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この作品「C92「言の葉の歌」サンプル」は「西木野真姫」「にこまき」等のタグがつけられた作品です。

8月13日コミックマーケット92で頒布いたします新刊になります。「言の葉の歌」A...

C92「言の葉の歌」サンプル

水瀬茉莉

2017年7月25日 21:28

8月13日コミックマーケット92で頒布いたします新刊になります。

「言の葉の歌」A5/80P/700円
言の葉の庭パロのにこまきです。
将来に悩む高校生西木野真姫が、ある時の雨の日に出会った、謎の年上の女にこに惹かれて心を通わせていく話。
年の差設定です。27と15です。

一章「雨降る街で出逢う」真姫視点
二章「雨降る庭で語り合う」真姫視点とにこ視点
三章「雨降る歌を口ずさむ」真姫視点
四章「雨降る言葉を泣き叫ぶ」真姫視点とにこ視点
五章「雨降る日に会いに行く」真姫視点
の五章構成になっています。
サンプルでは、一章すべてと、二章の真姫視点を載せています。

本はわくドキセットという実物を見るまで装丁がわからないセットで製本しているので、どうなるかはわからないです……！　なんらかの特殊装丁がつくと思われます。
ぱぴふさん（user/13495970）のイラストを使用した、しおりもつきます。

表紙やサンプル画像→
メロンブックスさん通販→https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=266745
BOOTH通販→https://minasemarin.booth.pm/items/581177

a a a

　梅雨。

　私は、謎めいた彼女に恋に落ちていた。

　言葉にしてしまえば、案外なんてことのないことだけれど、それでもあの時の私にとってはそれが世界のすべてであるかのようだった。

　例えば。

　またね、と呟く声色が好きだった。

　思い出したように、遠くを見つめる寂しそうな顔が好きだった。

　見つめていると、吸い込まれそうな赤い瞳が好きだった。

　いつも整っている、長い黒髪が好きだった。

　大人びているはずなのに、時折見せる子供らしさが好きだった。

　不器用な優しさが好きだった。

　真っすぐさが好きだった。

　隣にいると、何も言わなくても安心できる存在感が好きだった。

　綺麗に澄んだような歌声が好きだった。
　
　ふと見せる、笑顔が好きだった。

　それは、こういう雨の話だ。

　雨と歌。

　それと、恋の話だ。

言の葉の歌

　こういうことを、二ヶ月前、高校に入学する前まで知らなかった。

　制服の裾を濡らす他人の傘、背中に押しつけられる誰かの体温、顔に押しつけられるエアコンの不快な風。

　出来るだけ、他人に触れないように湿ったつま先に力を込める。こんなことがあと三年ほども続くと思うと心底絶望したような気分になる。

　駅に到着したと伝えるアナウンスと同時にホームに人の波が降りていく。大きく息を吸い込んで、雨の匂いがする六月の空気を感じた。

　階段に向かって無心に流れていく人の流れに従いながら、ゆっくりと進んでいく。

　階段を上りきって、雨が降り続けている外を歩く速度を緩めて見上げた。どこからか、舌打ちが聞こえてきたけれど、無視をして、まだ眺めていく。

　子供の頃、空はもっとずっと近かった。だか空の匂いを連れてくる雨は好きだったはずだ。
　でも、今は嫌いになってしまった。

　癖っ毛の髪は跳ねるし、気分は憂鬱になる。傘を持つのは億劫で、濡れた傘も濡れた靴も濡れた靴下は嫌い。

　よし、と思う。

　今日はまた、サボってしまおう。

　いつも、雨の日は地下鉄に乗り換えず、改札を出る。そして、授業をほんの少しだけサボってゆっくりと登校する。

　それがあまりいいことではないということだけしか私は理解していなかった。

　そういう、私の小さな小さな反抗なんてきっと何も世界を変えないと言うことはわかっていたけれど、それでも、そう思うと言葉にならない苛立ちがするりとほどけていく。

　傘を開いて、先ほど出たばかりの駅に向かう人の群れとは逆方向に歩を進める。

　歩く度、雨が傘を叩く。もう濡れるところなんてないくらい濡れているローファーがそれでも、じわりと濡れる。
　ぱらぱらと心地よい音が響く。

　雨の音は好きだな、と思う。

　迷うことなく、歩いて行く。行く宛ては決まっている。ここから少し先の大きな公園だ。

　そこは、平日の午前中は驚くほどに人影がなくて、落ち着く。まるで、自分のためにあるようなそんな錯覚をしてしまうほどには。

　公園に着いて、財布を取り出した。ここは有料だ。たぶん、それも人影のなさの理由の一つだろう。

　小銭入れから百円玉を二枚取り出して、機械に入れる。がちゃり、といってゲートが開いた。その音は静かな公園に妙に大きく響いた。

　緑が広がる小道を歩く。

　息を吸う度、新緑と水の匂いがした。

　辺りを見回しながら歩ければ、アルコール持ち込み禁止の文字が目に付いた。

　アルコール。

　一度だけ、舐めるように少しだけ飲んだことはあるけれど、あまりおいしいとは言えなかったもの。

　あれを大人は喜んで飲むというのだから、よくわからない。

　それでも、酔った頭はふわふわとするというし、雨の憂鬱さを吹き飛ばすにはちょうどいいのかもしれない。

　私がもう少し――そう、あと四つだけ歳を取っていればそんなこともしたのかもしれない。

　今の私は、たぶんそんなことはしないし、出来ない。

　こうやって、雨の誰もいない公園でぶらつくことしか出来ない。

　なんて、とりとめのないことばかりで頭を埋め尽くしながら雨の中を歩く。

　ここは、都会とは到底思えない。だから、好きだ。

　いつもいる、窮屈な世界から少しだけ抜け出せたような気がして、落ち着くのだ。

　違う世界にいるような。

　例えば、自分の普段のことすら、忘れてしまいそうなそういう雰囲気だ。

　結局。

　私は子供にも大人にもなれずにいる。だから、無性にいつでも逃げたくなる。

　自分で自分のことを決めることも、かといって、全てを決めてもらうことも、どちらも同じくらい抵抗があって、嫌悪がある。

　子供と呼ぶにはあまりに大きすぎて、成長してしまっているし、大人と呼ぶにはまだつたない。そんな自分が嫌だ。

　橋を渡って、雨の音が少しだけ変わっていることに気づく。

　雨が葉を揺らすような音。葉から水滴が零れ落ちていく音。

　濡れた葉の間から、いつも雨宿りをしている東屋が見えた。

　いつも通り、ひっそりと佇んでいる。

　けれど、普段と少し――いや、大きく変わっていたのは、そこには人影が座っていたからだ。

　いつもなら先客がいたことなんてないから（特に、後から人が来たことだってないけれど）、驚きながらも近づいていく。

　こんな時間にこんなところにいる物好きの顔を一目見てみたいと、自分のことはあまりに棚にあげた感情を抱きながら。

　近づけばすぐに、東屋の全体と人影が目に入った。

　私服を着た、女の人だった。

　缶ビールを右手に、ストロベリー味のチョコレートを左手に持った、黒い髪の女の人。

　私の足音に気づいたのか、彼女が音もなく顔をあげる。

　一瞬、ほんの一瞬だけ、目が合った。

　私は何故か締め付けるように痛む胸に、もうすぐ雨は止むのかもしれないだなんて理由もなく、そう思った。

[newpage]

　西木野真姫の場合。

　結局、目が合ってからすぐにそらされてしまった。

　いつまでも立ち尽くしているのも変だろうか、と傘を閉じて東屋の中に入る。

そこで、彼女がいつも私が座っている奥側のベンチに座っていることに気づいた。

どうしようかと一瞬に悩んだ末に、見知らぬ彼女を避けるように、いつもは座ることのない少し離れたところに腰掛けた。

　別に自分専用の場所、っていう風にきっちりと決めていたわけではないから構わない。最初にそこに腰掛けたからその後もわざわざ変えることでもないと座っていただけのことだ。

