この論文は、昭和57年当時に執筆されたものです
正信覚醒運動の変遷 2.日達上人と覚醒運動
少なくとも、この運動の起きた当初の時期においては、これに携わる大多数の人々が、「唯授一人・血脈付法の御法主上人と、戒壇の大御本尊を根本とした、正しい日蓮正宗の信仰をしていかねばならない。自分達の運動は、何も知らぬ学会員をして、この正しい信仰の在り方に目覚めさせるためのものである」 との意識を持っていた筈(はず)です。
また御先師日達上人も、当初は、そのように正信覚醒運動を認識され、評価あそばされておられたものと拝します。それ故、これに携わる御僧侶方や檀徒の人達に対し、しばしば激励のお言葉等を賜わり、理解と信頼をお示しになっていたのであります。
それは、当初における覚醒運動の路線が、本宗の法義・信仰の根本に適うところがあったからに他なりませんが、その当初の路線と原点は、途中から徐々に不穏な方向へと変貌しはじめました。というよりも、むしろ私どもの知るかぎりでは、ごく一部の方の当初からの所信に基づき、他の大多数の僧俗が次第に逸脱した方向へと誘導された、というのが真相でありましょう。
それについては、私どもの見聞してきた出来事、日達上人のお言葉、その他の資料等を見るとき、あまりに明らかであります。
まず、檀徒という名称も耳新しく、まだ正信覚醒運動という名称も使われていなかった昭和五十三年の一月、すでに今日の状況が来たることを予想させるような、一部の方々の発言がありました。
その内容は、「日蓮正宗の中に創価学会の四字が存在するかぎり、広宣流布は絶対にできない。それだけ学会は世間に悪印象を与えすぎている。
また、日達上人は八方美人であるから、学会問題について日達上人のお言葉どおりに行動することは危険である。
そこで、まず日達上人が体を翻(ひるがえ)せぬ状況を作るべく、学会破門を要求する僧侶が集まって日達上人を突き上げ、それに歩調を合わせて法華講数千名を本山に結集させる。そして、いっきに日達上人から学会破門の決断を下してもらう」
というものでした。
いったい、これが真に御法主日達上人をお慕い申し上げての赤誠の御奉公と呼べるのであろうか、また創価学会に対しても、その謗法を改めさせて正しい信仰に立ち還らせるというより、むしろ学会が存在すること自体を頭から許さないつもりではないのだろうかと、甚(はなは)だ疑問を感じた次第です。
そして、これを知りながら放置しておいたらどうなってしまうのか、それこそ夜も眠れぬほど悩みましたが、この頃から急速に覚醒運動に参加する僧俗も増加し、その大半が血脈付法の日達上人を仰ぎ奉って活動を進めておられる様子でしたので、結局、分を弁えぬ想いは差し控えようと考えたのでありました。
疑惑いだかれていた御先師
しかし、このとき覚醒運動に対して懐いた一抹の不安は、その後も拭(ぬぐ)いきることはできませんでした。いわゆる11・7を経た五十三年末頃には、日達上人も、 「私も三・四年前から学会等からいろいろな話があって、自分でも苦しんだ。それに対しては今年の春から、再三諸君にも注意をしてきております。すると、『猊下の言うことは、しょっちゅう、ころころ変わっている』などと言うのであります。変わってはいないんだけれども、言うところの一つ二つ違ったところがあると、そのあげ足を取って、『間違ってる、間違ってる』といって、本当の真意を知らない」(昭和53年11月30日のお言葉・『暁鐘』第11号)
と仰せのように、覚醒運動の一部に、真に日達上人の御意を拝しえない人々がいることを御気付きあそばされていました。
また、翌五十四年二月十二日、総本山対面所でお目通り申し上げた際にも、日達上人は、「学会の誤(あやま)りを責めてきた僧侶の中にも、私の言うことが間違っているとか、聞くと危険だとか、陰でいろいろ言っている者がいるようですね。まったく困ったものです」 と仰せられ、そうした動向を御心配なさっていたのであります。
中枢に根付いていた意識
要するに覚醒運動を推進した一部の方々は、戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主日達上人に御奉公申し上げるため、というよりも、あくまでも学会を徹底的に屈伏せしめるため、という意識が底流をなしていたように考えられます。それ故、時には学会を厳しく破折され、時には大きく見守ろうとなさる日達上人の大慈悲を、「八方美人で、ころころ変わる」としか受けとめられなかったのではないでしようか。
