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3こころの時代〜宗教・人生〜「ほっとけない ただ共にある」 2017.07.29

阿蘇外輪山の麓人口7,000の…去年4月の熊本地震で大きな被害を受け今も800人ほどが仮設住宅で暮らしています。
震度7の激震と相次ぐ余震で西原村では6割を超える家々が全半壊しました。
アハハハハありがとうございます。
ちょっとだけ役に立った。
お母さんの実家は?鈴木隆太さん41歳。
地震の直後から西原村で復興支援の活動を続けています。
鈴木さんは阪神淡路大震災をきっかけに生まれた被災地支援のNGOに所属。
20年以上にわたり地震や水害などさまざまな災害救援に取り組んできました。
西原村で特に被害の大きかった…道路や宅地が地盤もろとも崩落。
家を再建するには多くの費用と時間がかかります。
ふるさとに住み続ける事ができるのか厳しい選択を迫られています。
やっぱり住宅の再建ってただ家建て直すっていう意味だけじゃなくてこれからどうやって生きていくかっていう話だと思うんで。
今から例えば年齢の高い方が新しい所移っても知り合いの人がいなかったりとか今まで自分が住んでた所の暮らし方と多分違う部分とかかなりあるだろうし。
うん。
これからですね。
村にある一軒家が鈴木さんたちの活動拠点です。
NGOのスタッフや遠方から来たボランティアたちがここで寝泊まりしながら支援活動を続けています。
鈴木さんは今古閑地区の人たちに頼まれある地図を作っています。
地区に残り家を再建するのか離れた場所に移転し生活を立て直すのか。
住民全28世帯の意向を聞きまとめています。
そこで再建をするのかまた別の場所に移るかも含めて今まだちょっと検討中であるっていう方で。
また別の方が入ってくるなりとかっていう時はうちの土地を使って頂いていいですよという事で黄色になっていて。
一応色分けになってます。
こちらの方は…もう既に雨で崩れて土砂がまた流れてしまってる所もあるんですけど…こういうふうな形で道路をひいたらどうだろうっていう皆さんの意見を一応ここに入れているという感じですね。
住民の意向は村の復興担当課とも共有。
行政との橋渡しをする事で少しでも早く落ち着いた暮らしを取り戻してもらうためです。
地震からの復興って1年2年で終わる話ではないっていうのはもちろん神戸の震災の時からずっと感じてる事だしむしろこれから地元の方々がふんばっていかなきゃいけないっていう場面でもあるんでなんかこんな事したいんだっていうふうに思われてる事をこうそうね…支えるっていうよりもなんか「一緒に」っていう感覚の方がやっぱり強いですね。
うん。
一緒になんか…復興に向けて一緒に取り組んでいくっていう感覚でお手伝いしてる事の方が多いですかね。
うん。
鈴木さんにはもう一つボランティアとは別の顔があります。
佐賀県の山あい6代にわたって続く曹洞宗…鈴木さんはこの寺の副住職をつとめています。
鈴木さんはボランティアの現場で妻育子さんと出会い26歳の時に結婚。
育子さんの実家の寺に入りました。
月半分ぐらいですかね…熊本いて。
月半分ぐらい佐賀にいてという感じですね。
曹洞宗の開祖…鈴木さんはその教えの中に被災地での活動に通じるある言葉を見いだしました。
たまたま自分が今ご縁を頂いているその曹洞宗という宗派の中で永平寺を開かれた道元禅師が「正法眼蔵」というものを書き残していらっしゃる。
その中の一つに「同事」という言葉が。
「事を同じくする」。
相手の気持ちに立つとか相手と共にあるとかそういう姿である事が大事だというふうに説かれていますね。
心惹かれるというか今まで自分がやってきた事とそれに対しての道元禅師からの回答じゃないけど何となくこう…触れたなっていう。
例えば……という言葉があって要は海というのはどんな川の水であろうとどんな水であろうと全てを受け入れていく受け止めていく。