　チョコレートをぱきりとかじる横で、何もせずに黙って座っているのがどうも気まずくて、濡れてしまった鞄の中からノートを取り出す。

　濡れないように教科書と教科書の間に挟んでおいたから、ノートは無事だった。

　安心でため息が漏れた。

　もちろん、勉強用のものではない。時折、浮かぶメロディを書き記しておく用のものだ。

　作曲なんて大それたものではないけれど、それに近いもの。

　完璧に趣味だし、頻繁に浮かぶわけではないけれど、見返すだけでも楽しいから、いい暇つぶしにはなる。

　ぺらり、と捲りながらも私はやはり隣に腰掛けている彼女がどうしても気になっていた。

　雨音に交じって、ビールを飲む音とチョコレートをぱきりと割って食べる音が聞こえてくる。
　チョコレートとビール。

　あまり普遍的ではない組み合わせだと、思う。

　甘いんだが、苦いんだかよくわからない。

　そもそも、アルコールは禁止だったんじゃ、なんてぼんやりと思う。別に、私はそういうのどうだっていいけれど。

　無心に、ビールを飲んでチョコレートをただ食べている。そこには何の感情もないような気がして、どうしても気になって目を逸らせなくなってしまう。

　顔はとても整っているはずなのに、どこか彼女はちぐはぐに見えた。

　でも、と思う。

　どこかで、そう、本当にどこかで見たような人だな、となぜだか思う。それでがどこなのか、いつなのかもわからないけれど、ただ、漠然と思う。

　そんなことを考えながら、ぼやりと譜面を追っていると本に挟んであったしおりがはらりと床に落ちる。

　それは、彼女の足元に見事に落ちてしまったみたいで、それに気づいた彼女がかがんで拾ってくれた。

「……すいま、せん」
「別に」

　そのまま、無言で差し出す彼女に黙って受け取るわけにもいかないと口を開いた。少しだけ触れた指先のせいでうまく声が出せなかった。

　やけに、つんとしている人だなと思う。

　別に、わざとだったわけじゃないから気にしないでほしいと言おうとして、やめた。どうしても言い訳じみている。

「あの、」

　何故か私は彼女に向かって声をかけていた。俯いている彼女が顔を上げる。赤く燃える瞳と一瞬、目が合う。

「何、」
「……えっと、どこかで見たことがあるかも、って」

　やっぱり、彼女は突き放すような声色と口調で返事をした。

　何かを言おうと、なぜ声をかけたのかなんてことを言ってみようとしても、どうして声をかけてしまったのか、口にする事は難しく、うまく言葉にできない。

「……会ったことなんて、ないわよ。馬鹿じゃない」
「そう、よね、人違いだわ……じゃなくて、です、」

　彼女は、心底嫌そうな顔をして、そう言った。

　そんなに嫌な顔をしなくてもいいじゃないか、なんて思いながらも、馬鹿なんて言われたことが生まれてこの方一度もなかったせいで、その言葉をうまく呑み込めない。

　ああ、こんなこと言わなきゃよかったと今更思っても仕方ないことばかり頭に浮かんでは消える。

　もう何も言わないでおこうと、視線をまたノートに戻す。やっぱり、中身はあまり入っては来ない。

　少し飛んでいたはずの憂鬱はさっきよりも重く、私に乗りかかる。

　雨だし、こんなふうにうまくいかないし。

「じゃあ、会ってるかもね」

　え、と小さな声が漏れた。

　私は驚いた顔して、彼女を見上げるとさっきよりかは柔らかな表情を浮かべている。

　何も言わない彼女の言葉の代わりみたいに遠雷が響く。

　どうして、と問いかける間もなく、彼女は端に置いてあったピンク色をした傘を開いて、東屋から出て行ってしまった。

　不思議な人だ、と思った。
　それでも、どこか惹かれている自分にまだ、私は気づきたくなかった。

　起きたら、外は嫌になるくらい晴れていた。

　何故か少しだけ――ほんの少しだけ残念な気持ちを抱えながら、布団から出て、リビングに移動する。朝食を食べたら、制服に着替えて、家を出た。

　歩いてすぐの駅から電車に乗り込む。

　別に、毎日毎日馬鹿みたいにさぼっているわけではない。

　晴れた日は、きちんと学校に行く。それに、雨の日でもそこまで憂鬱じゃなきゃ、きちんと乗り換える。

　ああやって公園に行くのは、本当に憂鬱な日だけで、しかもほんの数回しかまだ行っていない。

　だから、きっと。あの人――雨の彼女にはもう会わないのだろう。

　彼女だって、普段は仕事をしているのだろうし、あんなところ何回も通うようなところじゃあないし――。

　そんなことをとりとめもなく考えながら、昨日みたいに改札から出るようなことはせずに、地下鉄に乗り換える。運よく座れて、なんとなく目を閉じてみる。

　親の勧めで入った学校は、地元のなんてない高校で。将来医者になることがほぼ決まっている私には簡単すぎて、それでいて、退屈で、窮屈だ。

　一応、友達は二人だけいて、その二人と会話することだけは楽しいかもしれない、なんてそのくらい。

　晴れた日。退屈な授業を頭に浮かぶ音楽を持て余しながら、いつも考えることがある。

　ここじゃないどこかに、いなければいけない、なんて思う。

　ぴりり、と不愉快な目覚ましの音で目を覚ます。

　目をつむったまま、携帯を掴んでアラームを止めた。もう朝か、と嫌な気分になる。

　うつらとする頭で耳を澄ませば、雨音が聞こえて、飛び起きる。

「雨だわ」

　そう呟いて初めて自分が雨を待っていることに気づいた。

　そのまま、巨大な公園に向かって傘をさして歩く。

　果たして彼女はいるだろうか――なんて思いながら歩くと、この間と同じ東屋に彼女は座っていた。

「……あ、」
「こ、こんにちは……」

　彼女が、そんなことを小さく漏らすから私はとても驚いてしまう。

　彼女が私を覚えていたことに、だ。

とりあえず、何も言わないのもどうかと思って挨拶を返す。こんにちは、じゃなくておはようだろうに、と思ったけれど、もう遅い。

　もう会わないだろうなんて思っていたはずなのに、すぐに会ってしまった。

　というか、これで彼女もたまたま休みでここにいる、というわけではなく、自分の意志で会社をサボり――そして、ここで私と同じように時間を潰していることがほぼ確定してしまっていた。

　しかも、今日もまたビールを飲んでいて、なんというか……ダメな大人、って感じ。

　まぁ、わざわざ話すこともない――そう思って、ベンチに腰掛け、この間と同じようにノートを出し、音符を書いていく。

　雨が不規則に、屋根を叩いている音だけが二人の間に響いていた。

「ねぇ」

　急にそんな風に彼女が声を上げた。ここにいるのは私と彼女の二人しかいないから、おそらく私に向けられた言葉なのだろう。

　まさか、ここに私には見えない――例えば、幽霊でもいるわけでもないだろうし。

「あんた、制服だけど、休みなの？」

　私が返事代わりに顔をあげると、感情の見えない顔で彼女はそんなことを問うた。

　あなたには言われたくない。

「……あなたこそ、会社は？」

　言い返すように、言葉を向けた。

　彼女が砕けた言葉（少々口が悪いともいう）を私に向けるから、私もわざわざかしこまる必要もないだろうと、敬語で話すのはやめた。

「さぼった。一緒でしょ」

　彼女はなぜか驚いた顔を一瞬だけ見せてから、そう言った。

　なんというか、素直に驚いた。

　こんなふうに堂々とサボっただなんて言う大人は初めてだった（私が知っている大人はサボりは悪だとしか言わない）。

　もしかしたら、この人は他の大人よりかは私に近い場所にいるかもなんて思う。

「……で、朝からビールを飲んでいる」

　見たままを解説すれば、彼女がくすりと笑う。そんな彼女に私もつられて笑う。

　ああ、綺麗に笑う人だ。

「ビールだけじゃ、体に悪いんじゃない？」
「あら失礼ね、チョコレートも食べてるでしょう」
「私には到底チョコレートが栄養になるとは思えないのだけれど」

　彼女はビールをまた飲んでから答えるから、思わず反論してしまう。

　本気でチョコレートとアルコールの組み合わせが栄養になるだとか、体にいいだとか思っているなら、少しどうにかした方がいいと思う。

「なるんじゃない？　ならなくてもいいわよ、カロリーになればいいし、つまみみたいなもの」
「ふうん」
「何？　食べる？」

　はぐらかされたなぁ、なんてじっと見つめる私の視線を勘違いしたのか、それとも意地悪か彼女は鞄に入っているチョコレートを両手で持って私の前にかかげた。

　両手から零れ落ちたチョコレートがベンチにばらばらと落ちる。

　思わず、うわ、なんて声を漏らしてしまう。

　さすがにちょっとこの人は本気でやばい人なのだろうか、なんて心配してしまう。

「……遠慮しておくわ」
「あ、今、私のことやばいやつだなって思った？」

　引いた顔をすぐに無表情に直して、答えると、彼女は意地悪そうに笑った。

　あまりに図星をついてくるものだから、心臓がどきりと音を立てた。

　すぐに違います、とは言えなかった。

　まぁ、図星だから言えるはずもないんだけれど……。

「……そんなこと、ないけど」
「別にいいわよ」

　否定をすると、彼女は本当にどうでもいいとでもいうような顔で、雨で揺れる葉を見つめて、吐き捨てるように呟いた。

「どうせ人間なんて、みんなどこかちょっとずつおかしいんだから」

　じっと、見つめるとやっぱり彼女は感情が読めない顔をしている。

「……そういうものかしら？」
「そういうものよ、あんただってこんなふうにここにいる時点でおかしいでしょ」
「そっんなこと……ある、けど」

　確かに、そうかもしれない。

　私のことをまったく知らない他人から見れば、私も彼女のような人間に見えるのだろうか。

　それはとても愉快なことだと思った。

　
　ふと、空を見上げると雨は先ほどより小降りになっていた。時計を見れば、そろそろここを出ないといけない時刻だ。

「じゃあ、そろそろ行くわ」

　私はゆっくり立ち上がって、彼女に言った。

「これから学校ってわけ？」
「まぁ……。さすがにサボるのは雨の日の午前だけって決めてるの」

　彼女が少しだけ目線を上げて、これもどうでもよさそうに問い掛けた。

　持ってきた赤色の傘を開く。これから学校に向かうと思うと不思議と鞄が重く感じられる気がした。

「ふうん、中途半端に真面目なのね」

　真面目さが嫌でサボっているんだけれどね――とは言えず、そうかもね、なんて返す。

　確かに、中途半端だ。

「じゃあ……また会うかもね。雨が降ったら、もしかしたら」

　彼女が、東屋を出た私の背中に言った。

　まるで、それはお互いがそれを望んでいるかのような、言葉だった。

　その日が関東の梅雨入りだったと、私は後になってから、知った。

　また会うかもね、なんて彼女は含みのあるような、そんなことを言っていた。

　そんな彼女の言葉をいつだって思い出してしまうのは、この間宣言された、関東の梅雨入りのせいだと思う。

　あの日以来、空は梅雨入りという言葉に従うように毎日律儀に雨を降らせている。

　だから、私も律儀にあそこに向かい、そして、彼女と顔を合わせ、時には語り合っている。毎日、だ。

　お互いが本を読み合って、ほとんどしゃべらないような日もあったし、一日中あそこで延々と、とりとめない――時間がたてばすぐに忘れてしまいそうな話をすることもあった。

　そんな風に、毎日を過ごしていた。

　彼女と一緒にいると、重くなった鞄が軽くなるような気持ちにいつもなって、それはきっと嬉しいのだろうけれど、同時に心は落ち着かない。

　クリスマスの朝とか、自信のあるテストの返却日とか、そんな形容しがたいものによく似ている。

　しかし――。
　どれだけ雨が、水が降るのだろうなんて答えなんて見つかりっこないことを考えてみる。

　灰色の空は飽きることなく、雫を落とし続けている。少しくらいは休んだっていいのに、と思うのと同じくらいに雨が止まないでくれと願っている自分に驚く。

　あんまり気づきたくない、考えたくないことだな、と歩みを早める。そうしていると、濡れた葉の奥にすっかり見慣れてしまった東屋が見えてくる。

　私に気づいた、彼女が手を振っている。

　すっかり、私たちはそういう関係になってしまったのだと、これもまた形容しがたい感情が雨のように降った。

「ねぇ、やっぱり私思ったんだけれど」

　今日はどうやら話をする話らしく、やけに機嫌のよかった彼女の話に付き合わされてから、私はきりのいいところでこの間からずっと思っていたことでも話そうかと切り出してみる。

