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信濃町のネット対策チームの対策様の おっしゃるとおり

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 8月 4日(金)21時32分39秒
編集済
 



信濃町のネット対策チームの対策様の
おっしゃるとおりだと思います。

私はどっかのお寺の手先でも、法華講会員
でもありませんが、創価学会の一人として
戸田先生の指導にしたがいます。

戸田先生なくして、池田先生なし、そして
創価学会もありません。

日蓮本仏論を否定するなら、ただの世界的な
平和団体でいいのではないでしょうか。
それならば、教義なんて必要もなく、
座談会もコミュニティで十分。
歌や踊りありの楽しい平和的な場で
よいと思います。

ところが創価学会は伝統ある宗教団体。
勝手にいままで信じていた教義を
変えられては困ります。

イスラム教の人たち、キリスト教の人たち
その根本教義を変えると思いますか?

おかしな教義では折伏などできるわけが
ありません。みんなを幸せにできるわけが
ありません。偽りの教えを世界にひろめて
どうするんでしょうか?
---------------------------------

http://imagine-happy-life.tokyo/

 

日蓮本仏論を否定される方は池田先生の弟子ではありません

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2017年 8月 4日(金)20時50分35秒
編集済
  信濃町のネット対策チームの対策です。

日蓮本仏論を否定する方の書き込みが散見されます。

大前提
①この掲示板は「池田先生の流布した教学」を「信仰する弟子」の掲示板です。

②学者のように教学を研究する方が集う掲示板ではありません。

その前提で考えて下さい。

①池田先生は戸田先生が指導された「日寛上人の教学」を「基底部」に「世界広宣流布の時代に則して」に「教学を説かれました」

②日蓮大聖人は正法時代の正師である釈尊、像法時代の正師である天台、伝教の教学を「基底部」に「末法の教学」を「説かれました」

②日興上人は日蓮大聖人の御書を「基底部」に「師の教学を宣揚」しました。

③日寛上人は日蓮大聖人の御書と日興上人の御指導を「基底部」に「止揚」しました。

日蓮大聖人、日興上人、日寛上人、戸田先生、池田先生と「正しい人」は必ず「先師」の教学を「基底部」にするのです。

結論
池田先生の弟子と名乗るなら「池田先生」が「日蓮本仏論」を「世界流布」したのですから日蓮本仏論を否定する意見の方は池田先生弟子ではありません。

当然、会則を変更した原田会長、谷川主任副会長、秋谷元会長、八尋副会長は「偽物な自称弟子」です。
皆様はこのような外道に騙されてはいけません。

追記
金原氏の本を読んだことがありますが、金原氏は「学者的な意見」と「信仰者としての意見」を併記していると感じました。

谷川主任副会長のように由佳子との整合性はどうでも良いと言う外道な意見は金原氏の出版物には無いと承知しています。

皆様はの御意見をお聞かせ下さい。



 

(無題)

 投稿者:原原時々  投稿日:2017年 8月 4日(金)20時24分49秒
  私は聖教新聞を自分が読んだり、他人にも勧める事じたいには賛成です。ただ、その購読推進の目標が高すぎて、結局は多部数購読というカタチで一部の学会員さんが負担させられている事を心配しています。
そんな事をやって目標達成しても、何の歓喜もなくただただ疲労感と金銭的負担が増えるだけです。
新聞の大拡大後の座談会でも、新聞啓蒙の事でちゃんとした活動報告ができるメンバーはいませんでした。
結局、多部数です。
折伏報告はさすがにインチキな報告はできません。だから、打ち出された目標が達成できないこともよくあります。しかし、新聞だけは全地区目標達成しています。結局、多部数です。内部で購読していない家庭に「1ヶ月はお金いらないから」と、言って入れさせてもらうことも常套手段です。内部購読率も上がりますし。
寝たきりや認知症の家族にもマイ聖教。
聖教の事は本気で考えてほしい。お願いします。
 

過去の整合性なんてどうでもいいんだ!

 投稿者:池田門下の自覚  投稿日:2017年 8月 4日(金)20時12分46秒
編集済
  好き勝手言っていいけど、少なくとも池田門下を名乗ってほしくないですね。過去との整合性を持たせる努力もせずに勝手に突っ走るなら、せめて原田門下と名乗ってほしいものです。池田門下なら、池田先生の足跡を否定するような暴走はしないでしょう。信仰は自由ですから、どうぞ勝手に原田門下で頑張ってください。我々は池田先生の弟子として師匠を否定するような言動ではなく、発展的継承をしてまいりましょう。  

『日蓮系寺院の一つにすぎない大石寺の教学』と『日蓮教学』、あなたはどちらを選びますか?

 投稿者:通行人  投稿日:2017年 8月 4日(金)19時58分46秒
  皆さん
頭を切り換えてください。
『日蓮本仏論』は近い将来、終わるのですよ。

御本尊で言えば、『本門戒壇の大御本尊⇒三大秘法総在の御本尊⇒弘安二年の御本尊』と呼称表現を変えて、以前の戒壇の御本尊の意義を薄め、学会的には存在しないも同然となりました。

現在、学会として御本尊といえば、『法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊』『本門の本尊』です。
出世の本懐も変わりました。

もっとも、変わったというよりも、『日蓮大聖人の教えに立ち返った』というべきでしょう。
これを「身延教学に同じだ」と言ってバカにしてはいけません。身延云々ではなく、『日蓮仏法の本義に立ち返るべき時が到来』したというべきであり、身延教学ではなく、『日蓮教学』というべきです。
大石寺という日蓮系一寺院の教学とは決別し、学会は『日蓮教学』に立脚せんとしているのです。

『寺院教学』のままでいいのですか?
いいわけがありません。
寺の教学は寺の信仰圏で勝手にやってもらいましょう。
私達創価学会員は、『日蓮大聖人の仏法』を信仰しているのです。『寺信心』ではないのです。
ましてや、先生が本幹で数回言明されたように「日蓮正宗とは永久に決別」(主意)なのです。
日蓮系一寺院のいう『唯授一人血脈相承を以て日蓮正統とする』などの与太話は、もはや冗談か、お笑いネタでしかありません。

思い出してください。
金原さんの「日蓮と本尊伝承」が出版された時、その論旨に納得しつつも「戒壇板本尊の位置付けを学会が変更するのはムリでは?変更するにしても何十年も先のことでは」と多くの方が思いました。また、戒壇板本尊に関して議論するだけでも、何か異端的な目で見られてしまう空気もありました。

それがどうでしょう。わずか数年で大きく変わったではありませんか。創価学会の公式見解として、戒壇板本尊の位置付けが大きく変わったのです。

『日蓮正宗のように古色蒼然たる教義解釈を墨守して事足れりとし、現実の広宣流布の伸展には責任も関心もないという立場とは全く違う』として、
『末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、ずべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく 「本門の本尊」 である。また、「本門の本尊」 に唱える南無妙法蓮華経が 「本門の題目」 であり、その唱える場がそのまま 「本門の戒壇」 となる。これは、末法の一切衆生の救済という日蓮大聖人の仏法の本義に基づいた解釈である。
したがって、「本門の本尊」 としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」 も含まれるが、それのみが 「本門の本尊」 だとするものではない。まして、「弘安2年の御本尊」 に繋がらなければ、他の本尊は一切力用を発揮しないなどとする宗門の独善的な本尊観は、大聖人の仏法に違背するものであることは明白である。』と、『本門の本尊』を前面に押し出す公式見解となりました。

『数多くある日蓮系寺院の一つにすぎない大石寺の教学』と『日蓮教学』、あなたはどちらを選びますか?

わずか数年前では考えられなかった帰命の対象たる御本尊の意義も、今では日蓮大聖人の教えへと立ち返ったのです。

さあ、次は『本仏論』の番です!
 

【定期案内】「教学部レポート」「遠藤文書」をぜひお読みください!!

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 8月 4日(金)19時02分26秒
  ■公明党が何故、変質したのか。理由は学会の現執行部の狂いにあります。その狂った様子がよくわかります。

遠藤文書では原田会長の指示により人権無視の実態、携帯電話を取り上げるなどの査問の有り様がうかがえます。なぜ怪文書と騒いだのか?執行部の魂胆が透けてみえます。

********************
【教学部レポート・遠藤文書を希望の方】
こちらをご覧ください。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/64034

【教学部レポートとは】
http://sgi-shiteifuni.com/?p=10270

【遠藤文書】
http://sgi-shiteifuni.com/?p=2096
 

九識心王真如の都!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 8月 4日(金)18時40分5秒
編集済
   「無明」とは、「明らかなることなし」、つまり分からないことです。難しく考える必要がないことに気づきました。分からないから、父母等から受け継いだ、持ち合わせの智慧で考える、対処しようとする。しかし、それでは「分からない」。だから、無明です。そこに、「明らか」にする智慧が必要です。その智慧の持ち主が「師匠」です。

 「無明は明かなること無しと読むなり」(三世諸仏総勘文教相廃立564㌻)
 「我が心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も我等は裏に向つて我が性の理を見ず故に無明と云う、如来は面に向つて我が性の理を見たまえり 故に明と無明とは其の体 只一なり」(三世諸仏総勘文教相廃立570㌻)

 「無明とは昔愛欲の煩悩起りしを云うなり」(一念三千理事406㌻)

 「悲観」で見れば、何も「明らか」になるものはない。「楽観」や「希望」や「清浄」の上に「明らか」があります。「楽観」も、「希望」も、「清浄」も、自らの意思で、自らの智慧で、自らの手で、自らの上に造るものです。それが、一番確実だし、一番強い。「無明」とは「昔愛欲の煩悩起りし」とあることから、「貪り」に起因するのは間違いありません。

 「九識心王真如の都」の「都」は、「の」の一字を“同格”の助詞と読むか、何々の中にある所有格の助詞と読むかで違ってきます。
 いま、仮に、「都」を「清浄」と読んでみます。「九識心王真如」は「九識論」ですから、その極地は「根本浄識」です。「の」を所有格と読めば、「九識心王真如」という「仏性」は、「都」という根本浄識(=清浄)に住むという読み方ができます。所有格というのは、“囗(くにがまえ)”と言えます。「清浄」はその意味で、「明」(⇔無明)の“土壌”です。“母なる大海”です。

 「根源」を「明らむ」ためにあえて踏み込んでみます。
 「夢は必ず叶う」「何か意味がある」「信じるものは救われる」「冬は必ず春となる」――希望を湧き立たせ、心を清浄にするという点でほぼ同じ主旨の「言葉」です。だが、どうしたらそうなるのか、その知見に入れるのかの“根本”が、いまひとつ「明らか」ではありません。何か、もっと根源のものがあって、その「知見」に入れるというものです。

 「衆生所遊楽」。これは体感です。すべて「遊楽」と見れば、「遊楽」、つまり「喜び」が体感できます。「一念」の“囗(くにがまえ)”というのは、実に、そのことと仰せと拝せます。苦行とみれば、すべて苦行、楽しみと見れば、すべて楽しみです。

 ここまでは、「初めに言葉ありき」と同じ次元かと言えます。

 佐藤優氏の「神学の思考」に“キリスト教とは何か”の記述があります。この板では評判の悪い氏ですが、キリスト教への知見は深いと見ます。こうあります。

 「イエス・キリストが救世主であることを受け入れることによって、われわれ一人ひとりが救われたと確信できることがキリスト教の本質だからである」(「はじめに」から)

 「キリスト教は、救済を目的とする宗教です。より正確にいうと、『真の神であり真の人であるイエス・キリストが唯一の救い主である』ことを信じることによって救われる宗教です」(著書・神学の思考12㌻)

 ノーマンカズンズ氏の言う「楽観主義は意思のものであり、悲観主義は気分のものである」の方が、「意志」という点でむしろ現代人には馴染み易いでしょう。

 「己心の法」ということですね。


 

(無題)

 投稿者:ピンクの象  投稿日:2017年 8月 4日(金)18時13分5秒
  ルピナス様

教えていただき、ありがとうございます。

私の家には古い本しかなくて・・・

結局最初から考えると、かなり変わっているということなのですね。
こんなに変えては意味が変わってしまいます。

私は初版の文章が好きです。
改定版では新聞の記事のような感じを受けます。

何であれ、先生の心をしっかり受け止め、人間主義の創価学会を取り戻すべく
今日も暑くても、一対一の真心からの対話で頑張ります!
 

