・江戸幕府最初期に徳川家の直轄地に当時なったばかりの小生瀬村(現茨城県大子町)で年貢をめぐる争議が起きた際、徳川家は「一村之農民妻子ニ至ルマデ」村人全員を「打捨」(=皆殺し)にした。犠牲者は「500人とも600人とも言われている」。
このような事は、松平氏の前の加藤家統治時代の会津藩の資料に、藩主から「お前のところの百姓たちが、年貢があまりに重すぎるといって訴えて来ているぞ」 と対応を問われた家老が、「いよいよ言うならば、すべて撫で斬りにして殺すからいい」と答えたというのですから、普遍的な現象であったことがうかがえま す。
・若松城下、抵抗する会津兵はもとより、武士、町人百姓、老若男女の別なく、町のなかにいた者は見境なく斬られ、打ち殺された。攻める者は血を見ると、怪鬼のように快感を覚えて、人影を見れば撃ちまくった。恐怖で立ちすくむ女児の後ろから阿修羅の刃が 襲った。
「賊軍の死骸には手を付けるな」の命令、会津藩士とその家族、従軍した農民など総数3千の遺体が埋葬を禁じられ、遺体が城下や山野に放置された。
・幕末に激戦が繰り広げられた栃木・三斗小屋宿。三斗小屋は、戊辰戦争初期は幕軍に占領され、のちに明治政府軍が駐留した。丸腰の村人に対し、明治政府軍に凄惨な虐待を加えたとの記録が残っている。
「高根澤文五郎」は、畑の中で一斉射撃の的とされ、蜂の巣のようになった。
「大竹忠兵衛」は、裸に剥かれて街道の石の上を引きずり回され、血みどろになった体を高木に吊るされた。
「早く首を斬ってくれ」との願いも、力任せに両足を引っ張られて肩甲骨を折られ、両足の指を切り落とされて殺された。
「月井源左エ門」は、三斗小屋まで連行され、柱に繋がれて股の肉を削り取られた。
そしてその肉を串に刺して火で焙り、「食え」と口へ押し込まれ、無理やり食べさせられている。
・1551年 小岩岳城攻略戦
攻略失敗。とりあえず火をつけて町を焼き尽くす。
後に城を落とすが、その凄惨さは凄まじく『妙法寺記』では「討取頚五百余、足弱取事数ヲ不知候」(500人余りを討ち取り、老人、子供、女を生け捕りにしたと書かれている)。
現在でも地元において落城した8月12日には慰霊祭が行われている。
以前落とされた志賀城では降伏してきた兵さえも皆殺しにされ、身代金2貫を払えない人間は(上杉、北条は20銭程度)
男は鉱夫として連行され、女は情婦として全員売られた。
・「佐沼城のなで斬り」
葛西・大崎一揆を政宗が扇動して、証人皆殺しにする為に佐沼城を包囲して武士五百人、百姓ら二千余人を虐殺した。
身内である成実が「成実記」で「城中ノ死者余リ多ク、人ニ人カサナリ土ノ色ハ何モ見エ申サズ候」と書いてるぐらい。
・『常陸国風土記』
崇神天皇のときにこのあたりは東国の辺境で、ここには朝廷に従わない野蛮な賊徒がいたが、これを征服するためにタケカシマノミコトを遣わされた。
軍勢を率いて、行く先々の兇徒を平らげて進み、信太郡の阿波崎近辺、浮島に宿をとった。霞ヶ浦の東の浜辺、板来のあたりを望めば、煙が上がっているのが見えた。兵隊たちはあそこには人がいるのではないかと疑った。タケカシマノミコトは天を仰いで、誓った。
「もし、われわれの仲間の煙ならばこちらまでそよいできて頭上を覆いなさい。もし、野蛮な賊の煙であるなら、去って海中に靡け」
はたして煙は海をさして流れたのである。
あれにあるは兇族なり。みなのものはやばやに戦支度をせよ。
この地の国巣に夜尺斯、夜筑斯となのる二人がいた。ふたりは一族を束ね、穴を掘って土窟を構え、ここに常住していた。官軍の動向を用心深くうかがい、身を潜め、守りは堅かった。
タケカシマノミコトが兵に命じて追討、駆逐しようとしても賊たちはことごとく逃げ帰り、土窟を閉じ、守備を固めるので容易に攻めきることができない。
ここは大きなはかりごとが必要だとタケカシマは気づいた。
死をも恐れぬ勇猛な戦士を選抜し、姿がみえぬように山側の窪地に伏させた。
渚には賊を撲滅する武器に装いを施し、美しく並べ見せる。海上には船を連ね、編成した筏を浮かべて、そこには華やかな絹張りの笠がまるで雲が空を飛ぶような様にて翩翻としている。七色の旗は燦然と輝く。
琴、笛の調べが、波が寄せ、潮が流れるままに、あたかも天上の人が奏でるように海面をただよう。賑々しい音曲は七日七夜を通して、人々は遊び戯れ、歌い踊った。
こうするうちに、この盛況な音楽を耳にした賊どもは一族こぞって男も女も全員が土窟から這い出してきた。彼らは浜いっぱいに広がって大喜びではしゃぎまわったのだ。
