冊封体制の歴史がネトウヨによって書き換えられています。
冊封体制とは、建て前としての覇者である中国の皇帝が、貢物をもってやって来た周辺国の酋長を中国皇帝が国王に任命して、その国に封じて、貢物とは比較にならない大量の下賜品を与える仕組みをいいます。
本来の冊封は中国国内で行なわれました。中国の古代王朝は、周は封建制であり、秦は郡県制であり、漢以後は封建制と郡県制の折衷が標準になります。
国土の過半を郡県制で皇帝の直轄地にする一方で、皇族や功臣を国王や諸侯に封じて領地を与えるのです。この場合に国王は皇帝の家臣と位置付けられます。
その仕組みを国外にも適用して、貢物を持ってきた周辺諸国の長を国王に任命して、形式的に皇帝の家臣とします。そうすると形の上では、貢物を持ってきた周辺諸国も皇帝の支配地となります。周辺諸国の長にしてみれば、朝貢は下賜品が多くて儲かる上に、国王の肩書があればその国の中の反対勢力に対して優位に立つことができますから、とても都合の良い仕組みでした。そのために周辺から貢物を持ってくる国が多く、中国皇帝はかたちの上では知り得る地上の全てを支配する世界の覇者になることができました。
中国の王朝にとっては外征は鬼門であり、成功する場合もありましたが、失敗する場合もあり、失敗は多くの場合に王朝の崩壊につながりました。そこで考え出されたのが冊封体制であり、兵を出すことなく周辺諸国の長を国王として家来にすることが出来て、世界の覇者となれる上に、遠征のように失敗することがなく、遠征費に比べれば下賜品などはいくら張り込んでも知れたものです。
中国皇帝の見栄と、周辺国の実利とが一致したとても巧い仕組みでしたが、これがネトウヨによって書き換えられてしまっているのです。