「何？」
「それってやっぱり、いろいろと体によくないと思うのよね……」

　私はそう言って、彼女が左手に持っているチョコレート（今日はミルクチョコレート。ちなみに右手には当たり前のようにビールがある）を指差した。

　へんてこな組み合わせは、あの日だけかと思っていたのだけれど、彼女は来る日も来る日もチョコレートの味が変わるだけの同じ組み合わせだった。

　というか、それ以外食べているところを見たことがない。

「そう、かしら」
「そうに決まってるじゃない。そんなものばかり食べてたらあなた体壊すわよ……」

　まるで、よくわかっていないような彼女の態度に溜息を吐きたくなる気持ちを抑えながら、言葉を向ける。

　自分なんてどうでもよい、みたいな彼女の態度はどこかで共感できるけれど、だからこそ心配になる。このまま、何も言わないでいると本当に何もかも壊れてしまうんじゃないかって、そう思う。

「なら、あなたがお弁当でも作ってくれたらいいんじゃないかしら、遅い朝ごはんとして、一緒に食べましょうよ。どう？」
「……無理よ、私、料理出来ないの」

　いいことを思いついた、みたいな顔をして彼女はチョコレートで私を差した。申し訳ないけれど、それは断るしかなさそうだけれど。

　彼女に言った通り、私は料理が出来ない。

　というか、生まれてこの方料理なんてまともにしたことがないし、これからも必要に駆られない限りはしないつもりだ。
「え、あんた料理も出来ないの？」

「……そういうあなたはどうなわけ、」

　驚いた顔をして、すぐに馬鹿にしたように彼女は言った。どうも悔しくて、私は問い掛けてみる。

　正直、そんな食生活をしているような人が料理が出来るとは思えないし。

「残念。私は料理はむしろ得意な方よ」

　私のそんな言葉に笑ってから、彼女が自慢気に言った。

　じゃあ、どうして――なんて言葉が浮かんだけれど、すぐに喉の奥にしまい込んだ。きっと、事情があるのだろうということは聞かなくてもわかっていたし。

「へぇ、じゃあ、あなたが自分で作ってきたらいいでしょ？　私に振舞ってよ。明日にでも」
「何、食べてみたいって？」
「……んまぁ、少しは」

　にやにやと彼女が問うから、これも悔しくて、素直に答えてみる。

　まさか、素直に頷くだなんて思っていなかったのか、彼女は驚いた表情を浮かべる。

　そんな顔をして、わかった、なんて彼女が頷いたところでその日はお開きになった。

　次の日も雨が降って、私はいつもの東屋に向かった。

　あの口約束が本当ならば、今日あそこに向かえば、私の分も含めたお弁当があるのだろう。
　そう期待しながらも、諦めている自分もいる。

　あの人は、割と自分で口にしたことをすぐに忘れてしまう傾向にある。何度か顔を合わせるうちに、そういう人なのだとわかってきた。

　そもそも、平日の昼間からお酒を飲んでいるような人間なのだ。口にすること、全てを真に受けていたらこちらの身が持たない。

　酔っぱらいの言葉に意味なんてない、くらいを思っておかないときっと振り回され、疲れてしまうだけだ。

　東屋に着くと、また今日も彼女がいて、うれしく思っている自分を嫌に思いながら近づく。

「はい、これ、サービス」

　おはようよりも先に、あまりに唐突に言われて目を上げると彼女は近くでよく見かけるコーヒー屋のテイクアウトのコーヒーカップを差し出していた。

「……は？」
「……飲むかってこと！」

　私が呆けた声を出すと、少し照れたように彼女がもう一度差し出した。自分で言った冗談に自分で勝手に照れている。

　じゃあ、言わなきゃいいのに……。

「え、ああ、もらっていいならもらう、けど……」
「もらって」

　この人は冗談なんて言うのかと驚きながら、戸惑いの言葉を返してから、差し出してきたコーヒーカップを受け取った。まだほんのりと暖かい。

「サービスなのね？」
「……うるさい」

　意地悪に笑うと、彼女は本当に照れたように同じコーヒーカップに口付けた。

　こんなふうに、そう、誰かのことを愛おしいと思ったのは初めてで、くすぐったいような心持ちになる。

　雨とコーヒーの匂いに混じって、彼女の香水がふわりと香った。胸の奥が少しだけ、わけもなく苦しくなる。

　誤魔化すように飲んだ、コーヒーは私にしては少し甘くて、それすらも胸が締め付けられた。

　それでも、彼女はさっきまで照れていたのが嘘みたいに澄ました顔でコーヒーを飲みながら、雑誌を読んでいて、無性に腹が立った。

　どうしようもない気持ちばかりを抱えて、私もベンチに腰掛ける。

　まるで、雪女みたいだと、何度目かわからない感想を横目で盗み見た彼女に思う。いや、まぁ、気候的には雨女なのだけれど。

　肌は病的なほどに白く、触れたらきっとひんやりと――そう、雨のように冷えているのかもしれない。首も肩も腕も、なにもかも折れてしまいそうなほど華奢だ。

　雨の日だっていうのに、綺麗に整っている黒い長い髪に、燃えるような真っ赤な瞳（これは少し雪女的ではないかもしれない）。

　雨の日にはそぐわないヒールが足元を飾っている。まぁ、窮屈なのか今は脱いでしまっているけれど……。

　脱がれたヒールは足元のつま先にひっかけられ、ぶらぶらと揺れている。

　そして、客観的にも――主観的にも美人、だ。あまり人の醜美に興味がない私ですらそう思うのだから、きっと、この人がうつくしいということは間違いなく、揺らぎないことなのだろうと思う。

　どこか、人間らしくないうつくしさは私を嫌になるほど惹きつける。

　そんな彼女のことを最初は、おかしいと――疎ましいとすら思っていた。単に迷惑、とも言える。

　一人になりたいから、学校をサボっておそらく人がいないであろう有料の公園にきているはずだったわけで。

　彼女は毎回ここにいる。だから、ここにさえもう来なければ彼女に会うことはない。そう、わかっているのに、サボる場所を変えようとしない自分の気持ちが、よくわからないままでいる。

いや――きっと、わかってはいるというのに、目を逸らしている。

　避けようと思えば、簡単に避けられるはずの彼女に、もう何日も会っている。むしろ――彼女に会いに来ているだなんていう自分の気持ちを。

　もちろん、彼女が一緒にいて苦痛にならないから、というのはある。黙ってこの距離を過ごせる相手。

　でも、たぶん、それだけじゃあない。それだけなわけがあるない。

　ああ、本当に考えたくないことだ。

「ねぇ、」
「な、なに？」

　そんな風に彼女のことを考えていると、彼女が下を向いたまま私に声を掛けた。考えていることがばれてしまったのかと、少しだけ焦りながら私は顔を上げた.

「おべんと、……作ってきたけど？」
「えっ、本当に！？」

　そう言って、彼女は鞄の中からふたつ、ピンク色のお弁当箱を取り出した。私は一瞬、呑み込めずにそれを眺めて、それから叫ぶような大きな声を思わず出してしまう。

　本当に、私の分まで作ってきてくれるなんて……！

「何よ、あんたは私が昨日したばかりの約束を破るような女に見えてたってわけ？」
「そういうわけじゃないわよ」

　彼女が拗ねたように言う。まさか、そうですというわけにもいかないから、私は否定してみせた。

「まぁ、いいけど……。食べるの？　最近料理なんてしてなかったから、保証はしないわ」
「いいわよ、全然。早くちょうだいよ」

　急かせば、まぁいいけどさ……なんて言いながら、お弁当箱を開く。

　食べやすいようになのか、メインはサンドイッチ。あとはおかずが卵焼きとか唐揚げとかお弁当の定番みたいなものが入っている。

「食べていい？」

　彼女が頷くのと同時に、からあげを口に入れた。もぐもぐと咀嚼する。

「え、美味しいじゃない」

　食べた瞬間、思わずそんな声を出してしまう。

　保証はしない、と言っていたわりに普通においしい。ぱくぱくと、残りの卵焼きやらサンドイッチやらもどんどん食べていく。

「そ」

　彼女は冷たい言葉の割にどこかうれしそうで、きっと、この冷たさは照れ隠しなのだと思うと、どこかくすぐったい。

　まるで、好きな物語を読んだ後のような気分になっている。どうしてか、気持ちが浮き立っている。

　なんだか、無性に腹立つと雨音を聞きながら思った。

「あー！　真姫ちゃんまたこんな時間から来た！」
「……おはよ」

　開きっぱなしになっていた扉から教室に入ると、たまたまその扉の近くで昼食を食べていた凛が私に顔を向けた。

　あーあ。ばれちゃった――なんて思いながら、挨拶をして誤魔化してみる。

　確かにこんな昼休みに登校するのは何度目だろうかと頭の中で数える。

　凛、というのは、私の数少ない友達の一人だ。クラスメイトで、席がたまたま隣だったから、仲良くなった。

私は高校を過ごすにあたって友達なんていらないと思っていたから、予想外というやつ。けれど、ただ隣だという、それだけの理由で最初は冷たい態度もしていた私と友達になってくれた。なんというか、明るくていい子なのだ。

「もうおはようって時間じゃないにゃ！　ねぇ、かよちんもそう思うでしょ？」
「う、うん……確かにもうお昼だからね」

　凛が向かい合って座っていた花陽に同意を求め、声を掛けた。すっかり困ったような様子の花陽は躊躇いがちに頷いた。

　花陽、も私の友達だ。凛とは小さい頃からの友達で、いわゆる幼馴染。

　そんな花陽は凛とは対照的に、大人しい性格だ。けれど、優しいし、芯が通っている。

　普段はあまり自分の意見を口にすることは少ないけれど、それでも確かに譲れない何かがあって、それを侵害されるならきちんと戦えるような、いい子だ。

　まぁ、こんな私と仲良くしてくれる時点で――それだけでいい子なんだけれど。

「ほんとにゃ！　何時だと思ってるの真姫ちゃん！」
「十二時半」
「そういうことじゃないにゃー！」
　ぷんぷんと聞こえてきそうな凛に意地悪も込めて、今の時間を告げると、凛がわかりやすく怒って、思わず笑ってしまう。

　予想通りの反応すぎる。私のために怒ってくれるのはわかるけれど、なんか面白い。

　この二人と一緒にいると素直に楽しい、と思える。何も考えずに素直に笑える。

　それでも、心のどこかでこんなことをしている場合じゃないという気持ちになる。
　馬鹿みたいだ、と思う。

　そんなバカみたいなこと、考えなくていいじゃないか、と本当に心の底から思う。

　それでも。

　本当に馬鹿みたいにそんなことを考えてしまうのは、昔から変わっていない。

　今より、もっと好きなものを好きだといえていた頃から、何も。

　　　＊

　私の家は、両親――祖父母共に医者だ。

　そんな家に生まれてきたら、当たり前のように医者になるための教育が与えられ、医者になるためだけの道が用意される。

　それは当たり前だし、悲しいことでも何でもない。

　だから、私は今もなお、医者になることを嫌だと思ったことはないし、きっと将来は医者になるのだと漠然と思っている。

　けれど。

　小さな頃、私はピアノが好きな子供だった。

　医者のもとに生まれた子供だから、将来は医者になるのが当たり前という窮屈な世界で生きていた私には、ピアノなんて習い事の一つだったし、きっと、息抜きでしかなかったと思う。

