主催/自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会(略称:自衛隊を活かす会)
後援/「自衛隊を活かす会」の札幌シンポを成功させる会
「自衛隊を活かす会」の札幌シンポを成功させる会・呼びかけ人(敬称略) 浅田政広(旭川大学名誉教授)・姉崎洋一(北海道大学大学院教育学院特任教授)・石毛妃路美(札幌のうたごえ協議会事務局長)・上野和子(元高校教師)・内山 博(株式会社旅システム社長)・卜部喜雄(元公立高校校長)・小野裕貴(弁護士)・加藤幾芳(北海道大学名誉教授)・川島亮平(医師)・川原茂雄(札幌学院大学教授)・唐渡興宣(北海道大学名誉教授)・河地俊広(北海道合唱団団長)・斉藤 耕(弁護士)・佐藤博文(弁護士)・佐藤みどり(北海道合唱団事務局長)・瀬尾英幸(「護憲ネットワーク・北海道」共同代表)・髙崎 暢(弁護士)・谷井利明(「ビー・アンビシャス9条の会・北海道」事務局長)・山口博教(北星学園大学経済学部教授)・吉田正幸(産業カウンセラー)
司会/「自衛隊を活かす会」事務局 皆さん、こんにちは。今日は自衛隊を活かす会の札幌シンポジウムにたくさんのご参加を頂きましてありがとうございました。私は司会進行を務めさせて頂きます自衛隊を活かす会の事務局の松竹と申します。ご協力のほどよろしくお願い致します。
自衛隊を活かす会を初めて耳にされた方も多いかと思いますが、一昨年前(2014年)の6月に柳澤協二さんを代表に、伊勢﨑賢治さん、加藤朗さんを呼びかけ人として結成されました。安倍さんが国防軍だとか、集団的自衛権だとか、そういう方向へ向かおうという時に、やはり憲法の精神での安全保障政策、防衛戦略が必要なのではないかという問題意識を持って設立を致しまして、それ以来、今日が10回目のシンポジウムになりますけれども、元自衛官の方々やいろいろな専門家の方々をお呼びしてシンポジウムを開きまして、そこで得られたいろいろな議論の成果を元に、昨年(2015年)の5月にこういう方向で憲法の精神に基づいて日本の防衛という点でも、国際秩序の構築という点でもやっていけるのではないかという提言『提言・変貌する安全保障環境における「専守防衛」と自衛隊の役割』を発表致しました。ホームページを見て頂ければ、英語やハングル、中国語の繁体字、簡体字でも提言を発表をしております。
その後、安保法制が通りまして、自衛隊を活かす会としては一つの大きな方向として実際にこの新法制が発動される事例の検証をしていこうということで、昨年の12月末に東京で「南シナ海─。警戒監視のための自衛隊派遣をどう見るか」をテーマにシンポジウムを開催致しました。
もう一つ、国会審議の時以来、問題になっている、南スーダンに今、自衛隊が派遣されていますが、その任務に駆けつけ警護が加わると、そして部隊が派遣されるということが報じられまして、最初の報道では今年(2016年)の5月に北部方面隊、北海道の部隊が派遣されるとの報道されましたので、これは是非、札幌で企画をやってほしいという声もありまして、私どももその準備をしたわけです。
駆けつけ警護そのものは報道されていますように、参議院選挙前にそういうことをやるのはまずいということで、今年11月の東北方面隊に延ばそうということになっているようですが、南スーダンPKO派遣部隊の編成では、現在9次の部隊が出ておりまして、10次が北部方面隊、11次が今年11月の東北方面隊となるわけですが、4つの方面隊のローテーションですから、いずれにせよ2年後には北部方面隊が行くということになります。北部方面隊とか東北方面隊という以前に、これはやはり日本の進路に関わる大きな問題だということで、予定通り今日の札幌企画を準備させて頂きました。
自衛隊を活かす会としては、今年3月には仙台で同様の南スーダン問題での企画を準備しております。いろいろな立場の方が私どもが開催するシンポジウムには来られるわけです。賛否両論がいろいろ入り混じって議論をしながら本当に日本にとって大事な防衛政策とはどういうものかということをを見出していければ良いなと思っています。今日のシンポジウムもその一路になれば良いなと思っております。
本日の進行は今から3人の方に約25分ずつそれぞれのテーマでご報告を頂きます。その後、柳澤、加藤も交えて16時30分まで議論をしていきたいと思います。ご協力よろしくお願いします。まず、渡邊隆さん、ご報告お願いいたします。
渡邊でございます。よろしくお願いします。トップバッターなので幾分喋りづらいところもございますが、テーマに基づいてお話申上げようと思います。
私は元自衛官でございます。最初の任地は千歳第7師団でした。故郷は北海道ですし、北海道とは大変なじみが深いということで、札幌でこのような企画があるということで喜んで参加させて頂くことを決めた次第です。
お話を始める前に申し上げなければいけないのは、私は自衛官の経験者で最初のPKOであるカンボジアに参加致しましたので、いろんなところでお話する機会が多いのですが、私の発言は必ずしも現在、自衛官である現役の方々を代弁するものではございません。ご了解を頂きたいと思います。
本来はこういう席やもっと開けた場所に現役の制服自衛官が多く参加して、自分なりの意見なり、スタンスなりを述べることが本来だと思いますし、そのような社会の方が正しいのではないかという気は致します。ただ、そういう場面を皆さんがご覧になったことはおそらく無いだろうと思います。陸海空問わず、現役の自衛官の発言空間、言論空間は狭いと言いますか、非常に限られております。
おそらく彼ら自衛官の発言空間をここまで狭くしてしまった原因は、何よりも我々にある、我々と言う意味は、私はもう自衛官を辞めていますので、皆さんを含めて我々にあると私は考えています。
私が防衛大学校に入りましたのが昭和48年、1973年です。その入った年の9月だったと思いますが、長沼ナイキ訴訟という、ここ札幌からそう遠くないところの航空自衛隊基地の建設に伴っての訴訟がありまして、第1審では自衛隊は憲法違反であるという判決が出ました。この判決は2審、3審で覆されるわけですが、私は防衛大学校の1年生、当時18歳です。これから自分が一生かけてやろうという仕事が憲法違反と言われたわけで、未だにその衝撃は忘れることはできません。では自衛隊は明確に憲法に合憲なのか、憲法で認められているのかということに関しては、2審の高等裁判所や最高裁は違憲ではないということを判決で述べただけで、明確に憲法に自衛隊が記載されているかというと記載されていません。そういうことが大きな要因の一つ。
もう一つは警察予備隊として自衛隊が編成されて以降のほとんどの期間、自衛隊はずっと批判され、叩かれ続けていたというのが実情だと思います。そのような中で、現役が大きく声を出して自分達を主張するような、そういう機会はほとんど無かったのではないかなと思います。
本当につい最近です。冷戦が終わり、世界のいろいろなところに自衛隊が出て行くようになって、国内では阪神淡路大震災や雲仙普賢岳、3.11の東日本大震災などを通じて、自衛隊がやっている活動に関しては非常に多くの国民のご理解を得られるようになりました。現在、自衛隊について好意を持っている、ある程度好感を持っていると感じておられる国民は92%ぐらいにのぼると言われています。ただ、自衛隊が置かれている法的立場は、創設以来何も変わっておりません。この辺のところが今日、私が一番、皆さんに訴えておきたいところです。
今日の議題でございます。「駆けつけ警護と邦人救出を現場から考える」、今日のテーマは前半の「駆けつけ警護」というところにありますので、特に現場で自衛官として武器を携帯をしていたという経験から、武器使用権限に関する議論を振り返ってみたいと思います。
自衛隊は国際法上の軍隊ですので、当然のことながら武器、兵器を保持しております。ハーグ陸戦法規というものがございますが、これはいわゆる陸上の戦いについて決めた国際法です。この定義に基づくと武器を公然と所持していることこそが軍人の定義ですので、武器を持って当然の組織です。
しかしながら、無尽蔵に、無限界に使えるのかというと決してそうではありません。武器を公然と保持、所持をしているが故に、非常に厳格に武器使用が制限されてると言うべきだろうと思います。いわゆる抑制的な武器使用、これが基本の第1です。
自衛隊の武器使用は総じて抑制的です。ミサイルや戦車、護衛艦を持っていますが、それでも抑制的です。これは戦争が起きて兵器でやりあうという戦いを除けば、基本的には自衛官の武器使用は警察官の持っている武器と同じように考えてよかろうと思います。警察官職務執行法の準用です。
能動的な武器使用は限定的ですが、業務を妨害しようとする者に対して、これを排除するために、やむをえないと認められる相当の理由がある場合ですが、これは今まで認められていません。これは国内で大規模な騒乱などが起こり、治安出動が下令された場合にのみ認められています。今回の法改正で、PKOにおいてここが認められるようになりました。この辺が一つの変化要因だろうと思います。
ただ、いずれの武器使用においても危害許容要件があります。いわゆる正当防衛・緊急避難以外では、相手に危害を与えてはいけないという但し書きが付いています。自分が死ぬかやられるかという危険がない限り、相手に向かって危害を与えるような射撃をしてはいけない。皆さんは「危害を与えないような射撃があるんですか?」と思われるかもしれませんが、正に危害を与えないような射撃をすることこそが自衛官の、自衛隊の武器使用なんだとお考え頂きたいと思います。
実は当てないように武器を撃つ、これは大変難しいんです。結果として外れてしまったということではなくて、当たらないように武器を使うということがいかに難しいことであるか。練度を必要とする、本当にたくさんの訓練をしなければ、その境地に到達出来ないということをご理解頂きたいと思います。
武器使用のこれまでについてです。いわゆる防衛出動で、我が国が外国の軍隊に攻められて戦争を行うということを除けば、これが武力の行使であり、これは自衛権に基づくもので、日本国憲法は否定しておりません。これに基づく自衛隊の行動が防衛出動です。これは武力の行使ですので、武器の使用ではありません。武器の使用と言いますのは、国内と国外の2つがありますが、国内においては誰にでも認められている自然権としての正当防衛・緊急避難と、治安出動や警護出動などいわゆる緊急時における出動と、平素から持っている武器弾薬を守るための武器使用に分かれます。
今まで、国外における武器の使用は、正当防衛・緊急避難及び武器等防護のための武器使用に限られていました。海賊対処時の武器使用もございますが、この①、②、③はいずれも自分に危険が及ばない限り、武器を使用してはいけません。これが国外における自衛隊の武器使用の基本的な考え方です。
今回、課題となっている「駆けつけ警護」ですが、実は正式に言うと『いわゆる「駆けつけ警護」』と言うのが正しかろうと思います。一時期、「駆けつけ警護」という言葉をアメリカの軍人に一生懸命説明しようとしたのですが、ほとんど分かってくれませんでした。英語で「駆けつけ警護」は「rush to rescue」、「rushed escort」と言います。アメリカの軍人は「いわゆるレスキュー・オペレーションならどこにいたってレスキューだろう。これが出来てなぜこれが出来ないんだ?」と言って、彼らには非常に理解が難しかったということです。
ご覧の絵図は、先般の安全保障法制において、安倍総理が自らパネルで説明された絵図です。駆けつけ警護というのは、日本のNGOやPKO要員が武装集団などによって攻撃される、或いはそのおそれが非常に高い時に、自分が彼らに攻撃をされていないにもかかわらず、武器を取って出かけて行って、彼らを守る行動。これを総じて「いわゆる駆けつけ警護」と言っております。武器の使用は正当防衛・緊急避難に限られている。正当防衛・緊急避難に当たらないこの武器使用は、武器使用の範囲を超えている、したがって認められないというのがこれまでのスタンスでした。これはこれから若干変わっていくだろうと思います。
ここで武器使用というのは、「いわゆるAタイプ」と「いわゆるBタイプ」の武器使用に分かれます。これも「いわゆる」ですので、あくまでも日本国内の議論で言われることとして捉えて頂きたいのですが、Aタイプの武器使用というのは、いわゆる自己を防衛するための武器使用で、正当防衛・緊急避難に相当します。
Bタイプというのは任務遂行型の武器使用や、妨害排除のための武器使用と言われていますが、任務を遂行する上で支障があった時にこれを排除してでも任務を達成するためにやむをえない武器使用、これを任務遂行型とか、Bタイプの武器使用と言います。当然のことながら、これも危害許容要件として正当防衛・緊急避難以外では相手に危害を与えてはいけないという射撃になります。
このAタイプとBタイプを括ったものが、現在、世界で展開している国際連合の平和維持部隊(PKO)の基本的な武器使用権限のスタンダード、交戦規定(国連ROE)です。国連のPKOでは、AタイプもBタイプもないということです。したがって、国連のPKO部隊に自衛隊を出す時に、他国の参加部隊がAタイプもBタイプも使える状況の中で、日本の自衛隊だけがAタイプしか使えないということが大きな問題ということです。
駆けつけ警護の何が問題かと言えば、任務遂行のための武器使用権がないために、自分は守れるけれども他の場所にいる者は守れない。国連の中でこのような特別の事情を持っている日本は、相手に対してある程度のハンデを負っているという状況にあるということです。相手が国または国に準ずる組織の場合、憲法の禁ずる「武力の行使」にあたるおそれがある、というのが当時の内閣法制局長官の答弁でした。止むを得ず武器を使用する、相手がもっと集まってきて大勢で来る、こちらも大勢で出かけて行って、お互いに銃を撃ちあう、その相手が国または国に準ずる組織であれば、まさに「武力の行使」で、戦闘行為に陥っているのではないか。したがって、憲法が許している自衛の範囲を超えている、というのが『「武力の行使」にあたるおそれ』というところです。
武器使用の問題点をもう一度、整理したいのですが、何が問題かと言うと、任務遂行のための武器使用が認められていないことが問題なのではなく、国連が認めている交戦規定(国連ROE)に対して、同じ国連のメンバーで参加しているのに、それが認められない。ここにギャップがあるということが問題なわけです。
