投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. ひらがなプロジェクト(235)
  2. アルベア論(975)
  3. 正義のあかし(46)
  4. 掲示板の注意事項(1)
  5. 虚構の大石寺疑惑(1)
  6. 2015年安保法制(977)
  7. アラシ行為記録(21)
スレッド一覧(全7)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


お詫び・訂正その三十六

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年 7月30日(日)21時44分32秒
  レ・ゼラブル017 ?
投稿者:The logic in the place
?投稿日:2015年 4月16日(木)16時17分15秒

六 司教の家の守護者

 司教が住んでいた家は、前に言ったとおり、一階と二階とから成っていた。一階に三室、二階に三室、その上に一つの屋根裏の部屋があり、家のうしろに約二反足らずの庭があった。二人の女は二階を占領し、司教は階下に住んでいた。道路に面した第一の室は食堂となり、第二の室は寝室となり、第三の室は祈祷所となっていた。この祈祷所から出かけるには食堂を通らなければならないし、寝室から出掛けるには食堂を通らなければならなかった。祈禱所の奥の方に、人を泊める場合の寝床が置いてあるしめきった寝所が一つあった。司教はこの寝床を、教区の事件や用事でディーニュに来る田舎の司祭たちの用に供した。家に付属して庭のうちに建てられている小さな建物は、もと病院の薬局であったが、料理場兼物置にされている。
そのほかなお庭には、もと施療院の料理場となっていた家畜小屋があったが、司教はそこに二頭の牝牛を飼っていた。それから取れる牛乳の量はどんなに少ない時でも、毎朝必ずその半分を施療院の病人たちに送った。「私は自分の十分の一税を払うのである。」と彼は言っていた。彼の部屋はかなり広くて、天気の悪い時など暖めるのにかなり困難であった。ディーニュでは薪がきわめて高かったので、彼は牛小屋のうちに一つの部屋を板で仕切らせることを思いついた。大寒の宵などを彼がすごしたのはそこであった。彼はそれを冬の座敷と呼んでいた。(中略)
施療院になる前、この建物は市民の集会所であった。それでそういう装飾がなされたものであろう。各室は皆赤い煉瓦で敷かれていて、それは毎週洗われ、また寝台の前には藁で編んだ蓆が置かれていた。その上この住居は、二人の婦人で保たれているので、いたるところ心地よいほどきれいであった。
それが司教の許した唯一の贅沢だった。彼は言った。「それは貧しい人々から何物をも奪いはしない。」
 しかしながら、司教には昔の所持品のうちから、銀製の食器類が六組みと大きなスプーン匙が一つ残っていたことを言わなければならない。それが粗末な白い卓布の上に光り輝いているのを、毎日マグロアールはながめて喜んでいた。そしてここにはディーニュの司教のありのままを描いているのだから、次の一言もつけ加えておかなくてはならない。すなわち彼は一度ならずこう言った。「銀の器で食事することはなかなかやめ難いものである。」
 この銀の食器に加うるに、彼がある大叔母の遺産から所有している、二つの大きな銀の燭台があった。それには二本のロウソクが立てられてたいてい司教の暖炉の上に置かれていた。夕食に客がある場合には、マグロアールは両方のロウソクに火をともして、その二つの燭台を食卓の上に置いた。
 司教の室のうちには、寝台の枕頭に小さな戸棚が一つあった。マグロアールはその中に毎晩六組みの銀の食器と一本の大きな匙とをしまった。戸棚の鍵はいつもつけっぱなしであったことは言っておかなければならない。(中略)
 家には錠をおろされる戸は一枚もなかった。前にも言ったように、石段もなくすぐに会堂の広場に出られる食堂の戸口は、昔の牢屋の戸口のように錠前と門とがつけられていた。が司教はそれらいっさいの金具を取り除いたので、戸口は昼も夜も鍵がねでしめられるばかりであった。通りがかりの人でも何時たるを問わず、ただそれを押せば開くのだった。初め二人の女はこの締りのない戸口をたいへん心配したが、司教は彼女たちに言った。「もしよければ自分の室に門をつけさせるがいい。」でついに彼女たちも彼と同様に安心し、また少なくとも安心したふうをするようになった。ただマグロアールだけは恐ろしがった。司教の方は、彼が聖書の余白に自ら書きつけた次の三行の句に、その考えが説明され、もしくは少なくとも示されている。「ここにその微妙なる意味あり。医師の戸は決して閉ざさるべからず、牧師の戸は常に開かれてあらざるべからず。」
 医学の哲理と題する他の一冊の書物に、彼はも一つ文句を書いていた。「余もまた彼らのごとく医師に非ざるか。余もまた余が患者を有す。第一に、彼らが病人と称する彼らの患者を余は有し、次に、余が不幸なる者と呼ぶ余の患者を有するなり。」
 他に彼はまた記した。「汝に宿求むる者にその名を尋ねべからず。自ら名乗るに心苦しき者こそ特に避難所を要する人なればなり。」
 ある日のことたまたま、クールーブルーの司祭であったかまたはポンピエリーの司祭であったかちょっとわからないが、あるりっぱな主任司祭が、たぶんマグロアールに説かれてであろう、司教に次のことを尋ねてみた。だれでもはいろうとする人の意のままに昼夜戸を開いておくことは、ある意味において軽率なふるまいとはならないと信ずるのであるか、そしてまた、かくも締りのない家のうちに何か不幸な事が起こりはしないかを恐れないのであるか。すると司教は、おごそかに、しかもやさしく司祭の肩に手を置いて言った。「神が家を守って下さらなければ、人がいかにそれを守っても無益です。」それから彼は顧みて他のことを言った。
 彼はよく好んでこんなことを言った。「竜騎兵の隊長の勇気というものがあるように、牧師の勇気というものがある。」またつけ加えて言った。「ただわれわれ牧師の勇気は静かなものでなければならない。」

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

統一地方選挙の闘い、皆様ご苦労様でした。全国駆け回って檄を飛ばしまくるのではなく、行動しながら題目を黙々と唱えて、内部回りした勝利だと思います。油断している選挙区は惨敗です。みなさんの同盟題目のみが勝利の源泉、策や数字の集積ではないですよね、大誓堂に棲む人々様!後半戦も油断無く頑張りましょう。

さて、先に進まなくなるので、「六 司教の家の守護者」から再開しますね。
寒冷地(主に北海道)での畜舎兼用住宅って知ってますか?標津町出身の東京選挙区参議院議員の竹谷とし子女史は、過去の言々句々で話していると思います。農耕馬、乳牛とひとつ屋根の下で生活する。二階部分は、干草を上げて、一階居間と畜舎を壁一枚隔てて生活していました。もう現存する建物も数少なくなりましたが、家畜の体温で家全体が温まる方式です。学生時代アルバイトで実際に泊まった体験があります。家畜の息遣いも分かり、確かに暖かい。しかし、匂いも強烈、人馬一体の生活です。冬場に馬の腹を背にして寝たこともあると家主が焼酎呑みながら語ってくれました。慣れると違和感はありません。悪徳に染まった大誓堂の人々のようですね。
 その小説の部分で、ミリエル司教の館が無施錠であり、後にジャン・バルジャンに与える銀の食器と燭台が有る事を示しています。

 私はこの無施錠の館を読んでいて、今の大誓堂やら本部別館やら地方の文化会館、研修道場を思い浮かべました。みなさんは、どう考えますか?最近、アルベア様が投稿されていないので、お聞きしたいのですが、「大誓堂」と「正本堂」の違いはどうでしょうか?
「民衆立の正本堂」は権威・権力の総本山には異質な建物で、坊主にしてみれば腹立たしい代物。法庭には巨大な噴水と、雨の日にも、晴れの日にも、誰でも自由に立ち入れる休憩場所があり、トイレも完備。記念撮影も自由でした。だから権威・権力指向の者は、叩き潰す。『勝手にオレらの縄張りに入るんじゃない!』と言った指向回路です。
「大誓堂」はどうか?まさに冷たい、どちらが表(正面)でどちらが裏(新人間革命の挿絵では裏側を描いてる?)なのか、参拝以外は会員をシャットアウトする冷酷な建物です。この指向は、金城会館(呼び出し査問・断頭台機関)やら本部別館(職員以外お断り)やら○○会館(職員だけの娯楽の間)やら地方の文化会館(セコムで管理)、研修道場(フリー研修以外は閉館)も同様ですね。内弁慶のお方が考えそうなことで、『セコムに任せているから何かあればセコムの責任』とか『牙城会やら会館長制度やら壮年部によるボランティアで充分』などと『人』を当てにして、管理のみを思い描いているから、『信心』の全く無い建物になってしまったのです。休館日は真っ暗で広い駐車場をもっていながら不気味な無人の建物。地域の町内会との交流も全く無く、常に上(方面にあって)にお伺いしなければ何もできない不自由な上意下達運営管理。行事として『唱題会』を設けなければ、全く題目の声の聞こえない根本道場です。
アルベア様も観えていたと思いますが、あの正本堂を現実的に破壊したのは悪徳坊主ですが、精神的に破壊したのは、まさに極悪弟子(五人組?)だったのではないか、だから今の大誓堂を含む会館運営に至っていると。無施錠のミリエル司教の館ではまったく無い。ましてや、―――

「神が家を守って下さらなければ、人がいかにそれを守っても無益です。」それから彼は顧みて他のことを言った。彼はよく好んでこんなことを言った。「竜騎兵の隊長の勇気というものがあるように、牧師の勇気というものがある。」またつけ加えて言った。「ただわれわれ牧師の勇気は静かなものでなければならない。」

―――と言った信仰と勇気の象徴になる会館ではありません。

ーーーーーーーーーーーーーー
書籍の抜粋引用は、以下の会則

????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????

は、該当していません。

ーーーーーーーーーーーーーー
以下、解説で書かれている部分は、お詫び・訂正・削除します。忘れて下さい。私も国権の最高指導者の通り、忘れます。

さて、本日の公明新聞5面の大好きな「出久根達郎の東西東西  文学大博覧会」(131)小泉八雲編はお読みいただけましたか?
「夫人への遺言が『噫無情』と同じ」!
ラフカディオ・ハーンは、レ・ミゼラブルの愛読者だったのです。
 

何でなん?

 投稿者:謎の弟子X  投稿日:2017年 7月30日(日)21時23分53秒
  横から失礼しますね。

元京都西京区乃虎さんの投稿は、「笑」さん宛てであって、何故、管理人さんがでてくるのですか?
投稿者:笑  投稿日:2017年 7月30日(日)09時03分35秒
投稿者:笑  投稿日:2017年 7月29日(土)22時10分28秒
からかい始めたのは「笑」さんですよね。「笑」さんに怒るべきなのではありませんか?

笑さん = 管理人さんなのでしょうか? 違うのですよね? でしたら管理人さんがケンカを買わなくても良いのでは..。

少し落ち着いていただけませんでしょうか。

私は、板に集うみなさんが仲良く、発言し合ってほしいと思います。
 

元京都西京区乃虎へ

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月30日(日)21時00分43秒
  > もう板の裏話はせえへんから笑いちゃん許しってーな。
> って、妄想してもうたがな。

今まで、ある程度は見逃してきましたが、
いい加減にしていただきたい。

さも、管理人が掲示板を恣意的に運営しているかのような発言は看過できません。

以前も誰かに返答していますが、たしかにハンドルネームから投稿者が
誰かを推定できる方はいますが、多くの投稿者は管理人も知らない方々です。
そして管理人が知っているからといって、管理人から投稿者に対してなんらかの
投稿依頼をしたこともないし、人によって対応を変えたことはありません。

さも掲示板がなんらかの意図をもって運営されているかのような、
またそれを知っているかのような投稿をこれ以上認めることはできません。

当掲示板が気に入らないのであれば、そして役立たずだと蔑むのであれば、
今後投稿をするのはご遠慮いただきたい。どうぞ自分で掲示板を立ち上げるなり、
アンポンタンな反板にいくなりしてください。

いままでの一連の発言に対して謝罪がないかぎり、貴殿の投稿は一切削除します。

以上
 

7/17 横浜レポート 都内の話2

 投稿者:JACK  投稿日:2017年 7月30日(日)20時56分22秒
  〔不思議な契約〕
私の住む自治体では、小学校と中学校の義務教育課程において、民間の塾を利用した補習授業を実施している。
この政策決定に関するプロセスや、契約書類を調べたら、不思議なことが分かった。
小学校の補習授業については、塾から内訳が書かれた見積書を取り、自治体はその見積書から値切った金額で契約していた。
ところが、中学校の補習授業については、塾から内訳の記載がない、合計額だけが書かれた見積書が出されていて、自治体は言い値のまま契約していた。
自治体は、中学校の補習授業について、塾の言い値で契約した理由を、
「契約した塾は塾講師検定で、集団指導2級以上を取得しているからだ。」
と言った。
しかし、塾講師検定の集団指導2級は、塾講師を2~3年経験した者が対象で、合格率も70~80%と高い確率のため、塾の言い値で契約する理由としては、決め手に欠ける。

〔塾経営者は公明党支持者〕
自治体が言い値で契約した塾の登記簿を調べ、塾経営者の自宅に行ったら、公明党都議会議員のポスター、公明党都議会議員の立て看板、公明党のポスターと、公明党の掲示物だけが掲示されていた。
公明党の熱心な支援者だと分かった。

〔塾経営者と教育長の関係〕
この塾の経営者は、
「私は中学校の補習授業を請け負って、地域に貢献している。教育長とも親しくしている。」
と言った。
教育長は、
「この塾の経営者とは会ったことがあるくらいだ。」と、親しい仲を否定した。

〔塾の言い値で契約した理由〕
この塾と言い値で契約したことについて、自治体の担当部署は、
「この塾と、塾の言い値で契約する必要はないと何度も言ったが、教育委員会は耳を貸さなかった。」
と言った。
教育長は、
「現場が聞いてくれなかった。」
と言った。
契約した当時、東京都から来た契約担当者がいて、その担当者が独断でこの塾に決めたと言いたいらしい。
東京都から来た契約担当者は創価大学の卒業生だった。
そして公明党都議会と同世代だった。