　それでも、いつの間にか、息抜き以上の意味を持っていたのはいつからだっただろうか。

　音楽を奏でることが、生み出すことが楽しくなってしまっていたのは、いつからだっただろうか。

　ピアノのコンクールに出たいと望む私に両親は、何の躊躇いも疑いもなく、そうさせた。いいピアノが欲しいと願う私にこれもまた同じように買い与えた。

　きっと、両親も最初の私のようにピアノなんて息抜きの一つにしか思っていなかっただろう。

　ピアノを奏でるのが楽しくて仕方ない私は、勉強以上にピアノにのめりこんだ。頭に降ってくるメロディを奏でる――それだけのことに、私は夢中になっていた。

　音楽に触れることが何よりの楽しみだった。

　ずっと、こうやって音楽に触れていたいと思った。

　中学生になってもピアノに熱中している私を見て、父はそろそろ息抜きなんて終わりにしなさい――そう言った。

　ずっと、わかっていたはずなのに、きっとその頃の私は何もわかってはいなかった。

　だから、ピアノをやめた。

　そうすること以外、私には上手な選択肢なんてわからなかったのだ。

　それからは。

　たまに、思い出したように弾く以外はピアノに触れることはなくなってしまった。その代わり、勉強に集中することにしてしまったのもあるだろう。

　それでも、頭には音楽は振ってくる。

　ならば、と私はノートにそれを書き留めておくことで対処することにしたのだ。　

　それが、あのノート。

　その対処法は、随分私に合っていたようで、頭で浮かんだ音楽を浮かんだとおりに書き留めて、そこで打ち切りにして、勉強ばかりしていた。

別に勉強は嫌いではない。むしろ、好きだ。それでも、どこかむなしいと思ってしまう。

　医者になることが嫌なわけでも、きっと、作曲家やピアニストに本気になりたいと思っているわけでもないのに、どうしても空虚な気持ちが胸を締め付けて、離してはくれない。

　彼女への気持ちみたいに、よくわからないもの。

　最近の私は、そればかりだ。

　　　＊

　今日も雨で、いつも通りに東屋に向かって、彼女と時間を過ごした。時間だから、と東屋を抜けて数分、例のノートを東屋のベンチに置いてきてしまったことに気づく。

　忘れたことにすぐ気づいてよかったと思いながら、今来た道を戻る。気づくのが遅くなっていたら、濡れてしまうかもしれないし、もしかしたら誰かが捨ててしまうかもしれない。

　東屋に戻ると、ノートを真剣に読んでいる彼女の姿が見えて、濡れるのも構わずに走って近寄る。

「あ、ちょ、何見て……！」
「へぇ、あんた、曲作るのね」

　焦っている私なんて気に留めてもいないのか、ノートに目線を向けたまま、彼女はそう言った。

「……そう、だけど」

　ああ、見られてしまった――そう、心の奥の冷たいところで思う。

　きっと、馬鹿にされるはずだ。

「すごいじゃない……。ピアノやってたの？」
「まぁ、前に。もう、やめちゃったけど……」

　見るだけでピアノのものだってわかるのか、と驚きながらも返す。声色から察すれば、すごいという彼女の言葉は概ね本当らしく、それにも驚いてしまう。

　馬鹿にされないことに安心してしまう自分にも。

「ふうん……。こんなに上手ならみんなに羨ましがられるでしょ？」
「そんなことないわ、あなた以外にこんなこと、言ったことないから……」

　そこまで言ってどうして、私は素直に話してしまったのだろうと思う。別にいくらでも誤魔化しようはあったし、今までの私ならそうしてきただろう。

　なのに、彼女には隠すことなく正直に伝えてしまった。

　ふうん、とまた彼女の呟く声が聞こえた。

「ねぇ、この歌ってこんな感じ？」

　そう言って、彼女は微かな声でハミングを奏でる。

　もう一度、驚いてしまう。

　ほぼ音楽の素人という私ですらわかるほどの歌のうまさ。こんな短いフレーズで、簡単に口ずさむだけでそう思わせてしまうのだから、きちんと歌えば相当のものなのだろう。

「驚いた。歌、上手ね」
「そう？　に……私、歌うの。ううん、歌ってた、が正しいけど」
「歌ってた？　今は？」

　そう問えば、わかりやすく彼女が眉間にしわを寄せた。

　あ、きっと、これは触れたらいけないことなんだ、と察してたけれど、もう遅かった。

「今は、……いいえ、歌ってないわ」
「じゃあ、歌ってみてよ。歌を歌うこと自体が嫌いなわけじゃないんでしょう？」

　私がそう言うと、彼女は心底驚いた顔を見せた。まさか、そんな風に言ってくるとは思わなかったのだろう。
　私だって、ほんの少し驚いている。

　でも、どうせ一度聞いてはいけなかったことを聞いてしまったのだ。今更遠慮したって遅いし、それならば気になることを全部まとめて口にしてしまった方がいい。

「そうだけど……」
「いいじゃない、私しか聞いてないのよ。あなたが歌うこと、私だけしか知らないわ」

　私が、彼女を見つめれば、彼女は考えるような表情をしてから黙って頷いた。きっと、歌うことは嫌いじゃないんだろうなと彼女の瞳に思った。

　ただ、何かが――彼女を歌うことから躊躇いを見せる何かが、あるだけだ。

　それを、今だけは取っ払って欲しい。そう思う。

「思っていたより、下手だとか言わないでよ」

　彼女はそう、前置きをひとつだけ置いて息を大きく吸い込んだ。

　そして、彼女の澄んだ歌声が響く。

　やっぱり上手だと、そう思った。

　雨の日とは、きっと正反対の明るい歌が二人の間に響く。歌声が雨音を消して、耳にそれだけが残っていく。

　心地よい、時間だ。

「やっぱり上手ね」
「……そうだと、いいけどね」

　歌い終えた彼女が口を閉ざした直後にそう声を掛ければ、本当に自信がなさげに彼女は答えた。

　そんなわけないのに。

　何がここまで彼女を追いこんでしまったのか、ただ純粋に気になった。

　けれど、それは尋ねてしまったら私たちを繋ぐなにもかもが消えてなくなってしまうような気がして、やめた。

「ねぇ、ところで何の曲なのかしら？　随分明るい曲だったけれど……」

　聞いている最中から気になっていたことを聞いてみる。

普段私はあんまり耳にしないような、そんな歌だ。例えば、そう、アイドルみたいなポップチューン。

どこかで聞いたような気もするけれど、どうだろうか。

「秘密」

　そう笑う、彼女はどこか寂しく悲しそうで私は何も言えなかった。

　それでも、彼女の背負っている何もかもを少しでも軽くしたいと、私は理由もなく思う。

　そして――あの人がたくさん歌いたくなるような歌を作ろうと、ただただ思う。

　次の日。久しぶりに雨は、降らなかった。

　本当はあの人に会いたいと思っていたけれど、雨が降らない日にあそこには行ってはいけない気がして、やめた。

　いつの間にか、いつだってあの人に会うことを望んで――彼女のことを知りたいと思っている自分と、言い訳を作らないと会いにすらいけない自分が頭の中でぐちゃぐちゃになる。

　いっそのこと、答えを誰かが教えてくれれば楽なのに。

「ねぇねぇ。真姫ちゃん、彼氏出来た？」
「は、え、なに？！」

　そんな馬鹿みたいなことを凛が世間話でもするようにさらっと笑いながらいうものだから、思わず、お弁当に入っている口の中に含んでいたミニトマトを吐き出しそうになった。

　真面目に授業を受けて、凛にお昼を一緒に食べようなんて誘われて。いつもは何も言わずとも、一緒に食べているのに変なの――なんて思いながらも、お弁当をつついていたら、こんなおかしな質問をされたというわけだ。

　吐き出しそうになったトマトを咀嚼しながら、これを聞くのが目的だったのかと実に愉快そうな凛を睨んでみる。

「いや、なんとなぁくそうなのかなーって思っただけにゃ。ねえ、かよちん？」
「うん……私もそうかな、って思ってた」

　凛に話を振られた花陽は少し戸惑いながら答えた。

　ひどい。花陽までなんてことを言うのだ！

「あのねぇ……」

　馬鹿じゃないの、と笑い飛ばそうとして、凛の顔を見るとさっきとは打って変わって、やけに真剣そうな顔をしていて、本当のことを言わなきゃいけないような、そんな気持ちが湧いてきた。

　きっと、凛なりにいろいろ考えた上で、今聞いているのだろう。

「別に……付き合ってる人はいない。好きな人もいないわ。でも、……ちょっとだけ、少しだけ好きかもって思う人ならいるかもしれない」
「どんな人？」

　言葉にしてしまえばこんなにあっさりとしているのか、なんて思っていると、凛が簡潔に問うた。

　私は思わず、考えてしまう。

　――どんな人。

　そんなこと考えてもみなかったし、そもそもたくさんあげられるほどに私は彼女のことを知らない。どこでいつも何をしているのかも、年も、名前も、何もかも。

　それでも、好きなのだと思う。私はどうしようもなく、彼女が好きなのだと。

「……なんだか、変な人よ。サボってるの。いつも。それで、チョコレートにビールを飲むの。全く変な人でしょ？」

　――それで、私の音楽を唯一黙って聞いてくれる人。

　飾る必要もないかと、私の思うままに話す。改めて、口にすると本当におかしな人だと思う。こんな人を好きになるような私も大概なのかもしれないけれど。

「でも、真姫ちゃんはその人のこと好きなんだ。それって素敵だね」
「好きじゃないわ」

　花陽が優しく微笑むから、私は恥ずかしくなって、思わず否定してしまう。

「でも、気になってるんでしょ？」
「そうかも、しれない、けど、」

　それでも、やっぱり口にするのは違うのだ。

　そう、口にしてしまえば、何かが変わってしまうと思う。

「でもね、やっぱり、なんだか素敵だなって……私は思うよ」

　そうかもしれないけれど、やっぱり私には理解が出来ない。したく、ないだけかもしれないけれど。

　これ以上、うまく言葉に出来ない私は、微笑みで誤魔化した。

　夜、眠る前。

　朝、目を開く瞬間。

　気づけば、雨を祈っている。

　彼女に会いたいと願っている。

　彼女と会う度、胸の奥がぎゅっと掴まれたように、苦しくなる。無性に、ただ泣いてしまいそうになる。

　こんな感情に名前はないのだろうか。

　彼女と出会う前の自分はどう考えて、何を感じて、呼吸をして生きていたのかさっぱりわからなくなってきている。
　このまま、どうなってしまうのか、いくら考えても答えは見つからないし、わからない。