むろん前にも述べたごとく、正信覚醒運動に携わった大多数の僧侶方および檀徒の人達は、こうした意識・感覚を持ってはおられませんでした。ひたすら唯授一人の血脈に基づく正しい信仰、末法下種の三法を渇仰(かつごう)する本宗伝統の信仰の上から、これに背反する当時の学会路線を糺(ただ)そうとしていたように思います。
それは、御法主日顕上人視下も「日達上人の御指南に従って、創価学会の過(あやま)ちを是正せんとした人々の行為は、また御仏智に従った行動である、と私は思っております」 と評価あそばされたとおりであります。
しかしながら、こうした大多数の善意とは裏腹な意識が、当初から、覚醒運動を推進してきた中枢のところに根付いていたのです。それがさらにエスカレートし、かつ徐々に大多数の善意の方達をも巻き込んでいったのは、昭和五十四年春、全国檀徒新聞『継命(けいみょう)』が発刊されてからでした。
この『継命』の発刊を許されたのは日達上人であられましたが、いざ創刊号、第二号、第三号と発刊されていくなかで、五十四年六月、七月、御遷化寸前の日達上人が『継命』ならびに覚醒運動をどのように評価され、何と仰せられたか、また、『継命』の巧みな情報操作により、多くの方々が今日のような路線へと誘導されてしまった経過の事実については、以下に詳述することにします。
『継命』創刊前後の情勢変化
檀徒新聞『継命』創刊号は、昭和五十四年四月二十八日に発刊されました。第二号以降が毎月一日の発行であるのに、なぜ創刊号のみ二十八日発行であるかといいますと、池田大作氏が同年四月末に引責辞職するとの情報があったため、当初の五月一日発行という予定を繰り上げたとのことです。
それだけ、池田氏の辞任・新体制での学会再出発がもたらす宗内情勢の変化を意識していた、というわけなのでしよう。
そして事実、これを境に、学会問題に関する宗内の情勢は大きく変わりました。日達上人は、「(池田氏が)会長を辞めて一切の責任を退く、今後はそういうことに口を出さない、また噂される院政説ということも絶対にしない――ということを表明してくれました。それで宗門としても、いちおう解決したものと思います。したがって、今まで檀徒になった人は檀徒として、どこまでも守ってもらいたいが、今後、学会から無理に檀徒として引っ張ってくることはいけない」(4月28日のお言葉) 「この数年間、まことに残念な出来事が続き、波乱を招きましたことは悲しいことでありました。
……どうか今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただきたいのであります」(5月3日・創価学会第40回本部総会の砌)
「宗門の方も、それだけの大きな腹をもって学会を受け入れて進んでいくのが当然かと思いまして、向こうの出方を待つ、すなわち、これから先どういうふうにしていくかを待つつもりであります。
……学会が正しく日蓮正宗の教義を守り、正しい信心をして、また世間の人を折伏していくのならば、我々はそれに準じて、どこまでも学会を信徒団体として受け入れていかなければならないのでありますから、ここにしばらく様子を見なければならないと思うのであります。
まだ新しい学会の執行部ができたばかりでありまして、いちおうは受け入れておっても、ただちに変更すれば誰でも疑いを持ちますから、すぐにはできないでしょう。しかし宗門の皆様は、大きな腹をもって学会を受け入れていく、という方針のもとに進んでいっていただかなければならないのであります。
……ですから皆様が、相変わらず今年の五月三日以前のような態度であっては、宗門としてはまことに困るのであります」(5月29日・寺族同心会の砌)
等々の基本方針を御示しになりました。
それは、学会がそれまでに犯してきた誤(あやま)りをなかったことにする、などという趣旨でないのはもちろんですが、基本的には、大きな包容力をもって厳しくも暖かく学会の前途を見守っていく、そして学会が再び謗法化の路線をたどらぬかぎり、本宗信徒の団体として受け入れていく、ゆえに、積極的な檀徒作りはひとまず停止すべきである、という御意でありました。
『継命』第二号の論調と院達
こうした状況の推移のなかで、『継命』編集スタッフの一人・高妻明憲氏は、私の知人に 「これからは『継命』も学会批判ばかりしているわけにもいかないので、第二号からは、主に檀徒育成のための教学記事等を中心に載せていきますよ」
