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これは、試合までの俺の日記だ

○月×日
減量をしている。
・・・減量といっても、皆の想像しているようなものではない。
おれは、漫画のように何週間も前から
水を断つような馬鹿な真似はしない。
むしろ普段よりも水分はとっていたと思う。
脂肪を燃焼しやすくするためだ。
当然、食事も節制する。
飯の代わりに、豆腐を主食にする。
一般人なら、これだけで体重が確実に落ちる。
豆腐は腹持ちもよく、たんぱく質の比率が高いからだ。
カロリーも低い。
ご飯1膳分のカロリーを豆腐で食べたなら、もう腹がいっぱいになってるはずだ。
おかずは普通に食べる。
少々なら脂質も摂る。
あまりに油を摂らないと、脳の髄液が減少してしまうらしく
打たれ弱くなってしまう可能性があるからだ。
あとはビタミン剤やマルチミネラルなどを摂る。
筋肉痛を和らげるために、プロテインも摂った。
練習前にはバナナを1本。
バナナ1本だけで、集中力が随分変わる。
この文を読んでいると、精神的にはともかく
肉体的にはそれほど苦でないように思えるかもしれない。
たしかに肉体的にはそれほど苦ではなかった。
・・・残り、1週間前までは。

○月×日
試合まで残り1週間。
リミットまではあと3、4kgほどだ。
普通の人が聞けば、3、4kgは重く感じるかもしれない。
しかし、ボクサーの減量は、最終的には水分の増減なのである。
人はなにもしなくても、1日で1リットルちょいの水分が身体から出てゆくのだ。
ボクサーは普段のトレーニングと食事節制で身体を絞りぬく。
筋肉と骨の身体にしつつも、最後の最後までは水分は蓄えておく。
そして、計量前の数日で数キロを水分で落とすのだ。
他の選手がどう思ってるかは知らないが、おれはコレがベストだと思ってる。
おれの場合は、最後の2日で2kgほど落とす。
前に3kgちょっと水分で落としたこともあったが
あの地獄はもう味わいたくはなかった。
それに、あの時はリングでの動きも最悪だった。
やはり2kgあたりが精神的にも肉体的にもベストなのだろう。
残りの1週間で腸内を綺麗にしつつ
最後の2日で水分を絞る予定だ。
これで3,4kgは落とせるだろう。
(残り1週間)
食事はあまり変えないが、全体的に量は減らす。
豆腐もおかずも減らし、ビタミン剤やプロテインを少し多くした。
水分はまだ減らさない。
(残り4日)
ここから腸内掃除が始まる。
もう固形物は摂らない。
ひたすら100%果実ジュースと水である。
ガバガバのむ。
もうこの時期の練習は流す程度である。
(残り2日)
うがいですごす。
尿がほとんどでない。色がやばい。
汗が出てこない。
腸内を洗浄したせいかわからないが
今回は浣腸と下剤は必要なさそうだ。

○月×日
計量当日。
小便はほとんど出なかった。
身体が乾ききっているのがわかる。
もう何もおれの中には残っていない。
7年間。
おれがボクシングをやってきた年月だ。
ずっと、4回戦でくすぶってきた。
傍から見れば、明日の試合はただの4回戦の試合かもしれない。
だがおれは、この試合に、おれのボクシング人生すべてを賭けていた。
明日負ければ、おれはもう引退する。
そういう気持ちでいた。
計量は後楽園ホールで行われる。
仕事を持っている人などは、2日は休みをとらねばならない計算になる。
前日計量と、試合のためだ。
ちなみに、おれにはあまり関係はない。
・・・なぜかって?
それは、おれが遊び人だからだ。
新幹線で北千住へ行くまでがまた・・・
ひたすらに喉が渇く。
クーラーが微妙な感じで効いていたが、そのせいで余計乾燥したのだろうか?
新幹線は北千住まで。
あとは、北千住→秋葉原→水道橋という経緯で乗り継いでゆく。
もう10回近く秋葉原に行ったことになる。
毎度毎度5分もいるか程度の時間だが。
計量はだいたい2時すぎに行われる。
・・・だが、大概ドクターが遅れてくるせいで
検診の時間も遅れ、計量の時間も遅れるわけだ。
この時に選手たちはお互いの顔を見ることになる。
おれの相手はでかかった。
・・・と、その時は感じた。
175・・・いや、180近くはありそうだ。
向こうがおれに気付いたかは分らない。
視線は合わせなかった。
まぁ、いろいろあったが・・・
無事に計量をパス。
とりあえず買っておいて常温にしたポカリを飲む。
・・・途端に汗が噴き出してきた。
いかに身体に無茶をさせていたかがわかる。
水分を摂ると、胃も徐々に動き始め、腹も減ってきた。
時間は3時近く。
近くのレストランで軽めに食事を取る。
エビオス、ビタミンB、Cの錠剤も一緒に飲んだ。
水分も徐々に摂り始める。あまり冷たいのは厳禁だ。
これは後で説明するが、内臓の温度や、筋肉に栄養を運ぶための機能の関係である。
電車を使い、地元まで帰る。
早めに帰って食事等に時間が使いたかった。
・・・それと、大変なことに気付いた。
あれだけ水分を摂ったというのに、家に帰るまでにまったく小便が出てこなかったのだ。
家に帰り、まずしたことは水分の補給である。
熱い紅茶に蜂蜜をたっぷりと入れる。
それをゆっくりと1,5リットル飲んだ。
内臓が温まってきた感じがする。
ここでやっと小便が出てきた。
だが、想像以上に量が少ない。
・・・まだ水分が足りないのか?
