏の過去の投稿に違和感を感じていたのは私だけではないと思いますが・・
いよ、いよ、正体顕したりのようですね・・
以前にも、似た論調をする方がいましたが・・HNを変えてこられたのかな?

「日蓮本仏論の終わり」などと、とんでもない邪義です。
大聖人様、日興上人、日目上人と続きそして、牧口先生から大白法がまた蘇り、
戸田先生によってホッシャクケンポンした創価学会。
我らが永遠の師匠、池田先生の手によって世界に広められ何百万世帯の人々が救われた事実・・
この大導師たる師匠の教えのまま進むのが我ら弟子の道と信じます。
「永遠の師匠」ですから・・

弟子は師匠によって、初めて法を識り、実際に法力を体得できるわけですね。
今、先生がお出になられない時、勝手な論理を創価の正式な教義にする事は許されるものでは絶対にないでしょう。

通行人氏がそう信じ、確信をもってするならば自身その道を歩めばいい・・世界に広めればいい
あとは、地獄に行くか、仏の道に進むか・・
現証をもって・・知るべしです。

私はあくまで池田先生の弟子であり、大多数の方もそうでしょう。
世界に法を広めた、大導師である先生が明確に「法華経の智慧」で大聖人は末法の御本仏、永遠の仏・・
御本仏・菩薩仏とおっしゃっておられます。
法華経は種のごとく、仏は植えるがごとく・・・でしたが、
変えていいものと変えてはいけないものがあります。

先生とともに進む、先生と進んでいた時の幸福感、高揚感、生命のほとばしり
これは、師匠が正しいから・・我らもその功徳を身に体していたわけです・・

暗きへ陥る邪義に従ってはいけません・・従えば、暗きから抜けられなくなります。
恐ろしきことです・・・
 

同盟題目、23時より開始!

 投稿者:信濃町の人びと
 投稿日:2017年 8月 4日(金)22時52分16秒
よろしくお願い致します。
夏はお題目をあげて乗り切りましょう。
 

目に見えない世界・・

 投稿者:史人
 投稿日:2017年 8月 4日(金)22時47分30秒 編集済
「魂とは、生命の内なる状態、もしくは心そのものを指す。それは、私たちが私たちの生命を何に向けるのかということによって決定づけられる。また、それは私たちの存在そのものを意義付ける根本的な祈りでもある。人の魂は眼には見えないが、それはいざというときに行動となって現れる。それ以外にも、日々、瞬間瞬間の人の行動を意味づけるのである。
それは、根本的な生命の決定要素である。」

「祈りは目に見えない。しかし透徹した祈りであれば、やがて必ず目に見える姿になって現れてくる。それが「諸法実相」である。目に見えない世界を確信していくのが信心である。焦って目に見える世界を追いかけ、格好をつけて虚飾と形式に流される人は必ず行き詰まる。祈りの人は誠実である。祈りは心を洗い、心を深め、人格を作る。」

これは誰がおっしゃってくださったのか!? 言わずもがなである。
後記の方は母が亡くなってしまった後なので、母は知らない。
それでも、「お前や福運が切れしもとんのがわからんの!?」と言って聞かせてくれました。
そして、その亡くなった年に言われた言葉です。

そして、13年もの間、生命への感謝を忘れることなど出来ませんでした・・・。
久遠よりの諸天、妙法を正しく伝えてこられた方々への感謝等々。
もしも見えざる功徳というものが自身にとって身近な人々等々を光明で照らすとしたならば、私は功徳は要りません。

御本尊への無私の想いの訴えかけ。
境涯は開こうと思わずとも自然と開ける。
信じよう、疑うまい、感謝しようという努力は全く必要ない状態への自身の昇華。
泥水の中で蓮の花が咲くように、汚泥に染まらず、一つ心で?心を澄ましていけばよいことだと思う。

ある新聞記事で読んだ言葉を11年前の初夏に覚えました。
ある男子部の方の書いたものです。
「問題が深刻であればある程、頭で策や方法を考えても根本的な解決には至らない。答えは御本尊の前にしかない。全ては祈ることから始まるんだよ!」

つまり、頭で考える域を超えて、御本尊に自然な気持ちで心を手向けていけば、どこからか全く予期せぬ形で、御本尊と境智冥合出来るということだと思います。
特定の御本尊に対して受持の対象とするしないというような小さすぎる問題ではない!
 

