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ひらがなプロジェクトへ 御義口伝講義録上、安楽行品 ひらがなを投稿しました。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 7月22日(土)02時22分50秒
  ひらがなプロジェクトへ 御義口伝講義録上、安楽行品 ひらがなを投稿しました。

池田先生は、『権力にも財力にも虜にならない 信仰の王者で進む』と・・・

現執行部は権力の虜に!!・・・難を受けるのが恐ろしいがゆえに、堕地獄行き!!


『不変の真理を持たないという人間は、真の善も正義も知ることができない』

自称一番弟子駄腹は真の善も正義も知る事は出来ない!!

以上 鈴之助


桜の城より 引用・抜粋

不変の真理を
持たないという人間は
真の善も正義も
知ることができない
と思うが故に
私は哲理の裏づけのある信仰に
人間らしい一生を賭けて送る


彼の生涯は
平穏にして
わが生涯は
ただ一筋
悶々の日日
人間革命の詩
*
彼は立派そうにみえるが
それは権力の虜にすぎない
僕は
権力にも財力にも虜にならない
信仰の王者で進む
*
燦然たる栄位を
私は夢みていない
下積みの人たちの友となって
光り輝く人間勝利の
平等社会を創ることが
私の信仰なのだ
*
僕はあの山を登攀することを
目指したのだ
そのために一日一日の足場を
がっちりと据えながら進む
現実を軽視することは
遭難を意味すると
知るが故に信仰に励むのだ
 

お詫び・訂正その二十八

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年 7月22日(土)01時23分42秒
  レ・ミゼラブル011 ?
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 2月19日(木)16時07分30秒

つれづれ随想 -わたしの説話抄-
昭和60年4月30日発行

心の空洞
人の心ほど、とらえにくいものはない。
それであって、人間の心を動かすものはまた、人間の心である - 。
わかりきったことのようだが、これはけっしてそれほど簡単なことではない。
それどころか、金銭、利害、名誉、虚栄などに、自分の心が振り回されている方が、ずいぶん多いのではなかろうか。また心といっても、愛憎など一時的な感情の起伏にすぎないものが、広大な心の沃野を領し、封じ込めてしまうケースも、日常よくみられることである。
 人間の真実の心を覆い隠すそうした爽雑物を、仏法では“八風”と説いている。利、衰、毀、誉、称、謗、苦、楽の八つをいう。
 そのうち利・誉・称・楽を四順といい、人びとはこれを欲し、これに執着する。反対に、衰・毀・謗・苦を四違といい、人びとの忌嫌うところとされている。
 日蓮大聖人は「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり」と仰せになり、縁に紛動されぬまことの人間の生き方を示されている。
 なかなか難しいことだが、人間の心が人間の心を動かす、すなわち魂を揺さぶるような触発作業の場には、必ず“八風”に侵されることのない、鍛え抜かれた心の容姿が見出されるものだ。
 「涅槃経」に雪山童子の物語が出てくる。釈尊の過去世の仏道修行の厳しさを述べたものである。
 雪山に、雪山童子と呼ばれる若い求道者がいた。金銀財宝などには目もくれず、ひたすら法を求めて修行を続けていた。それどころか、法のためには、いざとなったら妻子はおろか、自分の生命さえも投げ出す決意を固めている。
 しかし帝釈天は、そんな雪山童子の善心に若干の疑問を持つ。そして童子の修行を試すために、一策を案ずる。自ら殺人鬼の羅刹に姿を変えて、童子の前に立ち現れるのである。心に何も恐れるもののない童子は、静かに羅刹と相対する、しばらくして羅刹は、「諸行は無常なり、これ生滅の法なり」と、かつて仏の説いた偈を半分だけ述べる。これを聞き、喜んだ童子は、後の半分を聞きたいと請い願う。羅刹の望みに応じて、その代償として自分の肉体をも与えることを約束し、後の半偈に耳を澄ませる。
「生滅を滅し巳って、寂滅を楽と為す」
 聞き終えた童子は、その偈を人びとに遺すために所々に書きつけてから、高い木に登り、樹上から身を投げる。そのとき羅刹は、帝釈天の姿にもどり、雪山童子の体を受けとめ、求道の心の固きを賞でたという。
 雪山童子が求め抜いたものも“八風”という風に揺るがぬ大樹のような心と、それを支える厳たる法の存在である。ほかでもない「賢人」の生き方といえるだろう。
 “八風”に侵されぬ人生と“八風”に翻弄されゆく人生 ― 。
 仏法とは若干ニュアンスを異にするが、優れた文学作品には、両者の激しく劇的な撃ち合いを描いたものが少なくない。私は、とくに若年の頃、そうした作品にいくつも巡り合い、心を育む糧としたものであった。
 なかでも、ビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』での主人公ジャン・バルジャンとジャヴェル警視との執念と執念の戦い、生死をかけての葛藤は、私の思い出に刻まれ、炎として消えることはない。
 善を志して生きゆくジャン・バルジャンを、蛇のように執念深く追い回し、陥れるジャヴェルの所業を、少年時代の私は、ことさら憎らしく思ったものだ。しかし、愛と寛容に満ちたジャン・バルジャンの堅固な善心は、凍てついた大地のごとく残酷にして偏狭なジャヴェルの心をも、ついに溶かしたのであった。
 これは、人間の善性の偉大なる勝利であった。ジャヴェルの心の中には、ポッカリと、底知れぬ空洞ができたにちがいない。“八風”に執する人が、翻弄されゆく己自身をはじめて目の当たりにしたときの、むなしさと恐ろしさ。
 「一つの珍事が、一つの革命が、一つの破滅が、彼の心の底に起こったのである」と、ユゴーはほとばしる言と句で描写した。「彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こそぎにされたのを感じた。(中略)彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が恐ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさせ、彼を眩惑させた。鷲の目を持つことを強いられた梟であった」
 「道徳の太陽」の眩しさに、たまらずジャヴェルは自殺し、果てる。

“自然は真空を嫌う”という。
 同じように人間の心も、空洞の存在を知って耐えられはしない。雪山童子の求道の炎は、万人の鑑である。また、人間誰しもたとえ意識しなくても、奥底では自身の“芯”となるべき確たる充足感を求めているものだ。どんなに上辺をとりつくろおうと、自己の正当性を強弁しようと、メッキはいずれはげ、空洞に気付くときが必ず来る。ジャヴェルの悲劇を繰り返さないためにも、人生の真実はなんであるかを、常に求め、見失わない日々でありたいものである。

ーーーーーーーーーーーーーー

この説明は、会則規定の

????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????

は、該当していません。

ーーーーーーーーーーーーーー

外来語を使うと意味不明になりますので、簡単な言葉を使えば「生産者」と「消費者」。

池田先生は「生産者」。
人を作り、育てて、相応の組織を構築した。時を味方にして、より多くの友人を作り、対話と友情で敵味方の別無く、平和・文化・教育の大道を歩み続けている。亡くなる迄、続けるでしょう。では、それを身近で見届けている弟子は?

昨今、105歳で亡くなられた日野原重明さんも「生産者」。
ヨド号ハイジャック事件にも立ち会い、サリン事件の時には聖路加病院を緊急施設として開放する。どれだけの方が助けられたか、その設備は日野原氏の原体験に基づいて建てられていた。

時に適う者の存在、先生を含む人心を揺り動かす者は、同じ時代に現れて役目を果たして去っていく。そして「消費者」も現れて今生の役目を果たす。歴史の一部分を観ているようです。
 

テヘラニアン博士のまえがきを投稿します。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年 7月22日(土)01時15分19秒
  テヘラニアン博士のまえがきを投稿します。

ポイント
* ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、アテネの庭園を歩きながら講義を行った。

池田先生は、大学で学ぼうとされていたが、戸田先生の事業がうまくいかなくなって、戸田先生
から直接、講義を受けることとなりました。

真理、より深い哲学は、師から弟子へと対話を通して、受け継がれていくことを「小説人間革命」
で私は知りました。

釈迦も、遊行しながら弟子たちを教えて、後継者を育てられました。

次代を担う、青年たちが、創価思想・人間革命・世界平和を目指して成長しているのか心配です。

創価三代、池田思想が、世界広布できるか、どうかの瀬戸際です。

なぜかならば、人材育成できる、教学力のある、青年部幹部を処分しているからです。

ソ連のスターリンは学者、マスコミ人など、数百万単位で殺したり、流刑したり、したそうです。

中国(中国共産党)も下放といって、高学歴の人たちを、粛清したり、農村に追いやりました。

ベトナム、カンボジアも右え習えで、左翼のくせに、国を担うべきエリートを殺害しました。
(ポルポト、ホーチミン等)

この板の情報が真実ならば、同じようなことが、創価の庭でも行われていることが想像できます、
心配です。

以上 鈴之助



まえがき
仏教とイスラムの歴史的出合い テヘラニアン 1/3


ギリシャの逍遥学派の哲学者たちは、学習における最も啓発的な方法が対話であるこ

とを知っていた。

ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、アテネの庭園を歩きながら講義を行った。

彼らは、自分たちを現代の大学に見られるような個性を欠いた大講堂に閉じ込めるよう

なことは決してしなかった。

教師と学生の関係は直接的で、より親密で個人的なものであった。


彼らは互いに質問しあった。

何ものも当然のこととしては受け入れなかった。

何もかもが厳しい吟味の対象となった。

対話を通して、相対立する思考や観点から真実が見いだされた。

会話は開放的であった。

真理はさらなる真理の追求の糧だった。

誰人も究極の真理を見つけたとは言わなかった。

一九九二年に私がシルクロードへの長途の旅の途上、日本で池田大作氏に初めて会った

とき、氏のなかに対話の芸術を大切にするもう一人のソクラテスを見いだした。

氏は身体的にも精神的にも素晴らしく機敏であった。

氏は会う前から私のことを知っていた。

氏は会うなり、私をリラックスさせ、そして三時間にわたる私の人生において最も

楽しいといえる対話が展開した。

事実の上でも、また教育学的な面からも、私は氏から多くのことを学んだ。

他の話題も交えながら、私たちの対話は、自然のうちにシルクロードに沿った仏教とイ

スラムの文明の出合いに焦点が合わされた。

私はその席で、氏のアーノルド・トインビーとの対話(『生への選択』)やヨハン・ガル

トゥングとの対話(『平和への選択』)に続いて、私たちの対話も本として出版したらどう

かと提案した。

池田氏は、すぐさま同意された。両者はそのタイトルを「対話への選択」(英語版)と

名づけた。本書はその成果である。
 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年 7月21日(金)23時49分49秒
  今晩は、皆様
ありがとうございまし
先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
会長、副会長が意見を言う真面目で誠実で正直な会員を
イジメません様に
おやすみなさい
 

