”ネット右翼のアイドル”稲田朋美防衛大臣辞意~その栄枯盛衰を振り返る~

北のミサイル発射で会見する稲田防衛相(2017年2月当時)(写真:ロイター/アフロ)

 稲田朋美大臣が「日報」問題の責任を取る形で辞意を表明した。2012年末の第二次安倍政権発足以来、内閣府特命担当大臣として初入閣、第三次安倍内閣(2016年~)では防衛大臣の要職を務めた。

 2005年の総選挙(郵政選挙)での当選以来、福井1区から代議士としてのキャリアを進めた稲田朋美は、安倍総理からの「寵愛」ともとれる厚遇を受けるとともに、入閣前から圧倒的なネット上の右派クラスタ(以下ネット右翼)からの熱狂的な支持を集めた。

 当時、ネット上での愛称は「ともちん」。「初の女性総理待望論」まで出るほど、彼女の見せかけの評価はうなぎ登りに上昇していった。そんな稲田に、第二次安倍内閣で入閣の秋波が送られたのは必然の理、と言える。

 そもそもなぜ稲田はネット右翼に熱狂的な支持を受けるに至り、「ともちん」の愛称で呼ばれるほどの「アイドル」として登場してきたのか。きっかけは2003年。弁護士であった稲田が毎日新聞、朝日新聞、そして朝日新聞記者を相手どり「百人斬り訴訟」裁判の原告側代理人を務めたことである。このことを契機に、稲田の知名度は一挙にネット右翼界隈で広がった。

・「百人斬り訴訟」の原告弁護で一躍全国区に

 「百人斬り訴訟」とは日中戦争当時、南京攻略戦(行軍中)に際して日本陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉の両名(階級は事件当時)が、敵軍(中国国民党軍)兵士百名の首数を競ったという、「百人斬り競争」なる戦時中の新聞報道に対する、遺族らからの「名誉回復」を求める趣旨の提訴(2003年)である。当時の報道は、東京日日新聞等で行われ、多くの後追い報道やそれを前提とした書籍等が出たが、この東京日日新聞がのちの毎日新聞となる。

 つまり半世紀以上前の記事の内容を名誉棄損であるとして、遺族らが訴えるという裁判の弁護人を引き受けたのが稲田であった。そして簡潔に言えば、この裁判は、毎日新聞・朝日新聞というリベラル系メディア批判を梃子に、「南京大虐殺は無かった」「南京大虐殺はでっち上げ」という、当時保守派一般に認知されていた主張を全面的に肯定する運動の中心となり、その主張に稲田が弁護士として共感し、その弁護活動に奔走したことになる。

 南京事件の詳細については秦郁彦著『南京事件』(中公新書)に詳しいから割愛するが、流石に南京で30万人が死んだ、100万人が死んだという中国側の主張は誇張であろう。しかしこの「百人斬り訴訟」は、野田・向井両名の遺族からの名誉回復が本義であると同時に、「南京大虐殺はでっちあげ」論を司法の場で認定させ、そして右派側からみれば仇敵たる既存のリベラルメディア、つまり毎日新聞や朝日新聞攻撃の格好の嚆矢としよう、という一種の右派イデオロギー運動に移り変わっていたのである。

 結果、この裁判は東京地裁に原告請求が全面棄却される。その後、原告は東京高裁に控訴したがこれも原告請求棄却、と結論は同じ。結局、上告審である最高裁でも結論は同じで、原告敗訴が確定した。仮に当時の「百人斬り報道」が誤報だったとしても、それは時効である。

 半世紀以上前の記事における名誉回復を、現在の法廷で争うのは筋論として無理があった。しかし勝ち負け兎も角、裁判としての戦いの相手に毎日新聞や朝日新聞という、保守派からすると仇敵のリベラルメディアを置いたこと自体、当時画期的なものと受け止められた。

・リベラルメディアに対する濫訴運動の原型

 このような既存の左派系メディア(とみなされる媒体)への裁判闘争は、2010年のNHK番組「ジャパンデビュー・アジアの一等国」でのNHKによる、日本統治時代の台湾報道が偏向的だとして約1万人が原告団となって集団提訴したいわゆる「NHKジャパンデビュー訴訟」、そして2015年、朝日新聞自らが訂正した自称ライター・吉田清治氏の「済州島での慰安婦強制連行」が日本国の名誉を傷つけ、精神的苦痛を受けたとして、保守系有志団体が約8000人の原告団を組織し、同社を集団提訴したいわゆる「朝日新聞訴訟」に繋がっていく。