　ただ、二つだけ――そう、たった二つだけわかるのは。

　私は彼女のために、歌を作りたいということ。

　それと、言葉にしてしまうとなんて簡単で馬鹿みたいに思えてしまうけれど――私は恋に落ちてしまった、ということ。

　それだけだ。

　社会とか、仕事とかあの人が普段いるであろう世界はとても遠い。

　瞳を閉じると、雨の奥で微笑む彼女が浮かぶ。

　まるで世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。

梅雨。

私は、謎めいた彼女に恋に落ちていた。

言葉にしてしまえば、案外なんてことのないことだけれど、それでもあの時の私にとってはそれが世界のすべてであるかのようだった。

例えば。

またね、と呟く声色が好きだった。

思い出したように、遠くを見つめる寂しそうな顔が好きだった。

見つめていると、吸い込まれそうな赤い瞳が好きだった。

いつも整っている、長い黒髪が好きだった。

大人びているはずなのに、時折見せる子供らしさが好きだった。

不器用な優しさが好きだった。

真っすぐさが好きだった。

隣にいると、何も言わなくても安心できる存在感が好きだった。

綺麗に澄んだような歌声が好きだった。
　
　ふと見せる、笑顔が好きだった。

それは、こういう雨の話だ。

雨と歌。

それと、恋の話だ。

言の葉の歌

こういうことを、二ヶ月前、高校に入学する前まで知らなかった。

制服の裾を濡らす他人の傘、背中に押しつけられる誰かの体温、顔に押しつけられるエアコンの不快な風。

出来るだけ、他人に触れないように湿ったつま先に力を込める。こんなことがあと三年ほども続くと思うと心底絶望したような気分になる。

駅に到着したと伝えるアナウンスと同時にホームに人の波が降りていく。大きく息を吸い込んで、雨の匂いがする六月の空気を感じた。

階段に向かって無心に流れていく人の流れに従いながら、ゆっくりと進んでいく。

階段を上りきって、雨が降り続けている外を歩く速度を緩めて見上げた。どこからか、舌打ちが聞こえてきたけれど、無視をして、まだ眺めていく。

子供の頃、空はもっとずっと近かった。だか空の匂いを連れてくる雨は好きだったはずだ。
　でも、今は嫌いになってしまった。

癖っ毛の髪は跳ねるし、気分は憂鬱になる。傘を持つのは億劫で、濡れた傘も濡れた靴も濡れた靴下は嫌い。

よし、と思う。

今日はまた、サボってしまおう。

いつも、雨の日は地下鉄に乗り換えず、改札を出る。そして、授業をほんの少しだけサボってゆっくりと登校する。

それがあまりいいことではないということだけしか私は理解していなかった。

そういう、私の小さな小さな反抗なんてきっと何も世界を変えないと言うことはわかっていたけれど、それでも、そう思うと言葉にならない苛立ちがするりとほどけていく。

傘を開いて、先ほど出たばかりの駅に向かう人の群れとは逆方向に歩を進める。

歩く度、雨が傘を叩く。もう濡れるところなんてないくらい濡れているローファーがそれでも、じわりと濡れる。
　ぱらぱらと心地よい音が響く。

雨の音は好きだな、と思う。

迷うことなく、歩いて行く。行く宛ては決まっている。ここから少し先の大きな公園だ。

そこは、平日の午前中は驚くほどに人影がなくて、落ち着く。まるで、自分のためにあるようなそんな錯覚をしてしまうほどには。

公園に着いて、財布を取り出した。ここは有料だ。たぶん、それも人影のなさの理由の一つだろう。

小銭入れから百円玉を二枚取り出して、機械に入れる。がちゃり、といってゲートが開いた。その音は静かな公園に妙に大きく響いた。

緑が広がる小道を歩く。

息を吸う度、新緑と水の匂いがした。

辺りを見回しながら歩ければ、アルコール持ち込み禁止の文字が目に付いた。

アルコール。

一度だけ、舐めるように少しだけ飲んだことはあるけれど、あまりおいしいとは言えなかったもの。

あれを大人は喜んで飲むというのだから、よくわからない。

それでも、酔った頭はふわふわとするというし、雨の憂鬱さを吹き飛ばすにはちょうどいいのかもしれない。

私がもう少し――そう、あと四つだけ歳を取っていればそんなこともしたのかもしれない。

今の私は、たぶんそんなことはしないし、出来ない。

こうやって、雨の誰もいない公園でぶらつくことしか出来ない。

なんて、とりとめのないことばかりで頭を埋め尽くしながら雨の中を歩く。

ここは、都会とは到底思えない。だから、好きだ。

いつもいる、窮屈な世界から少しだけ抜け出せたような気がして、落ち着くのだ。

違う世界にいるような。

例えば、自分の普段のことすら、忘れてしまいそうなそういう雰囲気だ。

結局。

私は子供にも大人にもなれずにいる。だから、無性にいつでも逃げたくなる。

自分で自分のことを決めることも、かといって、全てを決めてもらうことも、どちらも同じくらい抵抗があって、嫌悪がある。

子供と呼ぶにはあまりに大きすぎて、成長してしまっているし、大人と呼ぶにはまだつたない。そんな自分が嫌だ。

橋を渡って、雨の音が少しだけ変わっていることに気づく。

雨が葉を揺らすような音。葉から水滴が零れ落ちていく音。

濡れた葉の間から、いつも雨宿りをしている東屋が見えた。

いつも通り、ひっそりと佇んでいる。

けれど、普段と少し――いや、大きく変わっていたのは、そこには人影が座っていたからだ。

いつもなら先客がいたことなんてないから（特に、後から人が来たことだってないけれど）、驚きながらも近づいていく。

こんな時間にこんなところにいる物好きの顔を一目見てみたいと、自分のことはあまりに棚にあげた感情を抱きながら。

近づけばすぐに、東屋の全体と人影が目に入った。

私服を着た、女の人だった。

缶ビールを右手に、ストロベリー味のチョコレートを左手に持った、黒い髪の女の人。

私の足音に気づいたのか、彼女が音もなく顔をあげる。

一瞬、ほんの一瞬だけ、目が合った。

私は何故か締め付けるように痛む胸に、もうすぐ雨は止むのかもしれないだなんて理由もなく、そう思った。

[newpage]

西木野真姫の場合。

結局、目が合ってからすぐにそらされてしまった。

いつまでも立ち尽くしているのも変だろうか、と傘を閉じて東屋の中に入る。

そこで、彼女がいつも私が座っている奥側のベンチに座っていることに気づいた。

どうしようかと一瞬に悩んだ末に、見知らぬ彼女を避けるように、いつもは座ることのない少し離れたところに腰掛けた。

別に自分専用の場所、っていう風にきっちりと決めていたわけではないから構わない。最初にそこに腰掛けたからその後もわざわざ変えることでもないと座っていただけのことだ。