(無題)

 投稿者:末端信者  投稿日:2017年 7月21日(金)23時25分34秒
編集済
  にゅうかい29さんの投稿に同感する所は、多々有ります。

不買運動は、最重要な戦術だと思います。
それと同じように、現学会員さんへの折伏も大事な事だと思います。

天魔 原田執行部や、関連組織の畜生根性の職員には、
何も、期待すべきではないと思います。

また、批判は多いに繰り広げて行かなければいけないと思います。
それが、折伏に通じて行くと思うからです。

私も、正しき創価学会を取り戻して行くために頑張ります。
 

同感!廃刊がベスト。

 投稿者:一言児  投稿日:2017年 7月21日(金)23時07分14秒
  「聖教は廃刊こそがベスト。現在の紙面には全く魅力なし。日刊機関紙の時代はとうに終わっている。
どうしても紙媒体の機関誌を残したいなら、聖教より歴史ある大白だけにすればよい。
「JAF」の機関誌のようにすべてを郵送に切り替えれば、配達員どころか販売店制度も必要なし。」
あーぁ気持ちのよい発想、大拍手。毎日読むほどの臨場感無いモンの拡大を組織利用、疲れてしまうわね。
なんか記事の編集が気まぐれ、寄せ集め、偉そうな目線で魅力なし、時代遅れですー。「聖教新聞」と聞く
だけで引いてしまう。「JAF」月刊機関誌風に、の案ステキ!
 

同盟題目!

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 7月21日(金)22時59分16秒
  23時より開始します。池田先生と奥様のご健康、長寿を祈ります。

暑い日が続います。体調が優れない方は体調を調えることを最優先にしていきましょう。皆様くれぐれも無理をされませんようお願いします。
 

不買運動をひろげよう

 投稿者: にゅうかい29  投稿日:2017年 7月21日(金)21時34分43秒
  私には、創価学会本部職員全てが、原田会長に心より従っているとは思えません。
 池田先生のご指導とは違うが、自分自身の生活保身のため、仕方なく従っているのではないかと推測しています。この人達にとっては、池田先生のご指導よりも、現実の生活の安泰が最も重要な事なのです。
 この様な創価学会本部職員を、原田達執行部に従わせないようにする為には、彼らの生活の元を不安定にするのが一番です。
 創価学会の主な資金源である聖教新聞やその他の機関誌の購読を一人でも多くの学会員がやめ、その資金源を断つことによって、反執行部の人達をあぶり出し、原田達、悪道を追い出すことが出来るのではないでしょうか。
 理論理屈で彼らを追い出そうとしても、現実的には不可能です。もし、皆さんが真剣に、彼ら悪道を進める現執行部を排除し、池田先生が示された誠の創価学会を取り戻したいのであれば、末端学会員の誰もが、すぐにでも行動を起こせる不買運動しかありません。批判を述べるよりも、行動です。現執行部に対する批判を含めた不買運動しか、正しき創価学会を取り戻す事は出来ません。
 

reハッとしました JACK様

 投稿者:ツイート人  投稿日:2017年 7月21日(金)20時26分35秒
  私も同じように感じたので掲示板に取り上げました。
ありがとうございます。


『三代の会長が受けてきた難は他人事
同じく同志の受ける理不尽も他人事
どこへ向かうも他人事
創価の精神性は世間以下』

頭にも、心臓にも釘が打たれたような気がしました。
様々な人と対話を重ねてきて、よく感じる違和感の正体がやっと分かりました。

本来なら、『同苦の心』を発揮すべき時に、同苦どころか、知らん顔。
どうかすると、自分の苦しみが一番大変だとマウンティングが始まり、あっという間にサルの争いにまで堕落する。

『一人の同志に起こっていることは
その一人だけの問題ではない
先生の身に起こっていた苦難が
今みんなの身に起こっていく
大事な事実を顕していく』

このツイートをされた方に感謝致します。
 

有り得ませんね(笑

 投稿者:選挙学会  投稿日:2017年 7月21日(金)17時52分35秒
  集合決定機関の創価は、何も出来ませんよ。
原田会長さんから責任回避してますから、きっと俺が死んでからな!って言うでしょう。誰も現制度を変えるなんて思っていません、やれるところまでやらせる、組織がボロボロになって病んでいこうが関係ない。
我慢させれるところまでね。どうにもならなくなったら、幹部にやらせりゃいいの。褒め讃えてやらせる。
今までも、これからも、このやり方でしょ!
 

池田先生のスピーチに学ぶ【権力の魔性を克服しない限りどんな革命も堕落】

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 7月21日(金)16時32分51秒
  池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)③

作者オーウェルが、この「おとぎ話」を書いた時(一九四三年~四四年)、当然、ソ連のスターリン主義への批判がこめられていた。労働者の″解放″の美名の裏に、特権階級(官僚)と独裁者(スターリン)が生まれていることを、彼は見抜いていた。

しかし、同時に、この「おとぎ話」は、人間が″権力の魔性″を克服しないかぎり、どんな革命、改命運動も、堕落することを描いている。そこで、ドイツの″救国″を掲げたヒトラーの偽善をも鋭く批判する結果になった。

″左″であれ″右″であれ、問題は「人間」だということを、鮮やかに示したのである。

では、その「人間」をどうするのか。特権意識を振り回す「権威的人間」を超えて、どう「民主的人間」を生みだすのか。ここに問題がある。ここに「人間自身」を革命しゆく仏法、信心の重大な意義がある。

そのうえで、もっとも民主的な日蓮大聖人の仏法の世界にあっても、「権威的人間」に支配される可能性はつねにある。そうなれば「広宣流布」の理想は実現できない。

民衆が賢明になる以外にない。そして悪とは戦わねばならない。

民衆の率直な疑問や希望を権威で抑えつけ、納得も信頼も与えようとしない人々。そうした存在と戦いぬかれたのが、大聖人の御生涯であられた。

門下の私どもが同様に、正義を訴えるのは当然である。横暴な権威・権力と一生涯、戦ってこそ、真の「民主的人間」となる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)①
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72076

海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)②
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72139
 

機関紙・誌の存続考

 投稿者:-Q-  投稿日:2017年 7月21日(金)14時02分17秒
  15年前に聖教配達員の処遇が改悪され、それまで認められていた労働者としての諸権利がすべて剥奪された。遅ればせながら、私がその事実に気づいたのは10年あまり前。
当時の理事長に書簡を送って抗議し、聖教本社の某氏とも面談したものの埒はあかず、今に至る。

小作人殿のご意見にも触発され、2017/07/17に放った自ツイート二篇を、やや改変して投稿することにお赦しを。



聖教は廃刊こそがベスト。現在の紙面には全く魅力なし。日刊機関紙の時代はとうに終わっている。
どうしても紙媒体の機関誌を残したいなら、聖教より歴史ある大白だけにすればよい。
「JAF」の機関誌のようにすべてを郵送に切り替えれば、配達員どころか販売店制度も必要なし。

おそらく「新・人革」の連載終了時点で、なんらかの動きがあるのでは?
デジタル版も含めて聖教の廃刊決定。宗門チックな印象のある「大白蓮華」の呼称をやめ、「月刊 聖教」に改題して一本化。宅配制度を全廃し、会員宅への直接郵送方式に切り替え……となればいい。


 

日刊配達紙モデルの終焉

 投稿者:小作人@地上の発心  投稿日:2017年 7月21日(金)13時12分11秒
編集済
  一般紙にも該当すること。

 ・会の内外を問わず、また年齢性別に関係なく、単身世帯が激増していること
 ・仕事で長期出張、遠方で暮らす家族の介護、また本人が高齢による定期的な入院等で何日も家を空けるケースも増えている
 ・ポストに何日分も突っ込めない。空き巣の格好の標的になる……配達停止するも本人分の新聞は購読期間中は発行され続ける
 ・配達員が持ち帰り処分するほかない。誰かに贈呈するにも正配・代配が個別で中途半端に曜日の偏ったものを他人にはあげられない
  (平日毎日掲載の連載小説もあることだし、、、)

 ・何よりも配達員不足の絶望的な慢性化。どこも後継者の輩出ままならず、高齢者が場合によっては命に及ぶ危険に晒される。。

---やはり『新・人間革命』完結を待って頃合いを見計らい、なんらかの処置・決断が下されるものと思われる。
 

大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年 7月21日(金)12時15分19秒
  今日に始まった事では無いが、聖教新聞の質、本当に落ちた。

紙面全体の三分の一程度は広告。   何だこれ!みっともない。
恥ずかしくて啓蒙出来ない、という声も、現場組織のあちこちで耳にする。

内容が優れていれば、それでも許されるのかも知れないが、池田先生の生のご指導が載らなくなった今、人を惹きつける魅力は、ほぼ無くなってしまった。
私自身、朝起きて、ポストへ聖教新聞を取りに行く事を、忘れている事もしばしば。