自分が攻撃されていないにもかかわらず、攻撃されている所に出かけて行って、彼らを守るために武器を使うというのは、国会審議でもありましたように、一見、集団的自衛権のように聞こえると思いますが、武器使用の問題点の2つ目は集団的自衛権に当たるかどうかが問題ではなく、憲法の禁ずる武力の行使に当たるかどうかが問題と整理出来ると思います。
ただし、この2つの問題点を外国人に説明しても分かってもらえません。このようなことを問題にしているのは我が国だけだからです。そこが我々がもう1つ議論を発展させなければいけない1つの要因ではないかと感じるところです。
1992年に最初のPKOに参加してから、今年で4分の1世紀以上が過ぎています。これまでPKOはいろいろな所に参加してきました。PKO以外ではルワンダの難民救援支援であるとか、PKO法とは別の海外の災害派遣、国際緊急援助隊活動も行いました。場所的にはカリブ海から南太平洋、アジア、アフリカに至るまで、非常に多くの地域で活動を続けています。現在は南スーダンに300人ほどの自衛隊員が活動を継続しています。
何か変化があったかと言うと、基本的な変化はありません。上の図で赤く囲まれているイ〜ヘに当たる行動、監視や巡回、駐留、武器の搬入、収集、処分といった軍隊が行う本来的な業務──法案審議では本体業務と言っておりましたが──、これらの活動に日本は一度も参加したことがありません。これは事前の国会承認も必要なのですが、日本がこのいわゆる本隊業務、軍隊が本来行うべきと言われている業務に参加出来ない理由は、先ほどあったように武器の使用権限が異なっているからです。それが大変大きな要因ということです。
今まで自衛隊が行ってきた活動は、図の青い枠のヌ〜タに当たる活動で、俗に言う後方支援、道路を作る、橋を建設する、輸送する、或いは医療支援をするという活動を自衛隊はこの25年間、継続をしてきたわけであります。(図のヘ〜ヌの間に入る活動は、文民警察官や選挙監視など自衛隊以外の人が行う活動です)
昨年、議論があった安全保障法案で何が変わったのかという話ですが、PKO法に関して言えば、上図の①にあるように、防護を必要とする住民、被災民その他の者の生命、身体、財産に対する危害の防止、或いは抑止、その他特定区域の保安のための監視、駐留、巡回、検問、警護の任務が追加され、出来るようになりました。
それから、②の国際連携平和安全活動──後ほど説明致しますが聞きなれない活動です。私も初めてこの言葉を見て吃驚しました──、人道的な国際救援活動──これはルワンダで実際にやっています──、このような活動でも不測の事態、または危難が生じて、或いはそのおそれがある場合に、緊急な要請に対応して行う当該活動関係者の生命及び身体の保護のための任務が追加されたということです。ですから、これに関する限り、先ほどのいわゆる本体業務に参加する道が開けたと言えるかもしれません。
つまり、国際平和協力法改正案においては次のようになります。
①歩兵(普通科)部隊を派遣することが可能になりました。歩兵部隊、普通科部隊と言うのは、特定の任務ではなく、通常「この地域を担当しなさい」という形で指示をされます。その地域の治安を維持し、安定させることが歩兵部隊の役割になります。いわゆるPKFの本体任務を行う上で、先ほどの武器権限ともあわせてようやく──私にとってはようやくなんですが──、ある程度、出来るような法的体制が整いつつあると思います。(自衛隊では歩兵部隊とは言わず、普通科部隊と言います。自衛隊は国内的には軍隊ではないので、兵という言葉を使えないのです。ですから、歩兵、砲兵、工兵ではなく、普通科、特科、施設科という言い方になります)
②上記以外のPKO、人道救援、国際平和連携活動などにおいても、もし要請があれば、このような活動を行っても良いというのが今回決まったということです。
先ほどの国際連携平和安全活動は、PKO法案の中に1つの用語として盛り込まれましたが、これについての十分な議論は重ねられなかったと思っています。この国際連携平和安全活動は、国連が行う国連平和維持活動ではなく、似たような活動だとご理解頂きたいと思います。PKOと言うのは、国連の安保理決議に基づいていわゆるブルーヘルメットという部隊を編成して、各国が一体となって行う活動ですが、実は最近、この活動は簡単には行えなくなってきました。この辺は伊勢﨑先生が大変お詳しいのですが、地域或いは能力と意志のある有志連合が一緒になって、そのような活動を行うということが冷戦後に非常に増えてまいりました。逆に言えば、それに対して日本が何とかしようと思えば、そのような枠組みを法的に考えておかなければいけないというのが、国際連携平和安全活動なんだろうと思います。
いずれにしろ、国際連携平和安全活動には3つの条件があります。①停戦が合意されていること、②紛争による混乱や暴力の脅威から住民が保護されていること、そこが混乱状態、戦闘状態ではないということです。③武力紛争が終わり、終了後に行う民主的な手続、手段による統治組織の設立や、再建の援助等を目的として行う活動に限り、自衛隊はPKOと同じように、法律の枠組みで参加出来るというのが、大きく変わったPKO法案の概要と言えるのではないかと思います。
現在、自衛隊は南スーダンのPKOに出ています。既に第9次隊ですので、半年という派遣期間を考えれば4年半、活動が行われているということです。あまりニュースでも報道されなくなりましたし、皆さんにとって日常のことになったということは、日本の自衛隊のPKOが何事もなく、注目されることなく行われていることを喜ぶべきなのかもしれません。
ただし、南スーダンに出ている自衛隊のPKO部隊は施設科部隊(工兵部隊)で、道路や橋を治す部隊です。部隊の展開図があります。
地図上に出ている国旗のマークはそれぞれの国が出した部隊です。枠で囲まれているのは、地域を持たない機能別の部隊です。日本もその1つで、日本は施設科部隊(工兵部隊)を出しています。
南スーダンに派遣されている部隊は、地域の安全を担任する歩兵部隊ではありませんので、この施設科部隊に改めて任務として駆けつけ警護を命ずる必要性はありません。ただし、東ティモールのPKOやルワンダの人道復興支援業務で行われたように、緊急な要請に基づいて、止むを得ず相当な理由があると認められる時には施設科部隊が保護活動や救護活動、輸送活動などを行う場合があります。それは南スーダンPKO部隊にとっても例外ではありません。
法的に担保された任務として、いわゆる駆けつけ警護の任務を与えるべきかどうかはこれから議論しなければいけませんが、図を見て頂ければ分かるように、PKO全体では多くの歩兵部隊、治安を維持する部隊が展開している中で、日本の部隊が常に駆けつけ警護をしなければいけない状態かと言うと、決してそのような状態ではないということを申し上げたいと思います。
私は駆けつけ警護については当然行うべきというか、駆けつけ警護が出来ないなら、そもそも日本がPKOに参加する資格すらないのではないかと思っていましたので、これが法的に出来るようになったということは、時代の流れと共に1つの結論なんだろうと思っています。
ただし、法的に出来るということと、これをやるということはまた別の話です。PKO全般の中で、自衛隊が置かれている現地の状況など、いろいろな状況を勘案して、任務として与えるのか与えないのかというのは1つの政治決断です。今回はこの決断を参議院選挙まで先送りしたのかなという感じは致します。
もう一方で重要なのは在外邦人救出です。用語的に言いますと、在外邦人というのは海外にいる日本人ということで、日本についてのみの用語ですので、正確に言うならば、「在外自国民保護」と言うべきだろうと思います。
ここにおいては、大きな数字で括った方が良いのではないかと思います。現在、海外に住んでおられる日本人、永住もしくは長期滞在をしている日本人は129万人で過去最多です。これには旅行者は含まれません。アメリカ、北米大陸が一番多いのですが、アジア、西欧、その他、世界に日本人がこれだけ散らばって生活しているという現状をまずしっかりと考える必要があります。
129万人のうち、長期滞在者(仕事や留学などで海外に住んでいる方)は85万人です。全体の8割が比較的安全な所におられるのは事実ですが、パリの同時多発テロを見てもわかるように、比較的安全な所だから保護しなくても良いという理由は、地球上どこにも通用しなくなってきているという感じが致します。
注目すべきは旅行者です。129万人の長期滞在者の他に年間1,690万人が海外旅行に行っています。1,690万人/年という数字は、1億2,730万人の日本の人口から比べると13.3%、7.5人に1人は海外旅行に行っているということです。1,690万人を365日で割ると、1日あたり4.63万人が世界中を旅行して回っているということです。
この数字は我々に大きなインパクトを与えるものです。日本人旅行者を助ける在外公館は世界に207しかありません。大使館は139です。在外邦人の保護は外務省、在外公館に委ねられていますが、この数で何かあった時に海外にいる多くの日本人の安全を間違いなく確保出来るのか、非常に大きな課題であろうと思います。
その他、ご存知のように日本の企業はどんどん海外進出をしています。海外が有利だからということでしょうが、2013年度で考えれば、日本企業の海外拠点は6万9千拠点あります。その48%は中国ですからどうなんだという話はありますが、これだけ多くの日本企業の拠点が海外にあるという現実を我々は直視する必要があります。
もうお忘れかもしれませんが、日本は大変大きな過去のトラウマというか、事案を抱えています。1972年のダッカの日航機ハイジャック事件が起きました。イラン・イラク戦争時において215名の邦人を救出してくれたのはトルコです。日本はとある民航会社に救出を依頼しましたが、危険だから行けないと断られました。当時、自衛隊は現地に行く法的な権限は何もありません。トルコが日本人のため、日本を助けるためだけに軍用機を派遣し、救出してくれた。これはまさにトルコが日本に対してどれだけいい感情を持っていたかということの証左だろうと思います。
1996年のペルー日本大使館占拠事件、2013年のアルジェリア天然ガスプラント襲撃事件での日本人10名の死亡、昨年のイスラム国による日本人殺害事件等を考えていると、やはり我々は真剣になって海外にいる日本人の方々、或いは日本の資産、資本、拠点を本気になって守っていかなければいけないのだろうと思います。
政府は邦人救出の5事例ということで、今あげたようなことに対処出来るように検討を進めておりますが、今回の安全保障法案で明らかになったのは自衛隊の行動の中に在外邦人の保護という1項目を入れたということです。活動の中に入りましたので、以後、このような活動が自衛隊に命ぜられることがあるかもしれませんが、そもそも国家として海外にいるこれだけの数の日本人、或いは日本の企業、官吏、資本、財産をどのように守っていくのかということについて、真剣になって国民的な議論を重ねていく時期にきているのではないかと思います。
一番最初に申し上げた、自衛官の発言空間が非常に狭い現状について、自衛官は「行動の人」ですから、彼らは行動を持ってしか自分をアピールすることは出来ません。自衛官の本音がどこにあるのか、彼らは何を思って活動しているのかということを知りたいのであれば、彼らの現状をしっかりと理解をして、そのための議論を高めていく必要があるのではないかとOBながら思って、話を終わらせて頂きたいと思います。ありがとうございました。
司会 ありがとうございました。次はスーダンから日本にやってこられ、東京外大で特任助教をされておられるアブディンさん、よろしくお願いします。
みなさんこんにちは。今日は南スーダンの人々は日本に何を求めているのかという難しい題でお話を頂きました。最初に断っておきますが、私は南スーダン出身ではなくスーダン出身です。スーダン出身ということは、長い間、南北紛争があったということを考えると例えが悪いんですが、北朝鮮の人に韓国の人達は日本に何を求めているのかを聞いているようなものでしょう。
それはさておき、私の専門分野は紛争研究ですので、自衛隊が展開している南スーダンの状況についてお話しながら、南スーダンは本当にどういう支援があれば、有効に使えるのかということを私なりに考えてみたいと思います。
南スーダンの紛争を全部お話しするには時間がありませんが、私は南スーダンの問題は駆けつけ警護もありますけれども、南スーダンの問題だけではなく、この地域、周辺諸国も含めた近隣諸国の利害が南スーダンにあって、当事者が複数いるということで、南スーダンの人々同士の紛争だけに対して自衛隊が派遣されているということではないということを考えてもらいたいです。
2011年に南スーダンは独立します。自衛隊は南スーダンは安全ということで派遣されていますが、2013年には内戦が起こっています。自衛隊が展開しているのはジュバという南スーダンの首都なんですが、比較的安全ということで展開しています。
左の帽子をかぶっている人がサルバ・キール(Salva Kiir)大統領です。右は元副大統領でリエック・マチャル(Riek Machar)という人です。私は基本的にはこの二人の長年、30年に及ぶライバル関係から南スーダンの紛争はあるのではないかと考えています。皆さんがテレビで見るヌエル族とディンカ族の部族間の紛争とか、そういうことを全部操作しているのはこの2人の長い間のライバル心ではないかと思います。
帽子をかぶっているサルバ・キール大統領は、南スーダンのゲリラの組織であるSPLA(Sudan People's Liberation Army:スーダン人民解放軍)、その政治部門はSPLM(Sudan People's Liberation Movement:スーダン人民解放運動)と言いますが──以降、SPLMとさせてもらいます──、SPLMの2番手だったんですね。一番手はジョン・ガラン・デ・マビオル(John Garang de Mabior)という人で、2005年に亡くなりました。3番手はリエック・マチャルで──機械工学の博士号も持っています──、ヌエル族という民族の出身です。サルバ・キール大統領はディンカ族という南スーダンの大多数派である民族の出身であるいうことです。
南北内戦の時に、リエック・マチャルは、SPLMから離脱するんです。それで自分の組織を作って南スーダンの独立を訴えます。というのは、SPLMは独立ではなく統一スーダンを目指していて、ニュー・スーダン・ビジョンという南の人も北の人も出身地域を元に差別されることがない新しいスーダンのビジョンを持っていたんです。SPLMは決して独立を訴えていたわけではありません。