信濃町のネット対策チームの対策様の おっしゃるとおり

 投稿者:虹の戦士
 投稿日:2017年 8月 4日(金)21時32分39秒 編集済
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信濃町のネット対策チームの対策様の
おっしゃるとおりだと思います。

私はどっかのお寺の手先でも、法華講会員
でもありませんが、創価学会の一人として
戸田先生の指導にしたがいます。

戸田先生なくして、池田先生なし、そして
創価学会もありません。

日蓮本仏論を否定するなら、ただの世界的な
平和団体でいいのではないでしょうか。
それならば、教義なんて必要もなく、
座談会もコミュニティで十分。
歌や踊りありの楽しい平和的な場で
よいと思います。そして創価学会の名前を
使わずに新たに団体を作ったらみんな納得
するでしょう。

世界平和麻雀愛好会とか。


ところが創価学会は伝統ある宗教団体。
勝手にいままで信じていた教義を
変えられては困ります。

イスラム教の人たち、キリスト教の人たち
その根本教義を変えると思いますか?

おかしな教義では折伏などできるわけが
ありません。みんなを幸せにできるわけが
ありません。偽りの教えを世界にひろめて
どうするんでしょうか?
---------------------------------

http://imagine-happy-life.tokyo/

 

日蓮本仏論を否定される方は池田先生の弟子ではありません

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策
 投稿日:2017年 8月 4日(金)20時50分35秒 編集済
信濃町のネット対策チームの対策です。

日蓮本仏論を否定する方の書き込みが散見されます。

大前提
①この掲示板は「池田先生の流布した教学」を「信仰する弟子」の掲示板です。

②学者のように教学を研究する方が集う掲示板ではありません。

その前提で考えて下さい。

①池田先生は戸田先生が指導された「日寛上人の教学」を「基底部」に「世界広宣流布の時代に則して」に「教学を説かれました」

②日蓮大聖人は正法時代の正師である釈尊、像法時代の正師である天台、伝教の教学を「基底部」に「末法の教学」を「説かれました」

②日興上人は日蓮大聖人の御書を「基底部」に「師の教学を宣揚」しました。

③日寛上人は日蓮大聖人の御書と日興上人の御指導を「基底部」に「止揚」しました。

日蓮大聖人、日興上人、日寛上人、戸田先生、池田先生と「正しい人」は必ず「先師」の教学を「基底部」にするのです。

結論
池田先生の弟子と名乗るなら「池田先生」が「日蓮本仏論」を「世界流布」したのですから日蓮本仏論を否定する意見の方は池田先生弟子ではありません。

当然、会則を変更した原田会長、谷川主任副会長、秋谷元会長、八尋副会長は「偽物な自称弟子」です。
皆様はこのような外道に騙されてはいけません。

追記
金原氏の本を読んだことがありますが、金原氏は「学者的な意見」と「信仰者としての意見」を併記していると感じました。

谷川主任副会長のように由佳子との整合性はどうでも良いと言う外道な意見は金原氏の出版物には無いと承知しています。

皆様はの御意見をお聞かせ下さい。



 

(無題)

 投稿者:原原時々
 投稿日:2017年 8月 4日(金)20時24分49秒
私は聖教新聞を自分が読んだり、他人にも勧める事じたいには賛成です。ただ、その購読推進の目標が高すぎて、結局は多部数購読というカタチで一部の学会員さんが負担させられている事を心配しています。
そんな事をやって目標達成しても、何の歓喜もなくただただ疲労感と金銭的負担が増えるだけです。
新聞の大拡大後の座談会でも、新聞啓蒙の事でちゃんとした活動報告ができるメンバーはいませんでした。
結局、多部数です。
折伏報告はさすがにインチキな報告はできません。だから、打ち出された目標が達成できないこともよくあります。しかし、新聞だけは全地区目標達成しています。結局、多部数です。内部で購読していない家庭に「1ヶ月はお金いらないから」と、言って入れさせてもらうことも常套手段です。内部購読率も上がりますし。
寝たきりや認知症の家族にもマイ聖教。
聖教の事は本気で考えてほしい。お願いします。
 

過去の整合性なんてどうでもいいんだ!