〔最後に〕
私には、創価学会の友人がいる。
真面目な学会員の方が多いことは承知している。
よその地域の公明党議員に話したら、ひどい話だと憤慨していた。
でも、このようなこともあるということだけは、皆さんに分かって頂きたい。
 

7/17 横浜レポート 都内の話1

 投稿者:JACK  投稿日:2017年 7月30日(日)20時52分21秒
  〔都内参加者より〕
私は学会員ではない。
ブログの一読者だ。
今日は皆さんに、私の住む自治体で起きていることを知ってほしくて来た。

〔不正や汚職は公明党〕
私の住む自治体では、議員の不正や汚職は大概が公明党議員だ。
それを許せないと情報をくれたのは学会員だ。

〔不正その1:建設会社から賄賂を貰う公明党議員たち〕
私の住む自治体で、公共工事があった時、建設会社と公明党議員たちが癒着し、談合し、公明党議員たちは建設会社から賄賂を貰った。
それは建設会社も含め、詳細な証言を得た。

〔不正その2:老人会費着服疑惑〕
私の住む自治体の近くでは、公明党議員による、多額の老人会費着服疑惑が発覚したと聞いた。
これは地域住民たちが立ち上がり、刑事告訴の準備を進めていると聞いている。

〔不思議な反対〕
私の住む自治体では、健康寿命や平均寿命が低い。
これは高齢になると、家に引きこもり、健康を損なう生活になりやすいからだ。
住民からは、
「高齢者の団体には、公共施設利用料を安くして欲しい。」
と、切実な陳情が議会に届いたが、自民党と公明党は理由も言わずにこの陳情に反対し、公共施設は施設利用料を取ることになった。
 

北朝鮮の弾道ミサイル佛

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年 7月30日(日)19時48分3秒
  諸佛の智慧は甚深無量。北朝鮮の弾道ミサイル佛は弛緩する日本の現状を刺激する善知識として東京に飛来する!水爆弾頭ならば、東京の死者は500万人!南無公明党佛、南無公明党佛、南無公明党佛。信心の一念を覚醒させて、北朝鮮の弾道ミサイル佛の招来を受け止めませう!  

twitterより。森友問題、日報隠蔽のキーパーソンは飛ばされたか。どこかの団体も教学部が…

 投稿者:ツイート人  投稿日:2017年 7月30日(日)19時00分31秒
  森友学園問題のキーパーソンである昭恵夫人付職員の谷査恵子氏が、口封じの為にイタリアへ飛ばされたかと思えば、今度は日報隠蔽問題を知り尽くしている小川修子氏が稲田防衛相の辞任に伴い中国大使館へ転属とは、安部政権の隠蔽体質は度を越していますね。コレ、主要メディアが報道すべきですよ。  

お子ちゃま笑

 投稿者:元京都西京区乃虎  投稿日:2017年 7月30日(日)18時09分22秒
  くやしークヤシー、サソテーナ。
無視せんといて。
もう板の裏話はせえへんから笑いちゃん許しってーな。
って、妄想してもうたがな。

まだオムツと、おしゃぶりが取れてないようやなー
そんな誘われんぐらいで、なんで悔しいねん。
お前の頭で考えるから悔しく映るんかな。
一昨年まで毎年誘われてたけど、参加は一度もないけど
オフ会には財務はたくさんしてまっせ。
そんな低次元のオフ会に参加できひんほうが、福運は消えへんで。
イライラしてるんやろな。
落ち着きいや。
おやびんの命令か。
そうか裏で打ち合わせか。
それとも、虎対策担当か。
去年のオフ会前に反旗を翻してんやからな
俺の目には、お前らも原田と一緒やでしてることは。
いつまでもしょうもない37なんとかしか知らんのか。
いつまでたっても六道輪廻ですな~。
10なん年オフ会しててなんの成長あったんどす。
教えておくれやす。
毎度、いろいろな価値観っていろいろな考えっていうとう言葉は
お決まりやな、アホの一つ覚えでどすな。
男は行動と結果どす。
ここでなんぼ吠えてても、犬の遠吠えどすやん。
あくまでもネットはお遊びどすえ。
男やったら、堂々とおもて出て来ておくれやす。

 

一人のSGIさん!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 7月30日(日)16時11分58秒
   一人のSGIさん、フォローありがとうございます。
 義浄房御書の一節ですね。私も好きな御文です。

 調子にのって、一生成仏抄講義の研鑽をもうひとついっちゃいます(笑い)。

 【自分の内にあって自分を超える妙法】
******

 妙法は「宇宙根源の法」です。その意味では、私たちを超えた普遍性をもっている。しかし、「衆生本有の妙理」とあるように、妙法は、私たちの生命に内在する。いわば「自分の内にあって、自分を超えているもの」が妙法です。また、「全てのものを包む普遍的な法であるがゆえに、自分の中にも内在している」ともいえるでしょう。
 「法華初心成仏抄」では、「妙法蓮華経」の本質について、次のように仰せです。

 「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり」(御書五五七㌻)

 妙法蓮華経は、私たち自身の仏性であるとともに、梵天・帝釈、舎利弗・目連、文殊・弥勒などの仏性であり、それはそのまま三世の諸仏の悟りの妙法と同じである仰せです。
 続いて大聖人は、この御文の次下で、題目を「唱える」こととは、十界の一切衆生の心中の仏性を「呼び顕す」実践であると仰せられています。

 「故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり」(同)

 さらに大聖人は、南無妙法蓮華経の唱題の意義について
 「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(御書五五七㌻)と仰せです。

 この「よびよばれて」との表現に、妙法の深義(じんぎ)が示されています。
 この原理をわかりやすく示すために、大聖人は有名な比喩を説かれました。
 ――籠の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥たちが呼ばれて集まってくる。また、空を飛ぶ鳥が集まって鳴けば、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。
 ここで「籠の中の鳥が鳴く」とは、無明・煩悩に束縛された衆生が信心を起こして唱える題目です。「この苦難を妙法の力で必ず解決して見せる」「必ず幸せになって見せる」という信心で唱える題目です。

 このとき、題目の力で、あらゆる衆生の仏性を呼んでいるのです。すると梵天・帝釈、仏・菩薩などの仏性が現れるとともに、唱えた衆生も無明の束縛を打ち破って、自らの仏性を現すことができるのです。言い換えれば、森羅三千に遍満している「妙法」と「我ら衆生」を結び付けるのが、題目の音声の力なのです。

 (一生成仏抄講義51~53㌻、2006年1~7月大白蓮華掲載、2007年1・26発行)

******

 いまや世情に煩雑に流れる創価学会の歴史や池田先生の指導の、どれを撰(よ)りすぐるかは、どの「御本尊」を「本尊」とするのかとほとんど同じことなのかも知れません。「信じるに足りる」の一点に尽きます。文面や文体からもある程度は判別できるが、やはり明確な出所の“根拠”があった方がいいです。

 御本尊の相藐はこうだとか、「言葉」として「仏」とはこういうものだとかいうのは、いくらでも語れるし、どのようにも書くことができます。だが、その「実相」を伝えるというのは、「心」とか「魂」の共振でしかない。

 それは、池田先生がそうであられたように、疲れ切った体を奮い立たせ、あるいは、時に、病を押し切って、その説く処と同じ姿を見せることです。もう一軒回ろう、もう一曲学会歌の指揮をとろう、という目の前の「魂の振舞い」が、その振る舞いの中にある「心」や「魂」そのものが観る人の魂を揺さぶったのではないでしょうか。「法」が師匠から弟子に伝わるのに、「師匠の存在が決定的に大事」というのもここにあると言えます。

 【追伸】御主人にも、“ふり絞る”投稿をお願いできませんか、とお伝えください(笑い)。


 

螺髪さん

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 7月30日(日)14時49分39秒
編集済
   >南無妙法蓮華経といっても、日蓮大聖人の御本仏としての御生命を離れて存在するものではありません。

宇宙と生命を貫く根源の妙法蓮華経の真理は、日蓮大聖人が実践され、日蓮大聖人の御振る舞いの中に現れることによって、初めて確立されたと言えます。それまで人々が感じることができなかった「法」が、現実に示されていったからです。

日蓮大聖人の御本仏の生命とは、悪と戦い、無明を破る生命にほかなりません。この地上の一切の不幸と悲惨、宿命と四苦から人間を解放する闘争は、その悪をもたらす根源の無明と戦うことにつきます。<

http://6027.teacup.com/situation/bbs/72603


螺髪さん

すばらしい投稿ありがとうございました。
すごく勉強になりました。
>宇宙と生命を貫く根源の妙法蓮華経の真理は、日蓮大聖人が実践され、日蓮大聖人の御振る舞いの中に現れることによって、初めて確立された<
この箇所を敢えて大聖人の立場から言えば、もしその状況において、大聖人が御振る舞いの中で「妙法」を実践されてなければ、まだ「仏」の境涯を顕現しておらず、私たちに御本尊を残すこともなかった事になります。
実に大聖人は菩薩仏としての最高の使命(願い、といった方が適切かもしれません)を全うした方です。

また、螺髪さんのご意見

>真の人生、人の真の生き方を求め、妙法蓮華経という究極の妙理、それを体現した南無妙法蓮華経という「仏」を追い続けていったら、その追いかける自身が南無妙法蓮華経だったということでしょうか。

唱題行によって、仏の実体といえる歓喜の生命が湧き上がってきます。
その南無妙法蓮華経が湧き上がるわが生命そのものが実は妙法蓮華経なのだと実感できることが、
そもそも無量の歓喜であり、無上の安心なのではないのでしょうか。<

御存じとは思いますが、この信心の姿勢について、法華経の智慧にはこうあります。

師を求める“一心”に

斉藤: 子どもたちが、父の死を聞いて嘆き「咸(ことごと)く皆恋慕を懐(いだ)いて 渇仰(かつごう)の心を生ず(咸皆懐恋慕げんかいえれんぼ 而生渇仰心にしょうかつごうしん)」(法華経 p506)。

そして「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず(一心欲見仏 不自惜身命)」(法華経 p507)となります。

その「一心」に応えて、「永遠の仏」が姿を現すということです。

名誉会長: それは自分の「永遠の仏界」に目覚めるということです。そのカギは、仏を求める「一心」にある。

日蓮大聖人は、この「一心欲見仏 不自惜身命」の文によって、「日蓮が己心の仏界」を顕し、「三大秘法」を成就したと仰せです(御書 p892、趣意)。

以前にも触れたが、大聖人は「一心」について、「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」(御書 p892)と仰せだ。

「一心欲見仏」の経文が、「一心に仏を見る」から「一心を見れば仏なり」へと読み換えられている。“仏を求める凡夫の一心”が、そのまま“仏の一心”となっているのです。
「心こそ大切」です。慢心ではなく、心の底から求道心を燃やしきっていかなければ、仏法はわからない。

何億年、何百億年に一回しか、めぐり会えない御本尊だと思ったなら、一回一回の勤行がどれほど感激に満ち満ちてくることか。
末法の御本仏・日蓮大聖人の「己心の仏界」が、「一心欲見仏 不自惜身命」の文によって顕されている。

この甚深の意義をかみしめなければならない。

成仏といい、仏界といっても、「不自惜身命」の信心の「心」にしかないのです

http://sgi-shiteifuni.com/?p=8234

更に、この箇所について、方便品、寿量品講義にはこうあります。

「御本尊を供養し、御本尊に対する「恋慕」の情、「渇仰の心」を生じる。これが信心の極意です。
ー略ー
自身の胸中に、即、御本尊の生命が、大聖人の生命が湧現するのです。
これほどの大功徳はありません。
心に仏界という最高の秘宝を持っていない人はいません。
この平等性に「法華経の心」があります。
そして、末法の全人類の誰もが、その宝の箱を開けられるようにしたのが「大聖人の心」です。
その箱の扉を開く鍵が、「一心欲見仏」の ”信” と、「不自惜身命」の ”行” にあたります。
真剣な求道と実践こそ根幹となるのです。

 

政界再編を望む

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 7月30日(日)12時49分36秒
  稲田氏をはじめ、防衛省、自衛隊のトップが辞任して不在の時、それを狙ったかの様に、北朝鮮ミサイル発射。

だが、意外でも何でもない。事前に、高確率で予想されていた事だ。

そういう時に、辞任させざるを得ない今の政権は、もはや政権としての体を成していない。
まともな国民が束になって、一日も早く退陣させなければならないと思う。

安倍政権を潰しても後釜がいない、とか言う人がいるが、誰かが言うように、チンパンジーがトラックを運転しているのを見つけたら、まずやめさせる事だ。
次の政権が、多少不完全だったとしても、チンパンジーよりはマシだろう。
大事故を起こしてからでは遅い。

チンパンジーが向かう先など、バナナ園に決まっている。  普通に戦争出来る国という事だ。

次の受け皿をどうするかという問題。
現在まだはっきり見えないが、安倍首相を支えまくった勢力など、問題外。

公明党など、知識層の怒りと侮蔑の対象そのものになっている事を、知るべきだ。
普段、政治に関心の薄い人達によって、辛うじて支えられている政党。論理的追求に耐えられない。張子の虎。叛乱を力で抑えているが、それももう限界だろう。

また、国民ファーストがもし成立したとしても、右翼的傾向が強くなるとすれば、安倍政権と似た様なもの。何の実績も無いし、私はとても支持出来ない。

大規模な政界再編と、リベラルな勢力の台頭を望みたい。

内閣不信任案が、ただの紙屑にしかならない様な状況下では、まともに民主主義は遂行されない。



 

胸中の妙法蓮華経!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年 7月30日(日)09時22分8秒
   「久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つ全く差別無し」――大聖人も、池田先生も、わが己心に「仏」があるとの御断言です。「仏」を自身の内側にも求め、「生命」としてその「仏」の実相を明らめようとしているといえます。天台は、「九識論」で極地の「識」を「根本浄識」に求めました。後代の述作とはいえ、右でも左でもない、白でも黒でもない、その根源の「浄識」の表現ともいえる「久遠元初」を受け入れない理由がいまひとつ分かりません。

 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり 此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」(日女御前御返事1224㌻)

 「但し妙法蓮華経と唱え持つと云うとも若し己心の外に法ありと思わば全く妙法にあらず麤法(そほう)なり」(一生成仏抄383㌻)

 「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり」(三三蔵祈雨事1468㌻)