夕食はごはんに味噌汁をかけたおじや風のものを食べた。
満腹になるぐらいまで食べた。
ここでまたエビオスとビタミンB、Cの錠剤を一緒に飲む。
そして、少し落ち着いたらまた熱い紅茶に蜂蜜をたっぷりと。
これは1リットルほど。
水分は摂りすぎるということはない。
身体が温まり、汗が噴き出して来るのがわかる。
小便もだんだん正常の量に近づいてくる。
寝る前には風呂に入って身体を温める。
ここで、100%果実ジュースを水で薄めたものを風呂場に持っていく。
これを風呂に入りながら飲んだ。
汗をかき、そしてすぐに水分を補給する。
サイズダウンした筋肉に水分を与えていく作業、だとおれは思っている。
減量の最後に水分を絶つと、筋肉から水分が失われる。
傍から見てもわかるほどサイズダウンするのだ。
それは水分である。
身体から、というよりは、筋肉から失われるのだ。
おれはそう、思っている。
つまり、サイズを戻すには、一旦また筋肉に水分を送り込む必要があるわけだ。
水を送り込むには?
当然水分は必要だ。でもそれだけじゃあ足りない。
1日で戻すためには、水分や栄養を筋肉までまわす必要がある。
その方法は何か?
それは、汗をかくことだ。
汗をかくことにより、全身の細胞隅々まで水分と栄養が行き渡るのだ。
これは感覚的なものだ。おれがそう思っているだけなのかもしれない。
専門的な知識で言えば、もしかしたら違っているのかもしれない。
でも、おれはそう、思っている。
内臓の温度を高めることは、体調を戻すのにとても大切なことだと思う。
摂る水分も、極端に冷たいものは避け
体温に近いか、それより高い温度のものをたくさん飲んだ。
寝る前の体重は、計量時より4、5kgは増えていたと思う。
とうとう、明日。
数ヶ月、明日の試合の為に頑張ってきた。
・・・・いや、7年間だ。
明日たった12分間戦うためだけに、これまでの7年間はあったのかもしれない。
それほどの試合だ。
・・・おれは、怖いのか。
わからない。
わからないが、震えが、止まらなかった。

何故、ボクシングなのか。
何の為に、毎日、人を殴る練習をしているのか。
その気になれば、素手で人を殴り殺す事の出来る拳である。
それを、毎日。
毎日だ。
身体を休めるための休日でも、まったく身体を動かさなかったことはない。
相手を想定して、シャドーボクシングをする。
シャドーだからといって、何も殴らないわけではない。
空気を、殴るのだ。
そういうつもりで、やる。
軽めと全力をあわせ、6R。
サンドバックを殴る。
全力で、殴る。
肉の中の力、全てを出し切るつもりで、だ。
それを6R。
ミットを殴る。
これはスピードを中心に。
そしてフォームを意識して。
これも出来れば6R。
そしてスパーリングで人を殴るのだ。
・・・殴るだけではない。
こちらも殴られる。
相手を殴るための術を磨き
相手から殴られないようにする術を磨くのだ。
4Rほど行う。
毎日やってはダメージが残るので
マスボクシングなどを変わりにする場合もある。
だが、毎日どちらかは必ずやる。
リングで相手と動くことが、上達の近道なのである。
毎日、何かを殴る。
これが試合前の基本メニューだ。
あとは、筋力トレーニングや縄跳びをやる。
バーベルなどの器具は使わない。
すべて自分の体重のみを使う。
今回は、首と下半身のトレーニングを中心にやった。
打たれ強さと、フットワークの強化のためだ。
試合まで数ヶ月間、このメニューをこなした。
12分。
たった、12分のためだけに。
ボクサーはその数分の為だけに
数ヶ月前からトレーニングをおこなうのだ。
そして、その努力がむくわれるとは限らない。
○月×日
空は、晴れていた。
快晴と言ってもいい。
なのにおれの気分は晴れない。
心の中に、何か引っかかるものがあった。
何だこれは。
・・・そうだ。
今日は、おれの試合がある。
試合当日
朝、7時。
自分の身体の感覚を確かめるために、軽く動く。
さすがに体重が増えたせいか、幾分身体が重い気がする。
だが、これでいい。
体重は、拳に乗る。
動けるなら、体重は重ければ重いほどいい。
増えた分だけ、拳の威力が増すからだ。
そして、耐久力も増す。
フットワークとスタミナ、スピードを重視するか。
体重を増やし、パワーとタフネスをとるか。
これは自分のボクシングにあった方を選ぶべきだ。
アウトボクサーが体重を増やしすぎると、フットワークが鈍る。
ファイターの場合、体重が相手に負けていれば押し負けてしまう。
当日、自分にあった体重にした者が
より勝利に近づくわけだ。
そして、今回のおれはそれに成功した。
8時。
朝食は、昨日のおじやの残りを温めて食べた。
胃の感じも、元の減量前の状態に戻っている。
今日はもう、それほどは食べない。
食べるのは試合に勝ってからだ。
風呂で身体を洗う。
髭を整える。
体調は万全だ。
試合前に、これほど気力が充実しているのは久しぶりかもしれない。
いつも、減量に失敗していた。
前回の試合。
フェザー級での試合だ。
体重を、57kgあたりまで落とした。
階級を下げれば、おれの拳に耐えられるやつなどいない。
そう思っていたからだ。
結果的には、フェザー級での試合は失敗だった。
体重がほとんど戻らなかったのだ。
水分で、おそらく3kgほど落としたにもかかわらず