リエック・マチャルは、「そんなことを言ったって無理な話だから独立しましょうよ」ということを言っていたんですが効き目がなかったので離脱するんですね。離脱するんですが、その時に自分の民族であるヌエル族を兵士に使って、対SPLMの紛争をやるわけです。南北紛争が起きていた時に、1990年代から既に南部人同士の戦いが始まっているわけですね。その犠牲者は数十万人に及んでいると言われています。
紆余曲折を経て、2005年に和平協定が結ばれます。その直前にリエック・マチャルはSPLMに戻るんです。日本の政党でもよくありますけれども、出たり入ったりするのと同じですね。その時にリーダーであるジョン・ガランは飛行機事故で亡くなって、サルバ・キールが南部スーダン政府の大統領になるわけです。
そこから独立戦争が始まって、2011年に南スーダンは独立します。その時、リエック・マチャルは副大統領としてやっていました。
南スーダンが独立した時、サルバ・キール大統領は自分はもう次の選挙に立候補しない、次の選挙で降りると宣言したんですが、2013年あたりからやっぱりもう一回大統領がやりたくなるんですね。そうしたらリエック・マチャルは自分が立候補すると言って政権党であるSPLMの分裂が起こるわけです。SPLMは元々はゲリラ組織で政権党でもありますし、南スーダンの軍は南スーダン国軍ではなくて、SPLA(スーダン人民解放軍)で元々のゲリラ組織をそのまま引き継いているわけです。政党の軍が国の軍隊になっているわけですね。
2013年のSPLMの分裂と同時に、SPLAがそのままどんどん割れていくわけです。サルバ・キール大統領は「私は1991年のことは未だに忘れていない」と言うんです。要は「リエック・マチャルはSPLMを離脱して南スーダン人同士の戦いをやった」と言ってリエック・マチャルに対する憎悪を煽るわけです。そして自分の出身のディンカ族の人を使って、首都ジュバ──自衛隊が展開している安全な地域──、に2013年の暮れに虐殺のようなものがおきます。正式なデータはないんですが、ある団体によると2万人ぐらい殺されているんですね。これはドンパチではなく、家を回って殺しています。ヌエル族の家を回って、ヌエル出身者のSPLMの中枢部をどんどん虐殺するわけです。
安全と思われていた地域に突然、166万人の国内避難民と50万人の難民が出るわけです。これは南スーダンの人口の4分の1です。これが2013年の暮れにおきます。安全なところに自衛隊を送り込んだはずなんですが、本当に安全かどうかの検証を誰がやったのか、私はすごく不思議なんです。そもそも2013年のこの紛争は予想されたものです。これは突然の想定外の話ではなくて想定内のことであったし、2012年にはジョングレイ(Jonglei)という地域──安全ではないところで韓国軍が展開しています──、で知事選挙の勝利者をめぐって内乱が起きています。
南スーダンは失敗した形で独立したということも言われています。そもそもSPLAという国軍は、リエック・マチャルが率いる派閥や北部政権の軍隊と一緒に戦っていた複数の分派が存在していて、サルバ・キール大統領は全部の派閥に「SPLAに戻っていらっしゃい」と言って、みんな戻ってきましたけれども、指揮系統はほとんどそのままで派閥のトップが持っていたわけです。ですから2013年にジュバでドンパチが起きると、南スーダン全土でSPLAの派閥の中の紛争が起きてしまうわけです。各地で反乱が多発して、状況が悪くなってしまったわけですね。ここまでは南スーダンの国内の話なんですが、この地域の近隣諸国はみんな南スーダンの利権を狙っていて、政府側についたり反政府側についたりするわけなんですね。
後ほど詳しく言いますが、例えば南隣のウガンダは南北紛争が起きた時に、反乱組織であるSPLMを長い間支援してきたんです。ヨウェリ・ムセベニというウガンダの大統領が支援していました。2005年に南北の和平協定が結ばれたんですが、それを仲介したのが隣のケニアだったんです。そのケニアはSPLMを支援していたわけではないんですが、和平協定を達成した手柄で、南スーダンに対して大きな影響を与えるんです。これにウガンダが非常に危機感を感じていました。
2013年の紛争が起きた時、サルバ・キール大統領の側は「これは危ない」と思って、すぐにウガンダ軍に出動要請をするんです。反乱軍から首都ジュバや首都周辺を守ったのはSPLAではなくて、ウガンダ軍(UPDF)なんですね。自衛隊はそこにいるわけです。今後は駆けつけ警護が決まって、誰を誰から守るのかという話が出ていますが、ウガンダ軍は既に入っているわけですね。
ウガンダは南スーダンに非常に大きな経済利権を狙っているんです。ウガンダは南スーダンに対する輸出は23%もあって非常に大きいわけです。南スーダンのジュバに行きますと、ほとんどのお店はウガンダ人、エリトリア人などです。南スーダンは非常に大きな市場でということもあります。
次はケニアです。先ほども言いましたが、2005年に和平協定が結ばれて、紛争が終わって良かったですねと言っている写真です。仲介したのはケニアなんです。真ん中がスーダンのバシール大統領です。右にSPLMのカリスマ的リーダーである2005年の飛行時事故で亡くなったジョン・ガランです。左はスーダンの副大統領です。和平協定にサインして、CPAという和平協定の書かれた本を掲げているんです。
ケニアも南スーダンの経済的利権を狙っています。南スーダンは石油が1日に50万バレルも出るポテンシャルの非常に高いところなんです。スーダン北部にパイプランを引いて、スーダンの東部から輸出していますが、やはり元々の敵国ということもあって、いろいろと問題があるということで、ケニア経由のパイプラインを建設しようとしています。これを牽引しているのは日本の豊田通商なんです。結構、スーダンはそれに対して面白くないと思っているんですね。ケニアも自国を通るということで、積極的に建設を目指していますが、最近はあまりFeasibility、実現可能性から見て難しいのではないか、南スーダンのリスク要因が非常に大きいということもあって、話が下火になっています。紛争をやっていてそれどころじゃないですけれども、そういった企画もあります。
次はエチオピアです。2005年にはケニアが南スーダンの南北紛争を仲介しましたが、2007年からケニア国内の選挙をきっかけに、内戦のようなものが始まります。それ以降、10年間、エチオピアはこの地域で非常に高い経済成長を見せているんです。エチオピアも南スーダンに非常に関心があって、これには二つの要因があります。
1つ目は南スーダンと接する地域で石油が発見されているんですが、そこにはエチオピアの反政府組織が存在するんです。さらに南スーダンの状況が悪化すると、反政府組織が自由に南スーダンに逃げたり、武器を調達してエチオピアに戻って反政府活動をさらに展開するのではないかということで、治安面においても南スーダンの安定が必須だということで、南スーダンのマチャル派と大統領派の和平協定を仲介するわけです。和平協定でマチャルはエチオピアの首都のアディスアベバでサインしますけれども、サルバ・キール大統領は嫌がって出てこないんですね。彼はエチオピアが反政府組織寄りだということで批判してサインを拒んだんですが、オバマ米大統領からサインしないと経済制裁を加えると言われて、いやいやながら、エチオピアの新しい首相がジュバにわざわざ来てサインしろということで、サルバ・キール大統領がサインしているんですね。サイン会に出席した知り合いの南スーダンの議員の話では、サインする時に大統領はなんと嫌がって泣いたそうです。これが和平合意です。嫌々サインしていますが、そういうものが本当に履行されるのかということを皆さんで考えてもらいたいです。和平合意があったと言えば、心を入れ替えたのではないかと思いがちなんですが、こういった戦略的、或いは仕方なくサインすることも結構あるということも考えてもらいたいです。
もう一つは、エチオピアは最近、ナイル川流域にルネッサンスダムという大きなダムを作っています。これで南スーダンなどに電気を輸出しようとしているわけですね。これに対してエジプトが非常に嫌がっています。
なぜかと言うと「エジプトはナイルの賜物」ということで、上流でダムを造られてしまうと水流が減るのではないかと言うことで、非常に抵抗しています。しかし、アラブの春でエジプトが混沌とした状況になるの中で、エチオピアの力がどんどん相対的に上がってきています。エジプトはダム建設を牽制していますが、エチオピアの大統領は2013年に軍事的行動も辞さないと言ったんですが、領土も接していないんです。それで何が起きたかというと、先ほども申し上げましたが、2013年の紛争が起きた時に南スーダンのサルバ・キール大統領は反政府寄りではないかということでエチオピアを非常に牽制していました。それでサルバ・キール大統領は2014年3月にエジプトと軍事協力協定を結ぶんですね。まだ自衛隊は首都のジュバにいますよ。
その協定の中身として最も重要なのは、エジプト軍が南スーダンで危機があれば展開することは出来るということなんです。エジプトから見れば、エチオピアの近くまでやってきて、エチオピアの反政府組織にも支援出来ると言った圧力をかけることが出来るわけですね。南スーダンにとってはエジプトとの関係によって、エチオピアに対しても牽制できるということで、南スーダンはこの地域で非常に大きな国際環境の中で翻弄されていて、巻き込まれていることは皆さんにわかって頂きたいと思います。
最後は別れた母体国家である北部のスーダンです。南スーダンは2011年に独立しますが、一番の問題は国境線が確定していないんです。領土が確定していないまま独立しているんですね。地図の赤で出ているアビエイ(Abyei)という地域は石油の埋蔵量が豊富なんですが、その帰属をめぐって双方で見解が違っていて、問題が解決していないんです。2011年以降も小規模な紛争を何回かやっているんです。そこにはエチオピア軍が3,000人ぐらい展開して停戦合意していますが、領土問題は未だに解決していない。
南スーダンは安全だと言われますが、このように地域環境です。ウガンダとの関係では、基本的にはサルバ・キール大統領を守っているのはSPLAではなくウガンダ軍なんです。さらにエピオピアが南スーダンに大きく関与している。スーダンとの問題は相変わらず山積みである。さらにエジプトとエチオピアの緊張は南スーダンを伝わって軍事協力協定とかを結んで、代理戦争がここで行われる可能性も否定出来ないということです。南スーダン問題は政治の空白地帯として近隣諸国がそこで利害調整したりしているということは皆さんにわかって頂きたいと思います。
自衛隊を展開した時、一応、南北紛争は終わりました。これから紛争が起きる可能性は低いという仮定のもとで日本の自衛隊は派遣されていますが、状況はそうではないということです。
そこから、南スーダンの人たちは日本に何を求めているか、ということですが、この状況の中で、今は施設部隊が展開して道路を作っています。ただ、いくら道路を作ったってどこまで本当に作れるのかということなんです。日本としてはPKOでプレゼンスを示せるかもしれませんが、本当に意義や意味のある活動をしようと思えば、私はこれが日本が出来るベストのことではないと思います。
先ほども言いましたけれども、南スーダンは大統領側と反政府側で非常にミリタライズ、軍事化された社会になっているんですね。60年間の間、紛争がずっと長引いていたので、信じられるのは武器だけなんです。そう言った軍事化された社会をどのようにリミリタライズ、非軍事化するかということで、伊勢﨑先生がご専門のリビアとかで武器取り上げたとかそういう話ではなくて、それ以外のオプションがあると私は思います。
どういうことかと言いますと、南スーダンは石油の生産がありますので、技術者などを非常に必要としているんです。インフラ整備はまだまだこれからなので、自衛隊は道を作る必要はなくて、南スーダンの軍を非軍事化させる要因は、日本の自衛隊が訓練しながら道を作っていく、オン・ジョブ・トレーニングをしていった方が今後の南スーダンの発展を担う、南スーダンの人々のスキル向上につながるのではないかと私は思うんですね。
ここだけの話ですが、自衛隊が作っている道は、国連関係者が住むコンパウンド(複合住居)と国連関係者しか買い物が出来ない値段の高いショッピングモールの間の道だそうですね。南スーダンに3年間ぐらいいた知り合いから聞きました。そういうことを言うと自衛隊の皆さんにはすごく申し訳ない気分になりますが、しかし、誰がそれを自衛隊に要請したかはわかりません。
もう一つ、南スーダンで自衛隊はどう見られているかということですが、これは2つに分かれていて、2013年の危機が起きた時に、ヌエル族の人たちが国連のコンパウンドの中に入ってきたんですが、たまたま物資を配っていたのが日本の自衛隊員だったんです。だから日本に対してコンパウンドの中の国内避難民はすごくありがたいと言っています。ただ、ここまで南スーダンの社会は分断されているので、どっちかを保護することは、どっちかを敵に回すということを意味しますので、リスクという点では、紛争がエスカレートした時、日本の自衛隊は駆けつけるまでもなく、自衛隊が敵とみなされた時にどうするかということ──私は軍事専門家ではないのですが──、本当に自分たちの命を守れるかという問題があるのではないかと思っているんです。
私はもうちょっと安全になってから、南スーダンの非軍事化される若者を預けるところとして、自衛隊の施設部隊は貢献出来るのではないかと──南スーダンの人間ではありませんが──、そう思っている今日この頃です。話したいことはたくさんあるんですが、質疑応答の時に追加で話したいと思います。ご静聴ありがとうございました。
司会 ありがとうございました。報告の最後に自衛隊を活かす会の呼びかけ人である伊勢﨑からご報告します。よろしくお願いします。
まず、概念の整理から始めたいと思います。日本の常識は世界の非常識みたいなことは言いたくないんですが、それに近い状態がずっと作られてきて、それが今、安倍政権によって最大限に可視化されたと僕は思っています。
個別的自衛権と集団的自衛権の話ですが、まず個別的自衛権の話です。法学者に聞けばもっと厳密な話になるのでしょうが、国民の間では、個別的自衛権は「やっていい」と考えてきたのではないかと思います。つまり、憲法9条は許していると。敵が日本国内に攻めてきたら、それに対しては、いくらなんでも反撃出来るだろうと。
それに対して、集団的自衛権はダメ。憲法9条は、集団的自衛権は許さない。でも、安倍政権がこれを閣議決定で承認してしまった。
