朝貢は中華帝国にとっても周辺諸国にとっても都合の良いものでしたが、それは王朝を危険に晒す可能性がある周辺諸国への遠征を中華帝国が避けたかったからであり、中華帝国になる前の騎馬民族となると事情が違ってきます。
中華帝国の軍隊は遠征となると大量の輜重部隊が必要であり、農民を輜重輸卒として駆り出すので、農民の不満が高まり王朝の滅亡に繋がることが多いのですが、騎馬民族は違っています。
蒙古族にしても女真族にしても、遠征に大量の輜重を引っ張って行くようなことはせず、必要なものは現地で略奪して調達しました。騎馬民族は機動力がある上に兵員数がそれほど多くないので、略奪だけで兵站を支えることが可能だったのです。
蒙古族と女真族の朝鮮半島への侵攻は、南宋や明の滅びる前のことであり、中華帝国としての侵攻ではありません。朝貢という制度は意識していて、そのような名目で金品を召し上げることもしましたが、本来の下賜品の方が多い朝貢とは別のものであり、他の王朝の朝貢とは同列には論じれません。
ネトウヨはその例外的な騎馬民族の朝鮮半島への侵攻を例に挙げて、冊封は植民地支配であり、常に大量の金品をそとて美女を、朝貢として召し上げられていたと主張しているわけです。いつもの、自分たちはひとつでも例を挙げれば、それで全てを証明したことになるという手口ですが、今の日本のネットのなかではこれが有効な手法になってしまっています。
高麗や朝鮮の中華帝国との関係については、多くの場合には朝鮮に朝貢貿易の利があるものでしたが、元と初期の清との関係だけは違っていて、朝鮮側が負担を強いられるものでした。
元に対しては、高麗王は江華島に遷都して抵抗し、半島南部では三別抄が抵抗戦を行い、元の高麗への侵攻は六次に及んでおり、元に対してこれほど頑強に抵抗した国はありません。
最後には敗れて元に降りますが、この時には、元が圧倒的に優位にあり、内政に干渉され、政略結婚も行われ、日本を攻める時には大量の軍船の建造を命ぜられて、高麗は著しく疲弊します。
それが元と高麗の関係なのですが、ネトウヨは全く異なる説を言い出してきています。それは明日の記事で紹介させてもらいます。