高二の古文は、非常勤の福田先生でした。いつも寝不足のような不機嫌な表情で、ぼそぼそと講義なさっていました。受験キッズは古文の授業を寝るか、内職をする時間と決めてかかり、先生もそうしたガキどもを軽蔑のまなざしで見ていたように思います。その福田先生が詩人那珂太郎として、現代詩壇最高の栄誉、H氏賞を受けられた時は驚きました。

その直後の定期試験、先生はいつもの重箱の隅をつつくような文法問題のほかに、小論文形式の問題を出しました。「赤人、憶良、人麻呂のうち一人を選んで論ぜよ。」わたしは迷わず人麻呂を選び、夢中で幼い感想を書きました。その音(おん)のつらなりが醸し出す呪術めいた悲しみの世界に惹かれていたのです。それが那珂太郎の世界に通じると知ったのは、試験が終わってようやくその詩集を手にした時でした。返された答案には、朱ペンでマルが何重にも書きなぐられていました。わたしの、学校時代の数少ない自慢のひとつです。

那珂太郎は、若い頃、北九州で谷川雁と出会っています。『原点が存在する』の詩人谷川雁は、同人誌「サークル村」を上野英信、森崎和江、石牟礼礼子といった人びとと創刊して炭鉱労働者のあいだで活動し、60年代には吉本隆明、埴谷雄高と並び称され、突如上京して、こんどは子ども向け語学教材や絵本をつくって普及させる仕事に転じた人として、インパクトの強い、けれどわたしにとっては大きな謎のかたまりでした。

ところで、わたしが翻訳の世界に入ったのは、大学の恩師、種村季弘先生が紹介してくださった矢川澄子さんのお導きです。種村先生は、当時矢川さんのおつれあいだった渋澤龍彦と、仕事上のいわば同志のような関係でした。矢川さんとのお出会いは1975年、ちょうど矢川さんが渋澤龍彦と別れた頃でした。そのきっかけをつくったのが谷川雁だとは、うすうす知ってはいましたが、矢川さんにそうした話題をぶつけたことはありません。おそらく谷川雁は、子ども向けの文学や絵本を訳したり書いたりしていた詩人矢川澄子の才能に注目して、接近したのではないでしょうか。

ほどなく、矢川さんが黒姫に引っ越した時は、意表を衝かれました。きゃしゃで、いかにも都会的な矢川さん、繊細でさびしがり屋の矢川さんがどうして東京を離れたのだろう、しかも人里離れた黒姫の山裾に、と理解できなかったのです。けれど、ほどなく黒姫におじゃました時、矢川さんはぽそっと言ったのです、森の向こうに谷川雁の家がある、と。それで合点がいきました。いかにも生活力のなさそうな矢川さんが、なぜ黒姫を選んだか、そこでの暮らしに耐えられたかが。谷川雁は独自に家庭生活を送っていましたが、森ひとつの距離をおいて、ひとりになってしまった矢川さんをさりげなく支えていたのでした。矢川さんのエッセイには、谷川家のちいさな子どもたちが登場するようになりました。

矢川さんは、けっしてわたしを谷川雁と会わせませんでした。ご自身の渋澤人脈と谷川人脈を分けておきたかったのかもしれません。けれど、わたしはその後、意外なところで谷川雁と遠くつながります。民俗学に足を踏み入れた私は、学会などでお兄さんの谷川健一さんをお見かけするようになったのです。スケールも体躯も、そして声もおおきな方で、構想力と組織力に富み、きっとそういうところが谷川雁と似ているのだろう、と思いました。

今、谷川雁が注目を集めています。谷川雁論や、谷川がかかわった雑誌の復刻が相次いでいるのです。国のエネルギー政策転換のあおりで、仕事も生活も、人によっては家族すらも奪われた炭坑婦・炭坑夫と同じ地面に立って、けれども頭ひとつ秀でた偉丈夫の大音声で呼ばわった谷川雁の言葉が、グローバリゼーションでどん底競争を強いられている現代のおびただしい人びとの胸に、改めて烈しく響くのかも知れません。

ついに直接お目にかかることのなかった谷川雁ですが、こうして何度もすれちがったということ自体、なんらかの縁があったのでしょう。人は歳をとってようやく、こうした細々とした破線のような縁を過去に引いて今を生きる自分に気づくのかも知れません。今まではなんとなく鬱陶しい感じがなくもなかった谷川雁ですが、遅ればせながら、じっくりと向きあってみようと思っています。
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