 投稿者:池田門下の自覚
 投稿日:2017年 8月 4日(金)20時12分46秒 編集済
好き勝手言っていいけど、少なくとも池田門下を名乗ってほしくないですね。過去との整合性を持たせる努力もせずに勝手に突っ走るなら、せめて原田門下と名乗ってほしいものです。池田門下なら、池田先生の足跡を否定するような暴走はしないでしょう。信仰は自由ですから、どうぞ勝手に原田門下で頑張ってください。我々は池田先生の弟子として師匠を否定するような言動ではなく、発展的継承をしてまいりましょう。  

『日蓮系寺院の一つにすぎない大石寺の教学』と『日蓮教学』、あなたはどちらを選びますか?

 投稿者:通行人
 投稿日:2017年 8月 4日(金)19時58分46秒
皆さん
頭を切り換えてください。
『日蓮本仏論』は近い将来、終わるのですよ。

御本尊で言えば、『本門戒壇の大御本尊⇒三大秘法総在の御本尊⇒弘安二年の御本尊』と呼称表現を変えて、以前の戒壇の御本尊の意義を薄め、学会的には存在しないも同然となりました。

現在、学会として御本尊といえば、『法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊』『本門の本尊』です。
出世の本懐も変わりました。

もっとも、変わったというよりも、『日蓮大聖人の教えに立ち返った』というべきでしょう。
これを「身延教学に同じだ」と言ってバカにしてはいけません。身延云々ではなく、『日蓮仏法の本義に立ち返るべき時が到来』したというべきであり、身延教学ではなく、『日蓮教学』というべきです。
大石寺という日蓮系一寺院の教学とは決別し、学会は『日蓮教学』に立脚せんとしているのです。

『寺院教学』のままでいいのですか?
いいわけがありません。
寺の教学は寺の信仰圏で勝手にやってもらいましょう。
私達創価学会員は、『日蓮大聖人の仏法』を信仰しているのです。『寺信心』ではないのです。
ましてや、先生が本幹で数回言明されたように「日蓮正宗とは永久に決別」(主意)なのです。
日蓮系一寺院のいう『唯授一人血脈相承を以て日蓮正統とする』などの与太話は、もはや冗談か、お笑いネタでしかありません。

思い出してください。
金原さんの「日蓮と本尊伝承」が出版された時、その論旨に納得しつつも「戒壇板本尊の位置付けを学会が変更するのはムリでは?変更するにしても何十年も先のことでは」と多くの方が思いました。また、戒壇板本尊に関して議論するだけでも、何か異端的な目で見られてしまう空気もありました。

それがどうでしょう。わずか数年で大きく変わったではありませんか。創価学会の公式見解として、戒壇板本尊の位置付けが大きく変わったのです。

『日蓮正宗のように古色蒼然たる教義解釈を墨守して事足れりとし、現実の広宣流布の伸展には責任も関心もないという立場とは全く違う』として、
『末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、ずべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく 「本門の本尊」 である。また、「本門の本尊」 に唱える南無妙法蓮華経が 「本門の題目」 であり、その唱える場がそのまま 「本門の戒壇」 となる。これは、末法の一切衆生の救済という日蓮大聖人の仏法の本義に基づいた解釈である。
したがって、「本門の本尊」 としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」 も含まれるが、それのみが 「本門の本尊」 だとするものではない。まして、「弘安2年の御本尊」 に繋がらなければ、他の本尊は一切力用を発揮しないなどとする宗門の独善的な本尊観は、大聖人の仏法に違背するものであることは明白である。』と、『本門の本尊』を前面に押し出す公式見解となりました。

『数多くある日蓮系寺院の一つにすぎない大石寺の教学』と『日蓮教学』、あなたはどちらを選びますか?

わずか数年前では考えられなかった帰命の対象たる御本尊の意義も、今では日蓮大聖人の教えへと立ち返ったのです。

さあ、次は『本仏論』の番です!
 

