あまり作品に迷惑かけたくないので、短めに。

町山さんが指摘した例の部分、かつてこのブログでも挙げたのだが、もう一度見てみよう。
原作版のすずさんのセリフだ。

「飛び去ってゆく。この国から正義が飛び去ってゆく。」
「・・・ああ、暴力で従えとったということか。じゃけえ暴力に屈するいうことかね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなぁ・・・」


たぶん彼はここを読んでないと思われる。
「力で従え、力に従う、それが戦争の正体だ」
すずは泣きながら、そう呟いているのだ。

町山さんが指摘したのは映画版の「改変された」セリフだ。

「飛び去ってゆく・・・うちらのこれまでが。それでいいと思って来たものが、だから、がまんしようと思って来た、その理由が。ああ・・・海の向こうから来たお米・・・大豆・・・そんなもんで出来とるんじゃなぁ・・・うちは・・・。じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね。ああ・・・何も考えん、ボーっとしたうちのまま死にたかったなぁ・・・」

この(片渕監督による)変更を、僕は「等身大のすずさんを描くため」とした。
しかし今思うと、これも相当政治臭のする変更だと考えてしまう。
それに百歩譲ったとしても、これを悪質な植民地搾取だと捉えるのは早計だ。
すずさんはそこまで言っていない。しかもこの発言の正当性を保証するものは(作中には)何もない。


どのセリフを「正史」として採用するかは個人の勝手だが、あたかも僕の方が、よりにもよって作品を読み込めていなかったというのは、政治思想抜きにして、純粋に映画批評として、あまりもの稚拙なミスリードだと言わざるを得ない。


ちなみに某ビデオメーカー勤務の後輩は、この作品を「『火垂るの墓』のカウンターとしての、極めて右寄りな発想の作品」と批判した。
うーん、そう読み取る人間もいるのだ。

戦争は「視点」によって、結論がコロコロ変わる。
それは誰もが肝に銘じるべきだろう。