その海の姿そのものというのがもう同事であるっていう。
分け隔てのないという。
その事っていうのが…私自身にとってとても大事な事なんじゃないかなというふうに思っているところなんですけどね。
うん。
鈴木さんはこの時初めて被災地でボランティア活動をします。
当時出身地の名古屋で浪人生活を送っていた鈴木さん。
被災地へ向かったのは予備校でのふとした出来事がきっかけでした。
朝起きたら阪神高速道路がこう倒れてる映像というのが一番最初に目に飛び込んできて。
何が起こったのか最初ね理解ができないというか。
でも朝その予備校で一緒だった人たちと話をしてる中で…。
…って言ったやつがいて。
この地震を受けてその発言として。
その感覚にすごく驚いてしまってというのかそれに対してこう何ていうのかな否定できない自分もいて。
真っ向から。
ただそこに自分がいるっていう事にすごい違和感を感じたというか。
割とそれがきっかけの言葉になったところはあるかなという気はしますね。
鈴木さんは地震の1か月後神戸に入ります。
向かったのはピーク時には3,000人以上が身を寄せていた最大規模の避難所でした。
行ったら何かできる事あるのかなと思って行ったけどまあ…。
もうだから何というか目に映る状況全部が「どういう事?」という状態。
火災の跡もあったり家が傾いてる電信柱が傾いてる。
この先ここはどうなるんやろうというのも分からなかったし。
何というかなこう…「想像を絶する」っていうのはこういう事なんだろうなっていう思いはあってその中で避難所になってる小学校のグラウンドで俺ぼ〜っとしてたらそこに避難してるおばちゃんがつかつかって来て「あんた何しに来たん?」って言われて「ボランティアです」と言って。
「ボランティアボランティアってそんな別に何か頑張らんでも一日一個何かしたらええんちゃうん」って言われたんですよね。
そんなおばちゃんがおって「そんなんでいいんや」と思ってできる事をやろうというので始めたのがきっかけかな。
うん。
え〜っとね車いす…障害を持った方が車いすでその学校のグラウンドにある体育倉庫の裏で体育倉庫と金網の間で上にブルーシートを張って避難生活をして「体育館とかって入らないんですか?」と言ったら「いやいやもう車いすやし。
迷惑かけるから」って。
障害をお持ちの方とかと接する機会っていうのもほとんどなかったし。
うん。
そういう事ひとつとってもすごく衝撃だったですよね。
衝撃というか印象的というか。
「ちょっと悪いけどトイレ手伝ってくれへんか?」って言われてその時に尿瓶を使ってトイレ介助をしたんやけど「すまんな」って「ごめんな」って言ってはってこういう状況でなおかつ見知らぬ人に頼まなきゃいけない。
「すまんね」「ごめんね」って毎回言わなきゃいけないってそれこそきついやろなって。
大変な状況だけどそういうところで目に見える事柄っていうのが自分が今まで何も知らなかったという事をこうなんかまざまざと教えられるというかそんな事の連続だったような。
なんかそれを消化するのに精いっぱいだった気が。
神戸には半年で100万人を超えるボランティアがやって来ました。
どなたかいらっしゃいませんか?しかし徐々に避難所が閉鎖されるとその多くが神戸を去っていきました。
そんな中仮設住宅への引っ越しの手伝いをしていた鈴木さん。
仲間から思わぬ言葉をかけられます。
「いつまでやってんだ」と。
「責任が持てるのか」と。
自立の妨げになってるんじゃないかって言われて。
いや俺すごいびっくりしてというか避難生活をしてる方々の自立の妨げになる。
そんな大した事してるわけじゃない。
我々ボランティアというか。
やってた事っていうのは。
それがその甘やかしてるだの自立を妨げてるだのっていう今でも多分その話って出るとは思うんですけど。
そういう話が出る度になんか何ていうのかなどこかしらこう目線が上であったり対等じゃないなっていう感覚があったり。
その人に対してその思いをはせていないというのか。