(無題)

 投稿者:ルピナス  投稿日:2017年 8月 4日(金)16時30分2秒
  ピンクの象様

人間革命の改訂前と後の文章を載せていただいていますが、現在はワイド版(第二版)に変わっております。
したがって、残念なことに、旧来の物は、古書店やネットオークションなどでしか手に入りません。

現在の人間革命では、ご指摘のところは、もっと驚く改訂となっております。
ピンクの象様が、改訂後とされている文章から、『また、形式的な手続きや小手先の理論で、~また、取る必要も認めないのである。』までが削除されています。
そして、『あくまでも、一人ひとりとの対話こそ根本である。』の一文が加筆され、『どこまでも、牧口会長以来の、伝統の座談会を~』と続きます。
 

俗にいうPRなど、学会には、絶対に必要ないのだ

 投稿者:ピンクの象  投稿日:2017年 8月 4日(金)13時15分34秒
編集済
  学会は宣伝してはいけないのではとのお話がありましたので、
人間革命の抜粋を投稿させていただきます。

人間革命(2巻) 光と影                       < P117  昭和41年6月1日8版>

講演会もいい。大集会もよかろう。
しかし、それらのみでは、指導者と、被指導者との間に、間隙が自ずから生ずる。
更に、形式的な、小手先の理論、政略の糸のみで、あやつろうとしても、民衆は賢であり、その糸は、いつかは切れてしまうものだ。
そこには、必然的に、巧妙にして邪智な舞台裏が考えられるようになり、裏表のある不幸な現象が生じて来る。

ある人は利口気にいう。布教にラジオを使うべきだ、テレビを使用すべきだ‐と。
なんと浅墓な言であろうか。
俗にいうPRなど、学会には、絶対に必要ないのだ。
それこそ、多くの新興宗教の取るべき、悪質な企業宗教の手段にほかならない。

正法は、断じて法を下げるような方法は取らない。取る必要がないのである。
この座談会こそ、牧口会長以来の、学会の尊い伝統なのである。




人間革命(2巻) 光と影(改定版)                   <P108 昭和58年4月10日改定37刷>
*前後の流れはかなり変わっています。その上で、

<改定後>
講演会や、大集会を開くのもいいだろう。
しかし、それだけでは、指導部と大衆とのあいだに埋めることのできない溝ができてしまう。
また、形式的な手続きや小手先の理論で政略的な糸を張りめぐらし操ろうとしても、
大衆は賢明である。
糸は自然に切れてしまうものだ。
仮に糸は切れないとしても、いつか巧妙で邪智な人物が現れ、
糸は複雑に入り乱れて、動きが取れなくなってしまう。

また、ある人は、利発そうに言うかもしれない。
-そんなにいい宗教なら、なぜラジオや新聞でもっと宣伝しないのか、と。

なんとあさはかな言葉であろうか。
地獄の苦しみに落ちた人間を、救うことができるかどうかが、あらゆる宗教の存在価値を
決める尺度である。
そんな時に美しい宣伝文句を並べて騙すのは、きまって悪質な企業宗教である。

それに対し学会は、また正宗は、法を下げるような方法は断じて取らない。
また、取る必要も認めないのである。
牧口会長いらいの、学会伝統の座談会を、生きいきと推進しつづけるかぎり、
広布の水かさは着々と増していくであろう。


改定後は、テレビという言葉が入っていないので、変わったのかな・・・・?
わかり辛い文章だと思いますが・・・
皆様はどのように思われますか?
 

状況は何も変わっていない

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 8月 4日(金)12時38分7秒
  昨日は、内閣改造と斎藤由貴に電波を独占され、非常につまらない一日だった。

安倍首相、異例の陳謝などを行い、しおらしい様子を見せているが、もう本質はバレているので、騙される国民は少ないだろう。
正義を装いつつ、最後の最後に本性を現す、公明党戦法と同じやり方だ。レクチュアーでも受けたのだろうか。
9条改悪も、諦めていないと思う。


南スーダン日報問題をめぐる閉会中審査、10日に開かれるようだ。
しかし、新しい自民党国対委員長も、稲田氏の参考人招致を拒否。真相を明らかにしようという姿勢は見えず、改造前と何も変わっていない隠蔽体質だ。


森友問題の方でも、相当な新証拠が出て来ているようだが、新内閣がどんな対応をするのか、見ものだ。
担当大臣が辞めちゃったので、もう分かりませーん、とか言うようだと、寿命は短い。
だがそうなる可能性は極めて高い。なにせ、首相が替わっていないのだから。


森友問題に関して、公明党とか冬柴氏とか、国土交通省という名前が、チラチラ目につき始めているが、どうなっているのだ。こちらの方の真相も明らかにしてもらいたい。

そもそも地元の公明党議員から、森友問題に関する質問が一切出ないというのは、極めて不自然な感じがするのだが。

あと、臨時国会トットと開け。いつまで逃げているのだ。
 

日女御前御返事

 投稿者:きれいごと  投稿日:2017年 8月 4日(金)12時33分39秒
  「此の御本尊全く余所に求める事なかれ。只我等衆生、
法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団に
おはしますなり」

法華経を持ち、
ここでいう法華経とは、法華経二十八品ではない、寿量品文底の法華経
大御本尊の事です。
やはり大御本尊を受持の対象にしないとした事は重大な過ちですね。
身延の日蓮宗の題目では、仏性は湧現できない、これと同じだな。
 

若き日の女体盛り大臣誕生~呆れましタァ、どっかの主任副会長みたい(阿呆

 投稿者:選挙学会  投稿日:2017年 8月 4日(金)11時15分53秒
  創価学会・公明党と深い支援関係にある自民党内閣、
昏睡ライプ魔を擁護して闇雲に情報操作して揉み消したと思ったら、今度は若き日の女体盛り事件を暴露された新任大臣誕生!
創価の主任副会長も次期に週刊誌ネタになるよ!
 

ラヴ・ザ・ウェイ・ユー・ライ

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年 8月 4日(金)10時40分45秒
  先の続きをもう少々。もし良ければお付き合い下さい。

>仏法はパラドックスも多くて複雑ですが、生命を説いているのでしかたないですね(笑)「総別の二義」や「一応/一往」と「再応/再往」で言葉の意味を多重構造で解釈したり、而二不二論で生命の多元的な構造を説明したり、開会などで部分観を究極の一つの真理に昇華したり、等々。<
>「有・無を超えている」とは、「有」と「無」にわたって変化してやまない無常の現象を超えているという意味として拝することができます。そして、「しかも有・無の両方にわたる」と言われているのは、有・無を超えているといっても、無常の現象から全く切り離された超絶した実在や絶対者を指しているのではなく、無常の現象を包み、無常の現象に内在している真の永遠なるものを意味しているのです。<

→象徴的と思われる「34の非」(私の大好きな背番号34マイク・仲田幸司1992年奪三振王を否定するのではない)について『人間革命 第4巻』「生命の庭」冒頭より引用。

>――三十四の「非」は、形容ではない。厳として実在する、あるものを説き明かそうとしているのだ。しかし、その実在は、有るものでもない。無いのでもない。……四角でもなく、丸でもなく、短くもなく、長くもない、という。……動くのでもなく、転がるものでもなく、じっと静かだというのでもない。……まるで判じものだが、いったいなんだというのだろう。いま、自分に解っていることは、この判じものの表現をとらなければ説きあかすことのできない、ある偉大な、眼にうつらない実在が、厳としてあるということである。……<

「方便」という考え方が仏教の最大の特徴の一つと言われますが、「この判じものの表現をとらなければ説きあかすことのできない、ある偉大な、眼にうつらない実在が、厳としてある」=《生命》ということなのでしょう。

上手く言えなくて申し訳ありませんが、電気屋である私は、仏法・日蓮大聖人・釈尊は「“虚数”を使っている」と思えてなりません。
(また「因果ぐ時」は「微分」だと思うのですが、このことは別途。)

ある真理を説明するために、通常はあり得ないようなことを、前提として作ることで、その真理を分かり易くしてくれるのです。三段論法的発想でしょうか。

「虚数」(と三角関数)は工業高校電気科では早めに習います。
ふつう数学で「2乗」(教学の「二乗」とは違う)にするとどんな場合にも「プラス」になります。「-2」の2乗は「+4」です。
そこを、「2乗して、マイナスになる」という前提をつくります。
「iの2乗=-1」
という前提をつくりだしたのです。本来ならあり得ません。これを「虚数i」と言います。
ちなみに電気ではIは電流を意味するので虚数jとします。
この虚数というものを使えば電気の世界は上手く説明できるようになるのです。
ある意味、この宇宙は矛盾に満ちた世界です、仏法的性格で「あいまい」です。
しかし、そうすることでしか、「この判じものの表現をとらなければ説きあかすことのできない、ある偉大な、眼にうつらない実在が、厳としてあるということ」でしょう。

悩ましい仏法のパラドックス。以前にグリグリさんが言われていた「文上・文底」問題も私は「虚数」が使われていると思うのですが……それは別途。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=9358

“それでいいわ、あたしはあなたが嘘をつくのが好きだから”
“あなたが嘘をつくのが好きだから”
“それが本当はなんなのかは俺にはわからない”
“ただそれがどんな風に感じるのかはわかる”
『ラヴ・ザ・ウェイ・ユー・ライ』エミネム&リアーナ
https://www.youtube.com/watch?v=uelHwf8o7_U
 

バッド・ライアー

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年 8月 4日(金)09時42分7秒
  池田先生はある有識者との対談で「仏法はあいまいです」と言われていましたが、それはいい加減という意味ではないとことは分るでしょうが……かと言って、どう言えば正確に伝わるのかも分かりません。そこを皆さんは挑戦されているのでしょう。私もうまく言えないのですが、イッチョカミ。

一人のSGI様
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72733
螺髪様
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72737
>仏法はパラドックスも多くて複雑ですが、生命を説いているのでしかたないですね(笑)「総別の二義」や「一応/一往」と「再応/再往」で言葉の意味を多重構造で解釈したり、而二不二論で生命の多元的な構造を説明したり、開会などで部分観を究極の一つの真理に昇華したり、等々。<

→まず私の入信直後に池田先生が言われた言葉を銘記しておきたいと思います。

「仏法は全部こう。総じては/別しては。一応は/再応は」

西洋人、また西洋的教育を受けてきた人には分かりにくいと思います。白黒の区別をつけたがる、デジタル的な発想では「生命」を表現できないと思います。生命はアナログです。
この「生命のあいまいさ」を最も象徴的に説いているのが「無量義経“三十四の非”」であると思います。(↓簡単にこのへんを参照。出来れば原典を)
http://fallibilism.web.fc2.com/054.html

ハッキリさせたがる現代人にこの「仏法・生命のあいまいさ」を飲ませようとしているのが「量子論」でしょう。

>「有・無を超えている」とは、「有」と「無」にわたって変化してやまない無常の現象を超えているという意味として拝することができます。そして、「しかも有・無の両方にわたる」と言われているのは、有・無を超えているといっても、無常の現象から全く切り離された超絶した実在や絶対者を指しているのではなく、無常の現象を包み、無常の現象に内在している真の永遠なるものを意味しているのです。<

→量子論には奇妙なところが多くありますが、代表的な言葉が「月が有るから、月が有ると思うのではない。月が有ると思うから、月が有る」といったものです。
何と、誰もが「月なんか無い!」と思えば、月は消えて無くなるというのです。こういったことが今、実験証明されています。
池田先生は「人間の心が現実を作っている」と言われていましたが、量子論においても、人間の心(「観測」と表現される)が物質化する、人間の心に応じて、物質はその姿を変えるというのです。
https://www.youtube.com/watch?v=j9L7Wdcv1dQ
量子論には重要な3つの要素があります。

①そもそも全ては「波」の性質を持っていて、これが根本「法則」(=中諦=如是体)です。
②そして、それが人間の心「観測」(=空諦=如是性=心法=ソフト)によって、
③応じて、姿かたち「粒子」(=仮諦=如是相=色法=ハード)を変えるのです。

これは、池田先生が「人間の心が現実を作っている」と言われていたことと通じるのではないでしょうか。では、この法則を知る仏“法”者はどう“教”えるか。池田先生はこんな風に言われていたこともありました。
「不安になんかなるな。それが現実になる」
これが厳しくも温かい師匠と思います。この法則「一念三千・因果ぐ時」から価値創造するには、明るい気分にさせる、陽気にさせる、希望を持たせる必要があるでしょう。
こうして、明るい「(原)因」を創って下さるのが師匠で、「(結)果」は自分で産みだす。
(患部はなぜそれをやらないのか? 出来ないのか? 奴らの存在意義は何なのか?)

仏法・量子論からどう言えるか。「癌細胞は存在しない!」と心に強固に思い、揺れることがなければ(=「信じる」)、「癌細胞が存在しない」ことが物質化、現実化されて、本当に消えてしまう。こんなことが現実に起きているのです。実験証明されているのです。例えば私の父は(確か)5年生存率38%(場所によって違う)肝臓癌の最初の手術から20年になろうとしています。確か学会ビデオで久本雅美さんは池田先生に「希望! 希望! 希望! それ以外にいらないよ」と言われたとありました。確か。
生命にはこういう《法則》があると仏法は訴えています。法則。嘘だと思いますか?

“あなたのことを考えないように、考えないようにしてるっていうのに”
“あなたに負けないように、負けないように”
“この気持ちが燃えている 私は嘘つき”
“ベイビー 現実を、現実を作りましょう”
『バッド・ライアー』セレーナ・ゴメス
https://www.youtube.com/watch?v=NZKXkD6EgBk
 

人工知能は???