家庭生活の知恵とか、健康がどうだこうだとか、あとは他の通信社から買った?記事とか、テレビ欄とか…。内容スカスカ。新人間革命にしても、私は代筆グループの作品だと感じているので、それなりの感想しか持てない。代筆が、必ずしもいけないとは言わないが…。

戸田先生、池田先生が目指したのは、こんな新聞ではないだろう。

タイムズやガーディアン、ル・モンドの様な、いわゆる大新聞(おおしんぶん)的な位置を目指すべきだ。
娯楽本位の、商業新聞の亜流になってどうする。

新聞の分類の仕方として、大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)に分ける方法がある。
現在の日本には、政論中心の高級紙たる大新聞(おおしんぶん)は存在しない。
朝日や読売などの大手紙を、娯楽本位の小新聞(こしんぶん)とは言わないが、商業主義的な面から離れるわけには行かないので、これらは中新聞だろう。

読者であることを誇りに思える様な、一流紙に成る以外、聖教新聞に将来など無いと思う。
今みたいな紙面では全然ダメだ。
もうそろそろ、聖教新聞は日刊である必要性が無い、という意見さえ出始めて来た。

聖教新聞存続の為にも、現執行部の一日も早い総退陣を熱望している。


P.S.稲田防衛相、続投の意思を表明!  驚いた。  開いた口がふさがらない。(笑)

 

人生の座標から~

 投稿者:うーこメール  投稿日:2017年 7月21日(金)11時22分31秒
  ・とにかく直接会って、語り合うことである。とくに児童はうわべだけのお愛想や、ごまかしなど通用しない。接する大人の態度、振る舞いの底にある真意が、そのまま心の鏡に映じてしまう。ゆえに小学生に対しても、どこまでもひとりの人間として遇していく。率直に、また真剣に語り合っていくことである。
・ともかく、次代は、若き青年に託する以外にない。新しい世紀は、はつらつとした青年によって、切り拓かれていく。ゆえに未来を考える指導者は、青年を、学生を、全力で応援する。その逞しき成長こそ、何ものにも替えがたい喜びとなるのである。
 

おはようございます。まとめてすみません!

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月21日(金)09時41分46秒
  ■通行しますさんへ

>投稿者:通行します  投稿日:2017年 7月20日(木)21時39分58秒 編集済
>1つ質問です。三代の会長の指導は文証になりますか?
>大仏のグリグリのとこ様は御書を文証の基本として論じていると思うんですが?


結論から言って、学会員同士や三代の会長を「人生の師匠」と決めた者同士なら

歴代会長の文言は、すべて〝文証〟になります。

御書には「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」(一五三頁)とあります。

また、

池田先生は常々「後世のためにスピーチさせていただく」とおっしゃっています。

仏の永遠性は、最終的に「文字によって永遠に〝生きる〟ことになる」と思っています。

たとえば、

同じ会社の者同士ならば、共通の文証は創業者の文言だし、会社の就業規則です。
しかし、他の会社の人ならば、それは通用しません。

それと同じです。ましてや

宗教法人創価学会は、会則で〝三代会長を会の永遠の指導者と仰ぐ〟ことを決めました。

細かい組織運営は別として、学会精神や信心のよって立つ中心の柱は、
御書であり、三代の指導を文証とするのが当然です。


■謎の弟子Xさんへ

>投稿者:謎の弟子X  投稿日:2017年 7月21日(金)08時16分11秒
>ぐりぐりさんのお話、とても良いお話でスッキリしました。

ありがとうございます。感謝します。
 

Eさんと対話

 投稿者:ひかり  投稿日:2017年 7月21日(金)08時50分9秒
  先日暑い暑いと菜っ葉のようにしおれていたEさんが、元気に怒っております。


Eさん「都議選終わってヘロヘロしていたらさ、緊急の地区部長会だっていうんだよね」

ひかり「疲れますね」

Eさん「何が緊急だ、いい加減にしろって、連絡聞いただけでウンザリだよ」

ひかり「連絡する方もウンザリでしょうね」

Eさん「あたしは、緊急ってことはハラダが死んだのかなって思ってさ」

ひかり「(笑)あーそうか」

Eさん「少し期待しちゃってさ」

ひかり「ハハハハ」

Eさん「大幹部の葬式でもあるのか?って聞いた(笑)」

ひかり「(爆笑)」

Eさん「そしたら何よ、知事選で自民党系新人候補が出るから、応援しろ、この暑いのに2回Fの報告とる、なんて言うんだよ、ちょっと(怒)」

ひかり「え~…」

Eさん「宗教団体は終了したわ。完全に集票団体だよ。手弁当の。バカにしやがって」

ひかり「どうするんですか?」

Eさん「公明党ですらないもののために、なんでF?どうせ内票の数探りだろうよ。いつだってそんなもんだ。バカにしやがって(怒)無視無視!」



 

文証、理証、現証

 投稿者:謎の弟子X  投稿日:2017年 7月21日(金)08時16分11秒
  ぐりぐりさんのお話、とても良いお話でスッキリしました。

私の最近の悩みのひとつでもあったので、特に心に留めようと思った3か所にコメントさせていただきます。
一部、引用させていただくことをお許しください。

【わかったつもり】
> 近年は「学会員の教学力の劣化」が話題になっていますが、
> その原因はこの〝考える〟〝思索する〟という鍛錬が
> 極端に減ったことがその原因の一つだと考えられます。

> なにより一番怖いことは、何かを教えてもらっても、
> それで「わかったつもり」になることです。

私は、本を読むときに気を付けていることがあります。
目で読む、頭で読む、心で読む、身で読む、人に勧める

目で読む → 読んだ
頭で読む → 理解した。考えてみた。
心で読む → そうだその通りだと共感した、感動した
身で読む → 実践した。
人に勧める → 良い本は、人にも読んでもらう

ここまでして、初めて深く読んだといえると思って、読んでいます。
特に、池田先生の指導や御書です。

【信行学】
>なぜ題目も、教学も、行動も、同時に「実践しよう」としないのでしょうか。
>真実の法華経の行者は「信・行・学」の三つを常に実践しているものです。

実践のない方に、行動の大切さ、行動の結果(功徳)を聞いても、何も答えは返ってきません。
日蓮大聖人様の教えも池田先生の指導も、実践ありきです。

例えていうなら、どれほど野球のボールの投げ方とバットの振り方に詳しくでも、
試合に出なければ、ストライクを取って勝利投手になることも、ホームランを打つこともできないわけです。

【文証、理証、現証】

>一つの〝思想や考え方〟を検討する場合、三つの基本的な立ち位置があります。
>その第一はその〝思想や指導や意見〟がいかなる文献に基づいているかということであり、

>第二はその内容が、非科学的、非論理的なものでないかということです。
>つまり、話の内容に整合性や筋道が通っているかという意味です。

>そして第三は理論を現実に当てはめてみた場合、現実と矛盾しないかどうかということです。
>この判断基準を仏法では「三証(文・理・現)」といいます。

私も、今、54年の総括する論文形式の投稿を書いているところです。
一般の文章も、この3つが含まれているととてもわかりやすく納得巻が出るとされていますので
私も書くときに、気を付けて書こうと思っています。

文証 = 証拠
理証 = 論拠
現証 = 主張
 

人間革命光あれ!

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 7月21日(金)08時15分46秒
編集済
 

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おはようございます。

朝起きたら、なんだか詩のようなものが
頭に浮かびました
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ふと気がつくと自分の前には道がない

みわたせばまわりは荒野

自分が歩くと道ができる

でも第一歩がふみだせない

進む方向を誰かに教えてほしい

でもそこにあるのは沈黙

真っ暗な宇宙空間に

一人いるみたいだ

すると誰かが

光あれと叫んだ

どこかに歩く必要などなかった

無明の闇を照らす光

気がつくと光が輝き始め

星たちが姿を表し

そこにさまざまな生命が

誰かの祈りの言葉が聞こえる

”主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
憎しみのある所に、愛を置かせてください。
侮辱のある所に、許しを置かせてください。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、
理解されるより理解し、
愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、
消えることで人は見出し、
許すことで人は許され、
死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。
(Wikipediaから)”

自分は大宇宙の一部
自分も他人も同じ
なんで自分だけが正しいといって
分裂する必要があるでしょう
相手が自分とちがうという理由で
争い憎む必要があるでしょうか

みんなちがってみんなよい
みんなが無明の闇を照らす光
みんなが大宇宙の闇を照らす光であればよい
自分はみんなの一部なのだから
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おはようございます!

 投稿者:ひかり  投稿日:2017年 7月21日(金)08時15分11秒
  PC放置してしばらく経ちました。
買い換え時かな?と思いながら様子見ています。
他の端末から投稿しております。

毎日暑く暑く、豪雨大災害報道に心配しながら、東京猛烈な雹とか、まさに立正安国論に描かれる世間の様相は混迷の度を増す一方です。

我々に何が出来るか?

たとえ、今は先が見えなくとも、執行部幹部組織が勝手に教義や会則を都合よく変え、池田先生のご指導に違うことは、おかしいではないかと叫び続けることを止めるわけにはいきません。

立正安国論さながらの現在、この状況に思い致さないとしたら、日蓮大聖人の仏法を学んだ者としてどうかと思います。

しかし、ひどいものですね。
Jack 様のご報告読みましたが。

くぼたてつ様と同じく、なんて非人道的なことをするのだろうかと、許せないし、悔しいです!

全国でこういう悪辣な会員いじめが行われていて、何もしない幹部と組織に、これ以上黙っていていいんだろうか?



なぜに悪党が栄え、悪党同士で庇いあい、お互いの悪業を隠蔽し続ける、そんな状態が悪化するのか?