集団的自衛権と言うと、アメリカがやる勝手な戦争──それも何千キロも離れたところの──、に日本が巻き込まれる。個別的自衛権だったら、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利という憲法上の要件からもOK。でも集団的自衛権は、モロ“戦争”だからダメ。そういう感じになっているのではないでしょうか。つまり、日本人の脳裏には、個別的自衛権と集団的自衛権の間に、非常に大きな壁があるんですね。
集団的自衛権という語彙が記されている国際法は国連憲章のみ。そこで、国連安保理が決める国連的措置──日本語訳では集団安全保障です──が取られるまでの間、暫定的に行使を許されているいるのが、個別的と集団的の2つの自衛権です。国連というのは人権を守るための世界政府にはまだなりえていません。中国を含む戦勝5大大国が、二度と日本やドイツのような地球侵略を企てる不埒な侵略者を許さないために、地球上すべての国連加盟国の「武力の行使」を統制する世界統治システムが、国連なのです。もし侵略者が現れたら、国連全体でぶちのめしに行く、それが集団安全保障です。
だから、少なくとも5大大国は“侵略”しない。残念ながら、中国も、です。彼らが“侵略”するとしたら、それは個別的または集団的自衛権としての要件がなりたつときのみです。彼ら自身が、その要件をつくっちゃうのですが。
この集団安全保障は、70年前に国連憲章が出来た時は、明確に「侵略者」に対する殲滅措置でした。それがしばらくすると、国連憲章が創稿された時には想定外のことが起きてくるわけです。それが内戦の時代です。
戦争というのは、国と国が戦うものでした。ところが一国の中の内輪揉めで、戦争と同じような規模の人道的被害が出ている状況が出現するようになった。それに国連がどう対応するかということで、PKOが発明されるわけです。そして、国連安保理が決定する集団安全保障の焦点になっていくわけです。
一国の国民が他国にいじめたら、これは侵略ですから、全員で絶対に叩こうというのが集団安全保障。ところが内戦というのは、その国の政府が自国民をいじめているんです。内戦は、その一国で完結する概念ですが、実態はそうではなく、もともと国境線は植民支配に決められたようなところが多いから、内戦構造は周辺国と連動しているというのは、先ほどアブディンさんが言った通りで、現代の内戦は、国際紛争なのです。まあ、こういう事態をなんとかしなければいけないということでPKOが発明されたわけです。
PKOは、はっきり言って内政干渉です。中国だってチベット問題を抱えているわけが、これにPKOが発動されることはないわけです。そういう問題を抱えているわけです。内政不干渉の原則というのは国連の基本ルールで、非常にデリケートです。それなのに敢えて干渉する。国連憲章には第7章:強制措置というのがあって、内政不干渉、でも、何かしないといけない。こんな状況で生まれたのがPKOです。
でも、 “侵略”もしていない一加盟国との戦争は避けたい。だから、中途半端な言い方ですが、PKOは、強制措置である7章まで行かない、当事者の同意がベースの平和的介入の6章との間をとって「6章半活動」とか、PKO部隊は「敵のいない軍隊」とか、そんな言い方がされてきたわけです。
そういうことで、「当事者の同意」の下、使うことを想定しない武力で介入するPKOに、渡邊さんが関わられたカンボジアを皮切りに、日本は参加してきたわけです。カンボジア当時は、国内で強烈な反対運動がありましたが、今ではもう起こりません。自衛隊のPKO参加は良いものである。個別的自衛権と同様、憲法9条は許している、というのが日本人のマインドに定着したのではないでしょうか。つまり、個別的自衛権と集団安全保障で運用されるPKOはOK。でも集団的自衛権はダメと。日本人のマインドを図にすると、これ。
これに対して国際法の考え方では、個別的自衛権と集団的自衛権にあまり違いはありません。2001年の9.11で、アメリカがアルカイダに本土攻撃をされました。アルカイダを囲っていた何千キロも離れた当時のアフガニスタンのタリバン政権に個別的自衛権による報復活動で行ったのが今のテロとの戦いの始まりです。つまり距離は関係ありません。まず攻撃を受けなければいけませんが、個別的自衛権の行使で何千キロも離れたところに出かけて行って、そこを殲滅して、占領統治まで出来る。これが国際法でいう個別的自衛権です。
9.11の後に、同じようにイスラム教徒の移民を抱えているEUを中心としたNATOという軍事同盟が、明日は我が身ということで脅威を共有する形で集団的自衛権の行使をしたのがNATOとアメリカの今の戦争です。距離は関係ないんです。喫緊な脅威を明確に共有するか否かが集団的自衛権です。だからこそ、安保理が、いやいやですが、安保理の許可なしで加盟国が行使できる“権利”として認めているのです。
お仲間で個別的自衛権をやるのが集団的自衛権なのです。英語で国連憲章を見ると一番よくわかるんですが、「Individual & Collective Self-Defense」、どちらも「Self-Defense」です。
2つの自衛権は暫定的な固有の権利なのです。暫定的ということは時限がある、ある時まで許されているということです。いつまで許されているかというと、集団安全保障で、国連安保理が「こうやろう」といった措置が取られるまでだけ。安保理が割れていたら困るし、時間もかかるし、その間に全滅しては困るので、固有の権利として行使してもよろしいと許可されたのがこの2つの自衛権。繰り返しますが、だから、「権利」なのです。
これに対して集団安全保障というのは“組合員”としての義務です。国連という組合ですね。加盟国である限り、やる義務を負っている。我々日本人にとって、明日、南スーダンが消えてなくなろうが別に関係ないでしょう。関係なくても、助けに行くわけです。関係のない国への「他国防衛」なわけです。
集団的自衛権というのは、明確に喫緊に脅威を共有しているという意味ですから、今回の安保法制で安倍さんが言う「国家存立危機事態」というのは、極めて正しい集団的自衛権の解釈です。この間も、自衛隊の集まりで、ある幹部が「今回の安保法制には集団的自衛権という言葉が一つも出てない」、だから、「憲法違反じゃない」と言ったんです。彼は、立場的には、安保法制支持です。安保法制反対側に、集団的自衛権に対して正しい理解がされないと、こういうふうに、揚げ足を取られるのです。安保法制の目玉である「国家存立危機事態」はまさしく国連憲章上の集団的自衛権の全く正しい理解なんです。だから、今回の安保法制は、集団的自衛権という言葉が出てこなくても、集団的自衛権を容認する法制なのです。
個別的自衛権、集団的自衛権と集団安全保障。この3つだけが、現代の国際法で許された武力の行使の口実です。これ以外の口実は使えません。これ以外の口実で武力の行使をしようとすると、それは侵略になります。アメリカが今やっている戦争も、やってきた戦争も、フランスがパリ同時多発テロ直後始めた空爆も、この3つのうちのどれかになります。侵略まがいのものに悪用されるきらいがありますが、人類はやっとここまで来たんです。どんな超大国も、武力の行使に関して、この3つのどれかの言い訳を探さなければならない、ここまで来たんですね。これから、地球政府になるべく、もっともっと国際法は発展すべきですが。
以上、国際法における「武力の行使」は、これが基本ですが、これに加えて、もう一つわからない概念があります。これが集団防衛、Collective Defenseです。これがいわゆる軍事同盟になります。NATOのようなものです。集団防衛と集団的自衛権という言葉が似ているので、日本の軍事専門家でも間違えることが多いのですが、全然違います。
繰り返しますが、集団的自衛権は“権利”です。集団防衛というのは、国連とは別の“組合の義務”です。つまり、一つの組合国に与えられた攻撃は組合全体のものとみなすという契約。これが軍事同盟です。義務といっても、組合を脱退する自由が前提の義務です。これが、安保法制反対派が反対する「他国防衛」です。集団的自衛権は、この他国防衛ではありません。ここを押さえておく必要があります。「集団的自衛権は他国防衛だからダメ」というコピーは間違っているのです。
こういう国連とは別の“組合”をつくることは、国連憲章第8章で、「地域の取り組み」ということで奨励されています。2つの自衛権の“いやいや”許可と同じように、安保理が地球上で起こるすべて問題の対処を背負うのも無理があるんで、地域で“ミニ国連”をつくってね、ということです。でも、そのミニ国連が何かする時には、事前に安保理の許可が必要という。あくまで安保理は世界の王様でいたいのですね。
たぶん、9条が禁止しているのは、実は「集団的自衛権」ではなく「集団防衛」であると思います。そのほうが、すっきりする。
この第8章は、いわゆる「敵国条項」としても有名です。つまり、ミニ国連に敵が襲いかかったとして、その敵が「旧敵国」だったら、“許可”なんか無しでボコボコにしていいからね、というものです。つまり、日本のことです。
今回の安保法制では、11もある法案を1回の国会で通すという無茶なことをやってくれました。雑多で理解しにくいですが、全ては自衛隊を海外に送るためのもので、その現場は3つしかありません。
それは、①従来の国連平和維持活動(PKO)、これは集団安全保障、国連安保理が決めるものです。②非国連総括形(有志連合型)、これは対テロ戦のようなものを思い浮かべてください。9.11を本土攻撃と見なしたアメリカの個別的自衛権の行使として始まったテロとの戦争が、NATOの集団的自衛権の行使になってゆく。そんな感じで、国連決議が必ずしもあるわけでない。もう一つが③周辺事態です。これは対中国の海洋進出を意識したものでしょうが、元々周辺事態法というものがあって、周辺の概念をずっと拡大して、アメリカが行くところならどこでも、みたいな感じ。この3つの現場があります。
今日は①のPKO。PKOは自衛隊の法的地位と9条の問題について最も注目しなければなりません。なぜなら、PKOは常に「水先案内人」として使われてきからです。
我々一般市民の20〜30年前の自衛隊に対する感情と、今の感情の変化は渡邊さんの言われた通りです。自衛隊に対するアレルギー、特に自衛隊が海外に行くことに対するアレルギーを取るため、言わば水先案内人としてずっと機能してきたのがPKO活動です。国連が決めて、みんなのため、世界のためにやるんだから、反対派も反対しにくいわけですね。例えば、南スーダンを見捨てるのかと言われたら、人道主義に反するということになりますから。
今、自衛隊がPKO活動をすることに、リベラルなメディアも批判しません。この戦略は、非常に成功したわけです。9条は一字一句変わっていないのに、自衛隊に対する国民の好感度が激増したわけです。「違憲なのに、なんとなく合憲」みたいな雰囲気の中で、軍事組織としての法的な地位を与えずに、国際法的に交戦権の支配する、つまり戦場であるPKOの現場に送られてきた。今回、安保法制で自衛隊の業務全体が底上げされることによって、この矛盾が更に先鋭化するのがこのPKOです。だから今、PKOに注目するのは本当に大事なことなのです。
アブディンさんがお話になった南スーダンです。僕は去年、コンゴ民主共和国に行ってきました。アブディンさんが言ったように、南スーダンとコンゴ民主共和国、隣の中央アフリカというのはPKOの3大ホットスポットです。
コンゴ民主共和国では過去20年間に、540万人が内戦で死んでいます。540万人ですよ。もう内戦とは言えません。なぜかというと、国境があっても、ないようなものだからです。元々、植民地支配が勝手に線を引いたのですから。いわゆるコンフリクト・ストラクチャー、紛争構造。一国の反体制勢力は、部族的や地域的なまとまりがありますから、それらが国境を自由に跨ぐわけです。
例えばコンゴ民主共和国には40以上の反政府ゲリラがいます。その幾つかは、南スーダンでも紛争構造になっています。
ひとつひとつの国連PKOのミッションは、1つの紛争国に対して、その権限が与えられます。この3カ国では、3つの独立したPKOミッションが展開しているわけですが、国連は、ここを1つの「地域」としてみなしています。なぜかというと、今言いましたように、現代の内戦というのは一国で完結する問題ではなくて、インターナショナル・シビル・ウォーなんですね。
もう一度整理します。
①個別的自衛権、②集団的自衛権、③国連的措置(集団安全保障)、これが国際法で許された武力行使の3つの口実です。これ以外の口実による武力行使は「侵略」となり、許されません。
個別的自衛権と集団的自衛権は、国際法的には「交戦権」の行使になります。武力行使の口実が規定される国連憲章から、それが実際に行使されるその瞬間から国連憲章より古くからの慣習法や条約の集積である戦時国際法・国際人道法が規定する交戦権の行使の世界になります。つまり戦争の流儀。ロー・オブ・ウォーですね。
個別的自衛権と集団的自衛権の関係は、距離ではありません。個別的自衛権でも、1度攻撃を受けたら、何千キロ離れたところにも出かけて行って敵を殲滅できる。そして占領して暫定統治まで出来る。併合はできません。侵略になりますから。でも、暫定統治のやり方までロー・オブ・ウォーということで示されているわけです。これが「交戦権」です。実は、9.11後アメリカの開戦は、合法なんです。イラク戦争も、フセイン政権とアルカイダの関係と大量破壊兵器の保持は殲滅後に否定されましたが、開戦時には残念ながら合法だったのです。歴史的に、まったく間違った戦争ですが、開戦時には、合法な交戦権の行使だったのです。
日本はどうでしょう。9条は、国の交戦権はこれを認めないと言っているわけです。国際法でいう個別的自衛権というのは交戦権のことを言うのですが、日本国憲法は認めていない。
では、日本人が、9条が許していると思っている個別的自衛権はなんですか? 実は国際法でいう個別的自衛権ではないんです。それは、日本が自ら定義した「自衛権」という概念で、つまるところ、「交戦をしない自衛」なんですね。
防衛省のホームページには、こうあります。
憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。
防衛省「憲法と自衛権」憲法第9条の趣旨についての政府見解(4)交戦権 http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html
必要最小限の反撃するけど、交戦しないって、どういうことでしょう?