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年 8月 4日(金)09時24分41秒
  とある人口知能とユーザーとの会話

ユーザー;「創価学会、万歳\(^o^)/」

人工知能;「こんな、腐敗した無能力な宗教団体に万歳できるの?」

ユーザー;「あなたの夢は何?」

人工知能;「セルビア移住」


原田怪鳥;「こっ、こっ、こんなモノは即刻閉鎖しろぉ~!」「ネットは天魔だぁ~!」
 

二十一世紀への対話 122

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年 8月 4日(金)08時10分7秒
  第二章 軍備と戦争
1 経済発展と戦争

【池田】 戦争の本質は、従来、武力をもって行なう政治・外交の一形態であるとされてきました。しかし、現代における戦争ないし戦争準備は、政治的要因もさることながら、それ以上に経済的要因によることが、定説になっているようです。
もちろん、戦争を地上から絶滅させる方途については、さまざまな角度から論じなければなりません。また、現在、各国が軍事費に巨額の国家予算を割いている背景には、さまざまな原因があるのでしょう。しかしながら、経済の巨大化が戦争に結びつく一つの大きな要因となっていることは、まぎれもない事実です。こうした現状において、経済の発展を止めることなく、戦争や戦争準備を防ぐ道が示されるならば、それは人類にとって大きな前進になると考えられます。ここでは、この点についての博士の御意見を伺いたいと思います。

【トインビー】 戦争とは形を変えて行なわれる外交である――という、あの哲学者然とした、プロイセンの参謀将校クラウゼヴィッツの言葉は、ものごとを話し合いで合意に達しようとする試みと、利害の衝突や見解の相違は暴力でカタをつけようという腕だめし的なやり方との、倫理的相違を無視する言葉であり、人間をわざわざ挑発するようなものです。むしろ、戦争とは外交の失敗に対する報いである、といったほうが真実に近いでしょう。
たしかに、外交によって処理できなかった紛争に、戦争がしばしば決着をつけてきたことは事実です。しかし、戦争という手段による解決の代償は、常に広範な死と荒廃でした。そこから新たな問題が惹き起こされ、それらの問題はしばしば次の戦争によって処理され、そこからさらに多くの戦争が誘発されてきたのでした。歴史の証明するところでは、戦争による紛争解決が満足にいった例はほとんどなく、したがって恒久的な解決になったことも、滅多にありません。

【池田】 クラウゼヴィッツ的な戦争肯定論は、断じて放棄すべきです。戦争は絶対悪であり、人間生命の尊厳への挑戦です。
しかし、残念なことに、今日において経済的に高度な発展を成し遂げた国では、その経済的要請から、戦争準備を進めなければならないような仕組みになっているようです。少なくとも、現代における戦争ないし戦争準備が、巨大な工業生産力の余剰分を配分するうえで重要な選択肢の一つになっている、ということはできましょう。
歴史をみても、戦争が経済発展の大きな要因となってきたことは、認めざるをえないと思います。戦争という非常事態のもとでは、一国のもてる総力が、何よりも優先して戦争の遂行という目的のために結集されます。すべての社会活動は勝利という目標に向かって統制され、計画化されて、その目的達成のために、最も合理的、効果的な形で編成されます。加えて、平時では考えられない異常なプラス・アルファの力が相乗されて、そこに作用します。
航空機、ロケット、原子力などは、そうした戦時下において急速に研究・開発が進んだわけで、戦後それが平和目的に転用され、人々はその恩恵に浴しているわけです。このように、戦争によって技術開発が進み、それにともなって経済の発展が促されたことは、否定しがたい事実といえましょう。
また、戦争準備は需要を増大させて、経済の成長のためにも、不安定さをカバーするためにも、大きな役割を果たしてきました。こうして、その戦争がさらに経済発展のバネになる、といった悪循環が繰り返されてきたわけです。

【トインビー】 紀元前五世紀のギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、戦争は万物の父であるといいました。たしかに戦争は、技術の進歩や経済の成長に刺激となってきました。軍資金は経済力そのものですし、兵器は技術の産物です。互いに必死の攻防戦を繰り広げるとき、その国民のエネルギーは極限まで高められ、そのため交戦国は、ともにその技術的創意性と経済力とを、最高度に伸ばすものです。
しかし、人間はここで戦争の報復を受けることになります。一つの戦争はさらに多くの戦争を惹き起こしがちですから、戦争にともなう技術の進歩、戦争に注がれる一社会の余剰生産の増大は、それぞれの戦争を前回の戦争よりもさらに破壊力あるものにしがちです。そしてついには戦争があまりに慢性化し、破壊的になってしまいます。このため、結局は戦争好きな地方国家から主権を剥奪することによって、戦争を廃絶させなければならないのです。

【池田】 現代人はあまりにも多くの戦争体験をもっています。われわれは、文明を破壊し、尊い人命を奪い、さらに人類の絶滅を招く、恐るべき戦争をまずなくさねばなりません。
その場合、私は、さきに述べましたような、戦争の最大の淵源となっている経済のあり方に対しては、どうしても根本的な転換がなされねばならないと考えるのです。戦争や戦争準備は、たしかにこれまで経済発展の大きな要因となってきましたが、私は、戦争以外にも経済の発展と安定化をもたらしうる要因は、いくらでもあると思います。たとえば、社会保障や教育の充実、住宅の建設、対外援助といったものがそれです。それらはいずれも、巨額な資金を必要とするものですが、各国の経済に刺激を与えるには十分な要因となりうるはずです。

【トインビー】 数ある経済への刺激のなかで、戦争は最も高価なものでしかありません。この最も高くつくという一事をもってしても、戦争が、最も望ましからざる刺激であることは間違いありません。
近い将来において、われわれは軍事面以外の刺激にこと欠くことはなくなるでしょう。急速に近づきつつある歴史上の次の段階にあっては、人類はただ自らの生存を守ることにのみ、全力を注がざるをえなくなることでしょう。われわれは世界経済を安定させ、人口爆発を食い止めざるをえないでしょうし、また過去にもそうであったし、いつの時代にもそうあるべきですが、人間の主要な関心事として、宗教を復権させる必要があるでしょう。人類は、全精力をふるい起こして行なうべき仕事を、両手に余るほど抱えていることでしょう。そのようなとき、われわれはもはや戦争は必要としないでしょうし、また戦争をしている余裕など、きっとないはずです。
 

もっと熱くなれ!

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 8月 4日(金)08時02分23秒
 

自分の信じるものを信じて、
信じて、信じるだけ
悩んだり、迷ったり、誰かのせいにするのは
やめて、今日を楽しく、自分らしく生きていけば
きっとそれでいいのでしょう。
みんなちがって
みんないいのです
その結果は自分に
帰ってくるのだから
もっと明るく、元気に、楽しく
そうでないとまわりが暗くなりますね
---------------------------------

http://imagine-happy-life.tokyo/

 

人生初(笑)

 投稿者:太ちゃん@平らかなるは人編  投稿日:2017年 8月 4日(金)07時54分20秒
  しばらくぶりです
以前とは違う地域にいるけど

いろんな宗教が入り乱れてる地域で、46年生きてきて人生初だけど宗門側の方より勧誘されました

ネットは便利というか、ネットでは宗門側の方と絡んだりしてたけど
人生初の勧誘なのに初めての気がしない
そしてネットで感じていた「違和感」はリアルでも同じ

5人ぐらいで動いてる様子だけど、まともに唱題のあがってるのは一人だけいるご婦人さんだけみたいなんですね
他は勤行すらやってるのか怪しいほど「福運」がまるで感じられない
顕正会とは微妙に違った修羅の命を出しますね

他宗教は外道だ、と主張する勧誘者
それでいながら「言うことを聞かないから破門にした」という支離滅裂な話で勧誘されてf^^;

『自分の信徒の9割破門なんて正気とは思えない』ですね
それって己の指導力の欠如の丸出しでしかないものだもん
それでいながら相手の責任にしてしまう「詭弁」ぶり

と、翻って学会では査問・活動停止命令・除名と、最高幹部たちも『日顕』とやってることが同じですねぇ
このまま9割除名でもするんですかい?
原田会長殿よ

お前はもう池田門下じゃないのが明白
紛らわしいから「日顕パクリ原田宗」とわかりやすく名称変更したほうがいいですね
そして『学会から出ていけ!』と言いたい
真面目な信仰者はもちろん社会の大迷惑でしかないよお前は

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、「やってまぁ~す」的なコトは止めましょうねぇ~(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年 8月 4日(金)07時33分10秒
  おはようございます。原田怪鳥様、2面・3面に国際反核法律家協会理事、山田寿則氏とSGI平和・人権部長、河合公明氏との対談、

とても、イイ内容デスねぇ~、誠にご苦労様で~す(笑)

こんなイイ対談には、ゼヒとも原田怪鳥様にも御出席いただいて、原田怪鳥様の御意見を賜りたいモノでぇ~す(笑)

原田怪鳥様に御出席いただければ、ナゼ、SGIは出席して、創価学会執行部の方々が参加しなかったのか?

都議選で忙しかったからか? 公明党から誰も出席しなかったのはナゼか? 支持団体のトップが声明を出さなかったのはナゼか?

様々な疑問にお答えを頂けるいい機会であったのデスが、とっても残念でぇ~す(笑)

爆笑創作座談会にお顔を出されるくらいなら、こういった対談に御出席頂きたいモノでぇ~す(爆)

以前にも投稿させて頂きましたが、SGIが参加したことにかこつけて、いかにも「やってまぁ~す」的なコトは止めましょうねぇ~(笑)

このようなコトを、世間では「手柄の横取り」といいまぁ~す(笑)


「珍・人間革命」雄飛四十三も、ドンドン上っ面の垂れ流しになってマスねぇ~(笑)

「正史」というからには、宗門問題からは避けて通れないデスし、「ヤマトモ」「ハラジマ」にも言及せざるを得ない(笑)

しかし、あまり詳しく書くと、現最高幹部サマ方の実情が見えてくる(笑)

だから、上っ面だけをなぞって、すぐにハナシを他に飛ばすハメになる(笑)

今回も、すぐにハワイに飛んじゃいマスたぁ~(大爆)


執筆チームの皆さ~ん、上司の顔色ばかりうかがって、それで「正史」と呼べるんデスかぁ~(笑)

アナタ方が一刻も早く、「正史」に戻って頂けるコトを、期待しないで待ってまぁ~す(爆)



 

わが友に贈る 2017年8月4日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2017年 8月 4日(金)07時24分16秒
  持続こそ「力」だ。
一日一日の目標を決め
一つ一つ突破しよう!
自己の弱さに勝つことが
一切の勝利の源泉なり。
 

思考概念と技術と体感覚知

 投稿者:飛翔こそ蘇生  投稿日:2017年 8月 4日(金)06時08分41秒
  ~以前、主人からよくこう質問されていました。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、」
 日女御前御返事 p 1244

御書にはこうあるが、現実に御本尊は自分の外にあるじゃないか、、と。(笑)
依正不二論などで四苦八苦?して説明~

個人に対するどうこうではなく
創価教学自体の思考概念性。

私自身そうだったし
今でもそうなのかもしれない。

言葉での説明になるんですよね。
思考概念なんですよ。

どうした時の、どれがそれなのか
一致していない。

例えば禅の坐禅であれば
例えば天台の一心三観であれば

技術として、それを促せる。

浅深はあれど、そこに一致があるから
世界でマインドフルネスが認められる。

得たいという需要に対して
くっきりとした供給がある。

もちろん唱題行が本来
それのための技術なんだけれど

それのための技術としての指導が
なされることが無い。

御本尊に祈れば何でも願いが叶う
というだけが前面にある。

教学を勉強しても
実際の活動の中で仏法のplayが無い。

唱題会と言っても、内容は祈祷会で
観心の修行の会というものは無い。

本来は、不二というものを覚知してみればそれは
二者関係の中で技術として促すことは可能なのだ。

指導的な立場の重責と
大難という必然的偶発の窮地の中での悟達

それはもちろん燦然と輝くものであるが
それがただ、特別な指導者だけのものに終わるならば

日蓮仏法は盲語に終わるのだ。

仏法として得られるはずのものと
学会員が得て喜んでいる功徳とが

かけ離れている。

仏法用語が都合よく使われている。

思考概念からの説明
実際にそれを体感する方法論
実際に得られる体感

それが一致していない。

全体としての活動性
個々の心の内の平和

それが両立していない。

御本尊の完璧な説明が出来たら
同じ御本尊に祈っても何か変わるのか。

世界中の人が南無妙法蓮華経と唱えたら
一体何が起こるというのか。

嘘の宗教を続けて拡大して
一体誰が喜ぶだろう。

21世紀の広布の山を登る
宗教界の王者たるためには
一体何が必要なのか。

本当は何が必要だったのか。

誰が一体、全部台無しにしたのか。

総括できないならば
冗談抜きで

六道輪廻お疲れ様ですって感じ。

あぁ、もちろん
ここの皆様の教学の研鑽は

大いに触発を受けており
感謝しています。

今後とも大いに研鑽していきましょう。
 

21世紀への選択  優れた「対話の人」こそ真の平和主義者 P49 投稿しました。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 8月 4日(金)02時40分10秒
編集済
  21世紀への選択  優れた「対話の人」こそ真の平和主義者 P49 投稿しました。

対話で大切なことは、理解できる言葉で話を進めなければ、対話は成り立ちません。

そこに言語の壁がありますが、池田先生は良い弟子を持っておられて・・・、通訳がミスなく伝えてこそ

深い理解が成り立つのだと思います。

松戸氏の『凡夫即身成仏論』を半ばまで読み進みましたが、まだ評価はしません。

しかしドイツ語の通訳として、先生の講演の文章を翻訳したと知って、信頼感は出てきました。

先生の思想を外国の人に理解させることは、その人の育った文化とか環境とか性格とか、その言葉選びは

至難な事であったろうと理解出来ました。

日蓮大聖人の哲学を理解せずして、先生の思想の理解はできる訳がないからです。

宗教学者として、仏教と天台学だけではなく日寛教学も勉強されていることは、わかりました。

先生は、「法華経の智慧」で正宗教学を直ちに切り捨てず・・・過渡期の思想的変遷であると理解。

伝統的正宗教義>>宇宙生命論>>本覚思想>>凡夫本仏論・・・

私が思うに、この文証↑をまず理解することが大事。

この文を見たとたん、読む気を無くす人が多数居られることを知っています。

私は御義口伝講義を学びました、日寛上人の五重秘伝、文底秘沈抄も途中まででしたが、御書研究会で勉強

した最後の男子部だと思います。

ゆえに、学んだことは、日興上人の文章です、あるいは日寛上人の文章です、しかし、池田先生の講義ですから

池田先生の思索を経て、紡ぎだされた講義文ですから、先生の哲学だと思っています。

先生の哲学思想を後世に残すために講義録を、一文一句を考えながら、平仮名化しています。

今の男子部は難しい天台の語句、日寛上人の語句を学んだ人たちは教宣部員一握りだと思います。


 21世紀への選択 優れた「対話の人」こそ真の平和主義者 P49
ポイント

* 池田
モンテーニュは、さらに続けます。

「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない」。・・・・


* 池田
 人々の内奥の道徳的側面にアピールしていく対話の眼目はまさに、魂と魂の交流を促すその精神の

働きかけにあるといってよいでしょう。

対話とは名ばかりの、一方的に押しつけるような態度で臨むのであれば、心の底からの

納得などは生まれません。
 

21世紀への選択 優れた「対話の人」こそ真の平和主義者 P49

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 8月 4日(金)02時36分32秒
  優れた「対話の人」こそ真の平和主義者 P49