 稲田が原告代理人をつとめた「百人斬り訴訟」を皮切りに、右派によるリベラルメディアに対する濫訴はエスカレートした。結局、「NHKジャパンデビュー訴訟」および「朝日新聞訴訟」においても、原告側は敗訴した。つまり三連敗を喫しているわけだが、裁判の勝敗はともかく、「既存のリベラルメディアを糾弾する運動」は、当時のネット界隈を巻き込んで一大保守運動に発展したのであり、この契機を作った一人が稲田であると言えるのでる。

  それまで、せいぜいが閉鎖的な論壇誌で内輪向けの「左派メディア糾弾」で留飲を下げていた保守界隈、ネット右翼界隈に、はじめて「(勝敗はともかく)法廷闘争」というツールを与えた張本人こそ、稲田朋美だったのである。

 ゼロ年代中盤前後、保守界隈の中で「南京大虐殺否定」は一種の保守運動のトレンドであった。稲田は「百人斬り訴訟」に負けたとはいえその功績大なりとして、2005年に保守系論壇誌『正論』にデビュー。本格的に保守系言論人としての箔を付けていくことになる。

 加えて2007年1月には、保守系独立CS放送局が主体となって、「南京虐殺否定」を骨子とした映画『南京の真実』の製作発表(2008年公開)が都内ホテルで行われ、保守界隈の重鎮たちが勢ぞろいして在野の保守派、ネット右翼等に寄付と支援を呼び掛けた。

 すでにこの時、衆議院議員(一期目)となっていた稲田は、当然のことながらこの映画『南京の真実』賛同人としてその名簿に堂々と名を連ねている。稲田は、「百人斬り訴訟」を契機に、一躍保守界隈とそこに群がるネット右翼から寵児としての扱いを受け始めたのである。

・稲田朋美と「マトリックス史観」~三十路を過ぎて愛国心に開眼~

 稲田の自伝的エッセイ、『私は日本を守りたい―家族、ふるさと、わが祖国』(PHP研究所、後半は櫻井よしことの対談を収録)では、保守界隈とネット右翼に共通する世界観を、稲田が見事なまでにトレースしている様と、本人の愛国心「覚醒」の経緯が、縷々本人の手で詳述されている。

じつは平成十七年のいわゆる「郵政選挙」に出るまで、私は政治家になろうと思ったことは一度もありまでんでした。二十年間弁護士をしていた中で、徐々に目覚め、選挙に出る五年ほど前から私は法廷を通じて日本の名誉を守るために戦っていました(百人斬り訴訟)。きっかけは「東京裁判」です。三十歳を過ぎるころまで、「東京裁判」のことをほとんど知りませんでした。教科書で教えられていないからです。

出典:『私は日本を守りたい―家族、ふるさと、わが祖国』(PHP研究所)、強調部分筆者

 稲田が同書の中で、「私の政治家としての原点」としての人生観を開陳する冒頭部分に、稲田の世界観の全てが凝縮されている。「三十歳を過ぎるころ」まで政治や歴史に何の関心を持たなかった市井の人々が、ひょんなことから右派的世界観に開眼する。ネット右翼の常套句として「目覚める」という表現がある。それまで左派メディアの洗脳による間違った歴史観に洗脳されていたが、或る日を契機に目覚めたーというものだ。

 悪意を持った巨大な権力体=既存のメディアが、祖国日本を貶めるために不都合な真実=東京裁判史観を押し付け、本当の歴史を遮蔽している。その真実=日本や日本軍は悪ではない、に目覚めなければならない。

「ウェイク・アップ、ネオ(ネオ、起きて)」のメッセージ受信を契機に、自分の生きている世界が虚構であると知り、本当の敵=機械頭脳体を相手に死闘を繰り広げることになる主人公・ネオの活躍を描き、世界的に大ヒットとなったウォシャウスキー姉弟の傑作SF映画『マトリックス』(1999年)。

 ネオを騙している存在を「既存の左派メディア」、その惰性の安眠から目覚めることを「真実の(歴史)に目覚める」と置き換えると、驚くほど稲田の思考はこの作品の世界観と酷似する。

 よって私はこういったネット右翼の「目覚める」という姿勢を、「マトリックス史観」と名付けている(詳細は、拙著『ネット右翼の終わり』晶文社)のだが、稲田も例にもれずこの「マトリックス史観」を踏襲するに過ぎない後発のネット右翼であった。が、彼女が凡百のそれと違ったのは、弁護士であるという社会的地位である。これにより稲田は、福井から代議士の道をひた歩むことになる。

