書き込まなくても定期的にアクセスしてくれる方たちがいる。やはり週に1、2回はくだらないことでも書き込むのがブログというものか。

 パチスロ業界のルーツを正確に記すには、まだまだ取材が足りない。で、今回は東京パブコ(後のアークテクニコ、ジャパックス)の古田収二のルーツについて。そう、か。パチスロ草創期の立役者一人一人を、それぞれ照射して辿ればいいのだ。そこで相関図も克明になるのかもしれない。

 東京パブコ。当初は古田と、ハンナン(阪南畜産)の浅田満とは食肉業界を二分していた焼肉業界のドンNとの共同経営会社だった(これが後述する脱税指南役の中企連参与の中谷善秋かどうか不明)。浅田もそうだが、Nも当時の大企連、中企連(大阪・現ティグレ=当時社会党の上田卓三会長)の会員。上田は旧社会党副委員長で部落開放同盟の委員長をしていた。同和である。同和という国税の「脱税黙認」時代にこの中企連を活用しての会員企業脱税も少なくなかった。これが後に、昭和61年(1986年)4月に、大阪地検特捜部が摘発した大型脱税「パチスロ事件」だ。東京パブコと系列4社の脱税37億1200万円。当時としては史上最高額。
 これに関連して、古田の紹介で角野のマックス製作所も摘発を受けている。この場合、角野はその仕組みはおそらく分かっていなかったのではないか。この事件の摘発により、公判の判決によりその後古田は収監され、出てきたのは確か7年ほど前だったと記憶する。マックスはこのため「バルテック」で別メーカーを役員の佐藤氏名義で立ち上げる。さらにその後、角野はマックスアライドで再スタート。東京パブコも社名をアークテクニコで、さらにメダル補給部門でジャパックスを高田名義で立ち上げた。なお、この同和とパチスロ事件については、宝島社の「同和利権の真相」に詳しい。今なら文庫本も出ている。タブーに切り込んだという意味では当時(02年)としては先験的だったともいえる。ちなみに、その当時、東京パブコ系の僕の友人がパチロット組合を作るのに、やはり資金調達などでティグレに走りこんだことを証人として知っている。彼から聞いた話だが、なんとそのティグレ本部には月に定期的に、あの平澤勝栄が訪れていたという。ここに、警察庁保安課長当時からの業界への介入度が、パチスロ業界を通じて平澤の利権にまで及んでいたことがうかがい知れる。
 今や、故後藤田正晴、亀井静香に代わって、業界利権の警察キャリアOB政治家での特等席に座っているのはコイツだ。議員当選でかなりの協力をした東京のホールHやTなど、遠隔操作がなぜ摘発されないか。コイツである。●千万円の献金、礼金では効果がない。億単位の金を払えばなんとかなる・・・らしい(>ё<未確認)。

 さて、日電協創設前夜に話を戻す。設立が昭和55年だからその1年前、もしくは2年前までもならないと記憶しているが、日電協の前身である「大阪府指定遊技機組合」が鶴橋の近くにあったビルの一室を事務所にして出来ている。角野との関係もあって、僕は何回かそこに出入りした。角野、山脇、濱野などで作って、これを正式に協同組合にしていく動き。つまり日電協設立のためのベースだ。ここに、当時はまだマックスの社員だった徳山謙二朗(現・日電特許社長)、松浦などが常駐していた。以前に書いた草創期の3グループが一緒になって組合設立に動き出したのである。ここで、なぜ、瑞穂製作所がパチスロに初期参入したかのヒントもなんとなく読めてくる。同じ大阪メーカーで瑞穂は藤商事とともに唯一の遊技機製造工場を有していた。尚球社(現岡崎産業)に高山が関わっていたが、尚球社の初期の機械は瑞穂の中山がその筐体を提供したらしい。当時の2社のパチスロは、ブランド名が違うだけで、おそらく同じものだったのだろう。