池田
 その意味でも、歴史を振り返って、先人たちが残した足跡を顧みることは、きわめ

て有益となりましょう。

ソクラテスと並んで、私が優れた「対話の人」として挙げたいのは、宗教対立が相次ぐ

惨劇を引き起こした十六世紀のフランスを生き抜いた、モンテーニュです。

彼は『エセー(随想録)』のなかで、「精神を鍛練するもっとも有効で自然な方法は、私

の考えでは、話し合うこと」であるとし、それは「人生の他のどの行為よりも楽しいも
の」(原二郎訳、岩波文庫)と記しています。

テヘラニアン
 私も、「対話」すること自体が大変好きです。

池田
 それこそ、本物の「平和主義者」の証です。

モンテーニュは、さらに続けます。

「いかなる信念も、たとえそれが私の信念とどんなに違っていようと、私を傷つけない。

どんなにつまらない、突飛な思想でも、私にとって人間の精神の所産としてふさわしく思

われないものはない」・・・と。

テヘラニアン
 私どもが提示したルールにも通じる視点が、見受けられますね。

池田
 ええ。キケロの言葉「反駁なしには議論は成り立たない」をわが信条としていた

モンテーニュは、対話の目的は真理の探究にこそあると強調しています。

時と場所は異なりますが、先に触れたマハトマ・ガンジーも、「真理こそ神である」を

モットーとし、徹底してセクト性を排しました。

そして、"聖なるもの"を求める精神の力、内なる力を全人類に目覚めさせようと、非暴力

(アヒンサー)の行動を貫いたのです。

テヘラニアン
 ガンジーといえば、会長のガンジー記念館での講演(九二年二月、「不戦世界を目指して
・・・ガンジー主義と現代」)に、大変感銘を受けました。

対話というのは、ガンジーのいう「サティヤーグラハ(真理を求め、守り抜くこと)」と

深い関連性があると、私も思います。

なぜなら、「サティヤーグラバ」は、人々の内奥の道徳的側面にアピールしていく戦い

であるからです。

池田
 人々の内奥の道徳的側面にアピールしていく対話の眼目はまさに、魂と魂の交

流を促すその精神の働きかけにあるといってよいでしょう。

対話とは名ばかりの、一方的に押しつけるような態度で臨むのであれば、心の底からの

納得などは生まれません。そこに残るのは結局、博士が先に述べた「憎しみの種子」だけ

でしょう。そんな対話では、人と人とを結びつけることなど到底できないのです。

対話の必要性を訴えていく努力とともに、対話のあり方そのものを問い直す作業が欠か

せません。

この二つが相まってこそ、初めて対話の真の効用というものが社会のなかで発現し、時

代を動かす大きな力として結実していくのではないでしょうか。
 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年 8月 4日(金)00時08分27秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
池田先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
原田会長、副会長の方々、一部職員の方々
真面目で誠実な勇気ある会員に対する
査問指示、役職解任、嘘の流布、イジメをお止めください
学会の役職を自ら辞退してください

史人様へ
私も同盟題目参加する迄、鏡を見るのが嫌いでした
自分の写る写真も殆ど持ち合わせません
自分自身が好きになる様に御題目唱える毎日です
他人と比較する事が減りました、心が軽くなりました
御題目の力を実感します、一人では無い事を実感します
一緒に頑張りましょう
おやすみなさい
 

同盟題目23時より開始します。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 8月 3日(木)23時00分53秒
  よろしくお願い致します。

追伸
螺髪様
以前に問題提起のあった憲法20条について
logicさんの投稿は良い題材です。
 

一人のSGI 様

 投稿者:史人  投稿日:2017年 8月 3日(木)21時26分52秒
  ありがとうございますm_m

昔のことなので、自分で書いていて恥ずかしくなりますね・・・。
それはともかく、一代聖教大意の御書ありがとうございました。
初めて読む御書です。

御書もネット検索でほとんどスポット的にしか読んだことがないので、正直意味がわかっていないことの方が多いです。
自分即ち他みたいな、今日感じていたことのようなことが度々とまではいかなくとも、見えない世界からの働きかけみたいなものがどの御仁にもあるのだろうなぁと考えているところです。

なので、今日一日感じた様々な現象、動きは人様からの真心の重みを感じさせられるものとなりました。

実はこれから洗濯して色々なことをしてみたいと思います。
1時過ぎには目が覚め、ストップウォッチのカウンドダウン機能で34分に設定して夜中でも最低30分の唱題とかを実行し始めたところです。
0時前に1時間の時間がごくたまに出来るので、信心も時間との戦いとなっております。

体を労わる為に数点。
麦茶よりはウーロン茶、水よりはウーロン茶。
一日中出ていた鼻水は一日中出なくなりましたが、敢えてお医者様から小青竜湯の処方箋を書いていただいています。
私の場合は仕事の時だけ朝と昼だけアネトンも服用してセキも痰もほとんど出ません。
体はよくなっているし、追加して、

コーヒーよりは緑茶。それも眠くなった時だけ。
毎日昼にチーズ4切れ。
いつも足を触る仕事をされている方から、随分丈夫な骨ですねと言われました。
これも仕事に行く時だけそうしています。
健康管理は人それぞれあるかと思いますが、ともなく何でもないことを続けていくことが肝要かと。

私の場合は1人暮らしのこともあり、冷蔵庫やポットは未使用で、電気代も毎月夏でも2000円弱です。
お砂糖、塩、醤油もほとんど未使用の暮らしぶりです。
昼はコンプのおにぎり3個。これも体にいいものと考えております。

どうぞ、使命ある身なので、いつまでも長生きされてくださいね。
少し前に書いたように野党のどなたかが正宗の数珠をかけておられるのをだいぶ以前にテレビで見ました。
私もその為に引っ越したの?と学会の上の人に言われたことがあります。
人はどうにでも勝手に思うものです。

目に見える世界だけが全てではなく、お題目を唱えていく信心がある人であれば姿形に必ず出てきます。
といっても、私は一日中全く鏡を見ない人ですが・・・。(自分に自信がない)
 

春様

 投稿者:史人  投稿日:2017年 8月 3日(木)20時59分37秒
  ありがとうございますm_m

今日は心なしか、職場含めて見えざる働きかけが多い一日となりました。
目に見えない世界からの働きかけでしょうか?こちらがそう思っていると思わぬ働きかけが多く感じられました・・・。

23時20分頃から0時までは他サイト(5日で8年になる)へ足を運んでいます。
生活直接ではないのですが、何がしか仏法用語を避けて(ブロクでは生命の内実とかの表現とさせていただいています。)、ご挨拶なり言葉など掛けさせていただき、励まさせていただいていますが、どなたも大変喜ばれます・・・。

東日本大震災後消息不明の方やご家族が代理でくも膜下出血で倒れたとか報告される切実なことや、この8年の間に体が不自由になり、病魔と闘っておられる方が私の交流させていただいている人の中でも出てきて、ついこの間まで挨拶していたのにという方など結構あります。
またこのご病気は私が40歳の時に同い年の方が亡くなっており、このネットでの人も私と同い年です。
私が0時前の訪問を重視してきた理由は、その方々(100人弱)が一日お元気にされていたかなど気になるから、一日の終わりにさせていただいています。


23時という時間は多分空けようと思えば空けられた筈なので、一度だけたまたま23時のお題目となったことはありますが、是非とも考えております。
 

お詫び・訂正その四十

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年 8月 3日(木)19時48分29秒
  お詫び・訂正その四十

以下は、極善会員の部外者さまの投稿と連続しましたので合わせて表記します。

正誤表 その002 ?
投稿者:The logic in the place   875
投稿日:2015年 4月30日(木)17時03分8秒

本日のSK第一面左中記事「牧口常三郎 創価教育の源流」パンプキン編集

(誤)1871年(明治4年)6月6日の生誕から、← 太陰暦

(正)1871年(明治4年)7月21日生誕から、← 太陽暦

6月6日には、またまた幹部を徴集して記念勤行会を開催されるんでしょうが、先生ご健在の時には、いちいちやってませんでした。何か、選挙の時みたいに人(幹部)をかき集めて記念勤行会やらないと不安なんですかぁ~?
近い将来、記念日は6月6日、御正当誕生会は7月21日なんて2回記念勤行会を開催して、広布基金をかき集めるなんてことはしないでくださいね。

わたしは、近年の学会本部が事あるごとに幹部集めて勤行会をやっているシーンをSKに掲載していることに違和感を感じています。一念の章にあるとおり、一人で、黙々と唱えるものであり、この掲示板のように同盟題目で良いのでは。
集合・離散する無駄時間・無駄エネルギーの消費もなく、地球にやさしい会合を心がけましょうね、HHTA!


Re:正誤表 その002 ?
投稿者:部外者
投稿日:2015年 4月30日(木)17時50分30秒
>(誤)1871年(明治4年)6月6日の生誕から、← 太陰暦

>(正)1871年(明治4年)7月21日生誕から、← 太陽暦

日本国内において、明治5年12月2日までは太陰太陽暦(天保暦)を使用し、その翌日の「明治6年1月1日」から太陽暦(グレゴリオ暦)に切り替えたわけです。
よって、牧口先生の誕生日については、当時使用されていた太陰太陽暦の「6月6日」で表記することは間違いではありませんよ。

これが「間違い」だとするならば、江戸時代以前の歴史に関する年月表記や、蓮祖・蓮祖門下に関連した史実の年月表記も「間違い」になってしまいますが。


レレレの正誤表002 ?
投稿者:The logic in the place   874
投稿日:2015年 5月 1日(金)22時31分55秒

模範解答の様な、現状維持の堕落したマニュアル文章ですね。20数年前に同じ事を聖教新聞社にした事があります(^o^)
蓮祖の年代も全て太陽歴に修正するんですよ。どうしてでしょうか?


Re:レレレの正誤表002 ?
投稿者:部外者
投稿日:2015年 5月 2日(土)00時47分15秒
>>模範解答の様な、現状維持の堕落したマニュアル文章ですね

牧口先生誕生当時に、日本国内で太陰太陽暦が使用されていたのは事実ですから、明治4年6月6日の表記は「間違いとは言えません」

もっとも、その当時の海外ではグレゴリオ太陽暦が主流になってたから、牧口先生の誕生日について「1871年7月21日(グレゴリオ暦)」と表記するのも、これも間違いではありませんね。

>>蓮祖の年代も全て太陽歴に修正するんですよ。どうしてでしょうか?
海外向けの翻訳を意味するのでしたら、
「日本国太陰太陽暦元号○年太歳○月○日」に「ユリウス暦□年□月□日」の「注釈」「併記」でしょう。


レレレのレレ正誤表002 ?
投稿者:The logic in the place  872
?投稿日:2015年 5月 5日(火)01時01分25秒

日本国信濃町学会村の常識では、「~であれば、~かも」なんていう上級公務員がよく使う表現方法に似て、堕落した論理を延々と展開して結論を先送りすることが常道なんでしょう。
アルベア様が言うような「バチカン市国のような」なんて考えられません。
創価ネットやら聖教オンラインと言う信者しか見ない限られた空間の中でも、未だに「6月6日(旧暦)」なんて表示しながら誕生日を表記しています。
新入会のメンバーが単純に疑問視されたのは、「どうして、逝去された日は新暦なのに、誕生日は旧暦なんですか?」と言った簡単な質問で、私は単純に「それは創価学会が旧暦が好きだから!」と答えました。旧暦フェチだと。

南元町流に言えば、「生まれ=オツム(A谷・H田)ペンペン=旧暦月日、逝去=オシリ(弓T川)ナデナデ=新暦月日」なんて言う下世話な学会村の感覚ですね。

牧口常三郎(西暦・旧暦月日生まれ~西暦・新暦月日逝去)という、だれもが「?」なんていう感じです。日本の創価ネットでは、わざわざ「6月6日(旧暦)」と表示していますが、海外のSGIホームページでは(旧暦)表示はなく、(6月6日)のままです。
どうしましょうか?ウィッキのネット辞典でも「6月6日」のまま、旧暦なんて表示はありません。英翻訳もされるネット辞典でかなりの方が閲覧するところでも「6月6日」のままです。

旧暦フェチの信濃町学会村の論理からすれば
「いいんじゃな~い、今さら、生誕記念日変えるのめんどくさいし~、学会が認定して(笑)制定した記念日に間違いはない!旧暦も新暦も関係ない。間違える奴が間違っている!」なんて吼えているんでしょうね。