 「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(生死一大事血脈抄1337㌻)

 【生死一大事の血脈抄の池田先生の講義】
~~~~~

 本抄では、「生死一大事血脈」についての最蓮房の質問に対して、「妙法蓮華経」こそが万人の生死の苦しみを解決する大法であることが明かされてきました。そして、その妙法蓮華経を受持する信心のあり方を重層的に示されるとともに、上行菩薩である日蓮大聖人を師として求める「師弟不二の信心」が生死を乗り越えるための肝要であることが強調されます。

 その上で、本抄最後の御文においては「妙法蓮華経」の大法を万人に伝える真実の血脈は「信心の血脈」以外にないと結論されていくのです。
 この最終の結論こそ、宗教の魂です。なぜならば、生死は人間の苦しみの根源であり、生死一大事血脈こそ、人間の苦しみの解決のための血脈だからです。その生死の苦を解決するためには、その人にとって何が鍵になるかを教えなければ、どんなに素晴らしい法を説いたとしても、全ては画餅に帰してしまいます。

「信心の血脈」の全体像
 「信心」こそは、偉大なる法を伝える最も確かな道です。聖職者や儀式の権威などという、不確かな幻想によって伝わるものではない。
 真実の偉大なる法を伝えるのに最も大切なのは、まさに「信心」なのです。なぜならば、信心のみが、私たちの生命を覆う無明を打ち破って、本来具わる妙法の無限の力を現すことができるからです。一人一人に妙法の偉大な力が現れたとき、それこそが「法が伝わる」ということなのです。
 ゆえに、大聖人は本抄で、まさに、意を尽くされて「信心の血脈」のあり方を重層的に説ききっておられます。この点については、この講義で既に詳しく拝してきましたので、ここでは要点を確認しておきましょう。

 第一に、久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つは全く差別がないと信解する正しい信心です。これは「何を信ずるのか」という「信心の内実」にかかわる最重要の一点であり、この信をこめて題目を唱えていくことが日蓮門下の「肝要」であると本抄では仰せです。
 この仰せのポイントは、今の自分が妙法蓮華経の当体であり、この一生で即身成仏できると信じていくことにあります。

 第二に、「臨終只今」の覚悟で、悔いなき信心を貫き、「臨終正念」を遂げていくことです。「月々・日々」の悔いなき信心と、その生涯の持続が、一生成仏を決定します。これは「信心の深さと持続」の面から「信心の血脈」を明かされていると拝することもできます。
 さらに、今生に一生成仏を遂げていくことによって、過去世・現在世・未来世の三世の生死の全体が「妙法蓮華経の生死」のリズムのままにつながり、「仏界の生死」となって現れるのです。人間として生まれた今世は、三世の生死のあり方を決める。かけがえのない人生なのです。

 第三に、「異体同心」で広宣流布に前進する信心の大切さを示されています。妙法蓮華経の血脈を受けるのは、自分一人ではありません。万人が妙法蓮華経の当体であり、成仏の血脈を受け継ぐことができる。それを実現していくのが、仏の大願である広宣流布です。そして、その広布大願を実現してく主体が「異体同心の信心」で結びつた和合僧団なのです。
 これは「広宣流布と和合僧」の面から、「信心の血脈」を明かされていると拝されます。

 以上のように、大聖人は本抄で「何を信ずるのか」という観点から、また「信心の深さと持続」と「広宣流布の和合僧」の面から、重層的に「信心の血脈」の意義を示されていきます。これによって、生死一大事血脈が流れ通う、あるべき「信心」の全体像を示されているのです。

「師弟不二の信心」が究極
 さらに、この「信心の血脈」のすべての面を凝縮し、体現した「師」の存在を示されています。それが「上行菩薩」です。

 確かに「信心の血脈」の重層的な意義は言葉で説明されました。しかし、多くの人が、それぞれの人生において「信心の血脈」を確かに受け継いでいくためには、その全体像を体現した「師」の存在が決定的に重要なのです。
 なぜならば、言葉は、一面一面ばらばらに数えるのに対して、妙法蓮華経の当体としての人格と行動を実現した「師」の存在は、信心の血脈を一挙に触発する力を持っているからです。
 ゆえに本抄では「上行菩薩から受け継ぐ南無妙法蓮華経を唱え、修行してきなさい」と言われ、大聖人こそが上行の出現に当たることを示唆されているのです。

 このように「師」の存在を示された上で、本抄は「信心の血脈」の重要性を強調した一節で結ばれております。
 すなわち、「師弟不二の信心」こそ、信心の血脈を受け継ぐ要諦であり、究極なのです。
 本抄は、周到に言葉を尽くされた「信心の血脈」論であると拝することができます。

仏法の生死観は人類の希望の根源
 私は若き日から、仏法による生死観の変革が人類に計り知れない希望を与えると確信してきました。また、それが、人類の平和を実現する不可欠の基盤になるとも考えてきた。そして、そのことを、機会あるごとに、さまざまな形で論究してきました。
 世界の多くの識者との対話の嚆矢(かぶらや)となったトインビー博士の対談においても、この生死のテーマを真正面から取り上げて、語り合いました。
 「生命は死後も存続するのか、それとも現世だけのものか」
 「もし存続するとすれば、それは永遠のものか、有限のものか、またいかなる状態で存続するのか」

 トインビー博士は、私の率直な問題提起を真摯に受け止めてくださった。そして、“これは重大な問題であるが、実証不可能な問題であり、空間や時間の枠組みの中では答えることはできないであろう”と、学者らしい抑制を利かせた言及をされていた。他方、博士は、仏法の「空」の思想、あるいは「永遠」の概念によって初めて答えることができるであろうとも言われておりました。
 これは、言い換えれば、生死の問題は学問よりも宗教の根本課題であるとの指摘であり、いわば仏法の実践者である私に問いを投げ返されたのであります。
 西洋の最高峰の知性がたどり着いた珠玉の洞察です。生死の問題こそ、人類にとって永遠の問いであると同時に、宗教にとっての根本課題であります。ここにこそ宗教が存在する意義があるといっても過言ではない。

~~~~~

 もうひとつ、いま研鑽中の「一生成仏抄講義」です。

【妙法蓮華経は宇宙と生命を貫く真理】
******

 「妙法蓮華経」という普遍的な真理に対して、大聖人は「南無」を付けられ、その真理に対して呼び掛ける修行を樹立されたのです。南無とは「帰命」の意味です。「南無妙法蓮華経」と声を出して唱題することは、自身がその真理の世界に帰していくことを身口意の次元で決意し、誓う宣言にほかなりません。そして、それと同時に日蓮仏法の特徴は、一人ひとりの人生において、妙法蓮華経の普遍の真理に基づく生き方が実現するということです。大聖人の仏法における唱題行の急所は、単に「外なる真理」の名称を唱えることではありません。

 宇宙と生命を貫く「内なる真理」を呼び覚まし、自身がその真理に基づき生きていくことを現実のものとする実践にほかならないのです。いわば、「衆生本有の妙理」をわが生命の内側から発動させ、発揮させる自分自身を確立していく作業そのものなのです。

 仏教の歴史に鑑(かんが)みれば、法華経が「衆生本有の妙理」に目覚めることを教えていても、現実のその後の仏教の展開は、この「妙理」が内にあることを忘れてしまった。その中で、一念三千・一心法界の義について観法を立て、胸中の仏界を呼び覚まそうとした天台大師の観心行(観念観法)は、法華経の正道を復活させた正当な実践と言えます。
 さらに、日蓮大聖人は万人に実現可能なものとして、「衆生本有の妙理」に名を付けられ、、その名を唱える唱題行を打ち立てられた。そして、妙理への帰命と、妙理に基づく生命の確立とを可能にされた。
=中略=

 私たちが唱える南無妙法蓮華経の本義について、さらに忘れてはならないことは、南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人の御本仏の御生命の名前でもあるということです。
 南無妙法蓮華経といっても、日蓮大聖人の御本仏としての御生命を離れて存在するものではありません。宇宙と生命を貫く根源の妙法蓮華経の真理は、日蓮大聖人が実践され、日蓮大聖人の御振る舞いの中に現れることによって、初めて確立されたと言えます。それまで人々が感じることができなかった「法」が、現実に示されていったからです。

 日蓮大聖人の御本仏の生命とは、悪と戦い、無明を破る生命にほかなりません。この地上の一切の不幸と悲惨、宿命と四苦から人間を解放する闘争は、その悪をもたらす根源の無明と戦うことにつきます。

 (一生成仏抄講義36~39㌻、2006年1~7月大白蓮華掲載、2007年1・26発行)

******

 真の人生、人の真の生き方を求め、妙法蓮華経という究極の妙理、それを体現した南無妙法蓮華経という「仏」を追い続けていったら、その追いかける自身が南無妙法蓮華経だったということでしょうか。唱題行によって、仏の実体といえる歓喜の生命が湧き上がってきます。
 その南無妙法蓮華経が湧き上がるわが生命そのものが実は妙法蓮華経なのだと実感できることが、そもそも無量の歓喜であり、無上の安心なのではないのでしょうか。

 間違いなく、己心に妙法蓮華経という「仏」はあるのです。



 

そうかそうか、そうかそうか

 投稿者:  投稿日:2017年 7月30日(日)09時03分35秒
  くやちいんだね、誘われなくて。
くやちいんだね、相手にされなくて。
いろんな価値観を認められない、可哀想なおひと。
 

不思議な出来事

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 7月30日(日)03時41分29秒
編集済
 

おはようございます。
御本尊様とは何なのか、
ふと不思議な体験から感じた
ことです。あまりこの掲示板の
目的とは関係ないかもしれません。

何か関係あるかなと思って書きました。

この池のまわりを毎日10周
ウォーキングしています。
お題目を唱えながらです。

池の真ん中には、噴水があり
噴水が湧き出るときもあれば
止まっているときもあります。

数日前、朝行ってみると噴水は
とまり水面もまったく動きのない
鏡のような状態でした。

私が1周したときです、噴水から
いきおいよく水が吹き出しました。
すると水面に変化が起きました。
私の歩く方向と同じ方向に
ゆっくりと回転し始めたのです。

その水面が宇宙のように思えました。
そして水面に浮かぶ泡が消えたり
あらわれたりしました。

さらに私が歩く同じ方向に
足の悪いおばあさんが
亀のように歩いていたり
元気のよい白人のおじさんが
素早く走って駆け抜けていったり。
乳母車に赤ちゃんを乗せた
ママさんがゆっくりと歩いていたり
みんな水面の動きと同じ
方向に歩いているのです

なんだか私は輪廻転生を
この瞬間に体験してるようでした
そして池の真ん中の噴水を
みていると、なんだか元気に
なっていくようで、1周するごとに
力がましていくような感じがしました

ご本尊とはこの池の中心の噴水
のようなものなのかもしれませんね
---------------------------------
きのうは空海さん(伝教大師)の
ことをちょっとだけ勉強しました。

空海さんと日蓮大聖人様の
はじまりは何か同じような気がしました。
空海さんはなにやらどこかのお坊さん
に教えられた呪文を100日間に
すごい数を唱えて修行したそうです。

日蓮大聖人様もたしか清澄寺で
お堂に閉じこもって行をされていた
とか。

そして大日経と法華経のどちらにも
一念三千の法門があり、大日経は
法華経からそれを盗んだとか。
それゆえ法華経のほうがすぐれてる
とか。

空海さんは生まれも育ちもエリート
だったのに、日蓮大聖人様は漁師の
子供として生まれたのか。

そう考えると、超能力を示した空海さん
よりも、日蓮大聖人様のほうが、すごいな
好きだなと思えてくるのです。
やっぱり私にとっては末法の御本仏ですね。
---------------------------------
信じて、自分らしく生きて、学べばいいんだ
たぶん。きっと。


http://imagine-happy-life.tokyo/

 

信濃町の人びと 様

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2017年 7月30日(日)01時45分43秒
  お声かけありがとうございます。
早速ですが未来部に紹介したい本がありまっす。

「女子中学生の小さな大発見」著者「清邦彦」
という本です。

この本のまえがきを紹介させていただきます。


まえがき 最近、感動していますか?

夏休みの宿題に「自由研究」というのがあります。
それはそれでいいことなのですが、でも正直いって
なかなか大変みたいです。

いくら長い休みとはいえ、疑問を持って、仮説を立て、
計画して、いろいろやってみて、そして結論を出す、
人生そんなに計画どおりにうまくいくものではありません。

どうしよう、どうしようと言ってる間に夏休みは
すぎてゆきます。

なにもフルコースやらなくてもいいんじゃないでしょうか。
長いレポートじゃなくてもいいと思います。
別に結論が出なくてもいいと思います。
わからないものはわからないままで。

ちょっと試してみた、というぐらいの研究でも
いいと思います。すごいっ、と感動しただけでも
いいと思います。

育ててみた、飼ってみた、それだけでもりっぱな研究です。
見た、見つけた、気がついたなら、それはもう発見です。
集めるだけでもいいです。セミを五種類集めるだけでも、
夏休みは終わってしまうかも知れません。

だいたい研究なんてものはそんなに簡単にまとまるもの
ではないと思います。予想どおりにならなかったのは、
失敗ではなく成功です。何も変わらなかったのは、
「変わらない」ことを発見したのです。

本と同じ結果にならなくても、それは気づかないところで
条件が違っていたからであって、自分のやったことも正しい
結果です。たまに本が間違っていることだってあります。

考え方がおかしいと言われても「自分はそう考えた」という
のは正しい事実です。

静岡市の街の中に、お城の堀と堀にはさまれて、私立の
女子だけの学校があります。本書はその静岡雙葉(ふたば)
中学校の一年生の生徒たちの理科の小さな研究レポート集です。


 

ClearSky様

 投稿者:日蓮仏法2.0メール  投稿日:2017年 7月30日(日)00時52分34秒
  了解です。

https://www.amazon.co.jp/%E5%87%A1%E5%A4%AB%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F%E8%AB%96-%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84/dp/4802093160/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1501311990&sr=1-1&keywords=%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84

 

日蓮仏法2.0様

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月29日(土)23時47分16秒
  私の資料「文底仏法と日寛教学」を読まれた上でのコメントを頂き、有難うございます。