【定期案内】「教学部レポート」「遠藤文書」をぜひお読みください!!

 投稿者:信濃町の人びと
 投稿日:2017年 8月 4日(金)19時02分26秒
■公明党が何故、変質したのか。理由は学会の現執行部の狂いにあります。その狂った様子がよくわかります。

遠藤文書では原田会長の指示により人権無視の実態、携帯電話を取り上げるなどの査問の有り様がうかがえます。なぜ怪文書と騒いだのか?執行部の魂胆が透けてみえます。

********************
【教学部レポート・遠藤文書を希望の方】
こちらをご覧ください。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64034

【教学部レポートとは】
http://sgi-shiteifuni.com/?p=10270

【遠藤文書】
http://sgi-shiteifuni.com/?p=2096
 

九識心王真如の都!

 投稿者:螺髪
 投稿日:2017年 8月 4日(金)18時40分5秒 編集済
 「無明」とは、「明らかなることなし」、つまり分からないことです。難しく考える必要がないことに気づきました。分からないから、父母等から受け継いだ、持ち合わせの智慧で考える、対処しようとする。しかし、それでは「分からない」。だから、無明です。そこに、「明らか」にする智慧が必要です。その智慧の持ち主が「師匠」です。

 「無明は明かなること無しと読むなり」(三世諸仏総勘文教相廃立564㌻)
 「我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり 故に明と無明とは其の体 只一なり」(三世諸仏総勘文教相廃立570㌻)

 「無明とは昔愛欲の煩悩起りしを云うなり」(一念三千理事406㌻)

 「悲観」で見れば、何も「明らか」になるものはない。「楽観」や「希望」や「清浄」の上に「明らか」があります。「楽観」も、「希望」も、「清浄」も、自らの意思で、自らの智慧で、自らの手で、自らの上に造るものです。それが、一番確実だし、一番強い。「無明」とは「昔愛欲の煩悩起りし」とあることから、「貪り」に起因するのは間違いありません。

 「九識心王真如の都」の「都」は、「の」の一字を“同格”の助詞と読むか、何々の中にある所有格の助詞と読むかで違ってきます。
 いま、仮に、「都」を「清浄」と読んでみます。「九識心王真如」は「九識論」ですから、その極地は「根本浄識」です。「の」を所有格と読めば、「九識心王真如」という「仏性」は、「都」という根本浄識(=清浄)に住むという読み方ができます。所有格というのは、“囗(くにがまえ)”と言えます。「清浄」はその意味で、「明」(⇔無明)の“土壌”です。“母なる大海”です。

 「根源」を「明らむ」ためにあえて踏み込んでみます。
 「夢は必ず叶う」「何か意味がある」「信じるものは救われる」「冬は必ず春となる」――希望を湧き立たせ、心を清浄にするという点でほぼ同じ主旨の「言葉」です。だが、どうしたらそうなるのか、その知見に入れるのかの“根本”が、いまひとつ「明らか」ではありません。何か、もっと根源のものがあって、その「知見」に入れるというものです。

 「衆生所遊楽」。これは体感です。すべて「遊楽」と見れば、「遊楽」、つまり「喜び」が体感できます。「一念」の“囗(くにがまえ)”というのは、実に、そのことと仰せと拝せます。苦行とみれば、すべて苦行、楽しみと見れば、すべて楽しみです。

 ここまでは、「初めに言葉ありき」と同じ次元かと言えます。

 佐藤優氏の「神学の思考」に“キリスト教とは何か”の記述があります。この板では評判の悪い氏ですが、キリスト教への知見は深いと見ます。こうあります。

 「イエス・キリストが救世主であることを受け入れることによって、われわれ一人ひとりが救われたと確信できることがキリスト教の本質だからである」(「はじめに」から)

 「キリスト教は、救済を目的とする宗教です。より正確にいうと、『真の神であり真の人であるイエス・キリストが唯一の救い主である』ことを信じることによって救われる宗教です」(著書・神学の思考12㌻)

 ノーマンカズンズ氏の言う「楽観主義は意思のものであり、悲観主義は気分のものである」の方が、「意志」という点でむしろ現代人には馴染み易いでしょう。

 「己心の法」ということですね。


 