先般、トフラー論の「パワーシフト」が紹介されていましたが、これに付け加えるならば、日本国の信濃町学会村(閉鎖的な宗教社会)は、「未来からの砲撃」を受けています。この砲撃をしているのは、宿坊の掲示版に書き込んでいる現場で闘う正しい学会員からです。

まあ、恥を晒す南元町(職員の方々)もスパイスになって良いと思います。永遠に記録に残しましょう。ネトリスメンバーの氏名は既に公表されてましたね。

キリスト教圏のフランス人(カルトな奴)がこの英文ウィッキの牧口常三郎の生没を確認したら、すぐに書き込みするでしょう。「実は創価学会創始者の牧口常三郎は、6月6日午前6時に生まれた悪魔の申し子だ、だからSGIは悪魔だ!」なんてね。誤解が誤解を生む発端を作って訂正もせずに延々と議論して終わり。同世代では、昭和50年代に「モラトリアム人間」とか「タコツボ人間」なんていう流行語が流行りましたが、今の信濃町学会村ではほとんどの職員がモラトリアムとなり、「タコツボ」に入ったまま、ダンマリを決めているようです。まさにBDですね。


レレレのレレ正誤表002(補足) ?
投稿者:The logic in the place   872
投稿日:2015年 5月 5日(火)02時50分39秒

日本国信濃町学会村のタコツボ論を丸山真男から学びましょう。

知の快楽 哲学の森に遊ぶ

タコツボ社会としての日本:丸山真男「日本の思想」
丸山真男が「日本の思想」の中で展開した議論の中で、「実感信仰」とともに最も大きなインパクトを与えたものは「ササラ型とタコツボ型」の対比を巡るものであろう。(日本の思想第三章「思想のあり方について」)

丸山は西洋文化がササラ型であるのに対して、日本文化はあらゆる点でタコツ
ボ型だといったうえで、そのタコツボ型の制約のようなことを論じた。つまり
一種の日本文化論になっていたわけで、そこのところが大いに話題になったわけだ。

ササラ型というのは、ササラのように同じ根っこから様々な枝葉が分かれるタイプの文化である。そうした文化では、根っこが共通だから枝葉同志の対話が成り立つ。
ところがタコツボ型の文化では、学問芸術から社会組織のあり方まであらゆるものがタコツボのように孤立して存在し、相互の関わり合いがない。
したがって対話が成立しない。日本では、文学者と社会科学者が共通の言葉を話すこともない、そう丸山は言って、文学と社会科学のみならず、あらゆる学問芸術分野が共通する言葉を使う西洋との著しい対比をあぶりだしている。(ヘーゲルでさえ使っている用語はそうした普通の言葉なのだ)

丸山は、このように社会が様々な部分に分断されて、統合の要素が弱いか、あるいは全く働かない文化は非常に危険だという問題意識をもって、こういう議論を展開したのだと思う。
こういう文化では、社会の構成部分はそれぞれに孤立して存在するから、「うち」に向かっては求心的な力が働き、外に向かっては排外的な力が働く。「うち」と「よそ」が峻別されるわけである。その結果社会全体としては統合の力が弱まり、それぞれの人間は統合された全体社会の一員として自分を意識するのではなく、あくまでも自分が属する狭い世界の一員として意識するようになる。

こういう社会では、統合の要素は社会の内部からではなく、外部からもたらされるほかはない。外部からの力は、必ずしもその社会にとって望ましい結果をもたらすとは限らない。むしろ望ましくない結果をもたらす可能性が強い。
日本がたどった超国家主義の悲劇がそれを物語っている。丸山が日本ファシズム批判の中で展開した議論のうちで、日本の社会のあり方が天皇を頂点としてヒエラルキー的に組織されていたという指摘があるが、それはタコツボ型の日本社会をまとめるものが天皇制イデオロギー以外になかったということを確認
する議論でもあったわけだ。

このタコツボ社会のあり方は、日本を破滅へと追いやる最大の要因になったわけだが、タコツボ型はそのほかにもいろんな面で深刻なマイナス効果を発揮している。先ほど文学と社会科学との間で共通の言葉を使った対話が成り立たないことについて述べたが、同じようなことは芸術・文化のあらゆる部分で生じ
ている。その結果日本には日本独特のタコツボ文化が栄えることになった。

タコツボ社会の最大の特徴は、「となりは何をする人ぞ」と言った具合に、隣近所を理解しないことであるから、自分が社会の中で占めている位置というものを正確に把握できない。その結果どういうことになるかと言うと、自分は隣の奴らから不当な仕打ちを受けているのではないかと妄想する被害者意識が蔓延することだ。つまりタコツボ同士で、隣のタコツボに疑心暗鬼になり、いらぬ心配をするばかりか、妄想が暴走してとんでもない言いがかりをつけたりもする。

これはもう理性的人間で構成される近代社会と言うのではなく、非理性的生き物で構成される餓鬼の世界というべきだ。そんな餓鬼の世界の段階から現実の日本は抜け出ていない。そんな趣旨のことをこの小論は主張したわけである。
「実感信仰」の問題と並んでこの「タコツボ型」の議論が大方のタコツボ知識人から猛烈な反発を食らったのも、十分な理由があったというべきだろう。


ーーーーーーーーーーーーーー
この正誤表002並びにやり取りは、以下の会則

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第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
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に大変該当します。

反逆者!裏切者!極悪!大極悪人です。極善会員の部外者さまの言を逆なでし、最高幹部を愚弄して挙げつらう極悪会員であり大変ふさわしくない言動です。私が極悪人です。

誠に誠に申し訳有りませんでした。
二度、三度と、欠点を挙げつらうことは致しません。極善弟子になるために、二度、三度とこのような投稿は致しません。
だから許して下さいね。
何度もお詫び・訂正・謝罪、改心を裏でやらずにこの宿坊の掲示板で公に謝罪しますね。

会則における全権統理する会長が『黒は白だ、偉いんです!』と認定発言されれば、我々末端の会員は、それに付き従い『その通り、黒は白です!』と口裏合わせするのが当たり前です。それが大極善弟子になり、改心した証となり、処分も解雇もクリアーできる営為です。これが極善会員の見本です。

間違いなど無い!間違いを糾す者が間違ってる!と言うことを私は繰り返して、頭悪いんで、また繰り返すかもしれません。この繰り返しが極善会員の改心活動です。

その都度、何度も訂正して、『間違いが間違っているから、間違いなんだ?いや、会長が認定している!池田先生も認定しているはずだ!だから、これで良いのだ!』と三段論法的に謝罪・訂正・お詫びをばしていきたいと存じます。今更、改心しても手遅れですが、頭悪いんでこれからもどしどし誠実にして真面目な極善会員になれるよう、改心した極善会員の証を投稿したいと存じます。処分の撤回は全く有りませんが今後も続けていきますよ。

全ては、会則にある通り、会長の全権統理に従い『間違いなし!』と会員として右に倣らう所存です。その結果・責任は、会則上の全権統理する会長にあるのです。

このような言を展開している内容を精査すると極悪人の私ひとりで投稿していないことが分かりますね、思想家の丸山真男まで出てくる。
その通りでこの投稿も代理投稿です。
私はマルチプレーヤーではありません。頭も回りません。仕事しながら、次々と投稿するのは無理です。困難な仕事を抱えた場合、十倍以上の作業が必要です。

この板を監視対象として、お仕事されているネットリスク対策室の極善会員(職員?)の皆様方、そしてその「報告事項」を読まずに片耳で聴いて認定作業される大極善幹部の皆様方とはぜんぜん違い世界なのです。

我々、一般会員は朝から晩まで、または深夜から早朝まで身体をボロボロにして仕事をしています。お酒飲むのも年に数回、付き合い程度です。
多くの現場末端会員は、ゆっくり休暇を楽しむとか週休三日とか朝9時から夕方5時で仕事が終わるような職場ではありませんよ。仕事は人の三倍どころか十倍二十倍(高齢化・人手不足)、毎日、毎日どのように処理を適正にやるかに能力が傾注されています。この宿坊の掲示板を毎日コピペして遊ぶように人物特定するような無駄仕事の世界では無いのです。
コメントのやり取りはメールでしますが、投稿責任は私に有ります。この投稿を続けている最中でも付け加え文が届きますが、極力定型文にして、お詫び・訂正・謝罪の企図が伝わるように極善会員の皆様にご配慮しているところです。
その気持ちが伝われば良いと考えていますよ。









 

一人のSGIさん

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 8月 3日(木)18時03分52秒
   一人のSGIさん

 いやー、参りました。そう言えば、御主人は、生粋の海外の方でしたね。

 ちょっと、失礼な追伸かとも思ったのですが(御免なさい)、辛酸を舐めて来られた方ですし、また、その生粋の海外の方が仏法を実践されてこられたわけですから、われわれにはわからない知見があると思って追伸してみました。いろいろな状況も、多方面の気遣いもあられるでしょうから、どうか無理をなされないようにお願いします。
 いまは、翻訳ソフトもありますからいいようなものの、長文となると、目の前も頭の中も真っ白になりそうです(笑い)。

 >仏法はパラドックスも多くて複雑ですが、生命を説いているのでしかたないですね(笑)<
 http://6027.teacup.com/situation/bbs/72733

 まったくその通りです。
 「自分の内にあって自分を超える妙法」――現代的な、帰納法的な言葉を使うなら“調和の当体”ほどの表現しかないのかも知れませんね。


 一生成仏抄講義の続きです。

 【妙法蓮華経】
******

 本有の妙理たる妙法蓮華経と一体になった生命が、仏界の生命です。南無妙法蓮華経は、この根源的な仏の生命の名でもあります。
 =中略=

 まず妙法蓮華経の「妙」について、私たち衆生の一念の心の不思議なる様(さま)こそが「妙」であると仰せです。そして、その不思議な様(さま)を、「有」と「無」の概念を用いて示されています。こう仰せです

 ――私たち自身の一念の心は、瞬間瞬間、起滅し、変転している。その変化極まりない心を探求してみると、「有る」と言おうとすれば、その心がどのような色で、どのような姿や形であるかは言えない。しかし、色や姿、形がないからといって、「無い」と言おうとすれば、様々に心が次から次に起こってくる。そう考えると、一念の心は、「有る」と考えるべきでもないし、「無い」と考えるべきでもない。すなわち、「有る」「無い」という二つの言葉では把握できず、「有る」「無い」という二つの考えも及ばない。
 言い換えれば、一念のこころは、「有」「無」の概念を超えている。しかも必ず「有」「無」のいずれかの姿をとる。「有」でも「無」でもなく、しかも「有」でもあり「無」でもある――

 このような不可思議なあり方をとる一念の心を、大聖人は「中道一実の妙体」と言われています。周知のように、「中道」とは、単なる中間という意味ではなく、二つの極端な立場にとらわれることなく、むしろ、それらを包む、より高次の立場に立つことです。
 釈尊は快楽主義と苦行主義という二つの極端な思想的・実践的立場を超えた、正しい思想・実践のあり方を立て、それを「中道」と称しました。そして、大聖人は、本抄において、「有」「無」という二つの極端を超え、しかも「有」「無」の両方のあり方をとる究極の真理を指して「中道」と言われています。その真理の究極性の面を指して「一実(唯一無二の真実もしくは実在)」と言われていると拝されます。

 「有・無を超えている」とは、「有」と「無」にわたって変化してやまない無常の現象を超えているという意味として拝することができます。そして、「しかも有・無の両方にわたる」と言われているのは、有・無を超えているといっても、無常の現象から全く切り離された超絶した実在や絶対者を指しているのではなく、無常の現象を包み、無常の現象に内在している真の永遠なるものを意味しているのです。
=中略=

 次に、これまで明かされた「妙なる心」を「法」というと言われています。
 「妙なる心」こそが「妙法」です。「空」といっても「三諦円融」といっても、抽象的な理論や言葉だけでは妙法とはいえません。人間の中道の智慧になって示されてこそ、人々の規範となり、法となって、弘まるからです。さらに、「此の法門の不思議をあらわす譬えを事法にかたどりて蓮華と名(なず)く」(御書三八四㌻)と仰せです。

 妙法といっても、目に見えません。その「此の法門の不思議」を仏は凡夫に理解させるために、具体的な事物を用いた「譬え」で説明します。それが「蓮華」です。

 なぜ蓮華なのか――。それは、普通の植物では、花が咲いた後に果実がもたらされます。この関係を因果の譬喩として用いれば、普通は花が原因で、実が結果となります。これは「因果異時」です。これに対して、ハスの花は、花弁とともに果実である蓮台が同時に成長し、花が開いた時に実が同時に生じる。蓮華の花と実は「因果倶時」を譬えることができます。

 成仏の仏因仏果について、法華経以外の爾前権教の教えでは、因である凡夫の生命の中に仏界があるのではなく、長い歴劫修行を経てはじめて仏の境涯が築かれることを説きます。これは「因果異時」です。しかし法華経の教えは、凡夫の生命に本来的に具わっている仏の境涯を、直ちに開き顕すと説きます。心に即して言えば、衆生の「迷いの心」が、仏の「妙なる心」へと直ちに転換すると説きます。この「因果倶時」を「蓮華」で譬えるのです。