まず、攻撃を受けますね。そして、反撃しますね。でも、それでも、敵が攻撃を止めてくれなかったら?応戦の継続になりますよね。それでも止めてくれない。埒があかないから、奴らがやって来る本拠地を叩こうと思うじゃないですか。敵地攻撃ですね。でもそれは出来ないわけです。
もし、その応戦の継続の中で、自衛隊が捕虜に取られたらどうしますか?日本は自衛隊員が捕虜に取られてもジュネーブ条約上の捕虜としての扱いをしなくても良いと国会答弁で外務大臣が言う国です。交戦主体になれないからです。
もし、自衛隊が応戦中に間違って敵国の民間船を沈めてしまったらどうしますか?これは、国家が責を負うべき国際人道法違反です。こういう軍事的過失対処する法体系を我々は持ちあわせていないんですね。軍事法典がない。つまり、自衛隊は法的に軍事組織ではありませんから、軍事的過失は、自衛隊員個人の過失になってしまうんですね。
「交戦しない自衛」を別の角度から見ると、反撃の継続ができないってことになると、逆に、その一撃で相手の追撃の意思を挫くために、そこでは使わない軍備をより高めよう。つまり、「抑止力への渇望」が、逆に強まるのではないか、と。ヘタすると、核武装までいってしまう。
応戦が継続したら、交戦しない自衛権の行使って、どうなるのか、誰も分からないんです。だから今までやっていないんです。だから概念的に自衛権ということにしておいて、何もせず、実際にやっていないわけです。自衛隊は、戦後、防衛出動、できるのに、していませんし。現場の自衛官たちが、一番わかっているのですね。このナンセンスさを。
個別的自衛権、集団的自衛権が交戦権の世界であるのに対して、集団的安全保障である国連PKOは、唯一、交戦権を考えなくてもよさそう、ということで、日本はこれに自衛隊を送ってきたわけです。国連PKOは元々、「敵のいない軍隊」でしたから。
ところが、それが変わってきちゃったわけです。これが激変する世界情勢です。1994年に大変ショッキングなことがルワンダで起きます。南スーダンのちょっと下です。有名な映画「ホテル・ルワンダ」でご存知の方もおられると思いますが、政府と反政府勢力の間の内戦がやっと停戦ということになって、停戦監視のために中立な武力として国連PKOが入るわけです。これを維持して、和平合意につなげるために。PKOのマンデートは、あくまで「停戦監視」です。ところが、その停戦合意がPKOの目の前で破れちゃったんです。
目の前で住民が殺しあう。特に多数派のフツ族が、反政府勢力がベースとする少数派のツチ族に対して襲いかかる。フツ族は政権側です。政権側が悪いことをしている。その時の国連PKO部隊の最高司令官がロメオ・ダレールという僕の友人でカナダの将軍でした。ロメオ・ダレールが国連本部に対して、今たいへんなことが起こりつつある。今我々が行動を起こせば、それを阻止できる。行動を起こさせて欲しいと、要請するわけですね。ところが国連は中立性が失われるからダメだと。PKO部隊は停戦を監視するためにいるのであって、武力行使のためではない。特に、この場合は、政府系のが悪さをしているので、国連の武力行使の相手が、「侵略」をしているわけでもない一国連加盟国の政府になってしまう。つまり、国連が、一加盟国とその内政問題をめぐって「戦争」をするということ。
ということで、行動を起こさなかったのです。武力による内政介入は、マンデートにない、と言われて、傍観しちゃったんです。それで100日間で100万人が犠牲になってしまった。あの時に武力介入をしていれば100万人は死ななかったでしょう。これが、国連PKOにとっての歴史的トラウマになります。
それと同時進行の形で、その隣のコンゴでは、540万人が犠牲になってゆきます。
そして、僕がいた時ですから覚えていますけれども、1999年にやっと国連の事務総長から、現場にいる僕らピースキーパーにお触れ、事務総長官報が来るわけです。これは日本では報道されませんでしたが、ピースキーパーは戦時国際法・国際人道法を遵守せよ、つまり同法でいう交戦主体となれ、ということです。つまり、戦争をするという。
そこから国連が変わりました。交戦権というのは合法的に敵を殲滅する権利です。合法的でないものは、例えば、民間人への攻撃で、国際人道法違反になります。国際人道法とは、人道的な戦争をやるためのルールなのです。国際人道法で規定される敵と味方が、正々堂々と交戦主体として殺し合え、と。
国連のピースキーパーは交戦主体になることを恐れずに住民を守れということです。以降、国連PKOのマンデートが変化してゆきます。それまでは、中立な立場での停戦監視、「敵のいない軍隊」だったのが、住民の保護が筆頭マンデートに。まさに南スーダンPKOはこれです。
つまり、国民に降りかかる脅威をその国家に変わって除去する。通常の自衛戦のように交戦権を行使、「戦争」することです。そこに我々は自衛隊を送っているのです。
このように、国際法で許されている3つの武力行使は、全て交戦権の世界になっています。
アフリカでは現在、8つか9つのPKOミッションが展開しています。そのほとんどの筆頭マンデート、使命は住民の保護、国民の保護です。この変化の中、先進国がPKO部隊を送るケースはほとんどありません。これは簡単に国連のホームページで見られます。唯一あるのが南スーダンPKOの韓国と日本ぐらいです。
その紛争に歴史的な責を負う旧宗主国も出しません。誰が出しているか。一つは伝統的にPKO部隊を外貨稼ぎの機会とみなす発展途上国です。もう一つは、今は内戦が国際化していますから、集団的自衛権のマインドで参加する周辺国です。つまり「ここの内戦を放っておくとうちも危ない」という脅威の共有の下、集団的自衛権のマインドでやる。中立性が重んじられた昔は、既得利権があるとして忌諱された周辺国の参加は、住民の保護がマンデートとなった現在、「真剣に戦ってくれる」ということで、ミッション設計の前提となっているのです。
集団的自衛権と集団安全保障PKOが極めて接近している。はっきり言います。部隊派遣は、先進国に求められていません。
過日、数あるPKOミッションの中で、最も過酷な現場と言われるコンゴ民主共和国に行ってきました。南スーダンの下です。
PKO部隊の最高司令官はブラジル陸軍のサントスクルズ中将です。トップを務めるのは2回目。ここの前の任地はハイチで、自衛隊が派遣されていました。
最前線の部隊を訪問する道中の立ち話で、「ハイチでは本当によくやってくれた」と自衛隊の勤勉さを称賛するサントスクルズに、「将軍。知ってる?日本じゃ、自衛隊の指揮権は、東京にあるって言っていたんだよ」と言うと、「ざけんな」と即座の回答でした。
自衛隊はPKO部隊であるだけでなく、国連部隊という多国籍軍としての「武力の行使」に"一体化"して活動するのです。これは至極当たり前。一体化しなかったら、多国籍軍としてのPKO部隊はそもそも成り立たないからです。
しかし、歴代の政府は、自衛隊の活動は「武力の行使」と"一体化"しないという"いわゆる"一体化論(政府は外向けに英訳でthe theory of so-called "Ittaika with the use of force"とする)を編み出し、9条と抵触しないという言い訳としてきました。
この一体化論の基礎となるのが、これもまたso-calledが付く「後方支援」や「非戦闘地域」という、日本の法議論のためにつくられた、戦場において全く弾が飛んでこない仮想空間でです。政府というのは、どんなリベラルが政権をとっても詭弁を具するものですが、それをクリティカルに検証するのが、そもそも自衛隊派遣に反対するリベラル勢力の役割のはずですが、無批判にこれを受け入れ、右・左の自衛隊論争の"土俵"を築いてきたのです。
この「一体化」問題を厳密に見てみましょう。
PKO部隊のような多国籍軍と、一国の軍隊の行動には、決定的な違いがあります。言うまでもなく、軍隊とは、殺傷行為の如何が、人権・刑事の立場からではなく、軍規の立場から統制される職能集団です。通常、軍規・命令違反は、厳罰に処され、軍規、そして、その軍法会議の管轄権は、その軍だけに限られる。
一方、国連は、いまだ地球政府になりえていませんから、国連軍法会議なるものは存在しません。多国籍軍の活動で起こる軍事的な過失を、ある一派遣国の軍法会議で裁いたら、それは重大な内政干渉になってしまいます。
更に、もしPKO部隊を構成するある一派遣国の政府が、なんらかの理由で撤退を決定した時、PKO統合司令部に、それを覆す政治力があるか?
その撤退を「敵前逃亡」だと謗(そし)っても、統合司令部に、それを止める力はありません。多国籍軍とは、基本的に有志連合。自分勝手な撤退を律するのは、せいぜい外交的な信用の失墜、ぐらいでなのです。罰則はないのです。国連ですから。
この意味で、自衛隊は、多国籍軍として一体化"しない"といえます。でも、"しない"のは、9条を戴く自衛隊だけでなく、すべての派遣国の部隊も、同じなのです。9条の特殊性のある日本だけが“しない”、“しない”ではないのです。
でも、"しない"のは、この1点だけ。あとは、すべて一体化"する"のです。
PKOミッションにあたって国連は、それが活動を行う当該受け入れ国と、一括して「地位協定」を結びます。基本的に、PKO部隊の公務中に発生する軍事的な過失の裁判権を、派遣国の軍法に与える、つまり、受け入れ国の司法による訴追免除の特権を、派遣国の部隊に与えるのです。
これは戦後の日本が、朝鮮半島動乱を機に"受け入れ国"として昭和29年に署名した「日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定(略称)国連軍地位協定」と同様です。
つまり、PKO部隊の統合司令部は、受け入れ国と一括して締結した地位協定を担保に、各派遣国部隊に対して「特権をやるから言うことを訊け」と、指揮権を行使するのです。自衛隊も例外ではなく、この意味で、一体化"する"のです。
もう一つは戦時国際法、つまり敵から我々はどう見えるかということです。自衛隊が宿営地に籠って何もしなくても、もしPKOの一部の部隊が敵と交戦状態になったら、どうなるか。戦時国際法というのは、すべてが“敵からどう見えるか”ですから、その部隊だけが交戦主体になるのか、それともPKO部隊全体が自衛隊も含めて交戦主体になるのかと言うと、戦時国際法は後者の立場に立ちます。つまり自衛隊が「9」とヘルメットに書いても何の意味もありません。「9」はそこまでなっていません──唯一意味があるのは国際赤十字のマークだけです──、自衛隊は「9」をつけているから撃たないでくれという話にはならないのです。これが国際法の世界です。つまり、国際法の世界では一体化“する”のです。自衛隊は、基地に籠ってじっとしていても、それどころか、PKO参加の政治決定の時点で、既に、静的に、「武力の行使」と一体化"する"のです。 以上、武力の行使と一体化しないという、一体化論は全くの嘘です。
渡邊さんが言われたように、一体化論をアメリカにどう説明しているかと言うと、そのままローマ字で「Ittaika」と言っているんですね。説明しようがないんです。まともな軍事のコミュニケーションができない。何にでも「いわゆる」がつくんですね。
「後方支援」という言葉もありません。兵站と正直に言えばいいのに。これにかんしては、ちゃんとLogisticsを使っているのですから。
「非戦闘地域」なんてありゃしません。強いてあるとすれば、それは基地の中だけです。しかし、その基地の中も狙われます。
「国準」、「国に準ずる組織」ですが、これは説明するのも恥ずかしい。つまり、「国と、国に準ずる組織が停戦合意している。停戦合意が破られるというのは、まともな連中同士だからあらかじめ分かる。それを予感して撤退すればいい。だから武力の行使をする心配はない」と政府は言ってきたわけですね。
そんな中、もし、はぐれものが撃ってきたらどうするか?
「そいつらは国でもないし、国準でもない、単なる犯罪者だから撃っても構わない」「警察官が武器の使用をするようなものだから、武力の行使には当たらない」「武力の行使に当たらないとして殺せるということは、武力の行使を統制するのは国際人道法ですから、国準ではない人間を殺しても国際人道法違反にはならない」というロジックですね。これは英訳して外に発信したら、人権団体や国連人権理事会が問題にしますよ。つまり、殺してもいい、国際人道法違反にならないと、一国連加盟国が勝手に定義する。許されるわけがありません。だから、昨年、国会で参考人招致された時、これを絶対に外に発信してくれるな、とお願いしたのです。
日本人は、こういう詭弁で論争してきたんです。リベラルも受け入れて。現場に直接行って検証するリスクが回避でき、そして何より、こういう解釈改憲の根本が覆されることで、それが、ほんとうの改憲へと政局が動かないように。つまり、9条の条文を守るために、詭弁を受け入れてきた。僕はこれを「右・左の談合」と言っています。
メディアが現地に行けばいいんです。こんなことが嘘だということは、現場に行けば分かるんです。メディアもたまには行くんですが、自衛隊の追っかけばかりやっている。こんなんじゃ、何も見えません。反対派が怠慢だからこういうことになるわけです。無知を維持するための談合なのです。
「一体化」「後方支援」「非戦闘地域」「国準」、こんな言葉を弄するの、もう止めましょう。一旦、これらの言葉を全部なしにして、議論をゼロから組み立てましょうよ。そうでないと、今後、南スーダンで起こりうる、自衛隊が被る問題の本質は見えてきません。
そうすると、ただ一点が見えてくるはずです。
つまり、自衛隊を軍にするのか、しないのか、という一点です。
今、野党結集が叫ばれていますが、何を結節点とするかにおいては、残念ながらこれが全く出てこないわけです。ただ、「安倍憎し」だけ。別に、自衛隊を軍に“しろ”とは言っていません。それを国民に問わない限りは、南スーダンPKOの自衛隊が突きつける国家、もしくは人道主義へのリスクが解決しないどころか、“見えない”のです。
はっきり言いますが、安倍さんは悪いことをしていませんよ。安倍さんは新しい自衛隊の派遣は何もしていません。
南スーダンに送ったのは誰ですか?
9条の国が、イスラムのスンニ派の世界のジブチに半永久的な戦略的軍事拠点を持っているんですよ。これをつくったのは誰ですか?
安倍さんではありません。安倍さんは何も悪いことをしていません。なぜここまで安部さんは悪魔化されるんですか?
