2014年の朝日新聞の「自壊」は日本のジャーナリズム史に確実に記録されるだろう。一般的には、朝鮮人従軍慰安婦を強制連行したという虚偽証言(吉田証言)報道を長年放置してきたことと、福島第一原発事故の吉田調書報道における無理な仕立て方から、その“左翼偏向”報道がやり玉にあげられているが、それは表面的な理解にすぎない。本質は、報道機関における、コーポレート・ガバナンスの失敗、チェック機能の不全にある。
以下、昨年12月22日に公表された朝日新聞第三者委員会の「報告書」及び関係者の証言をもとに慰安婦報道を振り返ってみよう。
これまで従軍慰安婦報道に熱心に取り組んできた朝日新聞にとって、積年の“のどに刺さったトゲ”が、故吉田清治氏という「職業的詐話師」(歴史学者の秦郁彦氏の評)に乗せられて報じた16本の虚報であることは周知の通りだ。その口車に乗せられて、日本軍による強制連行がさも存在していたかのように再三報じたものの、その後、実証的な研究が進むとともに虚偽の疑いが濃くなった。
16本の記事のうち少なくとも8本は中江利忠氏(経済部出身)が社長時代(1989~96年)に掲載されたものだ。中江氏は「週刊新潮」2014年9月25日号に寄せた手記の中で、「吉田清治氏の証言にあやふやなところがあるとは聞いておりました」「しかし、誤りが少しでもわかったときに早く訂正すべきところを、担当部門に任せたまま長く放置してしまいました」と、自ら“先送り”してきたことを打ち明けている。
中江氏は経済部出身とあって慰安婦問題に明るいわけではなかった。彼自身も周囲に「自分の在任中にそんな問題があるとは本当は知らなかった」と漏らしているという。そうは言っても最高経営責任者の社長である以上、自身には責任がないとは言えない。週刊新潮の手記では「罪」をかぶったらしい。
問題は、故松下宗之社長(政治部出身)時代の97年3月31日付の特集紙面(「従軍慰安婦 消せない事実」「政府や軍の深い関与、明白」)だ。この特集で、「(吉田証言を)疑問視する声が上がった」が、「真偽は確認できない」と“総括”し、はっきりした訂正ができなかった。この先送りが致命傷になっていく。
すでに92年から吉田証言の信憑性に疑義が示されていたが、96年になると翌年の中学校歴史教科書に朝鮮人慰安婦の強制連行の記述がなされる見通しとなっていたことから、政治的に右派とみられる勢力を中心に、それまで以上に朝日の過去の報道への批判が高まった。
これにこたえる形で特集が組まれることになり、小栗敬太郎編集局長(政治部出身)、秋山耿太郎局次長(同、後に朝日社長)のもと社会部と政治部、外報部からなる10人の検証取材班がスタートしている。
この検証取材班のメンツ集めなどで影響力のあるアドバイザー役となったのは、当時名古屋社会部長の故鈴木規雄氏だった(検証記事掲載直後の97年4月1日付で東京社会部長に栄転)。親分肌で社内の人気は高かったこともあって、ある種の信頼感から人選にもかかわることになったのだろう。
だが、鈴木氏は慰安婦報道とのかかわりがきわめて深い人物だ。実は、朝日の慰安婦報道は、鈴木氏が千葉支局のデスク在任中に部下の女性記者に手掛けさせた千葉版の日本人慰安婦の記事(88年8月10日付千葉版「証言 私の戦争1:従軍慰安婦」)が、慰安婦の思いを具体的に取り上げたものとしては嚆矢だった。
鈴木氏が千葉支局次長から大阪社会部次長に異動後、「朝鮮人女性の慰安婦がいたのではないか、それを発掘して来い」と指示した部下が、後に“捏造記者”として非難を一身に浴びることになる大阪社会部員の植村隆氏だった。
さらに言えば、宮沢喜一首相(当時)訪韓の直前の92年1月11日付一面トップ「慰安所、軍関与示す資料」の記事を、東京社会部の部下の辰濃哲郎記者に取りまとめるよう指示したのも、鈴木氏だった。一連の慰安婦報道の節目で「指揮」をとってきたのは鈴木氏である。
その彼が、「吉田証言の処理のためだった」(検証取材班メンバー、「報告書」p23による)という特集で、吉田証言の訂正に踏み切るのは、「自己否定」につながるようなものだ。しかも、これらの報道は朝日新聞の創刊115周年記念特集(94年1月25日)で「政治を動かした調査報道」と自賛されており、なおのこと軌道修正は、不可能だったのだろう。
おまけに、このときの外報部長は最初期に吉田証言を取り上げてきた清田治史氏。朝日の失敗は、絶好の訂正の機会に「利害当事者」を「責任者」にしてしまった点にある。明らかにコーポレート・ガバナンス、チェック機能の失敗例である。
以来、この問題の検証は、「誰かをかばう空気が強く、取り上げることがさらに難しくなった」(編集局の元幹部)と言われるようになる。
朝日新聞は5日に信頼回復委員会の報告を受けて、社長会見を開く。この問題に対する検証と回答はあるのだろうか。