タケカシマはただちに騎馬武者たちに土窟の入り口を閉鎖させ、用意の伏兵で背後から襲撃した。かれらを一網打尽に捕虜とし、全員をまとめたうえで、同時に焼き殺したのである。
このような事は、松平氏の前の加藤家統治時代の会津藩の資料に、藩主から「お前のところの百姓たちが、年貢があまりに重すぎるといって訴えて来ているぞ」 と対応を問われた家老が、「いよいよ言うならば、すべて撫で斬りにして殺すからいい」と答えたというのですから、普遍的な現象であったことがうかがえま す。
・若松城下、抵抗する会津兵はもとより、武士、町人百姓、老若男女の別なく、町のなかにいた者は見境なく斬られ、打ち殺された。攻める者は血を見ると、怪鬼のように快感を覚えて、人影を見れば撃ちまくった。恐怖で立ちすくむ女児の後ろから阿修羅の刃が 襲った。
「賊軍の死骸には手を付けるな」の命令、会津藩士とその家族、従軍した農民など総数3千の遺体が埋葬を禁じられ、遺体が城下や山野に放置された。
・幕末に激戦が繰り広げられた栃木・三斗小屋宿。三斗小屋は、戊辰戦争初期は幕軍に占領され、のちに明治政府軍が駐留した。丸腰の村人に対し、明治政府軍に凄惨な虐待を加えたとの記録が残っている。
「高根澤文五郎」は、畑の中で一斉射撃の的とされ、蜂の巣のようになった。
「大竹忠兵衛」は、裸に剥かれて街道の石の上を引きずり回され、血みどろになった体を高木に吊るされた。
「早く首を斬ってくれ」との願いも、力任せに両足を引っ張られて肩甲骨を折られ、両足の指を切り落とされて殺された。
「月井源左エ門」は、三斗小屋まで連行され、柱に繋がれて股の肉を削り取られた。
そしてその肉を串に刺して火で焙り、「食え」と口へ押し込まれ、無理やり食べさせられている。
・1551年 小岩岳城攻略戦
攻略失敗。とりあえず火をつけて町を焼き尽くす。
後に城を落とすが、その凄惨さは凄まじく『妙法寺記』では「討取頚五百余、足弱取事数ヲ不知候」(500人余りを討ち取り、老人、子供、女を生け捕りにしたと書かれている)。
現在でも地元において落城した8月12日には慰霊祭が行われている。
以前落とされた志賀城では降伏してきた兵さえも皆殺しにされ、身代金2貫を払えない人間は(上杉、北条は20銭程度)
男は鉱夫として連行され、女は情婦として全員売られた。
・「佐沼城のなで斬り」
葛西・大崎一揆を政宗が扇動して、証人皆殺しにする為に佐沼城を包囲して武士五百人、百姓ら二千余人を虐殺した。
身内である成実が「成実記」で「城中ノ死者余リ多ク、人ニ人カサナリ土ノ色ハ何モ見エ申サズ候」と書いてるぐらい。
・『常陸国風土記』
崇神天皇のときにこのあたりは東国の辺境で、ここには朝廷に従わない野蛮な賊徒がいたが、これを征服するためにタケカシマノミコトを遣わされた。
軍勢を率いて、行く先々の兇徒を平らげて進み、信太郡の阿波崎近辺、浮島に宿をとった。霞ヶ浦の東の浜辺、板来のあたりを望めば、煙が上がっているのが見えた。兵隊たちはあそこには人がいるのではないかと疑った。タケカシマノミコトは天を仰いで、誓った。
「もし、われわれの仲間の煙ならばこちらまでそよいできて頭上を覆いなさい。もし、野蛮な賊の煙であるなら、去って海中に靡け」
はたして煙は海をさして流れたのである。
あれにあるは兇族なり。みなのものはやばやに戦支度をせよ。
この地の国巣に夜尺斯、夜筑斯となのる二人がいた。ふたりは一族を束ね、穴を掘って土窟を構え、ここに常住していた。官軍の動向を用心深くうかがい、身を潜め、守りは堅かった。
タケカシマノミコトが兵に命じて追討、駆逐しようとしても賊たちはことごとく逃げ帰り、土窟を閉じ、守備を固めるので容易に攻めきることができない。
ここは大きなはかりごとが必要だとタケカシマは気づいた。
死をも恐れぬ勇猛な戦士を選抜し、姿がみえぬように山側の窪地に伏させた。
渚には賊を撲滅する武器に装いを施し、美しく並べ見せる。海上には船を連ね、編成した筏を浮かべて、そこには華やかな絹張りの笠がまるで雲が空を飛ぶような様にて翩翻としている。七色の旗は燦然と輝く。
琴、笛の調べが、波が寄せ、潮が流れるままに、あたかも天上の人が奏でるように海面をただよう。賑々しい音曲は七日七夜を通して、人々は遊び戯れ、歌い踊った。
こうするうちに、この盛況な音楽を耳にした賊どもは一族こぞって男も女も全員が土窟から這い出してきた。彼らは浜いっぱいに広がって大喜びではしゃぎまわったのだ。
タケカシマはただちに騎馬武者たちに土窟の入り口を閉鎖させ、用意の伏兵で背後から襲撃した。かれらを一網打尽に捕虜とし、全員をまとめたうえで、同時に焼き殺したのである。