チョコレートをぱきりとかじる横で、何もせずに黙って座っているのがどうも気まずくて、濡れてしまった鞄の中からノートを取り出す。

濡れないように教科書と教科書の間に挟んでおいたから、ノートは無事だった。

安心でため息が漏れた。

もちろん、勉強用のものではない。時折、浮かぶメロディを書き記しておく用のものだ。

作曲なんて大それたものではないけれど、それに近いもの。

完璧に趣味だし、頻繁に浮かぶわけではないけれど、見返すだけでも楽しいから、いい暇つぶしにはなる。

ぺらり、と捲りながらも私はやはり隣に腰掛けている彼女がどうしても気になっていた。

雨音に交じって、ビールを飲む音とチョコレートをぱきりと割って食べる音が聞こえてくる。
　チョコレートとビール。

あまり普遍的ではない組み合わせだと、思う。

甘いんだが、苦いんだかよくわからない。

そもそも、アルコールは禁止だったんじゃ、なんてぼんやりと思う。別に、私はそういうのどうだっていいけれど。

無心に、ビールを飲んでチョコレートをただ食べている。そこには何の感情もないような気がして、どうしても気になって目を逸らせなくなってしまう。

顔はとても整っているはずなのに、どこか彼女はちぐはぐに見えた。

でも、と思う。

どこかで、そう、本当にどこかで見たような人だな、となぜだか思う。それでがどこなのか、いつなのかもわからないけれど、ただ、漠然と思う。

そんなことを考えながら、ぼやりと譜面を追っていると本に挟んであったしおりがはらりと床に落ちる。

それは、彼女の足元に見事に落ちてしまったみたいで、それに気づいた彼女がかがんで拾ってくれた。

「……すいま、せん」
「別に」

そのまま、無言で差し出す彼女に黙って受け取るわけにもいかないと口を開いた。少しだけ触れた指先のせいでうまく声が出せなかった。

やけに、つんとしている人だなと思う。

別に、わざとだったわけじゃないから気にしないでほしいと言おうとして、やめた。どうしても言い訳じみている。

「あの、」

何故か私は彼女に向かって声をかけていた。俯いている彼女が顔を上げる。赤く燃える瞳と一瞬、目が合う。

「何、」
「……えっと、どこかで見たことがあるかも、って」

やっぱり、彼女は突き放すような声色と口調で返事をした。

何かを言おうと、なぜ声をかけたのかなんてことを言ってみようとしても、どうして声をかけてしまったのか、口にする事は難しく、うまく言葉にできない。

「……会ったことなんて、ないわよ。馬鹿じゃない」
「そう、よね、人違いだわ……じゃなくて、です、」

彼女は、心底嫌そうな顔をして、そう言った。

そんなに嫌な顔をしなくてもいいじゃないか、なんて思いながらも、馬鹿なんて言われたことが生まれてこの方一度もなかったせいで、その言葉をうまく呑み込めない。

ああ、こんなこと言わなきゃよかったと今更思っても仕方ないことばかり頭に浮かんでは消える。

もう何も言わないでおこうと、視線をまたノートに戻す。やっぱり、中身はあまり入っては来ない。

少し飛んでいたはずの憂鬱はさっきよりも重く、私に乗りかかる。

雨だし、こんなふうにうまくいかないし。

「じゃあ、会ってるかもね」

え、と小さな声が漏れた。

私は驚いた顔して、彼女を見上げるとさっきよりかは柔らかな表情を浮かべている。

何も言わない彼女の言葉の代わりみたいに遠雷が響く。

どうして、と問いかける間もなく、彼女は端に置いてあったピンク色をした傘を開いて、東屋から出て行ってしまった。

不思議な人だ、と思った。
　それでも、どこか惹かれている自分にまだ、私は気づきたくなかった。

起きたら、外は嫌になるくらい晴れていた。

何故か少しだけ――ほんの少しだけ残念な気持ちを抱えながら、布団から出て、リビングに移動する。朝食を食べたら、制服に着替えて、家を出た。

歩いてすぐの駅から電車に乗り込む。

別に、毎日毎日馬鹿みたいにさぼっているわけではない。

晴れた日は、きちんと学校に行く。それに、雨の日でもそこまで憂鬱じゃなきゃ、きちんと乗り換える。

ああやって公園に行くのは、本当に憂鬱な日だけで、しかもほんの数回しかまだ行っていない。

だから、きっと。あの人――雨の彼女にはもう会わないのだろう。

彼女だって、普段は仕事をしているのだろうし、あんなところ何回も通うようなところじゃあないし――。

そんなことをとりとめもなく考えながら、昨日みたいに改札から出るようなことはせずに、地下鉄に乗り換える。運よく座れて、なんとなく目を閉じてみる。

親の勧めで入った学校は、地元のなんてない高校で。将来医者になることがほぼ決まっている私には簡単すぎて、それでいて、退屈で、窮屈だ。

一応、友達は二人だけいて、その二人と会話することだけは楽しいかもしれない、なんてそのくらい。

晴れた日。退屈な授業を頭に浮かぶ音楽を持て余しながら、いつも考えることがある。

ここじゃないどこかに、いなければいけない、なんて思う。

ぴりり、と不愉快な目覚ましの音で目を覚ます。

目をつむったまま、携帯を掴んでアラームを止めた。もう朝か、と嫌な気分になる。

うつらとする頭で耳を澄ませば、雨音が聞こえて、飛び起きる。

「雨だわ」

そう呟いて初めて自分が雨を待っていることに気づいた。

そのまま、巨大な公園に向かって傘をさして歩く。

果たして彼女はいるだろうか――なんて思いながら歩くと、この間と同じ東屋に彼女は座っていた。

「……あ、」
「こ、こんにちは……」

彼女が、そんなことを小さく漏らすから私はとても驚いてしまう。

彼女が私を覚えていたことに、だ。

とりあえず、何も言わないのもどうかと思って挨拶を返す。こんにちは、じゃなくておはようだろうに、と思ったけれど、もう遅い。

もう会わないだろうなんて思っていたはずなのに、すぐに会ってしまった。

というか、これで彼女もたまたま休みでここにいる、というわけではなく、自分の意志で会社をサボり――そして、ここで私と同じように時間を潰していることがほぼ確定してしまっていた。

しかも、今日もまたビールを飲んでいて、なんというか……ダメな大人、って感じ。

まぁ、わざわざ話すこともない――そう思って、ベンチに腰掛け、この間と同じようにノートを出し、音符を書いていく。

雨が不規則に、屋根を叩いている音だけが二人の間に響いていた。

「ねぇ」

急にそんな風に彼女が声を上げた。ここにいるのは私と彼女の二人しかいないから、おそらく私に向けられた言葉なのだろう。

まさか、ここに私には見えない――例えば、幽霊でもいるわけでもないだろうし。

「あんた、制服だけど、休みなの？」

私が返事代わりに顔をあげると、感情の見えない顔で彼女はそんなことを問うた。

あなたには言われたくない。

「……あなたこそ、会社は？」

言い返すように、言葉を向けた。

彼女が砕けた言葉（少々口が悪いともいう）を私に向けるから、私もわざわざかしこまる必要もないだろうと、敬語で話すのはやめた。

「さぼった。一緒でしょ」

彼女はなぜか驚いた顔を一瞬だけ見せてから、そう言った。

なんというか、素直に驚いた。

こんなふうに堂々とサボっただなんて言う大人は初めてだった（私が知っている大人はサボりは悪だとしか言わない）。

もしかしたら、この人は他の大人よりかは私に近い場所にいるかもなんて思う。

「……で、朝からビールを飲んでいる」

見たままを解説すれば、彼女がくすりと笑う。そんな彼女に私もつられて笑う。

ああ、綺麗に笑う人だ。

「ビールだけじゃ、体に悪いんじゃない？」
「あら失礼ね、チョコレートも食べてるでしょう」
「私には到底チョコレートが栄養になるとは思えないのだけれど」

彼女はビールをまた飲んでから答えるから、思わず反論してしまう。

本気でチョコレートとアルコールの組み合わせが栄養になるだとか、体にいいだとか思っているなら、少しどうにかした方がいいと思う。

「なるんじゃない？　ならなくてもいいわよ、カロリーになればいいし、つまみみたいなもの」
「ふうん」
「何？　食べる？」

はぐらかされたなぁ、なんてじっと見つめる私の視線を勘違いしたのか、それとも意地悪か彼女は鞄に入っているチョコレートを両手で持って私の前にかかげた。

両手から零れ落ちたチョコレートがベンチにばらばらと落ちる。

思わず、うわ、なんて声を漏らしてしまう。

さすがにちょっとこの人は本気でやばい人なのだろうか、なんて心配してしまう。

「……遠慮しておくわ」
「あ、今、私のことやばいやつだなって思った？」

引いた顔をすぐに無表情に直して、答えると、彼女は意地悪そうに笑った。

あまりに図星をついてくるものだから、心臓がどきりと音を立てた。

すぐに違います、とは言えなかった。

まぁ、図星だから言えるはずもないんだけれど……。

「……そんなこと、ないけど」
「別にいいわよ」

否定をすると、彼女は本当にどうでもいいとでもいうような顔で、雨で揺れる葉を見つめて、吐き捨てるように呟いた。

「どうせ人間なんて、みんなどこかちょっとずつおかしいんだから」

じっと、見つめるとやっぱり彼女は感情が読めない顔をしている。

「……そういうものかしら？」
「そういうものよ、あんただってこんなふうにここにいる時点でおかしいでしょ」
「そっんなこと……ある、けど」

確かに、そうかもしれない。

私のことをまったく知らない他人から見れば、私も彼女のような人間に見えるのだろうか。

それはとても愉快なことだと思った。

ふと、空を見上げると雨は先ほどより小降りになっていた。時計を見れば、そろそろここを出ないといけない時刻だ。

「じゃあ、そろそろ行くわ」

私はゆっくり立ち上がって、彼女に言った。

「これから学校ってわけ？」
「まぁ……。さすがにサボるのは雨の日の午前だけって決めてるの」

彼女が少しだけ目線を上げて、これもどうでもよさそうに問い掛けた。

持ってきた赤色の傘を開く。これから学校に向かうと思うと不思議と鞄が重く感じられる気がした。

「ふうん、中途半端に真面目なのね」

真面目さが嫌でサボっているんだけれどね――とは言えず、そうかもね、なんて返す。

確かに、中途半端だ。

「じゃあ……また会うかもね。雨が降ったら、もしかしたら」

彼女が、東屋を出た私の背中に言った。

まるで、それはお互いがそれを望んでいるかのような、言葉だった。

その日が関東の梅雨入りだったと、私は後になってから、知った。

また会うかもね、なんて彼女は含みのあるような、そんなことを言っていた。

そんな彼女の言葉をいつだって思い出してしまうのは、この間宣言された、関東の梅雨入りのせいだと思う。

あの日以来、空は梅雨入りという言葉に従うように毎日律儀に雨を降らせている。

だから、私も律儀にあそこに向かい、そして、彼女と顔を合わせ、時には語り合っている。毎日、だ。

お互いが本を読み合って、ほとんどしゃべらないような日もあったし、一日中あそこで延々と、とりとめない――時間がたてばすぐに忘れてしまいそうな話をすることもあった。

そんな風に、毎日を過ごしていた。

彼女と一緒にいると、重くなった鞄が軽くなるような気持ちにいつもなって、それはきっと嬉しいのだろうけれど、同時に心は落ち着かない。

クリスマスの朝とか、自信のあるテストの返却日とか、そんな形容しがたいものによく似ている。

しかし――。
　どれだけ雨が、水が降るのだろうなんて答えなんて見つかりっこないことを考えてみる。

灰色の空は飽きることなく、雫を落とし続けている。少しくらいは休んだっていいのに、と思うのと同じくらいに雨が止まないでくれと願っている自分に驚く。

あんまり気づきたくない、考えたくないことだな、と歩みを早める。そうしていると、濡れた葉の奥にすっかり見慣れてしまった東屋が見えてくる。

私に気づいた、彼女が手を振っている。

すっかり、私たちはそういう関係になってしまったのだと、これもまた形容しがたい感情が雨のように降った。

「ねぇ、やっぱり私思ったんだけれど」

今日はどうやら話をする話らしく、やけに機嫌のよかった彼女の話に付き合わされてから、私はきりのいいところでこの間からずっと思っていたことでも話そうかと切り出してみる。

「何？」
「それってやっぱり、いろいろと体によくないと思うのよね……」

私はそう言って、彼女が左手に持っているチョコレート（今日はミルクチョコレート。ちなみに右手には当たり前のようにビールがある）を指差した。

へんてこな組み合わせは、あの日だけかと思っていたのだけれど、彼女は来る日も来る日もチョコレートの味が変わるだけの同じ組み合わせだった。

というか、それ以外食べているところを見たことがない。

「そう、かしら」
「そうに決まってるじゃない。そんなものばかり食べてたらあなた体壊すわよ……」

まるで、よくわかっていないような彼女の態度に溜息を吐きたくなる気持ちを抑えながら、言葉を向ける。

自分なんてどうでもよい、みたいな彼女の態度はどこかで共感できるけれど、だからこそ心配になる。このまま、何も言わないでいると本当に何もかも壊れてしまうんじゃないかって、そう思う。