と語っています。もし、このときの高妻氏の言のごとく『継命』の編集方針が改められていたら、今回のような大混乱は起きなかったかもしれません。しかし、それを今の時点で云々してもはじまらないでしょう。
『継命』第二号には
「全国の日蓮正宗檀徒諸君!七百年御遠忌をめざして、さらにさらに折伏・覚醒の波を、千波万波と起こしてゆこうではないか!」
「学会は、ついに何一つ反省を示さなかったのである。……この期(ご)に及んでなおも日和見(ひよりみ)、かつは〝無慙(むざん)集団〟に荷担(かたん)、ないしは庇(かば)い立てるものは、もはや大聖人の弟子たりえないのではないか。謗法は大聖人の厳誠するところであるがゆえに、もし謗法を正そうとするものを咎(とが)めるようなことがあるならば、それ自体が謗法になる」
等々の記事が掲載され、新体制となった学会に対し、さらなる批判・攻撃が加えられたのです。
たしかに「謗法は大聖人の厳誠するところ」ではありますが、ともかく学会が「これまでの謗法は直していく」と御宗門に表明している以上、本当に直していくのかどうか、また同じ誤ちを犯さぬかどうか、しばらく大きな腹で見守っていこうというのが日達上人の大慈悲の御意でした。それに対し、『継命』の記事論調は「あくまでも学会は謗法の団体、無慙集団であり、この期に及んで学会を責めぬ日和見主義者は大聖人の弟子にあらず」 と受け取れるものです。
そこで、日達上人は宗務院に御命じになり、同年六月十六日付で『継命』宛ての通達(院第3047号)を発せられました。すなわち、
「継命編集責任者殿 宗務院においては、先に院第3015号及び院第3018号をもって全国教師僧侶に対し、『創価学会員に対しては、自分からの意志・希望によって檀徒となることを申出た者は受け入れて差支えないが、それ以外は一切の働きかけを固く禁止する』旨を通達し、更に院第3037号をもって、上記の件は教師僧侶のみでなく、広く法華講・檀徒をも対象とするものであるから、その旨を所属の法華講・檀徒全員へ指導徹底せられるよう通達いたしました。
然(しか)るところ、『継命』第二号においては、紙面全般にわたって、この院達の趣旨に反する論調が強く表われているように思います。
よって、宗務院として『継命』編集責任者に対し、今後はその編集に当って、この院達の趣旨に反せざるよう充分に注意をせられたく通告いたします。
なお、『継命』には、編集責任者が明らかでありませんので、折返し宗務院宛に編集責任者の氏名及び所属寺院をお知らせ下さるよう願います。
上記のとおり通達いたします」 との内容でした。
院達は日達上人の御指示
檀徒の方のなかには、「その院達は宗務院が勝手に出したもので、日達上人は御存知なかったのではないか」との疑惑をもたれている向きもあるようですが、考えてみてください。管長(御法主上人)の御存知ないところで、その御意志とも無関係に、公式文書で院達を発する、などということが可能でありましょうか。
また、もし院達の趣旨が、若干(じゃっかん)でも御法主上人の御意とズレているような場合には、御法主上人の御命により、必ず訂正もしくは補足の院達が発せられることは過去の先例が物語っています。それも行なわれていない以上、前の院達(第3047号)が、日達上人の御意志によるものであることは、あまりに明白であります。
また、この院達が発せられていたことは、当時、私どもも知りませんでした。大多数の御僧侶方・檀信徒の方々も御存知なかったことと思います。
それは、『継命』編集者の立場を考慮されての、日達上人の暖かい御慈悲であったものと拝するのであります。
ともあれ、この院達が発せられていた事実は、日達上人と宗務院役僧の方々、そして当事者である『継命』関係者だけが知っておられたわけです。
私が、この院達の存在を知ったのは、九ヶ月後の昭和五十五年三月上旬、私の知人が『継命』編集室を来訪した折、たまたまデスクの上に置いてあった院達のコピーを見てしまい、驚いて、その日の夜、私に教えてくれたことからでした。
そして四ヶ月後、宗門機関誌『蓮華』(現在は『大日蓮』誌に併合)七月号誌上で初めて宗内一般に公開された院達3047号の内容は、すでに私が知人から聞いていた内容そのままだったのです。
したがって私は、この院達が御遷化直前の日達上人の御意志に基づき、たしかに『継命』編集室宛てに発せられていた、ということを確信するものです。
「継命は日達上人と闘う」!?