でも人それぞれのタイミングがあって例えば仮設の入居の期限が迫っている状況の中で次自分が例えば住宅の再建ができないとしたらじゃあどこで生活をするのか公営住宅に入るなり何なりっていう決断を自分自身でしていかなければいけないっていう事をご本人が一番分かってる事じゃないですか。
多分人それぞれのタイミングはあろうけどもそういう時期っていずれにせよきて…くる事だろうし。
う〜ん…。
それはその何ていうのかな…。
自立…う〜んそう。
自立ができないとかっていう事自体が甘えだとかって言ってしまう社会って非常に冷たいなと思うなっていう気がする。
自分はそういう事を言える立場だからいいのかもしれないけれどもいざ自分がそういう立場になった時にその言葉やっぱ投げかけられたらどう感じるのかっていう事。
震災から3年。
鈴木さんは仲間たちと被災地支援のNGOを立ち上げます。
「一人一人に寄り添い最後の一人まで救う」。
地域の自立を見据えた息の長い支援活動を目指しました。
やっぱりいろんなところがどんどん復興していく中でも取り残されるという人がどうしても出てしまうだろうしそういう中でそういう人にもちゃんと目を向けるというか。
仮設で神戸の時だって孤独死っていって誰にも気付かれずに亡くなる方がいらっしゃったりとか。
うん。
結局つながりがないから。
なくなってしまって切れてしまってどこかのタイミングで切れてしまって結果的に1人で亡くなってしまうっていう。
神戸の時なんかは「最後の一人までの復興を」っていう事をこう言葉に意識して活動をしてた。
そこはすごいやっぱり意識するかな。
「最後の一人まで」っていうところは。
うん。
その後鈴木さんは9年間神戸で活動を続けました。
そして被災地で人を支える事を生涯の仕事に決めます。
幼い頃は内向的な性格だった鈴木さん。
今の仕事を選んだのには当時抱えていたある悩みが影響しているといいます。
ちっちゃい頃からアトピー性皮膚炎を患っていたので割とそれが良くも悪くも性格にすごく響いてた部分はあるかなという。
やっぱ小学校入ったりした時にやれ気持ち悪いといっていじめられたりとか運動会で誰かと手をつなぐみたいなのも嫌がられたりとか買い物に行ってお釣りをもらう時とかも相手の顔色をうかがうというか。
自分の事気持ち悪いと思ってるんじゃなかろうかとか。
っていうふうになんかすごく人の顔を見てしまう。
すごい否定的に自分の事ずっと考えていたんじゃないかなというふうに…。
相手にとってみて自分の手が気持ち悪いと言われたら「気持ち悪いんだろうな」しか思えないから。
何ていったらいいかなその…うん。
それに対してそんな事ないわって言えないじゃないですか。
多分自分自身がどっかで理解してほしかったからだろうね。
と思います。
自分がしんどい時に理解してほしかったっていう思いはずっと持ってたしもう何ていうのかな人の痛みは分かりたいって思ってたところも。
いじめるやつとかいじめる人とかやれ気持ち悪いって平気で言える人にはなりたくない。
実際目の前で大変な思いをされているんだろうなという人たちの事を考えたら何かをせずにいられなかったってところではあるんですけどね。
鈴木さんが毎年のように訪れる場所があります。
すいません忙しいところ。
お〜どうもどうも久しぶりです。
かつて支援活動を行っていた新潟県中越地方です。
久しぶりです。
元気ですか?あ〜おかげで…。
よかった。
口だけは元気です。
(笑い声)地元の人たちとの交流は10年以上続いています。
(中継音声)山古志村の上空です。
画面中央に見えている崖が大きく崩れています。
2004年に起きた新潟県中越地震。
大規模な土砂崩れが発生し全村避難を余儀なくされた山古志村など山あいの地域が甚大な被害を受けました。
鈴木さんが現地に入ったのは地震から1週間後の事でした。
・どうも。
・寒っ!寒いですよね。
地元の支援グループと協力し各地からやって来るボランティアに仕事を割りふるなど調整役を担いました。