体重が2,5kgほどしか戻らなかった。
身体が食事をほとんど受け付けない。
水分が筋肉に戻らなかったのだ。
試合では、身体が動かなかった。
スピードが落ち、パワーが落ち、スタミナもタフネスも落ちた。
それなのに相手の方がリーチもスピードも上なのだ。
結局、打たれ弱くなったおれは
相手の右ショートで倒されてしまった。
前のめりに、倒れたらしい。
記憶を失ったわけではないが、自分では自分の姿は見えない。
友人の話では、一瞬正座をした形になったらしい。
それが、死ぬ気で体重を落としてまで出た、フェザー級での試合だ。
だが今回は違う。
1回、体重を上げる。
75kgまで上げた。
脂肪だけではない。筋肉も増やした。
そこから徐々に脂肪だけを落としていく。
残ったのは、肉だ。
絞りに絞りぬいた、肉だけだ。
試合1ヶ月前に、ジムでのスパーリング大会があった。
ここで、おれはウェルター級の相手と戦った。
相手はウェルター級で何戦も戦ってきたプロだ。
おれと同じ4回戦だが、勝ち星はすべてKOだという。
おれは、通用しないと思っていた。
倒されると、そう、思っていた。
だが、いざ戦ってみると、そんなことはなかった。
相手の拳が、避けられる。
もらっても、倒れるほどのダメージがない。
おれの拳が当たる。
相手が、効いている。
スパーは、判定負けだった。
だが、通用した。
おれのボクシングが、ウェルター級相手に通用したのだ。
おれは、弱くはなかった。
・・・いや。
おれは、自分が思っている以上に、強いのではないか。
そして、今回の試合。
もしかしたら、最後の試合になるかもしれない。
だからこそ、ベストの体調で試合に望めるのは嬉しかった。
半日後には、もう試合は終わっているだろう。
その時、おれはどうなっているのか。
考えるのが、怖い。
リングに上がるのが、怖い。
負けるのは、もちろん怖い。
だが、それよりも・・・
ボクシングを辞めることのほうが、怖かった。
負けたら、辞めねばならぬだろう。
辞めたくない。
ボクシングを、辞めたくない。
これで最期になど、出来るはずがない。

昼 2時。
今日の試合は後楽園ホールで行われる。
そこまでは、こちらでバスを借り、それに乗って行く。
それほど大きなバスではない。
小さなバスだ。
応援に来てくれるおれの親、親の知り合い、友人、ジムの知り合いも
みんな一緒にバスで後楽園ホールへと向かう。
バス代は半分は自腹である。
応援のために来てくれる人たちにも、少しばかり払ってもらう。
電車代を考えれば、行き帰りの分安くつくだろう。
それでも、金を払って見に来てくれるのだ。
恥ずかしい試合は出来ない。
・・・いや、負けられない。
トレーナーの黒沢さん(仮名)は、今回おれが負けたら丸坊主にするとまで言っている。
黒沢さんの丸坊主は少し見たいが、それとこれとは話が別だ。
バスが来る時間は2時30分の予定だった。
・・・しかし、バスが来ない。
予定の時間なのに、バスが来ないのだ。
今日の試合。
おれは第一試合だ。
6時には確実に試合が始まる予定である。
その時間、いや、その前には試合の準備をしていなければならない。
バンテージを巻き、試合の服装になり、アップを済ませる。
・・・問題はバンテージとアップだ。
バンテージは拳を守るために巻く布のようなものなのだが
試合で巻くときは特別な新品を使う。
そして、時間がかかるのだ。
一人で巻けるものではない。
テーピングとバンテージを交互に使う、特別な巻き方だからだ。
トレーナーごとに巻き方もまちまちである。
そしてアップ。
これはミット等で体を動かし、汗をかき心拍数と体温を高めておく作業だ。
アップが成功するかどうかで、試合の動きも格段に違ってくる。
人は、直腸の温度が38度の時が一番良い動きが出来る。
そのためにアップはかならずやるべきだ。
そのあと2、3Rほど、息を整える時間も忘れてはならない。
これらを余裕をもって済ませるために
最低でも試合の1時間前、5時より前には後楽園に着きたい。
地元から後楽園ホールまでは、だいたい2時間ほどで行ける予定である。
しかし、それは道が混んでいなければの話である。
もし、混んでいたら・・・・
・・・結局バスが来たのは、予定より7分ほど遅れた時間だった。
しかもこのバス、かなり揺れる。
普通の道路ですら、揺れる。
内装からして、かなりの年季が入ってるバスなのは間違いない。
果たして、このバスで本当に高速道路が走れるのか心配だ。
揺れるバスの中で、後輩や友人と談笑しながら
おれは過去の試合のことを思い出していた。
後楽園ホール。
言わずと知れた、ボクシングの聖地だ。
おれはここで、過去4回戦っている。
全て、負けた。
そのうちの3つは、TKO負けだ。
一つ目はデビュー戦。
生まれて初めてダウンを食らった。
右ストレートを顎にもらい、見事なまでに後ろにすっ飛んだ。
今思えば、これが、この後楽園ホールとおれの
因果めいた関係の始まりだったのかもしれない。
このリング、良い思い出がまったくといっていいほど何も無いのだ。
フェザー級での試合。
おれは覚悟を決めて試合に臨んでいた。
いつも、このリングでは良い結果を残せない。
もしかしたら、おれの心の奥底。
そこに何か、トラウマのようなものが残っているのではないか?