さて、この院達を受け取った『継命』では、どのような回答・対処をしたのでしようか。それは、なんと
「拝復 6月16日付院第3047号、拝見致しました。
敬具
継命編集室
日蓮正宗宗務院庶務部御中 昭和五十四年六月二十七日」 というものでした。
最近、しばしば「正信会が誠意を尽くして質問しても、本山・日顕上人は何ら誠実な回答すらなく、ただ卑劣(ひれつ)な弾圧を加えてくる」等の発言を耳にしましたが、もとより日達上人の暖かい御慈悲、懇切(こんせつ)な院達3047号に対し、不誠実きわまりない愚弄(ぐろう)・挑戦的な態度で応じたのは、『継命』正信会の側であったのです。
ここに、すでに総本山・御法主上人との対立、そして後の『世界宗教への脱皮(だっぴ)』に見られる新宗門設立路線をも生みだす、危険な方向性の芽萌(めば)えが感ぜられるのであります。
また、「日顕上人が卑劣な弾圧」云々といいますが、およそ、弟子分としての道を弁え、誠心誠意をもって御質問申し上げる者を、どうして御法主上人が弾圧などなさる筈がありましょう。
それは、日達上人の御代の当時から、すでにかかる不遜・背反の態度であったが故に、現御法主日顕上人猊下におかれても、今さら質問の内容にいちいち答えられるまでもなく、まず、その根底の姿勢・体質を厳しく叱責なさっているのです。しかるを、「誠実な回答もなく、卑劣な弾圧を加えてくる」などとは、あまりに手前勝手な論法ではないでしょうか。
また、こうして『継命』第二号発行の波紋が生じはじめた同年六月には、『継命』の編集スタッフの方々が 「あくまでも『継命』は学会と闘う。それで本山から注意されるのなら、その時は本山・日達上人と徹底的に闘うまでだ」 との、篤くべき方針を口にしています。むろん、それは前に挙げた同年五月当時の高妻氏の発言と比較して、わずか一ヶ月という短期間にしては、あまりに裏腹な方向転換であり、当然、どなたかが編集スタッフをそのように指導(操縦?)したものと推し測ることは容易でありましょう。
しかし、いずれにせよ、こうした一連の動向に関しては、大多数の御僧侶方・全国檀徒の方々はまったく事実を知らされていませんでした。院達3047号が送付されていたことも、本山を愚弄する回答を発送したことも、むろん日達上人と闘うなどという方針についても、ことごとく一部僧侶・檀徒の間で密(ひそ)かに処理・決定・執行されていたのであります。
そして『継命』紙上では、あたかも日達上人の御意志どおりに正信覚醒運動が推進されているかのごとき記事が掲載され、都合の悪いことは隠蔽(いんぺい)されて、巧妙に情報操作が行なわれました。
これでは読者が「我々の正信覚醒の活動は日達上人の御命令にそったものである」と思い込まれるのも無理からぬ話で、後に、本山からの厳しい御注意が広く一般檀徒にまで与えられる事態となった時には、檀徒の方の心情として「我々は日達上人の仰せどおり活動してきたのに何故!?」と受けとめることは必定(ひつじょう)といえます。
その時こそ、一部の方々の当初よりの方針――本山と闘うとの旨を訴えれば、大多数の僧俗も心情的に「理不尽な本山と闘ってでも正信覚醒運動を貫徹する」との路線に一結する……。計算しぬかれた情報操作・心理作戦以外の何物でもありません。
今日の宗内をここまでの混乱に陥れた根源も、この辺にあるのではないかと思うのであります。
「覚醒運動から脱けなさい!!」
こうした、正信覚醒運動の中枢に根付く危険な体質・方向性について、英遭なる御先師日達上人がお気付きになられない筈がありません。
事実、日達上人が御遷化あそばされる直前の七月のある日、理境坊住職・小川只道御尊師は、総本山大奥において日達上人より
「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ。もし、あのメンバーに入っているのなら、今のうちに脱けておきなさい」 との御指南を賜わっており、他の御僧侶方にも学会の様子をみるために、しばらくの間正信覚醒運動を止めるように御指南をされたと伺っています。
この後、間もなく日達上人の御遷化という悲しい日を迎えましたが、もし、日達上人があの時点で御遷化あそばされず、御壮健にておられたならば、こうした日達上人の非公式なお言葉は、必ずや公式な御指南となり活字にもなっていたであろうことを、今は強く確信するのみであります。
関係者各位の証言、そして状況証拠を総合してみるとき、やはり正信覚醒運動は、当初から何らかの野心をもち、日達上人の御意にも背反していた一部の方によって推進されてきたこと、その路線に対しては日達上人も重大な疑惑と危倶(きぐ)を懐かれ、院達をもって警告を発せられていたことが明らかであります。
なお、その〝何らかの野心〟が具体的にどのようなものであったのかについては、後に述べることにいたします。
以上の経過につき、あくまでも信じられないという方もおられるかもしれませんが、それなら事実を探求しぬいてください。よく檀徒の皆さんがいわれるように、正しい信仰は〝不疑曰信(ふぎわっしん=疑わぬことを信と曰う)〟ではなく、疑問を直視して真実を求めぬき〝無疑曰信(むぎわっしん=疑い無さを信と曰う)〟の境地に至ってこそ、はじめて正信と呼べるのですから。