更に仮設住宅が出来ると神戸の経験を生かし被災者の孤立を防ぐため一人一人の声に耳を傾けました。
半年後には家族を呼び寄せ一緒に暮らし始めます。
現地に腰を据えその後4年9か月にわたって被災地と向き合いました。
きっかけでしかないなと思っていて。
ボランティアってなんか声高に言うほどの事でもないだろうし。
最初のきっかけはボランティアで来ましたっていう。
私もやっぱ便宜上…。
今でも例えば熊本行って「どこから来たんですか?」って言われたら「佐賀からボランティアで来ました」って便宜上使いますけど…きっかけとして。
でもなんかねそれから何回か会う中で相手の名前が何となく分かって向こうも何となく自分の名前を覚えて下さったりとかってしていく中で当たり前の話人間関係って生まれてくるじゃないですか。
でもなんかむしろどちらかといったらそういう事の方が大事なんじゃないかなというふうに思うのでそれほどボランティアだから被災者だからっていう事にとらわれすぎるのもどうなのかなって。
それにとらわれすぎていくと本来自然な人間関係っていうもの自体が今度なんか見過ごされていくというか。
それはボランティアのやる事じゃないからとかっていう話がよく出てくるじゃないですか。
例えば農業で今ちょうど農繁期だから本当はしなきゃいけないけどでもそれはボランティアがやる事じゃないからとかって「いやいや誰が決めたん?それ」っていう。
いろんな年齢も問わずいろんな人たちがいろんな形でつながりをつくっていく。
つながっていくっていう事が大事なんじゃないか。
そのための最初のきっかけが多分ボランティアって事なのかなっていうふうには。
いろんな方々がいろんな形でつながって…つながる事によってどんどんこう孤立をするかもしれない人っていうのが減っていきますよね。
かつては33世帯86人が暮らしていましたが地震のあと住民は半分にまで減りました。
しかし人々は以前と変わらない山の暮らしを続けていました。
あの…すごいんですよ。
何ていうかな…。
あの…こう…。
その人たちから四季を感じるようなそんな暮らし方をしてて。
雨が降ったら家にいて晴れてたら畑行って田んぼ行って。
で春になったら作付けして。
夏は夏野菜育てて。
秋になったら刈り取りして。
冬は冬で家に閉じ籠もりながら時々近所で集まってお茶会を自分たちのうちでしたりとか。
「何にもない所だけどおらここが一番いいや」ってぼそっと言われたりとか。
地震後避難生活で息子のところに行ってスーパーとか行ったら平らで駄目だって言うんだよ。
「平らで歩きにくい。
うちに帰ったら山坂があって私はずっとそういう所で生活をしてきたから坂がある方が歩きやすい。
山に行きゃどこに何があるかも大体分かるし」って。
スーパーと大体同じような感覚で山を見てるっていうのもすごいしとにかくその人たちが言ってる事に耳を傾けているとすごいなって思う事の連続だった気がするんですよね。
栗山沢地区で鈴木さんは山あいの土地ならではの被災地支援に取り組みます。
月に一度街から学生を呼び一緒に畑仕事をするなどイベントを企画。
3年間続けました。
ある時1人暮らしの井田ヤスさんが学生と交わしたやり取りを鈴木さんは鮮明に覚えています。
田植えを手で植えて秋になったら刈り取ってそれを天日干しして。
すごいお米をいとおしそうに作るおばあちゃんなんですけど看護学生が「ここってすごいいいとこですね」って。
「住んでみたいわ」って言ったらヤスさんがすっごいうれしそうに「ああ住んだらいい。
住んだらいいよ」って。
「ほんで何年かしてこんなばあちゃんがいたなってたまにおらの事を思い出してくれたらそれでいい」って。
それをなんかこう横で聞いてた時にすごいそうやってうれしそうにっていうか明るく言ってるヤスさんの姿を見て…。
誰かとつながるっていう事で人が元気になるってこういう事なんかなっていう事を教えられたというか。