この組織の救いようがないほどの暗黒を叩きだし、広布の軌道に戻すには、いくらでも叫ばなければなりません。



 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、神奈川・厚木での座談会御参加、誠にご苦労様で~す(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年 7月21日(金)08時05分6秒
  おはようございます。原田怪鳥様、厚木王者圏の依知地区での座談会御参加、誠にご苦労様で~す(笑)

もしかして、ĪR法で、神奈川文化会館の真ん前にカジノができたら、通い詰めようなんて、思っていませんかぁ~(笑)

神奈川での御指導が増えそうデスねぇ~(笑) いい加減にしてくださぁ~い(爆)


ナニをオハナシされるかと思いきや、

>一度築いた仏縁を大切に育て広げながら、皆が地域に友情の大輪を咲かせゆこうと呼び掛けた<
(7月21日1面より抜粋)

原田怪鳥様、都議選が終わって、皆がホッとしてるのに、また「いよいよ」デスかぁ~(笑)

「大輪を咲かす」どころか、「大輪を裂かす」行為か? 「大輪を避かす」行為になっちゃいマスよぉ~(爆)


ともあれ、大聖人が竜の口の法難に遭われた地での御指導、誠にご苦労様で~す(笑)

でもねぇ~、原田怪鳥様、基本的な質問デスが、大聖人はナゼ法難に遭われたのでしょうかぁ~?

もちろん様々な観点から論じられるでしょうが、基本的には「法(妙法)を弘めた」からではないデスかぁ~(笑)

「選挙活動を頑張ったから」ではありませぇ~ん(爆)

妙法を弘め、権力に屈しない大聖人だからこそ、第六天の魔王が「悪鬼入吾身」の姿を現して、法華経の行者を責めるんデスよねぇ~(笑)

安倍自民に屈し、権力のコバンザメ状態で、権力の手先となったコンペートーを支援させてる原田怪鳥様に難が起こるんデスかぁ~(笑)

そんな原田怪鳥様が「いよいよ」とナニを言いたいんデスかぁ~? ってハナシでぇ~す(爆)


「珍・人間革命」雄飛の章も、相変わらず、山本伸一の描写ばかりデスねぇ~(笑)

背景を描かないから、まるで上っ面デスよぉ~(笑)

日達上人の逝去も数行、今度は北條会長の逝去が待ってマスよぉ~(笑)

どのように描かれるか? 裏切り者や情けない弟子の有様がどう描かれるか?

正史にふさわしいモノになるように、期待しないで待ってまぁ~す(爆)


 

二十一世紀への対話 111

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年 7月21日(金)08時01分26秒
  (3)人種差別について

【池田】 ところでアメリカの抱える国内問題の最大のものに、人種問題があります。アメリカ社会で主導権を握ってきたのはアングロ・サクソン系の市民です。これに対して、同じ白人でも、ラテン系市民は恵まれない立場にあるようです。さらに、黒人や、アメリカの先住民であるインディアンは、悲惨とさえいえる立場におかれています。

【トインビー】 アメリカにはたしかにその問題があります。アングロ・サクソン系の白人が特別の優位を占めているわけですが、ドイツ系、スカンジナビア系、オランダ系の白人も、同等の地位を分かちもっています。御記憶のことでしょうが、ルーズベルト家はオランダ系です。
しかし、人種差別は決してアメリカだけに特有の問題ではありません。イギリスでは、黒人の数はアメリカに比べて非常に少ないのですが、それでもイギリス国民の、彼らに対する憎しみの感情には似たようなものがあります。この問題については、われわれは皆、アメリカ人を批判するにも謙虚でなければなりません。
われわれイギリス人は、遠い昔、先住民たちをウェールズの山中へと追いやりましたが、ウェールズの人々はこのことを決して忘れてはいません。日本人もまた、かつてアイヌを追い立てて、いまではほとんど北海道だけに居住地を限っています。もちろん、祖先たちが昔受けた仕打ちを覚えているアイヌは少ないでしょうが、彼らもこれまで時折りは、かつて多くの土地を領有していたことを思い起こすことはあったでしょう。そのようなとき、アイヌたちは、失った土地を悔やみ、それを奪った人々に怒りを感じたのではないでしょうか。
このようにみてきますと、他の多くの国民も人種的偏見をもっており、アメリ力人がインディアンから土地を奪ったのと、まったく同じことをしてきたことに気づくのです。

【池田】 問題はそうした人種的偏見をいかになくすかですが、これは人々の心の中にあるものですから、その解決にはたいへんな困難がともなうでしょう。政府も良識ある人々も、努力はしているようですが、やはり一般市民の心には抜きがたいものがあるのでしょう。
これを解決するには、現在のアメリカでも黒人だけの国、インディアンだけの国をつくってはどうかという人もあります。たしかにそれも一つの考えですが、イスラエルのようなケースになることも考えなければなりません。互いに憎しみ合ったままで独立の国をつくっても、争いはなくならないでしょう。いずれにしても、人々の心から憎悪や偏見をなくす以外に、本当の平和をもたらす方法はないと考えます。

【トインビー】 私は、黒人たると白人たるとを問わず、自分たちだけの独立国をつくろうという望みをもっている人々は、あまりに楽観的に過ぎるのではないかと思っています。インディアンのなかにも、合衆国内に自分たちだけの州を与えてくれと要求している人々もいますが、これまでのインディアン居留地の歴史はきわめて悲惨です。彼らは考えうる最も粗悪な土地を与えられたわけですが、それらの土地は行政的にも不行き届きです。
南アフリカの白人たちは、独立国の代用としてはあまりにも貧弱な土地へ、黒人たちを押し込めようとしています。いわゆる“バンツースタン”という居住地がそれですが、これにはあまり成功の見込みがありません。
私の考えでは、黒いアメリカ人も白いアメリカ人も、平等、相互尊重、友好の立場に立って共存していく以外にありません。

【池田】 いずれにせよ一国内の人種間の調和を図ることは、きわめて困難なことです。これを解決するための何かよい先例を御存知ですか。

【トインビー】 ハワイはもちろん特殊なケースですが、ここではヨーロッパ系、日系、中国系のアメリカ人が、ともに住み人種間結婚もして、明らかに調和を保っています。ハワイでこのように実現していることは、他の場所でも可能であるはずです。
 

横浜レポート、浜村暁奈さんのご報告m(._.)m

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年 7月21日(金)07時25分9秒
  栃木の久保田です。m(._.)m

JACK様m(._.)mおはようございます。m(._.)m

浜村暁奈さんのご報告最後まで読ましていただきました。

前回は登場したA支部長、総区長、新総区長の3人もかなり特殊な心の持ち主で一般社会(世間)では、通用しない┐('~`;)┌おろか者だと言うことが宿坊の掲示板を愛読している内外の人全てにしれ渡ったわけですが、ヽ(^○^)ノ

今回の審査会の3人も負けず劣らず一般世間では完全に相手にもされない『世間知らず』のおろか者ですね!

執行部の狂い様が地方に降りてきてるのですね!
狂った学会執行部と地方の幹部も含んだ創価学会の中でしか通らない(本来学会の中でも通らない)

箱庭の中のような狭い学会職員の中で、親分子分、極度の競争社会で、自分達の小っちゃさにも気が付かないでいるのでしょうか?

審査会の一人が『折伏も出来るし座談会にも出られるだろう』と言っていたみたいですが、ヽ(^○^)ノ

それこそ小さな箱庭で、

『君たち少しは成長しないと困るんだよ』

『成長しないと私の責任問われるんだから』

『だけど成長もこの箱庭の範囲だよ』

『成長し過ぎると私の事越えちゃうんだから』

っと言っている様なもんで、結局幹部である自分の立場しか考えていない小っちゃな人である事を自ら証明してる様なものである。ヽ(^○^)ノ

地方の幹部もみんなこんなになっちゃったんでしょうか?

JACK様m(._.)m長文のレポートお疲れ様でした。m(._.)m

 

わが友に贈る 2017年7月21日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2017年 7月21日(金)07時22分42秒
  会場提供のご家庭に
感謝の言葉を伝えよう!
時間厳守や節電・節水
駐輪・駐車・立ち話など
わが家以上の配慮を!
 

お詫び・訂正その二十七

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年 7月21日(金)03時12分2秒
  レ・ミゼラブル010 補足02 ?
投稿者:The logic in the place
投稿日:2015年 2月 9日(月)04時48分39秒

池田大作「革命と生と死」大森実 直撃インタビューは読んだことありますか?
自殺に関わる点で、生死について先生はビクトル・ユゴーを引用しています。
『有名なビクトル・ユゴーが、人間は生まれながらにして死刑の宣告を受けているといっている。その限りある“生”をどう生きるか。何のために生きるのか。それをどうしたら充実できるのか。』、本棚を探して読んでみてください。レ・ミゼラブルをひさしぶりに読み直して20代の感覚が甦り、私はまたヤバイ能力も出てきて、非常に困惑しています。本を精読して落ち着きましょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

この説明は、会則規定の

????????
第14章 賞罰
(懲 戒)
第78条 この会は、会員としてふさわしくない言動をした会員に対し、その情状に応じ、戒告、活動停止または除名の処分を行なうことができる。
????????

