外国書研究A=第1章+第2章(奇数年度) 「KA1.pdf(http://web.archive.org/web/20170623030737/https://sites.google.com/site/tsukasakuwabara1970/home/links/home-page-archive/sumaries-of-doctoral-dissertation/archive-xu/00/waprvi/stock-ii/yi-wen-ji-yin-yong-wen)」引用文(カント/『純粋理性批判』)〔2017/06/22〕外国書研究B=第2章+第3章(偶数年度) ・J. M. Charon, 1979, Symbolic Interactionism, Prentice-Hall, ch. 1- ch. 3 参考文献:https://archive.is/B4NHM#selection-1759.0-1759.51 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- <Chapter 1: The Nature of Perspective> 教師たちも、著述家たちも、私の教員生活を通じて、警告し続けてきた。真実を見つけることは全く以て難しい、と。自分の理解が進めば進むほどに、彼らの言うことが正しいということが、よりはっきりと理解できた。しかしながら、パースペクティブという概念に出会ったとき〔~に誘われたとき〕、真理という問題に対する新しい次元(尺度)が目の前に開けたのである。しかしながら、(それを)額面通りに受け取ってしまうと、パースペクティブという概念は、人びとを次のような結論に導くに違いない。すなわち、人間にとって、物的なリアリティ(現実)に関する真理というものは、絶対的な意味においてはどのようにしても成り立ち得ないものである、と。 何年も前に、私はA. Averchenkoによる以下の物語(文章)を読んだ。この文章は、「外的領域において〔人間の頭の外側で(人間に外在する客観的な領域において)〕」本当に起こっていることは何なのか、それを知る際に人間が持つ困難を強調したものである。私はこの話を人間の知覚におけるバイアスを例証したものとして解釈した。私はこの話をさまざまな人びとに説明し紹介した。人びとが如何に一つの状況を取り上げ、それを自分にとって都合の良いようにねじ曲げるか(歪曲するか)、それを示した好例がある、と。私によるこの物語の解釈の根底にあるのは次のことである。すなわち、人間とは、心が狭く、視野が狭くなりがちであり、真理に対して誠実になる、ということは決してない性向(傾性〔←果たしてこの用語を比喩として用いることが出来るだろうか?〕)を持つ存在である、と。 <The Point of View> 「男って本当に滑稽よね」https://archive.is/DcpzU#selection-4055.14-4055.22<新しいパースペクティブの出現は、新しいリアリティの出現を意味する> https://archive.is/DcpzU#selection-1207.0-1207.32 <「最も良い」パースペクティブというものは果たして存在するのか> どのパースペクティブも、すべて等しく「良いもの」である、ということが果たしてあり得るだろうか。若しくは、あるパースペクティブは、別のパースペクティブと比べて「より良いもの」である、と主張することは果たして可能であろうか。例えば、息子のパースペクティブは、その父親のパースペクティブと比べて「より良いもの」なのだろうか。芸術家のパースペクティブは、科学者のそれと比べて「より良いもの」なのだろうか。二つの事柄が比較されるときにはいつでも(パースペクティブについても同じことが言えるが)、比較のための種々の基準に関する同意ないしは合意がなければならない。だから例えば、マーサはマーシャに比べて「優れている」という状態が存在するには、その基準がIQであり、そのIQをどのように測定するのかについて、皆が同意していなければならない。また、比較の基準として、「物的リアリティを捉えている〔か否か〕」というものを採用し、その「捉え」方を測定するやり方について同意が可能ならば、ある絵画が別の絵画と比べて「優れている」ことになる。 というわけで、あるパースペクティブは、別のパースペクティブと比べて「より良いもの」として存在している。すべてが等しく良い、ということはあり得ない。しかしながら、どちらのパースペクティブが「より良いか」を判断するためには、比較のための基準というものが確立されていなければならない。