日蓮仏法2.0様の日蓮仏法2.0様の書籍は読ませて頂きました。
私と立脚点が違うのは承知しています。
この違いを踏まえて議論するためには、もう少し私の考えを述べてから、やり取りできればと考えておりました(作成に着手した第五章で、その材料を提示してからお互いに議論できればと・・・)。

しかしながら、今回、幾つかのご意見を頂きましたので、その点に関して、後日、手短にお返事を投稿したいと思います。

------

私の投稿が続いてましたので、少し控える意味でも、後日ということで宜しくお願いします。
 

同盟題目23時に開始です。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 7月29日(土)22時59分36秒
  池田先生と奥様のご健康を祈ります。
よろしくお願いします。任意参加です。

寝たきりオジサン様
投稿お待ちしていました。読書の夏。
良い本があったら未来部の為に紹介してください。

>>二年と四カ月  投稿者:寝たきりオジサン
同盟題目に参加させていただいて二年と四カ月になりました。
仕事が立て込んで昨日は書き込めませんでしたがちゃっかり
同盟題目だけは参加させていただいています。
持続の戦いというのは自力がつくのでやって損はありません。

最近お小遣いがたまって、ほしかった本を17冊買えたので今
読書にはまっています。読書の夏です。<<
 

小笑ちゃん

 投稿者:元京都西京区乃虎  投稿日:2017年 7月29日(土)22時57分38秒
  俺に理解者なんかおらんよ。
元々、誰も最初からおらんし、うっとしい先生気取りのコウセンでもない。
ちょっと色々知ってるから言うて、だからアホのコウセン言われるねん。
そうやっていつも突っ込むこと自体が慢心なんや。
わかるか?
わからんやろな。
その言葉自体が、俺すごいやろ言うとんねん。
お前の周りには理解者と先生という口だけのお友達はおるけど。
そんな、すぐ禿げるようなやつはいらんねん。
一人一人守らなあかんけど、先生事情通は付きおうたらあかんねん。
誰が腐ったオフ会にいかなあかんねん。
今更なに、事情通みたいに言うとんねん。
でも、出てきてくれておおきにどす。
図星やったん。
来週の土日なん、知らんけど。
誘われても行かへんがな。
殴られるの怖いし。
口ばっかの人を利用する集まりに何でわざわざ行かなあかんねん。
それよりももうちょとマシな名前考えたらどないですか。
酒の飲み過ぎ、タバコの吸い過ぎ、薬のやり過ぎ、どれもアキマヘンで。
いずれにせよ、毎度毎度お前はカスやのー。
 

twitterより。本部執行部はひたすら処分を続ける。これがまともな宗教教団のすること?

 投稿者:ツイート人  投稿日:2017年 7月29日(土)22時44分20秒
  ほんとに一人を大切に、という教団が全国で3桁に及ぶ会員を腐敗分子として除名だの活動停止だのにするか?
創価学会がまともな時代に云われたは、学会から除名されるとは永遠に不成仏の烙印を押されることだったぞ!
自教団がまともだと主張するなら、安易に査問して除名役職剥奪活動停止できるか?
 

そうかそうか

 投稿者:  投稿日:2017年 7月29日(土)22時10分28秒
  誘われなくってスネてんの?
もっと事情通をキドって薄っぺらい断片情報を晒して、理解者を減らしていきなよー。
 

静かやなー^_^

 投稿者:元京都西京区乃虎  投稿日:2017年 7月29日(土)22時03分20秒
編集済
  なんか静か過ぎやなー
ピタッと止まった感のある掲示板やな。
花火大会?
裏食事会?
板の裏オフ会?
何れにしても、ご苦労さん。
策や方法ばかりはねー。
1年の憂さ晴らしを済ましまひょか。
飲み過ぎて死んだなんてシャレにならんで。
違う意見を言う人間を排除してるようじゃお先真っ黒けですがな。
リアルタイムにこんなん言うとるでと、いちいち報告はせんでええで。
池田先生は今頃何したはるんやろな。
弟子はどんちゃん騒ぎですがな。
 

お詫び・訂正その三十五

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年 7月29日(土)19時51分33秒
  レ・ミゼラブル016 ?
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 3月31日(火)00時17分27秒

四 言葉にふさわしいおこない(続き)
 (前編は既読)
 ある日彼はさる客間で、既に予審がすんで、まさに判決が下されようとしている一つの犯罪事件のことを耳にした。さる困窮な男が、金を得る手段も尽き果てて、一人の女とその間にできた子供とを愛するあまり、貨幣を贋造した。当時なお貨幣贋造は死刑をもって罰するものであった。女は男が造った贋造貨幣を初めに使って捕らえられた。彼女は拘留されたけれども、彼女の現行犯以外には何らの証拠も得られなかった。ただ彼女のみがその情人(男)の罪証を挙げることができ、自白によって彼を破滅せしむることができるのであった。彼女は否認した。いかに尋問されても、彼女はかたく否認して動かなかった。そこで検事はある手段を考えついた。彼は情人(男)の不実を言い立て、巧みに偽った手紙の紙片を見せて、彼女には一人の競争者があり、彼女は男から欺かれたのであるということを、ついにその不幸な女に信じさせてしまった。そのとき女は嫉妬の情に駆られて、男を訴え、すべてを自白しすべてを立証した。男の罪は定まった。彼はその共犯者の女とともに近々エークスで判決を下されることになっていた。
 人々はその事実を語り合って、皆判事の巧妙さを讃嘆した。彼は嫉妬心を利用して、怒りの念によって真実を現わさせ、復讐心から正義を引き出したのであると言われた。司教はそれを黙って聞いていた。そして話が終わると彼に尋ねた。
「その男と女はどこで裁判されるのですか。」「重罪裁判所においてです。」

 司教はまた言った。
「そしてその検事はどこで裁判されるのですか。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現場の活動も、自身との闘いも放棄して、「ミミズ千匹穴探し」ばかりしている高学歴で、高慢なエリート集団のネトリス対策室の皆さん、毎日のお仕事誠にご苦労様です。供養を食い散らかし(居酒屋で酒呑んで痴話談義)ながら十界互具の六道を行ったり来たりしているとさぞお疲れでしょう。たまには良書を深く読み込んでください。現場は酒呑んでいる暇も金も無く、まさに総決起で動いています。
この章の意味合いが分かりますか?これは「信」ずる心の視点を展開しています。ミリエル司教は「信」が大切なもので、「疑念」を起こさせる行為を「悪」とみているから、「そしてその検事はどこで裁判されるのですか。」と問うたのではないでしょうかね。さらに、
「人々はその事実を語り合って、皆判事の巧妙さを讃嘆した。」とは、「信」に対する認識が欠如した愚者(大誓堂の人々)を指しているのだと思います。付和雷同で大誓堂改革派のT川グループの面々がその代表ですね。事なかれ主義の怠惰な生活、安穏な現世志向の無難なサラリーマン、師弟同一など全く無視して、リッチな生活が保障されれば良いと動物で譬えると大木にぶら下がっているナマケモノ。とにかく、動きが鈍くて、現場は分からず、無頓着で不勉強。中高年になり益々羞恥心が高まり、毎日が(心の)地獄のように感じるような世界です。退職して役職も無くなり、延々と続く業火に炙られて、現場組織からも見放され、認知症も悪化して御本尊も返却して介護施設で孤独な死を迎えるか、はたまた多くの友人(善友)に恵まれて、共々に激励し合いながら、楽しい学会活動で終生豊かな境涯で惜しまれつつ死を迎えるかは、本人の「信」に関わる自覚です。

 さて、015で「社会は自ら作り出した闇の責を負うべきである。心のうちに影多ければ罪はそこに行わるる。罪人は罪を犯した者ではなく、影を作った者である。」というミリエル司教の部分を引用しました。このブログは創価学会会員メンバーばかりですから、その「創価という社会」が自ら作り出した闇の一部を披瀝すれば、会員除名に関わる「申請者不詳で除名が出来るという仕組み」と、会員に対して非公開の「創価学会県審査会規定」ですね。もう封建主義のような世界で、一方的に通知して査問呼び出しを行い、これに従わずに弁護士使ったりしたら、即座に除名通知を送ってくるわけです。断頭台を組み立てて、ヘラヘラ笑いながら、会員の知らない審査会規定を持ち出して、バッサリとギロチンにかけるという早業。宮川K也さんでしたか?これって名前だけなのか、本人の明確な意思と先生に成り代って(御名代?)首切りしているのか分かりませんが、私は勇気あるな~と寒心してました。T川の名前でやりゃあ良いのにね。序に「申請者」もT川次期会長候補って出せば、みんな納得して「やっぱりね~」と思ったところなんですが、やっぱり内弁慶のミミズ千匹穴好きでは無理なんでしょう。
「人々(大誓堂に棲む人々)はその事実(除名)を語り合って、皆判事(T川次期会長候補)の巧妙さを讃嘆した。」というところが、ポイントです(笑)。

私も本日の地区総決起大会から戻りまして、ミサ(?)題目を1時間唱えました。
youtubeティナ・ターナーの勤行をバックやっても良かったですかね?

ーーーーーーーーーーーーーー
書籍の抜粋引用は、以下の会則

????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????

は、該当していません。

ーーーーーーーーーーーーーー
以下、解説で書かれている部分は、お詫び・訂正・削除します。忘れて下さい。


 

上を向いて歩こう

 投稿者:大将  投稿日:2017年 7月29日(土)19時00分38秒
  ちゃんと上に書いてあります。
みんな意味があるのです。

「瞋恚は善悪に通ずる者なり」とは御聖訓の一節。
大悪と戦う正義の怒りは、大善を生むことになる。
極悪と戦えば、極善になる。
善人の勝利、善の繁栄こそが、邪悪への最大の復讐となるのである。
 

資料「第三章 文底仏法と日寛教学」について

 投稿者:日蓮仏法2.0メール  投稿日:2017年 7月29日(土)18時50分39秒
編集済
  少しだけ意見を述べさせてください。

> 6頁 「我本行菩薩道の文の底」。即ち、法華経・寿量品の一句の「文の底」に「成仏の本因」が存在することを「文底」と呼ぶ。定義としては、確かにその通り。しかし、文底の意味はもっと広く深いものがある。本章では、通常用いられる「我本行菩薩道の一句」からの「文底」というアプローチではなく、「文義意」から出発する。<
文底の視点は、開目抄の「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり(『開目抄』188頁)」で確認できます。しかも、そこで問題にしているのは、大聖人自身の提唱する「一念三千の法門」であって、それが本因妙・下種仏法へと展開されていく。それ以外の「文義意」の視点を読み込む必要はありません。

>20頁 -日蓮大聖人による文底・下種仏法の成立
    -創価学会による生命論・人間主義の仏法の確立<
この二重構造に関する洞察は正しいです。

>32頁の図 戸田先生の獄中の悟達と生命論から新しい人間主義の仏法とそれを平和・文化・教育等の分野に開く哲理<
つまり、戸田先生も正宗教義を踏襲する傍ら、生命論によってすでに新しい現代思想を展開していたわけです。

>80頁 私は「凡夫即仏」を信じる末法の一凡夫である。法華経の智慧の「菩薩仏」という概念を理解し、受け入れている。<
つまり、唱題する私たち全員が地涌の菩薩ということですね。

>94頁 文底仏法とは下種仏法である。自らが仏に成る仏法である。大聖人の文底仏法は超人的な他の存在に救ってもらう宗教ではない。<
私の主張と同じです。

>99 頁 日寛教学は正統な学会教学の基であり、「法華経の智慧」でも採用されている文底仏法の体系である。現在でも堅持すべき内容であると考える。しかし、宗門から独立した以上、この時代背景の上から視点の浅深を見直す必要もあるかもしれない。<
日寛教学は宗門から分かれる前までの学会教義であったが、同時並行して代々会長はそれぞれの現代思想を展開していた。故に、学会教義は最初から常に重層構造を持っていたと理解すべきでは。それが正宗との軋轢の一因になっていたはずです。その意味では正宗教義は常に見直されてきているのであって、むしろこの学会の思想の重層構造を解明する作業が求められているのはないでしょうか?その意味ではClearSkyさんの分析は一方的で偏っています。

>106頁 文底仏法を否定することは、久遠元初を否定することである。それは、南無妙法蓮経の所以(ゆえん)を否定することを意味する。その往き着く所は、日蓮仏法を捨てて、釈迦仏法に戻りかねない。三代会長が身命を賭して築き上げた正統な学会教学を護るべきだ。<
私自身は文底・下種仏法を継承・採用するが故に、大聖人を神格化する意味の久遠元初を否定します。それは、一切衆生皆成仏道の南無妙法蓮経の所以(ゆえん)を宣揚することを意味します。その往き着く所は、日蓮仏法を現代に蘇生させ、三代会長が身命を賭して築き上げた正統な学会教学を継承するためです。

>104頁 学会教学の流れ<
したがって、結論的には、学会教学はある意味で正宗・日寛教学の根幹部分を換骨奪胎しながら新しい人間主義の現代思想を展開する方向を目指していたと言えるでしょう。ClearSkyさんも賛同されていると思いますが、私の提唱する人間主義の凡夫本仏論を、正宗教学の日蓮久遠本仏論と宮田さんの釈尊回帰の立場の間にある中道路線の一つのオプションとして提示されていないのが残念です。

そうできない背景には、三代会長が正宗教義を信奉し、固辞したという立場を正当化し、その所詮「正統学会教学」から現在のSGが逸脱していると弾劾する構図が見えます。それは教学を離れた教団に関わる政治のレベルの問題となります。私としては、一往、問題のレベルを立て分けて考えるべきだと思っております。皆様の腰を折って申し訳ないです。

https://www.amazon.co.jp/%E5%87%A1%E5%A4%AB%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F%E8%AB%96-%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84/dp/4802093160/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1501311990&sr=1-1&keywords=%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84

 

ジョーカー様

 投稿者:あきらか  投稿日:2017年 7月29日(土)17時26分3秒
  『悪と対峙する弱さは、組織を蝕む。大人の対応は、結局は、何もしないという結果を生む。それが、会員のやる気を削いでいく。学会であろうと、公明党であろうと、おかしいものはおかしいと毅然とした姿勢を保ち続けなければ、第六天の魔王と戦うことは出来ない。悪に対して、大人の対応など、「くそくらい」なのだ!』
悪と対峙する弱さ  投稿者:ジョーカー  投稿日:2017年 7月29日(土)13時38分38秒

