1922年7月29日、信濃川水力発電所での
朝鮮人労働者大虐殺の事実が明るみに

「北越の地獄谷」


 1922年7月29日、読売新聞において衝撃的な事実が報道された。
 それによれば、信越電力株式会社(当時)が進める信濃川水力発電所建設現場で、朝鮮人労働者が次々に虐殺されているというのである。
 付近の住民からはかねてから「北越の地獄谷」と呼ばれ、朝鮮人労働者に対する過酷な労働と虐待・虐殺の噂が以前からあった。それが風聞にとどまらず、実際に下流地域に朝鮮人の遺体が次々と流れ着くにおよんで虐殺の事実が発覚したのだ。

朝鮮人を先頭に真相究明がなされる
 
 この新聞記事によって朝鮮人労働者虐殺について世間に知れ渡ることとなったのだが、それは目撃者の話の聞き取りにすぎず、また読売新聞の記者は自身への弾圧を恐れ情報の出所さえ明白にしない状況であった。
 実際、この件を明らかにしようとすることに対し、地元の警察や工事業者=大倉組のお抱えのヤクザによる妨害が立ちはだかっていた。しかしこれと対決しながら、不屈に真相究明の先頭に立ったのはキム・ヤクス(金若水)やラ・ギョンソク(羅景錫)ら闘う在日朝鮮人であり、朝鮮の新聞である『東亜日報』(朝鮮読『トンア・イルボ』)の記者たちであった。彼らは日本人活動家などの協力も得つつ「信濃川虐殺事件調査会」を組織し、凄惨な虐待・虐殺の事実をまさに身体を張って暴露していったのである。事実の究明と暴露それ自身が一個の熾烈な闘いであった。
 実際、この件を明らかにしようとすることに対し、地元の警察や工事業者=大倉組のお抱えのヤクザによる妨害が立ちはだかっていた。

朝鮮人労働者虐待・虐殺の実態
 
 信濃川虐殺事件調査会は、大倉組・ヤクザによるテロと警察による弾圧の圧力の前に事実を語りたがらない人ばかりという困難を抱えながら、突きとめた事実について『東亜日報』紙上を通じてその一端を明らかにした。
 それによれば、大倉組の請けた現場には約一二〇〇名の労働者がおり、そのうち半分ほどが朝鮮人であった。その朝鮮人労働者は、採用時の労働条件など一切守られず、一日13~14時間もの労働を強いられていた。しかも、休みも与えられないばかりか、労働時間中はずっと現場監督による厳重な監視と虐待が続くのである。朝鮮人の宿舎は通称「地獄室」と呼ばれる鍵のかけられた部屋であり、逃亡ができないようにされているのである。
 そして、逃亡を試みるや問答無用に銃殺され、また生きたままコンクリート詰めにする・生きたまま石をくくりつけ谷川に突き落とす、数十時間も棒で殴り続けるなどのテロ、リンチが加えられたというのだ。もちろんこうした直接の虐殺行為以外にも過酷な労働の強制で多くの病死者が出ており、春から夏までの間に少なくとも数十名が虐殺されたという。
 また、こうした事実を警察は早くから把握していたのだがこれを黙認し、事態が明るみになってからも「お茶を濁す」ような捜査しかせず虐殺の事実をもみ消そうとしたのだった。

虐殺糾弾の闘いから在日朝鮮人労働運動の前進へ
 
 信濃川虐殺事件調査会のメンバーらは押さえがたい怒りに満ち、日帝・内務省(当時)に抗議を叩きつけるとともに、9月に入って「信濃川虐殺問題大演説会」を開催する。大杉栄・堺利彦ら日本の社会主義者らも参加したこの演説会は、警察の弾圧によって途中で散会させられ8名が検挙されたのであるが、在日朝鮮人労働者の闘いは進撃を続けた。
 怒りの炎を燃えあがらせた在日朝鮮労働者人は、これを契機にして「在日朝鮮労働者状況調査会」を組織し、後に「東京朝鮮労働同盟会」の結成(同年11月)・「大阪朝鮮労働同盟会」の結成(12月)―在日朝鮮人労働運動の前進へと結実していくのである。

2005.7.30 サークル誌に寄稿)