例えば、『聖書』に最も即したものが、最良のパースペクティブである、と主張する人もいるだろう。また、「合宿国の信条」〔米国のアイデンティティを構成する諸要素に関する声明であり、トーマス・ジェファーソンが最初に定式化したもので、その後数多くの人々によって推敲が重ねられた。それは、自由、平等、個人主義、大衆主義(ポピュリズム)、自由放任主義(レッセフェール)などから構成される。〕に最も近いものが最良のパースペクティブだと主張する人もいるだろう。そうなると、無神論は前者の場合には良くないパースペクティブだ、ということになり、人種差別主義的なパースペクティブは後者の場合には(そして、我々の多くにとって)良くないものだ、ということになる。 我々を取り巻く世界において何が「本当に」起きているのか、それを正確に記述する〔=描写する〕パースペクティブを用いることに関心を抱いている。もちろん、学問の世界においては、正確な記述能力というものが、「良いパースペクティブ」を評価する最も重要な基準となっている。良いパースペクティブは、我々に洞察能力を与え、リアリティを正確に記述し、我々の真理の探求に役立つ。多くの科学者たちは、自然科学者も社会科学者も次のように主張する〔のが常である〕。我々のパースペクティブは、素人の〔←常識的な〕パースペクティブよりも、より優れたものである。というのも、我々のパースペクティブには、個人的なバイアスに対する厳格な統制が働いているからである、と。実際のところ、科学の成果は確かに、次の事実を裏付けている。すなわち、科学的パースペクティブは、自然界や社会的世界を取り扱う〔他の〕大部分のパースペクティブよりも優れている、と。もし、全く同じ問題を検討している、科学的パースペクティブと非科学的パースペクティブの二つがあり、何れかを選べといわれれば、私が後者を選ぶことはまず無いだろう〔←普通ではない〕(→仮定法)。というのも、自然界や社会的世界に関する問題に正確に答える、という点からするならば、たいていの場合には、前者の方が後者よりも信頼性が高いことは、私にとって明らかなことだからである。しかしながら、この信頼性の問題は〔←上記のことは〕、かなりの部分(多分に)、そこで問われている問題の性格に依存する〔~に因る〕。 数多くの重要な問題に対して、科学が正確に答えているかといえば、とてもそうであるとは言えない。加えて科学者たちには、他の諸々のパースペクティブも取り扱っているリアリティの全層を取り扱う能力はない。科学者がまさにその検討の対象としてる自然界や社会的世界においてさえ、まだ注意が向けられておらず探求(look for)すらされていない、〔あるいは〕科学的に検討することがあまりに困難な、種々のリアリティが存在する。より正確であるという理由から、科学のパースペクティブは他のどのパースペクティブよりも優れている、という主張は、あらゆる問題に関して正しいとは言えないのである。 「最も優れた」パースペクティブとは何かという問題は、最も正確な科学的パースペクティブは何かを決めようとするとき、非常にやっかいなものとなる。確かに科学者たちは科学的パースペクティブを共有している。だが、リアリティにおいて何に焦点を当てるかにおいて互いに異なっており、どのパースペクティブが現実を最も良く捉えているか、その基準を確立しようとすることは困難きわまりないことだと言えよう。またもしそれが可能になったとしても、おそらくは何の役にもたたないだろう。科学的パースペクティブは、次のように捉えるのがベストである。すなわち、各々の科学的パースペクティブは、自然界や社会的世界のそれぞれ異なった側面に焦点を当てており、我々がその各々の側面をより明瞭に理解することを促進するものである。種々の科学的パースペクティブを比較することは(あらゆるパースペクティブを比較することに至っては、実に)困難な課題である。しかし不可能ではない。慎重にそのための基準を確立すればのことであるが。 <結論> ここで、基本的な論点とパースペクティブの具体例をいくつかリストアップすることで、本章の内容をまとめておいた方が良いと思われる。 1.パースペクティブとは観点のことである。換言するならば、メガネないしは感光[http://gyo.tc/RDzS]薬のようなものである。それは、我々のリアリティに対する知覚を方向付ける。 2.パースペクティブは、さらに、概念枠組みとして描くことが出来る。それは一組(一連の)の諸前提、価値、信条(~のセット)から構成され、我々の知覚を組織化し、我々の行動を統制するために用いられるものである。 3.