先生の「輝きの人間世紀へ」の289ページには、こういうのがありますね。
肝に銘じたいもの。

「もし菩薩がいて悪人をかばい、その悪を罰することができず、そのために、かえって悪を増長させ、善人を悩ませ、混乱させ、正法を壊してしまうならば、その人はじつは菩薩ではない。この者は、外に向かっては、人を詐りあなどって、つねにこう言うであろう。
「私は耐え忍んでいるのです」と。こういう人間は、死んだならば、(自分が責めなかった)悪人たちと一緒に地獄に堕ちるであろう。」1374ページ

「悪人が悪いのはわかっております。しかし、今はいろいろ事情があるので」などと言って、戦わない。
「耐え忍んでいるのです」などと言う。そういう偽善者を厳しく破折しておられる。
仏法は厳しい。いくら理屈を言っても、例え幹部であっても、悪と戦わなければ地獄に堕ちる。
大聖人がそう仰せである。いかに表面を飾ろうとも、妙法だけは、だますことはできない。
だれ人たりとも、妙法によって必ず裁かれる。


 

「21世紀への選択」・・平和への「持続の挑戦」と「責任への挑戦」 p37投稿します。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 7月29日(土)16時55分55秒
  前向きな姿勢を評価したい ・・・日蓮仏法2.0 さまお声がけありがとうございます。

「21世紀への選択」・・平和への「持続の挑戦」と「責任への挑戦」 p37投稿します。

なにせ、しなければいけない事が多すぎて、おろおろしている始末です。
凡夫即身成仏論はP36まで読みましたが、御義口伝講義巻下の平仮名化に時間を取られています。

Tommyさんの講義録デジタル化がなければ、とても手が付けられなかったことだと思います。
同期かな・・・と思っています。

「ちよ」さん、のブログにも行ってあげてください。真実を語るhttp://tomotiyoo.exblog.jp/
Tommyさん、衷心より感謝申し上げます。

日寛教学を中心に学んできた身です、教学試験のたびに講義や試験責任者みたいなことを仰せつかっていましたので、・・・困るのですよ、否定されては・・・。

しかし否定しなければ、世界に通用しないであろうことも、理解できます。

まず私がしなければいけない事は、御義口伝講義下の平仮名化と音声化です。

それが、先生の思いを世界に届ける因になればと思っています。
人生の目的は、池田思想を世界に流布することです。

このことは、日蓮仏法2.0さまより、すこし年を取っていますので、孫との共同作業と思っています。

虹の戦士さま、のブログへの書き込みも必ず実現したいのですが、何から始めようか思案投げ首と言う体たらくです。

最初から文章を作ることは時間がかかりますので、少なくして、先生の指導とか、世界に通用しそうな文章を紹介できれば、と思っています。

虹の戦士さまへ・・・実名は記せません。処分されているし相当チェックされていることは、・・・。

ポイント

* 池田・・・
 自らの悩みや苦しみを乗り越えて、社会に人類に貢献=こうけん できる自分へと変革していく・・・まさにそこに、私どもSGIのめざす「人間革命」運動の眼目=がんもく もあります。


* テヘラニアン
 その意味でも、私は「創価(価値創造)」という学会の名称に深い意義を感じます。

・・・一般に、「自己規律の心」が強い人ほど、権威に挑み、古い権威との戦いのなかで新た

な創造の道を切り開いています。
 

「21世紀への選択」 平和への「持続の挑戦」と「責任への挑戦」 p37

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 7月29日(土)16時54分32秒
  「21世紀への選択」
平和への「持続の挑戦」と「責任への挑戦」 p37

池田
私のことはともかく、一流の人は一流の次元=じげん で、見るべき点を見ることを実感しま
す。

自らの悩みや苦しみを乗り越えて、社会に人類に貢献=こうけん できる自分へと変革していく・・
・まさにそこに、私どもSGIのめざす「人間革命」運動の眼目=がんもく もあります。

テヘラニアン
 その意味でも、私は「創価(価値創造)」という学会の名称に深い意義を感じます。

マハトマ・ガンジー、マーチン・ルーサー・キングなど、歴史に新たな「創造の道」を

開いた人々は皆、価値観の危機の時代に生まれ、生きてきました。

そうした危機の時代に・新たな「創造への知恵」を輝かせるためには、何よりも、

境遇負けない「自己規律の心」を強く育むことが肝要です。

一般に、「自己規律の心」が強い人ほど、権威に挑み、古い権威との戦いのなかで新た

な創造の道を切り開いています。

池田
 危機の時代にあって価値創造の道を歩むためには、「自己規律の心」が欠かせない

・・・この博士の鋭い指摘は、胸に響きます。

この点、私の友人であるハーバード大学のヌール・ヤーマン教授も、「『持続の挑戦』
こそが、偉大なる価値創造のための源泉である」と述べておられた。

私が考える「持続の挑戦」とは、民衆が一人一人が賢明になり、強靱な連帯をつくりあ
げていくことだと思います。

「平和」という問題を考えても、民衆が権力の暴走を制御する力をもたなければ・戦争の
惨劇は決して止むことはないのです。

テヘラニアン 時代の趨勢として、グローバリゼーション(地毬一体化)にともなう世界
の相互依存性が強まっていますが、残念ながらそれに見合う"地球的視野"は、いまだ開
発途上にあるといえましょう。

私は、池田会長がそのパイオニアとして、世界的な規模で思索と行動を重ねてこられた
ことを、よく存じあげております。

池田
 過分な評価をいただき恐縮です。

私はい「第三の千年」の基調となる、新たな世界ビジョンを模索し、打ち立てるための
一つの結集軸になればと願い、一九九六年二月、戸田平和研究所を創設し・博士に所長
に就いていただいたのです。

テヘラニアン
 所長就任は、私にとって大変に光栄なことでした。

会長からの真情あふれる要請をお受けしたとき、この仕事は私自身が深く信じる大義
に沿うものであり、また平和を愛し求める人々とともに働く、千載一遇のチャンスである

、ということを即座に感じました。

創価学会の存在には以前から関心をもっており、私なりに研究を進めるなかで、"世界
平和を探求する不屈の団体"であるとの結論に達していたのです。

九二年七月に会長と初めて東京でお会いし、その考えは、はっきりとした確信へと変わり
ました。

池田
 かつて博士は、私ども創価学会の歴史に触れて、「牧口初代会長が、宗教改革の名
において権威の宗教と戦い、平和の名において軍部の権力と戦い、自分自身の思想に殉じ
られた姿。

そこに『価値創造者』の至高の姿があると思う」と論じてくださったことがありました。

こうした深い理解を寄せてくださる博士に、所長を引き受けていただいたことは、私に
とって研究所の誕生とともに、二重の喜びとなりました。

テヘラニアン
 ありがとうございます。

所長就任は、平和探求に生きてきた私にとっての、いうなれば「責任への挑戦」でもありました。

発足にあたって、スタッフとともに研究所の使命を討議していくうちに浮かび上がって
きたことがあります。

それは「新しい世界のための、まったく新しいタイプの研究所にならねばならない」という点です。

私がここでいう「新しい世界」とは、「コミニケーションの回路はどんどん拡大して
いるにもかかわらず、対話そのものは切実に不足している世界」のことです。

そこで戸田平和研究所では、モットーとして「地球市民のための文明間の対話」を掲げ、
戸田第二代会長の生誕100年である二000年を一つの目標に、研究を進めてきました。

池田
創立者として私も研究所に対し、できうるかぎりの応援をしていく決心です。
 

人生の座標から~

 投稿者:うーこメール  投稿日:2017年 7月29日(土)16時38分47秒
  ・青春とは、悩みと希望との戦場である。どちらが勝つか。絶対に、希望を勝たせなければならない。今、どんなに苦しくても、人は勝つために生まれてきたからだ。
・成績が優秀でいやな人間になるよりは、成績は中くらいでもいいから魅力ある人間になってもらいたい。魅力ある人間というのは、自分は自分だと堂々と胸を張っている人間です。そして、自分と違う人の長所を、素直に尊敬し、愛せる人間です。
 

あれこれ・・

 投稿者:史人  投稿日:2017年 7月29日(土)16時38分27秒
編集済
  新聞の記事を見て書くこともそんなにないことですが、岩手県に寄付したのと同額を要求してくる人間革命に書かれている人というのは!?
その人の己心の生み出した夢が派生したものに支払う義務などないでしょうね・・・。


生命の真理で検索をかけてみると「バイオスター」とかが出てきます。
まぁ生きているものへの感謝といっていいと思います。
生命の真理については、実は説く人が居られないのが実情でしょうけど、こうして、科学的に証明しようという動きは見守っていきたいものです・・・。

無量義経徳行品に書いてある「明徹」に関して、
日月の光明に照らされて、生命の真実があると解きます。
その心は、
徹とは人が生まれて通ることを意味し、轍が車が通った跡を意味するものであるのが一例で、
徹の真ん中の育つは、上が子の逆字。子供が生まれることを意味します。
仏といっても生命の真理から外れたものではないということです。
日蓮大聖人の時には既に太陽を衆明と呼び、太陽のような天体がいくつもあることを示唆しています。

故に、勤行の時には諸天への感謝を、東天を向いて行っています。
今でもみんなしているんだと思います。


20時回ってから生命の実相で検索をかけてみました。
個人的な感想ですが、自民党こんな党だったかと思うと残念です。
神道政治連盟など隠れ蓑に過ぎないのでしょうね。
追記で済みません。
人の命に対しての姿勢が問われるものらしいです。
 

久遠元初とは生命の原点

 投稿者:日蓮仏法2.0メール  投稿日:2017年 7月29日(土)16時26分19秒
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/72532
池田先生は日寛教学を支持されているのか? 1/2 ?投稿者:ClearSky ?投稿日:2017年 7月28日(金)00時34分
>先生は、「法華経の智慧」でも文底仏法と日寛上人の著作をベースに話を展開されています。<
これは一人のSGIさんとの議論の中で書いていますが、先生はずっと正宗教義を踏襲しながらも、世界の在家仏教団体としての新たなSGI教学を目指していたと言えます。幾つかの異なった思想的要素が混淆しているというのが、私の分析です。ClearSkyさんが整理してくれた『法華経の智慧』にすでに重層的な思想要素が織り込まれており、凡夫本仏論を志向していたと思います。
  伝統的正宗教義 ?? 宇宙生命論 ?? 本覚思想 ?? 凡夫本仏論 (『凡夫即身成仏論』78頁)
ちなみに、一例を挙げます。これはClearSkyさん自身が再度 >初級・青年三級試験2017 5/6< で引用している箇所です。
名誉会長:そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実-無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。・・・凡夫のありのままということです。本有常住であり、「もとの儘」です。これを「久遠」という。「久遠」とは「南無妙法蓮華経」のことです。御本尊のことです。だから、御本尊を拝する、その瞬間瞬間が「久遠元初」です。私どもは、毎日が久遠元初なのです。毎日、久遠元初の清らかな大生命を全身に漲らせていけるのです。毎日が久遠元初という「生命の原点」から新たな出発をしているのです。
斉藤:それこそ「本因妙」ですね。
ここに、正宗教義の用語を踏襲しながらも、全く新しい素晴らしい現代的思想が語られています。「久遠元初」を大聖人に限定しないで、大聖人自身が常に「日蓮が弟子旦那」と仰るとおり、私たち自身また私たちの修行に約して普遍化の方向で理論展開しています。戸田先生の生命論を継承する側面です。
これが人間主義の日蓮仏法への志向性で、私はそれを継承・発展している自覚でおります。

https://www.amazon.co.jp/%E5%87%A1%E5%A4%AB%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F%E8%AB%96-%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84/dp/4802093160/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1501311990&sr=1-1&keywords=%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84

 

前向きな姿勢を評価したい

 投稿者:日蓮仏法2.0メール  投稿日:2017年 7月29日(土)15時50分36秒
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/72525
>松戸さんの「凡夫即身成仏論」が来ました。まずは、これを読んで、池田思想をグローバルな思想として広めていけるのかを、松戸氏の考えを探りたいと思っています。<
赤胴鈴之助さんの前向きな姿勢がうれしいです。最大限に評価したいと思います。ご感想なりご意見をぜひお聞かせください。

https://www.amazon.co.jp/%E5%87%A1%E5%A4%AB%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F%E8%AB%96-%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84/dp/4802093160/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1501224626&sr=1-1&keywords=%E6%9D%BE%E6%88%B8%E8%A1%8C%E9%9B%84

 

悪と対峙する弱さ

 投稿者:ジョーカー  投稿日:2017年 7月29日(土)13時38分38秒
  新・人間革命 雄飛三十八より
「 十条は苦悩の末に、今後、一切、謀略や攻撃を行わないことを約束させ、断腸の思いで支払い(3億円)に応じた。山本伸一の中国訪問中の出来事だった。しかし、山脇は、なんと、さらに五億円を要求してきたのだ。」

::::::

悪に対して、所謂、「大人の対応」をすると、益々増長する。悪には、妥協なく、毅然とした態度でなければならない。そうでなければ、「弱さ」を見抜かれ、付けこまれる。創価学会の団結は仲良しクラブではない。内外問わず、悪は悪であるとはっきり言っていかなくては、会員も組織も守れない。

悪と対峙するということは、穏便に済むことはないということである。常に問われるのは、その「覚悟」があるかないかである。54年も山友の恐喝事件も、根底にあるのは、弟子の、悪と対峙する弱さであり、大人の対応でなんとかしようとする姑息さである。これは、結果的に悪を増長させ、広宣流布を破壊する働きとなる。

悪と対峙する弱さは、組織を蝕む。大人の対応は、結局は、何もしないという結果を生む。それが、会員のやる気を削いでいく。学会であろうと、公明党であろうと、おかしいものはおかしいと毅然とした姿勢を保ち続けなければ、第六天の魔王と戦うことは出来ない。悪に対して、大人の対応など、「くそくらい」なのだ!