「なら、あなたがお弁当でも作ってくれたらいいんじゃないかしら、遅い朝ごはんとして、一緒に食べましょうよ。どう？」
「……無理よ、私、料理出来ないの」

いいことを思いついた、みたいな顔をして彼女はチョコレートで私を差した。申し訳ないけれど、それは断るしかなさそうだけれど。

彼女に言った通り、私は料理が出来ない。

というか、生まれてこの方料理なんてまともにしたことがないし、これからも必要に駆られない限りはしないつもりだ。
「え、あんた料理も出来ないの？」

「……そういうあなたはどうなわけ、」

驚いた顔をして、すぐに馬鹿にしたように彼女は言った。どうも悔しくて、私は問い掛けてみる。

正直、そんな食生活をしているような人が料理が出来るとは思えないし。

「残念。私は料理はむしろ得意な方よ」

私のそんな言葉に笑ってから、彼女が自慢気に言った。

じゃあ、どうして――なんて言葉が浮かんだけれど、すぐに喉の奥にしまい込んだ。きっと、事情があるのだろうということは聞かなくてもわかっていたし。

「へぇ、じゃあ、あなたが自分で作ってきたらいいでしょ？　私に振舞ってよ。明日にでも」
「何、食べてみたいって？」
「……んまぁ、少しは」

にやにやと彼女が問うから、これも悔しくて、素直に答えてみる。

まさか、素直に頷くだなんて思っていなかったのか、彼女は驚いた表情を浮かべる。

そんな顔をして、わかった、なんて彼女が頷いたところでその日はお開きになった。

次の日も雨が降って、私はいつもの東屋に向かった。

あの口約束が本当ならば、今日あそこに向かえば、私の分も含めたお弁当があるのだろう。
　そう期待しながらも、諦めている自分もいる。

あの人は、割と自分で口にしたことをすぐに忘れてしまう傾向にある。何度か顔を合わせるうちに、そういう人なのだとわかってきた。

そもそも、平日の昼間からお酒を飲んでいるような人間なのだ。口にすること、全てを真に受けていたらこちらの身が持たない。

酔っぱらいの言葉に意味なんてない、くらいを思っておかないときっと振り回され、疲れてしまうだけだ。

東屋に着くと、また今日も彼女がいて、うれしく思っている自分を嫌に思いながら近づく。

「はい、これ、サービス」

おはようよりも先に、あまりに唐突に言われて目を上げると彼女は近くでよく見かけるコーヒー屋のテイクアウトのコーヒーカップを差し出していた。

「……は？」
「……飲むかってこと！」

私が呆けた声を出すと、少し照れたように彼女がもう一度差し出した。自分で言った冗談に自分で勝手に照れている。

じゃあ、言わなきゃいいのに……。

「え、ああ、もらっていいならもらう、けど……」
「もらって」

この人は冗談なんて言うのかと驚きながら、戸惑いの言葉を返してから、差し出してきたコーヒーカップを受け取った。まだほんのりと暖かい。

「サービスなのね？」
「……うるさい」

意地悪に笑うと、彼女は本当に照れたように同じコーヒーカップに口付けた。

こんなふうに、そう、誰かのことを愛おしいと思ったのは初めてで、くすぐったいような心持ちになる。

雨とコーヒーの匂いに混じって、彼女の香水がふわりと香った。胸の奥が少しだけ、わけもなく苦しくなる。

誤魔化すように飲んだ、コーヒーは私にしては少し甘くて、それすらも胸が締め付けられた。

それでも、彼女はさっきまで照れていたのが嘘みたいに澄ました顔でコーヒーを飲みながら、雑誌を読んでいて、無性に腹が立った。

どうしようもない気持ちばかりを抱えて、私もベンチに腰掛ける。

まるで、雪女みたいだと、何度目かわからない感想を横目で盗み見た彼女に思う。いや、まぁ、気候的には雨女なのだけれど。

肌は病的なほどに白く、触れたらきっとひんやりと――そう、雨のように冷えているのかもしれない。首も肩も腕も、なにもかも折れてしまいそうなほど華奢だ。

雨の日だっていうのに、綺麗に整っている黒い長い髪に、燃えるような真っ赤な瞳（これは少し雪女的ではないかもしれない）。

雨の日にはそぐわないヒールが足元を飾っている。まぁ、窮屈なのか今は脱いでしまっているけれど……。

脱がれたヒールは足元のつま先にひっかけられ、ぶらぶらと揺れている。

そして、客観的にも――主観的にも美人、だ。あまり人の醜美に興味がない私ですらそう思うのだから、きっと、この人がうつくしいということは間違いなく、揺らぎないことなのだろうと思う。

どこか、人間らしくないうつくしさは私を嫌になるほど惹きつける。

そんな彼女のことを最初は、おかしいと――疎ましいとすら思っていた。単に迷惑、とも言える。

一人になりたいから、学校をサボっておそらく人がいないであろう有料の公園にきているはずだったわけで。

彼女は毎回ここにいる。だから、ここにさえもう来なければ彼女に会うことはない。そう、わかっているのに、サボる場所を変えようとしない自分の気持ちが、よくわからないままでいる。

いや――きっと、わかってはいるというのに、目を逸らしている。

避けようと思えば、簡単に避けられるはずの彼女に、もう何日も会っている。むしろ――彼女に会いに来ているだなんていう自分の気持ちを。

もちろん、彼女が一緒にいて苦痛にならないから、というのはある。黙ってこの距離を過ごせる相手。

でも、たぶん、それだけじゃあない。それだけなわけがあるない。

ああ、本当に考えたくないことだ。

「ねぇ、」
「な、なに？」

そんな風に彼女のことを考えていると、彼女が下を向いたまま私に声を掛けた。考えていることがばれてしまったのかと、少しだけ焦りながら私は顔を上げた.

「おべんと、……作ってきたけど？」
「えっ、本当に！？」

そう言って、彼女は鞄の中からふたつ、ピンク色のお弁当箱を取り出した。私は一瞬、呑み込めずにそれを眺めて、それから叫ぶような大きな声を思わず出してしまう。

本当に、私の分まで作ってきてくれるなんて……！

「何よ、あんたは私が昨日したばかりの約束を破るような女に見えてたってわけ？」
「そういうわけじゃないわよ」

彼女が拗ねたように言う。まさか、そうですというわけにもいかないから、私は否定してみせた。

「まぁ、いいけど……。食べるの？　最近料理なんてしてなかったから、保証はしないわ」
「いいわよ、全然。早くちょうだいよ」

急かせば、まぁいいけどさ……なんて言いながら、お弁当箱を開く。

食べやすいようになのか、メインはサンドイッチ。あとはおかずが卵焼きとか唐揚げとかお弁当の定番みたいなものが入っている。

「食べていい？」

彼女が頷くのと同時に、からあげを口に入れた。もぐもぐと咀嚼する。

「え、美味しいじゃない」

食べた瞬間、思わずそんな声を出してしまう。

保証はしない、と言っていたわりに普通においしい。ぱくぱくと、残りの卵焼きやらサンドイッチやらもどんどん食べていく。

「そ」

彼女は冷たい言葉の割にどこかうれしそうで、きっと、この冷たさは照れ隠しなのだと思うと、どこかくすぐったい。

まるで、好きな物語を読んだ後のような気分になっている。どうしてか、気持ちが浮き立っている。

なんだか、無性に腹立つと雨音を聞きながら思った。

「あー！　真姫ちゃんまたこんな時間から来た！」
「……おはよ」

開きっぱなしになっていた扉から教室に入ると、たまたまその扉の近くで昼食を食べていた凛が私に顔を向けた。

あーあ。ばれちゃった――なんて思いながら、挨拶をして誤魔化してみる。

確かにこんな昼休みに登校するのは何度目だろうかと頭の中で数える。

凛、というのは、私の数少ない友達の一人だ。クラスメイトで、席がたまたま隣だったから、仲良くなった。

私は高校を過ごすにあたって友達なんていらないと思っていたから、予想外というやつ。けれど、ただ隣だという、それだけの理由で最初は冷たい態度もしていた私と友達になってくれた。なんというか、明るくていい子なのだ。

「もうおはようって時間じゃないにゃ！　ねぇ、かよちんもそう思うでしょ？」
「う、うん……確かにもうお昼だからね」

凛が向かい合って座っていた花陽に同意を求め、声を掛けた。すっかり困ったような様子の花陽は躊躇いがちに頷いた。

花陽、も私の友達だ。凛とは小さい頃からの友達で、いわゆる幼馴染。

そんな花陽は凛とは対照的に、大人しい性格だ。けれど、優しいし、芯が通っている。

普段はあまり自分の意見を口にすることは少ないけれど、それでも確かに譲れない何かがあって、それを侵害されるならきちんと戦えるような、いい子だ。

まぁ、こんな私と仲良くしてくれる時点で――それだけでいい子なんだけれど。

「ほんとにゃ！　何時だと思ってるの真姫ちゃん！」
「十二時半」
「そういうことじゃないにゃー！」
　ぷんぷんと聞こえてきそうな凛に意地悪も込めて、今の時間を告げると、凛がわかりやすく怒って、思わず笑ってしまう。

予想通りの反応すぎる。私のために怒ってくれるのはわかるけれど、なんか面白い。

この二人と一緒にいると素直に楽しい、と思える。何も考えずに素直に笑える。

それでも、心のどこかでこんなことをしている場合じゃないという気持ちになる。
　馬鹿みたいだ、と思う。

そんなバカみたいなこと、考えなくていいじゃないか、と本当に心の底から思う。

それでも。

本当に馬鹿みたいにそんなことを考えてしまうのは、昔から変わっていない。

今より、もっと好きなものを好きだといえていた頃から、何も。

＊

私の家は、両親――祖父母共に医者だ。

そんな家に生まれてきたら、当たり前のように医者になるための教育が与えられ、医者になるためだけの道が用意される。

それは当たり前だし、悲しいことでも何でもない。

だから、私は今もなお、医者になることを嫌だと思ったことはないし、きっと将来は医者になるのだと漠然と思っている。

けれど。

小さな頃、私はピアノが好きな子供だった。

医者のもとに生まれた子供だから、将来は医者になるのが当たり前という窮屈な世界で生きていた私には、ピアノなんて習い事の一つだったし、きっと、息抜きでしかなかったと思う。