個人は、それが自らにとって持つ有用性という観点から、パースペクティブの善し悪しを判断する。 4.個人は数多くのパースペクティブを持っている。それは相互作用から生じ、個々人の役割と関連付いている。 5.あるパースペクティブは別のパースペクティブと比べて「より優れている」と考えることが出来る。これは次の〔二つの〕条件が揃った場合に可能となる。すなわち、「より優れている」ということがより正確であることを意味する、ということに我々が同意でき、その正確性を我々が測定することが出来る、という条件がそれである--困難な課題ではあるが--。科学においては、あるパースペクティブは他のパースペクティブと比べてより正確なものであるかも知れない。とはいえおそらくは次のように主張する方がより的確だと思われる。すなわち、各々の科学的パースペクティブは、それぞれ、リアリティの異なった側面に焦点を当てているのである、と。 パースペクティブは、それがどの程度公的(formal)かによって異なるものと捉えられる〔Charon-memo.docxの「1)」へ〕。確かに我々は、次のようなパースペクティブを持っており、それを日常的に使っている。男性としてのパースペクティブ、女性としてのパースペクティブ、学生としてのパースペクティブ、恋人としてのパースペクティブ、購買者としてのパースペクティブ、音楽狂[http://gyo.tc/REjE]のパースペクティブ、友人、アマチュア・カウンセラーのパースペクティブ。これらのパースペクティブを、より公的で組織化されたパースペクティブと区別することはおそらく有用なことであろう〔・・・区別するとおそらく便利だ〕。例えば、クリスチャンのパースペクティブ、アメリカ人のパースペクティブ〔→Cf. American Creed、アメリカ人の国民性。「国家」ないしは「国籍」という基準のFormal性?〕、社会学者、心理学者、歴史学者のパースペクティブなど。さらにこれらは、(やろうと思えば[=仮定法])科学的なものと非科学的なものとに分けることが出来るだろうし、またその上で、前者をさらに下位の類型に分類することも出来るだろう。以下の一覧表は、個人がリアリティを吟味する際に用いるであろうパースペクティブの多様性を図解で例証したものである。これは包括的なものを意図して作られたものではない。人間が使い得るパースペクティブの多様性を示唆したものに過ぎない。 -------------------------------------------------------------------------- ①相対的に公的〔=おおやけに[http://gyo.tc/R2Zh]定められた形式;Formalの類語[http://web-beta.archive.org/web/20120602101756/http://ejje.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E5%89%87];形式に拘る、ある一定の形式に基づいている、パターン化されている;明確ではっきりとしていて、規定の型に従った⇔自由な〕ではない日常的なパースペクティブ 学生のパースペクティブ 娘のパースペクティブ 母親のパースペクティブ ②公的ではあるが、科学的ではないパースペクティブ。 切手収集家のパースペクティブ〔なぜここで「切手収集家」?〕 芸術家のパースペクティブ 詩人のパースペクティブ 黒人のパースペクティブ〔そうかな~?。Charonの偏見じゃないか?。事実、第3版では「アジア人」になっているし。しかし「アジア人のパースペクティブ」も公的かな? 「アジア人」という括りは公的だろうが。〕 アメリカ人のパースペクティブ〔これも多分に怪しいが、、〕 クリスチャンのパースペクティブ ③公的で科学的なパースペクティブ 生物学 物理学 化学 天文学 心理学 文化人類学 経済学 社会学 ④社会学内部におけるいくつかのパースペクティブ マルクス主義 パーソニアン(構造機能主義) シンボリック相互作用論[https://archive.is/bAjIK#selection-1381.0-1381.51][http://id.nii.ac.jp/1066/00000157/][http://hdl.handle.net/2065/34499] ウェーバリアン(Max. Weberの理論に傾倒するもの) デュルケミアン(E/. Durkheimの理論に傾倒するもの) システム理論 交換理論 --------------------------------------------------------------------------- 誰しも各々、個人というものは〔←Any one of individual:かなり無茶な意訳〕、上に列挙した類のパースペクティブのうち、そのいくつかから〔その頭の中が〕構成されており、ある状況において、そのうちの何れか一つを選択する可能性がある〔~かもしれない〕。