組織人間は、大人の対応で、すべてを切り抜けようとする。こういう、ズルい大人になってはならない。いかにも物分かりがよく、あなたの味方ですと装っても、悪と対峙する弱さが根底にあれば、それは味方ではない。親の思いをなした魔である。

創価学会は獅子の団体である。あらゆる謀略や理不尽な攻撃を受けようとも、お金を支払ってそれをやめさせるような恥知らずなことはしないし、する必要もない。それで学会を守ることになると思っていたとしたら、筋違いにも程がある。54年も、先生の首を差出し、手打ちにしようと画策した。皆が皆、大人の対応に従い、ズルい大人(弟子)へと成り下がっていった。こんなのはダメに決まっている。

大人の対応に慣れ過ぎると、何が正しくて正しくないかがわからなくなる。思考は止まり、自分の意見をもてなくなり、いつしか、組織の考えが自分の考えとなる。悪と対峙できない自分自身の弱さこそが、不幸の原因となる。不幸とは、善を見殺しにし、悪と戦う心がないことをいう。

悪と対峙するのかしないのか。二つに一つである。悪を喜ばせるのは、悪に対する物分かりのよさ(大人の対応)である。おかしいものはおかしいという感覚を麻痺させることなく、組織にいながら組織に染まることなく、自身を磨き続ける。誰かを頼る心があれば、獅子の団結とはならない。いまこそ、悪と対峙する強さを持つ時である。今一度言いましょう。悪に対しての大人の対応など、「くそくらい」である!

 

諸天善神の加護

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 7月29日(土)13時26分9秒
  公明党首班内閣、昔だったら素晴らしいと思いますが
もはや諸天善神にみはなされた公明党、創価学会では
亡国の道を歩むのでは?

ただ看板をかえても、中身は同じでは何も変わらない
ような気がします。

北朝鮮のミサイル、各地の自然災害、そして南海トラフ
ヒアリの日本上陸、もとの公明党、創価学会に
もどり、再び諸天善神の加護が増大すること
を祈るだけです。


http://imagine-happy-life.tokyo/

 

政治生命をかけた冒険?

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 7月29日(土)12時10分58秒
  田原総一朗氏が、首相官邸で「政治生命をかけた冒険」とやらを、首相に提案したらしい。

首相も関心を示したそうだが、内容は「中身はそのうち分かる」ということで、明らかにされなかったそうだ。

根拠は無いが、ひょっとして、公明党首班内閣?

もしもそうなると、実はかなり面倒なことになるかも。

原田創価学会が総力を挙げて、学会員を煽り、山口内閣だか太田内閣だかを支援させれば、1年ぐらいは持つかも。
その間に、平和主義に戻った様に見せかけ、国民投票に持ち込み、第3項で9条を骨抜きに…。というシナリオも、まったく無くはないだろう。
マインドコントロールに嵌っている学会員には、その真の狙いを見抜けまい。

無党派層の反発を考えれば可能性は低いが、一応、心の準備をしつつ、対応策も考えておこうと思う。

合わせて、自社さ村山政権の時、阪神淡路大震災とオウム真理教事件が起きた事を、忘れまい。

 

二十一世紀への対話 118

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年 7月29日(土)10時16分8秒
  【トインビー】 ニュルンベルグ軍事裁判と東京裁判は、戦争に対する人類の姿勢に、一つの歴史的転換がなされたことを象徴し、かつ宣布するものでした。両裁判の意義は、明らかに犯罪である戦争が、ここに初めて犯罪として認識されるようになったところにあります。戦争は、この両裁判によって、かつて神聖なるがゆえに人為的な法の拘束は受けないとされていた主権国政府の、合法的特典としての立場を失ったわけです。
しかし、これら二つの裁判も、ある意味では公正さを欠くものでした。いずれも戦勝国が敗戦国に対してとり行なった裁判であること、そして戦勝国が、戦勝国側の政治家、軍当局者を誰一人として裁かなかったことです。彼らのうち何人かは、同じ罪科によって公平に起訴されるべきだったのです。

【池田】 そこで、この戦争犯罪人ということを、今後どう考えるべきかが問題になると思います。第二次大戦後のように、今後も裁判が行なわれるべきか否か――。行なわれるべきだとすれば、それはどのような人々を対象とし、どういう形で、何を基準として行なうか、といった点が問題になるでしょう。

【トインビー】 ある制度に参加する者はすべて、その制度の統率者が参加者の名においてとるあらゆる措置に対して、自らもある程度の個人的責任があるものです。仮に、アメリカの選挙民がベトナム戦争での自国戦犯を裁く軍事法廷を設けるものとすれば、その場合、告発の対象は大統領、司令長官、軍民の属官だけに限るべきでないと思います。アメリカの選挙民は、こぞって自らを告発しなければなりません。民主的立憲国家においては、最終責任は選挙民自身にあるからです。

【池田】 この戦争という問題一つを考えてみても、現在のような国家のあり方は、根本的に変革しなければならないことが明らかですね。
もちろん、これまでも論じ合ってきましたように、将来における理想的形態は、世界連邦が実現され、従来のような意味での国家が解消されなければなりません。しかし、将来、その方向に導いていくためには一時的・便宜的であるにせよ、現在のわれわれの国家というものに対する考え方の変革が、なされなければならないと思うのです。
私は、国家とは、社会的、文化的特質を示す地域単位であり、あるいは行政上の単位であるといった考え方で十分ではないかと考えています。国家の横暴を抑制するには、全世界の人々がそういう考え方に徹すべきであると思います。

【トインビー】 地方国家はその主権を剥奪されるべきであり、すべて全地球的な世界政府の主権のもとに従属させるべきである、というのが私の持論です。そうなってもなお、現在の地方国家は、地方行政上の単位として、有益な、また実際になくてはならない地方自治の役割を、担い続けることでしょう。――ちょうど連邦国家において、その構成各国が演じているような役割です。
私は、人間の諸活動の規模が拡大し続けるにつれ、地方国家が個別的にもつ現在の行政的権限は、しだいに世界政府の手に移ることになると予想しています。ただし、職務によっては、世界的規模の統一はどうしても無理で、行政的にも、地方に分散させておいたほうが便利だというものも、おそらく残存することでしょう。
このような考察をめぐらせばめぐらすほど、ますます私は、あなたのお考え通り、現代世界の地方国家百四十か国は、いつまでも、戦争遂行権や非軍事的な人事万般への最終発言権をもつ政治単位としてとどまっていてはならないし、またとどまることもできない――という考えに帰着せざるをえないのです。

【池田】 国家と個人の関係において、博士御自身は現在の国家をどのように意識し、評価しておられますか。また、個人的な期待として、将来、国家はどうあるべきだとお考えでしょうか。

【トインビー】 私個人としては、自分が一市民として帰属している国家を、水道やガスや電気を供給してくれる公共事業体のようなもの、とみなしております。税金を払うのは、他の支払いと同じく、私の市民としての義務だと感じています。また、自分の所得について税務当局に偽りなく申告するのは、私の道義的義務だとも感じています。
しかし、国家のために、自分の生命を戦争で犠牲にしなければならない良心的義務は、私にも他の市民にもないと考えております。ましてや、他国家の市民を殺害したり、不具にしたり、彼らの国土を荒廃させたりする義務や権利は、われわれにはまったくないと思っています。私が最大の忠誠心を払うのは人類に対してであって、私の属する地方国家に対してでもなければ、この国家を支配している体制に対してでもありません。
しかし、私のこうした態度も、まだたんに一個人のそれにすぎません。地方国家の権限を私が適正かつ正当と考える機能だけに限るためには、すべての人類の考え方が、従来のような地方国家への宗教的献身を捨てる方向に変わる必要があるでしょう。私は、国家の神聖さが否定され、人間以外の自然こそが、神聖さを取り戻してほしいものだと思っています。
 

北朝鮮弾道ミサイル標的について

 投稿者:軍事マニア  投稿日:2017年 7月29日(土)08時34分25秒
  過年度、防衛戦略の専門家との談話の際に
北朝鮮が日本に核弾頭を落とす場合、どこ
がふさわしいのか?との話の中で、アメリ
カが日本に原子爆弾を評定投下した効果と
同様に、北朝鮮もまた効果を研究している。

効果有る評定、それは『札幌』であると。
ツイッターで、創価学会の会館の話しが、
有りましたが第39回本部幹部会の会場
となった『札幌文化会館』(今は取り壊
されて札幌北文化会館)並びに『北海道
文化会館』(今は取り壊されて札幌西文
化会館駐車場)は、地下に大広間、厨房
、浴室、トイレを完備していました。
この二つの会館取り壊しには、地下の掘
り起こしから会館解体まで一ケ年以上を
要する期間を要しました。あの嵐桜も廃
棄したことは有名ですが、池田先生が何
故、地下を要する会館を札幌の地に建て
たのか、今になって思えば不思議なこと
です。今のリニューアルして新築した会
館は、寝泊りするスペースも当然のこと
ながら、厨房も浴室も有りません。
宿坊ではない!!と言うことです。
 

戸田先生の絶対

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 7月29日(土)07時56分19秒
編集済
 

宗教とは絶対的なもの。
戸田先生の動画をみると絶対という言葉
がたびたび言われています。
先生が絶対と言うならば、それを信じるのが
弟子のあるべき姿ではないでしょうか。

教義を研究するのもその先生が絶対と言われる
ことへの確信がますます強くなるならよいこと
です。でも、研究するあまりに、疑いが生ずる
と幸せにはなれないのでは?
先生が絶対と言われることを
そのまま信じるほうが楽ですよ
毎日が生き生きと楽しくなります

私はキリスト教、イスラム教、仏教のいろんな
宗派、共産主義についてもっと勉強しようと
思いました。そこには共通するものが
あることに気づきました。
そして、それはちがうと思うことも。

その勉強によって、きっと日蓮大聖人様
の仏法のすばらしさがわかっていくと
思っています。

敵を知り、己を知れば百戦危うからずです。

先生への絶対の信頼があるがゆえに、
現在の創価学会の姿はおかしい、
まちがっている、そう訴えることは
先生への恩返しだと思います。
そして、創価学会を離れても
先生への絶対の信頼があるならば
先生への恩返しはできると思いはじめました。

敵の弱点は対話力の欠如です。
次から次へと除名していく姿。
なぜ話し合い、理解し合おうとしないのでしょう。
みんなを除名していって最後に残るのは
世界広宣流布と言ってる無明の一人です。



http://imagine-happy-life.tokyo/

 

「21世紀への選択」 人間の真価は「権力との闘い」に表れる P34

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 7月29日(土)02時24分5秒
  人間の真価は「権力との闘い」に表れる P34

テヘラニアン
 私自身、不当な理由で、一時身柄を拘束されたことがありますから、投獄

されてもなお信念を曲げなかった牧口・戸田両会長の偉大さは、よくわかります。

私はイランを出てアメリカに渡り、ハーバード大学で学ぶかたわら、イラン学生協会の

会長として、祖国の民主化運動に身を投じていました。

それで、イランの秘密警察から狙われていたのです。

一九七一年、三十四歳のときです。私は望郷の思いにかられて帰国を考えました。

両親からは帰国は危険だと忠告されましたが、ハーバード時代の学友でイラン政府の

要職に就いていた友人から、一緒に仕事をしてほしい」と頼まれたこともあり、勇気を

奮って帰ることを決断したのです。

池田
敢えて、そうされたわけですね。

テヘラニアン
ええ。イランに到着した日、私のパスポートを見た秘密警察の役人がブラ

ックリストのファイルを調べて、急に顔をほころばせました。

"反体制派のリーダーを捕まえた"と、喜んだのでしょう。

私は即刻、空港の警備室まで連れていかれたのです。

そのとき、通路の窓から、家族が手を振っているのが見えました。

私がすぐ手続きを終えて出てくるだろうと思っていた彼らの顔は、担当官に連行されてい

く私の姿を見て、みるみるうちに恐怖にひきつっていきました。

なぜなら皆、イランの残酷な独裁の歴史を知っているからです。

池田
「まさか」と心配されたのですね。

テヘラニアン
そこで私は、家族にメッセージを伝えることにしました。

「政府の友人の保証もあるので、心配はいらない。

いま、捕まっているのは誤解なのだから、皆は家に帰りなさい」・・・と。

しかし、「呼び出しに応じて、いつでも当局に出頭すること」「当局の許可なしに出国

しないこと」を約束させられ、以後七年間、常に監視されていました。

その後、仕事を始めたのですが、最初のうちは給料さえもらえなかったのです。

池田
胸に突き刺さる、真実の証言です。

牧口会長や戸田会長と同じく、私も無実の罪で投獄されました。忘れもしない、一九五

七年の七月、二十九歳のときです。

民衆運動の台頭恐れた権力が、まだ広範な運動になる前に、芽をつんでおこうと、私

を不当に拘置したものでした。

しかし、権力の弾圧には絶対に屈しなかった。

テヘラニアン
私は、創価学会の三代の会長の生き方に深い感動を覚えます。

なぜなら、三人とも個人的な苦悩を乗り越えながら、なおかつ、そこに安住すること

なく、人類のために徹して行動されているからです。そしてまた、崇高な美しい価値を創

造されているからです。

世界には多くの苦悩する人々がいますが、三代の会長のように「人類のためにた闘う崇高

な人生」へと、自分の生き方を転換できる人はごく限られています。
 

「21世紀への選択」 人間の真価は「権力との闘い」に表れる P34を投稿します。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 7月29日(土)02時21分27秒
  「21世紀への選択」 人間の真価は「権力との闘い」に表れる P34を投稿します。

「権力との闘い」は「死」を覚悟しなければなりません。

死と直接対面して、逡巡する信仰者がほとんどであることは、牧口、戸田両先生が

投獄されたとき、二十数名の学会幹部は退転しました。

私はその人たちを非難する事は出来ません・・・。

自分にその難が襲い来った時、退転せずに命を掛けることが出来るのか・・・・。

仕事の事、家族の事、従業員の事、組織の部員の事・・・脳裏によぎるでしょう。

そこで翻ること無く信仰を保ち続ける人は、仏です。

退転する人は、地獄です。



「若き友に贈る」池田先生著作より

いかなる人間も
厳しく死に直面せざるを得ない
故に私は
生死の永遠の勝利のために
最高の宗教を選ぶ
*
暗い日があっても
悩める日があっても
私は現実の生活を逃避しないで
信仰という深く強い負けじ魂で
後半生を生きぬくのだ
*
人生の迷子にならぬために駈ける
私は明瞭なる指標にと
確固たる信仰を持ったのだ


