久々の日々の聖句と注解です。
だいぶ前のものになりますが…。
「「日ごとに聖書を調べるー2017」より
7月4日,火曜日
真の友はどんな時にも愛しつづけるものであ[る]。―箴 17:17。
友情は貴重な宝です。部屋に飾っておくだけの高価な花瓶のようなものではありません。むしろ,水をやって大切に育てる必要がある花のようです。アブラハムはエホバとの友情を大切にし,それを保つよう努力しました。どのようにですか。アブラハムは,過去に敬虔な恐れと従順を示したのでそれで十分だ,とは決して考えませんでした。大家族と共にカナンへ旅していた間も,大小さまざまな決定を下す際,エホバに導きを求めました。イサクが生まれる1年前,アブラハムが99歳の時,エホバはアブラハムの家の男子全員が割礼を受けることを求められました。アブラハムはその命令に疑念を抱いたり,それに従わなくてもすむ方法を探したりしましたか。いいえ,神を信頼し,「まさにその日」に従ったのです。―創 17:10‐14,23。塔16.02 1:9,10」
ここに示されている内容は、私が現役の頃から何度も示されてきました。
私は、現役時代を含め、「神との友情」という概念がどうしても理解できませんでした。
だって、「友情」って基本的に「対等な関係」があって成り立つものですよね。お互いに対等だから、自由に意見が言えたり、内心をわかり合えたりするものじゃないでしょうか?
「◯◯君、僕はこう思うよ。」
「だよね。僕もこう思ってた。」
「そうそう。やっぱり気持ちが合うよね。」
こういうやりとりがあって、徐々に友情が培われていくと思います。
また、友情関係がある程度成立して来ると、
「◯◯君、これやっぱりおかしいよ。」
「何で?」
「★★だからね。」
「うーん、そうは思えないなあ。」
こういう会話も交わせるようになって、意見の相違があっても友達はやっぱり友達、のようなお互いを尊重する関係が育まれていくと思っています。
ところが、神との関係は、絶対に対等な関係ではありません。現役時代から世界最高の上下関係だと思っていました。神が命じたことにノーと言って従わないなら、それはハルマゲドンでの死を意味するわけですよね。
こんな関係に友情なんて絶対無理だと思っています。
「アブラハムはその命令に疑念を抱いたり,それに従わなくてもすむ方法を探したりしましたか。」
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ほら、この記述も絶対的な上下関係以外の何ものでもないですよね。そんな関係では、「忠節さ」、「服従する心」は培えても「友情」はあり得ないと、今でも私は思います。