事実、ひとたびその状況に置かれれば、当の個人は自分が持っている種々のパースペクティブを変化させることがあるし、他者たちの相互作用において、自らが当初抱いていたパースペクティブが現在進行形の形で〔→刻一刻と〕変化している、という実感さえ得ることがある。人は一日のうちに、学生になったり、娘、母親、芸術家、黒人、アメリカ人、クリスチャン、生物学者、社会学者、マルクス主義者、パーソニアンになったりするかも知れない。〔それぞれの人間になることで〕、その各々のパースペクティブから異なった世界が見えるだろうし、旧知の事柄に対する新しいまなざしも開けるだろう(Cf. https://web-beta.archive.org/web/*/http://megalodon.jp/2013-0804-1746-03/web-beta.archive.org/liveweb/http://archive.is/Hgvhg)。 本書は、非常に刺激的なある一つのパースペクティブに関する文献である。それがシンボリック相互作用論である。このパースペクティブは、ある意味で独特な(他とは異なる、普通のものではない)ものである。それは社会科学のパースペクティブではあるが、他の多くの社会科学のパースペクティブとは非常に異なったものである。シンボリック相互作用論の諸概念を理解するにあたって、従来の社会科学的パースペクティブのいくつかを説明しておくことが重要かもしれない〔~が重要・有益ではないだろうか〕。本書第2章の目的がそれである。 <Chapter 2: The Perspective of Social Science> <パースペクティブの一つとしての社会科学>(本節は、元々は2008年に執筆されたもののようだ) ここでは次のような主張が堅持されている。すなわち、社会科学とはパースペクティブの一つである、と。その出発点から、社会科学は(自然)科学の道具〔概念、方法〕を人間の理解に応用しようと試みてきた。パースペクティブの一つとして、社会科学はいくつかの前提を作ってきたが、その中でも最も重要なものが次のものである。すなわち、人間とは、現象的な存在であり、原因を与えられる存在であり、科学的計測に開かれている存在であって、自らの環境との関わりにおいて活動的な(能動的な)主体ではない。すなわち、自己決定的な存在でも自由という特性を持った存在でもない。社会科学者として我々は、人間の社会生活には因果関係(因果律)が存在することを前提としており、我々の目標は、その因果関係を明らかにすることであり、またおそらくはそのはずである。 ピーター・バーガーは、1963年の著作において、社会科学のなかに自由の居場所を見出す、という問題を明瞭に提示している。如何に人間が、数多くの社会的諸力によって、コントロールされ、幽閉され、原因を与えられ、形作られ、そして鋳造されているかを鮮やかに示した後に、彼は議論を一変させ、人間の自由のための何らかの余地を何とかつくり出そうと試みている。しかしながら、自由というものが如何にして可能となるのかを確定するに先立って、彼は自由と科学について考察し、そうする中で、カントのものとほとんど同一の議論を展開している。 「10842-3.jpg」「10842-4.jpg」(http://web.archive.org/web/20170623030737/https://sites.google.com/site/tsukasakuwabara1970/home/links/home-page-archive/sumaries-of-doctoral-dissertation/archive-xu/00/waprvi/stock-ii/yi-wen-ji-yin-yong-wen)」引用文(バーガー/『社会学への招待』)〔2017/06/22〕 カクテル・パーティーは誰もが想起するものである〔誰にとっても馴染みのものである〕。そこでは(例えば)、一方で社会学の課程を、他方で心理学の課程を修了した〔主専攻・副専攻〕、頭の良さげな卒業したての大学生(新規大卒生)が、自分が如何に人間の行動についてよく理解しているかを皆に印象づけようとしている。そこでの会話は(例えば)こんな感じで進行する。 「そんな馬鹿な。