(無題)

 投稿者:ピンクの象
 投稿日:2017年 8月 4日(金)18時13分5秒
ルピナス様

教えていただき、ありがとうございます。

私の家には古い本しかなくて・・・

結局最初から考えると、かなり変わっているということなのですね。
こんなに変えては意味が変わってしまいます。

私は初版の文章が好きです。
改定版では新聞の記事のような感じを受けます。

何であれ、先生の心をしっかり受け止め、人間主義の創価学会を取り戻すべく
今日も暑くても、一対一の真心からの対話で頑張ります!
 

(無題)

 投稿者:ルピナス
 投稿日:2017年 8月 4日(金)16時30分2秒
ピンクの象様

人間革命の改訂前と後の文章を載せていただいていますが、現在はワイド版(第二版)に変わっております。
したがって、残念なことに、旧来の物は、古書店やネットオークションなどでしか手に入りません。

現在の人間革命では、ご指摘のところは、もっと驚く改訂となっております。
ピンクの象様が、改訂後とされている文章から、『また、形式的な手続きや小手先の理論で、~また、取る必要も認めないのである。』までが削除されています。
そして、『あくまでも、一人ひとりとの対話こそ根本である。』の一文が加筆され、『どこまでも、牧口会長以来の、伝統の座談会を~』と続きます。
 

俗にいうPRなど、学会には、絶対に必要ないのだ

 投稿者:ピンクの象
 投稿日:2017年 8月 4日(金)13時15分34秒 編集済
学会は宣伝してはいけないのではとのお話がありましたので、
人間革命の抜粋を投稿させていただきます。

人間革命(2巻) 光と影                       < P117  昭和41年6月1日8版>

講演会もいい。大集会もよかろう。
しかし、それらのみでは、指導者と、被指導者との間に、間隙が自ずから生ずる。
更に、形式的な、小手先の理論、政略の糸のみで、あやつろうとしても、民衆は賢であり、その糸は、いつかは切れてしまうものだ。
そこには、必然的に、巧妙にして邪智な舞台裏が考えられるようになり、裏表のある不幸な現象が生じて来る。

ある人は利口気にいう。布教にラジオを使うべきだ、テレビを使用すべきだ‐と。
なんと浅墓な言であろうか。
俗にいうPRなど、学会には、絶対に必要ないのだ。
それこそ、多くの新興宗教の取るべき、悪質な企業宗教の手段にほかならない。

正法は、断じて法を下げるような方法は取らない。取る必要がないのである。
この座談会こそ、牧口会長以来の、学会の尊い伝統なのである。




人間革命(2巻) 光と影(改定版)                   <P108 昭和58年4月10日改定37刷>
*前後の流れはかなり変わっています。その上で、

<改定後>
講演会や、大集会を開くのもいいだろう。
しかし、それだけでは、指導部と大衆とのあいだに埋めることのできない溝ができてしまう。
また、形式的な手続きや小手先の理論で政略的な糸を張りめぐらし操ろうとしても、
大衆は賢明である。
糸は自然に切れてしまうものだ。
仮に糸は切れないとしても、いつか巧妙で邪智な人物が現れ、
糸は複雑に入り乱れて、動きが取れなくなってしまう。

また、ある人は、利発そうに言うかもしれない。
-そんなにいい宗教なら、なぜラジオや新聞でもっと宣伝しないのか、と。

なんとあさはかな言葉であろうか。
地獄の苦しみに落ちた人間を、救うことができるかどうかが、あらゆる宗教の存在価値を
決める尺度である。
そんな時に美しい宣伝文句を並べて騙すのは、きまって悪質な企業宗教である。

それに対し学会は、また正宗は、法を下げるような方法は断じて取らない。
また、取る必要も認めないのである。
牧口会長いらいの、学会伝統の座談会を、生きいきと推進しつづけるかぎり、
広布の水かさは着々と増していくであろう。


改定後は、テレビという言葉が入っていないので、変わったのかな・・・・?
わかり辛い文章だと思いますが・・・
皆様はどのように思われますか?
 

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