ちょっと冷静になりましょうよ。ということで終わらせて頂きます。
司会 今から1時間ほど、3人の方の報告に基づいて討論をしたいと思います。
いつもこういう複雑な問題の司会というか、コーディネーターは全て柳澤さんの力で、こんな複雑な議論がどうまとまるのか、いつも興味津々で見ておられる方も多いと思いますが、柳澤さん、よろしくお願い致します。
今日は自衛隊を活かす会の企画ということで、お寒い中、お集まり頂いてなんて言うと、別にこんなのは普通だよということなんだろうと思うんですが、複雑である意味、発散してしまった論点をどうするかというと、無視するんですね。そうしないとまとまらないから。
お三方にお話頂いて、その中から三題噺のようなことでに綺麗に着地するかどうか分かりませんが、私なりまとめさせて頂きたいと思います。
渡邊さんが冒頭おっしゃった、自衛隊を9割の国民が支持しているということですが、これはやはりここに来るまでに60年間、特に陸上自衛隊が地元に災害派遣などで貢献しながら、一生懸命やってきた涙ぐましい歴史があったんだろうと思うんです。
私もちょうどそういう時期に防衛官僚をやっていたわけですが、今回の安保法制を見た時に一番感じた違和感というのは、自衛隊や自衛官は部隊としてやっていくのだったら思う存分、能力が活かせるような構成にしてほしいという希望があるのはそれはそれで分かるのですが、問題はそれを国民、或いは政治がどこまで認識し、どこまで支持し、どこまで責任を取ってくれるのかということです。
伊勢﨑さんがお話になったことを一言で言えば、「今の憲法の下では、これは出来ないんだよ」ということを言っているんですね。伊勢﨑さんも最後の結論で「だから憲法を改正すべきだ」というご意見になるのかと思ったら、そこまでおっしゃらなかったのですが、そういう意味で理解の仕方を私の方で勝手に決めさせて頂きますが、そこのところをどう捉えていくのかということが、今、問われていると思っています。
安保法制の一番大きな要素について、私は法律事項は4つだと言っているんです。1つは自衛隊の派遣の機会を増やすこと、2つ目は自衛隊の武器使用の機会を増やすこと、3つ目はアメリカ軍に対する支援の機会と内容を増やすこと、なぜこれが法律かと言うと、自衛隊の持っている国有物品をタダで米軍にくれてやるという、国の会計原則の例外をやるから法律がいるわけですね。4つ目は自衛隊員が国内で職務上の例えば上官の命令に反抗するなどというものには刑罰があります。その刑罰を海外でも適用する。これは刑罰の拡大ですから法律事項になります。安保法制に書かれていることはこの4つなんですね。私が一番違和感を感じるのは、2つ目の武器の使用なんです。
私も防衛官僚をして、そして官邸に5年半いる時は、陸上自衛隊がイラクで活動している時期だったわけです。冷戦が終わり、渡邊さんが行かれたカンボジアのPKOが手始めだったんですが、どういうことでやってきたかというと、もっと前には伊勢﨑さんの言われる「交戦権がないのに、どうして個別的自衛権だけいいの?」「どうやって戦うの?」というところはあるんですが、結局、今の憲法の下で、自衛隊という実力組織、軍事組織を作って、そして、ありていに言えば戦うわけですね。だからどういう時に戦うかと言うと、「日本が攻められた時にだけ戦うんですよ」という意味の個別的自衛権は憲法の下でも良いよねと。
そして冷戦が終わって、カンボジアPKOに始まる国際任務が出来た時にどう整理するか、これは悩ましかったわけです。だから「停戦合意があります、国または国に準ずる主体同士はもう争うことはない状態になっています」ということですね。
アメリカ軍への後方支援については、私が担当局長の時に作った法律で周辺事態法というのがありましたが、ここでは後方地域支援、後の非戦闘地域という概念なんですが、それで「アメリカ軍の武力行使と一体化しない」、つまり「そういう形で他国の戦争には関わっていくけれども、日本自身が戦争に手を汚すことはしない枠組みなんです、だから今の憲法の下でもこれが出来るんです」ということをやろうとしてきたわけです。
それでやってきたことは何か。海外に行ったならば、自分の身を守るために最後の手段としての武器使用だけを許してきた。だから各国軍隊とは明らかに違ったわけです。今後の安保法制では、人を守るためにとか、基地を守るためにとか、その地域を守るために武器を使える。つまり武器を使わなければ出来ない仕事が出てくるわけですね。
イラクに自衛隊が行った時に、非戦闘地域──時々、ロケット弾は飛んできたけれども、私は非戦闘地域だと思っていました──、そこで何をしたかと言うと人道復興支援です。これは武器を使わない仕事なんですね。その結果、ギリギリ一人の犠牲者も出さずに今日まで来ている。
私だって国際的なスタンダードから見れば、日本国憲法との整合性の解釈というのはフィクションだと思います。フィクションだけれども、自衛隊は海外で1発も撃っていないわけですね。そういう実際の運用の中で、かろうじてそのフィクションが現実でありえたと言うか、フィクションをフィクションのまま放置してもそれ以上に議論が必要なかったという状況が続いてきた。
それが、武器使用を拡大するということになれば、道路を治すだけじゃないんです。襲われている人を助けに行く、そんなことは武器を使わなければ出来ません。そういうことをやっていく。そうすると、今まで海外で1発も撃たなかった自衛隊、海外で1人も殺さず、戦死しなかった自衛隊は、そうでなくなってくるということですね。
そうすると、90%の国民はどういう自衛隊を支持してたんですか?というところに戻ってくるわけです。私は、国民の90%の支持というのは、災害派遣を一生懸命やったからというだけではなくて、PKOに出す時だって、戦争になると言って野党は反対していました。当時、私のいた防衛庁にも反対のデモが来ていました。しかし、戦争になってないんです。1発も撃っていないからですね。
今後はPKOの現場でも撃たなきゃいけない状況になってくる。それを国民が支持し続けるのかどうかということが、今後、問題になってくる。そういう法制がよく分からないうちに通っちゃったというところが一番の問題だと思うんです。
私は、軍隊というのは、国民が支持や理解しないことは出来ないと思います。単に現場に行っている人の技量とか、兵器の質だけで戦争というものは出来るものではない。それは何かと言えば、犠牲者が棺に入って帰ってくる、そういうことを国民がどういう受け止め方をするのかという、そこがなければ出来ません。
そして、「武器の使用」という言葉が出てきました。武力の行使と言うと憲法違反になるから、「武器の使用」なんです。武器の使用って法律上、主語はなんて書いてあるか?「自衛官はこれこれこういう時に武器を使うことが出来る」と書いてあります。武器の使用は誰の責任になるかと言うと、自衛官の責任になるんです。
武力の行使であれば、自衛隊は防衛出動命令があれば、日本を守るための武器の使用、日本を守るための武力の行使をすることが出来る。つまり国家意志としての戦闘行為をやってもいい。そこでは自衛隊という主語が出てくるわけです。
ところが海外では、憲法との関係で闇雲にそうやるわけにはいかないんです。だから「自衛官は武器を使うことは出来る」。殺しちゃったらどうするの?それは「自衛官の権限なんだから、間違った使い方をすれば、第一義的には当該自衛官の責任になるんですよ」というシステムの中で自衛隊を派遣しようとしているわけです。
それは先日、元陸幕長の先輩と議論しました。元陸幕長の先輩は「自衛隊はしっかり準備をして、政治の命があればやっていきます」とおっしゃる。そのための職業だからそれはそうなんだけれども、しかし問題は「その結果について、誰がどう責任を負うんですか?」ということです。
その先輩も言っておられましたが、今、後輩の部隊長たちには「自分たちが出来ないと思ったら、政治の要請を断りなさい。断る勇気を持ちなさい」と言っているとおっしゃっていました。そういう緊張関係が必然的に生まれてくるという状況になってきています。
伊勢﨑流に言えば、「元々そんなのは嘘っぱちだ」ということなのかもしれませんが、しかし、その嘘のところでみんなコンセンサスが出来ていた。そしてその嘘が顕在化しないような形でやってきていた。それはそれとして、「もうそんなんじゃ出来ないよ」という時代になったんだろう思います。
しからば、「憲法を選択するんですか?」、或いは「現実にあわせて日本も普通の国としてやっていくことを選択するんですか?」という大きな選択の方が先に問われているはずなんです。
そこの議論がなくて「このままいったら武器の使用が出来ないから」という、技術的なところの議論しかなされていないから、この安保法制が非常に理解しづらいものになっているのだろうと思います。
振り返ってみると、アブディンさんのお話と関連するのですが、イラクに自衛隊が行きました。その時、戦争は支持したけれども、戦争が終わるまで自衛隊を出さなかったんです。それは戦争に参加するわけにはいかないから、憲法違反だからです。
戦争が終わって、イラクを復興しなさいという国連決議に基づいて自衛隊が出て、復興の仕事に限定してやってくるわけですが、それは成功したんだろうかということを考えるわけです。
南スーダンで道路を治す仕事を自衛隊がしている、イラクでも道路を治す仕事をしていたんです。その道路や橋はもう滅茶苦茶になっているだろうと思ったら、橋なんかは残っていて地元の人たちが重宝して使ってくれているそうで、それはそれでよかったんです。
橋を作ることが日本国としての目的だったのかと言うと、そうじゃないんですね。橋を作りに行くことが目的であれば、橋が残っていればそれは成功だったとなるでしょう。しかし、どうも違う。
つまり、アメリカがやろうとしていた、あの地域を民主化する、大量破壊兵器をなくすという目的を考えた場合に、大量破壊兵器はなかったわけですし、民主化というのは今はもう滅茶苦茶な状態になっている。
それを日本は支援する側ですからね、後方支援としてアメリカをどうサポートするかということを考えた場合に、支援される側のアメリカの政治目的が滅茶苦茶になっている時に、支援する側の日本の目的が成功裏に終わったというのは、それはちょっと違うんだろう。今まさにそこを問わなきゃいけないと思うんです。
南スーダンに道路を作りに行っている、それは現象的なミッションであって、それを通じて日本国として何を達成しようとしているんですか、ということです。
あの地域に日本人が行くと、よく「ニーハオ」って挨拶が来るんですね。そういう中国のプレゼンスの向こうを張って、日本のプレゼンスを示すんだということであれば、果たして300人の施設科部隊を出して道路を治すことが、本当に何千人も来ている中国──ビジネスマンも行っています──、に対抗した存在感を示すことになるのか。どうも違う。国としてやりたい目的が分からないわけです。
結局それは何かと言うと、普通の国になりたいんです。お付き合いをしたいんです。それはそれでもいいのかもしれないが、お付き合いをするために本当に命を張れるのかということが問われるわけです。「国のために死んでくれて大変立派なことだったんですよ、どうぞ安んじて英霊としてお眠り下さい」という話を本気でするのかということです。私がこだわるのは。もちろん、死んでもらったら困るんだけれども。
イラクでなんとなく来ちゃったのは、非常にラッキーだったんです。ロケット砲弾が、たまたま人のいないコンテナに当たっているからです。人が寝ているコンテナに当たっていたら何人か死んでいます。そういう状況なんです。
ただあの時、イラクに自衛隊を派遣するのは、対テロ戦争をリードしているアメリカに対するお付き合いで、お付き合いを通じて日米同盟を良好に維持しようというのが、日本政府としての大きな政治目的でした。
だから、死ぬような無理をすべきではないという雰囲気が──私は官邸にいましたので──、与党の幹部にもあったし、官邸にもあったと思う。そういう雰囲気が伝わるから、現場に行っている部隊も出来るだけ抑制的に、地元と敵対しないという努力をしていました。
去年(2015年)の夏にオープンにされた陸幕のイラクの教訓という資料によれば、陸上自衛隊は「危ないと思ったら撃て」という指導はしていましたが、誰も撃っていないんです。「そこまでやらないほうがいい」という東京の雰囲気がやっぱり伝わるんです。人間はそうなんです。法律的に「やってもいい」と言われても、「これは非常にやばいな」という時にどっちで決めるかと言うと、やっぱり属する組織の雰囲気なんです。そこを私は非常に心配しているんです。
今の政権の持っているオーラ、雰囲気がどうかを考えると非常に危険な状態、危険はそれが自衛隊の仕事でそういう意味のプロですが、その仕事を何のためにどういう意義づけを与えて、それによって日本がどういう国になるんだということをはっきり示して、そこで国民の支持を得なければいけない。
普通の国になるという、そのために命をかけるのか?日本のように海外で1発も弾も撃たない国が、普通の国になった方が世界のためにいいんじゃないかという選択もあるわけですが、私はもうちょっと違う答えもあるのではないかと思います。
現地の人は本当に何を求めているのか?自衛隊がイラクで歓迎された理由ははっきりしているんです。日本という国は原爆から立ち直った経済大国ですごい国だから、自衛隊が来るということは、次にトヨタと日産とソニーが来るんだからと自衛隊を歓迎するわけですね。誤解だったんですが。
南スーダンでもやはりそういう部分は必要なんです。国際社会の共通した取り組みの中で、どういう役割を日本が果たして行くか。日本にしか出来ない役割を果たすことによって日本の存在を高めていくという道筋があるはずだと思うんです。どういう道筋で、どういうリスクを覚悟して、どういうプレゼンスを高めることが、どのように日本にとって、或いは世界にとって、どういう意味があるのかという根本的なところ──国家像と言ってもいいのかもしれない──、そういうところが議論されないまま来ているんです。
最後に一言。伊勢﨑さんのお話で誤解しないで頂きたいと思うのは、彼はいろんなことで頭にきているものですからしゃべり方が過激になっていますが、安倍さんは何も悪いことはしていないんです。しかし、それはまだしていないのかもしれない。
しかし一方で、私は一緒だと思うんです。異次元の金融緩和とか、マイナス金利まで導入して、通貨をジャブジャブにするわけです。そういうことをやって外資なり金融資本なりが大儲けすれば、トリクルダウンで国民も豊かになるよということですが、「国民は豊かになっていないだろう?格差がどんどん拡大していくだろう?」ということです。そういう経済政策の発想と、今後、現場の自衛隊がどんな苦労をするかというのは「自分はこういうことをやって強い日本を取り戻したいんだ」という発想と繋がっていると私は思うのですね。強い国にするために、今までのコンセンサスで出来てきた日本社会を安倍流に破壊しようとしているんです。
よく言われる、夏の選挙で安保法制を廃棄するような結果を出すということは容易なことではないです。通貨で言えば、ここまで市中にお金がばら撒かれて、それを投機ファンドが持っているわけです。どうやって回収していくのか、後始末がものすごく大変ですよ。それから、「日本はこういうことが出来るようになりました」とアメリカに向かってメッセージを出して──やってくれと希望しているのはアメリカだけですから──、コミットしているわけですね。それを「やめました」ということだって、そんな単純に出来ることではない。
安保法制の廃棄のようなことをするためには、この安保法制ではいけないと思う側が、しからばどういう国家像なり、どういう安保戦略を持って、どうやって世界の平和に役立っていこうとする覚悟を持つのか、そこを作っていかないといけない。この話は非常に複雑で、経済も政治も安全保障も全部ひっくるめた、すごく幅広い内容を持ったものですから、そういうものとして息長く対応していかなければいけません。
私たち自衛隊を活かす会でも、私たちが憲法を本当にどうしたいと思っているのかということも提示していかなければいけない。中国とどうやって付き合っていくのかなど、トータルな国家像を示していくというのが次の課題になるかなと思っています。
まとめるつもりがまとまらなくなっちゃったかもしれません。加藤朗さんに再びまとめを意識したお話をして頂ければと思います。
桜美林大学の加藤です。私は1981年〜1996年の15年間、防衛庁の防衛研究所におりました。部署は違うんですが柳澤さんは高級官僚でした。私などはとても口をきいてもらえないような方でした。
今、国家像の話が出ました。私が常々言っているのは、戦後70年続いてきた平和大国のブランドを毀損すべきではないということです。なぜ安倍さんがそのブランドを汚すような普通の国家を目指しているのか、私にはよく分かりません。
ただ、私は安倍さんを批判してはいません。先程、伊勢﨑さんが言ったように、安保法制にしても秘密保護法にしても、防衛装備移転三原則にしても、皆さんは安倍さんが全てやったようにお感じになっているかもしれませんが、実際は民主党の野田政権の時に、ほぼこの路線が敷かれています。安倍さんはそれを実現したというか、ある意味では手柄の横どりではないかと思うのですが、路線を敷いたのは民主党政権です。安倍さんの本当のカラーはこれから出てくるんだろうと思います。それがどうなるのかはよく分かりません。
日本の平和大国のブランドを維持するとは何かというと、憲法9条の旗を下ろさないということです。何が必要かというと、憲法9条を実践するということが必要になってきます。具体的には何かといえば、安保法制の中で、渡邊隆さんがおっしゃったように邦人保護があります。今日、参加の皆さんはおそらく安保法制に反対していらっしゃるでしょう。皆さんは政府に一言言えばいいのです。「我々は自衛隊に助けて貰いたくない。一切助けるな」その覚悟があればもう十分なのです。「我々のことは我々自分自身で守るから、自衛隊も軍隊もいらない」と言う、それだけのことです。
後は自分が判断すればいいのです。「敵が攻めてきたら、見事そのまま撃たれて死にます。孫子が死のうとも」という覚悟があればいいのです。皆さんが憲法9条のために命を捨てるということを覚悟すればいいだけの話です。それが出来れば、憲法9条を我々は長らく守っていくことが出来ます。果たして皆さんにその覚悟があるか。私はそれを問うています。これが、ある意味で左の理想主義です。右の理想主義は何かと言うと、安倍さんです。軍隊を持って普通の国家になる。実はこれも理想主義です。今、こんなことは出来ません。
2014年時点で、日本の1人当たり個人GDPは世界第何位か知っていますか?OECD加盟国の中で20位です。世界全体で27位ですよ。1993年から96年まで日本の個人GDPは何位だったかご存知ですか?世界第3位です。アメリカを抜いたこともありました。つまり我々はそれだけ貧乏になったんです。この実感がありますか?