後楽園ホールのリング。
もしそこで、そういうものを感じて、うまく動けないのだとしたら・・・
おれは、ボクサーとして終わりだろう。
プロのリングで、動けない。
そういうことは、ある。
スパーリングでの動きが、うまく試合で出すことが出来ない。
そういうことは、よくあるのである。
一つの勝ちが、選手を開花させる。
一つの勝ちで、見違えるように強くなる。
そういうことが、ボクシングに限らず、スポーツにはあるのだ。
自信は、強さだと、おれは思ってる。
自信のある選手は、強い。
打ち合いでも、自分の拳に自信を持っている。
そういう拳は、強く、硬い。
逆に。
たった1回の負けが、選手生命を終わらせてしまうこともある。
パンチアイ。
相手のパンチに恐怖した記憶が、身体にすり込まれる。
手が顔に近づいただけで、異常な反応が身体に現れてしまう。
そうなったら、もう、終わりだ。
選手としては使い物にならない。
おれはそこまではいかなかった。
スパーリングも出来る。
地方の体育館等でやる場合のプロ試合なら
おれもそれなりに動け、勝ち星もあるのだ。
ただ、後楽園ホールのリングだけは・・・
おれは、あのリングで、まともに戦えるのか。
本当に自分の力を出すことが出来るのか。
フェザー級での試合は、それを確かめるための試合だった。
もし、この試合でまともに動けなければ、おれは終わりだろう。
そういう試合だった。
そして、負けた。
身体も動かず、無様に倒され。
リングに、全てを否定された。
そう感じた。
控え室で、おれは引退することを決めた。
このリングで戦えないなら、もうボクシングをやっている意味が無い。
黒沢さんにも、そのような意味の言葉を伝えた。
黒沢さんは、何も言わなかった。

もう終わりだ。
もう、プロのリングに上がることも無い。
苦しい減量に耐え、皆に、おれの無様な姿を見せることも無い。
これで、おれのボクシングは終わりなんだ。
そう、思っていた。
1日目は、何も無かった。
おれの中には、何も無かった。
2日経ち、3日経ち。
おれの中に、何かがくすぶっていることに気がつく。
本当におれは、これで終わりなのか?
本当に、あの時のおれの動きは、後楽園のリングだけが原因だったのか?
今思えば、体調は最悪だった。
体重を、57kg前後まで落とした。
計量を終えて、一晩たっても、おれの体重はほとんど戻らなかった。
おれは、タフなほうだ。
デビュー戦で倒されてから、首を鍛えた。
それからは、TKOはあってもダウンしたことはない。
だが、今回の練習では、首のトレーニングをおろそかにしていた。
というより、筋力トレーニング自体をほとんどしていなかった。
脂肪を削った。
脂肪だけでなく、筋肉まで削る必要があった。
そんなことをしていれば、打たれ弱くなるのは当然だろう。
おれがフェザー級で戦うということは、そういうことだ。
減量が進むにつれ、後輩にもスパーで打ち込まれるようになる。
サンドバックやミットを殴るスタミナがない。
けれどそれも、計量が終わるまでの辛抱だと、そう思っていた。
飯を食い、水分を摂れば、身体の調子は戻ってくると。
・・・しかし、それは幻想だ。
試合前に減量で失敗した選手が、試合で勝つ。
そのようなことは、実際にはほとんど無い。
試合前に動けなかったら、試合でも動けないのがほとんどだ。
それが、今回のフェザー級での試合だったのではないか。
本当に、あれで判断していいのか。
あの、最悪の体調の試合で。
おれのボクシングを、あんな試合で終わらせていいのか。
言い分けかも知れない。
だが、おれは思う。
やめなくてすむ言い分けなら、おれはいくらだってついてやる。
言い分けでやめなくてすむなら。
いくらだって、おれは言い分けをするさ。
・・・・おれは、自分に、最後のチャンスを与えた。
そして、今回の試合。
今度こそ、言い分けは出来ない。
体調はベストだ。
ベストだが、相手もでかくなっている。
だがもう言い分けはしない。
おれには、この階級しかないからだ。
フェザー級でも、主戦場のライト級でも。
今思えばベストの体調ではなかった。
アマチュアでは、ライトウェルター(64kg)でやっていた。
その時より、おれの身体は大きくなっている。
無茶をさせていたのかもしれない。
ほかの選手で言うなら、おれはフェザーやスーパーフェザーの身長だ。
・・・しかし。
ライト級ですら、180cmの選手は居る。
結局は体重を変えようが、相手のリーチはあまり変わらない。
パンチ力は当然違うが、それはおれも同じことだ。
ならば。
動けるほうでやるしかない。
それがこの階級だ。
下げるという選択肢は、無い。
相手が強かろうが、おれ自身が弱くなるよりははるかにマシだ。
もうあんな試合はしたくない。
客は、試合でしか判断できない。
練習でいくら動けようが、客は試合しか選手の力を判断する機会が無い。
あんなものか、と。
おれは、そう思われるのがたまらなかった。
全てを出す。
この階級しかないのだ。
だから、言い分けは出来ない。
バスで高速道路を走っている。
揺れる。
本当に、揺れる。
乗客がいっせいに片方に体重を寄せたら
バスが傾いてしまうのではないかというほどの揺れだった。
しかしおれはの心は、そんな状況でもひとつの事しか考えられない。
時間だ。
今、4時30分ほどである。
残り30分でつくかどうか。
そういう距離だ。
渋滞していなければいいのだが・・・
4時45分。
不安は的中した。
高速の終わりで道が渋滞していた。
この様子じゃ、のこり15分などではとてもつけそうに無い。
1時間。
それでも第一試合ではきついほうだ。
それが、1時間を切る。
場合によっては4、50分。
もしくはそれ以下。
そんな時間では、まともな準備など出来るはずも無い。
それ以前に、5時20分に試合会場にいなければ、おれは失格になってしまうらしい。
間に合うのか?
