宮崎抗争

宮崎抗争(みやざきこうそう)とは、昭和58年(1983年)に、宮崎県下一円で起こった三代目山口組石井組宮崎県勢と井根一家との暴力団抗争事件。当時、実話誌上で宮崎戦争、宮崎兄弟戦争等と書かれた事件である。

宮崎戦争の経緯

大分県内にて三代目山口組川近組が主催した大規模総長賭博が行われる。
この総長賭博が立件され、何れも当時の山口組直参、加茂田組組長、横浜益田組組長、川近組組長等の大物組長が次々と逮捕されるに至った。

この事態を招いたのが、石井組高橋組組員が別件取り調べ中に刑事に漏らした一言であった事から
石井組内にて責任問題の声が挙がり高橋組組長は破門処分を言い渡される。

高橋組組長はかつては二代目石井組組長候補とも云われた石井組内の大物組長で二代目石井組顧問を務めた人物。
この高橋組長の舎弟となっていたのが宮崎県下に100人の構成員を持つ二代目石井組若頭補佐の井根一家井根敏雄総長であり
井根一家総長の実兄が二代目石井組舎弟頭であり
石井組宮崎県勢の中心勢力である井根義秀組長。
自ら70人を抱える井根組を持つ。

昭和58年、服役中であった井根敏雄が出所。
兄貴分高橋に対する処分の撤回を求め石井組執行部と激しく対立。

同年、井根敏雄は石井組本部より絶縁処分を言い渡される。
一方の井根義秀は石井組本部側につき、兄弟間でも対立が深まった。

井根敏雄の絶縁処分に伴い、関西地区より井根敏雄と交遊のある広域暴力団の組員が大挙カーフェリーにて来宮。
宮崎県警に追い出される一幕もあった。

こうして緊張が深まる中、双方の組員同士の小競り合いが続き
先に井根一家側が仕掛ける形で何れも石井組傘下の松本会、井根組事務所に銃弾を撃ち込む形で拳銃発砲の応酬がスタート。

井根一家が優勢に立っている事に危機感を覚えた石井組は井根敏雄の殺害を計画。
宮崎市内の繁華街にて井根敏雄を射殺するに至った。

井根敏雄の死後は井根一家からの報復銃撃が一度あった物の
井根一家は直ぐに自然消滅する形で解散した。

なお、井根敏雄を射殺したのは宮崎県日南市に事務所を置く二代目石井組遠藤組の三坂等組員。
三坂等は獄中で大阪戦争(三代目山口組と二代目松田組)で服役中の山口組山健組盛力会姫野組幹部と意気投合し、出所後に姫野組に移籍し姫野組三坂組組長(現二代目三坂組)になる。

※当時の盛力会は山健組の傘下であり、姫野組は盛力会傘下であった。

また遠藤組の遠藤こと神崎一法組長は殺人の共犯で指名手配され時効寸前まで逃亡。
現在も獄中にて無罪闘争中である。

  • 最終更新:2011-06-14 13:18:17

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