「子どもをつくる」 という言葉の中には、自分の意のままになるものという意味合いが、無意識のうちに含まれていると思う。 これは、 「子どもは授かりもの」 という実感を持たなくなった人間のおごりのように聞こえてならない。 ・・・というツイートについて、以下のツイートをつけて、リツイートしたひとがいます。 これよく言うお坊さんがいるけれど、もっと慎重になった方がいいと思っている。 言ってることは分かるけれど、妊活や不妊治療をしている人の、心の身体の経済の無理というのは計り知れない。 母親になりたくて痛みに耐えて身を削り、父親になりたくて心を削り、そういう現実を見ると、これはと。 ちょっとわからなないので・・・書き込んでみました。 私・・・ボーズですが・・ そういうことをひっくるめて「子どもは授かりもの」という言葉は、優しい言葉、とは思えんですか? 今の時代にはそぐわんということすか? 彼・・・ありがとうございます。私が思えるか思えないかではなく、それを聞く人の環境を広く捉えて発するべきと思います。特にこの話はよく聞くので。 私の周りにいる苦しい不妊治療に取り組む人の話を聞きながら、感じ続けていたことです。 私・・・この元ツイートに帰って・・・何を否定肯定されているのか不明瞭です。よく読んでください。 >「子どもは授かりもの」 という実感を持たなくなった人間のおごりのように聞こえてならない。・・・ ・・つまり、不妊治療をしているような人を「人間のおごり」と言っているようにも読めます。 彼・・・ご指摘ありがとうございます。否定肯定ではなく、生活や人生に仏法を照らし合わせてお伝えさせていただくときには、自戒も込めて、慎重にならなければならないということです。色んな段階で苦悩している人がいるということですが、根源的には当然松本さまがご指摘される通りです。 私・・・結局「こどもは授かり物」というのがいけない、ということですか? そこがワカランと言ってるんです。 彼・・・うーんとですね。子供が授かりものという事がいけないとは言っていないです。ちょっとそれは。授かりものであることは有難いことです。「子供をつくる」という言い方を否定する事には慎重にならなければならないと言っています。ちょっとそこまでご指摘いただくと分からないです。 彼・・・あと時代という括りではないと思います。 私・・・時代だと思います。不妊治療などということができるようになったことによる苦しみだとも思えます。臓器移植も同じだと思います。時代、でしょ! 彼・・・医療技術においての「時代」ではその通りだと思います。すみません。 ・・・結局、何のことやら・・・文脈が分からなかった。 ツイートとかによくある「ワタシはこんな細かいことにも気がつくいい人なのよね〜」というようなコメント。 その類いか、とも思える。 一番最初の「元ツイート」は、全く以て、合ってると思う。 これに対してのリツイートにつけられたコメントは・・・ これが、「妊活や不妊治療をしている人」を傷つけるものだと言っているようだ。 う〜〜ん、ぼんやりと言いたいことは分かるような気もするが・・・ ワタシは、逆に、元コメントは、そういう人たちへの優しさもうかがえるように思えてしまうのだけれど、違う? 「子どもは授かりもの」 という実感を持たなくなった人間のおごり・・・というキビシイ視点も必要なんだと思う。 そういうことを「自分は気がついてるのに・・・ワカランヤツがいる」的視点で以て、指摘しても・・・ なんだか、安っぽい優しさ・・・「その程度の見方しかできんのか?」・・・というようなものになってしまうと思うよ。 結局、「この人」の言いたいことはなんなのか?ということをついつい考えてしまった。 「子どもは授かりもの」 という実感を持たなくなった人間のおごり・・・これは、大きなテーマをはらんでいると思う。 私の周りにいる苦しい不妊治療に取り組む人の話を聞きながら、感じ続けていたことです。 ・・・と、ツイートの主は言うけれど・・・ それに対して・・・ 「子どもは授かりもの」 という実感を持たなくなった人間のおごり・・・というのが、傷つける言葉になると言いたいのかも知れないけれど・・・ ワタシには、「子どもは授かりもの」 という実感を持たなくなった人間のおごり・・・ということが正しいと思える。 「苦しい不妊治療に取り組む」必要性がある、そういう切迫した状況に追い込まれているひと、もいらっしゃるとおもう。 実は、私らも、そこに入る可能性はあった。 「跡継ぎ」が出来ずに辛い思いをされている人もいる。 「跡継ぎ」ができないと、家の者からの辛い視線を感じる。プレッシャーを感じる。 ・・・そういうことは、良く聞くし、感じる。 ウチだって、結婚して半年妊娠しなかったので、人を平気で傷つける母が、女房に「病院で見てもらえ」というようなことを言ったらしい・・・ そして・・・ 無事「長女」が生まれた時に、「女の子」と聞いた女房が、産婦人科の先生(実は親類)に・・・ 「今度は、男の子を産まなくっちゃ」と言って・・・ 「10組に1組は、不妊のカップルなんだよ」と言われたそうな。 子供が授かっただけで有り難いこと。・・・ということなんだと思う。 病院に駆けつけた母に「女の子」と言うと・・・ 明らかにガッカリした表情をしやがった・・・。 あれは忘れない。 とにかく、自分の子供が生まれた、ということは、我が人生最大の・・・いや、結婚が最大か?・・・ヨロコビ! 始めて子供の顔を見たとき・・・「オレはこの子を嫁に出すんだ!」・・・と思ったのを覚えている。 その産婦人科の先生が、還暦を期に、「産科」をやめる、ということにされた。 何かあって「訴えられたらオシマイだから・・・」ということらしい。 そうなる前に辞める、と。 子供が生まれ、育つのが当たり前、という感覚になってしまっているから、死産とか、生後間もなく亡くなる、ということも減っている。 だから、もしも「そうなった」ときに、「医師のせい」と思われかねない。 ・・・そういう時代になってしまった、ということだ。 「妊活」という言葉が闊歩している。 この「・・活」という言い方が大嫌いだ。 妊娠も、受精というところから医学でナントカできる、という感じになっている。 ナントカできる・・・という思いがあって、辛い思いをする。 ホントは、みんなが「授かりもの」と思えれば良いのだけれど・・・ みんなが、そうは思えないようになってしまっている。 これは、臓器移植にも言えることだと思う。 「臓器移植すれば助かる」という「可能性」を知ってしまった人類が、それで苦しむこととなる。 その可能性を目の前にして命が尽きる、という辛さを味わうことも多いことと思う。 ドナーが現れなかった、という悔しさをずっと持ち続け、諦めきらない思いが続くのだと思う。 臓器移植のドナーを待つ、ということは、「人の死を待つ」ということである。 臓器移植という「手段」手に入れてしまった、知ってしまったが故に、人の死を待つ、という異常事態になってしまっている。 ドナーとなる人の死は、多くが、突然の死、である。 突然の死で気持ちの整理も付かない遺族に、まだ生きている体から「臓器を取っていいか」という問答をするという、これも異常事態。 目の前の命が突然消えて行く、という悲しみに包まれた人と、目の前の命を救いたい、という人が、目に見えない大きく厚い壁を挟んで、目に見えない対峙をしている。 「臓器移植」も、「妊活」も、「人のおごり」だ。・・・という視点に立ち返ることが、その新たに生まれた苦しみに対して必要なことなのではないだろうか? 昭和30年頃までの過去帳には、圧倒的に「子供の戒名」が多いのだ・・・・ |
<< 前記事(2017/07/29) | ブログのトップへ |
タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
---|
内 容 | ニックネーム/日時 |
---|
<< 前記事(2017/07/29) | ブログのトップへ |