おれは、頭の中で色々考える。
・・・40分あれば。
最低でも40分あれば。
当日の体重をむこうで量り、バンテージを巻き、試合の格好になる。
リングシューズを履く。
ファールカップをつけ、そのうえにトランクスを穿く。
あとはグローブをつけて準備完了だ。
そして、この状態であと20分、いや、15分もあれば。
アップをし、そしてそのあとに息を整える時間は十分にある。
そう思うと、おれの気分は楽になった。
5時。
当初の予定ならとっくについている時間帯だ。
距離的には、もうちょっとなのだ。
後楽園ホールまで、道がすいてるなら10分もかからない距離である。
しかし。
こういうときに限って車の進みは遅い。
遅いのだが。
おれは自分でも信じられないほど冷静だった。
40分。
その時間さえあれば、おれはやってみせる。
そう、決めていたからだ。
結局、後楽園ホールに着いたのは
5時20分より少し前であった。
5時20分までに後楽園ホールにいなければならない。
ぎりぎりの到着となった。
ここまで来て、棄権という事態だけは避けられたが
試合まで、あと40分しかない。
急いで、当日計量を行った。
後楽園ホールの試合では、当日も計量がある。
これは基本的には上限は無く、いくら増えていても大丈夫なのだが
あまりに増えすぎると階級を上げるようにきつく注意されるのだ。
世界戦では、軽量級でも7kg程増やす選手もいる。
日本は、最近でこそ正しい減量法について海外に追いついてはきたが
まだ体重の正しい増量法などは、確立はされてはいない。
選手個人に任せるしかないというのが現状だ。
体重が増えれば、基本的なパワーは増す。
それが脂肪であれ、筋肉であれ、だ。
打たれ強くもなる。
ただ、アウトボクサー等でフットワークを使う場合は
体重を増やしすぎるのは考え物だ。
3kg体重が増えただけで、身体の感覚はまったく違うものとなる。
減量からの増量は、そこが難しいところなのだ。
当日計量の結果、おれは体重が4kgほど増えていた。
この階級なら多すぎず、少なすぎずと言ったところか。
予想では、もっと増えていると思っていたのだが
水分は増えるのも早いが、減るのも早いらしい。
まぁ、栄養は十分身体に行き渡ったのでよしとする。
残り時間は30分と少し。
おれは、急いで小便を済ませた。
体内に小便が残っていると、殴られて、気絶したときに
おもわず漏らしてしまうことがあるからだ。
腹を殴られたときも、体内に水分があると無いとでは
パンチの効き具合も変わってくる。
水分があったほうが、当然苦しい。
水をたくさん飲んだ後に、腹を叩かれる事を想像してもらえれば、解り易いと思う。
・・・正直な所。
緊張していたのもある。
前、後楽園ホールで試合をしたときは
緊張して、何度も便所に行った。
何度もだ。
便所に行っても、小便が出てこないないのだが
すぐにまた、出そうになるのだ。
でも出ない。
そういうことが、試合まで続く。
だが、今日はそういうわけにもいかない。
もう時間が無い。
ファールカップをはめてしまったら、もう用を足しには行けない。
脱いでる時間も、無い。
残り時間はちょうど30分。
黒沢さん(仮名)が、急いでバンテージを巻く。
いつもより早い。
今まで巻いていた手順とも、少し違う感じがした。
「大丈夫だ、間に合わせっかんな。心配しなくてもいいぞ」
黒沢さんなりに、おれを気遣ってくれてるらしい。
「はい、20分あれば、大丈夫です」
「おう、大丈夫だかんな」
ちょうど巻き終わったとき、残り時間は20分ほどだった。
「おーし!急いで上にアップしにいくぞ!!」
「はい!!」
上、というのは、リングに向かう途中の階段の中ことである。
基本的に、選手はここを通ってリングのあるフロアまでいく。
選手の控え室はそんなに大きくは無い。
興行側の選手の控え室は、それなりの広さがあったりするのだが
まぁ、普通はその階段の中や、リングのフロアの隅でアップをする。
階段の中はそれなりの広さがあり、他の選手もアップをしていた。
ここで言うアップとは、おもにミット打ちのことだ。
選手は試合前にリングにあがり、シャドーをし、調子を確かめるのだが
今日のおれにはそんな時間はなかった。
もう、試合を出来る格好になっている。
バンテージのうえからグラブをはめ、テーピングを済ませた。
ファールカップを下着の上に着け、そして試合用のトランクスを穿く。
靴下を履き、シューズを履き、しっかりと紐をしめ
その紐が解けないようにテーピングで巻いてしまう。
もう、この格好になったら逃げられない。
グラブがあるので、水もトレーナーに飲ませてもらうしかない状況だ。
もう、逃げられない。
軽くストレッチをしたあと、シャドーをした。
1Rほどだ。
入念にやる時間も無い。
その後すぐに、黒沢さんにミットをもってもらった。
一度息を上げきるまで、休憩を入れている時間は無い。
身体は幾分か重たかったが、パンチの威力は、今までで一番あるのではないか。
ミットから返ってくる感触で、そう感じた。
今までで、一番重い身体だ。
