はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 称徳女帝の崩御には、暗殺の陰がつきまとっているようです。
 『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんもそれを疑っている一人で、郷土史家で道鏡研究家の杉山昌三さんが抱いている疑問などを引用して力説しております。同書に紹介された、その杉山さんの論稿の引用を見てみます。

――引用――
 病に伏すと天皇(称徳女帝)は勅を発し、それまで弓削浄人(道鏡の弟 大納言)の手中にあった統帥権を左大臣藤原永手に近衛、外衛、左右兵衛を任じ、右大臣吉備真備には中衛、左右衛士の七つの統帥権を与えた。このため宮中の守護は左右大臣に委ねられることになった。また何故か吉備真備の軍勢が数百人で昼夜にわたり宮中を厳重に取り囲み一切の出入りを禁じた。このため女帝の病床に会う事のできるのは吉備真備の娘のみとなり道鏡法王や一切の高官も合うことができないという状況であった。
 聖武上皇の病気のとき招いた看病禅師一二六人(又は一三六人)であったという。また光明皇后の病には多くの看病禅師を招いたほか全国の寺院で回復を祈願された。しかるに孝謙天皇の病気には一人の看病禅師も招かず病気平癒の祈願も公に行われていないという全く不自然な事態が生じたことは全く不可解というほかはない。ここに多くの謎がある。
 女帝が崩御(8月4日)されるや白壁王皇太子は藤原良継に命じ二百騎の兵を指揮させ八月十七日に大和の国佐貫郷高野に六三〇〇人もの人夫を使って急ぎ山稜を築き女帝を葬った。なぜ厳重な警備と急ぐ必要があったのか?
  (『道鏡を守る会』会誌8号 カッコ内は引用者)

 ちなみに、この「カッコ内は引用者」の引用者とは井沢さんです。
 井沢さんはこの引用の直後にすかさず「ここに述べられていることは、杉山氏の推測ではない。『続日本紀』などの史料に記載されていることだ。」とフォローを入れた上で、「独裁者である王が重病で倒れた時、あるいは急死した時に、側近が王の意思とは違う命令を出して反対派を粛清することは古今東西よくある」としております。もちろん、井沢さんはこの厳重な面会謝絶と、とても称徳女帝が出したとは思えない勅を疑っております。そしてその例として『史記』にある秦の始皇帝がなくなった際の宦官(かんがん)「趙高(ちょうこう)」の陰謀の話を引き合いに出しております。
 たしかに、称徳女帝の崩御は、なかなかに絶妙なタイミングであったと思います。八幡神託事件からほどなくして、称徳女帝は病に伏してしまいました。そして、あれほど信頼をおいていた道鏡を急に突き放しております。十分に不自然な行為と疑わざるを得ないのですが、そもそもその面会謝絶の厳戒態勢自体が既に陰謀を物語っているかに思えます。そしてさらに、崩御後の女帝をわずか14日であわただしく葬ったという事実。これは、井沢さんはもちろん、梅原猛さんなども提唱する殯(もがり)――通夜――期間の長短で自然死か否かを判断できるという法則にのっとって言えば、十分怨霊候補であったと言えます。
 しかし、ここで井沢さんはその方向からのアプローチはあきらめております。というのも、この称徳女帝の時代には既にその法則があてはまらないからだといいます。この時代には火葬が導入され、陵墓も小さくなり葬儀そのものにかける時間が短くなっているからだそうです。聖武天皇なども18日間であったといいます。
 とは言え、井沢さんは、称徳女帝が大和国佐貫山高野の地に葬られていることに注目しております。もっと言えば、聖武天皇一族――光明皇后や元正天皇ら――が葬られている佐保山に”葬られていない”ことに注目しております。井沢さんの持論で、「異常死した死者は死穢(しえ)に満ちているため通常の場所には埋められない」というものがあります。つまり逆に言えば、そういう形で葬られている死者は自然死ではあり得ない、というのです。井沢さんは、称徳女帝陵の隣に成務天皇陵があることについても根回しをしております。死穢を避けるならば、成務天皇陵はどうなる、という矛盾も出てくるからです。
 どういう根回しかというと、そもそも称徳女帝陵自体が、考古学的に言って宮内庁が比定しているこの前方後円墳ではあり得ないということです。称徳女帝の崩御は8世紀であり、前方後円墳では形式が古すぎるのです。結局、“称徳女帝陵は不明”ということになります。
 称徳女帝は一体どこに葬られたのでしょうか・・・。

 神護景雲四年(770)8月4日の称徳女帝崩御後、道鏡はすかさず中央から遠ざけられました。道鏡は同年8月21日「下野薬師寺」の別当を命ぜられたのです。実は、私はこの異動から道鏡と称徳女帝の間に後世に伝えられるような姦通はなかったと考えております。その理由は以下の引用の中にあります。以下は、栃木県下野市教育委員会の『下野薬師寺跡』のリーフレットの記述です。

――引用――
 今から1300年前(7世紀末)に建てられました。正確な創建時期を記した文献は残っておりませんが、730年ころに国の出先機関「造下野国薬師寺司(ぞうしもつけのくにやくしじつかさ)」が設置され、国家事業として造営が進められます。749年には法隆寺などの中央諸大寺と同格に列せられました。その後、761年には僧の受戒のため戒壇が置かれ、東大寺、筑紫観世音寺と並ぶ三戒壇のひとつに数えられます。東国仏教の中心的役割を果たした下野薬師寺も、1092年には伽藍が「破壊転倒甚だし」と記されるほど荒廃しますが、鎌倉時代に慈猛(じみょう)によって中興されます。室町時代ごろに足利氏が全国に安国寺(あんこくじ)を建立した際に、寺名を安国寺と改称し、その法灯を今に伝えています。