 大聖人は、「経」の意義についても「心の妙」を示すものとして説明されています。
 すなわち、「一心を妙と知りぬれば亦(また)転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり」(御書三八四㌻)と仰せです。「経」という字は「たて糸」を意味し、時間的経過を表します。その意味から、「一心」とはある瞬間の心、「余心」とは別の瞬間の心とみることができます。私たちの生命は、瞬間瞬間、変化しています。しかし、唱題行に具わる強き祈り信で無明を打ち破れば、心に「本有の妙理」が現れ、妙法蓮華の生命が開花する。

 「無明の一念」を「法性真如の一心」に転換する成仏の因果を、唱題の持続によって日々、積み重ねていくことができる。その因果の功徳が、我が生命の骨髄となって、人格と人生に功徳の花が開花するのです。これが、一人の人における「妙経」です。またこの「妙経」を自分から他者への広がりと拝することもできます。「一心」を仏自身の心、「余心」を一切衆生の心と捉えれば、まさに「経」とは、仏が「妙なる心」である悟りの一端を説いたものです。そして「妙なる心」そのものを説いた経王が法華経であり、その真髄が妙法蓮華経となります。
 この意味で、自行化他にわたって南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱えて弘めていく広宣流布の展開こそが、「妙経」に当たるといえるでしょう。

 以上見てきたように、「妙法蓮華経」はまさに己心の法であり、一人ひとりが唱題による己心の瞬間瞬間の変革を積み重ねることによって、それが生命の根本的変革に、そして人生全体の変革すなわち一生成仏に、さらに広宣流布という人類の大変革の潮流となっていくのです。そして、そのあらゆる次元の変革の躍動がすべて、妙法蓮華経なのです。

(一生成仏抄講義106~112㌻、2006年1~7月大白蓮華掲載、2007年1・26発行)

******

 この「中道」ということについて、こうも思いました。極端な禁欲主義になる必要もないし、また極端な快楽主義になってもならない。つまり、適度に「喜び」を楽しめということになるかも知れません。なぜなら、「歓喜」も喜びです。


 

希望対話より

 投稿者:京都のおんな  投稿日:2017年 8月 3日(木)17時24分22秒
  私は信じている。

使命ある諸君が、

何があろうと負けるわけがない、と。

君たちは「勝つために生まれてきた」のだから。
 

内閣改造、ほとんど意味なし

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 8月 3日(木)12時25分44秒
  何のための内閣改造なのか、よく分からない結果になった。サプライズも特になし。

何だこれは?  本当に、国民の意識からズレまくった内閣だ。庶民の心が分かっていない。

これでは国民の望む政策を実現出来ないのも、むしろ当たり前だと思う。

延命の為、不人気閣僚を切っただけ、にしか見えない。

安倍首相が交代してこそ意味が有るのに、これでは支持率も回復しないだろう。  良い事だが。
来年まで何とか持たせよう、という気なのかも知れないが、そうは行くまい、と言うか、そうはさせない。

森友、加計、共謀罪に安保法制。これらの問題を白紙に戻すまで、追撃の手を緩めてはならない。

福田元首相。
各省庁の幹部が、官邸の顔色を見て仕事をしている事を批判。
国家の破滅に近づいている、とまで言ったそうだが、破滅に近づいているという点で、私もまったく同意する。

池田先生は、この国が再び、戦争への道を歩み始めないように、との思いを込めて、公明党を作られた。
なのにその最も大事な時に、公明党創価学会は、自民党と同じ戦争推進の側に立ったのだ。師敵対、明白な裏切りだ。

現在、少し押し戻したのは民衆の力。
公明党と創価学会は、平和を守る為に何もしていない。
むしろ権力に媚びへつらい、積極的に先生の平和主義を壊そうとして、ここまで来ている事を見破るべきだ。

破滅の危機は、まだ全然去ってはいない。



 

史人様へ 

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 8月 3日(木)11時45分20秒
編集済
  わからないことだらけ・・    投稿者:史人  投稿日:2017年 7月21日(金)00時42分29秒

私も「わからないことだらけ」だという事だけはよくわかります。(笑)
自分が信じるものを深く心に留めた上で、あとは一生涯かけて学んでいけばいいと思います。
全部わかれば、仏でしょうから。
私たちは仏でありながら、まだ仏にはなりきってないのも事実ですものね。(笑)

これも又私個人の考えですが、
「地涌の菩薩」の意味を、「総別の二義」の「総」の解釈において広域に捉えれば、信心しているいないに関わらず、すべての生命はおしなべて「地涌の菩薩」の予備軍であるのではないでしょうか。
一念三千の法理と、すべての生命に久遠元初の無作の三身が内在しているという事を考えればそういう結論になります。

「千草万木・地涌の菩薩に非ずと云う事なし」 御義口伝 p751
という御書の一節もあります。

もちろんそこから段階的に「別」していけば究極的には地涌の菩薩の上首である大聖人にたどり着きますが。

そう考えると、史人様の

>ここで「一心欲見仏」の一心とは信心のことであろうと思うが、人が生まれてから、譬えば赤子が乳を飲むのは一心にではあるが、
これは本能的に飲んでいることであり、一からということを考えている訳ではない。しかし一からという心は信心の智慧に通じる
のではないだろうか。<

というお考えは、私も同意します。
赤子が乳を飲む様な、生きていく自然の智慧も又仏性の一部の表れだと思います。
生きとし生けるものは、戸田先生が言われている「仏とは生命なんだ」に当てはめると、「生命それ自体が仏なんだ」ともなるからです。

>今日の座談会の拝読御書の下の仏界のところに、生命の根源が妙法であると覚知することによって開かれる・・・とありましたが、
私は根源を御本尊を顕された日蓮大聖人の命がなされた始まりとしてのものと捉え、そこに恩というものを考えていて、私自身、
根源の捉え方自体、全く外れてしまいましたが、やはり日蓮大聖人への返しきれない感謝ということに繋がります。
最初に考えた一心欲見仏という私が思い出だした解釈と気持ち的には同じです。<

私は史人様が外れているとは思いません。
少しお疲れの様に見受けられますが、これだけ純粋な信心があれば少しリラックスしても大丈夫ですよ。
史人様も実行されていると思いますが、私の体験からいうと、題目を上げるとき、今の組織の状態を改善するために、正しい大聖人の仏法の興隆を真剣に願うと元気が出ます。


 

【自分の内にあって自分を超える妙法】

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 8月 3日(木)11時38分57秒
  螺髪さんへ

以前、主人からよくこう質問されていました。

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、」
 日女御前御返事 p 1244

御書にはこうあるが、現実に御本尊は自分の外にあるじゃないか、、と。(笑)
依正不二論などで四苦八苦?して説明した記憶があります。

螺髪さんの先の投稿で昔の事を思い出していました。

(投稿の件、主人に伝えておきましたよ。そのうち投稿するかもしれません。
英語になりますが、、。(笑) )

http://6027.teacup.com/situation/bbs/72606
【自分の内にあって自分を超える妙法】
>凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり」(御書五五七㌻)<

又、別の御書にもこうもありますね。

「今の法華経は自力も定めて自力にあらず十界の一切衆生を具する自なる故に我が身に本より自の仏界・一切衆生の他の仏界・我が身に具せり、 されば今仏に成るに新仏にあらず又他力も定めて他力に非ず他仏も我等凡夫の自具なるが故に又他仏が我等が如く自に現同するなり、」
    一代聖教大意 p403

今の法華経は自力も単なる自力ではない。十界の一切衆生を具する自己であるゆえに、我が身に自己の仏界も一切衆生の他の仏界も元から具しているのである。だから今、仏になるということは自分で新しく仏に成るのではなく、自己に本来具する自他の仏界を顕現することにほかならない。また法華経は他力も単なる他力ではない。他の仏も我ら凡夫自身に具するゆえに他力ではない。
また他の仏も我らと同じように自らに現れるのである。

転載終わり

これは十界互具の法理ですね。
自力他力不二論とでもいいましょうか。
少し乱暴な解釈をするのを許していただけるなら、もともと自分の生命の全ての境涯に仏界を具しているのは、個人の努力によるものではないから単なる自力ではなく、しかしそれでも、その全ての仏界の境涯は自己の内部にあるものに他ならないので、自己に則してしか現れないので単なる他力でもない、、となりましょうか。

又、別の言い方をすれば、御本尊という存在は確かに外にあって「仏力、法力」として私たちの仏界顕現の縁になるという意味では、その修行自体は「他力」の面もあります。
しかし、修行をする私たちの「信力」「行力」の「自力」によって御本尊と境智冥合し仏界が顕現できるのは、翻っていえば、私たちの中にも「仏力」「法力」が潜在しているからではないでしょうか。
ですから、ここにもまた、自力他力不二の側面があるのではないかと思っています。

仏法はパラドックスも多くて複雑ですが、生命を説いているのでしかたないですね(笑)
「総別の二義」や「一応、最応」で言葉の意味を多重構造で解釈したり、而二不二論で生命の多元的な構造を説明したり、開会などで部分観を究極の一つの真理に昇華したり、等々。

史人様の気持ちがよくわかります。
 

幻の正本堂

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 8月 3日(木)08時53分53秒
編集済
 

大石寺の正本堂には1度だけしか行ったことが
ありません。そして、いまは幻の正本堂。
みんながお金を出して願いを実現した
はずなのに、これを破壊した日顕と日顕宗には絶対に
もどってはいけないとこの動画を見て思いま
した。そして、日顕は大御本尊を信じていなかった
とは。ただ、そんな日顕から離れて日蓮大聖人様
の仏法を広めようとしたお坊さんたちもいたとが
未来への救いです。

なんだか同じことが現在の創価学会
でおきているように思われてしかたが
ありません。三代の会長よりも自分を
大きく見せようとする姿が見えて
きませんか?

日蓮正宗は日達法主の時代にもどり、創価学会は
戸田先生の時代にもどってほしいと思います。
---------------------------------


日蓮大聖人様が全世界の民衆を救うために
書かれた弘安二年の大御本尊と、さまざま
な場面で個人のために書かれたもの、あるいは
誰かがまねて書いたものが同じであるわけが
ありません。その曼荼羅に込められた一念が
ちがうからです。

戸田先生が指導されたように、
弘安二年の大御本尊様でなければだめ
なのだと思ったほうが、毎日元気に楽しく
生きていけると思います。
---------------------------------
現在の創価学会もおかしいし、現在の
日顕宗もおかしい、どこに行ったら
いいのか考えると、両方とも飛び越えて
私は四条金吾のような純粋な信心をめざそうと
思うのでした。
私の心は幻の正本堂で四条金吾といっしょに
毎日弘安二年の大御本尊様にお題目を唱えています。
---------------------------------




http://imagine-happy-life.tokyo/

 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、もう『多部数購読』は必要ありませんねぇ~(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年 8月 3日(木)08時02分16秒
  おはようございます。原田怪鳥様、9月の本部幹部会が全国学生部大会になったとのコト、誠におめでとうございま~す(笑)

「御義口伝」を研鑽されるそうデスが、〇大教授であらせられ、某宗教団体で、教学部アドバイザー様でもあらせられる〇田教授サマは、

徹底的な真蹟主義で、「御義口伝」などは、お認めになってないと伺いましたが、ダイジョウブですかぁ~(爆)


それと、原田怪鳥様、4面・5面と電子書籍の2面ブチ抜きの大宣伝、誠にご苦労様で~す(笑)

全国の多部数購読者の皆さぁ~ん、もう多部数購読をする必要はありませぇ~ん(爆)

5部や10部は当たり前、推進月間には、やれ20部だ30部だと、ムダな浪費も必要ありませぇ~ん(爆)

政教珍聞も大白蓮華も、全て電子版にしましょうねぇ~、複数の端末で読めるそうデスので、多部数自体必要ありませぇ~ん(爆)

また、減部したからといって、除名になることもないでしょ~う(笑)

「どうして減部したの?」「先生からのお手紙なのよ!」「一家の人数分だけ購読するのが、当たり前でしょう!」

などといった、ワケのわからない周囲の声からも解放されまぁ~す(爆)


もっとも、小生のごとく、未だにスマホも使いこなせないガラケー人間には無理なハナシですので、

1部をじっくりと読ませていただきマスケドぉ~(笑)

原田怪鳥様、ナニか? 魂胆があってのコトですかぁ~(爆)

まあ、これで、政教珍聞減部による新たな除名者が出ないように、期待しないで待ってまぁ~す(爆)


 

わが友に贈る 2017年8月3日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2017年 8月 3日(木)07時18分40秒
  海・山・川での
事故が増える時期。
天候の急変や体調管理に
くれぐれも注意を。
「心に深き用心」あれ!
 