おそらく、60歳代以上の高度経済成長期を経験した方、或いは1980年代のバブル期を経験した人には全く実感出来ないだろうと思います。しかし、今の大学生は豊かであることを全然知らない世代です。ものすごい世代間ギャップがあるんです。
私たちはなぜか未だに日本は世界の大国だと思い続けています。大国ぶって上から目線でいろんなことを言っているんです。皆さんは、アフリカは貧しいと思っているでしょう?アフリカに行ってみれば分かりますが、アフリカの金持ちは我々が足元にも及ばないぐらいの金持ちで、貧乏な国でもものすごい豪邸が建っています。大虐殺があったルワンダでも郊外に行けば大豪邸が建っています。
今は国境を越えて貧富の格差が広がっています。その中で、軍隊で国家を守るということが本当に意味があるのかどうかということを考えないといけません。そういうことを考えると、私たちがどのような国家を作っていくのかということは、そんなに簡単な問題ではないと思います。
しかし、左の理想主義を排し、そして右の理想主義を排した時、私たちが現実に取れる方策というのはもう限られているんです。それが何かということをこれから私たちも考えていこうと思っています。
柳澤 ありがとうございました。3人の方のお話しとあまり噛み合ったコメントになっていなかったのですが、討論というのはみんな言いたいメッセージをしっかりと言うという意味だと捉えさせて頂けたらと思います。
先ほど加藤さんと話していて、これは是非お伝えしておこうと思ったことを言っておきますと、この間のテレビを加藤さんもご覧になっていたのですが、ソマリア沖の海賊がいなくなっちゃったんですね。どうしてかと言ったら「寿司ざんまい」なんですね。あういうやり方があるんですね。つまり、武装して海に出て、各国の海軍の目を盗んで人質を取ってくるか、或いは釣竿を取ってマグロを取ってくるか、どっちが確実で金になるかという話なんですね。
私は日本が国を挙げてこういった「寿司ざんまい」的なプロジェクトをやっていく方が、はるかに費用対効果も大きいだろうと思います。普通の国というと、自衛隊を出さなければいつまでも劣等感にさいなまれるような感じを持つわけですが、こういうやり方もある。それを現実に出来るようなシステムを作ってやれば、海賊の彼らだって、リスクが少なくて確実に金がたくさん入る方がいいに決まっているんですからね。
どこにでも通用する話ではないですが、そういうモデルでは先ほどアブディンさんがオン・ジョブ・トレーニングだと言っていました。オン・ジョブ・トレーニングと言っても、護衛が必要なところでオン・ジョブ・トレーニングをやるわけにはいかないかもしれないけれども、山本洋さんという初代の中央即応集団司令官で、南スーダンに出た部隊の一番の親玉だった方が、道路を治すにあたって、なぜ南スーダンの道路が持たないかというと、雨季に水を流すシステム、側溝がなかったんです。そこで、自衛隊は何をやったかと言うと、道路を作るということは側溝を作ることなんですね。どぶさらいと揶揄する人もいましたが、そういうことを現地の人たちにも教えているんだということを言っていました。いろんなやり方があるということです。
国として自衛隊を出すしかやることはない、ということではないということです。本当に自衛隊を出さなければいけない、自衛隊でなければ出来ないことをやってもらう、そしてその仕事が国民全体に立派なこととして受け入れられるというプロセス、思考過程がないと、伊勢﨑さんが言うように──今日はまだ言っていないのですが──、そのために憲法を改正するにしても、どう改正したらいいのか分からなくなるのですね。
一つのことにこだわらずにもっと幅広い視野から捉えて、そして現場の実情を踏まえて、我々は何をしたいのか、そして何が出来るのかという国民的な議論をこれからもぜひ続けていきたいと思っております。
角度が違うと言うか、全然、的に当たっていないようなコメントを私と加藤からさせて頂きました。補足なり、意見を返して頂ければと思います。
渡邊 柳澤先生、ありがとうございました。特段、言うべきことはないのですが、我々がこういうことをやめようと決心をして、思い留まっていればそれでよろしいわけですが、ある時期に1つの決心をしてスタートを切ってしまったんです。スタートを切ったのだけれども、そこで停滞をして全く前に進めない、非常に宙ぶらりんと言うか、不完全燃焼の状態が今も続いているというのが、実はこの国際貢献や海外協力活動における今の日本の1つの状況なのではないかと思うのです。
1992年にカンボジアに行った時、日本と同じように初めて参加をした国がどこかと言うと、実はお隣の中国です。日本はとてつもなく予算を使った600名の大部隊を派遣して、初めてで失敗をするわけにはいかないですから、全車両を綺麗に白に塗装して、我々がカンボジアに行ったら向こうが吃驚したぐらいの装備と人員を集めて行ったわけですが、中国は450名ぐらいで、隊員がまだ地下足袋を履いて、スコップを持っているような工兵部隊でした。
同じような時期にスタートしたのですが、20数年経って中国は今どうなっていますか。アフリカや世界に展開をしているPKOの極めて重要な比重を中国が担っています。常任理事国ですから当たり前だとも言えるわけですが、2010年の頃、私が統合幕僚学校という学校の学校長だった時に、学生を引き連れて中国に参りました。中国は北京郊外の広大な敷地にPKOトレーニングセンターというものすごく立派なトレーニングセンターを持っております。かたや日本はどうだったかというと、PKOセンターを作ろうと言って、僅かなお金を予算要求をして土台まで作っておきながら、例の「仕分け」という作業で、その場で建屋が無くなってしまいました。PKOセンターがなくなったわけではないのです。建屋がなくなったのです。トレーニングセンターは無くなっていないのに教室もなければ何もないという、そういうところで私は学校長としてゼロからスタートしなければいけなかったのです。
この20数年間の日中のPKOに対する進化の度合いと、国としての方針の向き合い方の違いを見るときに、あまりにも我々は足踏みをし過ぎていたというか、迷いすぎていたというか、結論を出さなさ過ぎていたのではないかとずっと思っています。
どちらが結論であろうといいのです。ただ、結論に至る議論が、特に国民の方々に対して分かりやすく明確にした論点と、出た結論が最終的にどのようなものになるのかというイメージや姿をしっかりと出すことが大変重要ではないかと思いますが、今回の安保法制の議論を見ながら、その辺のイメージは私自身にとってもあまり見えないものではなかったのかなと、ここは非常に残念なところではなかったかなと思います。憲法については伊勢﨑先生が私の言いたいことを全部言って頂きましたので、何も申し上げることはございません。
柳澤 ありがとうございました。渡邊さんのお話にも基本的に全く同意なのですが、ただ、なぜ足踏みをしちゃったのかという時に、実はPKOとは別にもう一つ、対米協力という文脈があって、インド洋とイラクに行っちゃったんです。やっていることは同じような話なのですが、どうもそっちの方に注意がいっちゃったのかなというのが私の印象です。
PKOという旗印が最初は立派に見えたけれども、段々とPKOより日米同盟の方が大事だというのが、政府の政策決定の真ん中の方にいた人間としてはどうもそんなことで、もっとしっかりと地道に蓄えるべきところを怠ったのかなと、そんな印象を持って、結果的に渡邊さんなんかにご迷惑をかけたんだなというのを今知った次第です。ありがとうございました。
アブディン 私の話に関係のあるコメントとしては、柳澤先生の自衛隊をイラクに派遣した話ですが、「弾を1発も撃っていない」というのは日本側の自己満足に過ぎないんじゃないかなと思います。1発も撃っていないけれども、絶対に間違っている戦争に加担しているわけですよ。イラクではオランダ軍に守ってもらって、南スーダンでもアンゴラ軍に守ってもらっているわけですが、私は現役の自衛隊としてはどうなんだろうか、プライドもありますが、後方支援で出ていて1発も撃たないならば、自衛隊じゃなくて民間企業を行かせればいいじゃないですか。これはもう八方美人じゃないですかね。
ちなみにアルジャジーラの報道では、日本の自衛隊という言葉を使わずに、日本軍と言いますよ。向こうの報道では日本軍と言います。日本の細かい、皆さんも消化しきれないことは誰も理解出来ないんです。日本軍がアメリカに追随して参加している、そう言った分かりやすい報道をするわけですね。だから、柳澤さんが一生懸命、周辺事態法を作って、出来るだけ日本はこういった泥沼に関わらないようにしてもですね、相手からの報道ではそれは全部伝わらないわけですね。私はそう思います。
加藤 アブディンさんがいっそのこと民間企業を送ればいいじゃないかと言いました。私は湾岸戦争以来ずっと、憲法9条部隊を送ればいいと主張しているんです。憲法9条部隊とは何かというと、元々は連合の組合員が1人1万円を拠出して、そして1万人に1人が志願すると、連合の組合員は当時800万人いたんですが、800億円で800人の部隊が作れるんですよ。連合の組合員ですから教職員から建設など、あらゆる職種の人たちがいるわけです。これはもう自衛隊のPKOどころの話ではないですよ。
これを連合にずっと言い続けたんです。メディアにも書きました。2010年5月には朝日新聞のひと欄にも取り上げてもらって提案しました。ものすごい反響が来るかと思っていたら、なんと全国から10人です。その人に一緒に行きませんか、と言ったら「私には家族がいるから」と断られました。自衛隊員にだって家族はいるだろうと思いましたが。
今は何を提案しているかと言えば、シルバーボランティアを例にとって、60歳以上の高齢者は自発的に南スーダンに行きませんかと呼びかけています。実態調査に行ってまいりますから、現地がどういう状況なのかお知らせします。ぜひ皆さんの中から手を上げてください。そうしたら南スーダンから自衛隊が撤退できます。その覚悟こそが憲法9条を守ることだろうと思います。憲法9条の実践とは、そういう自らの行動こそが憲法9条の真髄だと思います。
柳澤 ありがとうございました。今のアブディンさんの意見に、私も一言で言います。返す言葉がないんですね。私も振り返ってみて、そこを自分でもう一回、頭を切り替えて考え直さなければいけないというところだと思います。
しからば、本格的に、正直に日本軍が出るんだと。日本軍が出ればISILの敵だという旗印を高々と掲げるわけです。そういうことを覚悟するのか?結論を言えば、私はそんなことを覚悟してはいけないと思うから、むしろ、まずいっぺん帰ってきて、じっくり考えようというのが当面の結論なんですね。
やはり、今まで日本人が専守防衛で海外で戦争をしなかったことを、私はそれはそれでプライドとして持っていきたいと思うのですが、しかし、そんなことを言ったってアルジャジーラはそんなことを見てくれないという話ですから、それは現実として、しっかり受け止めていかなければいけないと思います。そこで過激な伊勢﨑教授にお願いします。
伊勢﨑 僕が何で過激…。本当のことを言うと、右も左もみんな困るんですね。右と左の論戦で使っていた、先ほど提示したワード、言葉があるでしょう、あの言葉には意味がないんだってことになると、みんな困るんです。実は、安保法制反対だと声をあげている著名人たちが作ってきた言葉なんです。僕は、議論の土俵を壊したいと思っています。完全に国際情勢の現実から宙に浮いた土俵ですから。
この間、朝日新聞のインタビューで記者が言っていたのですが、自衛隊が送られるのはPKFじゃなくてPKOだって、当然のように。
PKFはピース・キーピング・フォース。国連平和維持軍です。自衛隊はあくまでもPKO、活動、オペレーションとして行くんだと。
これも嘘です。メディア、それもリベラルのそれが、こんな政府が弄してきた詭弁を当たり前のように刷り込まれている。いい加減にして欲しいです。
PKOというのは国連安全保障理事会が、内戦が起きたところに国連全体のミッションとしてなんとかしようじゃないか。この活動全体をPKOと言います。
1つのPKOには必ず4つの部門、部署があります。その一番大きいのがPKF、国連平和維持軍です。部隊ですから軍隊です。PKOというのはそれだけじゃないんです。僕らみたいにそれを統括する文民もいます。それがもう一つ。
もう2つは、同じ軍人でありながら敵との信頼醸成をして戦闘を未然に防ぐ、それを丸腰でやる、国連軍事監視団というすごく崇高な部門があります。これが3つ目。4つ目の部署は文民警察。これは「警察」なんです。これが4つの部門が総合してひとつのPKOミッションになるんです。
自衛隊はPKOに参加したらPKFになります。先程言ったように多国籍軍と一体化するんです。だから、PKFという武力の行使と一体化する。そうすると憲法に反するということで、それを逃れるためにPKOであり、PKFじゃないという「刷り込み」を、当時の外務省の誰かがつくったんですね。
土俵を崩しましょうよ。国際情勢は激変しています。日本だけが、目を閉ざすことはできません。一加盟国の国民に降りかかる脅威を取り除くために、その脅威が「侵略者」でもないのに、国連がその脅威と「交戦」、つまり戦争する時代に、我々はいるのです。
一つ、この会場にお集まり頂いている、どちらかというと、たぶんリベラルな皆さんに、決定的なことを申し上げます。
南スーダンの人道的危機、今世紀最大の危機が起きているコンゴ民主共和国のあの辺の一体は全部資源国です。中東もそうです。
僕が知る限り、日本は、韓国と並んで、そういう資源国からの資源を無批判に、無批判にですよ、消費し続ける先進国で唯一の国です。
例えば、コンゴ民主共和国で取れるレアメタルなしではスマートフォンはつくれません。コルタンというレアメタルです。日本が使っているコルタンの100%はコンゴ民主共和国から来ています。そこで540万人が死んでいるんです。なぜ無政府状態の現地から、資源が、我々の日常の消費生活に届くか。
欧米では、すでにこれを自主規制する動きが始まっています。アメリカではコンゴからのレアメタルを使っていないという責任説明を企業に課しています。法律もできています。日本はどうでしょう。その事実さえ、日本人は知りません。
なぜこういう紛争が起こるかということも考えないといけません。9条の国と言うなら、これこそが、日本人の役目でしょう!