・憲法改正、夫婦別姓反対、在日外国人排斥、生活保護不正受給批判

 保守界隈に承認され、そこにぶらさがるネット右翼から熱狂的な支持を以って迎えられた稲田は、2009年に自民党が下野すると、ますます「初の女性総理大臣」としての待望論が燻るようになる。前述したように、稲田は「三十歳を過ぎるまで」東京裁判のことすら碌に知らないと、自身によって吐露しているくらいのレベルである。

 よく言えば無垢、悪く言えば無教養の稲田が、「百人斬り裁判」を契機に熱狂的な保守派・ネット右翼の支持を受け、衆議院議員になったところで「三十歳」までの無学習の「つけ」が、帳消しになるものではない。

 この自身でも認める無知・無教養ぶりを土台として打ち立てられた政治家・稲田朋美の政治観は、必然的に既存の保守、ネット右翼の開陳する既定の方針をトレースすることになる。何も知らないのだから、初めて会ったものを「親」として認知するヒヨコのように、稲田の世界観は既存のネット右翼が好むものばかりに染め上げられていく。

 憲法9条改正は当然肯定、靖国神社参拝は全力肯定、教育勅語廃止と教育基本法によって堕落した戦後の日本人云々、選択的夫婦別姓絶対反対、在日外国人参政権絶対反対等々を開陳し、それら全てを「戦後レジームからの脱却」「美しい国」「目指すべき道義大国」などと、安倍内閣のスローガンと直線的に結びつけた。

 稲田が特にこだわったのが、外国人問題である。「生活保護を受けている外国人の割合は日本人の二・五倍」(前掲書)として、外国在住者の子息が申請することのできる与党民主党(当時)の政策「子ども手当」に反対の態度を鮮明にし、外国人への生活保護問題を執拗に国会で追及すると、その模様がユーチューブなどに転載され、その都度ネット右翼の喝采を浴びた。

・「外国人=犯罪者=在日コリアン=生活保護不正受給」のひな型

 この時期、民主党政権下でフラストレーションの溜まった自民党支持のネット右翼の多くが、「子ども手当」批判の論拠を稲田の理屈に求めた。巨視的に言えば「子ども手当」は出生率向上や子を持つ貧困世帯救済を目指した再分配制度だったが、稲田は「500人を超える国外の外国人の子弟へ血税が使われると国が亡ぶ」として執拗に、支給の対象は日本国籍を持つ日本人に限ると強調した。

 「子ども手当」によって救済される日本人の子供は10,000,000人(一千万)以上存在するにも関わらず、稲田はわずか500人の国外居住の外国人子息への支給を例に取って徹頭徹尾、民主党の政策を批判した。

 前掲書での稲田の主張。

外国に住む外国人の子供に多額の「子ども手当」を配るのは論外ですし、日本に住む外国人に生活保護を不正受給されないよう、受給資格を調査し、不法在留なれば打ち切り、不正受給分は毅然として返還請求するということでなければ、この国は潰れてしまう

出典:前掲書、強調筆者

 たしかに生活保護の不正受給は問題だが、生活保護の不正受給は国籍を問わず是正されるべきはずだ。にも拘らず稲田はなぜかこの問題を「外国人問題」へとスクロールさせ、そこに「生活保護を受けている外国人の割合は二・五倍」などという具体的な数字を盛り込んで、さも論点のすり替えを正当化させる。

 これがのちに、次世代の党(現日本の心を大切にする党)などが製作した粗雑なCM動画での「在日外国人=生活保護不正受給」のイメージへとつながり、そしてその外国人を「在日コリアン」に読み替えたネット右翼が、「在日特権」などと、またぞろ在日外国人=在日コリアン悪玉論の根拠の一つとして盛んに使用しだした。

 そしてその理論的支柱を、社会的権威たる稲田朋美代議士の答弁に求めたのである。弁護士で衆議院議員の偉い先生が言っているのだから間違いはない、というお墨付きを、稲田はネット右翼に与え続けたのである。ゼロ年代中盤から後半にかけて燎原の炎の如く広がったヘイトスピーチ・デモの理論的責任の一端は、間違いなく稲田にある、とみてよい。

・「在特会」の理論的支柱~「カルデロン事件」と稲田朋美~

 一連の稲田の世界観の集大成ともいえる問題提起がまたも前掲書にある。或るフィリピン人夫妻が不法に日本に入国し、日本不法滞在中に誕生したカルデロンのり子さんの在留許可を巡る一連の司法判断である。いわゆる「カルデロン事件」と呼ばれるこの事件は、司法の決定では不法入国・滞在をした両親にはフィリピンに退去命令が出たが、その子・カルデロンのり子さんにだけは在留特別許可が出た。