例えば何年後か自分がひょっとしたらいないかもしれないけどその時にそうやって自分の事を「こんなばあさんがいたな」って思い出してくれたらそれでいいって。
誰かの中に自分の存在が生き続けるというか。
っていう事がなんかこうすごいうれしいというか。
誰かに覚えててもらえたら私はそれでいいんだって。
それで私はすごくうれしいんだよっていう事をすごい表現してるような気がして。
やっぱ人って人によって癒やされたり元気にされたりとかってするんだなって事をすごく教えてくれた。
だからこそやっぱいろんな人がつながっていくっていう事ってほんとに大切なんやなっていう事を教えられたですよね。
うん。
地震後栗山沢地区の平均年齢は50代から70代に。
高齢化で山の暮らしの担い手が減れば都市の暮らしにも大きな影響があるといいます。
都市部と中山間地っていわば川でつながってるんですよね。
大体都市部って下流域にあるじゃないですか。
東京だってそうだし名古屋だってそうだし大阪もそうだし。
そうやって実は生活している我々っていうのは川を通じて上流の人たちの暮らしの営みの中で治水をされていたりだとかっていう事で実は我々生かされてるというのか。
自分たちの生活が実はそもそも支えられていたんだという事に気付かされたんですよね。
単純に棚田って地形的にそうせざるをえないからって部分もあるかもしれないけどそれ以上に自然の天然のダムみたいな意味合いがそもそもがある。
あそこは土砂崩れが多い所でだから治水をしっかりしなきゃいけないっていった時にあの棚田をつくって。
風景自体もすごくいいけれども。
その棚田ってそれだけじゃなくて治水の役割を果たしていたとかっていう事も。
それが結局下流に水や土砂がいかないようにするっていう効果ももちろんあっただろうし。
だからもっと多分言うと今後本来ならばそろそろ伐採しなきゃいけない杉の木だとかっていう植林をしてきた木がいっぱいあるけど結局そのままになってる地域がかなり多い。
それがそのまま手つかずのままにしておいた時に人手がいないというところでそのままにしておいた時に今度その…。
いつどこでどんな大雨が起きるか分からないってところでそういうのがどんどん土砂崩れとかって起こしていったらそれが今度流れ出して流木とかが下流域に被害を及ぼしたりとかっていう事にもなりかねないとなると実はここでもともと住んでたその暮らし方の意味って森とか林とかを管理するっていうのも単純にそれを収益として杉なり檜なりを育てて木材として売ってっていうだけじゃなくて…。
そこの管理をする事で下流域の生活に支障がないように被害が出ないようにしてくれていたっていう側面は大いにあるんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
人口が減っていく中でお金をかける意味があるのかみたいな。
だったら町なかにおりてもらってでかい公営住宅を建てればいいじゃないかっていう話も多分議論としてはあったと思うんですけどね。
でもそこにいる人たちがそこにいるという事をよしとされるっていう社会にならないと例えばその…。
農村部とか中山間地とかで暮らしている人たちの営みによって支えられてる都市部の生活っていうものが例えば場合によっては危険にさらされるような事につながっていくのかもしれないし。
場合によっては効率を優先する事によって誰かの暮らしを切り捨てていくっていう事がまかり通る社会になっていくならばいずれ何かの時に何かが起きた時に自分自身がそういう立場に立たされる可能性だって大いにあるってなった時にやっぱり…。
誰かを切り捨てていく社会を目指すというよりも共にいる事ができる社会っていう事をやっぱり目指していくべきなんだろうなというふうに。
大層な言い方になるかもしれないけど。
それってまさに「同事」っていう事を追究というか深めていくというのかそういうありよう在り方っていう事がすごく大事になってくるんだなという事を感じますね。
うん。
じゃあそれができてるかというと多分できてないからすごく意識するんだろうとも思うんですけどね。