は、該当していません。

ーーーーーーーーーーーーーー

さて、横浜レポート読まさせていただきました。
極悪の私が思うには、この会則解釈は、かなり主観的な極善弟子の判断で執行されていらっしゃいます。
個人の人権・信教の自由と権利にも抵触する処置で、憲法解釈に至るまで難しい問題です。

でも、極善弟子の集まり、誠実にして真面目な審査会の皆様方、決定を下した原田会長の営為は間違いのない極善弟子の証明であり、極悪の私もきっと除名通知が郵送されると憂慮しています。いきなり、予告無しに訪問激励とか配達証明付き郵便物はご遠慮いたしますので、宜しくお願い申し上げます。
尚、此方の事情を確認もせずに会館呼び出しとか、無言電話、激昂した脅しの電話もお断りしますので、原田会長以下、審査会の部下の方にもお伝えいただけるよう、宜しくお願い申し上げます。
 

わからないことだらけ・・

 投稿者:史人  投稿日:2017年 7月21日(金)00時42分29秒
編集済
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/72341

一人のSGI様。
ありがとうございますm_m

大抵6月20日過ぎくらいにはどうも嫌なことが起きてきています。
所謂逆転現象です。
以前書いた書類に不備があり、退職金の受付が出来ませんとFAXが届いたり、更に打撃的なのはあるお金が7万円も削られていたり、様々ですね・・・。
足すと24万円くらいですが、要りません。
今はそんな時だと思っていますし、書く元気も出てきません・・・。

そんな中ご心配ありがとうございました。

さて、書かれているものについて、私的には解釈は出来ないので過去日記から。

ある現場仕事に就いた月の(18年4月19日)の日記にこうあります。
家に帰って新聞の体験談を読んで「人間は一からという気持ちを忘れたら駄目だ」と一念を定めて、晩の30分のお題目を唱えた。一遍一遍のお題目にその祈りを込めて生活全般のことを願った。・・・・・・一からということについて、・・・・・・ここで「一心欲見仏」の一心とは信心のことであろうと思うが、人が生まれてから、譬えば赤子が乳を飲むのは一心にではあるが、これは本能的に飲んでいることであり、一からということを考えている訳ではない。しかし一からという心は信心の智慧に通じるのではないだろうか。現代社会において、一心にということは中々難しい。しかし、一からという気持ちで一遍一遍のお題目を唱えることは一心欲見仏に通じていくのではないだろうか。今は窮地に陥っているのでどうしても深い祈りが必要になる。

5月22日
昨日の大白の池田先生の一生成仏抄講義の中で「勇猛精進」について勇猛の大事さについて述べられていたのが今日帰ってから思い出され、勇猛の心で疲れた体で御本尊に向かおうと決めた。そして勇猛の心で、風呂場の中のパイプを洗った。手袋も洗った。パソコンも直した。そして日記を書き始めたら0時1分になってしまった。ともかく勇猛の心で御本尊に向かうには疲れた心と体がどうしても必要になってくる。そのことを今確信している。

これより以前の日記には魔を喜ばせない為に夜遅くなっても御本尊に向かっているなどの記述がありますが、今は目がチラついている状態になっているのでこれくらいで。

ただ、今の日頃のことは以前からも職場で作業が苦しい時にはお題目を一遍唱えて、心の中で衆生所遊楽と思うようにしています。
それでどうとかではないのですが、何故か助けが来ます。(気持ち的に助かるだけの話しですが。)

そして、仕事に対しては悦可衆心と思いながら、落ち度のない仕事と人への思い遣りの「優しい祈り(これは当時日記にも書きました。)」を込めて望むようになり、細かい見落としなども心なしか減ってきただけでなく、一つ一つの作業に心を込めて喜んでいただくとの思いを乗せて、励むようにもなりました。

そして、日々気付きの日々を送っていることは変わりありません。
昨日は御書と歩むの中で読んだ南条殿御返事からは、以前書いた無量義経徳行品の「方整照曜として甚だ明徹なり」という言葉の中の明徹を思い起こし、以前書いた泰然自若の類義語神色自若の意味から連想して、お題目を唱えている時は色行としてお題目を唱えて人々のことを思い、お題目を唱えられない時は心行の及ぼす所、菩薩地の心を貫いて心を第一として一瞬も忘れないようにしています。

色行、心行については様々な解説があろうかと思いますし、お題目を唱えられない状況下で本当に困った時は一遍のお題目の力有で助けが現われますね。

【南条殿御返事、1529ページ
日は赫赫たり月は明明たり・法華経の文字はかくかく・めいめいたり・めいめい・かくかくたり、あきらかなる鏡にかををうかべ、すめる水に月のうかべるがごとし】


ともかく今はよくないことが起きている逆転現象の時なので仕方ないです。
そして、今日の帰りに思ったことは、一切は現象であり、心を開けば全て明らかになるという確信です。これは昨日の御書のことを思っていたわけではなく、昨日の昼間に生保の人が来られて、気になっていた年金のことを話す機会があり、私の目の前で全てスムーズに運んだことで今日話そうと思いました。あくまで世法上のお話しです。
 

のび太様へ

 投稿者:虹と創価家族  投稿日:2017年 7月21日(金)00時24分57秒
編集済
  虹の投稿を、お読み頂きまして、誠にありがとうございました。

>本当に師匠の映像も文章(ご指導)もコンテンツとしてしか考えていないのでしょうか?<

のび太様のご指摘は鋭い!!

池田先生のスピーチが、単なる「情報」としか見れない命の現れです。
文字が、モノとしか見れない命。
そのため、組替え・切り貼り・改ざんしても、何も痛みを感じないのです。

虹にとっては、池田先生のスピーチが先生の魂そのもの。
書籍を開けば、先生がいつもそこにいらっしゃいます。

だからこそ、スピーチの切り貼りは、まるで先生の体を刃物で切り付けているようにさえ感じてしまうのです。

多少飛躍した話になりますが、この命の傾向性は、御本尊様を「法」としか見ない命の傾向性と、どこか似ている気がする・・・
人法一箇を会則改定で失い法側面を強調する故に、御本尊様を大聖人様の御生命と見る信仰心が失われつつあります。

考え過ぎかもしれませんが、もしかしたら、その影響があるのかもしれません。


 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年 7月21日(金)00時03分41秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
会長、副会長の方々が、査問指示をして
真面目で誠実な会員さんをイジメません様に
今日は、叔母の家に昨日
宝くじが当たったから換金の手続きの為お会いしたいとゆう
謎の電話(多分オレオレ詐欺の一種)があり不安だから来てくれ
と相談があったので行ってきました
自分の前に婦人部長に相談した処
そうゆう問題は家庭内で処理して下さいとのこと
皆様、詐欺の電話にはきおつけてください
おやすみなさい
 

フェイク 第1583号

 投稿者:宿坊  投稿日:2017年 7月20日(木)23時44分25秒
  (発行=17.07.20)

大聖人の御精神と無縁の大石寺
日蓮正宗が少年少女の合宿の参加を煽る
「八十万構築」に子ども達まで巻き込む

日蓮正宗は今月二十九・三十日に「中等部・高等部合宿」、八月五・六日に
「少年部合宿」を大石寺で行うが、各末寺では参加者の確保に苦労している。
そこで法華講機関誌「大白法」では「広布に羽ばたく人材になろう 中等部・
高等部合宿へ 総本山に集おう」(五月十六日付)をはじめ合宿に関する体験
談募集などの記事を載せ、更に「少年部合宿に参加しよう 元気いっぱい総本
山へ」(六月一日付)「少年部合宿の参加に当たって」(六月十六日付)や「
少年部合宿近づく」(七月一・十六日付)などの記事を掲載して子ども達の登
山を煽っている。

法華講には若者が少なく、青年部講習会にも年配者の参加が目立っていたの
で青年部を対象にした講習会は廃止になったが、中等・高等部員、少年部員も
少ない。

現時点でも未だ目標に達していないためギリギリまで登山申し込みの受付を
続け、七月十六日付「大白法」にも「法華講連合会では、一人でも多くの少年
部員が参加できるよう、追加申し込みを受け付けています」と書いている始末
だ。

中等部・高等部、少年部合宿の狙いは、大人だけでは平成三十三年の「法華
講員八十万人体勢構築」という無謀な誓願の達成が不可能なことが確実なので
子ども達まで駆り出して折伏させようとしているのである。

事実、これまでの少年部、中等・高等部の合宿では、代表の子どもに折伏の
体験発表をさせ、法華講幹部だけではなく、日如自らが中・高等部員に対して
折伏、勧誘を押し付けていた。
中学・高校生は本来、勉学に励み、スポーツで心身を鍛錬する年代である。

それを大石寺に集めて布教の一翼を担わせ、しかも小学生までも召集すると
は、浅井昭衛に洗脳されて勧誘に狂奔する邪教・顕正会と同様の悪質な教団だ。

子ども達を大石寺に集めるのに「四條金吾殿御返事」などを引いて罪障消滅
を謳っている。日蓮大聖人が身延への参詣を促された御文を大石寺に登山する
よう狡猾にスリ替えているのだ。

大石寺への登山は弊害

大聖人の滅後に創建された大石寺への登山は当然、御書には一切、述べられ
ていない。こう指摘すると、宗門関係者は身延離山の話を持ち出す。身延は大
聖人が晩年の約八年間を過ごされたが、民部日向や地頭の波木井日円の謗法に
よって汚濁した。大聖人は「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」と日興上
人に御遺言されていた。

つまり、大聖人は〝謗法の山には、我が魂は住まない〟と宣言されていた。
この大聖人の御指南に従って、日興上人は身延を離山され、南条家の外護によ
って大石寺を創建された。

ところが、今の大石寺は身延よりも謗法にまみれている。「地頭」どころか、
相承なき悩乱したニセ法主が〝法主本仏論〟〝大聖人は迹、今の法主が本〟等
と唱えるなど大聖人の御精神は微塵もない。

今なら、大聖人は「法主の不法ならん時は我も住むまじき」と宣言されたに
違いない。こんな謗法の大石寺に、小・中学生、高校生を登山させるのは、子
ども達の将来のためにも弊害があると断言する。


 

同盟題目は23時に開始です。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年 7月20日(木)22時54分53秒
  池田先生のご健康と被災地の方々が希望を持っていけるように祈ります。また、理不尽な処分をされた方々にお題目を送ります。  

7/17 横浜レポート 浜村暁奈さんの話 7

 投稿者:JACK  投稿日:2017年 7月20日(木)22時15分10秒
  〔正義を叫ぶ〕
正しいことを叫び続けて除名されるならいい。
夫の幼なじみと、家族ぐるみで会ってなぜいけないのか?
私が入会した時の、あたたかい創価学会と今は真逆だ。