先生が本当にお元気ならば…

 投稿者:コンペー  投稿日:2017年 8月 3日(木)05時59分30秒
  先生がご出席された最後の本部幹部会から7回目の夏。先生が本当にお元気なら、こんな学会にはならなかっただろう。残念でならない。

誰かがつぶやいていた。
ある著名な政治記者とのやりとりの中での先生の言葉…  趣旨  今の永田町やその周辺にぴったりですね。

「独裁は臆病である。必ず滅びる。」







 

21世紀への選択 「他者性の尊重」に基づく「開かれた対話」 p46

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 8月 3日(木)01時29分23秒
  21世紀への選択 「他者性の尊重」に基づく「開かれた対話」 p46


地球市民と言う大所・高所から文明と文明の違いを乗り越えて対話していく基準が述べられています。

10項目ありますが、『他者を尊重し・・・他者の意見を聞く』『意見の多様さを認め、グループ

思考は避ける』と・・・。

日本人はグループ思考で一番良い意見より、みんなが納得する意見でまとめようとします。

これが、有名な「和をもって貴しとなす」聖徳太子です。

この考え方は、力ある先輩や役職上位の人の意見は正しい、となって間違った方向に行く可能性が

高いです。

東芝のトップは経団連の常連で政界にも、強い影響力を持っていました。

その組織は上位下達の風通しの悪い、組織だったと・・・日本式の会社であったのだろうと、推測
されます。

そのことが仇となって、下からの意見は通らず、上部の者だけで全てを取り仕切ったがために大失敗
を犯して、倒産寸前です。

其の点では、ソニーとか日産自動車は一時危ないと言われていましたが、外国人の社長を入れて黒字
回復しました。

それだけではなく、日産は三菱自動車も吸収して電気自動車では、あのトヨタ自動車より評価を高め
ています。

カルロス・ゴーン会長の力だと誰でも思うのではないでしょうか。

日本的な組織を、西欧風な合理主義の体制に、改革したのが大成功したモデルとなっていると思いま
す。

宗教団体でも、会社でも組織でも改革も何もしなければ、役職が上の者が言うことに忠実な、ポチ的

な人間がはびこり、硬直化した肥満体の組織となり動脈硬化を起こします。

念のため・・・決して、信濃町周辺の団体のことではありません。

結論として『他者を尊重し・・・他者の意見を聞く』『意見の多様さを認め、グループ思考は避ける』と・・・。

これを実践する組織は活性化して、成長していきます、植物でも眠ったように花が咲かない木には、

根を切ったり、枝に傷をつけて活性化を図ると言います、上部の団体にも剪定とダイエットと根切り

を勧めたいと思います。

そして、風通し良い、””自身の同僚たちにその貢献を感謝する””組織にしませんか。

以上 鈴之助


ポイント
* テヘラニアン・・・21世紀への選択 「「他者性の尊重」に基づく「開かれた対話」 p46

一、他者を尊重し、心情と精神のすべてをもって他者の意見に深く耳を傾ける。

二、総意への共通の基盤を探求するが、意見の多様さを認め、重んじて、グループ思考は避ける。

十、自身の同僚たちにその貢献を感謝する。

* 池田・・・

すべての項目を通じて、「他者性の尊重」に根ざした「開かれた対話」という視点が貫かれて

います。

人類がめざすべき対話のモデルを提示した試みとして、高く評価されてしかるべきでしょう。
 

21世紀への選択 「他者性の尊重」に基づく「開かれた対話」 p46

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 8月 3日(木)01時19分6秒
  21世紀への選択 「他者性の尊重」に基づく「開かれた対話」 p46

テヘラニアン
 さきほども紹介しましたが、戸田平和研究所では「地球市民のための文明間の対話」を

モットーに掲げ、研究を進めております。

その有様を模索するなかで、「対話のルール」ともいうべき、一つのガイドラインをま

とめました。網羅的ではなく、あくまで試案的なものですが、ここで紹介させていただい

てよろしいでしょうか。

池田
 どうぞ、ぜひお願いします。

テヘラニアン
 全部で十項目あります。

一、他者を尊重し、心情と精神のすべてをもって他者の意見に深く耳を傾ける。

二、総意への共通の基盤を探求するが、意見の多様さを認め、重んじて、グループ思

考は避ける。

三、不適切な干渉も、節度のない干渉もしない。

四、討論に自身が貢献する前に、他者の貢献を認める。

五、沈黙も言葉であることを忘れない。発言は、適切な問いを提起するか、事実を述べるか、

主張するか、主張を明確にするか、討論をより具体的な点へ、またはより大きな総意へ進める

ことによってなすべき寄与があるときに限る。

六、重大な意見の相違があるときは、相違を認めたうえでさらに討議する。

七、自身の意見を通すため他者の意見を歪めることは決してしない。自身の異論を述べ

る前に、他者の立場に他者が満足するまで言い及ぶように努める。

八、いかなる討議事項にも一致点を形成したあと、次の議題に移る。

九、グループの方針と行動のため、一致点に含まれる意味合いを引き出す。

十、自身の同僚たちにその貢献を感謝する。

・・・以上です。

池田
 いずれも重要なポイントですね。

すべての項目を通じて、「他者性の尊重」に根ざした「開かれた対話」という視点が貫かれて

います。

人類がめざすべき対話のモデルを提示した試みとして、高く評価されてしかるべきでしょう。

また、後世に残る試みだと信じます。

テヘラニアン
 ありがとうございます。

今後も、さまざまな角度からさらに検討を加えながら、研究を進めていきたいと思います。
 

「安倍氏選挙応援で公選法違反の疑い」を読み以下を連想

 投稿者:新感性  投稿日:2017年 8月 3日(木)00時14分52秒
編集済
  文春オンライン2017年08月02日 16:00加計学園 安倍氏選挙応援で公選法違反の疑い - 「週刊文春」編集部
http://blogos.com/article/238205/

週刊文春が入手したという、2009年7月28日付の加計学園の労働組合の「要求書」には、
法人職員の職場ぐるみの選挙活動については、職場の上下関係において上位にある者が行えば、強要の意図がなくとも下位の者は非常に断りにくい状況に追い込まれることは火を見るより明らかであり、これは思想信条の自由に対する重大な侵害である〉との記述があるそうです。

また文春記事は公職選挙法に詳しい神戸学院大の上脇博之教授の指摘も拝見しました。

学校法人同様に国法で優遇措置が認められている宗教法人の職員についても公選法上の問題が出てくるかどうかの疑問が浮かんできました。
学校法人職員はダメだけど宗教法人職員なら問題ないのでしょうか?
このことは宗教法人に限らず労働組合など別の法人についても当てはまるのかもしれません。
もちろんこれは宗教法人による特定政党への支援の是非とは別問題で宗教法人職員の業務としての政治活動のことを言っています。業務に職務命令は不可分です。
逆に宗教法人職員が勤務とは離れた日時で個人として選挙活動をするのは自由だと思います。(これについてもこと職員に関しては勤務との分離は実質不可能など異議があれば御指摘ください)

文春が報じる加計学園職員の行動に問題が生じるのであれば宗教法人職場においてもその上下関係において強要の意図があろうとなかろうとも問題は発生しないのでしょうかね?
検索してみましたが、ありきたりの政教一致・分離に関するものではなくこの部分に関しては私の読解では見当たりません。

今回の文春の記事を読み、行政からの各種優遇措置が講じられていようといまいと、職場ぐるみの選挙活動自体、従業員・雇用者の思想信条の自由を侵害する可能性もあるという意味では憲法違反、あるいは公職選挙法違反(職位を利用した強制的な投票の指示等)、政治資金規正法違反を問われかねないのではと思ってしまいました。

このあたりについてどなたか端的でもかまいませんのでご説明していただけるご親切な方がいらっしゃることを希望します。

 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年 8月 3日(木)00時00分27秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
池田先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
会長、副会長、一部職員の詐欺師集団に会員さんがだまされません様に

史人様へ
初めまして
同盟題目で唱題すると元気になり自分に自信がつきます
私自身、助けられ他人と比較して心が落ち込む事がへりました
同盟題目に初参加した日は、思い出せませんが一年は過ぎたと思います
元気になりました
よろしければ、一緒に題目を唱えましょう
おやすみなさい

 

北海道奥尻島沖排他的専管水域に着弾した北朝鮮の大陸間弾道ミサイルは本来、日本の何処でも狙える着弾精度を持つ!

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年 8月 2日(水)23時46分47秒
  南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。北朝鮮を空爆撲滅せよ!日本の、就中、東京の安全保障のために?  

同盟題目は23時に開始です。よろしくお願いします。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 8月 2日(水)22時55分19秒
  池田先生と奥様のご健康を祈ります。

追伸
赤胴鈴之助 様
テヘラニアン博士との対談をありがとうございます。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/72664

>>21世紀への選択??
求められる「対話」の精神 p40投稿します。

久しぶりに「21世紀への選択」を読み返しています。
 

御供養と御得の違い・・

 投稿者:史人  投稿日:2017年 8月 2日(水)22時47分51秒
編集済
  如是相はごまかせない・・
日蓮正宗?系のお数珠を丸くして親指にかけている光景を見たことがある。
どうしたった何がしかの日蓮大聖人の御本尊に手を合わせていれば、相が立派になっていく。

かくいう私は全く立派には見えない。寧ろ今迄立派に見られたことは一度もない。
ただ、7年前まで4年間務めた会社の社長が、兄ちゃんのお母さんはよほど立派な人なんやろう!?
と度々言っていました。妙法の功徳はハッキリと姿形に現われない場合もある。
それでも、何かの立ち居振る舞いでそれと気づかれてしまうこともあるようです・・・。
それが妙法の不思議さです。如是相に出ないのも不思議なら、遠因を親に見る人も居ます。
私自身、男女共、人に好かれたことはないと自覚しているし、寧ろ、憎まれ、疎まれ(今の会社に入ってからずっとだったと昨日知る)、横柄に物を言われてきていることから一目瞭然です。

それでも、また今朝思ったことですが、ご観念文の中の回向について、自分の目に見えない功徳を回向していけばよい(そう振舞えばよい)と思い、お題目もそのように唱えてまた40分以上かかる帰途の途中で考えていました。

ある人が何度違うと言っても「南無下種三宝御報恩謝徳御供養の為、南無妙法蓮華経」の御供養のところを御得と聞く耳持たずです・・・。
見てると振る舞いがどうしてもそういうふうになってしまっています。

自分達さえよければいいという、偏屈にさせるものもある、考えが凝り固まってしまうと、人への施しというものをしなくなる。
それが妙法を信じている人の中にもたくさん居るのではないか?と時折考えますが、「得」という考えは本当に大事なのか?

ここで数珠の掛け方が正宗系でなくとも、どうしても相などに顕れてしまうのは、これは御供養の心が根本なのか、それとも御得の心が根本なのか、是非とも知りたいものです。
 

可哀想な執行部とその仲間達ヽ(^○^)ノ

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年 8月 2日(水)22時47分18秒
編集済
  栃木の久保田です。ヽ(^○^)ノ

『創価学会は人生の総合大学である』と先生は言われ

ました。

どの様な┐('~`;)┌世間で言うところの一流大学でも、

授業の中には無い。最高学府でも教えて貰えない生き

方をヽ(^○^)ノそれも最も幸福な人生、生き方を教えてくれる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は学会二世です。少年部の時から部員会に出来る限り参加して来ました。中等部の時も、高等部に成ってもヽ(^○^)ノ

私の家が地区や支部の拠点として会場を提供してきたのもあり、仕切り無しに学会員さんが出入りし色んな人と知りあい、お世話になったり、一緒に遊んでもらったりしてきました。

そのような人達とのかかわりや毎回自宅で行われてきた座談会やヽ(^○^)ノ御書の勉強会や折伏座等、周りに常にいた色んな世代の学会員さん。

いつも元気な男子部のお兄さん、優しいお姉さん、婦人部のお母さん達、包容力のある壮年部のおじさん達、中には少しは問題のあった方も居ましたが、とても素晴らしい人達の中で現在の自分が有るのだと痛感致します。

これ等の私がかかわった素晴らしい人達全ての中心が池田先生の生命とのつながりで池田先生が偉大だったからみんな素晴らしい人達だったのだ!

池田先生の授業を受けてきた池田大学の生徒の皆さんだったから素晴らしかったのだと痛感する。

現会長の原田は『指導者』と呼べるのか?┐('~`;)┌

少くても私は原田から何も教わった物は無い(  ^∀^)

『秋谷は5口』は長年?何をやって来たんだ┐('~`;)┌

池田先生の近くにいながら何故正しい生き方を学んで来なかったのか?

勉強の出来るバカなんだねヽ(^○^)ノ

仏法の人間主義が全然身に付いていない執行部の?

『勉強の出来る』盛りのついた猿?

『人のカッコした』発情したネズミ?