しかし、脂肪はほとんど無い。
おれが体重を増やしたのは、間違いではなかった。
「いい身体になったな」
黒沢さんが、おれの身体を見ながらそう言った。
選手の練習量は、身体を見ればわかる。
おれがどれぐらい練習をしたのか、黒沢さんにはわかるらしい。
何も言わずとも、自らミットを受け、身体と動きを見れば
そのボクサーがどれだけの鍛錬を積んだかは判る。
どれだけの努力をしたのかは、手に取るように判る。
それが、トレーナーというものだ。
「やっぱり、お前にはこの階級が合ってんのかもしんねぇな」
今までの事も、黒沢さんは知っている。
「うん、その身体で威嚇してやればいいよ」
「マジカナ、その身体見せたら、相手絶対ビビるぞ」
そう言ったのは、一緒にセコンドについてくれる川田さん(仮名)と福田さん(仮名)だ。
セコンドは3人まで認められていて、水出しや、椅子出し、汗拭き
そしてアドバイスや傷の手当などをしてくれる人のことである。
そのうち1人だけが、インターバル中リング内に入る事が許されており
漫画等で選手にアドバイスするのはこの人達の事。
おれの場合、黒沢さんがチーフセコンドというわけだ。
今はミットを終え、ストレッチをしながら息を整えているところである。
みんながこのような事を言ってくれているのも、おれの緊張をほぐすためだろう。
そのせいかは、わからない。
自分の中で、気力が充実しているのがわかる。
息を整えるにしたがい、肉に力がこもってゆく。
スパーリングをする前の感覚に近い。
一番動きが良い時の、スパーリング前の身体の感じだ。
・・・もしかしたら。
理解しているのか。
この試合の意味を。
おれの身体は、理解しているのか。
・・・試合開始まで、1分を切っていた。
後楽園ホール。
いわずと知れた、格闘技の聖地だ。
ボクシング、キックボクシング、プロレス、等々
さまざまな格闘技の興行で使われている。
とくにボクシングの場合、4回戦の試合から日本タイトル戦。
そして、世界タイトル戦まで行われることもある。
そして今、おれはそのリングを踏む
夢がある。
おれにも夢がある。
ボクシングで、世界チャンピオンになること。
中学校の文集にも書いた。
ほとんどのボクサーの、最初の夢であろう。
みんなそうだ。
世界チャンピオンになりたくて、ボクシングを始めるのだ。
おれも、そうだった。
・・・しかし、最初の壁にぶち当たる。
高校時代。
一年生のときだ。
近くの高校の、同じ一年生の奴とスパーをした。
そいつは一年ながら、対外戦でほかの高校の2、3年生からダウンをとったらしい。
スパーは一方的だった。
テクニックの差がもろに出た。
倒されはしなかったが、おれはひどく落ち込んだ。
同い年にこんな化け物がいるのでは、世界なんてとても無理じゃないか。
最初の挫折がここだ。
ちなみに、こいつは3年のときに国体で準優勝している。
なにも知らなかったのだ。
ボクシングは、もっとこう、腕力だけでどうこうなるものだと。
なにも知らなかったころのおれは思っていた。
筋肉だけ鍛えていれば、いくらだって通用する。
そう、思っていた。
しかし、そうではない。
ボクシングは、基礎動作の反復が重要なのだ。
オーソドックスな動きだろうが、トリッキーな動きだろうが
どのような動作も、決められたフォームの反復である。
決められた動きを、どれだけ同じフォームで出来るか。
パンチも、フットワークも、ディフェンスもそうだ。
自分がこれだとおもったフォームをひたすらに反復する。
ボクシングに限らず、スポーツとはみんなそういうものだ。
そもそも、筋肉を鍛えるにも限度がある。
階級が決められている以上、つけられる筋肉の量というものは決まってしまう。
やはり、一番重要なのはフォームなのだ。
パンチ力のスピード、威力、伸び、キレ。
筋肉の使い方、力の入れ具合、抜き具合。
フットワークの足運び、膝の曲げ具合、頭の位置。
そういうものすべてを含めて、俺はフォームと呼んでいる。
ボクシングの強さは、このフォームをいかに試合で正しく出せるかにかかっている。
正しくというのは、教科書どおりという意味ではない。
自分の中で、これと決めて、練習の中で繰り返したフォームのことだ。
ガードが下がっていようが、顎が上がっていようが
それで相手のパンチをもらわず、自分のパンチを当てられるなら
それは自分にとって最高のフォームなのだ。
おれは、それを出せるのだろうか。
このリングで、それを出せるのだろうか。
後楽園ホールは、満員時で2000人ほど収容できる設計になっている。
それほど広くはない。
だが、密度がある。
人の熱気。
そういうものが、ある。
ライトが独特なのだ。
リングの外では、それほど明るくは感じないが
それはライトがリングに集中しているからだろう。
観客はまばらだ。
3割いるかどうかといったところか。
普通の8回戦がメインイベントで
第一試合の4回戦の試合ではこんなものなのかもしれない。
リングにあがろうとすると、応援が聞えてきた。
「マジカナー!!がんばれよー!!」