〔A支部長を守る本部〕
今、A支部長との出来事を裁判で争っているが、A支部長個人の裁判にも関わらず、A支部長には創価学会副会長まで入った4人の弁護士が付いてきた。
本部は、主人や私や友人たちを勝手に1つのグループだと認定していた。
A支部長は、元は聖教新聞の本社にいた職員で、9年間で数千万円ものお金を使った、金銭横領の主犯格と言われている人物だ。
金銭を横領し、会員を侮辱するA支部長を、学会本部は守っている。
一審では敗訴になり、裁判所は、
「A支部長の経歴を見る限り、まともな学会員。」
と言い、私達が出した証拠の記録も、
「不当な暴言とは認められない。」
と言った。
間違っていることは、間違っていると叫び抜く。
これからは高裁で戦う。
隠蔽体質の学会本部を変えたい。
自分らしく生きる信仰を教えてくれた学会に変える。
本部職員も本部も、先生と会員のための本部に変える。
(以上、浜村暁奈さんの話終わり。)
 

7/17 横浜レポート 浜村暁奈さんの話 6

 投稿者:JACK  投稿日:2017年 7月20日(木)22時13分58秒
  〔審査員は把握せず〕
審査員からは、
「学会活動をしてはいけないなんて、言われていないでしょ!?」
「会合は行けなくても、折伏はできるでしょ!?」
「座談会の連絡は来てるでしょ!?」
と言われたが、会合参加禁止の処分が出ていて、幹部との連絡を一切禁止されている私のところに、なぜ座談会の連絡が来ると思うのだろうか。
審査員は、本部から言われて審査しているだけで、私に下された処分内容について、本当は分かっていないように思った。

〔除名決定〕
審査員の方達の仏性を信じようと、審査会の最後に、
「池田先生の弟子としてのご判断をよろしくお願いします。」
と言った。
しかし、審査会からは除名通知が届いた。
除名理由は、
「足軽会所属か、それに準ずる人物と付き合いがあること。」
「学会の秩序を乱すこと。」
だった。
学会本部が勝手に黒幕にした夏村さんと、付き合いがあった時点で、除名の道筋が決まっていたと思う。
不服申し立てをしたが、本部は答えず、平成27年(2015年)に不服申し立てが棄却され、私の除名は確定した。

〔先生の弟子でありたい〕
学会員でいたい。
けれどもそれ以上に、池田先生の弟子でいたい。
池田先生の弟子なら、間違っているものは間違っていると言わなくてはいけない。
 

7/17 横浜レポート 浜村暁奈さんの話 5

 投稿者:JACK  投稿日:2017年 7月20日(木)22時12分53秒
  〔対話の旗を下ろした幹部〕
池田先生は、「対話の旗だけは断じておろしてはならない」とおっしゃった。
しかし、幹部は真逆だった。
子供が物心つく頃には、創価学会の信仰はなくなるのではと思った。

〔神奈川県審査会〕
除名審査には、3人の審査員がいた。
審査員の1人から、「A支部長に対する迷惑行為についてお伺いしたい。」と尋ねられた。
そのうち他の審査員からは、
「あなたにとって、夏村さん(※当方が付けた仮名)はどんな存在か?」
と尋ねられた。
夏村さんは、夫の友人の1人で、これまで家族ぐるみで付き合ってきた。
審査員にもそう話したら、審査員からは更に、
「夏村さんと家が近いのはなぜか?」
など、夏村さんとの関係をしきりに尋ねられた。

〔夏村さんの除名〕
私の面談の1年前に、夏村さんは学会から除名されていたことを知った。
本部が問題視した足軽会のが原因だったが、そもそも夏村さんは地元の座談会に参加していただけだった。

〔足軽会のための質問〕
3人の審査員は、A支部長のことを20分聞いてきて、残りは全部、足軽会の話だった。
 

ツイート人様の投稿にハッとしました

 投稿者:JACK  投稿日:2017年 7月20日(木)22時11分8秒
  『三代の会長が受けてきた難は他人事
同じく同志の受ける理不尽も他人事
どこへ向かうも他人事
創価の精神性は世間以下』

頭にも、心臓にも釘が打たれたような気がしました。
様々な人と対話を重ねてきて、よく感じる違和感の正体がやっと分かりました。

本来なら、『同苦の心』を発揮すべき時に、同苦どころか、知らん顔。
どうかすると、自分の苦しみが一番大変だとマウンティングが始まり、あっという間にサルの争いにまで堕落する。

『一人の同志に起こっていることは
その一人だけの問題ではない
先生の身に起こっていた苦難が
今みんなの身に起こっていく
大事な事実を顕していく』

このツイートをされた方に感謝致します。
 

南無妙法蓮華経は精進行

 投稿者:一人のSGI  投稿日:2017年 7月20日(木)21時57分18秒
  「善悪」について、「菩薩」の行動を通して語った対談があります。
とても感動した箇所でしたので、転載します。

単行本「生命を語る」2巻 p102~4 昭和49年11月20 初版

池田:日蓮大聖人の「十法界明因果抄」には「菩薩界とは六道の凡夫の中において自身を軽んじ
   他人を重んじ、悪を以て己に向け善を以て他に与えん念う者あり」と記されています。
   「六道の凡夫」つまり庶民の中で戦う。
   しかも「自身を軽んじ他人を重んじ」るのです。
   自身を重んじ他人を軽んじるのではありません。
   世の中にはそういう利己の人が多いものだが - 。

川田:例え、民衆の中に入っていっても、利己的な自我のままにふるまうのは、かえって害を
   流すだけです。
   生命の魔性の暗躍を許すだけです。
   そんなことなら、山林に一人ぽつんとたたずんでいてくれるほうが、他人に迷惑を
   かけないだけましというものです。

   ところで、いまの言葉のあとに、「悪を以て己に向け善を以て他に与えんと念う」と
   ありますが、このなかで「善を他に与え」るというのは、すぐわかるのですが、
  「悪を以て己に向け」とはいったい何を示そうとしているのでしょうか。

池田:すべての悪の根源を一手にひきうけるだけの勇気が必要だということです。

   たとえば、菩薩について、「仏地経論」には「是れ勇猛の義なり」とある。
   自己と他者の生命に巣くう魔性に挑戦し、それを打ち破りつつ、人々に楽を与える勇猛心
   こそが、菩薩の心には脈うっていなければならない。

   私達が、魔性に挑戦するべく勇気をふるいおこして、庶民を慈しみ、利他の実践に自己の
   全生命をかけるとき、その行為が、私たち自身の生命に巣くったエゴイズムをぬぐい去り
   抜き取るのであり、その結果、生命の「我」が次第にみがかれていく。
   すると、その「我」のはなつ英知の光明にてらされて、他の人々の心にうごめく魔性の
   暗躍をもはっきりとみてとることができるのです。

北川:利他の戦いを通して勝ち取った智慧こそが、菩薩の持つ英知なのですね。

池田:菩薩という言葉は、菩提薩埵(ぼだいさった)の略とされている。菩薩とは仏の智慧で
   あり、薩埵とは有情と訳す。
   有情についてはまた何らかの機会にくわしく考察したいと思うので、ここではひとまず
   生物、とくに人間の生命としておこう。

   利他行を通じてみがきぬかれた菩薩の智慧こそは、仏の智慧のあらわれといえそうです。
   慈悲の力と英知の光、勇気あふれる決意をはらんだ意思、そして何よりも、利他の色彩を
   おびた自我を、菩薩の境涯にある生命は保持している。

転載終わり

生命の実相は而二不二であり「善悪」についても、その体は一つで不二であるが、現実の世界に顕れる時は「善」や「悪」などのあらゆる違いの現象として而二として顕れます。
この而二とは、必ずしも二つの側面だけという意味ではなく、あらゆる差別相として現れるという意味でもあります。

法華宗の心は一念三千(いちねん さんぜん)・性悪性善(しょうあく しょうぜん)・妙覚(みょうかく)の位に猶(なお)備われり
元品の(がんぽん の)法性(ほっしょう)は梵天・帝釈(ぼんてん・たいしゃく)等と顕われ(あらわれ) 元品の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕われたり

   治病大小権実違目(997頁) 弘安元年6月

つまり、今悪事をしている人も「善心」と無縁ではないし、「善」の行いをしている人も「悪」の可能性を全く切り離したわけではないという事です。
仏であろうが、凡夫であろうが、その「体」の形は同じだというのです。

ですから大切なのは、題目によって元品の法性を顕現することで悪の源である元品の無明の働きを抑え、生命の「我」が磨かれる事によって、自身の内にある善悪、又、他の人々の心にうごめく魔性の暗躍をもはっきりとみてとる英知が活性化する、、という事だと思います。

そして、正しい判断力で、内外の魔性に挑戦するべく勇気をふるいおこして、慈悲のある正しい行動を起こすのが「菩薩」の行動です。

言うは易き。。ですが。。

南無妙法蓮華経は精進行です。。。

史人様、お元気でしょうか。
 

大仏のグリグリのとこ様

 投稿者:通行します  投稿日:2017年 7月20日(木)21時39分58秒
編集済
  【三証・正邪の基準について】6/11
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72329

>教義や幹部の指導、また会員の意見等を評価する場合も
まったく同じで、この三つの立場から合理的に判断していけば、

>正邪・優劣はおのずから明確になります。

>では、この三つを私たちに置き換えて、具体的に見ていきましょう。

>【文証】

>文証とは、幹部の指導する内容や会員が主張する意見が、
いかなる文献上の根拠に基づいているかということです。

>繰り返しになりますが、大聖人は涅槃経の

>「もし仏の所説に順わざる者あらば当に知るべし、この人は是れ魔の眷属なり」(一五二頁)

>の文を引いて、
仏法における正邪の判定には文証の有無がもっとも重要であると教えられています。


大変にわかりやすく、纏めて頂きありがとうございました。

1つ質問です。三代の会長の指導は文証になりますか?
大仏のグリグリのとこ様は御書を文証の基本として論じていると思うんですが?