何をするにしても何からも制約を受けずに(自分の自由意思に基づいて)している、なんてことがあるものか」、と彼(新卒)が自慢げに(偉そうに)話す。 「いいや、もちろん制約なんて受けてないよ。何を信じどこに行くべきかは自分で決めている」、とお人好しの人(一般市民)が答える。 「よし、それなら君が、ここに今夜連れてきた女の子を例に取ろうじゃないか。君は何の制約も受けずに彼女をここに連れてこようと思ったのかい?」 「もちろん」 「はは~ん、なるほど--分かったぞ-!、と彼は心の中で呟く--。君が彼女に惹かれているのは、彼女がそれ相応の(彼にふさわしい、彼にとって適切な)社会階層の人間だからだ。君は彼女を見ると自分の母親を連想するんだ(彼女は君に自分の母親を想起させる)。彼女は身体的な魅力という点でおおよそ君のお眼鏡に適っている」と、他にも何やらかんやらいろいろな理由を彼は挙げていく。 「おぉー!(なるほど)」。 我々の多くが、人間行動の予測可能性とこれまでに社会科学者が蓄積してきた人間の行動に関する社会的・心理的要因(原因)のすべてに驚嘆する。とはいえ(ここで)バーガーの主張を再掲しなければならない。「自由という特別な種類の原因は、この(科学という)体系からは排除されている」。これが科学の重要な前提の一つである。科学の目的とは、自由ではなく、原因を取り出すことであり、そのため、最終的には人間に関する何かを排除するものと考えられなければならない。もちろんこのことは、科学を批判しているわけではなく、単にパースペクティブの一つとしての科学の限界を特定しようとしているに過ぎない。 社会科学者たちはますます次の事実を認識しつつあるようだ(~するようになってきたようだ)。すなわち、社会科学とはパースペクティブの一つであり、いくつかの前提を有し、ある一定の概念枠組みを持っており--例えば、「経験的」「原因」「従属変数」「独立変数」「計測」など--、人間に関する真理全体を明らかにすることは決して出来ない、と。 いやそれどころか、社会科学は我々を、誤解を招くような、いやもっと言えば(より適切には)誤った人間像に導いてさえいるかも知れない。チャールズ・ハンプデン=ターナーは、このことを彼の思慮に富んだ著作である『極端な人間』(1970)において論じている。彼は、社会科学をパースペクティブの1つとして捉え、その上で、それが明らかにその性格上、バイアスを伴ったものである、と結論づけている。すなわち、社会科学は一貫して政治的に保守的なものであり(人間は社会に逆らわない、社会を変えようとしない)、それは間違いなく、必然的に社会科学者に保守的な人間観を採用するよう(に)仕向けるものであり、〔その結果として〕重要な人間の特質の多くを体系的に無視するものである。〔2017/07/11〕 <Chapter 3: Symbolic Interactionism as a Perspective> <シンボリック相互作用論の一般的歴史的・哲学的背景> シンボリック相互作用論は通常さかのぼることが出来る。G.H.ミードの研究業績に。彼はシカゴ大学の哲学を担当していた教授の一人だった。ミードは数多くの論文を書いた。とはいえ、彼のシンボリック相互作用論に対する影響の多くは、<学生たちによる彼の講義録や講義メモの出版>によって(を通じて)〔も〕もたらされている。他のさまざまな社会学者たち、とりわけミードの学生の一人であった、ハーバート・ブルーマーによる彼の研究業績の解釈に加えて。 おそらく、ブルーマーは、シンボリック相互作用論のパースペクティブを統合し解釈した人間の中で最も重要な存在である。私はかつて、大学院の同僚の教授の一人に尋ねたことがある。アドバイスを求めて。シンボリック相互作用論の〔知的〕背景を良く知るには何を読めばいいかに関して。彼女の答えはこうである。「ええと、そうねぇ、これまでシンボリック相互作用論について書かれてきたことはすべて、ハーバート・ブルーマーが書いているわね」。その時は、私は彼女の見解を一笑に付し看過しようとしていたが、ブルーマーの文献の読了に取り組むうちに、彼女の意見が如何に正しいかに気づかされた。ブルーマーが唯一の優れたシンボリック相互作用論者である、というわけではない。とはいえ、彼の研究はまず間違いなく<他の論客たちが書いてきたものを解釈し統合したものとしては最良の内容>を表現(示した)したものである。と同時に、彼の研究は、このパースペクティブの社会的な意味(意義)〔→社会に関する示唆=社会学的な意味〕と独自の洞察(=明察、鋭い見方keen insight、複雑な状況に関する明解な理解)のいくつかを引き出している。 