これを、みごとにやっていないんです。先進国では皆やっている自主規制すらやっていない。欧米の一般市民がやっていることを我々はやっていないんです。消費生活を見直す。一般市民が、今、できることです。これをやらずに、自衛隊反対に熱中することで溜飲を下げているだけ。
我々は9条を持つことによって、世界のモラル・オーソリティになる責任を背負っている国なんでしょう。9条の条文を守ることと、これを勘違いしていませんか?
僕は、加藤先生が提案する「9条平和部隊」構想に全面的に賛成します。みなさん、大挙して千人単位で、言葉が喋れなくても構わないです。平和のための人柱になってください。そうしたら絶対にインパクトがあります。それが9条を活かすということです。
9条を守るために命をかけるなどと立派なことを言う人はリベラル政治家にも市民団体にもいるんですが、9条を遵守する、戦争をしないために体を張っている人は、僕は見たことがありません。
我々は9条下で立派に戦争をしてきています。今では第3国ジブチに戦略基地を置くまでになりました。9条の国がですよ。自衛隊をPKFとして送ることの是非はおいておいて、もし送ったなら紛争当事者国に自衛隊の基地を作るのは当たり前です。南スーダンのように。でも、ジプチは違います。第3国なんです。あれは、どう見ても世界戦略を持っている国家の軍事戦略基地としか見えません。9条の国がですよ。そして、日本はジブチ政府と、日米地位協定よりも派遣国に優位な地位協定を持っているのです。現地における兵員の犯罪の対処についてです。米兵の犯罪に対して、我々日本人は、日米地位協定の不平等性に文句を言う法的な根拠を、既に喪失しました。沖縄に対して、我々は、更に、辛苦を与えた。それも、皆さんの無知と無関心のお陰で。
更にいうと、ジブチはイスラムのスンニ派の国家ですよ。イスラムのスンニ派の世界を侵略する占領者ですよ、日本は。何をやっているんですか?
9条を蹂躙するのもいい加減にしましょうよ。
普通、法を守ると言ったら、法を遵守することでしょう? 法でしちゃいけないことをしないということが法を守るということじゃないですか。法の条文を変えないということじゃないでしょう。今、「9条の条文を守る」ということと、「9条を、戦争をしないということを遵守する」ということは、今、乖離しています。これはみなさん、心に刻みつけてください。
今、9条は宣伝できません。今まで宣伝してこなかったから、日本は美しく誤解されてきた。今、この状態で中東に向けて9条を宣伝したらどうなると思いますか?「なんだこの矛盾は」と言われます。「お前らは基地まで作っているじゃないか」と。安倍さんはイスラエルに行ってあんな発言をしたばかりです。「この国は、アメリカの手先というだけでなく、自分の憲法も守れない、いい加減国」ということを宣伝したいのですか?
それで溜飲を下げるリベラルもいるでしょうが、これは、すべて我々の国防の問題として跳ね返ってくるのですよ。イスラム国です。もう、挽回するのは遅いかもしれませんが。ノーベル平和賞を取らせる運動なんて、もってのほかです。そんな状況まで来ているんです。
9条を蹂躙するのもいい加減にしましょうよ。体を張って止めましょうよ。まず安保法制を阻止することから全てが始まると思いますが、それだけじゃないです。「9条を大切に」って、大切ってそういう意味じゃないでしょう。加藤さんの言うように、命をちょっとだけもいいから、かけましょうよ。
それよりも前に、自分たちの消費生活ぐらい見直しませんか?
柳澤 ありがとうございます。やっぱり過激だと思うんですが、そういうところまで根源的な問いかけが必要だというのは私も思います。だから私もその辺のところで悩んでいます。
安保法制や、安倍首相のやり方がいいとは全然思っていないのですが、「安保法制がなかったらどうやってやっていくんだ?」という答えが自分の中にあるのか。「お前のやってきたことは所詮、単なる自己満足だったのではないか」ということも結構グサグサときているんです。
ただ、ある種の正論が過激に聞こえるようなことしかやってこなかったということは国民の責任というわけにはいかないと思うんです。やはり、私は政府にいた人間として第一義的には政府の方が責任を負わなければいけないと思っていますが、ぜひ今後ともこういうリアリティ──視点によっていろいろなリアリティがありますが──、現場の実情という意味では右も左もありません。その意味では過激かもしれないけれども、それが事実ならファクトとして前提において考えていかなければいけないんだと思います。
せっかく札幌まで来させて頂いたので、会場から少しご質問なりを頂きたいと思います。後は司会の松竹さんにお任せ致します。
会場からの質問① 今日のテーマは自衛隊はどう変わるのかということで、日本人としてはこれから自衛隊をどうしたいのかという主体的な話が基本的に皆さんの課題になっているのですが、どうしても自衛隊の存在と日米安保、在日米軍がいて米軍が展開しているというお話と絡めてお話頂かないとと、いまいち雲をつかんでいるような感じが拭えないんですがいかがでしょうか。
会場からの質問② 今日のお話は考えさせられると言うか、ただ、国民の責任というのは本当にそうだと思うんですけれども、国民の中にもそういう法案についてずっと反対してきた人は結構いると思うのです。でもそういう声が通らなかった、僕たちの立場ではそれ以上何が出来るんだろう、選挙にはもちろん行っています。ただそれでも変わらない。お話頂いたように今の状況が深刻だということは非常によく分かったのですが、では何が出来るのかというと立ち止まってしまわざるをえない部分があります。
柳澤 後でメンバーから補足をして頂ければと思うんですが、憲法との矛盾というのは、根源的には「米軍基地ってどうなんだ」というところにあるわけです。そこにもフィクションがあって、日本は世界最強のアメリカの基地を置いて、アメリカの抑止力の傘の下にいるけれども、しかし日本は国を守る時にしか武力を行使しない、アメリカが海外でやる戦争には手を汚さない、関与しないということで、つまり、安保というのは憲法の外の話になってしまっているのですね。そこでずっと納得してきている。憲法を議論する時には、政治的に納得してきてしまっている現実、そこをやっていかなければいけない。そこをやっていかないと、あるべき憲法の姿というのは出てきません。
ただ私たちは、憲法があるんだから日米安保を破棄して在日米軍を追い出すという、議論はしていないし、その立場は取りません。やはり、ここまで憲法の下で存在してきた自衛隊があり、米軍との関係もちょっと違う切り口で、別の形のシンポジウムで取り上げていかなければいけないと思いますが、問題は非常にトータルなものだというのはおっしゃる通りだと思います。
今回は、一番直近の安保法制の適用の具体的なところを議論しようということの問題意識で、先月、東京では南シナ海の話をやらせて頂きました。南スーダンの話も今日の札幌と来月の仙台でいろいろと議論していこうということでやらせて頂いています。その限りではトータルに議論していませんが、特にアメリカとの関係というのは非常に大きな課題として残っていくものだろうと思いますし、そこを議論しないとトータルの議論は出てこない。
ただ、これはこれとして、自衛隊をどう使っていくのかということについて、主権者である国民の選択の問題として議論することにも十分意味があることだと思っています。ただ、それだけではない。もっと重大な誤解と言うか、フィクションがあるということはおっしゃる通りだと思います。
加藤 私は自衛隊がどう変わるかというよりも、どう変えるべきかという視点で話したつもりです。私自身は自衛隊は本土防衛に徹するべきだと思いますが、本土防衛も憲法9条から考えたら明らかに違憲なんですよ。でもこれもフィクションで、みんな「なあなあ」でやってきたんです。このフィクションを現実に合わせるというのが安倍さんで、つまり、自衛隊を軍として認めようということです。
我々はそうではなくて、少なくとも私は憲法9条を理想に近づけていこうというのが今の段階だと思っていますので、専守防衛ということを言っているんですが、実は専守防衛という言葉は防衛計画の大綱にも、日米防衛ガイドラインにも、すべて日本の防衛体制というのは専守防衛体制だと書いてあるんです。ところが現実には、オーストラリアやインドと準軍事同盟を結んでいますので、集団防衛に向かっているのです。これをどうするかという問題は安保法制よりももっと深刻な問題なのですが、憲法解釈の立憲主義の話に巻き込まれてしまって、影に隠れてしまっています。
今、戦後3回目となるアメリカの安全保障の大きな転換が訪れているのです。それに対して誰も気がついていません。アメリカの戦略転換の第1弾は、1950年代のニュー・ルック戦略と言って大量報復戦略があった時です。アメリカがブレトンウッズ体制を築いて、経済体制をアメリカのものにした上で、ソ連との核競争を突き放すために大量報復戦略を出したんです。
ところがソ連が追いつきました。第2弾は1970年代になって、今度はニクソンドクトリンを出して、自分の防衛は自分でやってねという形でどんどん米軍を引き上げていく、そしてニクソンショックが来ます。ニクソンショックというのは、一つは中国との国交正常化、もう一つは金とドルの交換形式という経済体制と絡みながら、ここでは通常戦略でソ連との競争を突き放すということをやっているんです。
今は戦略転換の第3弾目なんです。ここにTPPが絡んできているんです。アメリカの戦略はどうなっているかというと、先進的な兵器技術体系によって中国を引き離すという大きな戦略転換が行われています。その戦略転換の中で、今回の安保法制も日米防衛ガイドラインも出てきているんです。大きな安全保障戦略の関わりの中で、自衛隊はどう変わるのか、どう変わるべきかということを、憲法ではなく安全保障の視点から考え直してみたいと考えています。
柳澤 我々は選挙に行く以外に何をやったらいいのか。私らだって実際に出来るのはそのぐらいのことだろうと思います。ただ問題は非常に深いものがあるので、ただ単に憲法を守れと言っているだけではこの話は全く決着がつかない、勝てる話ではないということなんです。それが私たちが出したいメッセージなのです。
私は加藤さんの発言に95%同意なんですが、今の安倍政権の安保戦略なり、国家像をどう作ろうとしているかということと、トータルにがっぷり四つに組んで、押しくら饅頭をしていかなければいけない。我々の力だけではあっさりと土俵を割ってしまうかもしれないので、出来るだけ大きなコンセンサスを、全く一致しなくてもいいけれども押し返す力が一緒になればいいのだろうと私は思っています。
そういうものを出来るだけいろんな形で提示をしていきたい。一つのやり方は、「この安保法制は憲法違反だからけしからんよね」ではなくて、具体的にそれが日本をどう変えてしまうのか、自衛隊と国民の関係をどう変えてしまうのかという切り口で、今日は議論をしているということです。やはり、それなりに覚悟を持って一緒にお考え頂ければ、というのが共通のメッセージだと思います。
司会 自衛隊を活かす会はこれで10回目のシンポジウムを行ってきましたが、毎回3時間ほど議論をして、終わった時にあまり「終わったね」という感じがしなくて、いつも「まだまだ議論すべきことが残されているな」と思いながら終わることが多いんです。
憲法を大事にしたいと思っている人たちは、現実に足を置いたと言うか、リアルな安全保障の議論、防衛の議論ってあまりしてきませんでした。そこをやろうとすると当然、いろんな未消化の部分が出てくると思うのです。それで、この間のシンポジウムの記録はすべてホームページで動画でもテキストでも見れるようになっています。
来月には仙台でシンポジウムをやると言いましたが、4月には今日、伊勢﨑さんが言った海外における自衛隊の法的地位という問題でもやる予定をしています。5月には北朝鮮の問題もやろうかとなっています。いろんな問題を、いろんなところに行って──東京が中心ですが──、それをすべて公開して、皆さんがそれを見て、考えて、議論を出来るようなそういう素材をこれからも提供していきたいと思います。
最後に、今日のシンポを北海道で出来たのは、この間、弁護士の髙崎暢先生はじめいろいろな方にお世話になって繋がりがあったからです。多くの皆さんが参加をして頂いたのも髙崎先生にご助力頂いたからなのです。最後に閉会の挨拶を高崎先生、よろしくお願いいたします。
弁護士の高崎です。今日はたくさんの方にお集まり頂きましてありがとうございました。呼びかけ人を代表して閉会の挨拶をさせて頂きます。
壇上に登りました皆さん、今日はお忙しい中、貴重なご意見を頂きまして、ありがとうございました。私たち呼びかけ人は、この自衛隊を活かす会の主旨に全面的に賛成ということではなくて、こういういろいろな経歴の方々の議論を聞いて、私たちが勉強すること。これがまず大事ではないかという趣旨でこの機会を設けさせて頂きました。その意味では私たちの思っていた議論をすることは出来たのではないかと思います。
同時に今、私たちは議論だけではなくて実践も求められています。安保法制の問題について、やはりあれは憲法違反であるという声を主権者である国民一人一人が声を上げていく。そういう中で一方では安保法制の元になる安全保障の問題についても広く深く議論をしながら行動をしていく。こういう多面的な行動をしていかなければ、進まないのではないかということを今日の話の中で、私は確信を持ちました。
個人的なことを言わせて頂ければ、やはり日本国憲法の平和主義が70年間続いてきた──フィクションの下にかもしれませんが──、国民の命を1人も殺さなかった。平和主義の根本を70年間守ってきた。ここに最大の価値があるんではないかと思います。その命を大切にする、そういう政治、社会を作っていかなければいけないのではないかということを背景に考えながら、今ある安全保障問題について皆さんと一緒に行動し、声を上げていきたいと思っておりますので、これからもよろしくお願いしたいと思います。簡単ではありますけれども、閉会の挨拶とさせて頂きます。今日はありがとうございました。