何故、こんなことを聞くかと言いますと
とある地域の青年部幹部がとある査問の場で君達の行い(会員弾圧)は、池田先生の指導の何処にあるのか?
と聞いた処、ダンマリとなりそれを話す義務は無いと言い放ったのです。ちなみに職員ですよ。
彼等は池田先生の指導に違背していることを承知の上なんだなと思った次第なんです。食法餓鬼を見たぁ思いです。
 

twitterより。(54年問題で)先生の身に起こっていた苦難が今はみんなの身に起こっていく。処分された方は特にね。

 投稿者:ツイート人  投稿日:2017年 7月20日(木)19時53分16秒
  一人の同志に起こっていることは
その一人だけの問題ではない
先生の身に起こっていた苦難が
今みんなの身に起こっていく
大事な事実を顕していく


三代の会長が受けてきた難は他人事
同じく同志の受ける理不尽も他人事
どこへ向かうも他人事
創価の精神性は世間以下
 

こんばんは

 投稿者:人力車  投稿日:2017年 7月20日(木)19時09分35秒
  SaySaySay様の投稿は、新たな気づきもあり、楽しく読ませて頂いております。

コメントありがとうございます。言語を越えた、不可思議な世界ですが、真実の仏法が、ここにあります。

セブン懐かしいですね~

 

虹さんへ

 投稿者:のび太  投稿日:2017年 7月20日(木)18時06分38秒
  今日の【一点突破:11】心苦しい本部幹部会 投稿ありがとうございます。

とても重要な問題提起をされています。ご指摘がなければ本幹再映に参加した私は執行部の思う

ツボでした。(笑)

本当に師匠の映像も文章(ご指導)もコンテンツとしてしか考えていないのでしょうか?

それにしても、反板の某氏など誠実さのかけらもないひとが何を言おうが反吐しかでません。

これからもあなたの視点のある部分は支持します。

 

法華玄義・譚玄本序 11(完)

 投稿者:体長1.3mの巨大猫  投稿日:2017年 7月20日(木)17時07分20秒
編集済
  自行權實者敘宗也。

自行の権実は宗を叙ぶるなり。


「自行の権実」は、自らの悟りそのものである自証に権実があることをいう。

釈尊が修行実践した自行の方便が、自利と利他とを、自覚と覚他とをあわせもち、
自利利他円満、自覚覚他覚行窮満の満行の自行であり、
自行の方便がそのまま自行の真実である。

つまり現前の陰入界の有り様が、
事理、理教、教行、脱縛、因果、体用、漸頓、開合、通別、悉檀から成る十双権実であり、
権と実の一切の事象が、迹門の十妙と本門の十妙として説かれ、究極では、不二中道にある。

すなわち、権が実、実が権であり、
方便がそっくりそのまま真実であり、真実がそっくりそのまま方便であるという
自行の権実の因果を明かすことが、不可思議・不可説の「妙」である。
この方便即真実、真実即方便という自行の権実の因果を明かすことが、
『妙法蓮華経』の「宗」である主要な目的を明かすことになる。


本迹六喩者敘用也。

本迹の六喩は用を叙ぶるなり。


『妙法蓮華経』の経題のなかの蓮華、すなわち、ハスの実とハスの花とを譬喩とした、
為蓮故華・華開蓮現・華落蓮成の蓮華三喩によって、
迹門では、為実施権・開権顕実・廃権立実の三を喩え、
本門では、従本垂迹・開迹顕本・廃迹立本の三を喩える。

すなわち迹門では、
三乗に権方便に対する疑念を起こさせ、
三乗の権方便に対する疑念を払拭させて、
一仏乗に入る信を生じさせ、一仏乗を真実と信じさせる。

本門では、
如来近成の権方便に対する疑念を起こさせ、
如来近成の権方便に対する疑念を払拭させて、
真実の久遠実成に信を生じさせる。

この断疑生信が『法華経』のはたらきであるとし、
権実二智の断証について『法華経』と『法華経』以前の諸経との同異を述べ、
迹本二門の十意を開いて、『法華経』のはたらきを明かしている。
まさに断疑生信が、『妙法蓮華経』の、「用」というはたらきを明かすことになる。


甘露門者敘教也。

甘露門は教を叙ぶるなり。


諸法実相を説く『法華経』は、
権方便はそっくりそのまま真実であり、真実はそっくりそのまま権方便であり、
蔵や通や別の三教を混入することのない純粋の円教である。

『法華経』だけが説き明かす、本・迹の二門を内包する一仏乗という教えが、
まさに一切衆生の身心を養い、救い摂り、涅槃に至らせる不死の楽の甘露そのものといえる。

智顗以前の教説は、「妙」を、真の「妙」それ自体として説いていない。
例えば三乗を捨てて一仏乗に入るとする法雲の教説では、三乗の居場所がない。
智顗は、『法華経』は三乗をそのままそっくり一仏乗に含め摂り、
一仏乗は三乗をそっくりそのまま抱き込んでいると解釈することによって、
『法華経』の「教」という教えと、教えの位置づけを明かした。



 

【三証・正邪の基準について】11/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)17時02分57秒
  幹部の指導や自分の意見が尊重されるのは、
精密な理論もさることながら、その理論を裏付ける

実験結果(または体験)をともなっていることにあります。

実験や観測の裏付けをもたない主張や学説は、単なる仮説にすぎません。

自然科学などでさえ、それだけの現実の結果を重視しているのです。

ましてや生命の理を説き、正しい人生のあり方を説く「宗教・思想・指導・意見」が、

もし現実生活の上に理論通りの〝証拠〟をもたなければ、

何の役にも立たないばかりか、かえって〝害悪〟になってしまいます。

なぜかというと、

教義や思想は「人の行動原理」となるものであり、
その人の人生に影響を及ぼすものだからです。

だから現証をともなわない文証や理証は、完全なものとは言えないのです。

これが〝現証〟が最も大切な理由です。

つまり、文証も理証も〝現証〟があって、はじめて完結するのです。

以上が宗教・思想の正邪を判断する基準(三証の原理)です。

もう皆さんもお気づきかと思いますが、
この三証はすでに任用試験で習っているはずです。

しかし〝学んでそれで終わり〟〝理解してそれで終わり〟ではなく、

理解した法理(三証)を、他人ではなく、
まず「わが身に合わせて考える」という鍛錬があって、

はじめて身読(悟る)といえるのです。

「信・行・学」は、決して別々のものではなく一体のものです。

この三つを同時進行で挑戦していく中にこそ、信心の輝きがあるのだと思います。

日蓮仏法はすべてにおいて絶対的な幸福を指向しています。
だから結局は、理論通りの結果をともなうかどうかということに帰着し、

日蓮仏法を信じた人の現実の生活に、良くも悪くも厳然と表れてくるのです。



― おわり ―
 

【三証・正邪の基準について】10/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)17時02分10秒
  【現証】

現証とは、幹部の指導や自分自身の意見を信じ、
現実にどういう結果が出たかを見ることです。

つまり、幹部の指導通り、自分の意見通りの結果が出たならば、

その思想には現証があり、もし違う結果が出たならば、
その思想は正しくないということです。

仏法においては、この現証をもっとも重視しているのです。

大聖人は

「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、
また道理・証文よりも現証にはすぎず」(一四六八頁)

と述べています。

日蓮大聖人の主張した仏法思想は、この厳しい現証による判定に
耐え得る「理論体系」をもつ教義です。

その結論的思想は、大聖人の言説に背けば、たとえ学会員であっても
仏罰があり、大聖人の言説通りに実践すれば、誰でも仏に成れるということです。

この完璧なまでの日蓮教学を研鑽してよく理解し、
その理解した教学を我が身に合わせて、

その理論の裏付けを自ら厳しく求めていく姿勢こそ、
もっとも科学的で、なおかつ自分のものとしていけるのです。

幹部の指導や自分の意見における理論の正しさは、
理論のみの正しさにとどまるものではなく、

そこに実践性を含むものであり、実践の結果の正しさをふまえてこそ、

自分の意見や幹部の指導の正しさを主張し得るものなのです。
 

【三証・正邪の基準について】9/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)17時01分27秒
  さらに「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」(一一六九頁)

と大聖人は述べています。

日蓮仏法の真実の実践者は、大聖人や三代会長がそうであったように、
決して権力者の支援や弾圧に左右されるものではないのです。

また、形式や立場によるのでもない。

自分自身が御書根本に、三代会長の指導通りに、
実践しているのかどうか――それがもっとも重要であり、

そこにこそ絶対に崩されることのない最高の幸福境涯が築かれていくのです。

大聖人は自らが打ち立てた第三の法門に対する確信を次のように述べられています。

「・・・・父母の頸を刎(は)ねん。念仏申さずば、なんどの種々の
大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり」と。

この言葉通りに大聖人は、経文を根本として道理を重んじ、広宣流布の闘争に挑んでいったのです。

その弟子というならば〝正しいことを実践(文証・理証)〟して、
悪口罵詈(現証)されるのは当然で、

むしろ最高の名誉ではないでしょうか。
 

【三証・正邪の基準について】8/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)17時00分32秒
編集済
  【理証】

理証とは、幹部の指導する内容や会員が主張する意見が

道理にかなっているかどうか、
理論的に矛盾がないかどうか、

ちゃんと筋道が通っているかどうか、話に整合性があるかどうかを検討することです。

一般世間においてもそれは同じで、科学にしても、政治にしても、友人関係にしても、

矛盾することのない一貫した論理性がなければ信頼や信用はされません。

科学や政治であれば、なおさら普遍妥当性が要求されるのは当然です。

ましてや仏法における教義や指導において、整然とした論理は不可欠であり、
理証があるかないかは文証以上に極めて重要です。

私たちの対象としているものは生命論の世界であり、
単なる物理や化学的手法だけでは解明できない究極の実体を対象としています。

しかし、だからといって宗教を必要以上に神秘的なものとして、
教義に対する「合理的な判断を拒否」するのは、

かえってその宗教自体の無力さを示すものです。

大聖人は

「文なく義なきは信受すべからず」(二一九頁)