 のり子さんは支援者らによって庇護されながら、親と離れて日本で生きる道を選択する。両親はともかく、のり子さんは日本で生まれ、日本で育った。いまさらフィリピンに帰っても生活能力はない。親と離れ離れになろうとも、日本で生きるしか道は無かったのだ。一家の出した苦渋の選択であった。

 しかし稲田はこの「カルデロン事件」にも、強烈な疑義を唱えている。カルデロンのり子さんにだけ在留特別許可を出したのは違法であり、一家全員をフィリピンに強制送還させるべきである、と訴えたのである。実はこの稲田の主張と全く同じ世界観で、カルデロン「一家全員」を日本から追い出せ、と怪気炎をあげた或る市民団体が居た。

 2009年4月、「犯罪フィリピン人、カルデロン一家を日本から叩き出せ!」とシュプレヒコールをあげながら、のり子さんの通う埼玉県蕨市の中学校前付近をデモ行進したのは、後に国に「ヘイトスピーチ対策法」を立法させるにまで社会問題となった任意団体、「在日特権を許さない市民の会」通称「在特会」の面々であった。

 在特会はこの「カルデロン一家追放デモ」を皮切りに、その批判の矛先を在日コリアンに向け、合法的に日本に滞在している特別永住者を「犯罪者」「生活保護不正受給者」などとして名指しし、「在日特権」の存在を主張、東京・大阪でデモを繰り返した。

 遂にはその関連団体や別動隊が、徳島(徳島県教祖襲撃事件)や京都(京都市南区朝鮮学校公園不法占拠事件に関する、朝鮮学校への示威街宣)など、多種多様な刑事事件まで引き起こす一連の騒擾の主役となったのである(詳細は安田浩一著『ネットと愛国』を参照のこと)。

 彼らの論拠は稲田と全く同じものであった。「外国人=犯罪者=在日コリアン=生活保護不正受給」。稲田の作り上げたこの論法は、鶏が先か卵が先かの議論と同じで、ネット右翼が先なのか、稲田が先なのかは判然としない。

 しかし、「三十歳まで東京裁判史観の事もろくに知らなかった」無垢の稲田が、彼らネット右翼の排外的な主張をトレースしたことにより、逆輸入の形で彼らに理論的支柱を提供し続けたことも、決して見逃せない事実と言えるのではないか。

・文化に無知なクールジャパン議長

 2012年末、電撃的に自民党が衆議解散総選挙で民主党を下して第二次安倍内閣が成立すると、稲田は内閣府特命担当大臣に抜擢され入閣する。安倍内閣は「クールジャパン戦略」を掲げ、その根幹として「クールジャパン推進会議」を設置。有識者を招いて国の文化戦略の戦略方針を議論させた。その議長となったのが稲田であった。

 アニメ、漫画、コスプレ、果ては「カワイイ」に代表される日本のポップカルチャーや若者文化を、海外に積極的に売り出していこうというのが趣旨の「クールジャパン推進会議」は、しかし議事録を読む限りにおいては惨憺たる状態であった。

 有識者として会議に招かれた民間人「識者」は、アニメや漫画のことに全く無知で、この会議は終始、出席者が辛うじて皮膚感覚として理解しうる「日本食」「日本酒」の話題にほとんどその時間を割いただけの、世紀の烏合会議と呼ぶに相応しかった。

 特に議長を務めた稲田の文化に対する無知ぶりは、突出を通り越して失笑を買った。

私もあまりポップカルチャーに詳しくはありませんけれども、この間、ゴスロリ(ゴシックロリータ)のルーツは十二ひとえにあると聞きました。私の政治信条は「伝統と創造」。まさに伝統と創造がゴスロリなんだなと思った次第でございます。私も若者のそういうポップカルチャーを後押しする発信に努めていきたいと思います

出典:朝日新聞(2013年4月25日付)、強調筆者

 ゴスロリの起源が十二ひとえである、などという珍説は今どき「ムー」愛読者(かくいう私もそうである)からも一笑に付されるほどの珍説、トンデモ論であろう。議長自らが「ポップカルチャーに無知」であることを赤裸々に開陳して始まったクールジャパン戦略が、早晩暗礁に乗り上げることは、この時点で火を見るより明らかであった。