 仏教に詳しい方なら、私が言わんとしていることをもうお気づきかと思います。この下野薬師寺は三戒壇(さんかいだん)の一つ、つまり戒律の指導的立場たる寺院であり、道鏡はそこの別当に就かせられているのです。現代と違って、当時の厳しい戒律は僧にとって絶対的な条件であり、道鏡がもし称徳女帝と男女の関係であったならば、そもそも僧ではいられないのです。僧が男女の交わりを教義的に許されるものとして公言したパイオニアは、鎌倉仏教である「浄土真宗」の開祖「親鸞(しんらん)」であったでしょうし、彼はずっと後世の人物です。
 とにかく、女帝亡き後、道鏡を失脚させたい政府高官はたくさんいたはずで、もし、道鏡にその風評があったならば、そんなスキャンダルを無視するわけがありません。鬼の首をとったかのように衝いてくるはずです。にもかかわらず、東国に追放されたとはいえ、道鏡は僧籍をはく奪されることもなく、こともあろうに最も戒律を求められる寺の別当を任されているのです。もはや道鏡愛人説は後世の創作であったことが明瞭でしょう。私は、道鏡愛人説はおそらく江戸時代に創られた話ではないか、と思っております。

下野国薬師寺六角堂
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龍興寺にある道鏡の墓
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 さて、栃木県には道鏡の墓――龍興寺――の他、驚くことに称徳女帝の病没地と伝わる場所もあります。そこは現在「孝謙天皇神社」になっておりますが、境内案内説明には、次のようにあります。

――引用――
 今から約千二百余年の昔、下野国薬師寺の別当に弓削道鏡が配流された。かつて道鏡は法王として孝謙天皇(女帝)に最も厚い信任を得ていました。
 女帝は配流された道鏡をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫・笹姫も配流されてきた。
 二人は奈良の都には永久に帰ることが出来ないことを悟り、女帝の御稜より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた。
 その後、西光寺は廃寺となり、村人達は舎利塔を御神体に祀り孝謙天皇神社と改め、八月四日(崩御の日)に女帝を偲び、清楚なお祭りを催し今日に至っています。
 なお、二人の女官の墓は、ここより南五百メートル位の所に、篠塚・笹塚として戦前まで保存されていたが、残念ながら現在はその跡しか残っておりません。

 称徳女帝が「配流された道鏡をあわれみこの地にまえり病没」というのは、先ほどの厳戒態勢の中の看病から考えてあり得ませんが、それ以外の部分は信用してもいいような気がします。

孝謙天皇神社
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 栃木県の方々の称徳女帝や道鏡への親近感は、いわゆる正史のそれとは全く相反するものですが、私は県民の優しさに心が温まる思いがしました。情に流されるわけではありませんが、通説での称徳女帝と道鏡の扱いはかなり辛辣であるばかりか、冷静さにも欠けているような気がします。
 いずれ、基本的に私は井沢さんに賛成で、称徳女帝の崩御が暗殺であっただろうという仮説は、十分に真実性が高いと考えます。

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この時代、不自然な死に方をした方多すぎますよね。
聖武天皇や桓武天皇がたくさんの歴史的遺産を残すことになったことも、何となくわかるような気がします。

2009/10/1(木) 午前 1:02 [ - ] 返信する

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シュミさん、ありがとうございます。
「歴史的遺産を残すことになった」という表現は実に的を射ていると思います。寺社などの建造物や仏像、和歌に至るまで、その多くは鎮魂の性質を疑えますしね。

2009/10/1(木) 午前 7:11 今野政明 返信する

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本当にそうだとしたら、可哀想過ぎますね。
ひとりで戦い続けた女帝がそんな最期だなんて…。

若い頃は道鏡とのラブロマンスに憧れたものですが、宗教の厳しさを識るにつけ「そんな色っぽいハナシじゃなかったのかなあ?」と、思うようになりました。
と、いうかそういう単純なハナシじゃないんでしょうね…。

墓までないとなると、称徳天皇がいよいよ気の毒です。

2009/10/1(木) 午後 11:33 卯喜多ドラみ 返信する

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卯喜多さん、ありがとうございます。

そもそも、戦前であれば圧倒的な悪僧扱いであった道鏡に対し「守る会」なるものが生まれること自体、扱いと現実とは矛盾していたのだろう、と思うのです。下野国の人たちは道鏡の人となりに触れて親近感を覚え、おそらくは龍興寺あたりで内々に伝えられていたのでしょうね。
ラブロマンスについては、おそらく下野国の人たちもそう考えていたのだろうなあ、と、孝謙天皇神社の存在を見てそう思いました。ただ当地の方々は、俗に言われているような卑猥なものではなく、かつての卯喜多さんと同じような透明な感情で憧れたのでしょうね。
墓は、私はどこかには絶対あると思います。なにしろ暗殺が事実であれば十分な怨霊候補ですから・・・。

2009/10/1(木) 午後 11:51 今野政明 返信する

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暗殺された後に、女官なりが遺骨等を伴って、当地に来たというのであれば少しは辻褄が合いますね。

2015/9/15(火) 午前 11:33 [ swa**a_00 ] 返信する

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swa**a_00さん、ありがとうございます。

そうですね。情としてそこに一縷の望みをかけている部分はあります。

2015/9/15(火) 午後 0:28 今野政明 返信する

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