ブルーマーが援用し、またシンボリック相互作用論の先駆者となったのはミード一人ではない。二、三の例を挙げるなら、シンボリック相互作用論のパースペクティブは次のような学者たちの研究にさかのぼる。ジョン・デューイ、ウィリアム・ジェームズ、ウィリアム・イザック・トーマス、そしてチャールズ・ホートン・クーリー。ブルーマーは主として、1950年代から60年代にかけて執筆活動を行ったが、上記の研究内容の多くを統合した(まとめ体系化した)。加えて、とりわけ次のような学者たちが、彼らに先立つ研究者たちの研究を統合しその理論的・経験的適用例を示すことで、このパースペクティブに貢献してきた。マンフォード・H・クーン、アーノルド・ローズ、ノーマン・デンジン、グレゴリー・ストーン、アルフレッド・リンドスミス、アンセルム・レオナルド・ストラウス、ジェローム・メインズ(?)、バーナード・メルツァー、そしてタモツ・シブタニ。シンボリック相互作用論はまた、他のパースペクティブにも着想を与えてきた。例えば、逸脱研究におけるラベリング理論、アーヴィン・ゴフマンの演劇的相互作用論(ドラマツルギー)というパースペクティブ、そして間違いなく、ハロルド・ガーフィンケルのエスノメソドロジーにも。 図3-2は、シンボリック相互作用論のパースペクティブの展開〔過程〕を説明したものである〔注:Mainstreamとは、おそらくは、ハバーマス、ルーマン、新機能主義、意味学派[including バーガーらの現象学的社会学]、構築主義では?〕。 シンボリック相互作用論というパースペクティブの一般的な立場を理解する一つのやり方として、その主たる創始者であるミードが受けた主要な影響をまとめる、というのが挙げられる--以下の記述はStrauss, 1964, Desmonde, 1957に依る--。そうした影響には三つのものがあった。その各々がその後、シンボリック相互作用論者のすべてにとって重要なものとなっている。すなわち、 1.プラグマティズム哲学 2.ダーウィンの進化論 3.行動主義 ミードは、プラグマティズムと呼ばれる哲学の学派の展開において重要な人物の一人である。プラグマティズムは、ミードの--そしてシンボリック相互作用論者たちの--真理へのアプローチ(接近方法)においてとりわけ重要なものである。この哲学は、その基礎に(以下のような)四つの一般的原理を持っており、我々はそれらをこのパースペクティブ(=プラグマティズム)を完全に再現しているものとして捉えることにする。 1.人間にとって真理とは、その個人自身の介入をつうじてのみ存在可能となる。すなわち、真理とは本質的に我々の関与や解釈(活動)を抜きにして存在することはない〔2017/06/20〕。仮に確かに「外的領域に」真理が存在していたとしても、我々による定義という活動を抜きにしては、それが我々にとって存在することは不可能である。この論点は、基本的に本書において先に議論したものと同じものである。すなわち、人間は自らを取り巻く世界を理解するために種々のパースペクティブを用いるのであり、そうしたパースペクティブに従って(さまざまなものを)見る〔=捉える〕のである。 2.人間にとって知識とは、その有用性に基づくものである。我々は、どの知識が自分にとって有用であるかを想起する(そうしたことについて自分の記憶を再生する)。種々の考え(着想、見解、知識、観念)は、ある状況におけるその効果(という観点から)判断される。人間はあらゆる状況において、間断なく、仮説検証を行っており、種々の考えや知識に従って行為を行い、しかる後に、それらが役に立つか否かに従って、変化させる--注記:これはまさに、本書第1章において描いたパースペクティブの姿であった(である)--。 3.我々が(日々)直面する種々の対象は、それらが我々にとって持つ用途に従って定義される。〔2017/06/23〕種々のモノ〔→定訳は、事柄、事象〕が持っている意味は我々がそれらをどのように使おうと意図しているかによって決まるものである。外的領域に存在する世界は、我々のその時々の既存の欲求をそれがどのように満たすかに従って定義される。如何なる対象も数多くの用途を持っており、そのため数多くのやり方で定義されうる。一つの屑籠は、「くずを投げ入れるもの」であったり、「その上に座るもの」、「描画の対象となるもの」、「叩いて〔音を鳴らす〕もの」、「トウモロコシを備蓄するために使うもの」、「バスケの技術を伸ばすために練習するもの」であったりする。このように〔対象の意味は〕完全に人々の用途によって決まる。事実上、対象というものは、人間がそれに対して持っている数多くの用途から離れて存在することはない〔2017/06/25〕。 