一緒にバスで来てくれたみんなの声だ。
おれは、靴に松脂をつけてリングに上がる。
相手がいた。
身長は、思ったよりは高くなかった。
175cmぐらいだろうか。
なにより、あいての表情だ。
覇気がない。
これから試合をするような表情には見えなかった。
「マジカナ、見ろ。弱そうな面してっぞ。」
黒沢さんがおれにそう言った。
たしかに今までの相手のように、リングに上がったときからイケイケというわけでもない。
どことなく、自信のなさげな表情だ。
しかし、おれも人のことは言えない。
ライトが四方から浴びせられる、このリング。
客席から、リングがぽっかりと浮かび上がっている。
リングという空間だけを、しっかりと意識させられてしまう。
客がどうこうではない。
おれは、このリングに萎縮してしまっていた。
相手も、そうなんだろう。
戦績はおれと同じようなものだ。
同じように、このリングで負けたことがあるのだろう。
倒されたこともあるのかもしれない。
そういうさまざまな記憶が、おれたちの邪魔をする。
スパーで出来たはずの動きを、試合では出来ない。
そういうことが、よくあった。
つまるところ、今日の勝負は・・・
どちらが、そういうものに先に打ち勝つか、で決まるのかも知れない。
覇気がないと言ったが、実際には違う。
緊張しているのだ。
本気の、どちらに転ぶかわからない勝負の時
男はああいう顔をする。
負けるかもしれない、しかし、やれねばならない。
そういう顔だ。
おれだって、同じような顔をしているのだろう。
こういう顔の相手と、おれは何度かやったことがある。
ほとんどの相手が、おれと互角の相手だった。
そしてほんのわずかな差で負けるのだ。
だから、油断できないことを、おれは知っている。
おれの肉体は、それを知っている。
それに気が付いたのは
試合が始まってすぐの事だった。
・・・おかしい。
身体にいつものようなキレがない。
ゴングがなって、まだ20秒もたっていないはずである。
ジャブなどのパンチは交わしたが
お互いにまだこれといったクリーンヒットはない。
しかし、おれは、自分の身体の異変に気が付いていた。
足が、動かない。
おれの足が、うまく動いてくれないのだ。
この日のために鍛えたフットワークが、まったく使えていない。
自分を客観的に見ている感覚だ。
まるで実感が無い。
おれの身体か?
本当にこれは、おれの身体か!?
いつも。
いつもそうだ。
後楽園のリングで負けるときは、いつもそうだった。
自分で戦っている実感が無く、身体もうまく動かない。
そして、そのまま無様に倒されるのだ。
それは、負けるたびに悪化していく。
試合前は大丈夫でも、リングに上がると
おれは相手に怯えきってしまう。
負ける。
試合中、そのことしか考えられなくなるのだ。
今日も、そうなのだろうか?
負けるのか。
また負けるのか、おれは。
・・・負けたまま。
このまま、負けたまま。
このリングに負けたまま、残りの人生を過ごさねばならないのか?
弱いボクサーとして、その戦跡を残したまま。
元プロボクサーだと答えれば、当然戦績を聞かれるだろう。
そのとき、おれは、いったいどう答えるというのだ。
戦績は、事実だ。
もう痕は消えることは無い。
負け越している。
黒星のほうが、はるかに多い。
弱いボクサーだったと、自嘲しながら面白おかしく話すのも
それはそれでひとつの人生なのかもしれない。
勝ち星がまったく無いわけでもないのだ。
・・・しかし。
おれは、そんな評価は望んでいない。
弱いボクサーとして、みんなから見られることを
おれは我慢できるわけが無い。
今のジムの現状もそうだ。
おれは、勝てないボクサーだという認識なのだ
「スパーリングではそれなりに強いのに」
「パンチはいいもの持ってるのに」
「あともう少し我慢すれば勝てたのに」
「走れば勝てたのに」
「フットワークを使えれば・・・」
後もう少しでいつも負ける。
それが、おれの周りから見たときの評価だ。
おれはその評価に、うんざりしていた。
おれは、こんなものじゃない。
いつも負けるたびにそう思う。
だからボクシングを続けているのだ。
もしこれが限界だと思うなら。
おれはとっくにボクシングをやめているだろう。
強くなる。
まだ、強くなれる。
そう、思っているから、続けられるのだ。
落とせない。
この試合だけは、絶対に落とせない。
ボクシングをやめるわけにはいかない。
・・・40秒を経過したぐらいだろうか。
おれはふと気づいた。
相手も、あまり攻めてこないのだ。
攻撃はしてくるのだが、そこまで連打をしてはこない。
そして、よく見ればあいての攻撃もかわせる。
おれは、自分のことにしか気が付かなかったが
考えてみれば、あいても同じような戦績なのだ。
おれが怖いということは、相手もおれが怖いのではないか?
そもそも。
本当に勝てない相手なのか?
身長があるのに、どうしてわざわざインファイトを挑んでくるんだ?
どうして、そのリーチを使わないのだろう。
・・・なんだ、このジャブのスピードは?