できてない部分も多々あるからだと思うんですけど。
2011年3月11日東日本大震災が発生。
地震直後の1か月だけで全国から11万人のボランティアが駆けつけました。
この時鈴木さんは被災地へ支援に行く事ができませんでした。
長崎にある寺で僧侶として本格的な修行を始めていたのです。
(鐘の音)世話役の方かな修行…修行僧を面倒見て下さる世話役の方から聞かされて。
よくよく聞いてみたらね大変な事になってるというので。
なんかこれ何かしなきゃいけないんじゃないか…。
知り合いの友人気仙沼にいる友人に連絡してももちろんつながらないし。
ひょっとしたら何か手伝いに行かなきゃいけない行くべきなんじゃないかと思ったんですよね。
ほんで翌日ぐらいかな。
修行僧を指導して下さるそのご老僧の方に相談をしたんだけど。
その時に「お前何しにここに来たんだ」と言われて。
「お前が行って何になるんだ」って言われて。
まあ結局手伝いに行く事はかなわなかったんですね。
何のために今自分がいるのかって言われて何とも答えられない自分もいたし。
とはいえなんか大変な状況の中で何もできない自分というもどかしさもあったし。
結構何ていうのかつらかったですねその時は。
すごいつらかったですね。
多分行ったら帰ってこなかったんだろうなとも思うし少し行かせて下さいってその「少し」がどれだけになったかも何年後になったかも多分分からないし。
でも少なくともその修行道場に入って修行させて頂くっていうところのその…。
いろんな人たちから支えられてそこまで来てたっていうのも事実。
お檀家さんもそうだしよそのお寺さんにもいろんな形で支えて下さったりとか。
その方々の何ていうかそういう思いも全部むげにしていたかもしれないなって思うんです。
もし行ってたら。
もどかしいですよね。
なんか動けない自分に対してイライラもあるし。
「ボランティアのくせにいつまで関わるつもりだ。
それに対してどこまで責任持てるんだ」と言われた事への自分なりの回答としてやっぱずっとつながっていく事つきあいっていうか人としての関係を続けていくという事だって思っていたからそうする事が正しいみたいな思いをどっかで持っていて…。
でもそれは「被災地に行ってつながる事で」っていう事が大前提としてあったと思うんですけどそれ自体がかなわないってなった時に今までそうできてたからそうやって言えてたけどっていう部分に関して…えらいおこがましい事を言ってたんだなと片や思うようにもなったというか。
動けてるからそう言えるけどいろんな環境があって動けないっていう人たちも中にはいてそこに対しての思いをはせていなかったんだなという自分自身思うようになったっていう部分もあるし。
その事を改めて確認させられたりなんか改めて気付かされたりというのか…。
という時期になったんじゃないかなっていう気がします。
鈴木さんは長崎での修行を終え妻の実家の寺の副住職になりました。
これを機に被災地での長期間の支援には区切りをつけたつもりでした。
そのやさき最大震度7の激震が熊本を襲います。
熊本までは車で2時間。
鈴木さんは被災地に向かう事を決意します。
ほっとけない。
ちょっと車で走れば来れる距離というのもあったし。
実際何ができるか。
どんなふうにできるのか。
全然自分では分からなかったからあれだけど。
それこそ最初は手探りでやったんですよね。
鈴木さんは寺の仕事の合間を縫って熊本に通い始めます。
拠点にしたのが西原村です。
NGOの調査で被害が大きい割に支援の手が行き届いていない事が分かっていました。
中でも葛目地区は10世帯全ての家が地震で被害を受けていました。
ほとんどの家に倒壊の危険を知らせる赤い紙が貼られていました。
この紙に法的な拘束力はなく住むかどうかは最終的には住民の判断に委ねられています。
頑張れ〜稀勢の里!はい頑張れ頑張れ!ああ〜押せ押せ押せ!ああ〜。
あ〜頑張れ!押せ押せ!あ〜負けた。