と天台の言葉を引用して、文証・理証の大切さを教えています。

つまり、文証もなく道理や筋道の通らない指導や意見は、
信じてはならないというのが、仏法の正邪を判断する鉄則なのです。

これが仏法の科学的な姿勢を示したものです。
 

【三証・正邪の基準について】7/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)16時59分52秒
編集済
  一つの思想を伝持し、弘めていく過程において、伝持者が根本義もわからずに
勝手な理論を展開していったとしたら、もとの思想を失うことになり、

思想の体系を混乱させることになります。

だからこそ、そこで立てる指導や意見の理論が
原典に合致しているかどうかを検討するのは、極めて大事なことなのです。

このことは世間一般でも言えることです。
たとえば、ニュートン力学を大きく変えたアインシュタインの相対性理論は、

決してこれまでの物理学的成果を無視して立てた独善的なものではなく、

ニュートン力学を基礎にし、新しい実験結果を考慮に入れて組み立てた〝一歩深い〟理論です。

それまでに公(おおやけ)にされてきた考え方を継承するにせよ、否定するにせよ、

斬新で新しい思想や時代に即した展開というものは、
それを土台として新たに築き上げ、展開されていくものです。

その土台ともいえる基礎教学も学ばず、鍛錬もしないで、
信心だの、論理展開だの、と言っても、

所詮は我見であり、単なる感情論です。

人の志や精神を見ずして、いったい何が分かるのでしょうか。
精神が分からずして大聖人の行動から何が読み取れるのでしょうか。

そのようないびつな視点が、教学研鑽であるはずがないのです。

大聖人は

「この経の〝信心〟というのは、少しも我見なく経文どおりに、人の言葉を用いず、
法華経の一部に背くことがなければ仏に成るのである(通解)」(一四四三頁)

と述べています。

つまり〝信心強盛な人〟とは、少しも我見なく、人の言葉よりも、経文をさきとし、
経文通りに「信・行・学」の三つを忠実に実践している人ということです。

さらに日蓮大聖人の仏法においては、経文を縦横に駆使し、

そのうえに立って更に一歩深い生命論が展開されているのです。
 

【三証・正邪の基準について】6/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)16時59分8秒
  教義や幹部の指導、また会員の意見等を評価する場合も
まったく同じで、この三つの立場から合理的に判断していけば、

正邪・優劣はおのずから明確になります。

では、この三つを私たちに置き換えて、具体的に見ていきましょう。

【文証】

文証とは、幹部の指導する内容や会員が主張する意見が、
いかなる文献上の根拠に基づいているかということです。

繰り返しになりますが、大聖人は涅槃経の

「もし仏の所説に順わざる者あらば当に知るべし、この人は是れ魔の眷属なり」(一五二頁)

の文を引いて、
仏法における正邪の判定には文証の有無がもっとも重要であると教えられています。

その他にも

「我らが如き名字の凡夫は、仏説に依りてこそ成仏を期すべく候」(一二七八頁)、
「仏法の邪正をただす事、皆経文をさきとせり」(一二〇七頁)、
「人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候」(一一五五頁)等々、

諸御書で文証の重要性を説いています。

この文証(経・律・論)があるかないかが判定の一つの基準になるのです。

たとえば、自分は先生から直接訓練を受け、結果も出し、
御書も真剣に研鑽して戦って来たと、幹部や会員が主張したとします。

その時、その幹部や会員が、先生の指導と御書の教えに、忠実にかつ
正確に依っているのかどうか――このことを御書・先生指導の文証によって、

どう「裏付けられるか」で判定するわけです。
 

虹の戦士さんへ

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)16時42分20秒
  ご理解に感謝します。ありがとうございます。


>投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 7月20日(木)14時41分0秒
>その見本が牧口先生、戸田先生、池田先生ということですね。
>私はその先生を見本にして、これからも信行学をはげもうと
>思います。

御書や三代の師匠の指導は、幸福になるための原理であり、道しるべだと思います。

そしてその原理を応用展開して、人々のために尽くしていく人生が

最高の人生ではないでしょうか。

そうなるために、教学研鑽に取り組み、共々にがんばっていきましょう。


では夕方ぐらいに、つづきを投稿していきます。
 

大仏のグリグリのとこ様

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年 7月20日(木)14時41分0秒
編集済
  ありがとうございます。

”なぜ題目も、教学も、行動も、同時に「実践しよう」としないのでしょうか。
真実の法華経の行者は「信・行・学」の三つを常に実践しているものです。
一つも欠けてはいません。それが「如説修行の人」です。”

その見本が牧口先生、戸田先生、池田先生ということですね。
私はその先生を見本にして、これからも信行学をはげもうと
思います。

創価学会と他の宗教団体との根本的なちがいはこの見本と
なる3人の師匠が創価学会にはいらっしゃる。それが、
他の宗教とちがうところであり、すぐれているところだと思います。
 

【三証・正邪の基準について】5/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)12時53分26秒
  さて、話は変わりますが、学会員同士や幹部と会員の間で、

思想(宗教)の正邪を厳しく判定していこうとすると、必ず

「それぞれ考え方は自由なのだから、会員同士でどちらが
正しいかという議論や、攻撃をするのはよくない」

という人がいます。

これは一見もっともらしい発言ですが、
その陰には極めて独善的なドグマがあるように思う。

なぜかといえば、それは
「考え方(信ずる教え)」と「宗教の正邪」とが混同しているからです。

大聖人は教機時国抄の中で

「教とは仏説から出た一切の〝経・律・論〟をいうのである。
これからはずれたものは外道である(趣意)」(四三八頁)

と述べています。

つまり、考え方の違いや信教の自由は
「世法的・政治的」の個人の権利を保障しているものであり、

宗教の正邪は、宗教の次元の問題です。

信仰における考え方の正邪を議論する場合、信仰が権力によって
拘束されるべきでないのは当然であり、

宗教の場では、自由に正邪・高低が論争されるべきなのです。

これこそ会員一人一人が自らに与えられた「信教の自由」を
最も責任をもって行使した姿勢であり「教を知る」ということではないかと考えます。

なぜ、そう考えるのかというと、会員自らが教学を研鑽することもせず、
宗教批判の原理も知らず、無智なままでは

「人間のための宗教」ではなく「宗教のための人間」になる恐れがあるからです。

絶対にそうしないために、人を頼るのではなく、組織を頼るのでもなく、
まずは自ら教学の研鑽に挑み、各人(幹部・会員)が主張する

「生命観、世界観、幸福論、倫理性、思想性」を
比較評価すべき妥当な基準がどうしても必要なのです。

宗教批判の原理とは、そうした思想に対する認識の基準であり、
会員の自主的な選択究明を可能にする基準です。

これらは何も「仏法の正邪」に限ったことではありません。

一つの〝思想や考え方〟を検討する場合、三つの基本的な立ち位置があります。

その第一はその〝思想や指導や意見〟がいかなる文献に基づいているかということであり、

第二はその内容が、非科学的、非論理的なものでないかということです。
つまり、話の内容に整合性や筋道が通っているかという意味です。

そして第三は理論を現実に当てはめてみた場合、現実と矛盾しないかどうかということです。

この判断基準を仏法では「三証(文・理・現)」といいます。


・・・つづく
 

【三証・正邪の基準について】4/11

 投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2017年 7月20日(木)12時52分43秒
  また、学会の幹部だけでなく、私たち一般会員に置き換えてみても、
明らかに迷信としかいいようのない我見の信心論があるし、

会員になんら存在価値をもたない〝死んでいる思想〟もあります。

仏法は魔法ではなく道理です。

題目を上げない人が「題目が大事だ」と言って誰が信じるでしょう。

教学を学ばない人が「教学が大事だ」と言って誰が信じるでしょう。

実践しない人が「実践が大事だ」と言って誰が信じるでしょう。

師匠の言説通りにしない人が「俺は師匠の弟子だ」と言って誰が信じるでしょう。

そんな主張は所詮、自分の弱さを隠すために利用しているに過ぎません。
人の心の奥深くにも入っていきません。

慢心の定義は「教に依らない」ということです。

これらすべてを〝一切の先入観を捨てて客観的に評価していく方法〟――これが「宗教批判の原理」です。

そして、この宗教批判の原理は実に緻密でそのもっとも基本となる

原理が「三証」「五重の相対」「宗教の五義(五綱)」なのです。

冒頭に挙げた「宗教学と宗教批判の原理」の分析法は、本質的に違います。

宗教学は宗教を客観的に研究しようとしますが、
それは単に教義や宗教現象を観察し、Aの宗教はこうで、
Bの宗教はこうだと認識するだけにとどまっているように思います。

言い換えれば、宗教に関するあらゆる実証的な知識と資料とを集め、
それを整理し、組織立てるのが宗教学です。

要するに、宗教学では宗教に関する知識を集めて
現象面を表層的にとらえているのみで、とても宗教の本質を追究しているとは思えません。

宗教が自分の生活のすべてに影響を与える以上、

私たちが一番〝知りたい〟のは、宗教の正邪です。

つまり、どの宗教が私たちの生活にプラスの結果をもたらし、
マイナスの結果をもたらすのか――です。

客観的な分析や研究をさらに進めて、本質を把握し、
宗教の正邪・高低・浅深に論及しなければ、

宗教学でいう知識は〝死んだ知識〟となり、
私たちの生活に〝生きたもの〟とはならないと考えます。

つまり、人々に幸せを与える真実の宗教とは何か――これを見極めていく

「宗教批判の原理」による分析評価のみが、真実の宗教学といえるのではないでしょうか。
 

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