21世紀への選択
人間の真価は「権力との闘い」に表れる P34

ポイント
* 牧口会長や戸田会長と同じく、私も無実の罪で投獄されました。

忘れもしない、一九五七年の七月、二十九歳のときです。

民衆運動の台頭恐れた権力が、まだ広範な運動になる前に、芽をつんでおこうと、私

を不当に拘置したものでした。

しかし、権力の弾圧には絶対に屈しなかった。

* テヘラニアン
・・・

世界には多くの苦悩する人々がいますが、三代の会長のように「人類のためにた闘う崇高

な人生」へと、自分の生き方を転換できる人はごく限られています。
 

初級・青年三級試験2017 6/6

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月28日(金)23時58分42秒
  (6)研鑽に際して

「法華経の智慧」とは明らかに違う教義を教える教学試験の材料。
教材の執筆陣は
(A)法華経の智慧を読んでない
(B)読んだが、理解できていない
(C)意図的に教義を変えようと考えている
のいずれでしょうか?
もしかすると、「初級・青年3級試験だから、ここまでしか教えない」との逃げ道も残してあるかもしれません。

しかし、教える側は大変です。
勉強を担当する講義担当者は、不適切な教義は教えたくないので、悩んでいる方が現実にいます。
「どうみても違うよな」「こんな教え方でいいのかな」と。
怒っている受験者の親から、「子供に受けさせたくはない」「受けない方がよいと思う」との訴えもありました。

このような方にも、私は受験を勧めています。
不適切な教学を打ち破るためには、正しき教学を学ぶ必要があるからです。
担当者にも、「講義もやってあげましょうよ」と声を掛けています。
今回、できるだけ多くの講義担当者・合格責任者が、正しく教えていくことを願っています。

では、どのように教えていけば良いでしょうか?
私は次のように語っています。
・「久遠実成」の先に「久遠元初」がある
・文底仏法が、釈尊と大聖人の仏法の本意
・池田先生の「法華経の智慧」は文底仏法に基づいて記されている
・今回の教学を基礎知識として学習して、いつか「法華経の智慧」を学んで、より深い教義を学んでもらいたい

今回の教材が不完全だとしても、また不適切だとしても、教学の研鑽を通して、真の教学を教えてあげたいと思います。
受験者に対しては、大白蓮華の教義に関する欺瞞を暴く必要もありません。正邪の闘いに巻き込む必要もないと思います。
受験者に罪は全くないのですから。
この教材に疑問を感じる人が、この試験を通して、全てを価値に転じていく闘いをすれば良いのだと思います。

以上、個人的な意見・事例で申し訳ありません。
参考になれば幸いです。

受験者のため、学会のために、共々に頑張りましょう!

----------------------------------
以上で終わりです。

春様
いつも有難うございます。
おやすみなさい。
 

初級・青年三級試験2017 5/6

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月28日(金)23時54分51秒
編集済
  (5)久遠元初

公平を期すために記します。今回の大白蓮華の教材にも、一応「久遠元初」の説明はあります。

==== 引用開始(大白蓮華・2017・6月号87頁) ====
日蓮大聖人は、外面の姿やはたらき(外用)においては、釈尊から付嘱を受けた、地涌の菩薩の上首(指導者、中心者)である上行菩薩です。これに対して、大聖人の内心の悟りの境涯(内証)においては、久遠元初の自受用報身如来です。
==== 引用終わり ====

これは、ほぼ従来の教学通りの記述です。この次の記述を見てみます。

==== 引用開始(大白蓮華・2017・6月号87頁) ====
「久遠元初」とは、私たちの実践に即していえば、凡夫が妙法を自身の生命に開き顕す根源的な成仏の時を意味します。
私たちが南無妙法蓮華経の御本尊を信じて自身の内なる妙法を開き顕すことは、自身に久遠元初の仏の生命境涯を現すことです。
==== 引用終わり ====

「久遠元初とは…凡夫が成仏する時」(主旨)との用法です。
確かにこの用法は間違いではありませんが、部分観であり、全体を説明できていません。
何より、「文底」を排除する場合、即ち「久遠実成=永遠の仏」の場合、久遠実成の先はない訳ですから、時間をさかのぼったところの「久遠元初」は存在しません。
しかも、過去の学会教学では「久遠元初の自受用報身如来」を用いてましたので、急に否定はできません。
苦労して考えたのが、この大白蓮華の説明なのだと思いますが、「無始無終の本仏=久遠の仏」を説明しないので、よくわからない説明になっています。

法華経の智慧では、どのように記されているか確認します。

==== 引用開始(法華経の智慧・如来神力品②:『上行菩薩は「菩薩仏」』『「毎日」が「久遠元初」』) ====
名誉会長:この「因位(仏因の位)の仏」―それが上行菩薩です。「因果倶時の仏」です。上行菩薩が出現しなかったならば、無始無終の本仏は示せないのです。上行菩薩の出現は、五百塵点劫という想像もつかない過去をも突破した「無始無終の久遠の本仏」を指し示しているのです。
須田:これまで、わかったつもりで、あいまいだったことが、かなりはっきりしてきました。この「無始無終の本仏」とは、私たちが「久遠元初の自受用報身如来」と呼んでいる「南無妙法蓮華経如来」のことですね。
名誉会長:もちろん、その通りです。
須田:そうしますと、この「久遠元初」というのは、もはや「はるかな昔」という意味ではありませんね。時間の枠を突破しているというか、もう「時間の概念」ではないということになります。
名誉会長:そうです。「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。時間論ではなく、生命論です。生命の奥底の真実-無始無終に活動し続けている宇宙生命そのものを指して「久遠元初」と呼んでいるのです。それは「無作三身如来」と言っても同じです。大聖人は「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(御書p75)と仰せだ。「はたらかさず」とは、途中からできたのではない、本有ということです。「つくろわず」とは、三十二相八十種好を具足していない、凡夫のありのままということです。本有常住であり、「もとの儘」です。これを「久遠」という。「久遠」とは「南無妙法蓮華経」のことです。御本尊のことです。だから、御本尊を拝する、その瞬間瞬間が「久遠元初」です。私どもは、毎日が久遠元初なのです。毎日、久遠元初の清らかな大生命を全身に漲らせていけるのです。毎日が久遠元初という「生命の原点」から新たな出発をしているのです。
斉藤:それこそ「本因妙」ですね。
名誉会長:だから「今」が一番大事なのです。(略)だから「久遠の妙法」の広宣流布へ本気で立ち上がれば、そのとき、生命に「久遠元初の夜明け」が訪れる。
==== 引用終わり ====

明確に、「久遠元初」は「五百塵点劫という過去を突破した」だけでなく、「時間の枠を突破した」、「無始無終の生命の異名」であり、もはや、「時間論ではなく、生命論」として扱われるべきであると述べられています。
更に、御本尊の捉え方にも関連する重要な概念として記されています。
これを理解すると、御本尊への勤行・唱題の実践が壮大な儀式であることがわかります。

先生の著作という理由だけでなく、論理的にも「法華経の智慧」の内容を否定するのは誤りだと考えます。
久遠実成で何を修行して釈尊は仏になったのでしょうか?法華経には説かれていません。故に、法華経は未完成と呼ばれています。文底によって完成すると記されています。
この考えが正しいと私は考えます。

更に、もし、「久遠元初を否定」して、「久遠実成で完結」させたい場合、無始無終の宇宙生命への帰命によって得られる境涯を実現(実感)できるでしょうか?
「過去との整合性など、どうでもいい」とか「教義なんて、後付けすればいいんだ」とか、「教義はそれなりに重要」とか言うような乱暴な教学は間違っていると考えます。
宗教の教義は、実践者の幸不幸や功徳を左右します。
 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年 7月28日(金)23時54分28秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
池田先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
原田会長、副会長の方々が若き日の信心を思い出す様に
学会職員の方々が、池田先生に正確な報告ができます様に
おやすみなさい
 

初級・青年三級試験2017 4/6

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月28日(金)23時52分53秒
  日蓮大聖人を「上行菩薩の再誕」と呼ぶことがあります。
これを完全に間違いとは断定できません。
上行菩薩の深い意味を用いて「上行菩薩」と呼ぶのであれば、それは意味があることだと思います。
ここでは、法華経の上行菩薩の意味を、文底の次元では「仏」、現実の世界に行動する「菩薩仏」と捉えることを確認します。

先ず、如来が上行菩薩に付嘱した内容は、「如来のすべて」「如来の生命そのもの」であることが説明されています。

==== 引用開始(法華経の智慧・如来神力品②:「師弟の勝利!」「信心の勝利!」) ====
斉藤:要するに、「如来のすべて」が法華経には説き示されている。それを上行菩薩に付嘱すると。天台は、ここには法華経の全体をまとめる「枢柄」(中心となる肝心要)があるとしています。そして、この経文に則って、法華経の意義を説明しようとしました。いわゆる名・体・宗・用・教の五重玄です。(略)
法華経に無限の功徳が備わっている「ゆえん」というか、無限の功徳が発生する「根本」を指し示していると思います。
須田:つまり「如来の生命そのもの」でしょうか。
遠藤:それを上行菩薩に付嘱した、と。
==== 引用終わり ====

更に、「法華経の智慧」では上行菩薩を単なる菩薩ではなく、特別な意味がある存在「菩薩仏」として再定義しています。

==== 引用開始(法華経の智慧・如来神力品②:『上行菩薩は「菩薩仏」』) ====
名誉会長:さあ、そこで、「如来のすべてを受けとり、身に体している菩薩」とは、一体、いかなる存在なのかということです。通常、「菩薩」と言えば、成仏を目指して修行している存在です。しかし、明らかに「上行菩薩」は、そうではない。「如来のすべて」を全身に体していて、なおかつ「菩薩」と呼ばれている。上行菩薩は「菩薩仏」なのです。
遠藤:たしかに国王から国を譲られたら国王です。
名誉会長:上行菩薩はじめ地涌の菩薩は、出現の時から、すでに「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」(法華経p474)と説かれていた。
須田:「三十二相」というのは「仏」の特徴です。地涌の菩薩が仏であることを示していると思います。
斉藤:しかも、釈尊よりも立派に見えた。釈尊が、まだ青さの残る二十五歳の青年とすれば、荘厳な百歳の翁に見えたと説かれています。
名誉会長:だから神力品の結要付嘱の儀式は、本来は「仏」から「仏」への儀式なのです。唯仏与仏(ただ仏と仏と)の境涯です。ではなぜ、上行は菩薩として現れているのか。それは、ひとつには、「一世界には一仏」という原則を破らないためとされる。二仏が並び立つと、皆に混乱を起こさせるからです。
斉藤:上行菩薩は“釈尊の説法を助ける”ために弟子の立場をとっているということですね。
==== 引用終わり ====

上行菩薩を「仏」と捉えているのが、池田先生と元・教学部首脳の「法華経の智慧」です。
もしも、上記の意味で「大聖人は上行菩薩」と呼ぶのであれば、大聖人こそが重大な使命を持った仏なのですから、その解釈は正しいでしょう。
もしも単なる「メッセンジャー」の意味で用いるなら正統な教学とは違うと言えます。

「法華経の智慧」の「如来神力品」には、「人法一箇」「事顕本と理顕本」「久遠元初」など文底の法門が説かれています。
この教学試験を機に、是非もう一度学んでみたいと思います。
 

初級・青年三級試験2017 3/6

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月28日(金)23時50分12秒
  (3)釈尊と大聖人の位置付け(大白蓮華から)

教材は明らかに以下の定義で教義を教えようとしています。
・釈尊  - 久遠の仏
・大聖人 - 上行菩薩(単なる付嘱を受けた地涌の菩薩の上首)

上記に関連する箇所を記します。

==== 引用開始(大白蓮華・2017・6月号82頁) ====
法華経の付嘱の通り、末法の初めに出現して、南無妙法蓮華経を万人に説き、不惜身命で弘通された方こそ、日蓮大聖人御自身です。この意義から、大聖人御自身こそ地涌の菩薩、なかんずく上行菩薩に当たります。
==== 引用終わり ====

==== 引用開始(大白蓮華・2017・6月号86頁) ====
日蓮大聖人が、ただ一人立ち上がり、他に先駆けて、末法の法華経の行者として、命を懸けて妙法の弘通に励まれたことは、大聖人が釈尊から末法弘通の付嘱を受けた上行菩薩に当たることを証明しています。
==== 引用終わり ====

==== 引用開始(大白蓮華・2017・6月号97頁) ====
その核心は久遠の仏であるという本地を明かした釈尊が、久遠の弟子である地涌の菩薩を呼び出し、自身の滅後の悪世に法華経を広めて人々を救い導くこと(付嘱)です。
==== 引用終わり ====

今回の初級・青年3級試験では、大聖人を「上行菩薩」として積極的に定義しています。
「釈尊から付嘱を受けた上行菩薩」の位置付けです。これ以上の説明はありません。
この箇所はゴシック体(太字)で記されており、受験者に重要な定義だとして覚えなさいとの意図があると感じます。
また、前年2016年の青年2級でも、大聖人を「御本仏」とは記していませんでした。
もはや、今後、大聖人を「御本仏」とは言わないつもりのようです。
現在の教学では、大聖人を「単に付嘱を受けた者」に過ぎず、ある意味「メッセンジャー」の位置付けにしたいのであろう、との印象を受けます。
 

初級・青年三級試験2017 2/6

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月28日(金)23時49分23秒
  (2)永遠の仏と永遠性の仏

先に記したように、大白蓮華80頁には、「釈尊は…永遠の仏」と定義されています。
更に言えば、昔の教学は「五百塵点劫」は永遠の意味で用いられてはいません。過去の一時点でした。
昔は「長遠」という表現だったのを記憶している方も多いと思います。
無始無終の永遠ではなく、有限の「長遠」の過去として「五百塵点劫」を用いていました。
いつの間にか、”こそっ”と変えてしまおうとしているような気がします。
バレないと思っていたのでしょうか? そんなことはないでしょうね。 昨年の青年二級に続いて、今回は敢えてここまで踏み込んだような気がします。