 事実稲田は、2013年5月、横浜市で開かれた国際会議にて「自称ゴスロリ」の衣装を着て登壇。その写真に映った稲田の格好は、単なる緑色のドレスである。無論それはゴスロリとはほぼ遠いもので、二重三重の失笑を買った。識者や著名人、果てはネット界隈からの指摘に窮したのか、「娘からも(それはゴスロリではない、と)指摘を受けました」等と釈明して、後日衣装を交換して再登壇するという不始末となる。

・「稲田が防衛大臣では日本の国防が危うい」

 国家の文化戦略の長を司る稲田のこのような不見識は、当時、辛うじて失笑で済まされた半ばギャグのような失態であった。が、この後「防衛大臣」の重責を任されると、民進党の辻元清美議員からの追及に涙ぐむ(2016年9月)。

 国家国防を任された陸海空三隊のトップが、いち野党議員の質問に窮して泣き出すという不始末は、稲田の人格的欠点であるという以前に、防衛組織の長としての資質を危ぶむ声も出始めた。この事実は、民進党や辻元議員を蛇蝎の如く敵視する保守層・ネット右翼層全般にとっても、「オウンゴール」として叱咤の対象となるのは当然である。

 思えばこの「涙ぐみ」事件以降、稲田を支持してきた保守層やネット右翼界隈からも、稲田への支持は急速に色あせていったように思う。「少しの追及で涙ぐむ稲田が自衛隊のトップで、この国の防衛は本当に大丈夫なのかー」保守層ならずとも、誰しもがこのような感想を持ったであろう。

 必然、同じ防衛大臣を務めた自民党時代の小池百合子(第一次安倍内閣)との比較がなされる。どう考えても、小池の方が防衛大臣としての風格は上であり、それに対して稲田は素人同然である。「辻元に(すら)負けた稲田―」。稲田に対する熱狂的な支持はこれを機に、2016年秋ごろから徐々にだが、はっきりと後退していく。

 極めつけはシンガポールの国際防衛会議で自らを「グッドルッキング(美しい容姿)」と自称するなどの奇行・奇言が目立ち始めたことだ。2017年に入ると、ゼロ年代にあれだけ保守界隈、ネット右翼界隈から「ネット右翼のアイドル」として支持されてきた稲田の権勢は衰退し、稲田は一転して嘲笑の対象になりつつあった。そこへきて「日報」問題がとどめを刺した。稲田の辞意は、こういった稲田自身の素養の欠如の積み重ねが招いた必然である。

 「三十歳を過ぎるころまで政治や歴史に何の関心を持たなかった市井の弁護士」が、或る日、ネット右翼的世界観に「目覚め」たことにより、一挙に保守層・ネット右翼層の寵愛を受け、代議士にまでなった。無知が故に既存の右派的世界観を忠実にトレースし、またトレースするしか術を持たなかった稲田は、防衛大臣という国家国防を担う重責を、全く果たす実力がないにもかかわらず、下駄を履かされた状態で任され、そして自業自得の如く自滅するに至る。

・「ネット右翼のアイドル」から嘲笑の対象へ

 保守層・ネット右翼層に好まれる自民党議員は衆参共に、少なくない数存在するが、稲田ほど脆弱なそれを、私は見たことがない。ややもすれば極端な意見として批判を受け得る発言をしたとしても、彼らの多くはそれを修正、弁解し、逆襲するだけの基礎的教養、理論体系を構築している。

 この点、稲田と同じように保守層・ネット右翼層から熱狂的に支持され、2016年の参議院全国比例区で自民党から立候補し、同党二位の四十五万票余の個人票を集めた元共同通信記者の青山繁晴参議院議員とは雲泥の差であろう。政治家は言葉が命とはよく言ったものだが、その言葉を紡ぐのは教養である。無教養と無知の土台の上に築かれた言葉や態度は、その居所が高くなればなるほど不安定さが露呈し、そして崩落するのだ。

 バブル期にキャンギャルとして時勢に浮かれた蓮舫氏も先般、民進党党首を辞任した。一方、誰にも褒められることなく、若いころ日陰で地道に基礎力を備えた人は、後年になってその差が歴然とする。キャンギャルとして全国行脚に明け暮れ、「東京裁判」のトの字も知らなかったであろう蓮舫と稲田には、政治観こそ違えど同じ「無知」「無教養」の匂いを私は感じる。

 どだい、「三十歳を過ぎるころまで無知」の人に、防衛大臣の重責は不可能だったのである。18年中には必ず行われる次期総選挙において、稲田の「五選」は果たして有りや無しや。