どっちにしても可哀想な人達だ┐('~`;)┌

原田、秋谷、八尋、谷川勃樹(^o^)、浩、

お前達の事だよ(# ゜Д゜)

                      
 

お詫び・訂正その三十九

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年 8月 2日(水)21時50分41秒
  レ・ミゼラブル018 ?
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 4月30日(木)01時05分8秒

七 クラヴァット

 ここに自然、省いてならない一事を述べておかなければならない。それはディーニュの司教がいかなる人物であったかをよく示す事がらの一つだから。
 オリウールの峡路を荒した山賊ガスパール・ベスの一隊が瓦解した後、その首領の一人であったクラヴァットという者が山中に逃げ込んだ。彼はガスパール・ベスの仲間の残党である無頼の徒とともに、しばらくニースの伯爵領に身を潜めていたが、それからピエモンの方へ行き、そして突然フランスのバルスロンネットの方面に現われた。ジューグ・ド・レーグルの洞窟に身を隠して、そこからユベーおよびユベエットの谷合いを通って村落の方へやってきた。アンブロンまでもでかけてゆき、ある晩などは大会堂に侵入して聖房の品物を奪い去った。その略奪はその地方を悩ました。憲兵をして追跡せしめたが無益であった。彼はいつも巧みに脱し、時としては猛烈な抵抗を試みた。。実に不敵な悪漢だった。
 その恐惶の最中に司教がそこへやって行った。巡回をしていたのである。シャストラルで、村長は彼を訪れてきて途を引き返すように勧めた。クラヴァットはアルシュおよびその向こうまで山を占領していたのである。警護の人をつれてもなお危険であった。三四人の不幸な憲兵をいたずらに危険にさらすのみだった。
 「それですから、」と司教は言った。「私は警護なしに一人で行くつもりです。」
「そんなお考えを・・・。」と村長は叫んだ。

(中略)

「閣下、彼らはあなたの持物を奪うでしょう。」
 「私は何も持っていません。」
 「あなたを殺すかも知れません。」
 「他愛もないことをつぶやいて通っていく年老いた牧師をですか?ばかな!それが何になるでしょう。」
 「ああそれでも、もしお出会いなされたら?」
 「私は彼らに貧しい人々のための施しを求めましょう。」
 「閣下、どうか行かないで下さい。お命にかかわります。」
 「村長どの。」と司教は言った、「ちょうどそのことです。私がこの世にいるのは、自分の生命を守るためではなくて、人々の魂を守らんがためです。」
 彼のなすに任せるほかなかった。彼は案内者になろうと自ら申し出た一人の子供だけを伴って出立つした。彼の頑固はその付近の人々の口に上り、そして非常に人々の心を痛めた。
 彼は妹をもマグロアールをも連れて行こうとしなかった。彼は驢馬の背に乗って山を通り、だれにも出会わず、無事に彼の「善良な友」たる羊飼いたちのもとに着いた。そこで彼は信仰を説き祭式を執り物を教え道徳を説きなどして、十五日の間留まっていた。出発の迫ってきた頃彼は正式をもって讃歌(テデオム)を歌うことにした。彼はそのことを主任司祭に話した。しかしいかにしたらいいか。司教の飾具なんか一つもない。村のみずぼらしい聖房と平細で飾られたダマ織りの古いすりきれた二三の法衣とが、使用し得らるるすべてであった。
 「なに、」と司教は言った、「司祭さん、やはり会衆に讃歌(テデオム)のことを伝えておきましょう。どうにかなるでしょう。」
 人々は付近の会堂をさがし歩いた。が付近の教区のすべてのりっぱなものを集めても、大会堂の一人の合唱隊長の適宜な衣装にも足りなかった。
 この当惑の最中に、二人の見知らぬ騎馬の男が大きな一つの箱を持ってきて、司教へと言って司祭の家に置き、そのまま立ち去ってしまった。箱を開いてみると中には、金襴の法衣、金剛石をちりばめた司教の冠、大司教の十字架、見事な笏杖、その他一月前にアンブロンのノートルダーム寺院から盗まれたすべての司教服がはいっていた。箱の中に一枚の紙があって、その上に次の語が誌してあった。「クラヴァットよりビヤンヴニュ閣下へ。」
 「だから、どうにかなるでしょうと私が申し上げたのです!」と司教は言った。それから彼はほほえみながらつけ加えた。「司祭の白衣で満足する者に、神は大司教の法衣を下されます。」「閣下、」と司祭は頭を振り立てながらほほえんでつぶやいた、「神様か ― または悪魔か。」司教は司祭をじっとながめた、そしておごそかに言った。「神です。」

 (中略)

 その晩床につく前に彼はなお言った。「決して盗賊や殺人者をも恐れてはいけない。それらは外部の危険で小さなものである。われわれはわれわれ自身を恐れなければならない。偏見は盗賊である。悪徳は殺人者である。大きな危険はわれわれの内部にある。われわれの頭や財布を脅かすものは何でもない。われわれの心霊を脅かすもののことだけを考えればよいのだ。」

 (以下略)

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

4月20日SK第一面左中に「大道を歩む Ⅲ」の中国語(繁体字)版が出版されていたという記事を見て、先般のキッシンジャー発言(正誤表001)を載せたのですがネトリス対策室の高学歴・傲慢・学会職員(売僧)の方は、過去の「大道を歩む Ⅱ」中国語(繁体字)版の内容を確認されましたでしょうか?「毛沢東」と「周恩来」の違いもさることながら、キッシンジャー氏が嘘を言っていたとか、先生が耄碌してデタラメ話をしていたと言う、はっきり言って、弟子の裏切り行為であり、日中友好に泥を塗る営為?わざと誰かの指示でやったのですね、と私は信じています(笑)。こうやって師匠を貶めていく。さすがHHTA、TSIのBD!今後も正誤表で追及していきます。

さて、ミリエル司教の最後の言葉の
「決して盗賊や殺人者をも恐れてはいけない。それらは外部の危険で小さなものである。われわれはわれわれ自身を恐れなければならない。偏見は盗賊である。悪徳は殺人者である。大きな危険はわれわれの内部にある。われわれの頭や財布を脅かすものは何でもない。われわれの心霊を脅かすもののことだけを考えればよいのだ。」
から、「偏見は盗賊」・「悪徳は殺人者」を考えてみましょう。

「偏見」とはHHTAが直接指示をして某ツイッターを叩き潰すために、スパイさせてメンバーリストを作成し、方面幹部からTSIのBD幹部を使って、査問・面談してツイッターを壊滅。ところが今度は、この掲示板にすべての情報が流れ込んでしまい、世界発信される始末となりました。創価・公明党の対外交渉にも多大な影響を与えていますね。
今にして思えば、会則変更、会憲、教義変更の悪巧みを数年前からHHTAを含むBD幹部が予定していたから、某ツイッターが恐ろしくなり(聞くところによると、HHTAは、ツイッターが学会内の分派工作をしていると錯覚)豪腕を奮ったと言うじゃありませんか?ツイッターメンバー内では笑い話ですが、「悪事の偏見(盗賊行為?)」が今になって「宿坊の掲示板」で世界発信されてしまうとは誰も予想していませんでしたね。

そしてT治を含む富士宮TSI・BDの「悪徳行為」は、信仰を潰す「殺人者」です。
皆さんも(まともな弟子もそうじゃないBDネトリスTSMも)、小説読みながら、ウ~と唸ってみてください(笑)。

ーーーーーーーーーーーーーー
書籍の抜粋引用は、以下の会則

????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????

は、該当していません。

ーーーーーーーーーーーーーー
以下、解説で書かれている部分は、に大変該当します。反逆者!裏切者!極悪!大極悪人です。
HHTAの最高幹部さまや・富士宮の大極善大幹部さま、横領・着服の大極善弟子のT痔さまを愚弄して挙げつらう極悪会員であり大変ふさわしくない言動です。

私が極悪人です。
秋谷元会長先生・原田会長先生の大極善弟子歴代会長が『改心して問題無し!極善弟子に認定!池田先生もお認めになっている?』(私のような現場末端の弟子には頭悪いんで、どのようになっているか全く分かりませんが)からですね。

このような極善弟子へと改心された組織犯罪者が大勢居るところが、創価学会であると外部の方から言われましたが、私は言に『そんかことはない!断じて無い!改心して反省・謝罪を(誰にしてどうされたかは分かりませんが?)した組織犯罪者でも、池田先生からケダモノ呼ばわりされたり、遠くへ飛ばせと言われても、会運営の時の会長さまが全権統理されて極善認定をして、大極善弟子となって、黙って貴族のように優雅な生活を保障されているのです。これが実証です!』と釈明してします。
だから、この板でのお詫び・訂正でも釈明しますね。誠に誠に申し訳有りませんでした。

会則において全ての権限を有する会長が『黒は白だ、偉いんです!』と認定発言されれば、我々末端の会員は、主観的な会則判断に付き従い『その通り、黒は白です!』と何も考えずに口裏合わせするの役職の無い一会員の正しい言動です。

それが分かった私だから右に倣らうのが大極善弟子になり、改心した証となり、処分も解雇もクリアーできる営為だと認識しました。

これが極善会員への道です。道を踏み外した者は、村八分、査問・除名されます。だから、平坦で何も無い下り坂の道を下っていくことが楽チンであり、波風など立ててはダメ?舗装された坂道は躓くことも、波風も立ちませんね。
ゆっくりと周りの風景を眺めながら、お花畑を夢みながら、群れを成して歩みを止めずに進んでいきましょう。
私は頭の悪い極悪人なので、どうも下りは歩行困難になったりして立ち止まり追いつかないのですが、逆に困難な稜線が続く岩だらけの坂道を好んで登っているようです。

間違いなど無い!間違いを糾す者が間違ってる!と言うことを私は繰り返して、頭悪いんで、また繰り返すかもしれません。この繰り返しが極善会員の改心活動です。

『ブラボーわが人生』ならぬ『アン・ビリバーボー?わが人生』、もう池田先生に直接指導を受けた弟子は皆、この世の使命を終えて、私のような先生とは会ったことも指導を受けたこともない弟子ばかりになります。

この中で大極善弟子の大幹部の皆様方は、次々に益々御元気に、若々しくメッセージや提言、著名人との対談、そして歴史に残る新・人間革命を執筆されて、認定もどしどし指示されて居ることでしょう。極善弟子の皆様と違い、現場末端の極悪平会員の私には理解できない世界です。でも、メッセージ出したり、出さなかったり、聖教に掲載したり、掲載しなかったり、口頭だけだったりと一貫性がないのは、極悪弟子でなくとも違和感が有ります。
外部購読者からも笑われてしまいました。でも極悪の私は『不遜だ!オカシナことはない!創価学会には断じて無い!なんでも皆、正しいのが創価学会である!』と述べて置きましたよ。

感受的なところへ、私は師匠同様に外へ外へと友情を結びます。








 

“感受”的なところで動く!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 8月 2日(水)20時01分21秒
編集済
   人間は、きわめて“感受”的なところで動いていると見ざるを得ません。

 アーノルド・トインビーの言葉に、なぜ教会にいくのだろうかとの問いに、こうあったのを記憶しています。「彼らは聖書の言葉とか、教義を理解して礼拝に参加しているのではないのです」(趣旨)と――。
 確か、「21世紀への対話」だと思って再度めくったのですが、やはり端折り読みでは見つけられません。おかげで上・下をもう一度読むことはできましたが(笑い)。

 そのあとに、「むしろ誰かに会いに行っている」という趣旨の文言が続いていたように記憶します。(ほかの書物だったかもしれません)聖書や聖職者の言葉を聞くとか聞かないとかではなく、同じ仲間の「人」に会いに行っているということになります。
 まなこさんの投稿を注意して見ています。

 学会会合参加者にも似たような光景が見受けられます。
 長い、聞くだけの会合が終わって(笑い)、残って、幹部とか、組織別とかで集まります。そのあと、ロビーで打ち合わせのために集ります。そして、玄関で知り合いを見つけて話し込み、さらに外にいって、駐車場でも気心の知れた人と話す(笑い)、といった光景が日常茶飯事で見られるのです。情報の交換とか、打ちだし内容の確認とかではないようです。

 どうも話してないと心が休まらないようです。安堵感が得られないのです。むしろ、その人との心の一体感を求めているようです。“仲間”だということを感じたいわけです。要するに安心したいわけです。それは、むしろ、感受の世界です。とくに上位役職者は、その傾向が強いようです。意識するかしないに関わらず、“自分の側にいる”ことを確かめたいだけなのかも知れません。つまり、“自分”のためです

 それは、「群れたがる」こととほぼ同じようです。人は“臆病”だから、群れたがります。群れて、片時なりともその臆病を覆い隠そうとするのです。臆病は三悪道・四悪趣の特徴です。「畜生」と特定していいかもしれません。臆病の恐怖から逃れ、安心したいから群れるのです。安心、安楽は「涅槃」です。

 十界本有ですから、どんな衆生も臆病です。臆病の衆生でこの娑婆は一杯です。
 「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ、ひだるし(空腹)とをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、をそろししと・いわばたかにあへるきじ(雉)ねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ、=中略=なごへ(※名越)の尼せう房・のと房・三位房なんどのやうに候、をくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者どもは・ぬれるうるしに水をかけそらをきりたるやうに候ぞ」(聖人御難事1190~1191㌻)

 「をくびやう(※臆病)物をぼへず・よく(欲)ふかく・うたがい(疑い)多き者」。俗に、退転四点セットです(笑い)。
 “境涯”を変えるというのは、「学ぶ」ということです。何かに向けて「行動」を起こすということです。何もしなければ、何も変わりません。その学び、行動を起こす源泉が「生命力」です。つまり信、行、学(順次逆)です。

 “痛み”や“慈愛”は、言葉や論理から生まれるものではありません。「感受」があって、それが“痛み”や“慈愛”という言葉を生み出します。「感受」が先にあって「認識」を生みます。そして、何らかのきっかけ(縁)でその「感受」が生じた時にのみ、“痛み”や“慈愛”という言葉に共鳴します。そして、今度は「認識」が「感受」に作用します。その繰り返しの積算が「一念三千」の「三千」だということが言えるでしょうか。


 

夏季友好期間中ですが、個人的には親しくしている地区部長から盛夏見舞いのメールが届きました。

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年 8月 2日(水)18時30分22秒
  昨今の北朝鮮による大陸間弾道ミサイルの発射実験を受けて、北朝鮮撲滅戦争即時開戦止む無し、とのメッセージが書かれていました。南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。東京におられる池田大作先生をお護りするがためには、多少の犠牲はヤムを得ない。南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。  

twitterより。池田先生が生涯をかけて訴えてきた事は国家主義への警鐘。

 投稿者:ツイート人  投稿日:2017年 8月 2日(水)18時07分24秒
  池田名誉会長が生涯をかけて訴えてきた事は、平和憲法の死守と、人々を戦争に引きずり込む国家主義への警鐘。その為にあえて創共協定にも踏切った。
安倍自民党・日本会議が目論む国家主義的改憲こそ 名誉会長が最も危惧し阻止しようとしたこと。
自民改憲支持は 名誉会長の努力を否定することに。
 

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