権威主義・形式主義・官僚主義に浸った人は、「教学部が作成した大白蓮華が間違うわけはない」と言うかもしれません。
実は、昔の表現が間違っていて、現在の「五百塵点劫」=「永遠」が正しいのでしょうか?
一度、立ち止まって、冷静に、どちらが正しいか考えてみたいと思います。

論理的に考えると、議論に必要な以下の二点が導かれます。
①五百塵点劫以前の過去の存在
②『「久遠実成の釈尊」が本仏』の採否
これに関して、「法華経の智慧」の記述を確認します。

==== 引用開始(法華経の智慧・如来神力品②:『上行菩薩は「菩薩仏」』) ====
斉藤:「我本行菩薩道(我れ本、菩薩の道を行じて)」とありますから、五百塵点劫以前は、菩薩の修行をしていたことになります。
名誉会長:すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。
須田:たしかに、途中から出現したのでは「三世常住の仏」とは言えません。
遠藤:始成正覚の釈尊は「本無今有〔本無くして今有り)」と破折されました。“根無し草”のようなものだと。しかし、「途中から仏になった」という点では、寿量品の「久遠実成の釈尊」も、ただ時間をはるかにさかのぼったというだけで、同じです。厳しく言えば「本無今有」であって「本有」ではありません。
斉藤:「本有」でなければ、三世常住の「本仏」とは言えません。
==== 引用終わり ====

「久遠実成の釈尊」は「途中から仏になった」訳ですから、「永遠の仏」とは言えません。
無始無終の「永遠の仏」ではないと記されています。従って、「法華経の智慧」では「久遠実成の釈尊」を「永遠性の仏」と呼んでいます。
即ち、永遠を指向しながらも、完全なる永遠ではないことを教えています。
このため、「永遠の仏」と「永遠性の仏」を立て分けています。この両者の立て分けは重要だと考えます。

また、「永遠の仏」は「文上」では説かれていません。文上から「義」を開いて「意」に迫ろうとする「文底」に於いて確認できる仏です。
更に、「永遠の仏」は「永遠性の仏」とは比較にならない意味を持っています。このことを確認します。

==== 引用開始(法華経の智慧・如来神力品④:『「事顕本」と「理顕本」』) ====
名誉会長:それは何か。寿量品での説法は、釈尊個人についての「顕本」です。「人間・釈尊」が自分の「生命の本質」を示したといってもよい。これは、あくまで「個人としての」顕本です。しかし「文底」の顕本は、これとまったく違う。けたはずれに違う。それは全宇宙的な顕本です。凡夫から仏まで、十界の一切衆生の全体の顕本なのです。「文上」では、五百塵点劫の昔から説法教化し続けている「永遠性の仏」が示された。
須田:「久遠実成の釈尊」です。
名誉会長:しかし永遠性といっても、完全に永遠ではない。どこまでも「有始(始めがある)」の仏です。だから無始無終の宇宙即妙法と一体とは言えない。“すき間”がある。ゆえに、文上の仏は「法勝人劣(法が勝れ、人が劣る)」です。寿量品の真意は、この「永遠性の仏」を通して、完全なる「永遠の仏(久遠元初の自受用身)」を示唆するところにあったのです。この「永遠の仏」は無始無終の妙法と一体です。宇宙の大生命そのものであり、「人法一箇」です。
遠藤:ということは、宇宙の一切衆生が、そのまま「永遠の仏」だということになります。
名誉会長:生きとし生けるものが本来、仏なのです。これが寿量品の叫びです。これに目覚めよと法華経は訴えているのです。
斉藤:整理しますと、文上の顕本は「釈尊個人の顕本」、文底の顕本は「全法界(十界)の顕本」-こうなります。
須田:スケールも深さも、全然、違いますね!
名誉会長:まるっきり次元が違う。本門と迹門の違いが「水火天地の違目」(御書p996)と言われている真意は、文底の顕本を知って初めてわかるのです。
遠藤:「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」(御書p770)と大聖人が言われた本義も、文底の次元から言われているわけですね。
==== 引用終わり ====

大白蓮華の教材では、「永遠の仏」を「久遠実成の釈尊」に結び付けたいようですが、かなり乱暴であるとの印象を持ちます。
有限の過去を無始無終(永遠)のように扱ったり、「久遠実成」だけで、「久遠元初」を説かないため、「無始の仏界」「無始の九界」とならず、真の十界互具、真の因果倶時を説明できません。
(法華経の智慧・如来寿量品①:「無始の仏界」「無始の九界」を参照のこと)

また何よりも、「永遠の仏」=「久遠実成の釈尊」の論法は、「仏法を法華経の文上で完結」させたいという意図なのかもしれませんが、大聖人の仏法を貶める結果になります。
 

初級・青年三級試験2017 1/6

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月28日(金)23時48分7秒
  今年の初級・青年三級試験の教材(大白蓮華2017・6月号)。
私は、この教材が「久遠実成までで完結」「永遠の仏は釈尊」「大聖人は上行菩薩」「南無妙法蓮華経は上行たる大聖人が末法に弘めた」との論調だと認識しています。

講義担当者や受験生の親達からも、もう少し詳しく説明して欲しいとの依頼を受けましたので、整理してみました。
こちらの掲示板にも投稿します。
基本的には「法華経の智慧」をベースに説明したいと思います。

海外で活動されている方で大白蓮華を読んでおられない方もいると思いますので、大白蓮華の一部も引用して、説明します。

----------------------------------
(1)上行菩薩について
「大聖人御自身こそ地涌の菩薩、なかんずく上行菩薩に当たります(大白蓮華82頁)」との記述があります。
ある意味正しいのですが、不十分であり、悪意をもってこの表現を用いると不適切です。

では、上行菩薩をどのように捉えるのか、整理します。
まず、上行菩薩に関して、二通りの定義を記します。

(A)地涌の菩薩の4人の導師の上首
(B)菩薩仏であり、永遠の仏

大白蓮華の教材は(A)の意味で用いられています。
その根拠は以下の記述です。
==== 引用開始(大白蓮華・2017・6月号80頁) ====
「釈尊が今世で初めて成仏した(始成正覚)というこれまでの考え方を打ち破り、釈尊は実は五百塵点劫という、はるか久遠の昔に成仏して以来、この娑婆世界に常住する仏、つまり永遠の仏であることが明かされます」
==== 引用終わり ====

ここで、「釈尊は…永遠の仏」と定義されています。
今回の教材では全編を通して、「永遠の仏」は「釈尊」とされているようです。
また、80頁の説明のタイトルは「永遠の仏―久遠実成」とあります。これは、久遠実成で久遠を完結させて、それより深い「久遠元初」は(文底にあたるので)用いたくないとの意図があるとも受け取れます。

法華経の智慧は(B)の定義をかなりのページ数を割いて詳細に説明しています。
ここではその概略を順に説明したいと思います。
先ず、(A)の解釈を踏まえて、更に(B)を説明しはじめた箇所を確認します。

==== 引用開始(法華経の智慧・如来神力品②:『「師弟の勝利!」「信心の勝利!」』 ) ====
遠藤:はい。地涌の菩薩は、釈尊が「久遠以来、教化してきた」弟子となっています。この「弟子」に「師匠」が、法華経の末法広宣流布を託すという儀式をとっています。
斉藤:問題は、ここですね。この文上にとらわれると、日蓮大聖人が、「上行菩薩の再誕」として、釈尊の「法華経二十八品」を弘めたーという解釈に陥ってしまいます。
須田:ほとんどの解釈が、そうです。
斉藤:しかし、日蓮大聖人はこう仰せです。「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり」(御書p770)「”釈尊の妙法”を弘めるのではない」と明確に言われています。
==== 引用終わり ====
文上に囚われると大聖人の本地を見誤ります。大聖人は「上行菩薩の再誕」として釈尊の妙法を弘めた訳ではないと説き出だされています。

因みに敢えて、先の(A)と(B)の両者を区別すると
(A)は「文上の上行菩薩」
(B)は「文底の上行菩薩」
と言えるでしょう。
(B)の「文底の上行菩薩」と拝する場合には、内証は仏であり、それも久遠の法を身に体した仏となります。

これ等を順に考えてみたいと思います。
 

池田先生の日寛教学支持/不支持に関して

 投稿者:ClearSky  投稿日:2017年 7月28日(金)23時46分28秒
  螺髪様、SaySaySay様

コメントを頂き、有難うございます。
また、教えて頂いた資料も読んでみたいと思います。

>ClearSkyさんが意見を直接投稿されるのは珍しい(笑い)。<

そうですね。普段、私はROM専ですから(笑)。

----------------------------------

先の「文底仏法と日寛教学」を公開したので、教学試験の初級・青年三級の教材に関して、少し整理していました。
そんな最中、『先生は「日寛教学が通用しない」と考えている(だろう)』との記事がありました。

先生が日寛教学を否定しているような文献やスピーチを、私は目にしたことがないので、どうして、そのような話が出るのだろうと思った次第です。
投稿に出ていた元・広宣部の方も、ある意味、同意されておられた印象を受けましたので、何か論拠があるのであれば教えてもらって、考えてみようと思いました。

日寛教学の採否に関しては、

・日寛教学(文底仏法)が正しいか否かの議論
・先生のお考え(日寛教学支持か否か)の議論

に分けて考えるべきだと思っています。
ここで、前者は時間を要する議論となりそうですし、学会の中でも意見の一致には至らないかもしれません。
一方、後者は『先生が「日寛教学が通用しない」との考えを持っておられた』と推察できる資料のようなものがあれば、その内容を確認してみるべきだと思います。
勿論、先生のお考えを全て理解できないとしても、それを求めていくのが大事だと考えています。

先の投稿は、後者の議論のためのものでした。
もし、先生が「日寛教学の見直し」に関して言及されておられたという話があれば教えてもらいたいと考えています。

----------------------------------

もう少ししたらROMに戻ります。
その前に、書いておいた大百蓮華2017年6月号の教学試験教材に関して投稿しようと思います。
少し長いので、複数回に分けて投稿します。

今回の教学試験教材から、「何が見えてくるのか」「どんな方向に向かおうとしているのか」考える契機になればと思います。
 

二年と四カ月

 投稿者:寝たきりオジサン  投稿日:2017年 7月28日(金)23時42分42秒
  みなさまこんばんは。27日の男、寝たきりオジサンです。
もう28日ですね。

同盟題目に参加させていただいて二年と四カ月になりました。
仕事が立て込んで昨日は書き込めませんでしたがちゃっかり

同盟題目だけは参加させていただいています。
持続の戦いというのは自力がつくのでやって損はありません。

最近お小遣いがたまって、ほしかった本を17冊買えたので今
読書にはまっています。読書の夏です。

 

お詫び・訂正その三十四

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年 7月28日(金)23時23分31秒
  レ・ミゼラブル015 ?
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 3月23日(月)19時41分40秒

『大道を歩む 私の人生記録Ⅱ 池田大作』 還暦を迎えて 1987~1989
P.228~242  フランス革命の意義(抜粋)
(前文略)
「 フランス革命の意義、とりわけ人権宣言に謳われた「自由・平等・友愛」の理念が、人権意識の高揚と擁護、民主主義の発展といった点で、多大な役割を果たしてきたことは間違いない。だが、光あるところ影がある。自国の歴史を誇りに思われるからこそであろう。この年に私がフランスでお会いした方の多くは、その影の部分を真摯に見つめておられた。
 革命は成功した。だが旧き権力の打倒は、新たな権力をめぐる凄惨な闘争に変わっていった。やがて恐怖政治の嵐が起こる。
 無秩序が支配する世界。疑心暗鬼に陥り、裏切りが横行する。否定された古い宗教に替わる新しい道徳もない。すさみきった人心。いつ果てるともしれない陰惨な対立抗争。誰も信じられない世相。憎悪と密告。テロと粛清・・・・。
 革命の美名のもとに、おびただしい血が流された。犠牲者は数十万人にのぼった。パリと並んでフランス革命のもう一つの中心都市ナントを流れるロワール川には、毎日、百人から二百人の人が沈められた。そのためのロワール川は、国民的水浴場と呼ばれたという。
 本来、民衆のため、人間のためであったはずの革命。それが、いつしか人権を抑圧し、民衆を震え上がらせ、人間性を窒息させるものへ変わってしまった。「善を欲して悪をなす」悲劇の典型であった。
 二百年前の当時ばかりではない。今世紀に入っての第三世界の国々の独立運動でも、また社会的弱者の人権を守る運動でも、つねに「自由・平等・友愛」の理想は掲げられ、叫ばれてきた。しかし、現実は、どうだったか。正義や人権を謳うスローガンの下で、幾多の革命が血塗られた歴史を刻んできた。「愛国心は悪党の最後の隠れ家である」との箴言のように、民衆の純粋な情熱を己の権力欲も利用する輩もあとを絶たない。(以下略)」

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
会則改変という無責任で意図的な拙速革命(どす黒い大誓堂に棲む改革派)は、某ツイッターメンバーを信濃町の底流を流れる信濃川に溺死させ、南元町(人々)病院には水死体の山が運びこまれて、そのまま償却(除名)処分。また、先生の意図を知ってか、模擬店で「喫茶ロワール」なんて名称をよく使っていた幹部はどのような感覚だったのか、青年部時代に私は?と思っていました(笑)。
 ミリエル司教曰く「無学の人々には能う限り多くのことを教えねばいけない。無料の教育を与えないのは社会の罪である。社会は自ら作り出した闇の責を負うべきである。心のうちに影多ければ罪はそこに行われる。罪人は罪を犯した者ではなく、影を作った者である」(岩波p.44)夜学の法学部に通っていた私は、折伏相手の友人とよくこの文言を議論しました。羊千匹を志向する「大誓堂創価改革派」はまさに今、この文言を深く読み込んでくださいね。南元町の面々も、高等戦術を使い始めましたね!頭の中に入り込めるメンバーが沢山居ることをお忘れなく、ご注意してください。


ーーーーーーーーーーーーーー
書籍の抜粋引用は、以下の会則

????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????

は、該当していません。

ーーーーーーーーーーーーーー
以下、解説で書かれている部分は、お詫び・訂正・削除します。忘れて下さい。

いろいろと確認しましたが、大変ですね。
ご苦労様です。
 

/1337