惜しかった〜!一旦は避難所に移ったものの3週間で壊れたままの自宅に戻っていました。
人に気遣うけんですねやっぱ。
自然なもんばいつも見られるけんですね家がいい。
鈴木さんは水道が止まったままの園田さんの家に飲み水を届けていました。
こんにちは持ってきましたよ。
(ミエ子)ありがとう。
鈴木さんは安全のためには避難所に戻ってほしいと考えていました。
(女性)わあいい匂い。
しかし園田さん夫婦は「住み慣れたこの家がいい」と笑って答えるばかりでした。
だけん頑張って漬けなんと。
いやなんだっけ。
そんななんか迷惑になるからみたいな。
人に迷惑はかけられんって事も言われてたような気もするし。
多分それ以上にやっぱり自分の家がいいというとこもあったんだろう自分の土地がいいっていうのもあったんだろうとは思うんですよね。
うん。
地震から2か月が過ぎた去年6月。
記録的な豪雨が西原村を襲います。
鈴木さんは村の避難所に向かいました。
あこんにちは。
ありがとう。
園田ミエ子さんが避難していました。
夫婦が暮らす地区に避難勧告が出ていたのです。
避難所に移って5日。
ミエ子さんが体調を崩していました。
地震の前からがんを患っていました。
ミエ子さんは手術のため入院する事になりました。
一人家に戻った繁継さんは止まったままの水道を自分の手で直し始めます。
繁継さんたちが地区で守ってきた水源は地震で大きな被害を受け使えなくなりました。
地震から4か月。
他の水源から水を引くめどがようやくついたのです。
こんにちは。
こんにちは〜。
ご苦労さまです。
水?水道管をつなぎ直すのに2日間かかりました。
真夏の炎天下に作業を急いだのには理由があります。
ミエ子さんの症状が思わしくなく家に帰れたとしても短い時間だと言われていました。
帰ってきたら家の風呂でゆっくりさせてやりたいと思っていました。
命があっての事だと思うので。
やっぱりその命の事考えたら危険性の事も考えて仮設に入居してほしいって思ったけどでもやっぱり一方でその…。
何ていうかな…。
ここで生きていくんだこの家で生きていくんだというその思いみたいなところがあるからこそなんか元気でいられるというのか。
繁継さんなんかそれによって出てくる力なんかもひょっとしたらあるのかもしれないし。
そこはもちろん命が一番大事だけど。
その人の命を突き動かしている思いみたいなものも大事にしたいですよね。
うん。
入院から3か月がたった去年10月。
ミエ子さんは病院で亡くなりました。
風呂に入れてやりたいという繁継さんの願いはかないませんでした。
やっぱりその…。
大切な場所にいたいっていう強い気持ちというか思いというか…を尊重するべきかどうかも分からない。
した方がいいとも思うしでも危ないし。
命の事を考えたらもう一度避難をしてほしい。
でもだからねそれで避難をしましたじゃあそれが答えかっていったらそうじゃない。
そうじゃないと思うのでその先もまだ続いて…暮らしは続いていくわけだし。
分からないから向き合い続けるしかないっていう。
一人一人人によっての向き合い方とか多分きっと違ってくるんだろうし。
いや全然できてないですね。
何ていうかなそもそもができないからやり続けるっていう事だろうと思うんですよね。
でこれができましたはい「同事」という在り方実践を達成しましたっていうゴールって多分ないと思うんですよね。
「同事」…何も拒まずに受け入れていく海のようにあるあり続ける姿勢というのかその過程そのものが多分「同事」というか。
同事という実践をし続けていくという事があるべき姿というのかってなった時に多分ゴール自体はそもそもない事だと思うし。
ついなんか寄り添うとかって言ってしまいがちですけど本当に寄り添うっていう事はどういう事かっていうのは分からない中でもこう…。
何ていうか正解というのかっていうのがそれでいいのかどうかっていうのは常に分からない中で悩ましくも向き合い続けるっていう事…。