4.人間に関する理解は、その人間が行っていることから割り出されなければならない。人間を知る、ということに対するプラグマティズムの接近方法(アプローチ)は、この意味において行動主義者(のそれ)と同じである。我々が人間有機体を理解することが出来るのは、我々が経験的に観察している人間の行為からである。しかしながら、我々は有機体による活動(日常的に)見てはいるが、その活動には我々に見えているもの以上のものが存在する。対象が何であろうと、それは行為〔の観察〕から推断されなければならない。内的で心理的な活動は、人間の行動にとって非常に重要なものであるが、それを科学者が理解できるのはその外的行動の観察をつうじてのみである。 ミードは非常に強い影響をチャールズ・ダーウィンから受けていた。ミードによれば、人間とは、他の種の動物から進化(evolve)した、本質的にまさしく「創発的な(存在)」である。ミードによれば、ダーウィン的な意味において創発とは、次の現象を意味する。すなわち、形質(qualities)が〔長い時間をかけて〕発達し、そして分岐(=種分化)し、そうすることで既存の種の中に一つの質的に独自なもの(→これまでにはなかったもの)が形成される。この現象は、その現象の発生に先立って存在していた種々の種から発現(出現)していた個々の特性(trait)の単なる総和によって説明できるものではない。そうではなく、この現象は、これまでにない形質を開花させる形でそうした諸特性が組み合わさることによって可能となるものなのである(「Charon-memo.docx」43943-1.jpgへ)。人間の独自性は、推論を行い、自他とシンボリックなコミュニケーションを行う能力と関連している。だからミードにとって人間とは、有機体に作用してきた諸力を特定するだけでは説明できない、自然界における唯一の存在でありつづけた。すなわち、人間とは本質的に〔自然界において?〕独立した諸力の一つであり、受身的に形作られる存在ではなく、自らの行為の計画と実行に能動的に関与する存在なのである。すなわち、理性を用い〔→推論を行い〕、計画を策定し、計算し〔予測を立て〕、〔種々の事柄を〕組織化し、そうすることで環境(の方)を形作る存在なのである。〔2017/06/26〕 ダーウィンはまた、静態的な世界ではなく進化論的で(=漸進的で)動態的な世界を強調したことで大きな影響力を持っていた(inは「理由・動機」「方法・形式」という意味)。自然界はすべて過程であり、自然界に存在するあらゆる「モノ〔事柄・事象〕」は、常に変化の最中にある(in a state of。「最中」はin a state of being the middle ofなので意訳しすぎか? 「只中」か? それとも「~している状態にある」と直訳するべきか。意味的にはどれでも良いのだが、文法的には難しいところだ。。。)ものと考えられなければならない。ミードにとってもシンボリック相互作用論者にとっても、人間に関することはすべて過程と見なされなければならず、安定した固定化されたものと考えられてはならない〔rather than。意訳しすぎか?〕。実に(まさに)、シンボリック相互作用論に対して寄せられている最も重要な(部類の)批判の一つが、シンボリック相互作用論が構造というものをあまりに軽視し、あらゆるものが常に変化している、という誤った印象を与えている、というものである。とはいえ、また一方で、過程を強調することで、〔既存の〕社会科学において、人間と社会(の関係)に関する独自な見方が浮かび上がる。例えば、シンボリック相互作用論者たちは、以下のように強く主張する〔2017/06/27〕。 1.個人とは、一貫性を持った、構造化されたパーソナリティ(人格。Character=性格)〔の持ち主〕であるというよりは、むしろ動態的で変化の中にある(Changing)行為者である。個人は、「最終的に何かに成る」ことは決してなく、いつでも「生成の最中」にあり、常に自らを開花(→展開)させながら、常に行為〔形成〕を行っている存在である〔SIにおいては、行為とは「形成」されるもの。Cf. https://archive.is/gKXso#selection-941.2-941.19〕。個人とは社会化され(きって)しまう存在ではなく、いつでも社会化の過程の中にある存在である〔社会化は、個人が誕生してから死ぬまでずっと続く。社会化とは「変化」のこと。Cf. 死の受容の5段階〕。個人とは、型にはまった、あるいは、固定化された存在ではなく、相互作用の過程の中で絶えず(=常に)変化を経験している存在である。 |