駄目だよ、そんなわかりやすいジャブを打ってきたら。
顔を左に振り、右のフックを相手に打ち込む。
・・・入った。
相手がのけぞる。
どんどん、おれの思考がクリアになっていく。
気が付けば、おれの膝は立ったままだった。
こんな体制で打った右では、それほどのダメージは与えていないはずだ。
・・・しかし。
動ける。
考えたとおりに、反応できるじゃないか。
そもそも、さっきまでは考えることすらできていなかった。
おれのスタイルの基本的なフォームの、
膝を落とすということすら忘れていた。
しかし、今はもう違う。
取り戻せたのだ。
リングでおれを、取り戻せたのだ。
・・・おれは、小さい。
169cm。
今の階級では、明らかに、おれの身体は小さい部類に入る。
この階級の平均的な身長は、だいたい175cm前後といったところか。
中には180cm以上の選手もいるのだ。
しかも、ただ細いだけじゃない。
戦うために必要な筋肉を維持しつつ、だ。
おれの不利は、もはや明らかである。
しかし。
この階級しかない。
下の階級まで減量しようが、おれが身長で相手を上回った記憶はない。
ならば。
この階級しかない。
ベストの状態で動ける、この階級しかないのだ。
幸いというべきか。
おれは、基本的にはタフなほうだ。
減量さえなく、筋肉を維持できればの話だが。
そして。
この階級で戦うために必要な身体の力。
十分なパンチ力を、おれは持っている。
基本的に、パンチの威力は体重に依存する。
程度の差はあれ、鍛えた人間同士なら
お互いに相手を倒すためのパンチは持っているわけだ。
同じ人間でも、体重によって強さは変わる。
自分のベストの体重は、その階級で試合をしてみるまでわからない。
そして、今日の試合は、それを確かめるための試合でもあるのだ。
相手の身長は、175cm程度。
しかし、そのリーチを生かす戦い方ではなく
なぜか接近戦を挑んでくる。
これが、相手もおれと同じく黒星のほうが白星より多い理由だろう。
人間には、向き不向きがある。
身体が小さかったり、筋肉が少なかったり。
それによって、本来ならばボクシングスタイルを変えねばならない。
おれのように背が低い人間の場合、だいたいファイタースタイルで戦わされる。
近距離で戦うことに特化したスタイルだ。
相手のパンチをかいくぐって、近距離で戦う。
背が高い人間はボクサースタイルだろう。
ジャブやストレートを主力武器とし、相手を近づけさせない戦い方だ。
・・・しかし。
自分のスタイルと、自分がやりたいボクシングが
必ずしも一致することは少ない。
・・・正直な話。
おれは、インファイトがあまり好きじゃない。
基本的には、距離やタイミングの取り合いが好きなのだ。
ようするにアウトボクシングが好きなのだ。
・・・だが。
そううまくいくものではない。
おれは筋肉質な身体だし、リーチも短い。
どう考えてもアウトボクシングが出来る身体ではない。
これは、おれの想像だが。
相手も同じようなものなのかもしれない。
本当はファイターになりたいのに、体格的にボクサースタイルで戦うしかない。
しかし、実際にはこうしておれに接近戦を挑んできている。
人は、自分に無いものをほしがる。
おれの場合は、身長や、リーチ。
おれと違い、背が高く、リーチのある人間も
パンチ力や筋肉がもっとほしい、という場合もある。
結局は、無いものねだりなのだ。
おれが思うに。
自分の体格と、自分のやりたいボクシング。
それがかみ合った人間が、上へ上れるのではないかと思う。
そういう人間は強い。
自分のやりたいことを出来るから、強い。
おれはインファイトが好きではないと言ったが
好きでないことと、苦手なことは別である。
7年間もインファイターとして戦ってきたのだ。
嫌でも身体が覚えている。
展開は、おれのムードだった。
おれのパンチが、うまい具合に相手の顔面へ入る。
・・・しかし。
ひるまない。
相手は、ひるまない。
この試合にかける思いというのは、相手も同じなのだろう。
相手は執拗にボディを攻めてきた。
おれのガードがわずかに下がる。
そこに、相手の左フック。
入った。
まともにもらった。
首を鍛えていたため、それほどのダメージは無いが
おれの中の恐怖が、再び蘇る。
打たれると、いつもそうだ。
もう駄目だと。
気力が萎えかけてしまう。
勝った試合も、楽勝だったことなどは一度も無い。
いつも、ぎりぎりだった。
あきらめかける。
いつもだ。
そして、たまたまそれに打ち勝ち
たまたま勝てただけだ。
もう一度やって、同じ相手に勝てる保証など無い。
試合では、だ。
スパーリングならば、基本的には実力の差が出る。
しかし、試合では・・・
おれは試合で、自分の全力を出せる自信がない。
打たれている。
さっきまではおれが有利に試合を運んでいたのに、もうこれだ。
相手に押され始める。
ガードで防いではいるが、防戦一方だ。
「マジカナァーッッ!!」
黒沢さんの声が聞こえるが、おれにはどうしようもない。
どんどん弱気になっていく。
いままでの記憶が、どんどん蘇ってゆく。
またか。
またお前は、あきらめるのか。
そうやって、また・・・
相手も、ここが勝負だとラッシュを仕掛けてきた。
・・・終わるか。
もう、やめるか。
でも。
どうせなら、思いっきり一発振って。
最後にそれで終わりにしたっていいじゃないか。
ただ、打たれたまま終わるくらいなら・・・
・・・なぁ?
・・・ドムッ!
そんな、音がした。
ダン!とか、バシィ!とか。
ともかく、凄い音がした。

おれの拳が、相手のわき腹に入っていた
つづく。
(モドル)