なのかなという事は具体的な何ていうかな事柄を通じてすごく考えさせられているというか。
熊本地震から半年。
鈴木さんは西原村でビデオの上映会を開きました。
新潟県中越地震で被災した人たちからのメッセージ。
鈴木さんが熊本の人々を励ましてほしいと頼むと30人以上が応じてくれました。
熊本の地震のあと中越に行って。
その中で栗山のハルさんってばあちゃんがやっぱずっと心配してんだよねって。
ひと事だと思えなくてっていうかひと事じゃなくてっていうふうに。
自分自身ももちろん地震を経験してるからという事だと思うんですけど。
なんかそういう事がこう自然と出てくるというか。
震災あの中越地震から12年っていうタイミングだったと思うけど。
でもやっぱその長きにわたるそのプロセスというのか歩みというのか。
多分いろいろあったと思う地震のあと。
その事もやっぱり思い返しながら…。
いろんな苦労もあったっていうところの中で思い起こされるものもあったんだろうし。
だからこそその地震を受けたという事自体の痛みにも容易に想像ができてその痛みを抱えているであろう顔見ぬ熊本の人に対して思いを寄せようとしてる。
でなんか同じようにこう心配をしてるって。
その姿っていうのがもうまさに「同事」なんじゃないかなっていうふうに思いますけど。
自然とそういう言葉が出てくる事に対しての驚きもあるしそうやってそういう言葉を聞かせてもらえる事自体もすごくうれしいというか。
それはねたまたまその中越で被災を経験した方からの言葉だったけど。
そういう経験がなくてもやっぱり思っていらっしゃる方も多分いらっしゃるだろうし。
そういう人たちがこうつながってそういうその「同事」っていう教えを軸にして考えた時に何ていうのかな相手を思いやるっていう気持ちみたいなものがこう広がっていくというところに対してなんか自分なりに何かしらお手伝いができれば…。
ありがたいなと思うし。
単純に多分きっとうれしいなって思いますねうん。
熊本地震から1年がたった西原村です。
村を離れ避難生活を送る人たちが一時的に戻ってきていました。
生活再建を優先し手をつけられないでいるふるさとのお墓。
先祖のためにお経をあげてほしいと鈴木さんは住民たちから頼まれました。
お久しぶりです。
遅かったけんね。
この日新潟県中越地震で被災した人たちが西原村に桜の苗を届けにきました。
復興支援で訪れた福島で譲り受けたものです。
春桜が咲く頃にまた会おうと地区の公園に皆で植えました。
ヘヘヘヘまた来ちゃった。
奈良の尼寺。
2017/07/29(土) 13:00〜14:00
NHKEテレ1大阪
こころの時代〜宗教・人生〜「ほっとけない ただ共にある」[字][再]

“人を支える”とは何か?という問いに向き合い続け、その答えを曹洞宗の開祖・道元の教えに見出した人がいる。熊本地震の支援活動を続ける僧侶・鈴木隆太さんに話を聞く。

詳細情報
番組内容
被災地支援のNGO職員としてボランティア活動を続ける僧侶の鈴木隆太さん。去年4月の熊本地震の発生直後から、支援を続けている。どうすれば人は困難な状況から前を向き、歩み出せるのか。鈴木さんは、山間の村に住み込み、目の前のひとり一人と向き合う中で、道元の「同事」の教えを見いだす。「同事」とは何をなすにも「自我」を捨て、相手の立場になるという教え。“人を支える”とは何か?鈴木さんの実践を通して、考える。
出演者
【出演】僧侶・ボランティア…鈴木隆太
おしらせ
[NHKワンセグ2]一部地域では高校野球を放送するために、放送をお休み、または放送時間を変更する場合があります

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
福祉 – 社会福祉

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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