それでも、いつの間にか、息抜き以上の意味を持っていたのはいつからだっただろうか。

音楽を奏でることが、生み出すことが楽しくなってしまっていたのは、いつからだっただろうか。

ピアノのコンクールに出たいと望む私に両親は、何の躊躇いも疑いもなく、そうさせた。いいピアノが欲しいと願う私にこれもまた同じように買い与えた。

きっと、両親も最初の私のようにピアノなんて息抜きの一つにしか思っていなかっただろう。

ピアノを奏でるのが楽しくて仕方ない私は、勉強以上にピアノにのめりこんだ。頭に降ってくるメロディを奏でる――それだけのことに、私は夢中になっていた。

音楽に触れることが何よりの楽しみだった。

ずっと、こうやって音楽に触れていたいと思った。

中学生になってもピアノに熱中している私を見て、父はそろそろ息抜きなんて終わりにしなさい――そう言った。

ずっと、わかっていたはずなのに、きっとその頃の私は何もわかってはいなかった。

だから、ピアノをやめた。

そうすること以外、私には上手な選択肢なんてわからなかったのだ。

それからは。

たまに、思い出したように弾く以外はピアノに触れることはなくなってしまった。その代わり、勉強に集中することにしてしまったのもあるだろう。

それでも、頭には音楽は振ってくる。

ならば、と私はノートにそれを書き留めておくことで対処することにしたのだ。

それが、あのノート。

その対処法は、随分私に合っていたようで、頭で浮かんだ音楽を浮かんだとおりに書き留めて、そこで打ち切りにして、勉強ばかりしていた。

別に勉強は嫌いではない。むしろ、好きだ。それでも、どこかむなしいと思ってしまう。

医者になることが嫌なわけでも、きっと、作曲家やピアニストに本気になりたいと思っているわけでもないのに、どうしても空虚な気持ちが胸を締め付けて、離してはくれない。

彼女への気持ちみたいに、よくわからないもの。

最近の私は、そればかりだ。

＊

今日も雨で、いつも通りに東屋に向かって、彼女と時間を過ごした。時間だから、と東屋を抜けて数分、例のノートを東屋のベンチに置いてきてしまったことに気づく。

忘れたことにすぐ気づいてよかったと思いながら、今来た道を戻る。気づくのが遅くなっていたら、濡れてしまうかもしれないし、もしかしたら誰かが捨ててしまうかもしれない。

東屋に戻ると、ノートを真剣に読んでいる彼女の姿が見えて、濡れるのも構わずに走って近寄る。

「あ、ちょ、何見て……！」
「へぇ、あんた、曲作るのね」

焦っている私なんて気に留めてもいないのか、ノートに目線を向けたまま、彼女はそう言った。

「……そう、だけど」

ああ、見られてしまった――そう、心の奥の冷たいところで思う。

きっと、馬鹿にされるはずだ。

「すごいじゃない……。ピアノやってたの？」
「まぁ、前に。もう、やめちゃったけど……」

見るだけでピアノのものだってわかるのか、と驚きながらも返す。声色から察すれば、すごいという彼女の言葉は概ね本当らしく、それにも驚いてしまう。

馬鹿にされないことに安心してしまう自分にも。

「ふうん……。こんなに上手ならみんなに羨ましがられるでしょ？」
「そんなことないわ、あなた以外にこんなこと、言ったことないから……」

そこまで言ってどうして、私は素直に話してしまったのだろうと思う。別にいくらでも誤魔化しようはあったし、今までの私ならそうしてきただろう。

なのに、彼女には隠すことなく正直に伝えてしまった。

ふうん、とまた彼女の呟く声が聞こえた。

「ねぇ、この歌ってこんな感じ？」

そう言って、彼女は微かな声でハミングを奏でる。

もう一度、驚いてしまう。

ほぼ音楽の素人という私ですらわかるほどの歌のうまさ。こんな短いフレーズで、簡単に口ずさむだけでそう思わせてしまうのだから、きちんと歌えば相当のものなのだろう。

「驚いた。歌、上手ね」
「そう？　に……私、歌うの。ううん、歌ってた、が正しいけど」
「歌ってた？　今は？」

そう問えば、わかりやすく彼女が眉間にしわを寄せた。

あ、きっと、これは触れたらいけないことなんだ、と察してたけれど、もう遅かった。

「今は、……いいえ、歌ってないわ」
「じゃあ、歌ってみてよ。歌を歌うこと自体が嫌いなわけじゃないんでしょう？」

私がそう言うと、彼女は心底驚いた顔を見せた。まさか、そんな風に言ってくるとは思わなかったのだろう。
　私だって、ほんの少し驚いている。

でも、どうせ一度聞いてはいけなかったことを聞いてしまったのだ。今更遠慮したって遅いし、それならば気になることを全部まとめて口にしてしまった方がいい。

「そうだけど……」
「いいじゃない、私しか聞いてないのよ。あなたが歌うこと、私だけしか知らないわ」

私が、彼女を見つめれば、彼女は考えるような表情をしてから黙って頷いた。きっと、歌うことは嫌いじゃないんだろうなと彼女の瞳に思った。

ただ、何かが――彼女を歌うことから躊躇いを見せる何かが、あるだけだ。

それを、今だけは取っ払って欲しい。そう思う。

「思っていたより、下手だとか言わないでよ」

彼女はそう、前置きをひとつだけ置いて息を大きく吸い込んだ。

そして、彼女の澄んだ歌声が響く。

やっぱり上手だと、そう思った。

雨の日とは、きっと正反対の明るい歌が二人の間に響く。歌声が雨音を消して、耳にそれだけが残っていく。

心地よい、時間だ。

「やっぱり上手ね」
「……そうだと、いいけどね」

歌い終えた彼女が口を閉ざした直後にそう声を掛ければ、本当に自信がなさげに彼女は答えた。

そんなわけないのに。

何がここまで彼女を追いこんでしまったのか、ただ純粋に気になった。

けれど、それは尋ねてしまったら私たちを繋ぐなにもかもが消えてなくなってしまうような気がして、やめた。

「ねぇ、ところで何の曲なのかしら？　随分明るい曲だったけれど……」

聞いている最中から気になっていたことを聞いてみる。

普段私はあんまり耳にしないような、そんな歌だ。例えば、そう、アイドルみたいなポップチューン。

どこかで聞いたような気もするけれど、どうだろうか。

「秘密」

そう笑う、彼女はどこか寂しく悲しそうで私は何も言えなかった。

それでも、彼女の背負っている何もかもを少しでも軽くしたいと、私は理由もなく思う。

そして――あの人がたくさん歌いたくなるような歌を作ろうと、ただただ思う。

次の日。久しぶりに雨は、降らなかった。

本当はあの人に会いたいと思っていたけれど、雨が降らない日にあそこには行ってはいけない気がして、やめた。

いつの間にか、いつだってあの人に会うことを望んで――彼女のことを知りたいと思っている自分と、言い訳を作らないと会いにすらいけない自分が頭の中でぐちゃぐちゃになる。

いっそのこと、答えを誰かが教えてくれれば楽なのに。

「ねぇねぇ。真姫ちゃん、彼氏出来た？」
「は、え、なに？！」

そんな馬鹿みたいなことを凛が世間話でもするようにさらっと笑いながらいうものだから、思わず、お弁当に入っている口の中に含んでいたミニトマトを吐き出しそうになった。

真面目に授業を受けて、凛にお昼を一緒に食べようなんて誘われて。いつもは何も言わずとも、一緒に食べているのに変なの――なんて思いながらも、お弁当をつついていたら、こんなおかしな質問をされたというわけだ。

吐き出しそうになったトマトを咀嚼しながら、これを聞くのが目的だったのかと実に愉快そうな凛を睨んでみる。

「いや、なんとなぁくそうなのかなーって思っただけにゃ。ねえ、かよちん？」
「うん……私もそうかな、って思ってた」

凛に話を振られた花陽は少し戸惑いながら答えた。

ひどい。花陽までなんてことを言うのだ！

「あのねぇ……」

馬鹿じゃないの、と笑い飛ばそうとして、凛の顔を見るとさっきとは打って変わって、やけに真剣そうな顔をしていて、本当のことを言わなきゃいけないような、そんな気持ちが湧いてきた。

きっと、凛なりにいろいろ考えた上で、今聞いているのだろう。

「別に……付き合ってる人はいない。好きな人もいないわ。でも、……ちょっとだけ、少しだけ好きかもって思う人ならいるかもしれない」
「どんな人？」

言葉にしてしまえばこんなにあっさりとしているのか、なんて思っていると、凛が簡潔に問うた。

私は思わず、考えてしまう。

――どんな人。

そんなこと考えてもみなかったし、そもそもたくさんあげられるほどに私は彼女のことを知らない。どこでいつも何をしているのかも、年も、名前も、何もかも。

それでも、好きなのだと思う。私はどうしようもなく、彼女が好きなのだと。

「……なんだか、変な人よ。サボってるの。いつも。それで、チョコレートにビールを飲むの。全く変な人でしょ？」

――それで、私の音楽を唯一黙って聞いてくれる人。

飾る必要もないかと、私の思うままに話す。改めて、口にすると本当におかしな人だと思う。こんな人を好きになるような私も大概なのかもしれないけれど。

「でも、真姫ちゃんはその人のこと好きなんだ。それって素敵だね」
「好きじゃないわ」

花陽が優しく微笑むから、私は恥ずかしくなって、思わず否定してしまう。

「でも、気になってるんでしょ？」
「そうかも、しれない、けど、」

それでも、やっぱり口にするのは違うのだ。

そう、口にしてしまえば、何かが変わってしまうと思う。

「でもね、やっぱり、なんだか素敵だなって……私は思うよ」

そうかもしれないけれど、やっぱり私には理解が出来ない。したく、ないだけかもしれないけれど。

これ以上、うまく言葉に出来ない私は、微笑みで誤魔化した。

夜、眠る前。

朝、目を開く瞬間。

気づけば、雨を祈っている。

彼女に会いたいと願っている。

彼女と会う度、胸の奥がぎゅっと掴まれたように、苦しくなる。無性に、ただ泣いてしまいそうになる。

こんな感情に名前はないのだろうか。

彼女と出会う前の自分はどう考えて、何を感じて、呼吸をして生きていたのかさっぱりわからなくなってきている。
　このまま、どうなってしまうのか、いくら考えても答えは見つからないし、わからない。

ただ、二つだけ――そう、たった二つだけわかるのは。

私は彼女のために、歌を作りたいということ。

それと、言葉にしてしまうとなんて簡単で馬鹿みたいに思えてしまうけれど――私は恋に落ちてしまった、ということ。

それだけだ。

社会とか、仕事とかあの人が普段いるであろう世界はとても遠い。

瞳を閉じると、雨の奥で微笑む彼女が浮かぶ。

まるで世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える。

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